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☆ すうこく こう 高 嵩谷 二代浮世絵師名一覧
〔寛政11年(1799) ~ 明治8年(1875)3月27日・77歳〕
(高嵩嵺初代参照)
 ☆ 嘉永二年(1849)  ◯『古画備考』四十四「英流」下p1935(朝岡興禎編)
   「英流」(英一蝶系譜)〝嵩嵺 嵩渓ノ男、後嵩谷ト称ス、嘉永二年、大阪ニ移住ス、明治八年三月廿七               日歿、七十六、大坂天王寺ニ葬ル〟  ◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)   (『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   〝白猿の画賛    或所にて白猿の大幅見る、下に三升紋の裃つけたる男 豆を捲き居るかたを嵩谷画く、螺舎はくだけ一    蝶翁は飛さり今遙に百年の末其かたを写も又をかし、嵩谷として、幻々翁の印あり、其上に     一蝶翁鬼やらひの画 才牛に送るゝ(ママ) 二代目団十郎柏莚 節分の祝儀に宝井の庵に罷出 尊師持     扇ありやといふ折ふし 扇持参らす鼻紙の内香たとふのありければ 即筆をとつて鍾馗の大太刀持た     る図 三升のつばにて白眼居る画讃 今に伝ふ代々の高名はおのれがおよぶべきところにあらず わ     たくしてはこざりま先祖鬼は外    市川七代目前団十郎 今寿海老人子福白猿 印は周辺雷紋、其間に福寿海無量の四字ありて、中央に寿、    左右に蝦のある、いと大きなるものなりき〟    〈七代目団十郎が白猿を名乗るのは嘉永以降の晩年。この嵩谷は二代目。螺舎は宝井其角、一蝶翁は英一蝶。才牛は二     代目団十郎の俳名。白猿豆捲きの図に、画者の嵩谷が「螺舎はくだけ~」の賛を認め、白猿自身が「市川七代目前団十     郎」の署名で賛を認めたのである。上掲『古画備考』によれば、嵩谷は嘉永2年に大坂移住である。あるいは白猿が大     坂公演した折りにでも画いたのであろうか。それにしても竹清はなぜや所有者や地名を明記しなかったのだろうか〉  ☆ 安政三年(1856)    ◯『浪華名流記』「画家部」〔人名録〕①407(三宅子幹編・安政三年三月刊)   〝高嵩谷 名丈雄、字可親、一号物物斎、以己未生、江戸人、初名嵩嵺、天保中、蒙命修補晃山神廟画屏    障、自祖嵩谷世勤焉。余力嗜一絃琴、亦頗為妙手、今寓錫屋街〟    〈「己未」は寛政11年(1799)の生まれ。安政3年(1856)当時57才。「天保年中、命を蒙り晃山(日光)神廟の画屏障を修補し、     祖嵩谷より世々勤む」とあり〉    ☆ 安政四年(1857)    ◯『浪華擷芳譜』〔人名録〕④446(大熊亀陰、小谷文蔚編・安政四年正月刊)   〝高丈雄、字可親、号嵩谷、又物々斎、荏戸人、嵩渓男、住錫屋街〟    ☆ 慶応四年(明治元年(1868))    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪182(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   「英一蝶系譜」〝男 嵩谷【名丈雄可親、号一桐斎、致雲堂、隣菴、物々斎】〟    ☆ 没後資料    ◯『浮世絵師便覧』p241(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝嵩谷(コク) 二世嵩谷、嵩渓の男、名は丈雄、可親、一桐斎、致雲堂、隣庵、物々斎等の号あり、◯文政〟    ◯『狂歌人名辞書』p106(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝高嵩谷(二代)、名は大雄、字は可親、嵩渓の男にして二世嵩谷の号を嗣ぐ、初号嵩嵺、一相斎、致雲    堂、鄰庵等の別号あり、明治八年三月廿七日歿す、年七十六〟    ◯『浮世絵師伝』p106(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝嵩谷 二代    【生】寛政十年(1798)  【歿】明治八年(1875)三月廿七日-七十八    【画系】嵩渓の男     【作画期】文政~慶応    高氏、名は丈雄、字は可親、初名嵩嵺、一桐斎・致雲堂・隣庵・物々斎等の号あり、初め江戸に居りし    が後ち大阪錫屋町に住し、其の地にて歿す〟