Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ すうげつ こう 高 嵩月浮世絵師名一覧
〔宝暦5年(1755) ~ 文政13年(1830)11月20日・76歳〕
 ☆ 文化三年(1806)    ◯「書簡 135」〔南畝〕⑲198(文化三年八月一七日付)   (この日南畝宅に月見の宴)   〝画人嵩谷門人嵩月、柳橋歌妓おしげ来三弦。詩もなく歌もなし。唯酒斗〟    〈席画も南畝の画賛もなくひたすら飲むばかりの宴だった〉    ☆ 文化十五年(1818)    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「両国 画家」〝嵩月 名常雄 字巨熊 観 卓朗斎 ◎菴 久松町(姓名空欄)〟〈◎は草冠+「鹿」〉    ☆ 文政十二年(1829)    ◯「文政十二己丑日記」②173 九月十七日(『馬琴日記』第二巻)   〝(清右衛門)つるや頼ミ大沢抱えやしきの事ニ付、つるやえ罷越候よし、喜右衛門より伝言有之。右抱    やしきハ亀戸天神近辺のよし、画工嵩月より被頼候趣、過日つるや噂に付、予、汲引候て此義に及ぶ。    然処、嵩月、此節病臥のよし、一両日中ニ返事清右衛門方へ可申旨喜右衛門申候よし、告之〟    〈この年の秋頃から曲亭馬琴は神田明神下からの転居を考えていた。移転先として、鶴屋が嵩月と話を進めていた亀戸     天神付近の屋敷のことを、馬琴も関心を示したらしく、清右衛門を通じて状況を尋ねたのであろう。絵師嵩月は病床     にあってまだ結論が出ていない様子である。馬琴の転居探しについては「曲亭馬琴日記・書翰等」の「文政十二年」     の日記参照〉    ☆ 文政十三年(天保元年・1830)(十一月二十日没 七十六歳)    ◯『増訂武江年表』2p82(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   〝十一月二十日、画家高嵩月卒す(七十六歳、名常雄、晩年景納と号す。英一蝶の門人也。深川陽岳寺に    葬す)。     筠庭云ふ、榎坂秋語は阿州侯の魚物の用達なり。俳諧を好み旁ら茶器を鬻ぐ。それらがいへらく、嵩     月一蝶の筆を看定すること、大方は嵩谷抔(ナドのルビ)の目を通したるをも贋物とてうけずして云ふ、     一蝶といひて帰府の後書きたる、かく多かるべからずとなり。是れは自分の画くことの遅きに較べて     いふなり。名人の速筆なるを知らずといへり。度々蹴り付けられて呆れたるなるべし〟  ◯『見ぬ世の友』巻三 東都掃墓会 明治三十三年(1900)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻1-5 35/55コマ)   〝詞林 名家辞世 其三 兼子伴雨稿       観嵩月 文政十三年十一月二十日 深川 陽岳寺     積む年に旅路へゆきの枯野かな〟  ◯『続墓所一覧』写本 源氏楼若紫編 成立年未詳   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝観嵩月 天保元年十一月廿日 七十余 深川萬年町二丁目 富岡橋 陽岳寺        名常雄 晩年景納 英一峰の門人    ☆ 没後資料    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   「高嵩谷所蔵 英氏系図之略」
   「英一蝶系譜」〝(高嵩谷門人)親 嵩月 両国久松町続 武家地住 景納と号〟    ◯『貴賤上下考』〔未刊随筆〕⑩153(三升屋二三治著・弘化四年(1847)序)   〝一蝶が極メ両家より出す    嵩谷の婿に沢嵩渓、後に高を名のる。同門人に観嵩月とて、両人その流儀の流を汲む、嵩谷没したる後、    一蝶の極メ札は両家より出す、一蝶流は英を名乗る門人あれども、みな嵩谷が門弟なり、英一蜂、同一    蛙と、その外英を唱へる者数多あり〟    〈高嵩谷は文化元年没〉    ◯『古画備考』四十四「英流」(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1934   〝(高嵩谷)門人 観嵩月    嵩月老、屋名は築島屋と申候、材木屋にて、深川の木場に其置場有之、今にそのかけ橋はのこり、築島    橋と申候由、    天保元年十一月廿日卒、七十餘歳、名常雄、晩年景納と号、英一蜂の門人也、深川陽岳寺に葬、武江年表
   「英流」(英一蝶系譜)   ◇「英流」下p1957    (坂本雪花斎の妹、米女、「嵩月子十八歳ノ時也」とあり)   〝観先生 筑島屋、木場筑島橋    米化 文政十三年八月廿九日、於根岸之宅病死〟    〈この「観先生」は「筑島屋」とあるから嵩月と思われるが、没年月日が異なる。「米化」は未詳〉  ☆ 明治元年(慶応四年・1867)   ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪183(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   「英一蝶系譜」(高嵩谷門人)     〝親(ママ) 嵩月【宗子行、簑虫菴、号景訥、久松町続武家地ニ住ス。名常雄、天保元年二月廿日卒ス。七    十余歳、深川瑞岳寺ニ葬ス】〟  ☆ 明治三年(1870)    ◯『睡余操瓢』⑥附録「随筆雑記の写本叢書(⑥)」p6(明治三年頃・斎藤月岑書留)   「鉄炮洲古図」   〝一夜、観嵩月子の亭に物語はべりし序に、此古図をとり出られしを借得てうつしはべり、猶考へぬべき    事もあはれど、いとまなけれバ扨置つ 文化六年己巳きさらき十六日 白雉園    前東湊とありしハ、東湊町壱丁目なる奈良屋源七なるべし(本姓神田)、源七ハ嵩月子の兄なり、元禄    の頃盛にして紀伊国屋文左衛門と肩を並へ、奈良茂の君と大尽舞の小唄に迄うたはれし家なりしか、安    政にいたりて衰へて、所持地面をも沽却し千住に移れり〟  ☆ 明治十四年(1881)  ◯『明治十四年八月 博物館列品目録 芸術部』(内務省博物局 明治十五年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 舶載品(18コマ/71)    高嵩月画 桜 画扇 一本〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 3月25日~5月31日 日本美術協会)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝高嵩月 朝湖筆仏画 裏面嵩月筆如意払子 扇子(出品者)篠原肇〟〈朝湖は英一蝶〉  ☆ 明治二十六年(1893)    ◯『浮世絵師便覧』p241(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝嵩月(ゲツ) 一世嵩谷門人、簑虫庵景訥と号す、◯文政〟  ☆ 明治二十七年(1894)    ◯『名人忌辰録』下巻p5(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   ◇上巻p32   〝高 嵩月 常雄 号景納、嵩谷門人。天保元寅年十一月廿日歿す、歳七十六〟      ◇下巻p5   〝観嵩月 英一峰門人、名常雄、天保元寅年十一月歿す。歳七十二。深川陽泉(*ママ)寺に葬る〟  ☆ 明治三十二年(1899)    ◯『浮世画人伝』p17(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)
   「英一蝶系譜」〝嵩月 両国久松町ニ住〟  ☆ 大正年間(1912~)      ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)   〝嵩月 一世嵩谷門人、名は常雄、字は子祀、景納、蓑蟲庵と号す、天保元年十一月廿日没、七十六歳〟  ☆昭和以降(1926~)    ◯『狂歌人名辞書』p106(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝高嵩月、名は常雄、字は子祀、蓑蟲庵と号す、初代嵩谷門人、天保元年十一月二十日歿す、年七十六〟    ◯『浮世絵年表』p208(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   「天保元年(十二月十日改元)庚寅」(1830)   〝十一月二十日、高嵩月歿す。行年七十五歳(嵩月は嵩谷門人なり)〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「深川区」陽岳寺(亀住町三〇)臨済宗妙心寺派   〝覯 嵩月(画家)名常雄。英一蝶門人、画名あり。文政十三年十一月二十日歿。年七十六。覯月院湘室    景納居士。      辞世 積む年に旅路へゆきの枯野かな〟    ◯『浮世絵と版画』p203(大野静方著・大東出版社・昭和十七年(1942)刊)   〝嵩月 本姓観常雄、別号景納、江戸の人、高嵩月門人、天保元年没、七十余歳〟