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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ すけため かも 賀茂 祐為
浮世絵師名一覧
〔元文4年(1739) ~ 享和1年(1801)6月17日・63歳〕
☆ 寛政九年(1797)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(寛政九年刊)
梨本祐為画
『職人尽発句合』二巻 梨本祐為画 五升菴瓦全編 閑田子蒿蹊序 五升菴蔵板
☆ 没後資料
◯「西川祐信画譜」(宮武外骨編 雅俗文庫 明治四十四年(1911)九月刊)
(『浮世絵鑑』第三巻所収・国立国会図書館デジタルコレクション)
◇梨木祐為(41/53コマ) (書画人名伝の類には西川祐信の門派とせず) 〝京都下鴨の神官なり、祐之の孫(祐之は享保九年正月廿九日没)正四位下に叙し上総介に任ず、幼時 より歌を好みて冷泉大納言為村の門に入り教を受け、精力無比、少より老に至るまで其詠ずる所の歌 既に十万首に近し、嘗て朝より暮に至るまで千首を作りて住吉宮に奉納し、斯の如くすること二回、 又図画を善くして、最も風致あり、遂に一家の風をなす、世に自画賛のものあり、大に賞す、享和元 年六月十七日卒す、年六十三、諡して源光院と曰ふ、著書ありといへども家に蔵して世に流布せず、 故にこゝに之を挙げず(続近世叢語、野史、三十六家集略記) 然れども、此梨木祐為が西川自得叟祐信の門人なりしといふ事は、祐為の自記にあり、寛政九年春発 行の『職人尽発句合』といへる大本二冊は、前篇に百二十八種の職人を描きて発句合となせしものに て、其絵は悉く梨木祐為の筆画なるが、其自跋に曰く 我わらは 心に西川自得叟の画風をしたひ 手間のひま/\ 彼翁の筆を写す事 もはらとせしか ば 父母命じて この門に入しは九つの年秋になん 絵本を一巻ばかりならひて 翁にわかれぬ ことかたによりて学ばむも本意なかれば 筆をうちおきしに 五升庵の瓦全の職人尽の発句をえら びて これに今様の絵をそへよと こふにまかせて(中略)人わらはれなる画に奥書をそへ侍りぬ 寛政八のとしの秋 鴨のあかたぬし(祐為之印) 祐為は享和元年に六十三歳にて没せしとすれば、元文四年の生れにして、其九歳の時といへば延享四 年なるべし、面して西川祐信は其四年後の宝暦元年に没せしなれば「翁にわかれぬ」とは、祐信の遠 逝去をいへるなるべし「ことかたによりて学ばむも本意なければ」とは他派の画家を師とすることを 快とせざりしを云ふならん、されvば、祐為は土佐派にあらず、又其他の画流にもあらざること知る べし、尚次頁に掲出せる箔打の画を見ば、自得叟の亜流たること明かなるを得べし 但し祐為の祐は、祐信の祐にあらずして、祖父祐之の祐なるべし〟 ◯『浮世絵師伝』p107(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝祐爲 【生】元文四年(1739) 【歿】享和元年(1801)六月-六十三 【画系】祐信門人 【作画期】宝暦~寛政 梨本氏、京都下鴨の神官、正四位下に叙し上総介に任ぜらる。歌をよくし画に巧みなり、寛政九年版 『職人尽発句合』は彼が筆に係る〟 ◯『浮世絵年表』p161(漆山天童著・昭和九年(1934)刊) 「寛政九年 丁巳」(1797) 〝正月、梨本祐為の画ける『職人尽発句合』出版〟
〈賀茂祐為は大修館の『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」の項目立てに従った〉
◇「享和元年(二月五日改元)辛酉」(1801)p166 〝六月、梨本祐為歿す。行年六十三歳。(祐為は京都下鴨の祠官にして和歌に名あり。絵は西川祐信に学 び、寛政九年出版の五升庵瓦全の編『職人尽発句合』の挿画は実に祐為の画くところなり)〟 △『増訂浮世絵』p75(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊) 〝梨本祐為 祐信晩年の門人で、京都下鴨の神官である。正四位下に叙し上総介となる。歌をよくし十万の詠歌があ ると称せらる。絵は風韻に富み、自画賛のものがあるといふ。享和元年六月六十三歳で没した。寛政九 年春発行した職人尽発句合は百二十八人の職人を画いて居るが、祐為の筆である。序文に九つの時に祐 信に入門したとある。そうすれば丁度延享四年の入門で、その後四年ばかりで祐信は没したのである〟
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
賀茂祐為画
作品数:22点 画号他:鴨祐為・賀茂・梨木・鴨のあがた主・梨木祐為・賀茂祐為・祐為・鴨のあかた主 分 類:和歌17・歌集2・俳諧1・紀行1・歌学1 成立年:安永9~10、天明6、寛政9・11~13
〈二十二点中、作画は五升庵瓦全の編集になる俳諧本『職人尽発句合』のみ。寛政九年(1797)の刊行で、署名は「鴨 のあかた主」である〉