Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ すけただ にしかわ 西川 祐尹浮世絵師名一覧
〔 ? ~ 安永1年(1772)生存・享年未詳〕
 ※〔漆山年表〕  :『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」   〔日文研・艶本〕;「艶本資料データベース」   〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』  ☆ 寛延元年(1748)     ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(寛延元年刊)    西川祐尹画『艶色吾妻鑑』墨摺 横本 五冊 寛延元年頃 口絵紅摺絵    ☆ 宝暦二年(1752)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦二年刊)    西川祐尹画    『絵本鏡百首』前編 三巻 画図文華堂祐信嫡男西川祐尹筆 作者中村満仙詠 菊屋喜兵衛板    『絵本花の宴』三巻 西川祐尹画 深藏撰 菱屋治兵衛板    『絵本八重桜』二巻 西川祐尹画     ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(宝暦二年刊)    西川祐尹画『風流姫かがみ』墨摺 横本 三冊 宝暦二年          序「まめやかなるまさるのとしの春」    ☆ 宝暦三年(1753)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦三年刊)    西川祐尹画    『絵本三つの友』三巻 西川祐尹画 瓢軽斎 梅村半兵衛板    『絵本響の瀧』 三巻 画図文華堂嫡男西川祐尹筆 作者水本深藏撰 菱屋治兵衛板    『絵本鏡百首』 後編 三巻 画図文華堂祐信嫡男西川祐尹筆 作者中村満仙詠 菊屋喜兵衛板    『絵本勇士艸』 二巻 西川祐尹画 菱屋治兵衛板    『絵本唐詩仙』 一巻 西川祐尹画(祐信画譜による)    『絵本咲分桜』 二巻 西川筆 正本屋吉兵衛板      ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(宝暦三年刊)    西川祐尹画『古今色角力』墨摺 横本 三冊 宝暦三年頃    ☆ 宝暦四年(1754)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦四年刊)    西川祐尹画    『絵本面美花』三巻 西川祐尹筆 菊屋喜兵衛板    『絵本硯の海』三巻 西川祐尹筆      ☆ 宝暦五年(1755)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦五年刊)    西川祐尹画『絵本氷面鏡』三巻 祐尹筆 菊屋喜兵衛板    ☆ 宝暦七年(1757)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦七年刊)    西川祐尹画『絵本常盤謎』三巻 西川祐尹画 菊屋長兵衛板(祐信画譜による)    ☆ 宝暦十三年(1760)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦十三年刊)    西川祐尹画『絵本玉柏』三巻 西川祐尹画(祐信画譜による)  ☆ 明和六年(1769)    ◯「百人一首年表」(明和六年刊)    西川画    『藻塩百人一首』色摺口絵・挿絵・肖像 京〔跡見1783〕     奥付「画工 花洛 西川氏 画師 武江 石川豊信」随時老人撰     林権兵衛・武村嘉兵衛ほか 明和六年八月刊    『藻塩百人一首千尋海』色摺口絵・挿絵 京〔跡見22〕     奥付「選者 皇都 随時老人/画工 花洛 西川氏/画師 武江 石川豊信画        明和六年八月吉日 寛政四補刻 皇都書肆 林権兵衛 林伊兵衛 朝倉儀助」    〈〔跡見1783〕は〔跡見22〕の原本か。口絵と板元が異なる〉    『天明新刻 八千代百人一首宝海』口絵 挿絵 京〔跡見904〕     奥付「撰者 皇都 随時老人/画工 花洛 西川氏/画師 武江 石川豊信」        明和六年八月吉日 寛政四補刻        皇都書肆 林権兵衛 林伊兵衛 石田善兵衛 西村平八 竹村嘉兵衛」    〈随時老人は多田南嶺。西川氏は西川祐尹(スケタダ)か。上掲の『藻塩百人一首千尋海』も板元に異同はあるものの他は     まったく同じ記載であるから、出版事情は同じと見てよいのであろう。両本とも原本は明和6年刊、そして寛政4年、     補刻して出版したというのだろう。では画工との関係はどうか。祐尹は安永元年(1772)頃までの現存が確認されてい     るもののその後の出版はない、また豊信は天明5年(1785)すでに亡くなっている。したがって両者とも寛政4年(1792)     の補刻とは無関係。するとそもそも明和6年の原本が両者の合作と考えるほかない。それにしても「画工・西川」と「画     師・豊信」との違いは何によるものなのか、またどのような縁があってこの組合せになったのか、これらもよく分か     らない。さらにいえば「天明新刻」の角書をなぜ加えたのかも不明である。参考までに〔目録DB〕の上掲の書誌を引     くと〝注記「明和書籍目録による」〟とあるのみで、角書も画工名も板元についても記載がない〉  ☆ 明和八年(1771)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(明和八年刊)    西川祐尹画『色長者』墨摺 横本 三冊 口絵・紅摺絵 明和八年頃     (白倉注「祐信の画風に学んでいるが、やや固さが見られる。中巻の付文に「三十二相、衣裳のすがた」が入ってい      る。初板はこれも紅摺絵だったか。祐尹唯一の艶本)    ☆ 安永元年(明和九年・1772)     ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕(明和九年刊)    西川祐尹画『色長者』墨摺 横本 三冊 明和九年頃 紅摺絵口絵    ☆ 安永二年(1773)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安永二年刊)    西川祐尹画『絵本幾世の春』二巻 西川祐尹画(絵本花見鳥の改題也、西川画譜による)    ◯「日本古典籍総合目録」(安永二年刊)   ◇絵本 絵画    西川祐尹画『絵本花見鳥』二冊 西川祐尹筆 菊屋喜兵衛板(注記「改題本に「絵本幾世の春」あり」)    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1386(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   〝西川祐尹 祐信男、其著画本奥書云、宝暦八年月日、京師文華堂嫡男、西川祐尹トアリ、     予嘗、観其著色人物、上有俳士羅人之発句、其画俗悪、不足筆記〟    〈「羅人」は京都の俳人山口羅人〉  ☆ 嘉永七年(1854)  ◯『扶桑名画伝』写本(堀直格著 嘉永七年序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇西川祐尹([31]巻十之六 雑家 27/102コマ)   〝祐尹 姓詳ならず 西川氏 名は祐尹 西川家二代目なり 安永頃の人なるべし    「画家人名略【三左】」云 西川祐尹 印文西川二代と有り〟    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   ◇「西川祐信」の項 ⑪196   〝或書に西川祐信とあるは祐信の男歟。此頃画本の体裁は、紺紫の表紙に金泥書あり。或は行成紙もあり。    大本、横切本等也〟
  ◇「西川夕尹」の項 ⑪197   〝文華堂祐信の男にて、画を父に学んで能す。歿年不詳。板行の絵本数多ありといへども一二をあぐ     絵本鏡百首 六冊   同玉椿  二冊   同花見鳥  二冊     同 面美鏡 三冊   同氷面鏡 三冊〟    ☆ 明治年間(1868~1911)    ◯『日本美術画家人名詳伝』上p55(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝西川祐尹 祐信ノ男、画ヲ父ニ学ンデ能クス、刻本ノ画本数種アリ〟    ◯『浮世絵師便覧』p241(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝祐尹(タダ) 京師の人、祐信の男、絵本多し、◯享保〟    ◯『名人忌辰録』上巻p11(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝西川祐尹 得祐斎 祐信の男、通称祐蔵。宝暦十二午年八月廿五日歿す、歳五十七〟    ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(27/103コマ)   〝西川祐尹【享保元~二十年 1716-1735】    祐信の男、得祐斎と号す、父の画風を学びて之を善くせり、板刻の絵本を多く画きしといふ、その肉筆    の絵いは、文華堂祐信嫡男西川祐尹と、落款せしものあり、宝暦十二年八月廿五日没す、享年五十七〟  ◯「西川祐信画譜」(宮武外骨編 雅俗文庫 明治四十四年(1911)九月刊)   (『浮世絵鑑』第三巻所収・国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇西川祐尹(39/53コマ)   〝世態画家西川祐尹墓 号徳祐斎、祐信の男、宝暦十二年八月二十五日 五十七 京三條大宮 妙泉寺    (続平安名家墓所一覧)    『本朝画家人名録』には「号文生堂」とあり、祐尹筆の絵本には「花洛文華堂嫡男西川祐尹」とか    「文華堂祐信嫡男西川祐尹」と自著せり、父の勢力ありしこと察せらる    祐尹は父と同く文章もかけしや、自筆の絵本に自序を書き、又父祐信の遺稿『絵本三津輪草』(淫書    の美徒和草(みつわぐさ)に非ず)に家翁自得叟云々の序文あり    『名人忌辰録』は何に拠りて、祐尹の没年を宝暦十二序と記せしなるか知らずといへども、宝暦とせ    しは誤なるべし、祐尹筆の『絵本玉椿』の自序には「明和九年辰正月吉日西川祐尹」と書し、『絵本    花見鳥』の奥書には「画図、文華堂嫡男 西川祐尹筆(印)明和十年巳正月吉日」と署せり、年歴の    通算上、明和は八年限りなれども、安永と改元せしは明和九年十一月十六日なれば、其の十六日前の    刻本を、一ヶ月許りの後の明和十年(即ち安永二年)の新春に売出せしものなるべし(後の入木改刻    にあらざることは、文字及び版式にて明かなり)随つて祐尹が安永元年まで生存せしことは確かなる    べし。其後の没年月は未だ詳かならず、妙泉寺の過去帳も天明大火の際に焼失せりといふ〟  ☆ 昭和年間(1926~1987)    ◯『浮世絵師伝』p107(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝祐尹(タダ)    【生】  【歿】祐信の子  【画系】  【作画期】寛延~明和    西川氏、俗称祐蔵、得祐斎・文生堂と号す、画を父に学び、数多の絵本を描きたり。一説に宝暦十二年    八月二十五目、五十七歳にして歿すと云へれど、『絵本玉椿』の序末に「明和九年正月吉日西川祐尹」    とあれば、其の頃まで生存せしものか、猶考ふべし。墓所、京都三條大宮、妙泉寺〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「宝暦二年 壬申」(1752)   〝正月、西川祐尹の『絵本鏡百首』『絵本花の宴』出版〟     ◇「宝暦三年 癸酉」(1753)p106   〝正月、西川祐尹の『絵本鏡百首』『絵本みつの友』『絵本勇士艸』『絵本唐詩仙』出版〟     ◇「宝暦四年 甲戌」(1754)p108   〝正月、西川祐尹の『絵本かほよ花』『絵本硯の海』出版〟     ◇「宝暦五年 乙亥」(1755)p109   〝正月、西川祐尹の『絵本氷面鏡』出版〟     ◇「宝暦七年 丁丑」(1757)p111   〝正月、西川祐尹の『絵本常盤謎』出版〟          ◇「宝暦一二年 壬午」(1762)p116   〝八月二十五日、西川祐尹歿す。行年五十七歳(祐尹は祐信の男にして通称祐蔵、得祐斎と号せり)〟    △『増訂浮世絵』p75(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝西川祐尹    得祐斎と号し、祐信の男、通称を祐藏といふ。没年は明かでない。名人忌辰録や続平安名家墓所一覧に    は、宝暦十二年八月二十五日、五十七歳とあるが、宮武外骨氏は遺作によつて、安永元年まで生存して    居たことは確かだといふて居る。祐信の画風を着実に学んだもので、美人の姿などは誠によく似て居る。    絵本を沢山画いて居るが、祐信の名声が高かつたので、世に行はれたと見える。その落款に花洛文華堂    嫡男西川祐尹とか、文華堂祐信嫡男西川祐尹などゝ書いたのがある。以て父の名声を利用して居ること    がわかる。但しその伎倆は及ばないけれども相当な手腕をもつて居る〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔西川祐尹画版本〕    作品数:11点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:西川祐尹    分 類:絵本11・和歌1・絵画1    成立年:宝暦2~4・7年(9点)        明和 なし        安永2年    (1点)