Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ そうり たわらや 俵屋 宗理 三代浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕
(宗二・菱川宗理参照)
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」  ☆ 寛政十年(1798)頃    ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱446(大田南畝著・寛政十二年五月以前記)   〝【古俵屋宗理名ヲ続、二代目】宗理【寛政十年の頃北斎と改ム】【三代目宗理】北斎門人    これまた狂歌摺物の画に名高し。浅草に住す。すべてすりものゝ画は錦画に似ざるを貴ぶとぞ〟    〈この古俵屋宗理が天明二年(1782)頃亡くなったとされる初代の宗理。二代目が後の北斎で、三代目は寛政十年(17     98)頃、北斎の門人が襲名した。「これまた~」以下は二代目宗理に関する記事である〉    ☆ 享和元年(1801)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(享和元年刊)    俵屋宗理画    『挿花衣之香』前編 東陽画工俵屋宗理筆 貞松斎一馬撰 小林新兵衛板    『布毛等濃夷詞』一冊 狂歌 曲木正墨・宗理・尚左堂俊満画 山陽堂撰 和泉屋市兵衛板    〈〔目録DB〕は『浅間山麓の石』〉    ◯『葛飾北斎伝』p56(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)   〝この俵屋宗理が画きし『草花衣の香』は、寛政十二月庚申正月の著述にして、翌享和元辛酉年八月の出    板なり。即(すなわち)宗二が宗理の名を譲られし翌年の著述にして、其の画はもとより生花をかきた    るなれば、筆意をみるに足らざれども、熟視すれば、師に劣れること喋々(ちょうちよう)の弁を竣    (俟=また)ざるなり〟    ☆ 享和二年(1802)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(享和二年)   ①「宗理画」(呉服やの通帳・畳紙入りの反物)11/68〈反物の荷札に干支〉    「橘香亭笑顔」狂歌賛〈この宗理は三代目。大小表示不明〉  ☆ 文化二年(1805)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文化二年)   ①「宗理画」(書見台を前にする老翁、床の間の菅原道真像を振り返る図)〈この宗理は三代目〉    「光柿亭」〈大小の考案者か〉  ☆ 文化四年(1807)    ◯『戯作者小伝』〔燕石〕②47(岩本活東子編・嘉永二年頃)   (岡山鳥作)〝駅路春鈴菜譚 二 文化四卯 豊広 宗理〟    ☆ 文化五年(1808)    ◯『葛飾北斎伝』p(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)   〝この宗理(宗二)が画きし文化四(ママ)年板『駅路春鈴菜物語』の奥附に菱川宗理画とありて、俵屋宗理    の印を押了せり。これ其の始め俵屋といひし後に菱川と称へたる一証とすべし〟    ☆ 文化九年(1812)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化九年刊)    俵屋宗理画『挿花衣之香』後編 画工俵屋宗理 貞松斎迷馬板    〈〔目録DB〕の注記は「初編寛政十一序・享和元刊、後編文化九刊、三編天保四自序、四編同十五刊」〉    ☆ 文化十年(1813)    ◯『馬琴書翰集成』⑥323「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
   「文化十年刊作者画工番付断片」      〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと。この宗理は三代と思われる。師匠     の北斎(二代目宗理)ともども「行司」の格に入っているから別格あつかいなのである〉      ◯『馬琴書翰集成』⑥283 年不詳七月十六日 馬琴宛・俵屋宗理三世(第六巻・書翰番号-来73)   〝(貼紙「三世俵屋宗理【北斎門人。浅草第六天附近住】」)〟      〝(表書「飯田町仲坂 滝沢清右衛門様 当用  俵屋宗理)    尚々    先日ハ御光駕被成下候所、折節他行仕、不得尊顔候。御残多奉存候。其砌は御文章被下、早束差出候所、    大キニ大悦奉存候。早束拙子も、乍御礼参上仕度存居候得共、御存被下候通り、日々之出勤にて、及失    礼候段、御高免可被下候。尚亦清書仕候間、御印奉願上候。近日以参御礼申上度、早々已上      七月十六日〟    〈先の名宗二が改名して俵屋宗理三世と称したのは、二世宗理が「宗理改北斎」なる署名をして北斎名に改めた寛政十     年(1798)八月以降のこと。そして『【諸家人名】江戸方角分』(文政元年(1818)成立)を見ると「宗理 菱川 馬     喰町(原)〔馬場〕俵屋」とあり、しかも「古人」の合い印があった。三世宗理は文政元年以前に故人となっていたの     である。そうすると、この書翰は文政元年以前のものと見ることができる。さて、書翰の内容は、馬琴が「御文章」     を持参して宗理宅を訪問した時、宗理は不在であった。その折は「日々之出勤」のため失礼をしてしまったが、近日     中には参上して直接お礼を申し上げたいというのである。この「御文章」、馬琴の戯作ではない。国文学研究資料館     の「日本古典籍総合目録」に馬琴作・宗理画の作品は一点もない。すると何であろうか。ところで「日々之出勤」と     ある。するとこの宗理は仕官していたのではあるまいか。2011/09/26訂正追記〉    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   「馬喰町」合い印「古人・浮世画」   〝宗理  菱川         馬喰町(原)〔馬場〕   俵屋〟    ◯『浮世絵類考』「三馬按記」(Top「浮世絵類考」の項目に所収)(式亭三馬記・文政元~四年)   〝三馬按、三代目宗理、初ニ宗二ト呼ブ。後年、俵屋ヲ改テ菱川宗理トナル〟    ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③311(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   (「葛飾為一」の項)   〝始めは、業を勝川春章に受く、勝川春朗と画名す、故ありて破門せられ、叢春朗と云り、古俵屋宗理の    跡を継て、二代目菱川宗理となり、此比画風をかへて【宗理ノ頃ハ狂歌ノ摺物多シ、錦絵ハカゝズ】一    派をなさず、【堤等琳孫二ノ風ヲ慕フ】亦、門人宗二に宗理を譲り【三代目宗理トス】名を家元へ帰せ    り〟    〈寛政十年以降の宗理は、所謂、北斎門人・三代目菱川宗理(前名宗二)である〉    ◯『古画備考』三十五「光悦流」下p1574(朝岡興禎編)   〝俵屋宗理 号百琳、琳一作隣    元知、号柳々居百琳、専ラ光琳ノ画法ヲナス、此円印アルモノ、世ニ誤テ光琳トス    宗理、初め住吉広守の門人、後光琳の風を画く、明和安永の比の人なり、光琳画譜    [署名]「百琳斎」[印章]「元知」(丸印)【福禄寿鶴松葉屋口】      [署名]「柳々居百琳宗理筆」[印章]「元知」(丸印)    [署名]「青々宗理筆」[印章]「庭柏」(丸印)菊ノ絵    [署名]「百隣宗理」[印章]「元知」(丸印)白鶏ト朝顔     宗理――――宗琳 秋田へ参 ――――宗理――――北斎    [印章]「宗理」(方印)「庭柏」(丸印)(補)「元知」(丸印)〟    〈『古画備考』のこの記事に拠れば、住吉広守門人の宗理は三代目宗理、北斎は四代目ということになる。飯島虚心は     これを根拠として、北斎が名を継いだ宗理について「此の人初代にあらず。三代なり」(『葛飾北斎伝』)とし、北     斎を二代目宗理とする『無名翁随筆』や『増補浮世絵類考』記事を改め、四代目としたのであった。(『浮世絵師便     覧』)したがって、北斎宗理から宗理名を譲り受けた俗称宗二の宗理の方は「即五代宗理なり」(『葛飾北斎伝』)     ということなる。しかし、やはり『無名翁随筆』等が述べるように、二代目を北斎とし宗二を三代目とするのが一般     のようである〉    ☆ 明治以降(1868~)  ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年(1884)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝宗理 三代目宗理ト云フ、初名宗二、後チ俵屋ヲ改メテ菱川宗理ト云フ〟    ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝文化 俵屋宗理 寛政の末、北斎より号を受け、二代北斎と改め、狂歌摺物を多く画く〟    ◯『日本美術画家人名詳伝』上p248(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝俵屋宗理 三世 浮世絵師ナリ、三代目宗理ヲ嗣グ、初メノ名ハ宗二、後俵屋ヲ改メテ菱川宗理ト云フ〟    ◯『浮世絵師便覧』p218(飯島半十郎(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)   〝宗理    俗称宗二、北斎門人、宗理の名を譲られ、俵屋宗二といふ、後に菱川を称す、宗理の五世なり、    ◯寛政、文化〟    〈宗理が菱川姓を名乗るのはこの人のみ。宗二を五代目宗理とするのは、上記『古画備考』の北斎を四代目宗理とする     見解に拠っている〉    ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年(1899)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)125/218コマ   〝宗理    初の名は宗二といふ 二代目宗理の蹟を嗣ぎて 三代目俵屋宗理といふ 浮世絵を能くす 後号を改た    めて菱川宗理と称す(扶桑画人伝)〟  ◯『浮世画人伝』p121(関根黙庵著・明治三十二年(1899)五月刊)
     「葛飾北斎系譜」〝宗二(北斎門人)三世宗理ト更ム〟    ◯『日本絵画名家詳伝』下(竹内楓橋著 春潮書院 大正六年(1917)二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝俵屋宗理(二世)    初名は宗二 俵屋の跡を継で二世宗理と曰ふ 後ち寛政十年の頃 葛飾北斎の号をうけて 二世北斎と    改む 江戸浅草に住す 狂歌摺物の絵に巧みなり〟  ◯『狂歌人名辞書』p116(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝俵屋宗理(五世)、北斎門人、通称宗二、後ち菱川亭と号す「自賛狂歌集」に此人の画あり、文化文政    年間の人〟    ◯『浮世絵師伝』p116(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝宗理 五代    【生】  【歿】  【画系】北斎門人  【作画期】寛政~文化    初め俵屋宗二といひ、別に琳斎と号したりしが、寛政十一年五代宗理(諱は完知)を襲名し、別号を巣    雲斎といふ、肉筆画及び摺物などに往々「菱川宗理」と落款せり、錦絵は「美人古歌合(七枚続)」と    題するもの(落款、琳斎宗二画)の外、殆ど其の作を見ず〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「寛政一一年 己未」(1799)p164   〝正月、国政・春好・春英・俵屋宗理の挿画ある『今日歌白猿一首』出版〟     ◇「享和元年(二月五日改元)辛酉」(1801)p166   〝八月、俵屋宗理の画ける『挿花衣の香』出版〟          ◇「文化四年 丁卯」(1807)p176   〝正月、鳥居清長・歌川豊国・勝川春好・菱川宗理・柳々居辰斎・葛飾北鵞等の画『追善数珠親玉』出版〟    △『増訂浮世絵』p240(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝俵屋宗理    名は完知、俗称を宗二と謂つた。寛政年間に北斎から宗理の号を譲られた。初め俵屋と称し、後には菱    川を姓とした〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   (俵屋宗理画版本)    作品数:2     分 類:狂歌1・読本1    成立年:享和1年(狂歌狂詩・芝の屋山陽編『浅間山麓の石』尚左堂俊満等と合作)        文化5年(読本・節亭琴驢作『駅路春鈴菜物語』歌川豊広と合作)   (菱川宗理画版本)    数品数:2     分 類:狂歌1・華道1    成立年:文化2年序(花道・如月庵馬丈著『遠州流百瓶図式』)        記載なし (狂歌・『職人三十六番』一帖)      〈「日本古典籍総合目録」は、文化二年(1805)の菱川宗理も、享和元年(1801)・文化五年(1808)の俵屋宗理も、葛飾     北斎一世としているが、大田南畝の『浮世絵考証』によれば、寛政十年(1798)以降、北斎門人宗二が宗理名を継ぐと     あるので、享和以降の作品は二代目宗理(北斎)ではなく三代目宗理(前名宗二)のものと考えられる〉