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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ しゅんしょう こちょうえん 胡蝶園(蓬莱)春升
浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕
(歌川国盛二代参照)
☆ 天保十四年~弘化四年(1843-1847)
〈改印:名主一印〉
◯「百人一首年表」
(本HP・Top)
胡蝶園春升画
〔豆百人一首かるた原型〕
〔跡見1852〕
「胡蝶園松尾春升画」永蔵板 天保十四年~弘化四年 改印「普」 ☆ 弘化二年(1845)
◯『噺本大系』巻十九「所収書目解題」
(弘化二年刊)
歌川国盛画
『縁取ばなし』表紙「春升改国盛画」見返「国盛画」巻末「胡蝶園春升戯画」 鼻山人作 吉田屋板
〈東京大学図書館・霞亭文庫本、鼻山人の序は「乙巳正月(弘化二年)」となっているから、胡蝶園春升から国盛への 改名は弘化元年か二年のいずれかであろう〉
◯『寐ものがたり』〔続大成〕⑪33(鼠渓著・安政三年(1856)序) 〝歌川国盛といへる絵師、其頃は【蓬莱春升といふ】青山辺より出火して高輪迄焼シ時、麻布日ヶ窪・永 坂辺にて人多く死す。春升、永坂の裏屋に住ける。彼が親は中風の気昧にて、行歩ちと不叶ひなり。四 ツ谷戒行寺と云寺に居たりしが、ちんばひき/\駈来り見れば、永坂辺は真ッ風下にて、既に危き時分 也。早々春升が宅へ来り見れば、春升二階にて自若として絵をかき居たり。親父あきれて、イヤ早とん だ人哉、早く迯ぬか、焼死ぬぞといわれ、春升、先に表へ出て人に聞し時、気遣ィなしと申たりしがと 言ながら、筆をもつた侭下へおりると、最早五六軒脇まで焼来る。父子連立、ヤツト高稲荷の山へ迯て 命ばかかりは助りける〟
〈『武江年表』によると、青山から出火して高輪辺まで焼失したのは弘化二年(1845)の火事〉
◯「見世物興行年表」(ブログ)<秋 見世物 菊細工 巣鴨・染井等> 「流行菊の花揃 巣鴨植木屋亀蔵(細工)(汐汲み)」錦絵 署名「
胡蝶園春升画
」巣鴨岡万板 ☆ 明治以降(1868~) ◯『浮世絵師便覧』p237(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊) 〝春升(セウ) 胡蝶庵、又蓬莱と号す、歌川風、錦画あり、◯嘉永〟 ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
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〝胡蝶庵春升【天保元~十四年 1830-1843】一に蓬莱と号す、錦絵を画けり〟 ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)
(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
〝春升 国盛 三世豊国門人、初め春舛と号す、一宝斎とも、安政頃 国盛の初名、一宝斎と号す〕 春升 歌川風、胡蝶庵又蓬萊と号す、嘉永頃〟 ◯「日本小説作家人名辞書」p743(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊) 〝胡蝶園 浮世画家勝川(ママ)春升の別号、通称仙太郎、胡蝶園と号す。「江戸名所古跡物語」(弘化二年(1845)刊) の作者〟
〈「日本古典籍総合目録」『江戸名所古跡物語』合巻・胡蝶園(歌川国盛一世)作・画、天保十六年(1845)序。『浮 世絵師伝』は春升を「はるます」と読んでいる。また『浮世絵師伝』は春升の画系を歌川とする。してみると「辞書」 が「勝川春升」としたのは単なる誤記か〉
◯『浮世絵師伝』p91(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝春升 【生】 【歿】 【画系】歌川派 【作画期】天保~嘉永 松尾氏、胡蝶園、又、蓬莱と号す、美人画あり〟 ◯『浮世絵師伝』p152(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝春升 【生】 【歿】 【画系】歌川派 【作画期】嘉永 胡蝶園春升、或は蓬莱春升といふ、美人画あり〟
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
国盛・胡蝶庵名の作品はあるが、春升・蓬莱名の作品はない