Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ しょうてい たかはし 高橋 松亭(弘明)浮世絵師名一覧
〔明治4年(1871)1月2日 ~ 昭和20年(1945)年2月11日・75歳〕
 別称 弘明(ひろあき)  ☆ 明治二十年(1887)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十年刊)    松亭画『妹背山婦女庭訓』口絵のみ 松亭 近松半二他 金港堂(6月)  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『明治大見立改正新版書画集覧』番付 東京(片田長次郎出版 明治二十五年刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝絵画高名家     松本楓湖 浅艸栄久丁  渡辺省亭 西鳥越    久保田米僊 芝サクラ川丁     月岡芳年 浅クサスガ丁   英一蜻  下平右ヱ門  永峯秀湖  カメサハ丁     小林清親 京バシカガ町  田井月耕 オケ丁     落合芳幾  京バシ滝山丁     高橋松亭 車坂丁〟  ☆ 明治二十七年(1894)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十七年刊)    松亭画『空屋の美人』口絵・表紙 松亭 松林伯知 吾妻屋(6月)  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『東京専門書画大家一覧表』番付 東京(市橋安吉編集・出版 明治三十二年六月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝画 高橋松亭 下谷車坂町ノ十三〟  ☆ 明治四十四年(1911)     ◯『増補古今書画名家一覧』番付 大阪(石塚猪男蔵編集・出版 明治四十四年十月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝今故浮世絵各派    〔東京〕尾形月耕  菱川師永 豊原国周 富岡永洗  渡辺省亭 筒井年峯 小林永興        歌川国麿  三島蕉窓 加藤令斎 小林清親  河鍋暁雲 吉沢錦古 若井通義        中島延丸  中野鷗湖 石川俊之 一筆斎文調 成田一舟 鈴木華村 永峰秀湖        水野年方  梶田半古 武内桂舟 田口年信  木村一蜻 高橋松亭 速水恒章        平井英洲  山里玄厓 今村興宗 荒川国周  川辺赭石〟    ☆ 昭和以降(1926~)  ◯『浮世絵師伝』p100(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝松亭 弘明(ヒロアキ)の前名〟  ◯『浮世絵師伝』p162(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝弘明    【生】明治四年(1871)一月二日 現在    【画系】松本楓湖       【作画期】明治~昭和     高橋氏、俗称勝太郎、画名は松亭の作多く、大正十年頃から弘明(ヒロアキ)と改号したが、稀に松亭の印     だけ押捺したるもあり、出生地は浅草向柳原にして、浅草永久町に在住せし伯父に当る容斎風の松本     楓湖の宅で、九歳の頃から画手本を貰つて遊びながら習画した。下谷御徒士町より車坂に移る、十五     六歳の(肩揚のある)頃から宮内省の外事課へ通勤した、其役目は外国の勲章の写し、役人の通常服     及び大礼服の改正雛形の描写其外宮中の器物に関するもの等であつた。通勤した重なる画師は、福井     江亭、池田琴峯、三島蕉窓、高橋玉淵などであつた。其頃は交通不便で乗物なく、車坂より赤坂離宮     まで往復徒歩で、其の道程三里位あり、雨中の時は高足駄で鼻緒が切れて、素足で入ると門衛に咎め     られた事がある。      明治二十二年頃青年画家が協同して、青年絵画協会を設立した。会員は村田丹陵、富岡永洗、特に寺     崎広業は飲友達で記憶が深い。      岡倉覚三氏は美術院を立てゝから互評会を作り、其主旨は各自の作品を正に批評する会であつた。会     員は鈴木華邨、寺崎広業、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月、木村武山、尾竹国観、竹坡、     上原古年、岡田梅村、桜邨、水野年方等、・其当時の若手画家の集団であつた。      また上野の伊予紋に文士、画家の会合する二十日会にも入会した。其会は文士が短文を作り、画家が     文章に合せて挿絵する約束の会で、二三年続いたが泥酔乱舞に終り、殆ど実行した事は無い。其会員     連は巌谷小波、坪谷水哉、大橋乙羽、高山樗牛、泉鏡花、尾崎紅葉等、画家は鳥居清忠、村田丹陵、     島崎柳塢、寺崎広業、富岡永洗、小堀鞆音氏等である。(以上は氏の談話に基きたるもの)      下谷車坂より浅草駒形町へ移り、尋常小学校の教科書及び雑誌、新聞等の頼絵を揮毫すること十数年、     其間に東京勧業博覧会、工芸共進会に出品して一等二等褒状等を受く。また駒形より神田区五軒町に     移り、近所の古錦絵商前羽商店より古錦絵の再版の線書及び色ざしを依頼中、明治四十年春前羽商店     を通じ渡辺版画店主(其当時は柳町に間借して居る頃)の需めに依り、独立した木版画、輸出向とし     て日本の特長ある山水人物等数図を試に作つた。線書、色差し、摺合せ等を加へれば、普通の肉筆よ     り数倍の手間は掛るが、摺上つて見ると肉筆より色彩の精美現はれ、欧米各国でも氏の版画を希望す     る者多く、年々版画の揮毫に努力されたる効ありて、震災前(大正十二年九月一目)氏の分だけにて     大小取合せ五百図以上の数に上つた、版木も版画も全部焼失したけれども、震災後に災前より入念に     作画されたものが多い。      昔の錦絵が江戸土産として地方の人々に購はれたのと同様に、現今世界の人々が日本土産として喜ん     で購ふことになつたのは興味深いことである。氏の現住所は東京府下矢口町字小林三二六番地〟    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p91(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)   〝弘明(ひろあき)    高橋勝太郎、松亭のちに弘明と号した。松本楓湖の門人。小学校の教科書、雑誌新聞の挿絵から、その    後は高級美術版画に転じた。昭和二十四年に歿した〟