〈『無名翁随筆』『増補浮世絵類考』は「紫領斎」、『浮世絵師便覧』『浮世絵師伝』は「紫飯斎」と表記するが、『原色浮世絵
大百科事典』第二巻「浮世絵師」の「紫嶺斎」に従った〉
☆ 文政十年(1827)
◯『滝沢家訪問往来人名録』 下p117(曲亭馬琴記・文政十年九月四日)
〝丁亥(文政十年)九月四日初テ来ル 山下御門外筑波町河岸通り紺屋ト酒やの間の裏ニて 筆工書
本屋 丸屋吉右衛門 弟 仙橘〟
〈馬琴の日記には専ら筆工として出てくる。渓斎英泉の『無名翁随筆』(天保四年(1833)成る)には〝泉橘 紫領斎
渓斎英泉門人【俗称仙吉、向島、中本多ク、画作ヲ出セリ、筆耕ヲ業トス】〟とある〉
◯「文政十年丁亥日記」①183 文政十年九月四日(『馬琴日記』第一巻)
〝英泉近所之貸本屋弟ニて、筆工いたし候者有之、過日鶴喜申上候者ニ御座候。今明日中上り候間、御教
諭、御取立被成下候様、申之〟
〝筆工仙吉来る。鰹節一連持参。被為遊御逢、書体一々御教諭、石魂録筆工被仰付候間、節句前後参り候
様、被仰遣〟
〈この仙吉(仙橘)は、八犬伝の第七輯の筆工に筑波仙橘、第八輯に墨田仙橘として出てくる。「滝沢家訪問往来人名
簿」に〝丁亥九月四日初テ来ル 山下御門外筑波町河岸通り紺屋ト酒やの間の裏ニて 筆工書 本屋 丸屋吉右衛門
弟 仙橘〟とある。また天保四年(1833)成立の英泉著『無名翁随筆』(別名『続浮世絵類考』)では〝渓斎英泉門
人【俗称仙吉、向島、中本多ク、画作ヲ出セリ、筆耕ヲ業トス】〟と出ている〉
◯「文政十年丁亥日記」①184 文政十年九月六日(『馬琴日記』第一巻)
〝山下御門外筑波町筆工仙橘、合巻手見せ持参。則、書かた御教諭。水滸伝五編五・六画写本弐冊、稿本
添、松浦佐用姫・石魂録後輯稿本二之巻、わく紙添、渡シ、草々認候様被仰付〟
◯「文政十年丁亥日記」①199 文政十年十月五日(『馬琴日記』第一巻)
〝(「石魂録」の筆工仙橘)三之巻末之さし画直し出来、英泉より指上候趣、持参〟
〈この年以降、仙橘の起用が目立つようになる。もっとも天保三年五月二十七日付には〝仙吉は筆工もあしく、且、か
のもの近来不届に付、遣はし候事好しからず候へ共、格別急ぎ候はゞ、仙吉へかけ合候様、及示談〟とあり、八犬伝
の筆耕に遅れが出て、板元から仙橘を起用したい旨の打診があったので、仕方なく承知したが、馬琴の評価は否定的
になっている〉
☆ 文政十一年(1828)
◯「文政十一戊子日記」①254 正月十四日(『馬琴日記』第一巻)
〝仙橘、為年始祝義、来ル。於書斎、御逢、無程帰去〟
◯「文政十一年戊子日記」①313 五月十一日(『馬琴日記』第一巻)
〝山下町筆工仙吉来ル。泉市板金毘船(ママ)六編壱・弐の筆工出来、持参。為校合、請取おく。先達而同人
かり出し、持参の金翹伝、全部今日返却。見料先方聞糺し、追て可遣旨、談じおく〟
☆ 文政十二年(1829)
◯『馬琴書翰集成』①244 文政十二年八月六日 河内屋茂兵衛宛(第一巻・書翰番号-52)
〝画工英泉ハ類焼後、根津の縁者方へ参り居、片辺土ニて不都合の上、いろ/\俗事出来のよしニて、外
々の画も一向出来かね候。且、筆工書千吉抔は、何方ニ居候哉、今以しかとしれかね候〟
〈「類焼」とはこの年の三月二十一日の大火のことである。千吉は仙橘とも書く。英泉の口利きで馬琴の筆工に起用さ
れた〉
☆ 文化十三年(1830)
◯『馬琴書翰集成』文政十三年九月朔 河内屋茂兵衛宛(第一巻・書翰番号-62)①292
〝(『開巻驚奇俠客伝』の筆工について)中川氏の外ニ、仙橘と申筆工も有之候故、一冊づゝかゝせ可申
存、遣し候処、書やうよろしからず、用立かね候故、これハ止メ申候。板下宜しからず候てハ、ほね折
候てもよめかね、且ほり立製本の節、ざく本ニ成り候間、筆工書を第一ニえらミ候事ニ御座候。中川氏
ハ、年来拙作筆工ばかりいたし罷在候間、筆やう・かなづかひ等、のみ込居候〟
〈中川氏は筆工・中川金兵衛。仙橘は文政十年、渓斎英泉より紹介された筆工〉
☆ 天保三年(1832)
◯「天保三年壬辰日記」③111 五月廿七日(『馬琴日記』第三巻)
〝丁子や平兵衛来ル。金兵衛筆工、此度ハ延引遅滞ニ付、きびしく致催促処、四ノ下ハ外より参候品も有
之、はやくハ出来かね候よし申ニ付、仙吉ぇかゝせ申度よし、申之。仙吉ハ筆工もあしく、且、かのも
の近来不届ニ付、遣し候事好しからず候へ共、格別急ギ候ハヾ、仙吉へかけ合候様、及示談。依之、平
兵衛、今日、向嶋仙吉方へ罷越、かけ合可申よし〟
〈馬琴は筆工・中川金兵衛を信頼しているが、英泉から紹介された仙吉(仙橘)の方は気に召さないようだ。「八犬伝」
第七輯には筑波仙橘、第八輯下帙には墨田仙橘とある。筑波と墨田と称したのは仙吉の住所向嶋にちなんだものであ
ろうか〉
☆ 天保四年(1833)
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③317(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
〝(渓斎英泉門人【紫領斎】泉橘【俗称仙吉、向島、中本多ク、画作ヲ出セリ、筆耕ヲ業トス】〟
☆ 天保十五年(弘化元年・1844)
◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)
〝渓斎英泉門人 紫領斎泉橘 俗称仙吉 向島 中本多く画作あり 筆耕ヲ業トス〟
☆ 没後資料(没年未詳のため、下記『浮世絵師伝』の作画期を参考にして、以下の資料を没後とした)
◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪185(竜田舎秋錦編・慶応四年(1868)成立)
「菊川英山系譜」
〝(渓斎英泉門人)泉橘 俗称仙吉、号紫飲(ママ)斎、向島ニ住ス。中本多シ。画作アリ。筆耕ヲ業とす〟
◯『浮世絵師便覧』p241(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝泉橘(キツ) 紫飯斎と号す、俗称仙吉、英泉門人、◯天保〟
◯『浮世絵備考』梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(73/103コマ)
〝紫飯斎泉橘【天保元~十四年 1830-1843】
通称仙吉、向島に住めり、英泉の門弟にて、自画作の中本を多く出せりと云ふ、筆耕を以て業とせり〟
◯『浮世絵師伝』p113(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝泉橘
【生】 【歿】 【画系】英泉門人 【作画期】天保
俗称仙吉、紫飯斎と号す、向島に住し、小説本の挿画及び画作をなせり、また筆耕にもたづさはれり〟