別称 東花園 独酔舎 五蝶亭(五丁亭)
※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録データベース」「国書データベース」〔国文学研究資料館〕
②〔早稲田〕 :『早稲田大学所蔵合巻集覧稿』〔『近世文芸研究と評論』三五~七〇号に所収〕
④〔早大〕 :「古典籍総合データベース」早稲田大学図書館
⑤〔東大〕 :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔日本書誌学体系67・近世文学読書会編〕
⑥〔書目年表〕:『【改訂】日本小説書目年表』
〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」 〔白倉〕:『絵入春画艶本目録』
角書は省略
☆ 文化五年(1808)
◯「合巻年表」(文化五年刊)
歌川貞重画『狂訓己が津衛』画狂人北斎画 表紙は貞重画 十返舎一九作 ⑥
〈この貞重画の表紙が文化五年のものか定かではない〉
☆ 文化十二年(1815)
◯「合巻年表」(文化十二年刊)
歌川貞重画
『廿四孝花てる草帋』「歌川美丸画」絵題簽「五香亭貞重画」十返舎一九作 鶴喜板 ②
〈これもまた絵題簽が文化十二年のものかどうか分からない。後年の再版時、付け加えたような気もする〉
☆ 文政八年(1825)
◯「艶本年表」〔白倉〕(文政十一年刊)
歌川貞重画『当満能安世』色摺半紙本三冊 嬌訓亭即戯(為永春水)作
(白倉注「「精くらべ玉の汗」は改題再摺本か」)
☆ 文政十一年(1828)
◯「艶本年表」(文政十一年刊)
歌川貞重画
『開談遊仙伝』色摺 半紙本 三冊「月夜釜平画」文政十一年〔日文研・艶本〕〔白倉〕
落書庵景筆(二世烏亭焉馬)作 序「戊子青陽吉辰 江東 色◎淫士戯誌」
(白倉注「後に『開談花の雲』(安政四年・1857)と改題再摺」)〈◎は「真+真」〉
『浪花家土産』色摺 半紙本 一冊「婦喜用又平」「月夜楼釜平」文政十一年〔白倉〕
猿猴坊月成(二世烏亭焉馬)作
☆ 文政十二年(1830)
◯「艶本年表」〔白倉〕(文政十二年刊)
歌川貞重画
『雪月花艶本』色摺 半紙本 三冊「月喜代釜平 文政十二年
艶二楼好成(色山人好成こと十字亭三九)作
(白倉注「正本(歌舞伎脚本)仕立ての艶本」)
☆ 天保十年(1839)
◯「日本古典籍総合目録」(天保十年刊)
◇人情本
歌川国輝画
『縁結娯色糸』初・二編 歌川貞重(国輝)・歌川麿丸(国麿)画 松亭金水作
『閑情末摘花』初編 歌川貞重画 松亭金水作
☆ 天保十一年(1840)
◯「日本古典籍総合目録」(天保十一年刊)
◇人情本
歌川国輝画
『閑情末摘花』二・三編 歌川貞重(国輝)画 松亭金水作
『沈魚伝』 二編 歌川貞重画 松亭金水作
『梅之春』 三編 歌川貞重画 為永春水作
☆ 天保十二年(1841)
◯「絵暦年表」(本HP・Top)(天保十二年)
②「歌川貞重画」(男と女のかけ合)1-21/28〈男が大の月、女が小の月、台詞で述べる〉
(かけ合いの台詞)
②「歌川貞重画」(深川芸者・鏡台・唄本)1-24/32〈大小表示不明〉
戯文(初卯・初午等の雑節を綴る)
◯「日本古典籍総合目録」(天保十二年刊)
◇人情本
歌川国輝画
『春色伝家の花』歌川貞重画 為永春水作
『閑情末摘花』 四・五編 歌川貞重(国輝)画 松亭金水作
『縁結娯色糸』 三編 歌川貞重(国輝)・歌川麿丸(国麿)画 松亭金水作
『春宵月の梅』 二編 歌川貞重画 狂仙亭春笑作
『春色初若那』 三編 歌川貞重画 狂文亭春笑作
『梅之春』 四編 歌川貞重画 為永春水作
☆ 天保十三年(1842)
◯「日本古典籍総合目録」(天保十三年刊)
◇人情本
歌川国輝一世画
『春宵月の梅』三編 歌川貞重画 庭訓舎春泉作
『沈魚伝』 三編 歌川貞重画 松亭金水作
☆ 天保十四年(1843)
◯「日本古典籍総合目録」(天保十四年刊)
◇心学
歌川国輝一世画『教訓図会』初編 東花園貞重画 教訓亭春水編 万笈堂板〈二編は安政三年刊〉
☆ 天保年間(1830~1844)
◯「日本古典籍総合目録」(天保年間刊)
◇人情本
歌川国輝画『春色初嘉須美』初編 歌川貞重画 為永春水作
☆ 天保十五年(弘化元年・1844)
◯「合巻年表」(天保十五年刊)
歌川貞重画
『浦島仙人教訓奇談 玉手箱』歌川貞重画 為永春水作〔早大〕
『方便種教示近途』 歌川貞重画 為永春水作 丁字屋平兵衛板〔目録DB〕
(注記「天保15序、『絵入教訓ちかみち』の初版本」)
『白鼠忠義物語』(画)歌川貞重(著)曲亭馬琴 菊屋幸三郎板〔東大〕
〈備考、本書は『百物語長者万燈』(馬琴著・春亭画・岩戸屋・文化十四年刊)の改題改刻本〉
◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年序)
「一雄斎国貞系譜」〝国貞門人 貞重 独酔舎〟
◯『事々録』〔未刊随筆〕③307(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)
(「天保十五年(1844)冬記事」)
〝流行年々月々に替るはなべての世の習ひなるに、御改正より歌舞伎役者は皆編笠著、武士は長刀に合口
の風俗をよしとす。江戸錦絵は芝居役者の似顔、時の狂言に新板なるを知らしめたるが、役者傾城を禁
ぜられ、わづか美人絵のみゆるされてより、多く武者古戦の形様を専らとする中に、去年は頼光が病床、
四天王宿直、土蜘蛛霊の形は権家のもよふ、矢部等が霊にかたどるをもて厳しく絶板せられしにも、こ
りずまに此冬は天地人の三ツをわけたる天道と人道地獄の絵、又は岩戸神楽及び化物忠臣蔵等、其もよ
ふ其形様を知る者に問ば、是も又前の四天王に習へる物也、【是は其物好キにて初ははゞからず町老の
禁より隠し売るをあたへを増して(文字空白)にはしる也】〟
〈「御改正」は天保の改革。「頼光が病床~」は一勇斎国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」。「矢部」は水野忠邦の改革
に反対の立場で対抗した矢部駿河守定兼。しかし、天保十三年十二月、水野の配下・鳥居耀蔵の策謀のため町奉行を
罷免される。翌十四年三月には改易に処せられ、伊勢の桑名藩へ永のお預けとなる。同年絶食して憤死したとも伝え
られる。『事々録』の記者・大御番某の目には、国芳の「土蜘蛛」の画が「権家のもよふ、矢部等が霊にかたどる」
故に「厳しく絶版せられし」と映っていたのである。すると、頼光や四天王が水野忠邦・鳥居耀蔵等の「権家」、そ
して土蜘蛛以下の魑魅魍魎が矢部駿河守をはじめとする改革のいわば犠牲者という読みなのであろう。国芳は表向き
はそんな意図はございませんと言うに決まっているが、「土蜘蛛」の絵を天保改革の絵解きとして、捉えることが出
来るように意図的に画いていることは確かであろう。画中に確証はないが、容易にそれと連想できるように画いてい
るのである。『事々録』に従えば、土蜘蛛はおそらく矢部駿河守の怨霊を擬えているものと思われる。その矢部が改
革の圧政に虐げられた他の怨霊を従えて、水野たち「権家」を大いに悩ませているというのであろうか。
さて、今年の冬もまた昨年の「土蜘蛛」にならって「兎角ニむつかしかろと思ふ」(嘉永元年九月『藤岡屋日記 第
三巻』「右大将頼朝卿富士の牧(巻)狩之図」の記事)錦絵が出た。「天道と人道地獄の絵」は歌川貞重画の「教訓三
界図絵」。「岩戸神楽」は「国貞改二代豊国画」の署名のある「岩戸神楽乃起顕」。つまり天保十五年四月、改名し
たばかりの三代豊国画。そして「化物忠臣蔵」とは十二枚続きの一勇斎国芳画。これらは始めは憚ることなく売られ、
町老(町年寄)の差し止め(禁止)で出てからは、隠して高値で売られたようである〉
「教訓三界図絵」歌川貞重画(早稲田大学・古典籍総合データベース)
☆ 弘化二年(1845)
◯『浮世の有様』(著者不詳・弘化二年(1845)正月記)
〔『日本庶民生活史料集成』第十一巻「世相」〕p962
〝昨年江戸に於て、歌川貞重といへる者、判事物の錦絵を画きてこれを板行になして売出せしが、直に御
差留にて絶板をなりしと云、其絵の珍かなりとて、旧蝋(*昨年十二月)中瑞といへる蘭学医が方へ江戸
より贈りくれしにぞ。諸人打集ひ首をかたむけ、種々様々にこれを考れども其訳知れがたしとて、或人
予に噂せし故、其絵を借り得てこれを見るに、教訓三界図絵といへることを絵の始に書記しぬ。其図は、
三枚の紙続にて天上、人間、地獄の有様にして、先天上には日中央に座して膝の上に左右の手にて剣を
持、其左右には衆星座を列(ママ)らね、其中にも筆を口にくはへて帳面を扣へし星有り、こは定て北斗星
にて彼仏家にいへる妙見なるものなるべし。其次には青き色にて角有て、かの鬼といへる者に書なせし
恣(ママ)の者、遠眼鏡にて雲間よりして下界を見ている所の図也。其次には大成火打鉄を画き大石を縄に
て釣り下げしを、三疋の鬼形なる者共大に精力をはげましてこれを打合す姿にして、火打鉄と稲と書記
有、これ天上の眼目と思はる。其次には大成壺に水を盛り、鳥兎等寄集ひて其水を杓に汲み簾に漉しぬ
る様を画く。こは雨を降らせぬる有様也。其次に雷すつくと立、手に碇を持、口を明て下を詠めぬる有
様也。こは太鼓を取落せし姿なるべし。又其次には風神と見へて、大成袋の中へ団扇にて風をあをぎ込
みぬる姿也。されどもこれも又勢ひなし。其中段は人間界にして、桜花盛んに開き、諸人大浮れに浮れ
つゝ余念なき有様也。其風景をみるに、隅田川の景色ならんかと思はる。其下は総て地獄の有様也。始
めに地獄の釜損じ、青赤の二鬼これを鋳かけし、其側に雌鬼子を背おひ前だれかけにて何か咄しせる様
子にして、青鬼のかたへには車団扇等有て建札ありて、其札に、釜そんじ候に付当分の内相休候牛頭、
と書記ぬ。其次には閻魔大王無詮方徒然なるゆへに、眠れるやうすにて倶生神と唱へぬる番頭役の二疋
も、一は筆紙を以て立て欠伸をし、一は眠りてたはひなく、見る目嚊鼻も獄門に掛りし姿ながらにつま
らぬ顔をなしぬる姿にて、其側に鬼の青きが常張の鏡曇りしを研ける姿を画て、其次に建札有、放生会
無用と書記しぬ。其次に三途川の姿の側らに脱衣をかけて虎皮のふんどしにしきしをなせる姿(*二字
虫喰)青き鬼とつれ/\なる儘につまらぬ咄しなせるやうす也。鉄棒を引ずれる鬼の面をしかめて口を
開きしも、定て同し様の事なるべし。其側に剣山有りて建札有、じごくとが人の外登るべからずと書記
せる有て、三枚の紙続なるに一枚毎に(*長方形に「上金」の印)歌川貞重画と書記せり。たはむれに
これを判じ見るに、
天上の役の夫々の事を勤め居る中にて、稲妻の役別て血汗を流し神力を尽して大に働ける有様也。こ
は御改革につひて稲妻の如き厳令数々仰出されしが、多くは稲妻其勢ひ始めは至て烈しけれども、消
へて跡形もなくなれるが如くに、厳令も却て益なく跡戻りと成、又やめになりしなど有て、見苦しく、
聞も至ておかしくて御気の毒なりし事多かりしにぞ。後には下方にてもこれになれて、またか/\こ
れも大方跡戻りか左もなくば稲妻の如く消て形ちもなかるべしと、平気にして頓着なく、下方の者共
の居ぬること也と云有様を、花見に浮れし姿に画しものなるべし。左れども御趣意を守れる様に見せ
んとて、只男計にて女は六部一人の外にあらず。これらと教訓の文字と人々ゆだんすべからずくらひ
なる事にてちやらつかせしものなるべし。又雷も勢を大に振ひ放まま(*恣?)に鳴り廻りしか、秘
蔵せし太鼓を取落し、これも口をあひてしみだれし姿にして、碇を持て大後悔せし姿と見ゆ、こは越
州がしくじりしためなるべし。かやうのことなるゆへ、人間の少々金銀に富みぬるもの共は、又稲妻
かかみなりか何れも光りなれども跡形なし、躍れ/\おどらにやそんじやおどらぬものはあほうなり、
チヤウ/\/\などいひてたはむれ遊びぬる姿なるべし。されども中人以上は如此なれども、下賤に
して其日暮しの働きをなして妻子を養へるもの共は、雇人少くして銭もうけする事なりがたきうへに、
諸色高直なるゆへ一統に暮しかねて飢渇に及びぬる有様を、地獄に比して画たるものにして、頼光の
土蜘蛛になやまされぬる絵よりも又々少しく心を用ひしものなるべし。されども一勇斎が腹を居へて
始て其図を板行せしと同日の論に非ず。其節の御戴(ママ)許を知りて心を安んじ、かゝる事をなせしも
のなれば、遙におとりぬるものと云べし。何にもせよ恐れ入りし浮世の有様とはいふべきことならん
か。アヽ/\/\。孔丘の後世恐るべしと云ひしもかやうなることをいひ置しものならんか。アヽ/\
/\/\。(*長方形に「上金」の印)【これにも定て子細有事なるべし】〟
〝〔頭書〕子供両人ありて一人は立ゑぼしに蛇の目紋を付たるを着す。此紋は加藤清正が紋にして上方と
違ひ、江戸にてはすかざる所の紋なり。今一人の小児は兜を着し、土居のかげより首計出して多くの
人々のうかれたはむれをなし余念なくばか/\しきを、密にうかがひ居る姿也。人々ゆだんすべから
ずと云へる有様をこれにもたせしものなるべし。又唐人の姿にてたばこをすいながら、ゆう/\とあ
ゆみぬるやうすに画しは、これにも定て心有て書入しものなるべし〟
〈この貞重画の売り出しは、前項『事々録』によれば、天保十五(1844)年冬である。この時点までの政局は次のように
動いた。天保十四年閏九月十二日、老中水野越前守忠邦罷免。翌天保十五年(弘化元年)六月二十一日、水野忠邦老
中再任。同年九月六日、南町奉行鳥居甲斐守忠耀(耀蔵)罷免。この記者はこの動向を踏まえながら次のように判ず
る。
天上 雨あられの如く出された改革の厳令を稲妻に見立てて、なるほど当初は苛酷であったが、今は消えて跡形もな
いとする。
人間 花見に浮かれる市中の様子を画いて、歓迎の気分を表現している。すっかり文化文政の大御所時代に復したよ
うな気持になった者もいるのだろう。おそらく妖怪こと鳥居耀蔵罷免の報は町人を小躍りさせたに違いないの
である。しかし立て札には「人々油断すべからず」ある、なお警戒を解くわけにはいかないとする。(このあ
たり、水野の老中再任を踏まえているのかもしれない)
地獄 人間界の浮かれ気分は「少々金銀に富」んだ者たちの世界だとし、なお多くの者は「諸色高直」ゆえに暮らし
が立ちゆかず、飢渇に苦しんで、生き地獄のような有様だとする。
ところで、この記者は貞重の「教訓三界図絵」を「一勇斎が腹を居へて始て其図を板行せしと同日の論に非ず」とし、
前年天保十四年八月に出された国芳の「源頼光館土蜘作妖怪図」とは同列に論じられないとする。その理由は、貞重
画が「其節の御戴(ママ)許を知りて心を安んじ、かゝる事をなせしものなれば」という。この「其節の御戴(ママ)許(御
裁許の誤記か)」とは、町奉行鳥居耀蔵の罷免を指しているような気もするが、はっきりとは分からない。ともあれ、
国芳の腹を据えた覚悟の上の出版と、一部に浮かれ気分の漂う中での出版では比較にならないとするのである。なお
(*長方形に「上金」の印)はこの「教訓三界図絵」の板元・上州屋金蔵の印である。画像は前項『事々録』にあり
ます。2009/11/17記〉
☆ 弘化三年(1846)
◯「合巻年表」〔目録DB〕(弘化三年刊)
歌川貞重画『松鶴賀操諸声』五蝶亭貞重画 美図垣笑顔作
☆ 弘化四年(1847)(貞重から国輝へ改名)
◯「日本古典籍総合目録」(弘化四年刊)
◇人情本
歌川国輝(貞重)画『貞操婦女八賢誌』七編 歌川貞重画 為永春水二世作
◯『藤岡屋日記 第三巻』p135(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)
〝三月十八日より六十日之間、日延十日、浅草観世音開帳、参詣群集致、所々より奉納もの等多し
(奉納物のリストあり、略)
奥山見世もの
一 力持、二ヶ処在、
一 ギヤマンの船
一 三国志 長谷川勘兵衛作
一 伊勢音頭
一 朝比奈〟
「【キヤマム】細工舩」貞重改 国輝画(「RAKUGO.COM・見世物文化研究所・見世物ギャラリー」)
〈「【キヤマム】細工舩」に「貞重改国輝画」「貞重改国てる画」とある。国輝への改名は弘化四年三月以前か〉
☆ 弘化四年(1847)<四月>
筆禍「内藤新宿太宗寺」(閻魔の目抜き取りの図)貞重改国輝画
処分内容 ◎板元 七人 過料三貫文
◎競り売り三人 過料三貫文
◎小売り 六人 過料三貫文(「せり并小売致候絵双紙屋九軒」より)
処分理由 無断出版(改を受けず出版)
◯『藤岡屋日記 第三巻』p131(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)
(閻魔の目玉抜き取られる)
〝三月六日夜
四ッ谷内藤新宿浄土宗大宗寺閻魔大王の目の玉を盗賊抜取候次第
右之一件大評判ニ相成、江戸中絵双紙やへ右の一枚絵出候、其文ニ曰、
四ッ谷新宿大宗寺閻魔大王ハ運慶作也、御丈壱丈六尺、目之玉ハ八寸之水晶也、これを盗ミ取んと、
当三月六日夜、盗賊忍び入、目玉を操(ママ)抜んとせしニ、忽ち御目より光明をはなしける故ニ盗人気絶
なし、片目を操(ママ)抜持候まゝ倒レ伏たり、此者ハ親の目を抜、主人の目をぬき、剰地獄の大王の目を
ぬかんとなせしニ、目前の御罰を蒙りしを、世の人是ニこりて主親の目をぬすむ事を謹しミ玉へと、教
の端ニもなれかしとひろむるにこそ。
亦閻魔と盗人と坊主、三人拳之画出ル。
(歌詞)さても閻魔の目を取ニ、這入る人こそひよこ/\と、夜るそろ/\目抜ニ参りましよ、しや
ん/\かん/\念仏堂、坊さまニどろ坊がしかられた、玉ハ返しましよ、おいてきなせへ人の目を、
抜て閻魔の目をぬひて腰がぬけたで、きもと気がぬけ。
めを二(一)ッ二ッまなこで盗ミとリ
三ッけられたる四ッ谷新宿
五く悪で六で七(ナ)し身の八じ不知
九るしき身となり十分のつミ
右閻魔の目を操抜候一件、種々の虚説有之候、一説ニ同処質屋の通ひ番頭忰、当時勘当の身、閻魔堂
ニ入、左りの目の玉を操抜取、右之方を取んとする時、閻魔の像前ぇ倒レ候ニ付、下ニ成て動く事なら
ずして被捕し共云、亦一説ニハ、同処ニ貧窮人有之、子供二人疱瘡致し候故、閻魔ぇ願懸致し候処、子
供二人共死したり、右故ニ親父乱心致して、地蔵ハかハいゝが閻魔がにくいとて、目の玉を操抜しとぞ、
是ハ昼の事ニて、子供境内ニ遊び居しが、是を見付て寺へ知らせし故ニ、所化来りて捕しともいふなり、
亦一説ニハ、近辺のやしき中間三人ニて閻魔堂ぇ押入、二人は賽銭箱をはたき逃出し、一人は残り、目
玉を抜取し故、被捕し共いふ也。
閻魔の目を抜候錦絵一件
未ノ三月六日夜、四ッ谷新宿大宗寺閻魔の目玉を盗賊抜取候次第、大評判ニて、右之絵を色々出板致し、
名主之改も不致売出し候処、大評判ニ相成売れ候ニ付、懸り名主より手入致し、四月廿五日、同廿六日、
右板元七軒呼出し御吟味有之、同廿七ニ右絵卸候せり并小売致候絵双紙屋九軒御呼出し、御吟味有之、
五月二日、懸り名主村田佐兵衛より右之画書、颯与(察斗)有之。
南御番所御懸りニて口書ニ相成、八月十六日落着。
過料三〆文ヅヽ 板元七人
世利三人
絵草紙屋
同断 小売
但し、右之内麹町平川天神絵双紙屋京屋ニてハ、閻魔の画五枚売し計ニて三〆文の過料也。
板行彫ニて橋本町彫元ハ過料三〆文、当人過料三〆文、家主三〆文、組合三〆文、都合九〆文上ル也〟
〈国輝画の一枚絵である。画工への処罰はなかったようだ。この絵は、同時大流行中の三竦みの拳(この場合は閻魔と
盗人と坊主)と新宿太宗寺の閻魔の目抜き取り事件とを組み合わせた戯作戯画。犯人をめぐって、番頭の倅とか貧窮
人などの浮説が生じた。参考までに、「錦絵の諷刺画」の画像を下に引いておくが、『藤岡屋日記』が記録する一枚
絵の文言と下出画像の文言は同一ではない。「錦絵の諷刺画」の方は「おいてきなせへ人の目を」の「おいてきなせ
へ」まで同じだが、「人の目を」以降の文と数尽くしの狂歌がない〉
「内藤新宿太宗寺」貞重改国輝画
(ウィーン大学東アジア研究所FWFプロジェクト「錦絵の諷刺画1842-1905」)
☆ 嘉永元年(弘化五年・1848)
◯「日本古典籍総合目録」(嘉永元年刊)
◇人情本
歌川国輝画『貞操婦女八賢誌』八編 歌川貞重画 為永春水二世作
☆ 安政三年(1856)
◯「日本古典籍総合目録」(安政三年刊)
◇心学
歌川国輝一世画『教訓図会』二編 東花園貞重画 教訓亭春水編 万笈堂板〈初編は天保14年刊〉
☆ 万延元年(安政七年・1860)
◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕
貞重画「子供遊いろは組学」「貞重画」板元未詳 万延1年頃 ⑥
〈貞重は弘化四年(1847)国輝を名乗る。この万延署名の貞重との関連は不明〉
☆ 刊年未詳
◯「双六年表」〔本HP・Top〕(刊年未詳)
歌川貞重画
「おあがりなんしくるわすご六」「五丁亭貞重画」江南亭唐立作 上州屋重蔵 ② 袋「五亀亭貞房画」
「諸客遊里行双六」 「五丁亭貞重画」江南亭唐立作 板元未詳 ⑧ 〈表題なし〉
☆ 没後資料
◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪192(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
(「歌川氏系譜」の項)
「歌川豊春系譜」〝(歌川国貞門人)貞重 号独酔舎〟
◯『浮世絵師便覧』p229(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝貞重(サダシゲ) 歌川、◯一世豊国門人、◯天保〟
◯『浮世絵備考』梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(75/103コマ)
〝歌川貞重【天保元~十四年 1830-1843】歌川国貞(三世豊国)の門弟、其の伝詳ならず〟
◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)
(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
〝貞重 三世豊国門人、歌川氏、独酔舎と号す、天保〟
◯『浮世絵師伝』p73(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝貞重
【生】 【歿】 【画系】初代国貞門人 【作画期】文政~天保
歌川を称す、五蝶亭・新貞亭・独酔舎等の号あり、後ち国輝と改む。(国輝の項参照)〟
◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
「歌川系図」〝国貞(三世豊国)門人 貞重(国輝)〟
◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)
〔貞重画版本〕
作品数:16点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)
画号他:貞重・歌川貞重・五蝶亭貞重・東花園貞重・国光・一雄斎・雄斎・歌川国光・
歌川国輝・一雄斎国光・雄斎国輝
分 類:合巻6・人情本9・心学1
成立年:天保9~15年 (10点)(天保年間合計11点)
弘化1・3~4年(4点)
嘉永1年 (1点)
安政3年 (1点)