☆ 文化七年(1810)
◯『柳亭種彦日記』文化七年
◇三月廿六日 p148
〝種彦昼頃より北斎子知道子の許(モト)をとふ、(中略)
書画および三味線花の会、なにゝもあれ会となのつきたるハ、ミな法度となるよしきく、又北斎之弟子
北周名をあらためて雷周とかよぶ者、祖母孝行にて銀三枚一せう一人ふち、御ほうびにくだしおかれし
由きく、いまにはじめぬことながらありがたき御代なり、雷周住居ハしんばざいもく丁とをり松屋橋と
かいふかたハら也〟
〈北斎門人、北周、雷周と改名。住居、新場材木町通り。祖母孝行で褒美。四月朔日記事参照〉
◇四月朔日 p149
〝此頃北斎門人北周改名して雷周といふ者、祖母ぎんに孝行ゆへ、白銀三枚ぎんへ一人ぶちくださる、住
居ハ本材木町七丁目なり、此孝行之次第北斎かたよりたのミ来リ、梅塢主人とゝもにさくをなしけるが、
北斎かたよりとりにきたらず、一九がさくにて先へねがひにいでたる由、これらの故ニや〟
〈北周の雷周改名と祖母孝行で褒美を頂戴したという記事。梅塢は如実道人、荻野梅塢。喜多村筠庭の考証『瓦礫雑考』
(文化十五年(1818)刊)に序を寄せた人。その『瓦礫雑考』(『日本随筆大成』第一期二巻)の解題には「梅塢名は
長、字元亮、号は蛇山病夫とも称した。幕府天守番で、台教に精しく仏教学者として当時名を成していた」とある。
また、文政三年(1820)、平田篤胤の『仙境異聞』によれば、天狗にさらわれて仙境に遊歴したという寅吉の見聞を妄
説として退けた人でもあり、文政八年には名妓玉菊の墓誌『遊女玉菊之墳記』を残している。北斎が依頼した雷周の
孝行次第は、結局、十返舎一九の原稿が先になったようである〉
◯『街談文々集要』p181(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(「文化七年(1810)」記事「二孝御褒美」)
〝(文化七年二月)本材木町七丁目、儀右衛門店、北斎門人雷周事、俗称彦次郎、祖父六兵衛身まかりて
後、祖母きんぇ孝行を尽しぬる事、殊に親切なりければ、此度、公儀より右彦次郎へ、御褒美として銀
三枚、きんぇ生涯一日ニ米五合ヅヽ被下置候段、実に難有事なり【祖母当年七十八才ニなるよし】
此一事は当春二月の事なりしが、右行状板行ニなして都下ヲ売歩行しハ、五月十一日なり。
板元 田所町地本問屋 つるや金助〟
☆ 文化十年(1813)
◯『馬琴書翰集成』⑥323「文化十年刊作者画工番付断片」(第六巻・書翰番号-来133)
「文化十年刊作者画工番付断片」
〈書き入れによると、三馬がこの番付を入手したのは文化十年如月(二月)のこと〉
☆ 没後資料
◯『葛飾北斎伝』p327(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)
〝(北斎門人)葛飾雷周 江戸の人。姓氏詳ならず〟
◯『浮世絵師便覧』p219(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝雷周(シウ)北斎門人〟
◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(60/103コマ)
〝葛飾雷周【文化元~十四年 1804-1817】葛飾為一の門弟、其の伝詳ならず〟
◯『浮世絵師伝』p218(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝雷周
【生】 【歿】 【画系】北斎門人 【作画期】文化~文政
豊芥子著『街談文々集要』文化七年五月の條に「雷周孝行の事」と題して左の如く記せり。「本材木町
七丁目儀右衛門店北斎門人雷周事俗称彦次郎、祖父六兵衛身まかりて後祖母きんえ孝行を尽しめる事殊
に深切なりければ、此度公儀より右彦次郎へ御褒美として銀三相、きんえ生涯一日に米五合づゝ被下置
候段実に難有事なり祖母当年七十八歳になるよし」「此一事は当春(文化七年)三月の事なりしが、右
行状板行になりて都下を売歩行しは五月十一日なり、版元田所町地本問屋つるや金助」
彼の作品は、あまり世に多く遺存せざるが如し〟
◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)
◇「夷曲同好筆者小伝」p444(昭和六年九月十六日記)
〝雷周 学画葛飾北斎 本材木町七丁目彦次郎 以孝被賞事載街談文々集〟
◯『葛飾北斎伝』p327(岩波文庫本『葛飾北斎伝』1999刊、鈴木重三氏の校注)
〝(北斎門人)葛飾雷周 俗称彦五郎、本材木町七丁目、儀右衛門店住。文化-文政頃作画。他伝不詳〟