※①〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)
 ☆ 享和年間(1801~1804)
 ◯『増訂武江年表』2p26(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
  (「享和年間記事」戯作者として)
  〝京伝・馬琴・三馬・飯盛・小枝繁・感和亭鬼武、十返舎一九・振鷺亭・談洲楼焉馬・高井蘭山・山東京
   山・芍薬亭長根・柳亭種彦・梅暮里谷峨・神屋蓬州・南仙笑楚満人・東里山人・東西庵南北〟
   〈斎藤月岑は何に拠って、南北を享和年間活躍した戯作者としたのだろう。下記のように、南北の戯作は文化五年以降
    と思われる〉
 
 ☆ 文化五年(1808)
 △『戯作者撰集』p225(石塚豊芥子編・弘化初年成立)
  〝東西庵南北 文化五
   芝金杉町に住せり。(添え書き〝一書に朝倉力蔵、大和町とあり〟)原は吾妻橋手前竹町に居住し剞劂
   氏にて、朝倉藤八といへるよし、画工春扇【後春好】物語と墨川亭の話なり、文政十丁亥年没せりと言”
   〈「文化五」とは初筆の年次を意味するのであろう。『武江年表』の「享和年間記事」との整合性がとれないのだが、
    下出「日本古典籍総合目録」を参考にすると、やはり初筆年と考えてよい〉
 
 ☆ 文化九年(1809)
 ◯『鏡山化粧紅筆』東西庵南北作 歌川国丸画 丸屋文右衛門板①
  (巻末に京伝・京山の副業記事に続いて)
  〝東西庵南北 正面ばん刻字 並ニ額ぼり 狂歌俳諧摺物仕候〟
   〈彫師・朝倉力蔵の職域である〉
 ☆ 文化十二年(1815)
 ◯「合巻年表」(文化十二年刊)
   東西庵南北画『物真似草紙』「東西庵南北画・作」表紙「国直画」西宮新板 ①
 
 ☆ 文化年間(1804-1817)
 ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(文化年間刊)
  「初日出恵方双六」「東西庵南北自画」出版
 
 ☆ 文政元年(文化十五年・1818)
 ◯「合巻年表」(文政元年刊)
   東西庵南北画『辻法印当物草紙』梅山人南北(東西庵南北)画・作 板元未詳 ①
 
 ☆ 文政三年(1820)
 ◯「日本古典籍総合目録」(文政三年刊)
  ◇滑稽本 東西庵南北画『本草盲目集』東西庵南北作・画
 
 ☆ 文政七年(1824)
 ◯「日本古典籍総合目録」(文政七年刊)
  ◇滑稽本 東西庵南北画『浮世心学夜見世濫觴』東西庵南北作・画
 ☆ 刊年未詳
 ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(刊年未詳)
   南北画「当ル春新板男女一代出世大双六」「南北画」唐来三和作 和泉屋市兵衛 ②
 
 ☆ 没後資料
 △『近世物之本江戸作者部類』p50(曲亭馬琴著・天保五年成立)
  (「赤本作者部」の項)
  〝東西庵南北
   芝神明町の辺なる板木師也。実名を忘れたり。浮世画も些ばかり画くことを得たり。絶て学問はなき男
   なれども、文化中より年毎に臭草紙を作るをもて、粗名を知られたり。只抜萃なる妙作なし。多くは先
   輩の旧作を翻案して綴りたる物多かり。文政の間、落語を渡世になすもの東西庵南北と号するあり。知
   らざるものは戯作者の南北也と思ふも多かり。又三四年前の事なりき。鍛冶橋の内なる堀侯の領分【信
   濃飯田】に遊歴して東西庵南北と号せしがありけるよし、堀殿の家臣鈴木生の話也。是等は風流の賊な
   れば論ずるに足らざれども、南北すら名を盗るゝことかくのごとし。況(や)京伝馬琴の名号をぬすみを
   かし遊歴して渡世になすもの折々ありと聞えたり〟
 ◯『新増補浮世絵類考』⑪309(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
  〝東西庵南北(文化五)
   芝金杉町に住せり。原は吾妻橋手前竹町に居住せし剞劂(ハンギホリのルビ)氏にて、朝倉藤八といへるよし、
   一書に朝倉力蔵とあり。画工春扇(後春好)物語と墨川亭の話なり。文政十丁亥年歿せりと云へり〟
   〈本文は『戯作者撰集』そのままである〉
 
 ◯「集古会」第百六十四回 昭和三年(1928)一月(『集古』戊辰第二号 昭和3年2月刊)
   浅田澱橋(出品者)双六類 南北画 初日出恵方双六〟
 ◯「日本小説作家人名辞書」(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)
  ◇「東西庵南北」p794
  〝東西庵南北
   通称朝倉力蔵、のち藤八と改む。東西庵南北、葛飾偶人、六極園、梅山人南北、阡陌園等の号がある。
   本所竹町に住み、板木師を職とし、傍ら戯作を出した。又浮世絵を能くす。のち居を芝金杉に転じた。
   文政十年歿、年六十余〟
  ◇「梅山人南北」p808
  〝梅山人南北
   東西庵南北の別号。「辻法印当物草紙」(文政元年(1818)刊)の作者〟
 ◯『浮世絵師伝』p144(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
  〝南北 【生】  【歿】文政十年(1827)  【画系】  【作画期】文化
   文化初年頃に歌麿風の美人画を描く、戯作者東西庵南北と同一人なるべし。『戯作者略伝』に云ふ、
   「東西庵南北、芝金杉町に住せり、原は吾妻橋手前竹町に居住せし剞劂氏にて朝倉藤八といへるよし、
   一書に朝倉力蔵とあり、画工春扇【後春好】物語と墨川亭の話なり、文政十丁亥年歿せりと云へり」と〟
 
 ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)
  〔東西庵南北版本〕
   作品数:87点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)
   画号他:朝倉・梅山人・東西南北・梅山人南北・東西庵南北
   分 類:合巻75・滑稽本5・読本2・黄表紙1・絵本1・地図1・狂歌1
   成立年:文化5~15年     (57点)
       文政1~5・7・9~11(22点)
   〈八十七作品のうち自作自画は四点〉
  (自作自画作品)
   作品数:4点
   画号他:東西庵南北・梅山人南北
   分 類:合巻2・滑稽本2
   成立年:文化12・15年(2点)
       文政2・7年  (2点)
    合巻 『物真似草紙』    東西庵南北作・画・文化十二年(1815)刊
    合巻 『辻法印当物草紙』  梅山人南北作・画 文化十五年(1818)自序
    滑稽本『本草盲目集』    東西庵南北作・画・文政二年 (1819)刊
    滑稽本『浮世心学夜見世濫觴』東西庵南北作・画・文政七年 (1824)刊
   〈戯作の方では文化五年に三作品刊行されているが、それ以前はない。従って『戯作者撰集』の「文化五」とは初筆と
    考えられる。すると『武江年表』の「享和年間記事」は誤りであろう。なお、南北の合巻は勝川春扇(二世春好)の
    担当が三十八作品で一番多い〉