Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ もろふさ ひしかわ 菱川 師房浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕
 ☆ 元禄二年(1689)    ◯『江戸図鑑綱目』乾(石川流宣俊之編作・元禄二年(1689)刊)   〝廿五 浮世絵師       橘 町  菱川吉兵衛師宣       同 所  同 吉左衞門師房    廿六 板木下絵師       長谷川町 古山太郎兵衛師重       浅 草  石川伊左衞門俊之       通油町  杦村治兵衛正高       橘 町  菱川作之丞師永〟    〈『石川流宣画作集』吉田幸一編・近世文芸資料24・古典文庫刊。「板木下絵師」は板下絵師と同義であろう。それに     しても、現在なら浮世絵師として一括するものを、編者石川流宣はなぜ浮世絵師と板木下絵師とに分けたのであろう     か〉    ☆ 元禄三年(1690)    ◯『増補江戸惣鹿子名所大全』(藤田理兵衛著・菱川吉兵衛画・元禄三年(1690)刊)   (「諸師諸芸」の項)   〝大和絵師 村松町二丁目 菱川吉兵衛                同 吉左衞門                同 作之丞〟    〈『江戸叢書』巻の四所収の『増補江戸惣鹿子名所大全』より引用。吉左衞門が師房。著者藤田理兵衛は、貞享四年(1     687)刊の『江戸鹿子』では菱川吉兵衛(師宣)を「浮世絵師」とし、ここでは「大和絵師」と呼んでいる。なぜ書き     換えたのであろうか〉        ☆ 元禄五年(1692)    ◯『万買物調方記』(『諸国買物調方記』所収。花咲一男編・渡辺書店 昭和47年刊)   (別書名『買物調方三合集覧』元禄五年刊)   〝京ニテ  当世絵書     丸太町西洞院  古 又兵衛     四条通御たびの後  半兵衛    江戸ニテ 浮世絵師     橘町 菱川 吉兵衛        同 吉左衛門        同 太郎兵衛〟    〈京都では浮世絵師と呼ばず、当世絵書と称したようである。この又兵衛を山東京伝は浮世絵又兵衛と呼び、斎藤月岑     は当世又兵衛と呼んでいる。(本HP「浮世絵又兵衛」及び「当世又兵衛」参照)。また半兵衛の方は斎藤月岑が吉     田半兵衛かとしている。(本HP「吉田半兵衛」参照)江戸の浮世絵師では菱川吉兵衛が師宣、吉左衛門が師房、太     郎兵衛が師重〉     ☆ 元禄十年(1697)  ◯『国花万葉記』巻七下(菊本賀保著 元禄十年刊)   (新日本古典藉総合データベース画像)   〝大和絵師 菱川吉兵衛 村松丁二丁メ  菱川吉左衛門  同作之丞〟    〈三者とも村松町二丁目住か。宮武外骨はこの吉兵衛を師房、作之丞を師永、吉左衛門を「師喜ならん」とする『菱川師     宣画譜』より〉  ☆ 元禄十一年(1698)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(元禄十一年刊)    菱川師房画『津保のいし文』半紙本十巻 画工師房 松会堂板  ☆ 元禄十三年(1700)    ◯「艶本年表」(〔白倉〕『絵入春画艶本目録』)   ◇艶本(元禄十三年刊)    菱川師房画    『好色一本すゝき』墨摺 半紙本 五冊「大和絵師菱川師房」桃の林紫石(桃林堂蝶麿)作 元禄十三年     ☆ 元禄年間(1688~1703)     ◯『初期浮世草子年表』(野間光辰著・昭和五十九年(1984)刊)   ◇浮世草子   『好色もとすゝき』半紙本 五冊 著者 桃のはやし 画工 大和絵師菱川師房 印記「好色」    ◯『増訂武江年表』1p105(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「元禄年間記事」)   〝浮世絵師 橘町菱川吉兵衛、同吉左衛門、古山太郎兵衛、石川伊左衛門、杉村治兵衛、石川流宣、鳥井    (ママ)清信、菱川作之条〟〈「吉左衛門」が師房〉    ☆ 没後資料    ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱439(寛政十二年(1800)五月以前記)   〝元禄二巳年板の江戸図鑑に、浮世絵師 橘町 菱川吉左衛門師房〟    (上掲元禄二年項参照)  ◯『浮世絵類考追考』(山東京伝編・享和二年十月記・文政元年六月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
   「菱川系図」〝(師宣)実子 始吉左衛門ト称ス。鹿子及図鑑 三合集覧等ニ吉左衛門ト有リ、父師宣           ト同居、始絵師、後紺屋トナル〟   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   ◇「菱川氏系図」③281
   「菱川氏系図」(師宣門人)     〝実子 菱川吉兵衛師房【始吉左衛門ト称ス、鹿子及図鑑、三合集覧等ニ吉左衛門トアリ 父師宣ト同居、    始画師、後紺屋ヲ業トス】〟    ◇「菱川師宣」の項 ③282   〝貞享四年の板江戸鹿子に、     浮世絵師菱川吉兵衛【〔傍注〕イニ村松町二丁目】同吉左衛門〟
  〝元禄二巳年板江戸図鑑に、     浮世絵師【橘町】菱川吉兵衛師宣 【同所】同吉左衛門師房〟
 〝元禄五年板買物調方集覧【横切本一冊】     江戸浮世絵師菱川吉兵衛 同吉左衛門 同太郎兵衛    三馬曰、元禄十年板国花万葉記【七ノ下に】大和絵師 【菱川吉兵衛 同作兵衛 同吉左衛門】村松町    二丁目 如斯出たり〟    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
   「菱川師宣系譜」(師宣門人)     〝実子 菱川吉兵衛師房 始吉左衛門ト称ス 鹿子及図鑑三合集覧等ニ吉左衛門ト在 父師宣ト同居     始画師、後紺屋ヲ業トス〟    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」(朝岡興禎編・嘉永三年(1850)四月十七日起筆)   ◇「菱川氏系譜」の項 p1372   〝師房【吉兵衛、始吉左衛門、江戸鹿子、及図鑑三合集覧ニ、吉左衛門トアリ、父師宣ト同居、始画師、       後紺屋ヲ業トス】〟
   「菱川師宣系譜」     ◇p1374   〝菱川師房 師宣子    [署名]「日本絵菱川師戸(ママ)図」房字ノ欠ナルベシ〟  ◯『扶桑名画伝』写本 堀直格著 嘉永七年(1854)序   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇菱川師房([30]巻十之四 雑家 64/109コマ)   〝師房    姓詳ならず 菱川氏 名は師房 通称初吉左衛門 後吉兵衛と改む 画工を業とし 晩年に及び紺屋を    業とす 正徳頃の人なるべし    (以下『浮世絵類考追考』記事省略 上掲参照)   ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪179(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   「菱川師宣系譜」     〝(菱川師宣)実子 菱川吉兵衛師房    【始吉左衛門ト称ス。父師宣ト同居、始画師、後紺屋ヲ業トス】〟    ☆ 明治以降(1868~)  ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年(1884)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝師房    菱川氏、師宣ノ長男ナリ、名ハ師房、通称吉兵衛ト云フ。画法ヲ父師宣ニ学ンデ大和絵師トナリ、後チ    染物屋ヲ業トス〟  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年(1888)一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループを代表する絵師。◎は判読できなかった文字   (番付冒頭に「無論時代 不判優劣」とあり)   〝大日本絵師     (西川祐信)勝川春章 菱川師房  西村重長 鈴木春信  勝川春好 竹原春朝 菱川友房 古山師重     宮川春水 勝川薪水 石川豊信  窪俊満    (葛飾北斎 川枝豊信 角田国貞  歌川豊広 五渡亭国政 菱川師永 古山師政 倉橋豊国 北川歌麿     勝川春水 宮川長春 磯田湖龍斎 富川房信    (菱川師宣)〟  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(吉川重俊編集・出版 明治二十二年(1889)二月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループの左右筆頭   〝日本絵師    (葛飾北斎)西川祐信 勝川春章 菱川師房 西村重長 鈴木春信 川枝豊信  角田国貞 勝川春好     竹原春朝 歌川豊広 倉橋豊国 石川豊信 勝川薪水 古山師重 五渡亭国政 菱川師永(菱川師宣)  ◯『日本美術画家人名詳伝』下p504(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝菱川師房 師宣ノ長男、吉兵衛ト称ス、画法ヲ父ニ学ビテ大和絵ヲ能クス、後チ業ヲ染者師ニ転ズト〟    ◯『古代浮世絵買入必携』p18(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝菱川師房    本名 吉左衞門  号〔空欄〕   師匠の名〔空欄〕   年代 凡二百年前後    女絵髪の結ひ方 第三図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 丹絵、墨絵、絵本、肉筆    備考  〔空欄〕〟    ◯『浮世絵師便覧』p238(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝師房(フサ) 菱川師宣の長男、俗称吉左衛門、後に吉兵衛、始め画工、後に染工となる、◯貞享、元禄〟    ◯『読売新聞』明治30年1月23日記事)   (小林文七主催「浮世絵歴史展覧会」1月18日-2月10日)   〝浮世絵歴史展覧会(三)巨浪生の記事    第十一採花の図は師宣が長男師房の筆なり〟  ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(20/103コマ)   〝菱川師房【貞享元~四年 1684-1687】    師宣の長男、通称吉左衛門、後に吉兵衛と改む、父と同居して画師なりしが、後ち更に染工となりぬ、    男子二人ありたれども絵を能くせざりきと云ふ〟  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二(1899)年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(203/218コマ)   〝菱川師房 通称吉兵衛といふ 師宣の長男なり 父に就きて画を学び之れを能くす(扶桑画人伝)〟  ◯『浮世画人伝』p8(関根黙庵著・明治三十二年(1899)五月刊)   (「菱川師宣系譜」より)   〝師房 師宣長男、別名吉左衞門、後に吉兵衛父と同居して画を業とす、後、染物業に転ぜり〟
   「菱川師宣系譜」  ◯『菱川師宣画譜』(宮武外骨編 雅俗文庫 明治四十二年七月(1909)刊)   (『浮世絵鑑』第一巻所収・国立国会図書館デジタルコレクション)    △は他書の引用文 〔~〕は引用元    菱川師房(35/50コマ)   〝△菱川師房は師宣の子なり。画風酷だ父に似たりといへども、筆勢繊弱にして大いに劣れり、然れど    も利を得るに敏なる商人等は、之を以て師宣の作として出版したるにや、師房署名のものは極めて稀    なりとす〔板画考〕    △憶ふに菱川師宣の画系は其の門人古山師重等ありて之を紹ぎ、其の肉系の師房は技術遙かに父に劣    れるを以て、終には画を廃して染工を業とするに至れるならんか〔浮世絵派画集〕   (編者(宮武外骨)曰く)    菱川師房の絵本又は挿画本と認むべきものにて、其署名あるものは真に稀なり、編者の実見せしは永    田有翠氏の蔵本 好色一本すゝき 中本五冊 刊年不詳 の一種のみなりし(中略)    師房の筆意に相違なしと確信し断言し得べきもの八種あり     身延鑑    中本三冊 貞享二年版  福ざつ書   大本一冊  貞享四年版     光広卿道の記 中本一冊 元禄六年版  浮世絵尽   大本一冊  刊年不詳     絵本大和墨  大本三冊 元禄七年版  和国百女   大本三冊  元禄八年版     姿絵百人一首 大本三冊 元禄八年版  津保のいし文 中本十三冊 元禄十一年版    右の中『絵本大和墨』は、父師宣の遺稿又は粉本の混入せるものと見たり 東京美術学校教授大村西    崖氏が『浮世絵派画集』に、怪しき『大和絵づくし』及び右の『身延鑑』『姿絵百人一首』等をも師    宣の筆と信じて採録し、尚「和国百女に至つては既に自家一流の典型を成して、以て師宣の真面目を    流露せるを見る」と説けるに至つては、其研究の不足、鑑識の不明を惜まざるを得ず。    右の『津保のいし文』といへるは左の八種を合せたるものなり     帰雁の文 三冊  賢女貞女判 一冊  介◎の訓 一冊  貞女烈女判 二冊     慈母嘉言 二冊  似せ物の判 一冊  躾方の訓 一冊  或人の尋  二冊     〈◎は「女」+「帯?」か〉    世に本題を失せる散逸本多きを以て茲に之を附記す     和国諸職絵尽 大本四冊 貞享二年版    右は師宣の筆に成れるものなれども、師房の筆も亦幾分混ぜるが如し     薄雪物語(寛文版の大本二冊にあらず)    右半紙本元禄版と見るべき缺本上巻のみ所有せるが、確かに師宣の筆画なり     女重宝記 中本五冊 元禄五年版    右五巻の内、第三の九丁より四の終までは菱川派の画入なれども、何人の筆なるや不明、或は師房な    らんか     花葉集 中本二冊 元禄二年版    右曽て何方にてか一見せり、師房の筆に似たる挿画ありしやう記臆す     獣絵本尽 大本一冊 元禄七年版    右は師宣の署名あれども、師房が父の粉本を集めたるものと認む     好色はつむかし 五冊  好色今美人 一冊    右の二種は未だ見ずといへども、師房の筆意あるものなりと聞く 以上の外尚多かるべし〟  ☆ 昭和以降(1826~)    ◯『狂歌人名辞書』p234(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)〟   〝菱川師房、通称吉左衛門、後に吉兵衛、師宣の長男にして師永の兄、後年画筆を捨てて染工となりしと    云ふ、元緑頃〟    ◯『浮世絵師伝』p200(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝師房    【生】  【歿】  【画系】師宣の長男  【作画期】元禄    菱川氏、俗称吉左衛門、後に吉兵衛(師宣の俗称)と改む。画技を父に学び、其の後継者となりしが、    技倆父に及ぶべくもあらざりしかば、後に画筆を拾てゝ祖先に縁故深き紺屋を家業とするに至れり。    元禄初めより十年前後に亘りて、彼の挿画せしと思はるゝ好色本其他の書物若干種あり、画風穏やか    にして、稍氣力に乏しきを憾みとす。〟
    菱川派系譜  ◯「遊女長谷川」島田筑波著(「今昔」4-11 昭和八年刊・『島田筑波集』上巻・日本書誌学大系49)   (「遊女長谷川の図」菱川師房筆 長谷川賛)   〝逢毎にあまた引手のうかれ女に誠ありと思ふ人こそおかしけれ 又哀れなり    世に男程浅/\しくも我のみか思ふかもしれず    さればいにしへの仏 静なんどもやぼたらしく 唯あそばゝ遊べ西へ東へ     あちこちとしりおちつかぬ柳かな                     右越前三国遊女 長谷川〟    〈島田筑波によると、長谷川は年季明け三年前、特別百日の暇をもらい、江戸に来るよう勧めた富豪のもとに滞在、     この画像はその時成ったものという。長谷川は安永六年(1777)七月廿三日六十二歳で亡くなったというから、享保元年     (1716)生まれ。かりに年季明けを二十七歳とすると、江戸滞在当時は二十四歳、これは元文四年(1739)にあたる〉  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「元禄五年 壬申」(1692)p53   〝此年の絵入本には菱川師房の画ける『女重宝記』五冊、又『貞徳永代記』五冊〟     ◇「元禄一一年 戊寅」(1698)p58   〝二月、菱川師房の挿画と覚しき『壺の石文』十三巻出版〟     ◇「享保五年 庚子」(1720)p75   〝此頃菱川師房歿せりといふ〟    △『増訂浮世絵』p30(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝菱川師房と師宣の末流    師宣の風一世を傾倒して、菱川の流は江戸に大きな流となつたけれども、後継者に傑出したものが乏    しかつた。師宣の長子は師札と云ひ、相当の伎倆があつたけれども、父の名に被はれて、世間には大    にもてるといふ程ではなかつた。また版本も多く作つたらしいが、後世師宣の作として誤り伝へられ    たのが少くないやうである。肉筆でも無款のものは勿論、名のあつたものでも、奸商の手にかゝつて    師宣の筆とされたものも大分あらう。大家の後継者は誰でも、非常な不幸の位置に立つものである。    なほ兄弟に師永、師喜があつたが、余り上手ではなく、師房の子は遂に画家とならずに、紺屋に復業    したのである〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    作品数:2点    画号他:菱川師房    分 野:浮世草子1・艶本1    成立年:元禄13年(1点)
   『好色一もとすゝき』浮世草子 桃の林紫石作 菱川師房画 元禄十三年(1700)刊    『好色にせむらさき』艶本          菱川師房画 成立年記載なし