Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ めきち 目吉浮世絵師名一覧
〔 ? ~ 文化11年(1814)11月5日・50余歳〕
(泉守一〈もりかず〉参照)
        〈没年・享年は『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」の泉守一の項に拠った〉    ☆ 享和元~二年(1801~02)    ◯『一筆斎文調』(「早稲田大学演劇博物館所蔵 芝居絵図録1」1991年刊)    〈一筆斎文調の七回忌が六月十二日、柳橋の万八楼で行われた。その時の摺物に、当日席書に参加したと思われる絵師     たちの絵が添えられている。絵師は次の通り〉      「豊廣画・堤孫二筆・豊国画・春秀蝶・寿香亭目吉筆・画狂人北斎画・歌麿筆・雪旦・春英画」       〈この摺物には年記がない。ただ北斎が「画狂人」を名乗っていることから、ある程度推定が可能のようで、『浮世絵     大事典』の項目「一筆斎文調」は「享和元年~二年(1801~02)頃のもの」としている。それに従った。なお摺物の     本文は本HPの「一筆斎文調」か「窪俊満」の項を参照のこと)    ☆ 文化六年(1809)    ◯「朝寝坊夢羅久落話会披露之摺物」   (『落話会刷画帖』式亭三馬収集・文化十二年八月序・『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝文化六年己巳八月廿八日、開莚於柳橋大のし富八楼〟    〈夢羅久(夢楽)最初の落語会、この摺物に、春英・豊国・北馬・拙亭翠・泉目吉が絵を添えた。以下は三馬のコメント〉   〝寿香亭目吉ハ雪舟家の門人、当時本郷に住す、本名藤原守一(モリカツ)、俗称吉五郎、生質侠者也、眼する    どきゆゑ渾名して目吉と呼べり、再改吉兵衛、文化十一年甲戌秋物故〟    〈三馬のいう「当時」とは、「当時本郷に住す」と「文化十一年秋物故」とあることからすると、この画帖が仕立てら     れた文化十二年ではなくて、この落語会のあった文化六年なのであろう〉    ☆ 没後資料    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年(1817)~十五年成立)   「本郷 古人・画家」〝目吉 号寿香亭 二丁目 泉吉兵衛〟    ◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年序)
   「堤等琳系譜」(三代堤等琳の項)〝二代目堤等琳門人 目吉 別記あり〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)     ◇「文化一二年 乙亥」(1815) p187   〝十二月五日、泉目吉歿す。(目吉は守一と称せり。本郷に住せりといふも、伝記詳ならず)〟  ◯『名人忌辰録』上巻p3(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝泉目吉 守一    俗称吉兵衛、号香斎。本郷一丁目に居住す、続浮世絵類考に始め、古等琳門人、後狩野探信の門に入り、    守の字を許さると云ふ。文化十二年十二月五日歿す、無縁坂講安寺に葬る〟  ◯『浮世絵』第弐拾四(24)号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「浮世絵展覧会印象記」山下祥光(22/24コマ)   〝珍物では、春章の「相撲帖」があつた。蜀山人の書入れがあるので殊に貴(たつと)い。画は春章が最も    多く、他には春好、春山、め吉のがある。め吉は作は唯一枚であるが、従来其の名のみ伝はつて、遺作    が見当らなかつたものであるといふ〟    〈大田南畝が蜀山人を名乗るのは享和以降(1801-)であるから、この「相撲帖」はそれ以降の仕立て、収められた相撲絵     がそれ以前の作画であることは間違いないが、具体的な時期は分からない〉 。  ◯『随縁聞記』三村竹清著(『三村竹清集三』日本書誌学大系23-(3)・青裳堂・昭和57年刊)   ◇「戊寅第二」(『集古会誌』昭和十三年第二号)   〝王子稲荷社の額堂は大破甚しく屋根朽ちて大穴があいてゐるが、絵馬の中に「天保庚子春日、大雲峯写    時歳七十有六」とある極彩色の牡丹に孔雀の図や、「寿香亭泉目吉守一筆」とある源三位鵺退治の絵な    どが、所謂風餐雨触に任せてゐるのが惜むべきである〟