Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ またへい おおつ 大津 又平(又兵衛)浮世絵師名一覧
〔未詳〕
 ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 又平が下手は名物大津絵師 「続頭陀袋」宝暦中【続雑】注「大津絵の祖」   2 大津絵の心を悟る又びょうへ「四海浪」宝暦中【続雑】 注「大津又平」   3 又平と知ってたしなむ古団扇「たねふくべ」天明2【続雑】     〈1・2句は大津の又平(又兵衛)。3の又平は未詳〉   4 手習子又平程はどれも画き 「柳多留165-4」【川柳】     〈又平の腕前は寺子屋の子供ほどだと〉    ◯『増訂武江年表』2p17(斎藤月岑著・嘉永元年(1848)脱稿・同三年刊)   (「寛政十二年」)   〝抑(ソモソモのルビ)浮世絵は大津又兵衛、英一蝶、宮川長春等を始祖とし、江戸に名人多し。又天明寛政の    頃より劂人(ホリニン)刷人(スリニン)の上手出て巧を尽し、次第に美麗の物出来て、方物の第一となれり。諸国    にまねぶものあれど及ばず〟 ◯『浮世絵類考追考』(山東京伝編・享和二年(1802)十月記・文政元年六月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)          大津又平 大津絵 一称追分絵      按に、元禄三年板、東海道分間絵図に、大津、大谷辺仏画いろいろありと記す。むかしは仏画を専らか    きて、今のごとき戯画はそのかたはら也。飛州の山中に毛坊主といふあり、俗体にて常には農業木樵し、    人死すれば導師となりてこれを葬す、本尊は石地蔵、或は大津絵の十三仏なりと、本朝俗諺志に見ゆ。    余、大津画の閻魔并観音を蔵す、ともに古書なり、      大津絵の筆のはじめは何仏 はせを   今も仏画を彼地にて売れども、大津絵の画風にあらず。常の仏絵を板刻し彩色したるものなり、本朝文   鑑に、浮世又兵衛は大津絵の元祖云々、此説あまねく人口にはあれど、たしかなる証なし。ふるき浄瑠   璃、傾城反魂香と云に、土佐の末弟浮世又平重興といふもの、大津に住て絵をかきたるよしをつくれり、   これよりしてます/\虚説を伝ふ、或説に、別人に大津又平といふものありてかきはじむ、享保の頃ま   で其子孫ありしと云々。余、大津の古画、奴の鑓を把たる図を蔵す。八十八歳又平久吉とかきて花押あ   り、古雅なるものなり。彼又平が子孫の絵歟、貞享四年板好色旅日記に云、大津、追分、やつこ鑓持の   いきほひのなき絵をうるが大谷云々、鑓持の絵も、ふるきものと見ゆ。大津絵も浮世絵に類しぬ、浮世   又兵衛が事を弁ぜんが為に、是を記す。    ◯『一話一言 補遺参考編一』〔南畝〕⑯91・110(文化八年(1811)四月二日)   〈「雲茶会」出品目録〉   〝大津又牛〈ママ〉画鷹〟  〝大津又兵衛画鷹ノ絵〟    〈「雲茶会」は凡例参照。出品は反故庵。反故庵は市川白猿(五代目団十郎)の隠居名であるが、白猿は文化三年に没     している。この反故庵は白猿ゆかりの人だろうが未詳。この大津又兵衛が岩佐又兵衛をさすのかは不明である〉   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③279(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年(1833)成立)   〝大津又平【大津画、一説追分画ト云】    按るに、元禄三年の板の東海道分間絵図に、大津、大谷辺、仏画いろ/\あり、と記す、むかし仏画を    専ら書きて、今の如き戯画は、其傍飛州の山中に毛坊主と云有り、俗体にて、常には農業木樵し、人死    れば導師となりて是を葬と、本尊は、石地蔵、或は十三仏となり、と本朝俗諺志に見ゆ、予大津画の閻    魔并観音を蔵す、ともに古書也、     大津絵の筆のはじめや何仏 ばせを   今も仏画を彼地に売れども大津絵の画風にあらず、常の仏画を板刻し彩色したる物なり、本朝文鑑に曰、    浮世又兵衛は大津絵の元祖と云に、此説普く人口にはあれど、たしかなる証なし、古き浄瑠璃に、傾城    反魂香と云に、土佐の末弟浮世又平重興と云者、大津に住て画をかきたるよしをつくれり、是よりして    ます/\虚説を伝ふ、或説に、大津又平と云者ありてかきはじむ、享保の頃まで其子孫ありしと云々、    予大津の古画奴の鑓を抱きたる図を蔵す、八十八歳又平久吉、とかきて、花押あり、古雅なるものなり、    彼又平が子孫の画か、貞享四年板好色旅日記に、大津追分やつこ鑓持の勢ひのなき画をうる大谷云云、    鑓持の画もふるきものと見ゆ、大津画も浮世絵に類し、且、浮世又兵衛がことを弁へんが為に、之を記    す、 当世又兵衛【名を似せたるものなるべし】     同 半兵衛【按るに吉田半兵衛なるべし】    元禄五年板買物調方三合集覧に、京にて当世絵かく丸太町西洞院古又兵衛、とあり、是等も岩佐又兵衛    が名を似せたる物なるべし、又、是にならはせて、四条通御旅所のうしろ半兵衛、とあり、是等も、京    の浮世絵師也、【以上、浮世絵類考追考、山東庵考証、杏花園蔵書】〟    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)    (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝大津又兵衛 大津画 一説追分画ト云    按るに、元禄三年の板〈遠近道引撰菱川図〉東海道分間絵図に、大津大谷〈池川〉辺仏画いろ/\あり    と記す。むかし仏画を専ら書きて、今の如き戯画は其かたはらなり。飛州の市に毛坊主と云あり。俗    〔称〕〈体〉にて常には農業木樵し、人死れば導師となりて是を葬す。本尊は石地蔵、或は大津絵の十    三仏也と本朝俗諺志に見ゆ。余大津画の閻魔并観音を蔵す、ともに古画なり。      大津絵の筆はじめは何仏 はせを   今も仏画を彼地に売れども、大津絵の画風にあらず。常の仏画を板刻し、彩色したる類の物也。本朝文   鑑に、浮世又兵衛は大津絵の元祖と云に、此説普く人口にはあれど、たしかなる証なし。古き浄瑠璃に、   傾城反魂香(□□作□□年中)と云に、土佐の末弟浮世又平重興と云もの、大津に住て画をかきたるよ   しをつくれり、是よりしてます/\虚説を伝ふ。或説に、別に大津又平と云者ありてかきはじむ、享保   の頃まで其子孫有しと云々、予大津の古画、奴の鑓を把たる図を蔵す。八十八歳又平久吉と書て花押あ   り。古雅なるものなり。彼又平が子孫の画か、貞享四年板好色旅日記に曰、大津追分やつこ鎗持の勢ひ   なき画をうるか大谷云々、鎗持の画もふるきものと見ゆ。大津画も浮世絵に類し、且浮世又兵衛が事を   弁ぜんが為に、是を記す〟  ◯「今昔名家奇人競」(番付 快楽堂 刊年未詳)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝歌林文苑    浮世画 菱川師信(ママ)/大津絵 浮世又平〟  ☆ 明治以降(1868~)  ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年(1884)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝又平    姓氏詳ナラズ。大津ノ人ナリ、大津又平ト唱フ。岩佐又兵衛ニ対シテ、俗ニ二代目又平ト云フ。又兵衛    勝重ノ子孫ニハ非ズ。全ク別氏ナリ。又兵衛勝重ノ風ニ傚ヒテ浮世絵ヲ作リ、麁末ナル彩色ヲ用ヒ、元    禄年中ノ頃仏画ヲ画カキテ業トシ、東海道大津駅追分ノ辺ニ、戯画ヲ筆作シテ往来ノ旅人ニヒサグ。是    レ則チ大津絵ノ開祖ナリ。鬼ノ念仏・奴ノ鎗持・藤娘等ノ図アリ。旅人僻地ヘ持帰り尊信スルトキハ、    霊験アリト謂ヒテ、世上一般ニ流布セリトナン。今モ大津絵ト唱ヘ其ノ辺ニ鬻グ家アリ。又平ノ子孫モ    爰ニアルナラン。浮世絵類考ニ「享保ノ頃、大津ニ其子孫アリ」ト云々、又古画奴ノ鎗持タル図ニ八十    八歳又平久吉ト書テ花押アリ。古画ナルモノトアリ」又芭蕉翁ノ句ニ、大津絵ノ筆ノ始メハ何仏トアル    モ是ラヲ云フナルベシ。享保年中ニ没ス。明治十六年迄凡二百二年〟  ◯『古今博識一覧』番付 大坂(樋口正三朗編集・出版 明治二十四年(1891)六月)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)   〝日本画人名一覧系譜及略小伝     寛永 京都 岩佐又兵衛 (小伝不鮮明)     享保 大津 又平    (小伝不鮮明)     元禄 東京 菱川師宣  (小伝不鮮明)     享保 東京 宮川長春  (小伝不鮮明)〟    ◯『近世画史』巻二(細川潤次郎著・出版 明治二十四年(1891)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (原文は返り点のみの漢文。書き下し文は本HPのもの。(文字)は本HPの読みや意味)   〝叉平、氏名を詳らかにせず。江洲大津の人なり。因りて大津叉平と称す。人(々)、之を称して第二世又    兵衛となす者有り。然れども勝重の子孫に非ざるなり。好みて仏画を作し之を鬻ぐ。人(々)、或いは其    れ霊験有りと伝ふ。往来の旅客多く之を買ふ。所謂大津絵は此より始むと云ふ。享保年間の人なり〟  ◯『日本美術画家人名詳伝』下p343(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝又平    大津絵ノ開祖ナリ、姓氏詳ナラズ、大津ノ人、又平ト称ス、岩佐又兵衛ニ対シテ俗ニ二代目又兵衛ト呼    ブ、然レドモ、又兵衛ノ子孫ニハ非ズ、全ク別氏ナリ、又兵衛ノ風ニ傚ヒテ浮世絵ヲ作リ、粗末ノ彩色    ヲ用ユ、元禄年中仏書ヲ画クヲ業トシテ、大津追分ノ辺ニ戯画ヲ筆シテ、往来ノ旅人ニ鬻グ、是レ則チ    大津絵ノ始ナリ、鬼ノ念仏、奴ノ槍持、藤姫等ノ図アリ、旅人僻地ヘ持皈リテ尊信スル時ハ霊験アリト    謂ヒテ、世上一般ニ流布スト云フ、又平ガ奴ノ槍持ノ図ニ、八十八歳又平久吉ト書シタルモノアルヲ見    レバ、長生シタル者ト思フ(名家全書・艦艇便覧)〟  ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(20/103コマ)   〝大津又平    姓氏詳ならず、大津の人にて、世に大津又平といふ、戯画を作り麁末の彩色を施して、これを大谷の池    辺に出でゝ、往来の人にひさぐ、人これを大津絵とも追分絵ともいふ、一説に又平は土佐光信の門弟な    りと云へり、昔より岩佐又兵衛と此の大津又平とを混同して、戯曲に作りしより、種々の妄説を世に伝    へしとぞ、俳人芭蕉翁が、元禄四年の春正月四日、粟津の無名庵にて、      大津絵の筆のはじめは何仏    斯く口すさみしを思へば、古は専ら仏像を画き、その傍らに他の戯画を作りしならむと云ふ。(本伝は    『本朝画工便覧』『浮世絵類考』『近代世事談』『近世奇跡考』等に拠る)〟  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二(1899)年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(142/218コマ)   〝大津又平    大津の人なり 岩佐又兵衛に対して 世に之れを二代目又平と称す 然れども又兵衛勝重の子孫に非ず    元禄年中追分に在り 大津絵の開祖にして 仏像を描きて業となす 其の画麁末なる彩色を用ひ 往来    の人に販(ひさ)ぐ 今其の遺蹟 藤娘・奴の鎗持・鬼の念仏等あり 享保年中没せり(扶桑画人伝 浮    世絵類考)〟