◯『浮世絵師便覧』p224(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝正高(タカ) 杉村氏、俗称治兵衛、師宣門人、◯元禄〟
◯『読売新聞』明治30年(1897)1月23日記事)
(小林文七主催「浮世絵歴史展覧会」1月18日-2月10日)
〝浮世絵歴史展覧会(三)巨浪生の記事
第廿杉村正高の「結髪図」は近世女風俗考に載せたる宮川長春が伽羅止の図と意匠同じ 此彼に傚へ
るか 彼此に傚へるが 正高は師宣と同時代の人なれ共 其伝明ならず〟〈第廿は陳列番号〉
◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(21/103コマ)
〝杉村正高【元禄元~十六年 1688-1703】通称治兵衛、師宣の門弟にて、通油町に住みしと云ふ〟
◯『菱川師宣画譜』(宮武外骨編 雅俗文庫 明治四十二年七月(1909)刊)
(『浮世絵鑑』第一巻所収・国立国会図書館デジタルコレクション)
△は他書の引用文 〔~〕は引用元
杉村正高(39/50コマ)
〝△其伝詳ならず 菱川同時の人なり 俗称治兵衛 通油町に住す 江戸図鑑綱目に出たり〔浮世絵師
系伝〕
△正高 杉村氏 俗称治兵衛 菱川師宣門人 元禄〔浮世絵師便覧〕
△杉村正高は師宣門下中 元禄の作家に数へらるれど 天和年中に出版したる画本は已に師を凌げり
〔板画考〕
(編者(宮武外骨)曰く)予は未だ其画本なるものを知らず 曩日大槻如電翁より寄贈されたる『御成敗
式目絵抄』を見るに 全篇数十の挿画は 左に抜写するが如く その形小にして 充分の技量を窺ふ
に足らずと雖も 筆力の軽快なるは師房等の遠く及ばざる所と知られたり 同書は貞永式目の俗解な
るが 正高の跋に曰く
〈跋の書き下し文及び刊記は「新日本古典籍総合データベース」所収の画像に拠った〉
「一日 書肆此書を携へて来たり図賛を請ふ 予固く辞すること能はず 自ら其の図を画き 略
(ほぼ)其の意(こころ)を解釈して之に価(あた)ふ 実(まこと)に牽合(けんかふ)付会(ふくわい)
を恥づるのみ 元禄十丁丑歳正月吉祥日 絵師 杉村次兵衛
江戸橋土手蔵 書林 須藤権兵衛開板」
文学の修養も亦ありし人ならん〟
◯『浮世絵』第弐拾(20)号「浮世絵漫録(三)」(大正六年(1917)刊)
「小林文七氏の浮世絵」桑原羊次郎著〈小林文七所蔵の肉筆落款〉
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝浮世正蔵とか、吉川昌宣とか、蘚雲斎千酔とか、杉村正高とか、友清とか珍幅多し〟
〈下掲『罹災美術品目録』の「伽羅留図」を見たか〉
◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)
(国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)
◇小林亮一所蔵 杉村正高「伽羅留図」〈小林文七嗣子〉
◯『浮世絵師伝』p190(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝正高
【生】 【歿】 【画系】師宣門人 【作画期】元禄
杉村氏、俗称治兵衛、通油町に住す〟
◯『増訂浮世絵』p32(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)
〝杉村正高 この人のことは元禄二年版の江戸図鑑綱目に出て居るが、肉筆の遺作としては故小林文七氏
の伽羅留図は珍らしい。この図は曾て師宣の画く所であつたが、それを師重が写して居る。正高はそれ
と同図をまた画いたのであるが、伎倆頗る見るべきものである。元禄年間には可なりな名声を博して居
た〟