☆ 慶応四年(明治元年・1868)
◯『新増補浮世絵類考』⑪191(「竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
「歌川豊春系譜」〝(歌川国貞門人)国幸 五丁亭と号す 横川瓦師男〟
〈この五丁亭国幸と下掲の国幸とが同人とは思えないが、初代国貞(三代豊国)門人ということで並記した〉
☆ 明治二十五年(1892)
◯「読売新聞」(明治25年12月19日記事)〈原文は漢字に振り仮名付、()はその一部分〉
〝歌川派の十元祖
此程歌川派の画工が三代目豊国の建碑に付て集会せし折、同派の画工中、世に元祖と称せらるゝものを
数(かぞへ)て、碑の裏に彫まんとし、いろ/\取調べて左の十人を得たり。尤も此十人ハ強ち発明者と
いふにハあらねど、其人の世に於て盛大となりたれバ斯くハ定めしなりと云ふ
凧絵の元祖 歌川国次 猪口(ちよこ)絵 元祖 歌川国得
刺子半纏同 同 国麿 はめ絵 同 同 国清
びら絵 同 同 国幸 輸出扇面絵同 同 国久・国孝
新聞挿絵同 同 芳幾 かはり絵 同 同 芳ふじ
さがし絵同 同 国益 道具絵 同 同 国利
以上十人の内、芳幾・国利を除くの外、何れも故人をなりたるが中にも、国久・国孝両人が合同して絵
がける扇面絵の如きハ扇一面に人物五十乃至五百を列ねしものにして、頻りに欧米人の賞賛を受け、今
尚其遺物の花鳥絵行はるゝも、前者に比すれバ其出来雲泥の相違なりとて、海外の商売する者ハ太(い
た)く夫(か)の両人を尊び居れる由〟
〈この国幸が初代か二代か判然としないが、三代目豊国すなわち初代国貞の建碑とあるから、初代豊国門人の初代国幸
より、国貞門人の二代目の方が相応しいと思う〉
〝国幸 三世豊国門人、槙田氏、福井藩士〟
◯『浮世絵師伝』p59(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国幸 二代
【生】 【歿】 【画系】三代豊国門人 【作画期】嘉永~安政
歌川を称す〟