◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事)
(『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)
※(原文に句読点なし、本HPは煩雑を避けるため一字スペースで区切った。【 】は割書き
◇巻七(歌川国芳と弟子たち)p185
〝竹内久一氏曰 国芳といふ人は面白い人だつたネ ベランメイでネ 丸で豊国とは意気が合はない 例
へば書画会へ出て 人から先生一枚願ひ升(ます)なんかといやァ ワッチャー未だ先生にやァなりやせ
ん 先生ていふナアネ ソラあすこの隅に居る被布を着た人【豊国を指して】サ といふ按排だから
其弟子も同じくベランメイ計(ばか)り(中略)
前いふ通り豊国とは肌が合はないので始終暗闘を続けてゐた それは豊国と国芳の錦絵を対照すれば
能く其消息が判る。或年広重が二人の仲を直した際に、三人合作の東海道五十三次の錦絵を出した 広
重は景色には独得の伎倆があつたが 人物は凡て国芳の筆意を模してゐた〟
〈豊国・国芳・広重の合作「東海道五十三次」とは「東海道五十三對」(天保15年(1844)-弘化4年(1847)制作)。竹内久
一は歌川芳兼の実子でこの当時は東京美術学校彫刻科教授〉