☆ 明治十九年(1886)
◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十九年刊)
旭斎国輝画
『実録寛政美談中山誠忠録』挿絵・表紙 国輝 山口亀吉編集・出版 (5月)(合巻)
『実録佐倉宗吾一代記』 挿絵 梅堂国政・表紙 旭斎国輝 内田清三郎編集・出版(9月)(合巻)
☆ 明治二十年(1887)
◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十年刊)
旭斎国輝画〔村山銀次郎(松翁堂)編集・出版 20丁8銭 明治20年刊〕〈4ページ大のパノラマ口絵・挿絵入り〉
『絵本実録天一坊物語』口絵・挿絵 国輝 (2月)
『成田利生角力仇討』 口絵・挿絵 旭斎国輝(2月)〈旭斎国輝の署名は巻末〉
◯「読売新聞」(明治23年10月17日付)
〝国輝大に奮激す
真正の画伯は大画に巧みなりとは 数年以来画家社会に流行せる通語なるが 近頃パノラマ我国に輸入
してよりは 此の議論愈々(いよ/\)勢ひを加へ 浮世絵師共は大いに先輩の大画を穿鑿するよしなり
初代国輝と云ふは旧幕臣にて 本名を太田金次郎と呼び 名人二代豊国の一弟子にて 神田明神へ捧げ
たる神田祭の大額を画きて其の名世に高かりしが 不幸にして狂気したれば 師匠豊国は亀戸なる曲物
(まげもの)屋の伜山田金次郎を迎へて其の後を嗣がしめ 之を二代目国輝となしたるに 此の人また画
(ゑ)に巧みにして 浅草観音・亀戸天神へ力士の大額を捧げ 其の名先代に譲らざりしが 両人(りや
うにん)物古(ぶつこ)の後 深川霊岸町の岡田藤四郎其の後を承け三代目国輝となる 即ち現時の国輝
なり 此の人年若(としわか)なれ共 頗(すこぶ)る先代の気風を学び 嘗(かつ)て日蓮法力の図を画き
て 堀の内妙法寺へ納めしが 当時大画熱左(さ)まで激(はげし)からざりし為 敢(あへ)て其の巧拙を
言ふものなかりしも 近頃絵師の穿鑿に依りて 漸(やうや)く発見するところなりしに 其の出来先代
先々代に比して大いに劣等なり 然れども古来の絵師三代続きて 公衆の目に晒すべき大画をゑがきた
るは 此の国輝の外(ほか)またある事なしと噂さるゝ付 当代国輝は地にも入り度(た)き程耻(は)ぢ入
りて 其の后(のち)は大いに技芸を励み来たる 十二月十二日は代々の師・名人豊国の廿七回忌に相当
するを以て 此時までに一世一代の大画をゑがきて 会稽の耻辱を雪(すゝ)がんと 今より一心に準備
し〟
〈二代豊国とあるが、現在は三代豊国(初代国貞)とする。二代目国輝は明治七年没。三代目国輝襲名はそれ以降のこと〉
☆ 明治二十四年(1891)
◯「百人一首年表」(本HP・Top)(明治二十四年刊)
国輝画『絵入小倉 百人一首』口絵・挿絵 扉「国輝画」〔跡見275・521〕
喜雨閑人校訂 深松堂(鎌田在明) 明治二十四年刊
◯「読売新聞」(明治24年5月8日付)
◇上野戦争の実況
〝来る十五日は彰義隊の勇士が上野に戦死せし命日にて 幕府に縁故ある人々は心ばかりの法会を営み
画工歌川国輝は当時の実況を画がかんとて 此程其の模様併(なら)びに戦死者の位置等を調べしが 従
来の絵画に写せる所とは大いに相違する処あり ソモ此時の戦ひは朝の五ッ時より始まり 夕の八ッ時
に終り 冥濛たる雨中に火の手上りて 下谷仲町(以下 延焼町名続く 略)彰義隊の死人は三橋前六
阿弥陀前に三人(以下 場所と死者数続く 略)山王台は死人の山を築きしなど云ひ伝ふるは大いなる
誤りなりしと〟
◯『江戸絵から書物まで』(朝野蝸牛編 昭和九年(1934)刊)
(「(と)明治年間執筆画家名略」)
〝三世 国輝 陽龍斎国貞改 明治二十四年二月没〟
〈『原色浮世絵大百科事典』第二巻、三世国輝の作画期は明治28年頃までとする〉
☆ 刊年未詳
◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕(刊年未詳)
国輝画「遊芸小間物道具尽」「国輝画」版元未詳 明治 ⑥
☆ 明治二十六年(1893)
◯『浮世絵師便覧』p223(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝国輝(テル) 歌川、◯三世豊国門人、岡田氏、俗称藤四郎、錦画、◯明治〟
◯「歌川豊国翁之碑」(亀井戸天神境内 明治二十六年(1893)十一月建立)
(碑文全体と出典は本HP「浮世絵師総覧【う】」の「歌川派」明治26年の項参照)
〝(裏面 下段)
飯島光峨 中島亨斎 鬼仏一豊 一笠斎国年 三世五湖亭貞景
二世歌川国鶴 同 国松 同 国光 三世同国輝 同 国晴
二世同 国麿 守川周重 楊洲周延 梅堂国秀 梅堂国臣 梅堂酔名
幹事 野口久敬 歌川うた 同 むめ 同 国峰 梅堂国政 梅翁国利 豊原国周
三世香朝楼国貞建之〟
☆ 明治二十七年(1894)
◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十七年刊)
国輝画『佐和利集』表紙のみ 国輝 長谷川園吉 錦近堂(11月)
☆ 明治二十八年(1895)
◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十八年刊)
国輝画『呆痴陀羅経』挿絵・表紙 国輝 陳紛閑人 林甲子太郎(3月)
☆ 明治三十一年(1898)
◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(88/103コマ)
〝歌川国輝【明治元年~三十年 1868-1898】
岡田氏、通称藤四郎、一雄斎と号す、初名貞重、後に国輝と改む、三世豊国の門弟にて、多く錦絵を画
けり、明治七年十二月十五日没す、享年四十五〟〈岡田氏の国輝は三代目、没年・享年は二代目国輝のもの〉
☆ 明治四十四年(1911)
◯『増補古今書画名家一覧』番付 大阪(石塚猪男蔵編集・出版 明治四十四年十月刊)
(東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)
〝今故浮世絵各派
〔東京〕蜂須賀国明 大月年光 揚斎年貞 小林幾英 大橋象山 紅山素鳳 岡田国輝
笹川竹亭 春名幽水 駒沢百泉 松田自山 静斎年一 御代田楓皐 森川楓林〟
☆ 没後資料
◯『浮世絵師伝』p53(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝国輝 三代
【生】 【歿】
【画系】三代豊国門人(後ち国周に学ぶ)【作画期】文久~明治
歌川、後ち豊原を称す、岡田氏、俗称藤四郎、一雄斎と号す。霊岸島に住せり〟
◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
「歌川系図」〝国貞(三世豊国)門人 国輝(三世)〟
◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p87(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)
〝国輝 三代(くにてる)
岡田藤四郎、歌川のちには、豊原を称した。一雄斎と号し、二代国輝の門人、のちの国周の門に入る。
明治十、二十年代に多少の作画がある〟
◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)
収録なし