※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録データベース」「国書データベース」〔国文学研究資料館〕
④〔早大〕 :「古典籍総合データベース」早稲田大学図書館
⑤〔東大〕 :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔日本書誌学体系67・近世文学読書会編〕
⑤〔書目年表〕:『【改訂】日本小説書目年表』
〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』
『観物画譜』(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収)
別称 歌川貞重 歌川国光 一雄斎 鈘持楼
〈「鈘持楼」は嘉永5年刊『田舎織糸線狭衣』の巻末広告『吾邦気質俠銘鑑』の画工名〉
改名 弘化四年(1847) 貞重から国輝へ 安政元年(嘉永七年・1854)閏七月頃 国輝から国光へ
☆ 文化三年(1806)
◯『江戸小咄辞典』「所収書目改題」(文化三年刊)
歌川国輝画『江戸嬉笑』楽亭馬笑・福亭三笑・古今亭三鳥合作、式亭三馬評
〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」はこの国輝を初代とする。しかし下掲・井上和雄の『浮世絵師伝』に拠
れば、貞重から国輝への改名は、弘化元年、師の国貞が豊国を襲名した時とされるから、この文化期の国輝が弘化以
降の国輝とが同一人とは思えない。参考までに初代国輝に入れたが、別に「歌川国輝」として一項を設けた〉
☆ 文化五年(1808)
◯「合巻年表」(文化五年刊)
歌川貞重画『狂訓己が津衛』画狂人北斎画 表紙は貞重画 十返舎一九作 ⑥
〈この貞重画の表紙が文化五年のものか定かではない〉
☆ 文化十二年(1815)
◯「合巻年表」(文化十二年刊)
歌川貞重画
『廿四孝花てる草帋』「歌川美丸画」絵題簽「五香亭貞重画」十返舎一九作 鶴喜板 ②
〈これもまた絵題簽が文化十二年のものかどうか分からない〉
〈天保13年刊合巻『浮世又平名画誉』の式亭小三馬序に「画工貞重ぬし 稗史(ゑざうし)の始筆(ふではじめ)とて 予が拙
作を其師香蝶楼主人より託せらる」とあるから、以上の合巻表紙の作画は当時のものではなく、後年のものと思われる〉
☆ 文政八年(1825)
◯「艶本年表」〔白倉〕(文政十一年刊)
歌川貞重画『当満能安世』色摺半紙本三冊 嬌訓亭即戯(為永春水)作
(白倉注「「精くらべ玉の汗」は改題再摺本か」)
☆ 文政十一年(1828)
◯「艶本年表」(文政十一年刊)
歌川貞重画
『開談遊仙伝』色摺 半紙本 三冊「月夜釜平画」文政十一年〔日文研・艶本〕〔白倉〕
落書庵景筆(二世烏亭焉馬)作 序「戊子青陽吉辰 江東 色◎淫士戯誌」
(白倉注「後に『開談花の雲』(安政四年・1857)と改題再摺」)〈◎は「真+真」〉
『浪花家土産』色摺 半紙本 一冊「婦喜用又平」「月夜楼釜平」文政十一年〔白倉〕
猿猴坊月成(二世烏亭焉馬)作
☆ 文政十二年(1830)
◯「艶本年表」〔白倉〕(文政十二年刊)
歌川貞重画
『雪月花艶本』色摺 半紙本 三冊「月喜代釜平 文政十二年
艶二楼好成(色山人好成こと十字亭三九)作
(白倉注「正本(歌舞伎脚本)仕立ての艶本」)
☆ 天保十年(1839)
◯「日本古典籍総合目録」(天保十年刊)
◇人情本
歌川国輝画
『縁結娯色糸』初・二編 歌川貞重・歌川麿丸(国麿)画 松亭金水作
『閑情末摘花』初編 歌川貞重画 松亭金水作
☆ 天保十一年(1840)
◯「日本古典籍総合目録」(天保十一年刊)
◇人情本
歌川国輝画
『閑情末摘花』二・三編 歌川貞重画 松亭金水作
『沈魚伝』 二編 歌川貞重画 松亭金水作
『梅之春』 三編 歌川貞重画 為永春水作
☆ 天保十二年(1841)
◯「絵暦年表」(本HP・Top)(天保十二年)
②「歌川貞重画」(男と女のかけ合)1-21/28〈男が大の月、女が小の月、台詞で述べる〉
(かけ合いの台詞)
②「歌川貞重画」(深川芸者・鏡台・唄本)1-24/32〈大小表示不明〉
戯文(初卯・初午等の雑節を綴る)
◯「日本古典籍総合目録」(天保十二年刊)
◇人情本
歌川国輝画
『春色伝家の花』歌川貞重画 為永春水作
『閑情末摘花』 四・五編 歌川貞重画 松亭金水作
『縁結娯色糸』 三編 歌川貞重・歌川麿丸(国麿)画 松亭金水作
『春宵月の梅』 二編 歌川貞重画 狂仙亭春笑作
『春色初若那』 三編 歌川貞重画 狂文亭春笑作
『梅之春』 四編 歌川貞重画 為永春水作
☆ 天保十三年(1842)
◯「合巻年表」(天保十三年序)
歌川貞重画『浮世又平名画誉』「五蝶亭貞重画」式亭小三馬作 藤彦板 ④
◯『浮世又平名画誉』五蝶亭貞重画 式亭小三馬作 藤彦板 ①
見返し「浮世絵師 貞重 合巻之初筆
(式亭小三馬 天保十三年孟春序)
〝画工貞重ぬし 稗史(ゑざうし)の始筆(ふではじめ)とて 予が拙作を其師香蝶楼主人より託せらる そ
は三十余年前(さき) 彼の主人の始筆は家翁があらはせる『吃の又平名画の助刃(すけだち)』(注)とい
へる草子にて 甚だ世に行はれたる佳例あればなり(以下略)〟
(注)『吃又平名画助刃』国貞画 三馬作 文化5年刊
〈この作品が貞重の合巻初筆。これは貞重の師匠・国貞の合巻初筆が小三馬の父・三馬作の『吃又平名画助刃』であっ
たことと軌を同じくする。貞重の起用は師匠直々の指定だったとあるから、国貞は貞重の将来性を高く評価していた
ものと思われる〉
◯「日本古典籍総合目録」(天保十三年刊)
◇人情本
歌川貞重画
『春宵月の梅』三編 歌川貞重画 庭訓舎春泉作
『沈魚伝』 三編 歌川貞重画 松亭金水作
☆ 天保十四年(1843)
◯「絵本年表」〔目録DB〕(天保十四年刊)
歌川貞重画『教訓図会』初編 東花園貞重画 教訓亭春水著 青雲堂板
☆ 天保年間(1830~1844)
◯「日本古典籍総合目録」(天保年間刊)
◇人情本
歌川貞重画『春色初嘉須美』初編 歌川貞重画 為永春水作
☆ 天保十五年(弘化元年・1844)
◯「合巻年表」(天保十五年刊)
歌川貞重画
『浦島仙人教訓奇談 玉手箱』「貞重画」教訓亭春水作 藤彦板 ①
『方便種教示近途』 歌川貞重画 為永春水作 丁字屋平兵衛板 ①〈書誌より〉
(注記:天保15序。『絵入教訓ちかみち』の初版本)
『白鼠忠義物語』 「歌川貞重画」曲亭馬琴作 金幸板 ⑤
(備考:本書は『百物語長者万燈』(馬琴著・春亭画・岩戸屋・文化十四年刊)の改題改刻本)
(この年、歌川国貞(初代)、豊国を襲名(三代目、自称は二代目)。下掲、井上和雄の『浮世絵師伝』に「初名を貞重と云
ひしが、師の国貞(初代)が豊国を襲名するに及んで、彼は国輝と改む」とある)
〈国貞の豊国襲名は天保十五年春(正月)とされる〉
◯『事々録』〔未刊随筆〕③307(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)
(「天保十五年(1844)冬記事」)
〝流行年々月々に替るはなべての世の習ひなるに、御改正より歌舞伎役者は皆編笠著、武士は長刀に合口
の風俗をよしとす。江戸錦絵は芝居役者の似顔、時の狂言に新板なるを知らしめたるが、役者傾城を禁
ぜられ、わづか美人絵のみゆるされてより、多く武者古戦の形様を専らとする中に、去年は頼光が病床、
四天王宿直、土蜘蛛霊の形は権家のもよふ、矢部等が霊にかたどるをもて厳しく絶板せられしにも、こ
りずまに此冬は天地人の三ツをわけたる天道と人道地獄の絵、又は岩戸神楽及び化物忠臣蔵等、其もよ
ふ其形様を知る者に問ば、是も又前の四天王に習へる物也、【是は其物好キにて初ははゞからず町老の
禁より隠し売るをあたへを増して(文字空白)にはしる也】〟
〈「御改正」は天保の改革。「頼光が病床~」は一勇斎国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」。「矢部」は水野忠邦の改革
に反対の立場で対抗した矢部駿河守定兼。しかし、天保十三年十二月、水野の配下・鳥居耀蔵の策謀のため町奉行を
罷免される。翌十四年三月には改易に処せられ、伊勢の桑名藩へ永のお預けとなる。同年絶食して憤死したとも伝え
られる。『事々録』の記者・大御番某の目には、国芳の「土蜘蛛」の画が「権家のもよふ、矢部等が霊にかたどる」
故に「厳しく絶版せられし」と映っていたのである。すると、頼光や四天王が水野忠邦・鳥居耀蔵等の「権家」、そ
して土蜘蛛以下の魑魅魍魎が矢部駿河守をはじめとする改革のいわば犠牲者という読みなのであろう。国芳は表向き
はそんな意図はございませんと言うに決まっているが、「土蜘蛛」の絵を天保改革の絵解きとして、捉えることが出
来るように意図的に画いていることは確かであろう。画中に確証はないが、容易にそれと連想できるように画いてい
るのである。『事々録』に従えば、土蜘蛛はおそらく矢部駿河守の怨霊を擬えているものと思われる。その矢部が改
革の圧政に虐げられた他の怨霊を従えて、水野たち「権家」を大いに悩ませているというのであろうか。
さて、今年の冬もまた昨年の「土蜘蛛」にならって「兎角ニむつかしかろと思ふ」(嘉永元年九月『藤岡屋日記 第
三巻』「右大将頼朝卿富士の牧(巻)狩之図」の記事)錦絵が出た。「天道と人道地獄の絵」は歌川貞重画の「教訓三
界図絵」。「岩戸神楽」は「国貞改二代豊国画」の署名のある「岩戸神楽乃起顕」。つまり天保十五年四月、改名し
たばかりの三代豊国画。そして「化物忠臣蔵」とは十二枚続きの一勇斎国芳画。これらは始めは憚ることなく売られ、
町老(町年寄)の差し止め(禁止)で出てからは、隠して高値で売られたようである〉
「教訓三界図絵」歌川貞重画(早稲田大学・古典籍総合データベース)
◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年序)
「一雄斎国貞系譜」〝(「歌川国貞」の項、国貞門人)国輝 一雄斎〟
〈初代の国輝は国貞門人ではなく初代豊国門人なので、この項は取り消す。2023/09/03〉
☆ 弘化二年(1845)
◯「合巻年表」(弘化二年刊)
歌川貞重画『先陣武蔵鐙』表紙「歌川貞重画」一猛斎芳虎画 七曲舎和金作 ①
◯『浮世の有様』(著者不詳・弘化二年(1845)正月記)
〔『日本庶民生活史料集成』第十一巻「世相」〕p962
〝昨年江戸に於て、歌川貞重といへる者、判事物の錦絵を画きてこれを板行になして売出せしが、直に御
差留にて絶板をなりしと云、其絵の珍かなりとて、旧蝋(*昨年十二月)中瑞といへる蘭学医が方へ江戸
より贈りくれしにぞ。諸人打集ひ首をかたむけ、種々様々にこれを考れども其訳知れがたしとて、或人
予に噂せし故、其絵を借り得てこれを見るに、教訓三界図絵といへることを絵の始に書記しぬ。其図は、
三枚の紙続にて天上、人間、地獄の有様にして、先天上には日中央に座して膝の上に左右の手にて剣を
持、其左右には衆星座を列(ママ)らね、其中にも筆を口にくはへて帳面を扣へし星有り、こは定て北斗星
にて彼仏家にいへる妙見なるものなるべし。其次には青き色にて角有て、かの鬼といへる者に書なせし
恣(ママ)の者、遠眼鏡にて雲間よりして下界を見ている所の図也。其次には大成火打鉄を画き大石を縄に
て釣り下げしを、三疋の鬼形なる者共大に精力をはげましてこれを打合す姿にして、火打鉄と稲と書記
有、これ天上の眼目と思はる。其次には大成壺に水を盛り、鳥兎等寄集ひて其水を杓に汲み簾に漉しぬ
る様を画く。こは雨を降らせぬる有様也。其次に雷すつくと立、手に碇を持、口を明て下を詠めぬる有
様也。こは太鼓を取落せし姿なるべし。又其次には風神と見へて、大成袋の中へ団扇にて風をあをぎ込
みぬる姿也。されどもこれも又勢ひなし。其中段は人間界にして、桜花盛んに開き、諸人大浮れに浮れ
つゝ余念なき有様也。其風景をみるに、隅田川の景色ならんかと思はる。其下は総て地獄の有様也。始
めに地獄の釜損じ、青赤の二鬼これを鋳かけし、其側に雌鬼子を背おひ前だれかけにて何か咄しせる様
子にして、青鬼のかたへには車団扇等有て建札ありて、其札に、釜そんじ候に付当分の内相休候牛頭、
と書記ぬ。其次には閻魔大王無詮方徒然なるゆへに、眠れるやうすにて倶生神と唱へぬる番頭役の二疋
も、一は筆紙を以て立て欠伸をし、一は眠りてたはひなく、見る目嚊鼻も獄門に掛りし姿ながらにつま
らぬ顔をなしぬる姿にて、其側に鬼の青きが常張の鏡曇りしを研ける姿を画て、其次に建札有、放生会
無用と書記しぬ。其次に三途川の姿の側らに脱衣をかけて虎皮のふんどしにしきしをなせる姿(*二字
虫喰)青き鬼とつれ/\なる儘につまらぬ咄しなせるやうす也。鉄棒を引ずれる鬼の面をしかめて口を
開きしも、定て同し様の事なるべし。其側に剣山有りて建札有、じごくとが人の外登るべからずと書記
せる有て、三枚の紙続なるに一枚毎に(*長方形に「上金」の印)歌川貞重画と書記せり。たはむれに
これを判じ見るに、
天上の役の夫々の事を勤め居る中にて、稲妻の役別て血汗を流し神力を尽して大に働ける有様也。こ
は御改革につひて稲妻の如き厳令数々仰出されしが、多くは稲妻其勢ひ始めは至て烈しけれども、消
へて跡形もなくなれるが如くに、厳令も却て益なく跡戻りと成、又やめになりしなど有て、見苦しく、
聞も至ておかしくて御気の毒なりし事多かりしにぞ。後には下方にてもこれになれて、またか/\こ
れも大方跡戻りか左もなくば稲妻の如く消て形ちもなかるべしと、平気にして頓着なく、下方の者共
の居ぬること也と云有様を、花見に浮れし姿に画しものなるべし。左れども御趣意を守れる様に見せ
んとて、只男計にて女は六部一人の外にあらず。これらと教訓の文字と人々ゆだんすべからずくらひ
なる事にてちやらつかせしものなるべし。又雷も勢を大に振ひ放まま(*恣?)に鳴り廻りしか、秘
蔵せし太鼓を取落し、これも口をあひてしみだれし姿にして、碇を持て大後悔せし姿と見ゆ、こは越
州がしくじりしためなるべし。かやうのことなるゆへ、人間の少々金銀に富みぬるもの共は、又稲妻
かかみなりか何れも光りなれども跡形なし、躍れ/\おどらにやそんじやおどらぬものはあほうなり、
チヤウ/\/\などいひてたはむれ遊びぬる姿なるべし。されども中人以上は如此なれども、下賤に
して其日暮しの働きをなして妻子を養へるもの共は、雇人少くして銭もうけする事なりがたきうへに、
諸色高直なるゆへ一統に暮しかねて飢渇に及びぬる有様を、地獄に比して画たるものにして、頼光の
土蜘蛛になやまされぬる絵よりも又々少しく心を用ひしものなるべし。されども一勇斎が腹を居へて
始て其図を板行せしと同日の論に非ず。其節の御戴(ママ)許を知りて心を安んじ、かゝる事をなせしも
のなれば、遙におとりぬるものと云べし。何にもせよ恐れ入りし浮世の有様とはいふべきことならん
か。アヽ/\/\。孔丘の後世恐るべしと云ひしもかやうなることをいひ置しものならんか。アヽ/\
/\/\。(*長方形に「上金」の印)【これにも定て子細有事なるべし】〟
〝〔頭書〕子供両人ありて一人は立ゑぼしに蛇の目紋を付たるを着す。此紋は加藤清正が紋にして上方と
違ひ、江戸にてはすかざる所の紋なり。今一人の小児は兜を着し、土居のかげより首計出して多くの
人々のうかれたはむれをなし余念なくばか/\しきを、密にうかがひ居る姿也。人々ゆだんすべから
ずと云へる有様をこれにもたせしものなるべし。又唐人の姿にてたばこをすいながら、ゆう/\とあ
ゆみぬるやうすに画しは、これにも定て心有て書入しものなるべし〟
〈この貞重画の売り出しは、前項『事々録』によれば、天保十五(1844)年冬である。この時点までの政局は次のように
動いた。天保十四年閏九月十二日、老中水野越前守忠邦罷免。翌天保十五年(弘化元年)六月二十一日、水野忠邦老
中再任。同年九月六日、南町奉行鳥居甲斐守忠耀(耀蔵)罷免。この記者はこの動向を踏まえながら次のように判ず
る。
天上 雨あられの如く出された改革の厳令を稲妻に見立てて、なるほど当初は苛酷であったが、今は消えて跡形もな
いとする。
人間 花見に浮かれる市中の様子を画いて、歓迎の気分を表現している。すっかり文化文政の大御所時代に復したよ
うな気持になった者もいるのだろう。おそらく妖怪こと鳥居耀蔵罷免の報は町人を小躍りさせたに違いないの
である。しかし立て札には「人々油断すべからず」ある、なお警戒を解くわけにはいかないとする。(このあ
たり、水野の老中再任を踏まえているのかもしれない)
地獄 人間界の浮かれ気分は「少々金銀に富」んだ者たちの世界だとし、なお多くの者は「諸色高直」ゆえに暮らし
が立ちゆかず、飢渇に苦しんで、生き地獄のような有様だとする。
ところで、この記者は貞重の「教訓三界図絵」を「一勇斎が腹を居へて始て其図を板行せしと同日の論に非ず」とし、
前年天保十四年八月に出された国芳の「源頼光館土蜘作妖怪図」とは同列に論じられないとする。その理由は、貞重
画が「其節の御戴(ママ)許を知りて心を安んじ、かゝる事をなせしものなれば」という。この「其節の御戴(ママ)許(御
裁許の誤記か)」とは、町奉行鳥居耀蔵の罷免を指しているような気もするが、はっきりとは分からない。ともあれ、
国芳の腹を据えた覚悟の上の出版と、一部に浮かれ気分の漂う中での出版では比較にならないとするのである。なお
(*長方形に「上金」の印)はこの「教訓三界図絵」の板元・上州屋金蔵の印である。画像は前項『事々録』にあり
ます。2009/11/17記〉
☆ 弘化三年(1846)
◯「合巻年表」(弘化三年刊)
歌川貞重画『松鶴賀操諸声』「五蝶亭貞重画」美図垣笑顔作 藤彦板 ①
☆ 弘化四年(1847)(貞重から国輝へ改名)
◯「日本古典籍総合目録」(弘化四年刊)
◇人情本
歌川貞重画『貞操婦女八賢誌』七編 歌川貞重画 為永春水二世作
<三月 見世物 ギヤマン細工(長谷川冨五郎)浅草奧山>
◯『観物画譜』60(朝倉無声収集見世物画譜)
「ギヤマム細工船 細工人 竹岩 人形細工人 政信 口上(文字不明)」錦絵二枚続
署名「国輝画」藤岡屋慶次郎板
◯『藤岡屋日記 第三巻』p135(藤岡屋由蔵・弘化四年記)
〝三月十八日より六十日之間、日延十日、浅草観世音開帳、参詣群集致、所々より奉納もの等多し
(奉納物のリストあり、略)
奥山見世もの
一 力持、二ヶ処在、
一 ギヤマンの船
一 三国志 長谷川勘兵衛作
一 伊勢音頭
一 朝比奈〟
「【キヤマム】細工舩」 貞重改 国輝画(「RAKUGO.COM・見世物文化研究所・見世物ギャラリー」)
〈「【キヤマム】細工舩」に「貞重改国輝画」「貞重改国てる画」とある。貞重から国輝への改名は弘化四年三月以前〉
◯『藤岡屋日記 第三巻』③131(藤岡屋由蔵・弘化四年記)
(閻魔の目玉抜き取られる)
〝三月六日夜
四ッ谷内藤新宿浄土宗大宗寺閻魔大王の目の玉を盗賊抜取候次第
右之一件大評判ニ相成、江戸中絵双紙やへ右の一枚絵出候、其文ニ曰、
四ッ谷新宿大宗寺閻魔大王ハ運慶作也、御丈壱丈六尺、目之玉ハ八寸之水晶也、これを盗ミ取んと、
当三月六日夜、盗賊忍び入、目玉を操(ママ)抜んとせしニ、忽ち御目より光明をはなしける故ニ盗人気絶
なし、片目を操(ママ)抜持候まゝ倒レ伏たり、此者ハ親の目を抜、主人の目をぬき、剰地獄の大王の目を
ぬかんとなせしニ、目前の御罰を蒙りしを、世の人是ニこりて主親の目をぬすむ事を謹しミ玉へと、教
の端ニもなれかしとひろむるにこそ。
亦閻魔と盗人と坊主、三人拳之画出ル。
(歌詞)さても閻魔の目を取ニ、這入る人こそひよこ/\と、夜るそろ/\目抜ニ参りましよ、しや
ん/\かん/\念仏堂、坊さまニどろ坊がしかられた、玉ハ返しましよ、おいてきなせへ人の目を、
抜て閻魔の目をぬひて腰がぬけたで、きもと気がぬけ。
めを二(一)ッ二ッまなこで盗ミとリ
三ッけられたる四ッ谷新宿
五く悪で六で七(ナ)し身の八じ不知
九るしき身となり十分のつミ
右閻魔の目を操抜候一件、種々の虚説有之候、一説ニ同処質屋の通ひ番頭忰、当時勘当の身、閻魔堂
ニ入、左りの目の玉を操抜取、右之方を取んとする時、閻魔の像前ぇ倒レ候ニ付、下ニ成て動く事なら
ずして被捕し共云、亦一説ニハ、同処ニ貧窮人有之、子供二人疱瘡致し候故、閻魔ぇ願懸致し候処、子
供二人共死したり、右故ニ親父乱心致して、地蔵ハかハいゝが閻魔がにくいとて、目の玉を操抜しとぞ、
是ハ昼の事ニて、子供境内ニ遊び居しが、是を見付て寺へ知らせし故ニ、所化来りて捕しともいふなり、
亦一説ニハ、近辺のやしき中間三人ニて閻魔堂ぇ押入、二人は賽銭箱をはたき逃出し、一人は残り、目
玉を抜取し故、被捕し共いふ也。
閻魔の目を抜候錦絵一件
未ノ三月六日夜、四ッ谷新宿大宗寺閻魔の目玉を盗賊抜取候次第、大評判ニて、右之絵を色々出板致し、
名主之改も不致売出し候処、大評判ニ相成売れ候ニ付、懸り名主より手入致し、四月廿五日、同廿六日、
右板元七軒呼出し御吟味有之、同廿七ニ右絵卸候せり并小売致候絵双紙屋九軒御呼出し、御吟味有之、
五月二日、懸り名主村田佐兵衛より右之画書、颯与(察斗)有之。
南御番所御懸りニて口書ニ相成、八月十六日落着。
過料三〆文ヅヽ 板元七人
世利三人
絵草紙屋
同断 小売
但し、右之内麹町平川天神絵双紙屋京屋ニてハ、閻魔の画五枚売し計ニて三〆文の過料也。
板行彫ニて橋本町彫元ハ過料三〆文、当人過料三〆文、家主三〆文、組合三〆文、都合九〆文上ル也〟
〈国輝画の一枚絵である。画工への処罰はなかったようだ。下出「錦絵の諷刺画」の署名は「貞重改国輝」とある。貞
重から国輝への改名は弘化四年か。この絵は、同時大流行中の三竦みの拳(この場合は閻魔と盗人と坊主)と新宿太
宗寺の閻魔の目抜き取り事件とを組み合わせた戯作戯画。犯人をめぐって、番頭の倅とか貧窮人などの浮説が生じた〉
「内藤新宿太宗寺」貞重改国輝画
(ウィーン大学東アジア研究所FWFプロジェクト「錦絵の諷刺画1842-1905」)
○ 四月 筆禍「内藤新宿太宗寺」(閻魔の目抜き取りの図)貞重改国輝画
処分内容 ◎板元 七人 過料三貫文
◎競り売り三人 過料三貫文
◎小売り 六人 過料三貫文(「せり并小売致候絵双紙屋九軒」より)
処分理由 無断出版(改を受けず出版)
☆ 弘化四年~嘉永五年(1843-52)
◯「双六年表」〔本HP・Top〕
歌川国輝画
「江都花姿見双六」 「一雄斎国輝画」 和泉屋市兵衛 改印「福・村松」①②⑪
「女今川教訓双六」 「一雄斎歌川国輝画」佐野屋喜兵衛 改印「福・村松」⑨② 楽亭主人撰
〈解説は天保末とするが、改印から名主二印時代とみた〉
「奥勤音曲双六」 「一雄斎国輝画」 山田屋庄兵衛 改印「福・村松」①⑤ 万亭応賀作
「其紫湖月双六」 「一雄斎国輝画」 和泉屋市兵衛 改印「福・村松」⑤⑩②⑪
「倭文庫双六」前編 「一雄斎国輝画」 上州屋重蔵 改印「馬込・濱」①⑤⑩
「原本 万亭応賀作/一陽斎豊国画」
「仮名手本誠忠寿古六」「一雄斎国輝画」 和泉屋市兵衛 (名主二印)②⑦
「倭風俗太子双六」 「一雄斎国輝画」 恵比寿屋庄七 (名主二印)②
袋「表題 豊国画」
「悉達太子倭双六」 「一雄斎国輝画」 万屋吉兵衛 (名主二印)②
☆ 嘉永元年(1848)頃
△『旧聞日本橋』p367(長谷川時雨著・昭和四~七年(1929~1852)刊)
(著者・長谷川時雨の父・長谷川深造(天保十三年(1842)生)、六七歳(弘化四年~嘉永元年)の少年時
代を回想して)
〝歌川輝国は、宅(ウチ)のすぐ前にいたのさ。うまや新道--油町と小伝馬町の両方の裏通り、馬屋新道
とは、小伝馬町の牢屋から、引廻しの出るときの御用を勤めるという、特別の役をもっている荷馬の宿
があったから--の小伝馬町側に住んでいた。くさ双紙の、合巻かきでは、江戸で第一の人だったけれ
ど、貧乏も貧乏で、しまいは肺病で死んだ。やっぱり七歳ぐらいから絵をおしえてくれた。その時分三
十五、六でだったろう。豊国の弟子だったから、豊国の画いたものや、古い絵だの古本だの沢山あった。
種彦がよこした下絵の草稿もどっさりあった。私は二六時中(シジユウ)見ていても子供だからそんなに大
切にしなかったし、おかみさんのおもよというのは、竈河岸(ヘツツイガシ)の竈屋の娘で、おしゃべりでし
ようのなかった女だから、輝国が死んでから、そういうものはどうなってしまったかわからなかった。
住居(スマイ)は入口が格子で、すこしばかり土間があって、二間に台所だけ、家賃は(今の金)で三十銭
位だとおぼえている。それでもお酒は大好きで、たべものはてんやものばかりとっていた。貧乏でもそ
ういうところは驕っていた。芝の泉市だの、若狭屋だのという絵双紙屋から頼みにきても、容易なこっ
ては描いてやらなかった。その時分、定さんという人がよく傭われてきたものだ。輝国が絵--人物や
背景を描くと、その人は、軒だの窓だとか、縁側だとか、襖とかいったものの、模様や線をひきにくる。
腕はその当時いい男だといわれていたのに、弁当も自分持ちで、定木も筆も持参で来て、ひどい机だけ
かりて仕事をして、それで一日がたった天保銭一枚(当時の百文・明治廿年代まで八厘)。今の人がき
くと嘘のようだろう〟
〈この輝国名は『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」にも、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」にも
見当たらないが、豊国の弟子といい種彦の下絵の草稿があったということからすると、あるいは、回想者・長谷川深
造は三代目豊国(歌川国貞)門人国輝を誤って輝国と記しているのではないか。「日本古典籍総合目録」によると、
柳亭種彦が亡くなったのち、二世種彦を自称した笠亭仙果の合巻を、国輝は十点作画している。したがって、この二
世種彦の下絵草稿が国輝の許にあったのは不自然ではない。またこの当時三十五、六歳とあるから、この国輝は天保
元年(1830)生まれの二代目ではなく、初代国輝である〉
〈この記事の原稿にあたる『読売新聞』(大正4年7月7日記事)では「輝国」のところが「国輝」となっているから、や
はり誤植であった。本HP Top・特集の「新聞記事(大正)」の項参照。2023/01/22〉
◯「日本古典籍総合目録」(嘉永元年刊)
◇人情本
歌川国輝画『貞操婦女八賢誌』八編 歌川貞重画 為永春水二世作
☆ 嘉永二年(1849)
◯「合巻年表」(嘉永二年刊)
歌川国輝画
『実入秋花野苅萱』初-三編「一雄斎国輝画」柳下亭種員作 藤慶板 ①
『引書語三姓太夫』初・二編「歌川国輝画」 楽亭西馬作 小林泰治郎・恵比庄板 ⑤①
『長命願延寿嚢』 「歌川国輝画〔貞重〕印」楽亭西馬作 山崎屋清七板 ⑤
(備考「本書の本文画工は歌川国輝であるが、上冊摺付表紙には「静斎英一画」の記載がある。表紙のみは
清斎英一によって描かれたものの、刊行が遅れたことと英一は英泉の門人で嘉永元年に没(三十一歳)し
たことから、急遽、本文画工が歌川国輝に代わったか」)
『柳風花白波』 初・二編「歌川国輝画」笠亭仙果作 泉市板 ①
『心学命洗濯』 「歌川国輝画〔貞重〕印」楽亭西馬作 嶋村利助(暦口堂)板 ④
◯「【俳優画師】高名競」嘉永二年刊(『浮世絵』第十八号 大正五年(1916)十一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション画像)(21/26コマ)
(番付西方)三段目
〝合巻 桶蝶楼貞房 武者 一雄斎国輝 彩色 一松斎芳宗 武者 一声斎芳鶴
女画 歌川国政 武者 一渡斎芳綱 同左 一寿斎芳員 同左 一鵬斎芳藤〟
〈本HP「浮世絵事典」【う】「浮世絵師番付」嘉永二年の項参照〉
☆ 嘉永三年(1850)
◯「合巻年表」(嘉永三年刊)
歌川国輝画
『侠客伝仦模略説』初編下「一雄斎国輝画」上「一陽斎豊国画」楽亭西馬作 蔦吉板 ⑤
二・三編「一雄斎国輝画」
『新靭田舎物語』 三編「一雄斎国輝画」十返舎一九(三世) 蔦吉板 ⑤
『岸柳四魔談』 初編「一雄斎国輝画」楽亭西馬作 山口板 ⑤
二・三編「一雄斎国輝画」楽亭西馬作 山口板 ⑤
〈国輝が師匠の三代目豊国から本文挿絵の仕事を譲り受けたのは、この年の『侠客伝仦模略説』初編下冊が初めてか〉
◯「【高名時花】三幅対」(番付・嘉永三年五月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)
(上から六段目(最下段)東筆頭から四番目)
〝浮絵 タツ丁 一雄斎国輝 ・看板 サルワカ 山本重五郎 ・行燈 フカガワ 箕田北鵞〟
〈国輝は初代の国輝と思われるが、「浮絵」と「タツ丁」のがよく分からない。猿若町の山本重五郎は番付等の板元か。
深川住の三田北鵞は行燈にも絵を画いたようである〉
☆ 嘉永三年~嘉永六年正月(1850-53)
◯書画会画帖(会名・会主 題名不明)「一雄斎国輝画」「芸者絵?」(嘉永三年三月頃~嘉永六年正月)
豊国三代 国輝初代 貞年画(Mr.Guy Pepermans(ギ ペペレマンセ氏)提供)
☆ 嘉永四年(1851)
◯「合巻年表」(嘉永四年刊)
歌川国輝画
『島巡浪間朝比奈』初・二編「一雄斎国輝画」柳下亭種員訳 蔦吉板 ⑤
『関太郎鈴鹿古語』初・二編「一雄斎国輝画」楽亭西馬作 佐野喜板 ⑤
『十勇士尼子柱礎』 初編「一雄斎国輝画」柳下亭種員作 恵比庄板 ⑤
『弓張月春廼霄栄』初-四編「一雄斎国輝画」楽亭西馬作 若与板 ①〈4編上、4編下は嘉永5年刊〉
『侠客伝仦模略説』四・五編「一雄斎国輝画」楽亭西馬作 蔦吉板 ⑤
『浅間嶽面影草紙』 二編 歌川国輝画 柳下亭種員作 板元未詳 ①(注記「日本小説年表による」)
『新靭田舎物語』 四・五編「一雄斎国輝画」十返舎一九作 蔦吉板 ⑤
『御贄美少年始』 四・五編「一雄斎国輝画」十返舎一九作 蔦吉板 ⑤
『大晦日曙草紙』 十六編「一雄斎国輝画」山東庵京山作 蔦吉板 ⑤
『児雷也豪傑譚』 十六編「国輝画」 柳下亭種員作 泉市板 ⑤
『咲替蕣日記』 四・五編「一雄斎国輝画」墨川亭雪麿作 恵比庄板 ⑤
『春柳錦花皿』 初・二編「歌川国輝画」 十返舎一九作 蔦吉板 ①
『岸柳四魔談』 二編「歌川国輝画」 楽亭西馬作 山口板 ⑤
『詞花萱草紙』 初編 歌川国輝画 墨川亭雪麿作 板元未詳 ①〈書誌による〉
『竹取物語』 十三-十四編「歌川国輝画」 京山老人作 森治板 ⑤
◯「日本古典籍総合目録」(嘉永四年刊)
◇合巻
歌川国輝画『油屋お染』歌川国輝画 笠亭仙果作 蔦屋吉蔵板 前編嘉永四 後編五自序
☆ 嘉永五年(1852)(改印:名主二印・子月)
◯「絵本年表」〔漆山年表〕(嘉永五年刊)
歌川国輝画
『畸人百人一首』一冊 緑亭川柳編 緑亭川柳編
葛飾為斎 一勇斎国芳 玉蘭斎貞秀 山口屋藤兵衛板 一雄斎国輝 一猛斎芳虎 一陽斎豊国
◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永五年刊)
歌川国輝画『畸人百人一首』口絵・肖像〔目録DB 同志社〕〔国会〕〔跡見107〕
見返し「嘉永五年新鐫 緑亭川柳著 諸名画集筆 東都書肆錦耕堂寿梓」
奥付「口画 葛飾為斎 肖像 一勇斎国芳 玉蘭斎貞秀 一雄斎国輝 一猛斎芳乕 一陽斎豊国」
錦耕堂山口屋藤兵衛板 嘉永五年刊
◯「合巻年表」(嘉永五年刊)
歌川国輝画
『仮名反古一休草紙』初・二編「一雄斎国輝画」袋「国輝画」柳下亭種員作 泉市板 ⑤
『侠客伝仦模略説』 六・七編「一雄斎国輝画」楽亭西馬作 蔦吉板 ⑤
『島巡浪間朝比奈』 三・四編「一雄斎国輝画」柳下亭種員作 蔦吉板 ⑤
『雨夜鐘四谷雑談』 初・二編「一雄斎国輝画」柳下亭種員作 恵比庄板 ①
『吾邦気質俠銘鑑』 初・二編 一雄斎国輝画 楽亭西馬作 板元未詳 ①(注記「日本小説年表による」)
『二重染菊花鴈金』 初・二編 一雄斎国輝画 柳下亭種員作 板元未詳 ①(注記「日本小説年表による」)
『十勇士尼子柱礎』 二編「一雄斎国輝画」柳下亭種員作 恵比庄板 ⑤
『関太郎鈴鹿古語』 三編「一雄斎国輝画」楽亭西馬作 佐野喜板 ⑤
『弓張月春廼霄栄』 四編「一雄斎国輝画」楽亭西馬作 若与板 ①
『引書語三姓太夫』 四編「一雄斎国輝画」袋「一雄斎画」楽亭西馬作 恵比庄板 ⑤
『児雷也豪傑譚』十八-二十編「国輝画」 種員作 泉市板 ⑤
『御贄美少年始』 六・七編「一雄斎国輝画」十返舎一九作 蔦吉板 ⑤
『新靭田舎物語』 六編「一雄斎国輝画」十返舎一九作 蔦吉板 ⑤
『今業平昔面影』 四編「一雄斎国輝画」笠亭仙果作 泉市板 ⑤
(備考「本書初~三編の画工は芳虎、四編は国輝に代わっている」)
『蜀紅錦七宝績』 初編 歌川国輝画 桃栗山人作 板元未詳 ①(注記「日本小説年表による」)
『春柳錦花皿』 三・四編「一雄斎国輝画」十返舎一九作 蔦吉板 ①
『桜姫粧春雨』 初・二編「一雄斎国輝画」楽亭西馬作 山本板 ①
『琴声美人録』 七編「国輝画」 京山老人作 佐野喜板 ⑤
『咲替蕣日記』 六編「一雄斎国輝画」墨川亭雪麿作 恵比庄板 ⑤
『岸柳四魔談』 三編「一雄斎国輝画」楽亭西馬作 山口板 ⑤
『竹雀千代哢』 初編 一雄際国輝画 楽亭西馬作 恵比庄板 ①〈書誌による〉
『木下闇緑林』 「一雄斎国輝画」十返舎一九作 浜田屋徳兵衛板 ①
『其磧正本』 初・二編 一雄斎国輝画 楽亭西馬作 板元未詳 ①(注記「日本小説年表による」)
『弘誓船橋』 初・二編 一雄斎国輝画 楽亭西馬作 板元未詳 ①(注記「日本小説年表による」)
『楽浪譚』 初編 一雄斎国輝画 玉塵園雪住作 濃安板 ①
〈昨年まで三代目豊国が本文挿絵を担当していた作品は『琴声美人録』。『児雷也豪傑譚』は昨年の十六編以降、豊
国から国輝に代わっている。そして、この年の合巻の挿絵担当作品数は三代目豊国を上回る〉
◯「日本古典籍総合目録」(嘉永五年刊)
◇合巻
歌川国輝画
『油屋お染』歌川国輝画 笠亭仙果作 藤岡屋慶次郎板 前編嘉永四 後編五自序
◯「双六年表」〔本HP・Top〕(嘉永五年刊)
一雄斎国輝画
「児雷也豪傑双六」「一雄斎国輝画」和泉屋市兵衛 改印「村田・衣笠・子八」①②⑤⑩ 柳下亭種員撰案
☆ 嘉永六年(1853)(改印:名主二印・丑月)
◯「合巻年表」(嘉永六年刊)
歌川国輝画
『仮名反古一休草紙』三・四編「一雄斎国輝画」袋「国輝画」柳下亭種員作 泉市板 ⑤
『比翼仕立二人権八』 三編「一雄斎国輝画」表紙「豊国画」笠亭仙果作 恵比庄板 ①
『星月夜窓下白梅』 初・二編 一雄斎国輝画 翠松種春作 板元未詳 ①(注記「日本小説年表による」)
『花蓑笠梅稚物語』 初・二編「一雄斎国輝画」楽亭西馬作 蔦吉板 ⑤
『龍王太郎英雄譚』 十一編「一雄斎国輝画」国綱補助 式亭小三馬作 藤慶板 ⑤
(備考「十一編より、外題画は豊国が描くが、本文画は国輝に譲っている」)
『侠客伝仦模略説』 八編「一雄斎国輝画」西馬訳 蔦吉板 ⑤
『関太郎鈴鹿古語』 四編「一雄斎国輝画」楽亭西馬作 佐野喜板 ⑤
『島巡浪間朝日奈』 五編「一雄斎国輝画」柳下亭種員作 蔦吉板 ⑤
『女郎花五色石台』 五編「一雄斎国輝画」柳下亭種員作 泉市板 ⑤
(備考「四編までの画工は歌川豊国」)
『児雷也豪傑譚』二十一-三編「一雄斎国輝画」柳下亭種員作 泉市板 ⑤
二十二編「いちゆう斎くに輝画」りうか亭たね員作
『春霞五色彩』 初・二編 一雄斎国輝画 柳煙亭種久作 板元未詳 ①(注記「日本小説年表による」)
『琴声美人録』 八・九編「歌川国輝画」 京山老人作 佐野喜板 ⑤
『(図)商(マサルアキナイ)』 十五編「国輝画」式亭小三馬作(景品)⑤
(備考、本書は式亭三馬店が薬品・化粧品の五月売り出しの景品として作った配り本の由)
『浮世文庫』 一雄斎国輝画 柳昇亭種蒔 柳雨亭種安作 板元未詳①(注記「日本小説年表による」)
〈この年、三代目豊国から本文挿絵の担当を譲られたのは『龍王太郎英雄譚』と『女郎花五色石台』〉
◯「双六年表」〔本HP・Top〕(嘉永六年刊)
「三馬(まさる)繁栄双六」「国輝画」式亭三馬店 改印「福・村松・丑十」⑨
◯『筆禍史』「当代全盛高名附」(嘉永六年・1853)p160(宮武外骨著・明治四十四年刊)
〝吉原細見に擬して、当時名高き江戸市内の儒者和学者俳諧師狂歌師等をはじめ諸芸人に至るまで数百人
名を列配し、其名の上に娼妓の如き位印を附けたる一小冊なり、末尾に「嘉永六年癸丑之義、玉屋面四
郎蔵板」とあり
これは吉原の細見に擬して、嘉永六年に出版した『当代全盛高名附』の一葉を原版のまゝ模刻したので
ある、曲亭馬琴、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦、初代歌川豊国、葛飾北斎、渓斎英泉等の如き大家没
後の文壇が、如何に寂寞たりしかを知るに足るであろう。
因みにいふ、右『当代全盛高名附』の作者及び版元は、吉原細見の版元より故障を申込まれ「細見株を
持てる我々に無断で、細見まがひの書冊を出版するとは、不埒至極である」との厳談を受け、結局あや
まり証文を入れて、書冊は絶版とする事で、漸く示談が附いたとの伝説がある、今日は他人の出版物に
擬した滑稽的の著作は勿論、其正真物に似せたイカサマ物を出版しても、咎められない事になつて居る
が、旧幕時代には右の伝説の如き事実があつたらしい(此花)
【吾妻】錦 浮世屋画工部
(上段)
豊国 にかほ 国芳 むしや 広重 めいしよ 清満 かんばん 春亭 花てふ
貞秀 かふくわん 国輝 むしや 芳虎
(中段)
国貞 やくしや 国盛 をんな 国綱 芳宗 芳艶 清亢 芳藤 芳玉 直政
(下段)
国麿 清重 芳員 芳雪 広近 春徳 春草 房種 芳豊
かむろ
やく者 にがを むしや めい処 けしき をんな 草そうし うちわゑ かわりゑ
すごろく かんばん
やりて
◎◎〟
〈「日本古典籍総合目録」はこの『当代全盛高名附』の統一書名を『江戸細撰記』としている。〉
「当代全盛高名附」「浮世屋画工郎」〈早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」〉
☆ 刊年未詳(安政元年以前)
◯「双六年表」〔本HP・Top〕(刊年未詳)
一雄斎国輝画
「冨士登山振分双六」「一雄斎国輝画?」板元未詳 ⑧
「奥勤音曲双六 」「一雄斎国輝画」 板元未詳 ⑧ 万亭応賀作
「寿出世双六」 「国輝画」 栄久堂版 ⑧
☆ 安政元年(嘉永七年・1854)寅(閏七月頃国輝から国光へと改名)〈「合巻年表」安政二年参照〉
◯「合巻年表」(安政元年刊)
歌川国輝画
『仮名反古一休草紙』五・六編「一雄斎国輝画」袋「国輝画」柳下亭種員作 泉市板 ⑤
『比翼仕立二人權八』 三編 一雄斎国輝画 笠亭仙果作 恵比庄板 ①〈書誌による〉
『照天松操月鹿毛』 初・二編「一雄斎国輝画画」 春風亭柳枝作 泉市板 ①
『弓張月春廼霄栄』 十二編「一雄斎国輝画」 楽亭西馬作 恵比庄板 ①
『与謝武郎恋夜話』 二編「国輝画」 花笠文京作 恵比庄板 ⑤
『花蓑笠梅稚物語』 三編「一雄斎国輝画」 楽亭西馬訳 蔦吉板 ⑤
『女郎花五色石台』 六編「国輝画」 種員作 泉市板 ⑤
『雨夜鐘四谷雑談』 三編「一雄斎国輝画」 柳下亭種員作 恵比庄板 ①
『小児やしない草』 「一雄斎歌川国輝画」一筆庵景斎英寿 紅木板 ⑤
『児雷也豪傑譚』二十四・五編「国輝画」 種員作 泉市板 ⑤
『黄金水大尽盃』 初・二編「一雄斎国輝画」 為永春水作 泉市板 ⑤
『古今草紙合』 十一・十二編「一雄斎国輝画 笠亭仙果作 蔦吉板 ①
『咲替蕣日記』 七・八編「一雄斎国輝画」 笠亭仙果作 恵比庄板 ⑤
『桜姫粧春雨』 三編「一雄斎国輝画」 楽亭西馬作 山本板 ①
『竹雀千代哢』 三編「一雄斎国輝画」 楽亭西馬作 恵比庄板 ①
『琴声美人録』 十編「国輝画」 京山老人 佐野喜板 ⑤
『凧美代春風』 歌川国輝画 式亭小三馬作 板元未詳 ①〈書誌による〉
◯「百人一首年表」(本HP・Top)(嘉永七年刊)
歌川国輝画『道戯(どうけ)百人一首』口絵・挿絵〔目録DB 小泉吉永画像〕
画工未詳(国輝画?)愚山人 弘化四年春序 奥付「嘉永七庚寅歳孟春新刻」
巻末広告〝『児雷也豪傑譚』『かなほうご一休草紙』『女郎花五色石台』一雄斎国輝画〟
〈巻末広告の合巻はすべて一雄斎国輝画・和泉屋市兵衛板。したがってこの『道戯百人一首』も国輝画・泉市板と思わ
れる〉
◯「双六年表」〔本HP・Top〕(嘉永七年刊)
「初商出世双六」「国輝画」式亭三馬店 改印「改・寅九」①②小三馬作 墨摺
「児雷也豪傑双六」一雄斎国輝画 嘉永七年
「其紫(ゆかり)湖月双六」一雄斎国輝画 嘉永七年
(以上二作、狂歌本『串戯百人一首』の巻末広告「嘉永七庚寅歳孟春新刻」より)〔目録DB 小泉吉永画像〕
〈板元は巻末広告所収の合巻『児雷也豪傑譚』などから和泉屋市兵衛と思われる〉
☆ 安政二年(1855)卯
◯「合巻年表」(安政二年刊)
歌川国輝(国光)画
『花蓑笠梅稚物語』 四編「一雄斎国輝画」楽亭西馬作 蔦吉板 ⑤ 改・子四
『重井菱染別小紋』 四編「一雄斎国輝画」為永春水作 上州屋板 ① 改印-衣笠・村田 丑八
『黄金水大尽盃』 三・四編「一雄斎国輝画」為永春水作 泉市板 ⑤ 改印 3編-改・寅六 4編-改・寅閏七
『菜種花雙蝶々』 「一雄斎国輝画」笠亭仙果作 山本板 ① 改・寅閏七
『琴声美人録』 十一・二編「一雄斎国輝画」京山老人作 佐野喜板 ⑤ 改印 11編-改・寅五 12編-改・寅八
『容色仙代萩』 二・三編「一雄斎国輝画」一筆葊英寿作 山口板 ① 2編-改・寅四 3編-改・寅六
『岸柳四魔談』 四編 一雄斎国輝画 楽亭西馬作 山口板 ①〈書誌による〉
『児雷也豪傑譚』 二十六編「国輝画」 種員作 泉市板 ⑤ 改・寅三
『仮名反故一休草紙』 七編「一雄斎国光画」柳下亭種員作 泉市板 ⑤ 改・寅六 寅八
二十ウ「国輝改/国光画」〈国輝は国光に改名〉
(備考、本書の改印は「寅六」とあるが「寅八」の改印を有する別本もある由)
『重井菱染別小紋』 五・六編「一雄斎国輝画」為永春水作 上州屋板 ① 改印 5編-改・寅閏七 6編-改・寅八
五編 袋「国光画」上巻見返「くにてる画」 上巻末「一雄事国光画」下巻末「一雄斎国光画」
六編 袋「国光画」上巻見返「一雄斎国輝画」上巻末「国輝画」下巻末「一雄斎国輝画」
『児雷也豪傑譚』二十七・八編「一雄斎国光画」柳下亭種員作 泉市板 ⑤ 改・寅十
『照天松操月鹿毛』三編 上集「国輝画」下集「国光画」春風亭柳枝作 泉市板 ① 改・寅十
四編 上巻「国光画」下巻「国光画」口絵「安政二年春初初梓」① 改・寅十
〈国輝の国光改名は以上の改印の用例から、安政元年(寅)閏七月頃と推定される〉
◯「百人一首年表」(本HP・Top)(安政二年刊)
歌川国輝画『俳人百家撰』色摺口絵・挿絵・肖像〔跡見248 異種〕
奥付「肖像 雄斎国輝」「(口絵)真写 楓園玄魚」緑亭川柳編 甘泉堂和泉屋一兵衛板
改名主二印〔村松・福島〕嘉永八乙(安政二年)卯歳次孟春発行
☆ 安政三年(1856)辰
◯「合巻年表」(安政三年刊)
歌川国光(国輝)画
『仮名反古一休草紙』八編「一雄斎国光画」 柳下亭種員作 泉市板 ⑤ 改・寅十一
『咲替蕣日記』 九編「一雄斎画・国光画」笠亭仙果作 恵比庄板 ⑤ 改・寅十一
◯「日本古典籍総合目録」(安政三年刊)
◇心学
歌川国輝一世画『教訓図会』二編 国光画 教訓亭春水編 万笈堂板〈初編は天保14年刊〉
<春 足芸(花川子鶴)西両国広小路>
◯『観物画譜』147(朝倉無声収集見世物画譜)
「大坂下り太夫 花川子靎 口上(略)太夫元 七五三八」摺物 署名「◎好 国輝画」版元不明
◯「東都流行合巻競 初集」(番付 安政三丙辰春新板)
(東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)
(東)大関 児雷也豪傑譚 (西)大関 不知火物語
〈以下、おびただしい数の合巻の番付。番付中央の行司・勧進元の欄に画工の名あり〉
〝五雲亭貞秀 歌川国輝 歌川豊国 歌川国貞 一勇斎国芳〟
☆ 安政四年(1857)巳
◯「合巻年表」(安政四年刊)
歌川国光画
『椿説鬼魅談語』初・二編「国輝画」補助「国貞・国綱画」為永春水作 山本板 ① 改・寅六
『黄金水大尽盃』 五編「一雄斎国光画」 為永春水作 泉市板 ⑤ 改・卯五
〈六編(改・辰八 安政3)は同じ安政4年刊だが、画工が国貞に代わる。辰年(安政3)国光は作画不能になっていたか〉
『義経一代記』 十ウ「国輝改 一雄斎国光」芳虎画 重山縮訳 泉市板 ⑤ 改・寅十
☆ 安政六年(1859)
◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安政六年刊)
歌川国輝画『柳橋新誌』一冊 国輝画 何有仙史撰〈初代か未確認〉
☆ 万延元年(安政七年・1860)
◯「合巻年表」(安政七年刊)
歌川国輝画『菜種花雙蝶々』二巻 歌川国輝画 笠亭仙果作 板元未詳 ①〈書誌による〉
〈初代か未確認〉
◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕
貞重画「子供遊いろは組学」「貞重画」板元未詳 万延1年頃 ⑥
〈貞重は弘化四年(1847)国輝を名乗る。この万延署名の貞重との関連は不明〉
☆ 文久三年(1863)
<正月 駱駝の見世物 西両国広小路
◯『観物画譜』196(朝倉無声収集見世物画譜)
「(駱駝図)口上(略)」摺物 署名「国輝画」菊屋市兵衛板〈初代か未確認〉
☆ 刊年未詳
◯「双六年表」〔本HP・Top〕(刊年未詳)
歌川貞重画
「おあがりなんしくるわすご六」「五丁亭貞重画」江南亭唐立作 上州屋重蔵 ② 袋「五亀亭貞房画」
「諸客遊里行双六」 「五丁亭貞重画」江南亭唐立作 板元未詳 ⑧ 〈表題なし〉
☆ 没後資料
◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪191(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
「歌川豊春系譜」
〝(歌川国貞門人)国輝 一雄斎ト号ス。草双紙アリ〟
〝(歌川国貞門人)貞重 号独酔舎〟
◯「読売新聞」(明治23年10月17日付)
〝国輝大に奮激す
(前略)初代国輝と云ふは旧幕臣にて 本名を太田金次郎と呼び 名人二代豊国の一弟子にて 神田明
神へ捧げたる神田祭の大額を画きて其の名世に高かりしが 不幸にして狂気したれば 師匠豊国は亀戸
なる曲物(まげもの)屋の伜山田金次郎を迎へて其の後を嗣がしめ 之を二代目国輝となしたるに(云々)〟
〈二代豊国の弟子とあるが、現在は三代豊国(初代国貞)とする。一蘭斎国綱(二代)が二代目国輝を襲名するのは元治元
年(1864)と思われる(本HP「浮世絵師総覧」国輝二代参照)ので、精神に異常をきたしたのは、それ以前のこと。上掲合
巻の作画状況をみると、安政二年までの勢いが安政三年になると突然激減する。異変が生じたのは安政二年なのであ
ろう。ただその時は国輝ではなくて国光(二代)と改名していたようである〉
◯『浮世絵師便覧』p229(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝貞重(サダシゲ) 歌川、◯一世豊国門人、◯天保〟
◯『浮世絵備考』梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(75/103コマ)
〝歌川貞重【天保元~十四年 1830-1843】歌川国貞(三世豊国)の門弟、其の伝詳ならず〟
◯「集古会」第百三十八回 大正十一年(1922)九月(『集古』壬戌第五号 大正11年10月刊)
〝矢島隆教(出品者)歌川国輝画 拳の稽古 一枚〟
◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)
(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
〝貞重 三世豊国門人、歌川氏、独酔舎と号す、天保〟
◯「集古会」第百三十九回 大正十一年十一月(『集古』癸亥第一号 大正11年12月刊)
〝木村捨三(出品者)国輝 御東幸錦絵 三枚続 一組〟
☆ 昭和以降(1926~)
◯「集古会」第百六十九回 昭和四年一月(『集古』己巳第二号 昭和4年2月刊)
〝浅田澱橋(出品者)国輝画 児雷也豪傑物語寿語録 種員案 一舗
◯『浮世絵師伝』p52(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝貞重
【生】 【歿】 【画系】初代国貞門人 【作画期】文政~天保
歌川を称す、五蝶亭・新貞亭・独酔舎等の号あり、後ち国輝と改む〟
〝国輝
【生】 【歿】 【画系】三代豊国門人 【作画期】弘化~安政
歌川を称す、太田氏、俗称金次郎、一雄斎・雄斎と号す、初名を貞重と云ひしが、師の国貞(初代)が
豊国を襲名するに及んで、彼は国輝と改む、同門中此の類甚だ多し、亀井戸に住す〟
◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)
◇「安政二年 乙卯」(1855)p235
〝正月、雄斎国輝と宮城玄魚の画ける『俳人百家撰』出版〟
◯「集古会」第二百九回 昭和十二年一月(『集古』丁丑第二号 昭和12年3月刊)
〝浅田澱橋(出品者)歌川国輝筆 錦絵 牛若と長範 三枚続 一組〈何代目か不明〉
◯「集古会」第二百二十六回 昭和十五年五月(『集古』庚辰第四号 昭和15年9月刊)
〝中沢澄男(出品者)歌川国輝画 龍王太郎 合巻 表紙見返 一枚〟
〈『龍王太郎英雄譚』11-12編、嘉永6-安政2年刊〉
◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
「歌川系図」〝国貞(三世豊国)門人 貞重(国輝)〟
◯「日本古典籍総合目録」
〔歌川国輝画版本〕
作品数:77点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)
画号他:国光・貞重・一雄斎・五蝶亭・東花園・雄斎・一雄斎国輝・歌川国光・歌川貞重
五蝶亭貞重・東花園貞重・歌川国輝・一雄斎国光・雄斎国輝
分 類:合巻58・人情本9・遊戯(双六)3・咄本1・滑稽本1・俳諧1・伝記1・心学1・
絵図1
成立年:天保10~15年(11点)(天保年間合計12点)
弘化1、3~4年(7点)
嘉永1~8年 (7点)
安政1~5・7年(27点)
(貞重名の作品)
作品数:16
画号他:貞重・歌川貞重・五蝶亭貞重・東花園貞重
分 類:合巻6・人情本9・心学1
成立年:天保9~15年(11点)(天保年間合計12点)
弘化1・3~4年(4点)
嘉永1年 (1点)
安政3年 (1点)
(国輝名の作品)
作品数:57
画 号:一雄斎・一雄斎国輝・歌川国輝・雄斎・国輝
分 類:合巻48・俳諧伝記1・遊戯(双六)3
成立年:嘉永2~8年(50点)
安政1~2・4・7年(19点)
(国光名の作品)
作品数:4
画号他:一雄斎国光・歌川国光
分 類:合巻3・絵図1
成立年:安政2~3・5年(3点)