く-全絵師
☆ 文化十四年(1817)
◯「合巻年表」(文化十四年刊)
初代歌川国重画『福徳三助妬心話』「豊国門人喜舞改国重」古今亭三鳥作 西宮新板〔国書DB〕
「豊国門人喜舞改歌川国重画」『福徳三助妬心話』巻末(国書データベース)
〈「喜舞」の「舞」の字の読みが怪しい。飯島虚心の『浮世絵師便覧』に「国重 喜斎と号す 一世豊国門人」とあるので
「喜舞」は「喜斎」の誤記か、あるいは本HPの読み誤りとも思えるが、分からない。ともあれ喜斎(舞)から国重への改名は
文化13-4年頃である〉
◯『名人忌辰録』下巻p2(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)
〝歌川国重 一龍斎
初代豊国門人、俗称源蔵、後二世豊国と改め、障有て又元の国重と成る。天保六未年十一月朔日歿す、
歳五十九〟
〈三代目歌川豊国(初代国貞)の項目にある国重記事〉
〝一龍斎国重、故豊国の号を嗣て二世と称し夭死す、故に国貞は則三世豊国なり。(中略)
国重、文政の末、故豊国の後家に通じて此名を貰ひ二世豊国と名乗る、此時にや或人の吟に「歌川をう
たがはしくも名のりえて二世の豊国贋の豊くに」かくて同門一同不承知にて遂に素人と成り本郷三丁目
に住し瀬戸物商をなす)〟
◯『浮世絵』第二号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)七月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「二代目豊国は国重か豊重か」小島烏水著(3/24コマ)
〝二世豊国は国重にあらずして、豊重なるべし〟〈以下、烏水はその理由を四点あげる〉
1初代豊国の門人は、国貞・国直のように「豊国」の「国」の字を頭に戴く、ところが豊重だけは「豊」
を頭に戴く、これは豊広の門人が広重・広昌のように「広」の字を頭に戴くのに対して、実子金蔵だ
けは「豊清」と「豊」の字を戴く例と軌を一にする。豊国と豊重との関係は豊広と豊清と同様、父子
のような特別な縁があると思われること。
2ストレンジ著『日本の色刷』(大正二年刊)所収の役者絵に「豊国伜豊重画」の落款があること
3文政十一年の「豊国先生埋筆之記」に「二代目豊国社中」として、国富・国春等とともに「国重」の
名があることから、国重と二代目豊国とは別人であること。
4『浮世絵師便覧』や『浮世絵備考』に「国重 喜斎と号す 一世豊国門人」とあること
〝決論すれば、豊重は一龍斎にして、国重は喜斎なり。二代目豊国は豊国の伜と署名せる一龍斎豊重が
署名したるものにして、師の妻に入夫云々は、口善悪(くちさが)なき人の浮説に過ぎざるべし。
併し、ここに折衷説あり、宮武外骨氏編『此花』第十一枝〟
◯『狂歌人名辞書』p69(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)
〝歌川国重、通称源蔵、初代豊国門人一龍斎、又、一瑛斎と号す、後ち自ら二世豊国と名乗りしが同門の
物議を生じ再び国重に復す、世人呼んで本郷豊国といふ、(二代豊国を看よ)〟