Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ くにきよ うたがわ 歌川 国清 二代浮世絵師名一覧
〔 ? ~ 明治20年(1887)頃〕
 ※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録」「国書データベース」(国文学研究資料館)   ⑤〔東大〕:『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』    角書は省略。①~⑥は「合巻年表」の出典。◎は表示不能あるいは難読文字  ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年序)
   「一雄斎国貞系譜」〝(国貞門人)国清 石原〟    ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)     ◯「合巻年表」(安政元年刊)    一楽画(見返しの画工担当)    『釈迦八相倭文庫』二十九編 見返「一楽」 歌川国貞画 万亭応賀作 ⑤    『鄙物語業平草紙』  二編 見返「門人一楽画」梅蝶楼国貞画 立亭光彦作 ①    『教草女房形気』  十三編 見返・袋「一楽画」国貞画 京山老人  ⑤     〈この国貞は二代目。この一楽は歌川の門流、初代国貞の門人か。二代目歌川国清に一楽斎の号がある。また翌      二年刊『釈迦八相倭文庫』の見返しをみると国清画となっているので、この一楽と同人のような気もする。判      然としないが、参考までに載せた〉     ☆ 安政二年(1855)     ◯「合巻年表」(安政二年刊)    歌川国清画(見返・袋担当)    『釈迦八相倭文庫』三十二編 見返「国清」歌川国貞画 万亭応賀作 ⑤    『足利絹手染紫』  十六編 見返「国清」十七編 袋「国清画」歌川国貞画 仙果・金水作 ①    〈以下、確証はないが、すべて国清と同人と思われる。参考までに載せた。いずれも安政二年刊〉    一楽画(見返担当)    『釈迦八相倭文庫』三十編 見返「一楽画」歌川国貞画  万亭応賀作 ⑤    『教草女房形気』 十四編 見返「一楽画」梅蝶楼国貞画 京山作   ⑤    国喜世画(袋担当)    『教草女房形気』 十五編 袋 「国喜世」梅蝶楼国貞画 京山作 ⑤     〈袋の画工「国喜世」を国清と同人とみて載せた〉    喜世画(見返担当)    『釈迦八相倭文庫』三十一-三編 見返「喜世(代)画」歌川国貞画 万亭応賀作 ⑤    楽斎画(袋の画工担当)    『足利絹手染紫』十六編 袋「楽斎画」歌川国貞画 仙果作 ①    ☆ 安政三年(1856)     ◯「合巻年表」(安政三年刊)    歌川国清画    『花蓑笠梅稚物語』五編「一楽斎国清画」表紙楽亭西馬作 蔦吉板 ⑤     〈画工は四編まで一雄斎国輝が担当〉    『八重撫子累物語』五編「一楽斎国清画」笠果作     蔦吉板 ①    (袋担当)    『花蓑笠梅稚物語』五編 袋「国清画」一楽斎国清画 楽亭西馬作 ⑤    『足利絹手染紫』十八編 袋「国清画」梅蝶楼国貞画 松亭金水作 ⑤    ☆ 安政四年(1857)     ◯「合巻年表」(安政四年刊)    歌川国清画『大晦日曙草紙』二十三編「歌川国清画」山東庵京山 蔦吉板 ⑤     〈本文挿絵の画工、昨年は芳綱画〉    ◯「読本年表」(安政四年刊)    歌川国清画『堀部安兵衛一代記』国清画 梅暮里谷峨作 ⑫①    〈①の書名は『中山安兵衛一代記』〉     ☆ 安政五年(1858)     ◯「合巻年表」(安政五年刊)    歌川国清画『大晦日曙草紙』二十四編「一楽斎国清画」山東京山作 蔦吉板 ⑤    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪191(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   「歌川豊春系譜」〝(歌川国貞門人)国清 本所石原〟    ☆ 安政六年(1859)     ◯「合巻年表」(安政六年刊)    歌川国清画『大晦日曙草紙』二十五編「一楽斎国清画」表紙 国貞画 山東京山作 蔦吉板 ⑤    ☆ 没後資料  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯「読売新聞」(明治25年12月19日記事)〈(かな)は原文の振り仮名〉   〝歌川派の十元祖    此程歌川派の画工が三代目豊国の建碑に付て集会せし折、同派の画工中、世に元祖と称せらるゝものを    数(かぞへ)て、碑の裏に彫まんとし、いろ/\取調べて左の十人を得たり。尤も此十人ハ強ち発明者と    いふにハあらねど、其人の世に於て盛大となりたれバ斯くハ定めしなりと云ふ     凧絵の元祖  歌川国次    猪口(ちよこ)絵 元祖 歌川国得     刺子半纏同  同 国麿    はめ絵  同 同 国清     びら絵 同  同 国幸    輸出扇面絵同 同 国久・国孝     新聞挿絵同  同 芳幾    かはり絵 同 同 芳ふじ     さがし絵同  同 国益    道具絵  同 同 国利    以上十人の内、芳幾・国利を除くの外、何れも故人をなりたるが中にも、国久・国孝両人が合同して絵    がける扇面絵の如きハ扇一面に人物五十乃至五百を列ねしものにして、頻りに欧米人の賞賛を受け、今    尚其遺物の花鳥絵行はるゝも、前者に比すれバ其出来雲泥の相違なりとて、海外の商売する者ハ太(い    た)く夫(か)の両人を尊び居れる由〟    〈国清には初代と二代目がおり、この国清が何れであるかは判然としないが、三代目豊国すなわち初代国貞の建碑     とあるから、初代豊国門人の初代国清より、国貞門人の二代目の方が相応しいと思う〉    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898))六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(85/103コマ)   〝歌川国清【慶応元年~三年 1865-1867】和田氏、通称安蔵、三世豊国の門弟、本所石原に住めり〟    〈三世豊国の門人で本所石原住とあるから、この国清を二代と見たが、名字の「和田」が、次項『浮世画人伝』の     「江守」と異なるなど混乱もあり、判然としない〉  ◯『浮世画人伝』p90(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)   (「歌川国貞系譜」より)   〝国清 国貞門人、一楽斎、俗称江守安蔵、幕府小吏、茶番狂言ヲ能クス、芸名ヲ松魚ト云〟
   「歌川国貞系譜」      〈関根黙庵はこの国清を初代とも二代とも書いてないが、国貞門人とあるので、取りあえず国清二代と見ることが     できる。ところが、井上和雄の『浮世絵師伝』は、これを国清初代と理解した。「江守氏、俗称安藏、一楽斎と     号す。『青本年表』文化八年の條に、幕府小吏、茶番狂言をよくす、芸名を松魚といふ」と書き、この一楽斎・     芸名松魚の国清を初代のものとした。ただ、井上によれば、次条のように、この国清二代もまた「一楽斎、松魚     楼と号した」ことになっているので紛らわしい〉    ◯『浮世絵師伝』p49(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝国清 二代    【生】  【歿】明治二十年(1887)頃  【画系】三代豊国門人  【作画期】嘉永~明治    歌川を称す、一楽斎・松魚楼と号す、本所石原町に住めり〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)   〝国貞(三世豊国)門人 国清(二世)〟    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p87(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)   〝国清 二代(くにきよ)歌川を称す。一楽斎、松魚楼と号した。その作画期は嘉永より明治十年代に及ぶ〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    作品数:3点    画号他:一楽斎・一楽斎国清・歌川国清    分 類:合巻2    成立年:安政3年(2点)