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☆ くにかず おたけ 尾竹 国一(国弌)越堂浮世絵師名一覧
〔慶応4年(1868)1月28日 ~ 昭和6年(1931)12月3日・64歳〕
 別称 越堂 観明 観陽 修明  ☆ 明治三十三年(1900)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十三年刊)    国弌(国一)画    『徳川十五代記』口絵・表紙 国一 松林若円  駸々堂(上中 3月)〈下未見、2ページ大折込口絵〉    『石川五右衛門』口絵・表紙 国弌 石川一口  梶川陽文館(4月)〈2ページ大折込口絵〉           (口絵署名「もとめによりて くにかずゑがく〔未読〕印」)    『戦争お伽噺し』「服部中佐」挿絵・表紙 国一 不及生 駸々堂(1編 9月)    『新聞売子』  口絵・表紙 国弌 菊池幽芳  駸々堂(前後編 9月)〈2ページ大折込口絵〉    『探偵叢話』  口絵・表紙 国弌 あきしく訳 駸々堂(9月)〈2ページ大色摺折込口絵〉     『心中二つ巴』 口絵・表紙 国一 広津柳浪  駸々堂(10月)〈2ページ大折込口絵〉    『秋の夜はなし』口絵・表紙 国弌 あきしく  駸々堂(11月)〈2ページ大折込口絵〉    『曽我物語』  口絵・表紙 国弌 尾崎東海  岡本偉業館(12月)〈2ページ大折込口絵〉  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十四年刊)    国弌(国一)・修明・観陽画    『むすめ一代』 口絵・表紙 国弌     中山白峯  駸々堂  (1月)〈2ページ大折込口絵〉    『風流学士』  口絵・表紙 国弌     白峯    駸々堂  (1月)〈2ページ大折込口絵〉    『星月夜』   口絵・挿絵 国弌     中山白峯  駸々堂  (1月)〈2ページ大折込口絵〉    『田宮の仇討』 口絵・表紙 国弌     武原魯生  此村欽英堂(2月)〈2ページ大折込口絵〉     『烈婦鏡』   口絵 国弌・表紙 月峯  玉置天外  中沢達吉 (2月)    『澪標』    口絵・表紙 国弌     菊池幽芳  駸々堂  (2月)〈2ページ大折込口絵〉    『新聞記者』  口絵・表紙「修明[国弌]印」奴之助   駸々堂  (4月)〈2ページ大折込口絵〉    『女武者』   表紙のみ  国弌     前田次良  駸々堂  (4月)    『白百合』   口絵・表紙 国弌     菊池幽芳  駸々堂  (前編 6月)〈後編は明治35年1月刊。2ページ大折込口絵〉    『宮本左門之助』口絵のみ  国一     広沢虎吉  岡本偉業館(8月)〈2ページ大折込口絵〉    『九条の小政』 口絵・表紙 国一     旭堂小南陵 此村欽英堂(8月)〈2ページ大折込口絵〉    『花川戸助六』 口絵・表紙「修明[国弌]印」神田伯竜  中川玉成堂(8月)〈2ページ大折込口絵〉    『有馬猫退治』 口絵・表紙 国一     玉田玉麟  岡本偉業館(8月)〈2ページ大折込口絵〉    『淀屋辰五郎』 口絵・表紙 修明     渡辺霞亭  正英堂  (10月)〈2ページ大折込口絵〉    『娘太平記』  口絵・表紙 (前)観陽 (後)国弌 中山白峰 正英堂(前後編 10月)〈2ページ大折込口絵〉    〈観陽は国弌の別号と思われる〉    『電信線』   口絵のみ  国一     多田省軒  此村欽英堂(10月)〈2ページ大折込口絵〉    『洗ひ髪』   口絵・表紙 国弌     渡辺霞亭  正英堂  (10月)〈2ページ大折込口絵〉    『遠千鳥』   口絵・表紙 国弌     暁山人   駸々堂  (前編 10月)〈2ページ大折込口絵。後編翌年4月刊〉    『夢現』    口絵・表紙 国弌     黒田天外  正英堂  (10月)〈2ページ大折込口絵〉    『恋草』    口絵のみ  国弌     入真道士  正英堂  (10月)〈2ページ大折込口絵〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(国文学研究資料館・明治三十四年刊)    国弌(国一)・修明画    『稲葉屋お君』口絵・表紙 修明 省軒 駸々堂(10月)(探偵文庫21)〈2ページ大色摺折込口絵〉  ☆ 明治三十五年(1902)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治年刊)    国弌(国一)・修明・観明・観陽画    『うき世日記』 口絵のみ  観明     浪六    駸々堂  (1月)〈観明は尾竹国一(越堂)。2ページ大折込口絵〉    『原田特務』  口絵・表紙 国一     多田省軒  此村欽英堂(1月)〈2ページ大折込口絵〉    『白百合』   口絵・表紙 国弌     菊池幽芳  駸々堂  (後編 1月)〈前編は34年6月刊。2ページ大折込口絵〉    『薔薇娘』   口絵・表紙 国弌     奴之助   駸々堂  (1月)〈2ページ大折込口絵〉    『弁財天女』  口絵・表紙 修明「国弌」印 奴の助   駸々堂  (2月)〈2ページ大折込口絵〉    『奈古の浦』  口絵・挿絵 観陽     竹の門   清明堂  (3月)富山版    『時雨笠』   口絵・表紙 観明「国弌」印 浪六    駸々堂  (3月)〈2ページ大折込口絵〉     『紅覆盆子』  口絵・表紙 観明     渓舟    駸々堂  (4月)〈2ページ大折込口絵〉    『遠千鳥』   口絵・表紙 国弌     暁山人   駸々堂  (後編 4月)〈2ページ大折込口絵。前編前年10月刊〉    『小野川喜三郎』口絵・表紙 国一「観」印  玉田玉秀斎 岡本偉業館(5月)〈2ページ大折込口絵〉    『佐倉宗五郎』 口絵・表紙 国一     旭堂南陵  岡本偉業館(5月)〈2ページ大折込口絵〉    『文金島田』  口絵のみ  観明     小栗風葉  駸々堂  (後編 5月)〈2ページ大色摺折込口絵。前編未見〉    『御堂前の仇討』口絵・表紙 観明     旭堂南陵  岡本偉業館(6月)〈2ページ大折込口絵〉    『全盛吾妻太夫』口絵・表紙 国一     夢郷庵主  岡本偉業館(8月)〈2ページ大折込口絵〉    『千葉喜太郎』 口絵・表紙 観明     広沢虎吉  岡本偉業館(10月)〈2ページ大折込口絵〉  ☆ 明治三十六年(1903)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十六年刊)    観明・国一画    『神洞小次郎信行』口絵・表紙 観明?    松林円照  田村九兵衛(6月)〈2ページ大折込口絵〉    『阿波の鳴門』  口絵・表紙 国一     藤井燕山 名倉昭文館(11月)〈2ページ大口絵〉    『真田幸村』   口絵・表紙 観明「国弌」印 西尾魯山 岡本偉業館(11月)〈2ページ大折込口絵〉    『闇の光明』   口絵のみ  観明     奴之助  駸々堂  (12月)〈2ページ大折込口絵〉  ☆ 明治三十七年(1904)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十七年刊)    観明画『夢の世界』口絵・表紙 観明 多田錦海 駸々堂(5月)〈2ページ大色摺折込口絵〉  ☆ 明治四十二年(1909)  ◯『珍物画伝』(珍物子編 楽山堂書房 明治四十二年九月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ※原文は漢字に振り仮名付き、本HPはそれを(かな)という形で補った   〝尾竹国一氏(55/114コマ)    生国は越後国、一の号を観明といふ、雲突く許(ばか)りの大男で、誰の眼にも画家で候(そうろう)とは    受取れぬ、頗(すこぶ)る真面目でしかも頗る珍だ、富山県に居た頃、県下大水害で国庫補助を仰ぐと云    ふ時、嘆願書も必要だろうが、斯(こん)な事は文章よりも絵だ、此(この)画(ゑ)を内務大臣に遣つて呉    れと云つて、水害の大惨状を緻密に写生した画を十二枚知事の許へ差出し、大(おほい)に板伯(はんぱ    く)の心を動かしたといふ、丁度其頃報知新聞に義勇艦隊建設の論説が出た、これを読んだ観明は直に    筆を投じ、国家の為めぢや、絵を描くよりも軍艦を製(つく)れと絶叫し、暫く義勇艦隊の事に奔走した    が世間の人が真に受けぬ、丁度空家で声を嗄(か)らす様なもの、是は少々つあらぬと気が附いて止める、    伊藤公が内閣を退き政友会を組織した時、内閣をお退きなされてはさぞお閑だらうと云ふので、二枚の    裸体美人を描き恭々しく公の許に贈つた、処(ところ)がこの美人図、侯爵家に届いたのは、丁度政友会    の件(こと)で末松金子等の人々と相談中であつたが、裸体美人の到着に花が咲いて、其日の相談がおジ    ヤンになつたさうである、また旅順の攻囲軍が鉄条網に苦しめられると云ふことを聞き、一種新案の梯    子を造りこれを師団へ担ぎ込んで、何(ど)うか採用して下さいと頼んだことがある、何事も突飛な考へ    は出すが一つも成功したことがない、ある時は富士山へ登り大(おほ)七五三縄(しめなは)で富士山頂に    鉢巻をさせて来ると云つて居た、また先頃韓国皇太子殿下舞子御滞泊の砌(みぎり)、氏は御旅館万亀楼    に伺候し席上揮毫を試み御感を蒙り、其際伊藤太子が氏の懇嘱に応じ、氏の為めに堂号を越堂と選び、    記念として白扇に献麗の筆を揮はれた、東京青年画家中の派利き尾竹国観、同竹坡は孰(いづ)れも此人    の実弟であるが、総領国一一向画名がない、当人嘆息して曰く「弟は名高いが私(わし)名が聞えぬ、然    し一生を甚六では果てませぬ」〟    〈直情径行というか、思いついたら直ちに実行に移す人のようだ。富山県の大洪水は明治24年(1891)、義勇艦隊建設の話題     は明治38年(1905)、伊藤博文から越堂号を授かったのは明治40年(1907)の由である〉  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯『現代全国画家録』(平田三兎編 丹青書房 明治四十四年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝梅 尾竹越堂 大阪 土佐派 風俗〟   〝潤筆価格標準(価格 原文は漢数字)     類別   区分 価格    区分 価格     梅之部  精  20円以上 疎  10円以上    右潤筆価格ハ絹本尺五(幅壹尺五寸/丈四尺)ヲ度トシ精疎二様ノ概価ヲ表示シタ    ルモノニシテ、額面屏風其他極彩色ノ密画ハ此ノ限リニアラズ〟    〈本HP「浮世絵事典」【う】「浮世絵師人名録 明治編」参照〉  ☆ 大正元年(1912)  ◯『大日本画家名鑑』大正二年度改正 現代之部(前田鐘次郎編 東洋画館 大正元年12月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「一流」の部 〝尾竹越堂 東京 下谷中根岸〟  ☆ 大正二年(1913)  ◯『大日本当代画伯名鑑』田辺貞次郞編集・出版 日月社 大正二年七月刊   (大正二年五月調べ 画家住所録)(国立国会図書館デジタルコレクション)   〝国画各派 尾竹越堂 東京 下谷中根岸八二〟  ☆ 昭和六年(1931)(十二月三日没 六十四歳)    ◯『東京掃苔録』(藤波和子著・昭和十五年(1840)四月序 八木書店 昭和48年版)   〝下谷区 徳川家墓地(谷中天王寺町)    尾竹越堂(画家)通称熊太郎。小堀鞆音の門に入りて画名あり。昭和六年十二月三日没、年六十四。後    素院雪庵居士〟