☆ 明治三十年代
◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)
「烏合会」p224
〝福永通次郎、その時は日本銀行へ勤めの傍ら、役者絵の豊原国周に就いて周嘉(チカヨシ)と号した。牛込神
楽町、俗に柿の木横丁に住んでいた。老父が健在で炭屋を営み、兄の松崎氏も共に暮らしていたが、君
は一生妻帯しなかったように思う。国周に就くほどだから勿論芝居好きで、この頃山の手の人たちは、
三崎座に定打の粂八一座の定連が多かった。福永君、高田(鶴僊)君などもその仲間であった。そのう
ち尾形月耕を慕って門に入り耕美となった〟
〈烏合会は明治三十四年(1901)六月が第一回目、福永も同年一月の結成会から参加。鏑木清方によれば、この当時、
福永は耕美と記名していたようである。同書p207〉
☆ 大正五年(1916)
◯『【大正五年度/現代日本画】帝国絵画番附』番付(編集者・出版元記載なし 大正五年刊)
(東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)
※【 】は流派( )は長所(受賞)は文展第1回(明治40年・1807)~第9回(大正4年・1915)までの受賞歴
〝文展作家(入選格)
福永公美【浮世】(人物)牛込区軽子坂(受賞 入選:第8回)〟