Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ ごしゅん まつむら 松村 呉春 浮世絵師名一覧
〔宝暦2年(1752)3月15日 ~ 文化8年(1811)7月17日・60歳〕
 ☆ 安永四年(1775)    ◯『平安人物志』「画家」〔人名録〕①18(弄翰子編・安永四年十一月刊)   〝松 月渓【字文蔵、号蕉雨、四条高倉西エ入町】松村文蔵〟     ☆ 安永六年(1777)    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安永六年刊)    呉春画『奈羅花の岡』一巻 応挙筆 武禅筆 流光斎筆 法橋周峯筆 呉春 関月 仙果亭嘉栗序    ☆ 寛政五年(1793)    ◯『癸丑西上日程暦』〔百花苑〕④118(頼春水記・寛政五年十月記事)   〝月渓畫 竹山    黯淡川原雨一簑 笭箵収去渉軽波 中流相顧無佗語 新漲明朝魚可多〟    ☆ 寛政年間(1789~1801)    ◯『胆大小心録』〔新燕石〕(上田秋成記・文化六年以前)   ◇⑧79(寛政五年以降)   〝(上田秋成の妻瑚璉尼)はもと京のうまれじやに故、住たいと云ゆへ、まあこゝろみにちよつと知恩院    の前に腰かけて、遊び初めたが、軒向は村瀬嘉右衛門、月渓がよろこんで、出会互いにしきり也、酒は    尼が好故、月子とのみ友だち、豆麩つくしの酒もり、又南ぜん寺の庵をかりて移つたが、こゝもいはく    があつて、東洞院の月渓と同じ長屋住に成たり、ちといはくがあつて、又衣棚の丸太町、そこにも尻が    すはらず、もとの智をんゐんの門前のふくろ町のふくろへはいつていたが、尼がとん死の後は、目が見    えぬやら何じややら(以下略)〟    〈秋成の上京は寛政五年の六月、妻瑚璉尼は寛政九年没。村瀬嘉右衛門は儒者・村瀬栲亭〉     ◇⑧77(寛政七年以降)   〝(円山応挙死後)月渓が亦応挙の真似して、これも宮様の吹挙で、応挙より御上が御気に入て、追々御    用をつとめる中に、腎虚して今に絵がかけぬにきわまつた、其弟子たんとあれど、どれとつても十九文、    月渓は常に云は、くい物の解せぬ者はなんでも上手にならぬ、といふたが、くい物がさまざまと物好が    上手じやあった、つくづくし豆腐殊によし、そういうたが、腎虚で上精下虚の病、屈に落入て、久しぶ    りで見まふたら、不如法のさらし者見るやうになっていた〟    〈応挙は寛政七年没。「十九文」は「十九文店」で売られる十九文均一のような安物という意味。「不如法のさらし者」     とは破戒僧のようだというのだろう〉     ◇⑧86   〝月渓が病ぜひもなし、ただ隠者ていになりて、刀自に飯かしがせ、心はます/\奢りてあしく也、絵は    もとの如くあらずも、高逸にて、価たかくいふともゆるさん、御所の御用、宮様のと云事をやめたらば、    又御用に手のまゝにとあらば、屏障、壁などの大そうなるものはつかまつらんと云て、絹紙の一片に、    筆をかろく、墨がきを専にしてあるは、又一家なるべし、才物なれど俗癖あり、人相家、卜者にあざむ    かれて、ついに叶はずとも、又問は愚のいたり也、をしむべし/\〟    ☆ 享和二年(1802)    ◯『羇旅漫録』〔大成Ⅰ〕①242(曲亭馬琴記・享和二年記事)   〝〔八十五〕京師の人物    京にて今の人物は皆川文蔵と上田余斎のみ。〔割註 余斎は浪花の人也京に隠居す〕しかれども文蔵は    徳行ならざるよし聞ゆ、秋成は世をいとうて人とまじはらず。蘆庵は古人となりぬ。画は月渓と雅楽介    のみ。蘆庵応挙尤もをしむべし〟    〈文蔵は皆川淇園、余斎は上田秋成、小澤蘆庵は前年の享和元年没、雅楽介は未詳。池田正樹の『池田氏日記』の中に、     安永頃の京都見聞記事として、僧一休の旧跡真珠庵にて、長谷川等伯や曾我蛇足の画と一緒に雅楽介の「耕作の図」     を一見した由、大田南畝が『一話一言 補遺1』(「大田南畝全集」⑩44)に書き留めているが、同人であろうか〉    ☆ 没後資料    ☆ 文化十年(1813)    ◯『掌録 十二』〔百花苑〕④287(頼春水記・文化十年記事)   〝京師画家呉春ハ月渓トモ云、常々人ノ請托ヲ拒ミ、タマ/\承諾シテモ不果コト久シ。死スルノ日、日    頃人ノ請シ紙又ハ絹ニ一々其人名ヲ書シ、且ハ黄白ノ謝儀ナドアルハ皆々紙絹ニ添テ返進セヨト書付ア    リシトナリ。其高潔ニ精密ナリシ、死後ニマス/\画名高シトナリ〟    ☆ 安政二年(1855)    ◯『古今墨跡鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④232(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝松村月渓【名ハ春、字ハ伯望、摂津呉服ノ幸ニ隠ル、因テ呉氏トス、平安ノ人、通称嘉右衛門、初メ酔    月ヲ師トシ、又蕪村ニ学ヒ兼テ俳諧ヲモ能クス、蕪村歿後、応挙ガ画格ヲ喜ンデ業ヲ受ンコトヲ請フ、    応挙辞シテ莫逆ノ友トナル、爰ニ頻リニ苦学研究シ、専ラ写生ヲ勉メ遂ニ自ラ一家ヲ成シ、世ニ頻リニ    鳴ル花卉鳥獣ヲ画キテ其真ヲ得タリ、称シテ其流ヲ四条風ト云、実ニ応挙後ノ妙手ナリ、文化八年七月    十七日歿ス、年七十】〟    〔署名〕「癸亥初春 呉春」「呉春」「月渓作」「月渓」    〔印章〕「三菓堂図書印」・「月渓」「存白」・「呉春」・「存白」・「存白」「允白」・        「長命富貴」・「呉春之印」    ☆ 文久二年(1862)    ◯『本朝古今新増書画便覧』「コ之部」〔人名録〕④344(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補)   〝月渓【松村氏、名ハ春、字ハ伯望、京師ノ人、其先摂ノ呉服ノ里ヨリ出ル、故又呉ヲ氏トス、初メ画ヲ    酔月ニ学ヒ、後蕪村ニ学フ、村歿後、応挙ノ画ヲ好ンデ門人タランコトヲ請ヘドモ辞シテ友トス、是ニ    依テ前ノ画格ヲ更ム故、初メニ作ル所ハ蕪村ニ似タリ、後ハ応挙ニヨル、遂ニ一家ノ風ヲ起ス、山水最    奇ナリ、又詩ヲ善シ俳諧ヲモ能ス、書モ美手ナリ、文化八年ニ歿ス、六十歳】〟    ☆ 明治年間(1868~1911)    ◯『名人忌辰録』下巻p9(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝松村呉春 渓月 円山応挙門人、景文兄。文化八未年七月十七日歿す、歳六十。城南大通寺の葬る〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    作品数:7点    画号他:月渓・呉春・松村呉春    分 類:俳諧3・絵画2・花道1・書簡1    成立年:寛政9年 (1点)天保10年(1点)