Top
浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ きょせん おおくぼ 大久保 巨川
浮世絵師名一覧
〔享保七年(1722) ~ 安永六年(1777)〕
☆ 宝暦八年(1758)
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
◇俳諧
(宝暦八年刊)
巨川編
『世諺拾遺』菊簾舎巨川編 ☆ 明和二年(1765)
◯「絵暦年表」
(本HP・Top)(明和二年)
⑧「春信画 巨川工」錦絵 図14「蓮池舟遊美人」「進上」の朱印 賛なし
〈蓮を採る女の帯に大の月。「進上」とあるから配り物である〉
「巨川画工」錦絵 図15「女の首」 賛なし
〈襖に「明」「和」、屏風に小の月〉
☆ 明和三年(1766) ◯「坐鋪八景」署名「巨川」(明和三年頃)
〈巨川がこの作品の画稿を案ずるに当たって、拠り所としたのは西川祐信の『女教小倉色紙』(寛保三年刊)の中にある 「閨中道具八景」。おそらく画工の春信にこれを示して作画を依頼したものと思われる〉
閨中道具八景
西川祐信画
(跡見女子大・百人一首コレクション 番号 1823/2591)
☆ 没後資料
◯『金曾木』〔南畝〕⑩309(文化六年(1809)十二月記) 〝明和の初、旗下の士大久保氏、飯田町薬屋小松屋三右衛門等と大小のすり物をなして、大小の会をなせ しよりその事盛になり、明和二年より鈴木春信吾妻錦絵といふをゑがきはじめて紅絵の風一変す〟
〈明和二年、南畝は十七才。この大小摺り物会のことは後年の伝聞であろう。南畝は鈴木春信とは明和三年十月から交 渉が始まり、小松屋三右衛門百亀は安永頃から南畝の記録に出始めるからだ。しかし、巨川と思われる旗本大久保氏 とは面識がないようで、記事もこれだけのようだ。なお、南畝の記述に「巨川」の名は見えない〉
◯『仮寝の夢』〔百花苑〕⑦57(諏訪頼武記・文政四年(1821)序) 〝今の錦画ハ明和の初、大小の摺物殊外流行、次第に板行種々色をまじへ、大惣になり、牛込御籏本大久 保甚四郎俳名巨川、牛込揚場阿部八之進砂鶏、此両人専ら頭取に而、組合を分け大小取替会所々に有之、 後は湯島茶屋などをかり大会有之候。一両年に而相止。右之板行を書林共求メ、夫より錦繪を摺、大廻 に相成候事〟 ◯『古代浮世絵買入必携』p15(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊) 〝巨川 本名〔空欄〕 号〔空欄〕 師匠の名〔空欄〕 年代 凡二三十年前 女絵髪の結ひ方
第五図
(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
絵の種類 中判、小判 備考 〔空欄〕〟 ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(35/103コマ)
〝巨川【安永元年~九年 1772-1780】其の伝詳ならず〟 ◯『浮世絵師伝』p46(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝巨川 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】宝暦~明和 俳諧をよくし俳名を菊簾舎巨川といひ、俳人笠家左簾の社中たり、又別に城西山人の号あり、一説に彼 を以て春信と同一人なりとし、或は「巨川工」の落款ある版画を直ちに彼の筆なりとするものあれども、 そは勿論誤謬と謂ふべし、蓋し其の「工」とせるは「考案」の意味にして、少数の例外を除けば、画は 多く春信の筆に成りしものなり、かの「座敷八景」と題する錦絵(八枚)の如きは、即ち其の一例と見 るべし。彼の画系は明かならざれども、宝暦八年版の『世諺拾遺』に自他の俳句と共に自画をも掲出し たれば、素より絵事に素養ありしは言を俟たず、たゞ其の技を專門とせざりしが故に、摺物、錦絵等に は単に考案をめぐらすのみにして、自から筆を下す事は殆ど稀有なりしものならむか〟
◯「日本古典籍総合目録」
(国文学研究資料館)
作品数:2点 画号他:菊簾舎巨川・城西山人 分 類:俳諧2 成立年:宝暦8年(1点)安永2年(1点)
〈「国書基本DB」はこの他に巨川名の俳書、安永五年と天明五年のものを二点あげるが、菊簾舎巨川と同人かどうか 未詳〉