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☆ きよもと とりい 鳥居 清元 初代浮世絵師名一覧
〔正保2年(1645) ~ 元禄15年(1702)4月28日・58歳〕
   ◯『浮世絵師便覧』p230(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝清元(モト) 鳥居氏、俗称庄七、大坂の俳優なり、清信の父、劇場の看板を画く、◯貞享〟      ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(20/103コマ)   〝鳥居清元(20/103コマ)    通称庄七、鳥居流の始祖清信の父にて、大阪の俳優なりしが、善く劇場の看板を画きしといふ〟  ◯『浮世画人伝』p22(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)   (「鳥居清信」の項)   〝清信が父は鳥居庄七とて、難波の演劇にて、俳優の小旦たりしものなりき。この庄七こゝろの巧みある    ものにて、曾て前額(ゼンガク)を蔽(オオ)ふに、紫帽子を以てせしこと、此の優より始り、後には、野郎    帽子とて、維新前まで、小旦たる俳優、一般に用ふる事となれり。庄七また絵画の筆を把りて、頗(スコ    ブ)る妙手なりければ、自から鳥居清元と称し、大坂道頓堀なる、劇場の看板といふものを画き、貞享    四年には、江戸に下りて、元禄三年、始めて江戸市村座の看板をも画けり〟
     「鳥居清信系譜」   ◯『狂歌人名辞書』p58(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝鳥居清元(鳥居派元祖)、通称庄七、元と浪花の産、元禄の初年江戸に出で始めて市村座の絵看板を描    く、元禄十五年四月廿八日歿す、年五十八〟    ◯『浮世絵師伝』p44(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝清元    【生】  【歿】  【画系】清信の父  【作画期】貞享~元禄    鳥居氏、俗称庄七、もと大阪の劇場に出演せる女形俳優なりしが、多少の画技に経験を有せしかば、後    には俳優を廃めて専ら劇場の看板を画きしと云ふ。然るに、実子清信の爲め及び鳥居家の将来を考慮し    て、貞享四年の春、一家を挙げて江戸に移り、難波町に居を定めき、蓋し、堺町の中村座、茸屋町の市    村座等の近傍を選びしものなるベし。斯くて、元禄三年に初めて市村座の看板を画き、爾後漸次に他の    劇場の看板にも筆を染むるに至り、こゝに江戸の劇場と鳥居とが永く密接の關係を続け行くべき基礎を    築きしなり。彼の画蹟は殆ど世に伝はらず、おもふに、清信の画風の一部には、彼より承伝の技法を含    みしものならむ。また彼が歿時年齢及び法名等に就て、世に伝ふる所無きはあらざれども、疑問多きを    以てこゝには収載せず〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「貞享四年 丁卯」(1687)p49   〝此年鳥居清元一家大阪より江戸に移転せりといふ。時に四十三歳なり〟     ◇「元禄三年 庚午」(1690)p51   〝此年鳥居清元、市村座の看板を画く〟     ◇「元禄一五年 壬午」(1702)p60   〝四月二十八日、鳥居清元歿す。歳五十八。(鳥居清元は鳥居家の元祖にして彦兵衛と称し、元大阪に住    し役者にして而も芝居の看板を画き、又浄瑠璃を語ることも善くせる如く、貞享四年家族と共に江戸に    移り、浪花町に住し専ら芝居の看板を画きて生業とせりといふ。)〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「豊島区」法成寺墓地(駒込六ノ七五六)寺は浅草松山町(顕本法華宗)   〝鳥居清元(画家)通称庄七。若女形にて、野郎帽子を使用せしことこの人に初まる。また絵を巧み    にして劇場の看板を描けり。元禄十五年四月二十八日歿。年五十八。玄哲〟    △『増訂浮世絵』p48(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝鳥居清元    清信が演劇図を画いたのは、その家系にあるのである。清信の父清元は元と大坂の役者で、後には芝居    の看板画かきを業としえ居つた人であるが、一家の都合で、貞享四年に妻子を連れて、江戸に出のであ    つた。清元は出府後浪花町に住み、専ら画道によつて世に立ち、元禄三年に葺屋町の市村座の絵看板を    画いたが、江戸の人々の気に適つて、爾来好評の下に、看板絵を渡世の業にした。元禄十五年四月二十    八日、享年五十八歳で没したといふ。然し吾人は未だ清元の真蹟と認むべき作品を見ないから、その画    風伎倆等を論ずることが出来ない。それ故まづ清信から説かなければならない〟