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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ きよます とりい 鳥居 清倍 初代?
浮世絵師名一覧
〔元禄7年(1694)頃~正徳6年(1716)5月25日・23歳? 未詳〕
☆ 正徳五年(1715)
◯「ARC番付ポータルデータベース」
(立命館大学アート・リサーチセンター・芝居番付閲覧システム)
◇辻番付
(正徳五年刊)
鳥居清倍画
正月 市村座(興行名不記載)署名「鳥居清倍〔清倍〕印」版元不明
◯「芝居番付画像データベース」
(東京大学文学部所蔵資料デジタル画像・歌舞伎関係資料)
◇辻番付
(正徳五年刊)
鳥居清倍画
正月 中村座 辻番付「坂東一幸曽我」署名「鳥居清倍〔清倍〕印」版元不明
(枠外に「元禄六酉年」とあるが、〔芝居番付画像データベース〕は正徳五年とする)
〈これら正徳五年の作画は鳥居家二代目の清倍ではなく、下掲記事がいうところの初代清倍か〉
☆ 没後資料
◯『浮世絵師伝』p42(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝清倍 【生】元禄七年(1694)頃 【歿】正徳六年(1716)五月廿五日-廿三? 【画系】初代清信の長男? 【作画期】正徳 鳥居氏、俗称庄二郎、画を父に学び、正徳三四年頃より同六(享保元)年春に亘りて、数多の役者絵及 び美人画を発表せり、其の作品には父の画風以外に自から独特の趣きを具へ、就中婉柔の態を写すに最 も妙を得たりき、されば彼が画く所の五代森田勘弥の図には、落款の肩書に「日本嬋娟画」と記せり、 蓋し、天才の閃きを想見するに足れり。(口絵第七図参照) 彼の伝記に関しては、未だ諸書に悉されざる所多く、清倍に二代ある事すら明かにしたるもの無し、編 者曩に鳥居家の墓(在府下染井墓地)を展し、偶然にも彼に該当すべき法名及び忌辰を発見し、之を作 画年代と比較して、毫も矛盾なきことを認めたるを以て、茲に従来の清倍一人説を捨てゝ新たに初代二 代の区別を立つることゝせり、乃ち該墓石の側面中央に「一山道無、正徳六申五月廿五日」とあるもの 正に彼なるべき事を信じて疑はざるなり。而して、彼の年齢は明確ならざれども、父清信の元禄六年に 結婚せしと、彼が其の長男たりしとによりて、彼りに元禄七年の出生とするときは、則ち歿年には二十 三歳に相当せり、姑く未定の問題として尚ほ後考を俟つ。 附記、鳥居家の記録及び其他の諸書に、彼を以て鳥居家の二代目とすれども、彼は未だ父清信の後を嗣 がずして早世せし者なれば、寧ろ清信の襲名者たる彼の弟を以て、画系上の第二代目とすべきに似たり、 併し、彼に長男にして且つ後継者たるべき十分の技倆を有せし点もあり、又既定の秩序を保護する上よ り見れば、強ひて可否を説ずるまでもなきが如し〟 △『増訂浮世絵』p51(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊) 〝鳥居清倍 清倍は普通の説では、清信の子と称せられ、鳥居の二代目とされて居るが、或は清信の弟であらうとの 説もある。通称は庄二郎といひ、丹絵漆絵等の版画に手腕を振ひ、絵本草紙類にも筆をとつて居る。ま たその晩年は二色摺の紅摺絵にまで及んで居る。然しその家業は芝居の看板絵番附絵等を画いたのであ るが、肉筆の看板絵は後世に遺らないので、肉筆の伎倆を窺ふに足る材料が極めて乏しい。遺作の上か ら見ると、その優秀なる作品は、少壮の時に画いた丹絵に多く、殊に大判丹絵に暫を画いて優れたもの がある。また非常に強い描線を用ひたものでは、例の武者絵に平井一人武者保昌、浦辺六郎末武、坂田 民部公時、臼井荒童定光などを画いたものもある。惟ふに鳥居家の特色たる剛壮なる手法は清倍の時に 至つて益々熟したのである。この手法は芝居の荒事を写すのに、最も適当なのであるが、また婉柔流麗 なる一体を画いたことも忘れてはならない。男達を画いたものがあるが、これに日本嬋娟画と肩書した るものがある。可なり優麗な態を表らはしたものである。(中略) 清倍は絵に巧であつた外に、文学の才にも長けて居たので、自著自画のものもある。宝暦年中に出版し た黒本の『煙草恋中立』二冊はその一例である。その他黒本などに筆を染めたものが往々存在する。 清倍は宝暦十三年十一月二日に没し、浅草法成寺に葬つた。法号を清巌院宗林日浄信士といふ。今は染 井墓地に改葬されている。四男六女があつたが早世したものが多い。次男の清満が家を継いだ。(中略) 若しこの清倍二人説が、成立するとせば、これまで行はれて居る清倍の伝記を二分して、その初期の優 秀なるものは初代清倍の作で、漆絵紅摺絵を作つた清倍と区別しなければならない。(中略) この書に於ては、清倍の伝を記述するのに、従来の説によつた。然し二代目清倍を認めるのであるから、 正徳年間を分界とし、享保の半以後から、宝暦十三年までを、その制作の期間と考へるのがよかろう〟