Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ きんぞう うたがわ 歌川 金蔵浮世絵師名一覧
(歌川豊清参照)
 ☆ 文化七年(1810)    ◯「合巻年表」〔国書DB〕(文化七年刊)    歌川金蔵    『筆始日出松』三巻 歌川金蔵画 東西庵南北作    (巻頭 歌川豊国の口上)    〝豊広せがれ金蔵は予が門弟にして 今とし十二才の半額(わんぱく)ざかりなれば 画(ゑ)の道は立習     ひなるを 甘泉堂主人がこゝまでおいでのすゝめにより 手ばなしの三冊もの ふつゝかな処も金ぼ     う/\と私同似に御ひゐきをねがふものは おし匠さんの豊国       似家蜂(ぢがばち)やそだつを江戸の花の影     おめみへいたしましても としがまはらぬから したがまわらぬゆへ ◎ゞ ごひゐき/\とばかり     申上舛       十二才 金蔵 御ひゐきを御ねがひもうちまつ〟    (巻末)署名「画工 歌川金蔵」    〝世に高名の作しやをさしをき 僕がふむでにて 金ぼうが名ひろめの草紙 ふづくりしも おこがま     しけれど はん元のすゝめゆへゆるし給へ       歌川川の流千すぢに雪解◎〟     〈金蔵12歳、寛政11年(1799)生。〉    ◯『一対男時花歌川』(式亭三馬作・前編 歌川豊国画、後編 歌川豊広画・文化七年刊)   (三馬口上)   〝当年も何がなめづらしきしゆかう(趣向)をと、かんがへまする所に歌川豊国のぞミにしたがひ、せわ    狂言のせかいにて、かぶき芝居二日かハりのしうちになぞらへ、豊広豊国画工兄弟よりあひがきのさう    し、しかも急作につづりあはせ、御らんにいれ奉りまする。     (中略)    此所にてわけて申上まするハ、御ひいき思召あつき豊ひろ豊くに、おの/\さまがたへ御礼の口上、め    い/\に申上たうハぞんじますれども、こみあひましてかき入レの所もござりませねバ、しばらく御用    捨を希奉りまする。扨又、これにひかへましたる小せがれハ豊広せがれ歌川金蔵、つぎにひかへをりま    するハ豊国門人文治改歌川国丸、安治郎改歌川国安、これにひかへしかわいらしいふりそでは私門人益    亭三友、いづれもじやくはい(若輩)ものどもにござりますれバ、御とり立をもつて、すゑ/\大たて    ものとなりまするやう、豊ひろ豊くに私にいたるまで、ひとへに/\希奉ります、まづハ此所二日がハ    りのしん板はやり、うた川両人がつれぶしの御ひやうばん、おそれおほくも大日本国中のすミからすミ    までずいとこひねがひ奉ります。    豊国豊広口上    御礼のため、式亭歌川の惣連中御め見へいたさせまする。御ひいき御とり立御れいの口上ハ、私ども両    人ニなりかハりまして、式亭三馬口上をもつて申上奉ります。(後略)〟    〈この出版の経緯は下出「一対男時花歌川」『戯作六家撰』に出ている。(本HP「浮世絵事典」の項「一対男時花歌     川(イッツイオトコハヤリウタガワ)」参照)もともと刎頸の交わりとでも称すべき間柄であった両者が絶交状態に陥ったのは、豊     国が三馬の挿絵を後回しにしたことが発端のようだ。みかねた板元・伊賀屋が間に入って仲裁した。この出版は和睦     のしるしである。下出の挿絵は口上の場面、肩衣に「馬」の字は三馬の門人、肩衣に「年玉印」は歌川門の人々。い     わば一門あげての和解である。豊国が中央、左右に豊広と三馬がいて、背後に双方の弟子たちが控える。名を列記す     ると、三馬側は益者三友・徳亭三孝・楽亭馬笑・古今亭三鳥。歌川派は豊広の脇に倅の金蔵、そして国貞・国丸・国     安・国長・国満が控える。ただ、国貞はなぜか一人だけ離れて、三馬の門人側に座っている。この挿絵は豊国が画い     たのだろうが、この配置に何か意味があるのだろうか。そして挿絵の上部にやはり連中の名の入った提灯が下がって     いる。右から馬笑・三馬・三孝・三鳥・三友・豊広・金蔵・年玉印だけのもの・国貞・国安・国政・豊国・国長・国     満・国丸・国久・国房と並んでいる)        『一対男時花歌川』前編・口上 豊国画 (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)    「一対男時花歌川」(『戯作六家撰』)    ☆ 没後資料    ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年、新聞「小日本」に寄稿)   ◇「一世歌川豊国伝」p94   〝按ずるに、初日『【井屋茨城/全盛合奏】一対男時花歌川』は、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀    屋勘右衛門板なり。序のかわりに豊国、豊広、および三馬が門人等の像をかかげて、俳優貌見世の体に    倣う。三馬門人は馬笑、三孝、三鳥、三友等を載せ、豊広、豊国の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、    国長、国満、国丸、国久、国房を載す〟     〝(式亭三馬『一対男時花歌川』の口上)これにひかえましたる小倅は、豊広せがれ歌川金蔵、次にひか    えまするは豊国門人文治改歌川国丸、安次郎改歌川国安、これにひかえしあいらしいふり袖は、私門人    益亭三友、いずれも若輩のもの共にござりますれば、御取立をもって、末々大だてものとなりまするよ    う、豊広、豊国、私にいたるまで、偏に偏に希い奉ります〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   (歌川金蔵名の作品)    作品数:1点    画号他:金蔵・歌川金蔵    分 類:合巻1    成立年:文化7年    〈一点は東西庵南北作の合巻『筆始日出松』。歌川金蔵こと豊清は寛政十一年(1799)生まれとされるから、この当時、     実に十二歳である〉