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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ かいげつどう 懐月堂
(懐月堂安度〈あんど〉参照)
浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕
☆ 正徳年間(1711~1716) ◯『増訂武江年表』1p120(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) (「正徳年間記事」) 〝懐月堂(号安慶(ママ)、称源七)この頃行はる(誠云ふ、懐月堂は浅草蔵前に住ひす)〟
〈この「誠云ふ」は関根只誠の増補か。「安慶」は「安度」の誤記〉
☆ 享保十年(1725) ◯『独寝』〔燕石〕③106(柳沢淇園著・享保一〇年成立) 〝浮世絵にて英一蝶などよし、奥村政信、羽川珍重、懐月堂などあれども、絵の名人といふは、西川祐信 より外なし、西川祐信はうき世絵の聖手なり〟 ☆ 享保十七年(1732)
◯「絵本年表」
〔漆山年表〕(享保十七年刊)
白鳳軒雪岑画
『俳諧蔵の衆』半紙本三冊 白鳳軒雪岑筆 懐月堂指水書 英一蝶等画 露月撰 万屋清兵衛板 ☆ 享保十九年(1734) ◯『本朝世事談綺』〔大成Ⅱ〕⑫521(菊岡沾凉著・享保十九年刊) 〝浮世絵 江戸菱川吉兵衛と云人書はじむ。其後古山新九郎、此流を学ぶ。現在は懐月堂、奥村正信等な り。是を京都にては江戸絵と云〟
☆ 没後資料
◯『浮世絵類考追考』(山東京伝編・享和二年十月記・文政元年六月写)
(本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
懐月堂
享保中人、世事談の内、姓名つばらならず。今おり/\その絵を見るに、懐月堂とのみあり ◯『耽奇漫録』下133(「耽奇会」第十一集・文政八年二月一日) (「古画美人十五幅」の項) 〝古画美人十五幅【今こゝにその落款のみを模写す】 日本戯画 懐月堂図之(印)〟
〈松羅館・西原梭江の出品〉
◯『増補浮世絵類考』
(ケンブリッジ本)
(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
(( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)
〝懐月堂 浅草諏訪町に居住す 俗称〈岡崎〉源七 号 安慶 〈曳尾庵云、我衣に、懐月堂末葉度秀〈イ慶秀か〉あり。月岑蔵懐 月堂末葉安知の女絵あり〉 宝永正徳の頃の人、世事談に見ゆ。姓名詳かならず。いまおほく其絵を見るに、懐月堂とのみあり(以 上類考ノ追考)〟
〈『無名翁随筆』(渓斎英泉著。別名『続浮世絵類考』)にはあった江島生島の記事を削除。江島は大奥の女中なので、 町名主・斎藤月岑はお上を憚って削除したのだろう〉
☆ 明治以降(1868~) ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊) 〝享保 懐月堂 享保の頃、紅彩色、一枚摺の絵を画て京阪諸国に出す、此を始めて江戸絵と称す〟 ◯『浮世絵師便覧』p213(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊) 〝懐月堂(クワイゲツドウ) 一説に名は安慶、俗称岡沢源七、宝永正徳頃の人、又花街浸(ママ漫)録に、元和中浅草に住ける人、御府 浮世画師の祖とあり、又古画備考には元禄より、少し古しといへり、何れか是なるを知らず、日本戯画、 懐月堂安度図之、又日本戯画、懐月堂末流度繁図など、落款せる美人画あり〟 ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(146/218コマ)
〝懐月堂 姓氏詳(つまびらか)ならず 通称源七といふ 又安慶と号す 享保年間の人なり 浮世絵を能くして 世に名あり(扶桑画人伝)〟 ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年(1901)七月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(167/225コマ) 懐月堂 正徳享保頃の人にして、江戸に住し、一種勇健なる線を以て美人画を作る。其の彩色模様亦単純にして 雅致あり。但図様は常に一人又は数人の美人にして変化を見ず。其の伝記は詳ならずして、落款には度 繁又は安知と記するを見る。別人とすれば着色等、度繁の方勝れたるが如し〟 ◯「懐月堂の流罪」兼子伴雨著(『錦絵』第十一号所収 大正七年二月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
懐月堂の流罪
兼子伴雨著 ◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)
(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
〝懐月堂 安度、度種、度辰、度秀、度茂共に之を称すれども、単に懐月堂と落款するは、安度なり〟 ◯『浮世絵師伝』p62(井上和雄著・昭和六年(1931)刊) 〝懐月堂 【生】 【歿】 【画系】 【作画期】宝永~正徳 岡沢(一に岡崎とす)氏、名は安度(安慶とせるは誤)、俗称源七、別号を翰運子といふ、浅草諏訪町 に住す。画系未だ詳ならざれども、鳥居清信・奥村政信等の画風を参酌して、新たに一派を開きしもの ゝ如し。描く所の婦女の風俗によりて、作画年代は宝永乃至正徳年間を超えざるものなる事を知るに足 るべく、また彼は正徳四年春奥女中江島の一件に連座し、同年四月蔵前の豪商梅屋善六等と共に伊豆大 島に流謫されし由なれば、其の時を以て一旦作画を中止せしものと見るを得べし。 世に流布せる版画及び肉筆物中に、安知・度繁・度辰・度種・度秀等の落款を有し、いづれも「日本戯 画懐月末葉」の八手を冠したるものあり、画風の特徴、落款の書体等に類似の点多く、遊女のみ描きし 故、或は一人の懐月堂安度が、自家広告の爲に斯く別号を用ゐしものならむとの説あれども、恐らくは 然らず、乃ち一般に伝ふるが如く安度の門人なるべしと思はる。(口絵第八図参照)〟
〈『浮世絵師伝』は「歴史的仮名遣い」による表記のため、「懐月堂」は「カ」ではなく「ク」の項目に入っている〉
◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32)) ◇第一部「浮世絵の盛衰」「明和の彩色摺から錦絵の出るまで」p20 〝享保十七年板『近世百談』に「浮世絵は菱川師宣が書出し、現在は
懐月堂
、奥村政信等なり、富川吟雪 房信と云ふ人、丹絵の彩色を紅にて始めたるを珍らしく鮮かなりとて評判云々」とある〟
〈「日本古典籍総合目録」に『近世百談』は見当たらない〉
◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊) ◇「元和年間」(1615~24)p9 〝『花街漫録』下の巻に懐月堂安慶の画ける遊女の図を載せ、説明して、このうつし絵は寛文の頃、茗荷 屋奥州といへる遊女のすがたにて懐月堂といふ人の筆なりといひ、又懐月堂を註して、元和中浅草に住 ゐける人にて御府内浮世絵師のはじめなりいへり。 天童按ずるに懐月堂の伝諸説区々にして詳ならず。固より一人にあらずして代々懐月堂と称して、懐月 堂末葉などと署せる者さへあり、其内に安度・安慶など最も秀でたる者の如きも、『花街漫録』にいへ る如く、果して元和頃に懐月堂ありしや否やは疑あり。余は宝永・正徳頃の懐月堂の肉筆を見、下りて 享保の俳署に懐月堂と署せるを見たれども、元和頃に溯りての者は未だ見ず〟 ◇「正徳三年 癸巳」(1713)p69 〝六段本にて近藤清信と署せる挿画にて『源平両輪后』又懐月堂風の挿画にて『たるいおせん江戸物ぐる い』あり〟 ◇「享保八年 癸卯」(1723)p77 〝此年懐月堂歿せりといふ説あり〟 △『増訂浮世絵』p63(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊) 〝懐月堂流の版画 懐月堂流には版画が少い。始祖の安度は版画を作らなかつたが、その末葉を名乗る度繁、度辰、度秀、 安知等は版画を作つてゐる。その画の幅員は、後の版画より大きい。墨一色摺で、版画の効果を覘つた ものであり、その作は何れも優秀である。元来図様が単純で、表現の手法が簡素であるから、版画によ く適したのであらう。(中略)懐月堂流の特色たる太く強い線と、銀杏の葉を黒と白との対照によつて あらはした文様で、版画の効果を最もよくあらはしてゐる。要するに、懐月堂流の版画の特色は概ねか やうな風趣である。 なほこゝに注意すべきは、この流の版画は安度の直門のものゝみ作つたのであつて、この画系を引く他 の作家は皆肉筆画のみ作つて、版画に及んでゐない〟