Top             「懐月堂の流罪』         その他(明治以降の浮世絵記事)  ◯「懐月堂の流罪」兼子伴雨著(『錦絵』第十一号所収 大正七年(1918)二月刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝  旗を翻した渠(かれ)及渠の名と風俗画      (省略)      渠は米屋となり柄屋(おかや)の参謀となつた     渠は富豪柄屋善六に、同町住居の故をもつて知遇を得て、後には蔵所の米宿を購ふて貰ひ、出羽屋と    名乗り、繁く柄屋方へ出入した、疑問は茲に存在される。渠は如何に浅間しと雖も、画道を以て優に生    活されたとしたら、何を好んで、美術家には煩雑の感のある米商なぞを兼業する必要があらうか、想ふ    に渠は画道一方では、生活に困難な処から、信用あるに任せ、富豪の柄屋に縋り、米宿の株を購ひ得た    と判断される、而(そ)して渠は意外の俗物であつて、貨殖に心傾けて居た事も、以下の事蹟によつて益    々了解される。     諸家の御用達を勤める善六は、一躍向上して、徳川家御本丸の御用を引受けたい希望で、深く計画し    た際、如何にすべきか其の手段を懐月堂の源七に謀つた、但し善六は正統の手続きを踏んで出願しやう    と云ふのを、渠は遮り側面から受入る方が早く、必ずや成功しやうと説いた程で、渠は実に柄屋の為め    には無二の参謀官であつた。      渠の知略と其の曝露     其の取入る手段として渠は、当時小普請方金井六左衛門のもとへ、樽代として金百両を贈り、その執    り成しを頼んだ、柄屋は又た奥医師奥山交竹院へ、密かに賄賂を贈つて、大奥の女中達を説(と)かして、    内外から責立てる搬びにした、此の贈賄を受けた交竹院は、月光院主附奥女中で、表年寄の江島とは、    縁類の関係から之を説き、江島を取入る手段としれ、正徳三年四月、木挽町山村座の見物に誘引した、    二十五日 渠は参謀役として、柄屋と俱に問屋へ随行して万事を斡旋した。     越えて翌四年正月又も江島が山村座を見物の際、徒目付松永弥一左衛門、御小人目附岩崎忠七が見廻    りに来て、捨て置かれぬ義だと、江島が見物の桟敷の入口へ来て、何人にても面談を仕たいと申込んだ    時に、応対の役を勤めたも懐古堂の源七で、此の役人共から、桟敷の中の人は何者だと尋問された時、    渠は「柄屋の家内者です」と云ひ抜けやうとして、弥一左衛門に睨まれ、根拠なく白状して居るばかり    か、江島が囚れの身となると、奉行所へ呼び出されて、一応吟味の際、江島に春宵秘戯の図を描いて贈    つた事を告白して居る。     江島は信州高遠へ謫せられると同時に、柄屋と懐月堂の居宅は闕所となり、二人は正徳四年三月伊豆    の大島へ流刑に処せられた、坊間江島騒動と云へば、人々の熟知する処であるが、其の騒動の根本たる    首謀者は、源七の懐月堂であつた事は、世間で多く語らないも不思議である〟