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(07/12/27作成)

(08/1/29掲載)

(15/11/11追記)

(21/10/14追記)

[ 交響曲第4番の版 ] [交響曲第8番の稿と版] [交響曲第8番のハース版とノヴァーク版との違い]


 お隣の福島では、近々アマオケがブルックナーの7番を演奏するそうですが、ニューフィルでブルックナーの交響曲を演奏する機会などは、しばらくありません。ただ、最近7番のCDの新譜(録音自体は古いものですが)を聴いてみたら、版について興味深いことが分かりましたので、ちょっとご紹介を。これが呼び水になって7番を演奏することもあればいいのですが(ワーグナー・チューバが必要だから、それはないか)。

 まず、この曲の出版経緯についておさらいしてみましょう。ブルックナーの交響曲の中では非常に珍しいことに、この「7番」では作曲家自身による改訂が行われていません。さらに、弟子たちによる改竄の跡も基本的には認められないという、幸運な出自を持っていました。従って、1885年に出版された初版は、ブルックナーの自筆稿がそのまま印刷されたものとなりました。後に批判校訂版が作られたときには、旧全集として1944年に出版されたハース版では、自筆稿の中にある、後から書き加えられた部分を、作曲者の意志ではないとして取り除いています。その最も目立つ部分は、第2楽章のクライマックス、177小節からのティンパニとシンバル、トライアングルの強打です。しかし、その後、新全集として1954年に出版されたノヴァーク版では、この部分を含めて初版の形に戻されています。
 初版、ハース版、ノヴァーク版という3種類の出版形態の間には、従って小節数やメロディラインにはなんの相違もありません。その違いは、単にオーケストレーションや表情記号の細かい部分だけだということになります。しかし、1ヶ所だけ初版と全集版(ハース版とノヴァーク版)との間で主要パートの音が異なっている場所があります。それは第2楽章の189小節目、1番テナー・チューバ(ワーグナー・チューバ)の上に上がった音(赤い音符)です。全集版(→MP3/128小節目から)ではどちらも記譜でF(実音Es)ですが、初版(→MP3/128小節目から)ではFis(実音E)になっています(チェックポイントE)。
 かつては初版もオイレンブルク版として出版されていましたが、現在ではそれはノヴァーク版に置き換わっていますから、入手することは出来ませんでした。幸い、ハース版はドーヴァー版として容易に入手できますので、今回はそれを元に、ハース版とノヴァーク版との相違点を検証してみます。
ハース版(DOVER ノヴァーク版(MWV
 他の交響曲の場合と同様、ノヴァーク版の出版譜はハース版の版下をそのまま転用、必要な部分だけ新たに書き直す(手書きで!)という作業が行われていますから、比較自体はそんなに難しいものではありません。こんな風に、文字も手書き(ノヴァーク版第1楽章115小節)、音符も手書きですから、書き加えた部分はすぐ分かります。

 ただ、ドーヴァー版は、ハース版を決して正確にリプリントしたものではない点は、注意をしなければいけません。ドーヴァーというのはアメリカの出版社ですから、曲のタイトルや楽章の数字などは、本来のドイツ語表記から英語に直したものに差し替えられています。
(DOVER) (MWV)
 それ自体は別に悪いことではないのですが、その作業中にとんでもない間違いを犯してしまっているのはちょっと問題です。第2楽章は、ドーヴァー版ではこんな事になっています。もちろん、この「ANDANTE」は明らかな間違いです。
(DOVER) (MWV)

 そんなお粗末な間違いはさておき、お互いの楽譜を見比べて、表情記号のような曖昧なものではなく、実際に耳で聴いてはっきり判別できる相違点をまとめてみました。参考までに、スクロヴァチェフスキ盤の時間を表記しておきます。
第1楽章103-104小節(チェックポイントA):5:01
ノヴァーク版には、ホルンが入っています。
ハース版
ノヴァーク版
第1楽章123-131小節(チェックポイントB):5:51
ハース版のホルンのパートが、ノヴァーク版では、オーボエに変わっています。
ハース版
ノヴァーク版
第1楽章148-149小節(チェックポイントC):7:00
ノヴァーク版には、木管のハーモニーが入っています。
ハース版
ノヴァーク版
第2楽章177-182小節(チェックポイントD):19:15
ノヴァーク版にはティンパニが入っています。最初の小節にはトライアングルとシンバルも入っています。ちなみに、この部分は、ハース版の使い回しではなく、版下自体が新しく起こされています。それは、例えば練習記号の「W」のフォントなどを比較すればすぐ分かることです。
ハース版
ノヴァーク版
第2楽章189小節(前述 チェックポイントE):21:04
第2楽章216小節から(チェックポイントF):24:24
ハース版とノヴァーク版とでは、弦楽器のピチカートの開始部分が違います。
ハース版
ノヴァーク版

 こういう比較を試みるそもそもの発端となったCDは、テンシュテットがロンドン・フィルを指揮した1984年の録音です。BBCによって放送されたコンサートのライブ録音が、以前は海賊盤として出ていたのですが、最近オーケストラの自主レーベルから正規盤としてリリースされました。そのジャケットには「ハース版」と明記されています。しかし、ブルックナーの交響曲を版別に詳細に分類したウェブサイトでは「ノヴァーク版」とされているのです。このサイトは、同じ録音でもローカルなリイシューまでも含めて、すべてのリリース形態を網羅したというマニアックなものですから、そのデータの信頼性は高いと思われても当然です。しかし、そのCDは仮にも公に出版されたものなのですから、そのデータを頭から間違いと決めつけるのもフェアではありません。そこで、このようなチェックポイントをもとに、実際に聴いてみることにしました。ついでに、手元にあった「7番」の音源を、すべてチェックしてみました。その結果が、これです。
チェックポイント A B C D E F CDの表記 サイトの分類
テンシュテット/ロンドン・フィル(84/5) N H H N H ハース版 ノヴァーク版
インバル/フランクフルト放響(85/9) N N N N N ノヴァーク版 ノヴァーク版
スクロヴァチェフスキ/ザールブリュッケン放響(91/9) N N N N H なし ノヴァーク版
ヘレヴェッヘ/シャンゼリゼ管(04/4) N N N N H なし ノヴァーク版
マズア/ライプチヒ・ゲヴァントハウス管(74/6) H H H H H オリジナル版 ハース版
小沢/サイトウ・キネン・オケ(03/9) N N N N H ノヴァーク版 ノヴァーク版
マタチッチ/チェコ・フィル(67/3) N N N N N なし 初版
ヤング/ハンブルク・フィル(14/8) N N N N N ノヴァーク版 ノヴァーク版

 実際に版を明示して演奏する場合でも、指揮者の裁量によって部分的に別の版の形を取り入れるというのはよくあることです。この曲の場合、「ハース版」と言いながら「チェックポイントD」でティンパニや打楽器を入れるのは、かなりの指揮者が取っている方法です。さらに、「チェックポイントE」で、あえて初版の形で演奏することも、多くのオーケストラでの「慣習」となっています。さらに、「チェックポイントF」も、多くのノヴァーク版でハース版の形が取られています。つまり、この曲では「ハース版」や「ノヴァーク版」をきちんと楽譜通りに演奏しているものは極めて少ないということになります。そのようなことを考慮に入れてみると、テンシュテットの場合は「チェックポイントA」がちょっと気になりますが、基本は「ハース版」という、CDの表示通りの版の選択であると断定できるのではないでしょうか。
 インバルの場合は、まさに「初版」そのものです。彼のブルックナーの録音は、「すべて初稿による」というコンセプトだったはずですから、これは納得、CDの表記が間違っていたことになります。
 実は、マタチッチ盤はサイトの「初版」というのを信じて、この版のサンプルとして今回新たに購入してみたものです。しかし、実際はこのリスト中唯一完璧な「ノヴァーク版」であったことが分かります。どうやらこのサイトの信憑性は、かなり疑わしいと言わざるを得ないようです。

追記(15/11/11)
 ブルックナーの楽譜に関しては、2014年末から、「9番」の第4楽章を復元したことで有名なベンヤミン=グンナー・コールスなどの校訂による新しい原典版の出版が始まっています。2015年には「7番」も出版され、先日2015年11月8日には、ダニエル・ハーディング指揮の新日本フィルによって日本初演が行われていますから、これからの動向が注目されます。当日のパンフレットで、関野さとみ氏はこの楽譜について、次ように述べています。
コールスは、シャルクやレーヴェによる修正が加えられた「初版」がブルックナーによって管理され、ブルックナー自身も存命中にピアノ編曲やオーケストラの演奏で何度も親しんでいることから「初版」を一次資料とみなしつつ、裏付けとして下書きの草稿や自筆スコア、自筆の記載入りの複写譜、さらに書簡やピアノ編曲譜などを可能な限り検証した。コールスのこうした丹念な作業から、最終的に「初版」には修正されなければならない多くの小さな間違いや矛盾が発見され、コールスの校訂報告ではそれらの詳細な修正を細かく列挙しているほか、新たに引き出された解釈が代案として楽譜に示されている。
追記(21/10/14)
 上記の「新しい原典版」の詳細な事情を、こちらに掲載しました。

参考文献
ブルックナー/マーラー事典(根岸一美著・1993年東京書籍刊)
新日本フィルハーモニー交響楽団第549回定期演奏会パンフレット


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