フルーツと、ハーブ。.... 佐久間學

(06/2/24-06/3/19)

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3月19日

James Bond Themes
Carl Davis/
The Royal Philharmonic Orchestra
MEMBRAN/222910-203(hybrid SACD)


6代目のジェームス・ボンドがやっとダニエル・クレイグに決まって、次の第21作目の制作が始まったという「007」シリーズですが、第1作が公開されたのが1962年、この新作「カジノ・ロワイヤル」が日本で公開される頃には「45周年」を迎えることになります。とてつもないシリーズになってしまったものです。
そうなってくると、数々の映画の中で登場した主題歌たちは、しっかり「クラシック」としての地位を獲得し、このような本物のクラシックのオーケストラのレパートリーともなって、この手のCDも数多く出ることになりました。しかし、お高くとまったクラシックの演奏家たちが、かつてご紹介したものほどの熱意を込めず、「たかが映画音楽」と手を抜くことを考えようものなら、彼らは手痛いしっぺ返しを食らうこととなるのです。
1曲目は、シリーズ全ての冒頭のタイトルを飾る「ジェームス・ボンドのテーマ」、このシリーズに切っても切れない縁がある作曲家ジョン・バリーの作品だと思われがちですが(私も最近までそう思っていました)実はモンティ・ノーマンによって作られた物だったのですね。この、あくまでスマートでかっこよくあるべき曲が、おそろしく野暮ったく聞こえてきたのが、そんな「手抜き」の一つの証でしょうか。何しろ、金管セクションの人達はただ譜面づらをなぞっているだけ、そこには原曲の持っているスウィング感などは微塵も感じられなかったのですから。
2曲目の「ロシアより愛を込めて」(これも、ジョン・バリーではなく、ライオネル・バートの曲だったんですね)では、こういう編成での最大の魅力である流れるように芳醇なストリングスの醍醐味が味わえることを誰しもが期待するはずです。ところが、「本職」であるはずのこの弦楽器セクションのやる気のなさと言ったらどうでしょう。もしかしたら、コストを削減するために大幅にメンバーを少なくしたのかと疑いたくなるほど、それは情けない響きだったのです。
3曲目の「ゴールドフィンガー」(ここでやっとジョン・バリーの登場です)では、アレンジの拙さが露呈されます。ニック・レーンというアレンジャーは、元ネタの「ここだけは外せない」という美味しい部分を全く無神経に変えてしまったのですからね。この曲の冒頭で最もかっこよく聞こえてくるはずの「パップヮーッパーッ」というホルンのフレーズを、「パ、パ、パ、パ、パー」と言う間抜けな形で吹かせている神経は、全く理解できません。
ところが、ジョージ・マーティンが音楽を担当した「死ぬのは奴らだ」での主題歌、ポール・マッカートニーとウィングスの「Live And Let Die」になったとたん、みずみずしいグルーヴが蘇ってきたのには、ちょっと驚かされました。そう感じたのは、この曲が、ちょっと今までとは毛色の違ったアレンジのプランによるものだったからかもしれません。ここではオリジナルのマーティンのアレンジをかなり忠実になぞっていて、メインヴォーカルの部分にはファズ・ギターをフィーチャーしています。もしかしたら、「本物の」ロック・ミュージシャンが参加することによって、今までかったるい演奏に終始していたロイヤル・フィルのメンバーが、見事にやる気にさせられてしまったのかも知れませんね。
同じようなことは、きちんとしたリズム・セクションが入った最後の「ゴールデン・アイ」でも見られます。自分たちだけの力では「たかが」映画音楽にさえ命を吹き込むことが出来なかった「クラシック」の演奏家、今活況を呈している「ライト・クラシック」とか言う分野では、このような醜態にいとも簡単に出会うことが出来ます。そんなことでええがね。

3月17日

Le Cantique des Cantiques
Anders Eby/
Mikaeli kammarkör
FOOTPRINT/FRCD 011


アルバムのサブタイトルが「フランス語による合唱音楽」、ア・カペラ混声合唱による「フランス語」がテキストとなった4人の作曲家の作品が集められています。有名なドビュッシーの「シャルル・ドルレアンによる3つのシャンソン」が1904年に作られていますが、他の3曲はいずれも20世紀半ば以降の作品です。
表題の「ソロモンの雅歌」は、もちろんパレストリーナの作品で有名な、旧約聖書の「雅歌」からテキストが取られたものです。これを作った1908年生まれのフランスの作曲家、ジャン・ダニエル=ルシュールは、ブーレーズやジョリヴェなどと「若きフランス」というグループを結成していたことでも知られていますね。1952年にマルセル・クーロー(この合唱指揮者の手によって、クセナキスの「夜」や、メシアンの「5つのルシャン」など、数多くの名曲が命を吹き込まれました)に委嘱されて作ったこの曲は、彼の最も有名な曲として世界中で演奏されているそうですが、私が聴いたのはこれが初めてです。
しかし、スウェーデンの合唱団、ミカエリ室内合唱団は、その私の初体験を、いかにも棒読みのような薄っぺらなフランス語の発音で、いささか白けさせてくれました。これが発音だけの問題に終わらないのが、ちょっと困ったところです。「北欧」と言われて連想されるようなキッチリしたハーモニーが、なかなか生まれてこないもどかしさ、ちょっとした「ゆるさ」が、そこにはあったのです。私の過大な期待に対する見返りがこれなのか、と思い始めた頃、5曲目の「禁断の庭」になった途端、今までとは全く異なる明晰な響きが聞こえてきたのは、この曲がセミコーラスで演奏されていたからでしょう。ピックアップメンバーによるこの曲からは、怪しいまでのエロティシズムさえ漂ってくるような、真に迫った表現が感じられたのです。トゥッティでもこの水準が維持されていれば、何も言うことはないのですが。
フランセの「ポール・ヴァレリーの3つの詩」では、いくらか立ち直りを見せてくれたでしょうか。3曲目の「妖精」での、伴奏の軽やかなリズムパターンなどは、彼一流のの軽妙な持ち味をよく引き出しているものです。
ただ、多くの名演を体験してしまっているドビュッシーでは、この程度の演奏ではちょっと踏み込みが浅いと感じてしまうのは、仕方のないことでしょう。ディクションの欠点はここでも露呈されていて、言葉のイントネーションが活かされていない平板な表現に終始しているという印象は拭うことは出来ません。2曲目のアルト・ソロの、何とかったるいこと。
最後の曲は、ドイツの作曲家ヴェルナー・エックの「3つのフランス語の合唱曲」です。これがあったから、アルバムタイトル(サブタイトル)も「フランスの〜」となっていたのでしょうね。1940年にバレエの中の曲として作られた物ですが、なぜか、この曲に最もシンパシーをおぼえてしまったのは、演奏家との相性が最も良かったせいなのかもしれません。ドビュッシーと同じ、シャルル・ドルレアンのテキストを、いかにもフランス風のハーモニーで包み込んだ作品、しかし、そこには明らかにドイツ音楽の論理性が見え隠れしています。不得手なフランス語でつい馬脚を現してしまったスウェーデンの合唱団、しかし、言葉に関しては同じような境遇にあったこの作曲家の作品からは、見事なまでの共感を引き出すことが出来たのでしょう。

3月15日

BACH
Variations Goldberg
Erik Feller(Org)
ARION/ARN 68673


バッハの有名なクラヴィーア曲に付けられた「ゴルトベルク変奏曲」というタイトルは、言ってみればベートーヴェンの「運命」のように、後に付けられた俗称です。それぞれの変奏が「アイアン」とか「パター」だと(それは「ゴルフクラブ変奏曲」)。正式なタイトルは「クラヴィーア練習曲集:アリアと様々な変奏Klavierübung:Aria mit verschiedenen Veränderungen」という素っ気ないものです。ここで指定された楽器「クラヴィーア」というのは、現代では殆ど「ピアノ」と同義語になっていますが、本来は「鍵盤楽器」という意味、従って、バッハの時代には普通はチェンバロで演奏されました。もちろん、その他の鍵盤楽器、クラヴィコードや、あるいはその頃すでに作られていたフォルテピアノで演奏された機会もあったことでしょう。それから一歩進んで、同じ鍵盤楽器なのだから、オルガンで演奏しても良いじゃないか、という事で、録音されたのがこのCDです。元々の譜面は2段鍵盤のために書かれているものですから、それを2つの手鍵盤で演奏すれば、特に編曲などはしなくてもそのまま音になります。これは、ちょっと盲点をつかれた素晴らしいアイディアではないでしょうか。
という程度の軽い先入観で聴き始めたのですが、すぐさま、どうも状況はそんな単純なものではなかったことに気づかされることになります。「アリア」が、「Schwebunk」という、ビブラートのかかったストップで聞こえてきた時、それは紛れもないオルガン曲の響きを持っていたのです。ここで使われている楽器は、フライブルクの教会にある1735年にゴットフリート・ジルバーマンによって制作されたもの、もちろん、最近修復はされていますが、基本的な構造は変わっていませんから、「トラッカー・アクション」という、鍵盤からパイプを開閉させるまでのメカニックなシステムのノイズがかなり大きく聞こえます。そのノイズは、あたかも禁断の世界への入り口を開くパスワードであるかのように、私達をバッハの時代のオルガンの世界へと導いてくれたのです。バッハ自身がこの楽器を演奏したことはありませんが、そこにあったのはまさにバッハの時代の教会に於けるオルガンの響きそのもの。そう、雇い主の不眠症を解消するために作られたという穏やかなアリアは、オルガンで演奏されたことによって、まるで敬虔なコラールであるかのように聞こえてきたのです。
それに続く変奏には、ですから、オルガンならではの多彩な音色の変化を味わえる楽しみが待っています。まず、同じ変奏の中でも繰り返しで必ずストップを変えているのが素敵。第2変奏で出てくる「Vox Humana」というストップの鼻の詰まったような幾分ユーモラスな響きも、耳をひきます。第7変奏で現れる「トランペット」というリード管も、まるでフランス風のノエルのような軽快さを与えてくれます。第8変奏では「Vox Humana」と「Schwebunk」が一緒になって、ちょっと危うげなすすり泣きのような効果が出ています。次の第9変奏では、ペダルまで加えたフルオルガンによる壮麗な、まさに音の建造物といったスペクタクルサウンドが味わえますよ。かと思うと、第13変奏や第25変奏のような装飾的なメロディはまさにオルガンの独壇場。16変奏の「序曲」も、フルオルガンでチェンバロでは到底表現できない分厚い世界を見せてくれています。それと対照的な第21変奏のような静謐な世界。最後に「アリア」が再現される時にも、冒頭とは微妙に異なるレジスタリングで、楽しませてくれています。
まるで最初からオルガンのために作られたような顔を見せてくれた「ゴルトベルク」、ここでも、演奏される楽器を特定しなくても成り立つという、バッハの曲の持つ強固な普遍性が明らかになりました。

3月11日

MOZART
Requiem
Miriam Allan(Sop),Anne Buter(MS)
Marcus Ullmann(Ten),Martin Snell(Bas)
Morten Schuldt-Jensen/
GewandhausKammerchor
Leipziger Kammerorchester
NAXOS/8.557728


このところ、月1回ぐらいのペースでモーツァルトのレクイエムの新譜が出ています。マニアとしては嬉しいことですが、いちいちレビューを書いていても読まされる方にしてみれば煩わしいことかも知れません。ですからこれは、別に珍しい版を使っているわけでもなく、オリジナル楽器の演奏でもないので、とりあえずリストに載せる前に聴くだけ聴いてみようと思っただけなのです。そんなノーマークのアイテム、ところが、実際に聴いてみるとこれがとても素晴らしい演奏だったのには驚いてしまいました。
ここで演奏している合唱団は、1958年生まれのデンマークの指揮者、シュルト・イェンセンによって2001年に創設されたゲヴァントハウス室内合唱団です。それほど人数が多くないと思われるこの合唱団は、非常に訓練が行き届いているという印象を、たちどころに聴く人に与えてくれるはずです。パートとしてのまとまりや、トゥッティの時の響きの同一性といった基本的な「性能」は十分にクリアした上で、最も衝撃的にアピールしてくるのが、非常に軽やかなフットワークがもたらすリズム感の良さです。そこに、大胆で自由自在なフレージングが加わります。ライナーノーツの中でこの指揮者は、「モダン楽器であっても、フレージングやアーティキュレーションによってモーツァルトの時代の演奏の『幻影』を作り出すことは出来る」と述べています。例えば、「Kyrie」のフーガを聴いてみて下さい。その言葉通り、ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のメンバーによって組織されたライプチヒ室内管弦楽団とともにこの合唱団が織りなす声部の綾からは、まさにその「幻影」が浮かび上がってくるのをまざまざと感じることが出来るはずです。
そして、それ以上に素晴らしいのがソリストたちです。「Introitus」でまず聞こえてくるソプラノのアランの声の、何と美しいことでしょう。これは、かつてホグウッド盤でカークビーを聴いた時以来のショッキングな体験でした。少年のように透き通った、しかし、女声の持つ細やかな感情表現もしっかり備えているという、まさにこの時代の音楽の「幻影」を見せてくれるソプラノに、また一人出会えたのですからね。
アラン以外のソリストも、まさに粒ぞろい、ブターの深みのある音色、ウルマンの澄みきった響き、そしてスネルの力強さ。それぞれの魅力が堪能できるとともに、彼らが作り出すアンサンブルの妙も最高、この曲で4人の声がしっかり溶け合った時にのみ生み出される至福の時を、久しぶりに味わうことが出来ました。
モーツァルトがこの曲で聴衆の中に引き起こしたかった音楽的な感興、それは決して、モーツァルト時代の楽器を使ったり、不完全な補作を別なものに改めない限り与えることが出来ないものではありません。ここで彼らが見せてくれた軽やかな「レクイエム」の世界、それは、ここで演奏に関わっている全ての人達のの思いが一つの方向を向いた時、とてつもない訴えかけとなって伝わってくるのです。それこそが、シュルト・イェンセンの言うところの「幻影」なのかも知れません。それにしても、こんな素晴らしいCDがせんいぇん以下で買えるなんて。

3月9日

VIVALDI
Flute Concertos
Emmanuel Pahud(Fl)
Richard Tognetti/
Australian Chamber Orchestra
EMI/347212 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55805(国内盤 3月31日発売予定)

このジャケット、「パユさま」が物憂げに下を向いているショットがなかなか素敵ですね。ただ、このアングルだとおでこのサイドの部分がかなり上がってきてるのがはっきり分かってしまって、そういう意味での哀愁が感じられてしまうのはファンにとってはちょっと辛いことかも知れません。ある特定のアングルからの写真は決して認めないというゲ○バーのようなピアニストとは異なり、「全ての面で私を愛して欲しい」という気持ちの表れなのでしょうか。それとも、「外観ではなく、音楽で勝負」という境地に、ついに彼も達したという事なのでしょうか。
ヴィヴァルディの有名な作品10の協奏曲を中心としたパユの最新録音は、共演にオーストラリア室内オーケストラという新鮮な組み合わせを得て、今までになく斬新な味わいを持つ仕上がりになりました。このオーケストラは特に指揮者というものは置かず、コンサートマスターのリチャード・トネッティが中心になって、音楽を作っていくという形を取っています。そこからは非常にフットワークの軽い、自発的な音楽が生まれてきていることを感じることが出来ることでしょう。特に、アルバムを聴き始めてすぐ気付くのが、ダイナミックスの自在な変化です。作品10の1「海の嵐」の冒頭で、わずか1小節の間に急激なクレッシェンドとディミヌエンドを加えられているのを聴けば、そこからはショッキングなまでの躍動感が得られることを誰しもが感じないわけにはいきません。このような、生命感溢れる表情付けは、このアルバムを通して貫かれている彼らの一つの主張になっています。人によっては、終わりごろには「もういいや」と思う人がいてもおかしくないほど、それは執拗に迫ってきます。
パユのフルートは、そんな、ある意味作為的な流れの中で、特にソロとして目立つことのない、アンサンブルの中にしっかり溶け込んだ堅実な演奏ぶりを見せてくれています。しかし、それは見かけ上のことで、その様なさりげないそぶりの中に、実はものすごいテクニックと集中力が秘められていることには、果たしてどれほどの人が気づくのでしょうか。細かい音符が続くパッセージの中で、まるで一陣の風が吹き抜けたような錯覚に陥ったのは、絶妙なフラッター・タンギングのなせる技だったとは。
ゆったりした楽章では、彼らはもう少しの別の表情を見せています。そこでは極力ビブラートを抑えたパユのソロが中心になることによって、極めて禁欲的な佇まいが広がることになるのです。ある時などは、これ以上抑制したらもはや音楽ではなくなってしまうのではないかというほどの、ギリギリの段階で踏みとどまった極限のピアニシモに導かれて、あたかも異次元の世界の中にいるような体験が味わえるはずです。
もしかしたら、これはヴィヴァルディの音楽ではない、と感じる人がいたとすれば、それは、私達がランパルやゴールウェイによって開かれた健康的で豊饒な世界を知っているからなのかも知れません。例えば、作品10の5のような夢見るような穏やかな曲の中からも深刻な翳りを引き出さずにはいられないパユたちのアプローチによって、私達はヴィヴァルディの根源に関わるような問いを彼らから投げかけられていることを知るのです。その様なヴィヴァルディが果たして真実の姿なのか、あるいは一過性の流行なのか、それは歴史が証明してくれることでしょう。それまでは、ピーナッツの殻でもむきながら(それは「落花生」)気長に待つほかはありません。

3月6日

TAVENER
The Protecting Veil
Raphael Wallfisch(Vc)
Justin Brown/
The Royal Philharmonic Orchestra
MEMBRAN/222881-203(hybrid SACD)


以前クリスマスアルバムをご紹介したロイヤル・フィルのバジェット・シリーズ(とは言っても、サラウンド・レイヤー付きのSACDという立派なもの)、まさに玉石混淆のラインナップなのですが、その中に「癒しの帝王」タヴナーの名前がタイトルになったものがあったので、とりあえず曲名も見ずに買ってみたら、これが輝くばかりの「玉」でした。
ジョン・タヴナーといえば、このサイトでもお馴染み、瞑想的な曲調の合唱曲がよく知られています。しかし、ここで演奏されているのは、独奏チェロと弦楽合奏のための「奇蹟のヴェール」というインスト曲です。1987年にスティーヴン・イッサーリスのために作られたもので、2年後にはロンドンの「プロムス」で初演されています。そして、1991年には、イッサーリスによる世界初録音が行われました(VIRGIN)。その後、このような現代曲には珍しく、多くのチェリストがこの曲を取り上げるようになり、1996年にヨー・ヨー・マがSONYに録音するに及んで、一躍「有名曲」となってしまったのです。ラファエル・ウォールフィッシュによるこのCDは1994年の録音、おそらく、イッサーリスに次いで録音されたものでしょう。
タイトルの「奇蹟のヴェール」というのは、コンスタンチノープルを聖母マリアがヴェールで覆って、サラセン軍の攻撃から守ったというギリシャ正教での故事に基づいています。切れ目なく続く8つの部分から成るこの曲は、まるでイコンを順番に眺めていくような構成が取られており、最初と最後がこの「奇蹟のヴェール」、そして、その間に聖母マリアの生涯を描いた6つのイコンが置かれています。そう、まるであのムソルグスキーの「展覧会の絵」のような体裁を持っているのですが、そこでの「プロムナード」に相当するのが、「鐘のテーマ」です。それまでの瞑想的な曲調が、この、殆どクラスターといってもいい弦楽器の高い音の密集した和音の激しい刻みで断ち切られ、聴き手はそこで新たな風景を求める、という仕掛けです。その他にも、以前聴いた「徹夜祷」でも触れた彼の律儀な仕掛けは、その「鐘のテーマ」に続くFEという短9度の下降跳躍音型にも込められています。このパターンが登場するたびに、下の音Eのあとの音が一つずつ増えていって、最後に出てきた時には8つの音が揃うことになります。その最後の音から、この曲全体の「メインテーマ」が再現されて、一瞬の沈黙の後に次のイコンに移る、ということが、場面転換のたびに繰り返されているのです。
8つの「イコン」は、とてもヴァラエティに富んだものです。「受胎告知」や「キリストの復活」のような明るくリズミカルなものから、まさに「癒し」の極地、無伴奏のチェロだけで奏でられる瞑想的な「キリストの架刑と聖母の嘆き」まで、その振幅の広い組み合わせは、飽きることがありません。このチェロ独奏のあとでは、「鐘のテーマ」さえ穏やかなものに変わっています。そして、なんといってもハイライトは最後から一つ前の「聖母の死」でしょう。独奏チェロによって繰り返される同じテーマは、最初はドローンに乗ってほのかにたゆとうていたものが、次のシーンではいきなり不協和音で彩られ、それが最後には輝かしいばかりのハーモニーに包まれていくさまは、まさに感動的です。これは、まるで重厚なギリシャ正教の聖歌を聴いているような体験、このようなインスト曲の中にも、タヴナーの合唱曲の魅力は秘められていたのですね。
それにしても、全く休みなく演奏し続ける独奏チェリストの集中力は、大変なものだと感服させられます。ここでのウォールフィッシュも、最初から最後まで緊張感を保った演奏を聴かせてくれています。何でも、ライブでは譜面をめくる余裕さえないため、ちゃんとそのための人が横に付くのだとか。でも、とても難しい譜面ですから、その人は3年間練習したといいます(譜めくり3年)。

3月3日

BACHARACH
At This Time
Burt Bacharach
SONY BMG/82876734112
EU輸入盤)
BMG
ジャパン/BVCM-31186(国内盤)

輸入盤のレーベル、しっかり「SONY BMG」となっていますね。日本にいたのではなかなか分かりづらいのですが、この2つの巨大レコード会社は、今ではすっかり一つの会社としての体裁を整えたという事が、このレーベルからはっきり分かります。今まで「仲の良いお友達」だと思っていた二人が、実はいつの間にか入籍をして夫婦になっていた、というようなものでしょうか。例えば、アンドリュー・デイヴィスのドヴォルザークのコンプリート・コレクションのように、音源はSONYなのですが、標章はレッド・シールというRCAのマークがついているにも拘らず、SONYから発売になって混乱した、というような状況が起こっているのです。ただし、日本ではこの二つの会社の日本法人が融合することはないそうです。これは親会社の関係だそうで、SONYはあくまでも家電会社として独立しているからだそうです。
さて、バッハBachの次はバカラックBacharachという、分かりやすいつながりです。50年代、60年代に数々のヒット曲を産んだ偉大なソングライター、アレンジャーとしてのバート・バカラックは、とっくの昔に「オールディーズ」という範疇に入ってしまっていたという認識でしたから、まさかこんな時に(というのが、アルバムタイトル)ニューアルバムが出るなんて、思っても見ませんでした。
今年78歳を迎えるバカラック、彼の28年ぶりのニューアルバムは、もはや功成り名遂げた者にのみ許されるような、本当に自分の作りたい物を心ゆくまで追求した、素晴らしい仕上がりになりました。バカラックと言えばまずヒットソングの作り手として知られていたものですが、ここでは、その様なヒットを狙う小細工など微塵も感じられない、あくまで良い音楽だけを作ろうとする真摯な姿を見ることが出来ます。住む家など、オンボロでも構いません(それは「バラック」)。
あえて「ヒットソング」を避けたという制作態度は、ヴォーカルの扱いに見て取ることが出来るはずです。殆どのトラックはまるでインストナンバーのように、バカラック自身のピアノやキーボードを中心に進んでいきます。(実際、純粋なインストナンバーも、2曲含まれています。)そこでのメインテーマは、ヴォーカルが受け持つことはまずありません。従って、ここで主にヴォーカルを担当している人達は、アレンジの範囲内での、言い換えれば極めて個性に乏しい歌い方に終始しているように見えます。そして、これは昔からのバカラックの魅力であった、厚ぼったいストリングス。ヴァイオリン19、ヴィオラ8、そしてチェロ4という編成は、殆どクラシックのオーケストラの編成と変わりません。そこから紡ぎ出されるゴージャスなサウンドは、たとえ今はやりのヒップ・ホップからリズム・ループを導入しようが、バカラックの本質には何の影響も与えないほどの存在感を持って迫ってくるのです。
彼のユニークなコード進行は、このようなインストが前面に出てきた作られ方によって、より必然性を感じられるものになりました。これらは一つの「作品」として、ジャンルを超えてその価値を主張できるだけのものに仕上がっているはずです。
とは言っても、やはり「ヒット曲」としての楽しみも欲しいものです。盟友エルヴィス・コステロが参加した「Who Are These People?」などは、変拍子も交えてヴォーカルが前面にフィーチャーされた、そんな願望を満たしてくれる曲なのでしょう。「Where Did It Go?」では、何とバカラック自身のヴォーカルも聴くことが出来ます。全ての歌詞を初めて自ら書いたというバカラック、この「作品」の持つある種の「暗さ」からは、それがヒット狙いではなかったからこそ、確かなメッセージを感じ取ることが出来たのかもしれません。

3月1日

BACH
Cantates profanes BWV 207 & 214
Carolyn Sampson(Sop),Ingeborg Danz(Alt)
Mark Padmore(Ten),Peter Kooy(Bas)
Philippe Herreweghe/
Collegium Vocale Gent
HARMONIA MUNDI/HMC 901860


思い出したようにバッハのカンタータを出してくれるヘレヴェッヘ、今回は世俗カンタータが2曲カップリングされているアルバムです。教会の礼拝のために定期的に作らなければならなかった教会カンタータとは異なり、何かの機会に特別に注文を受けて作られたものが世俗カンタータ、この2曲も、就職祝いと誕生祝いという、おめでたい席のためのものです。ちなみに、バッハ作品目録(BWV)の201番から215番あたりまでが普通は「世俗カンタータ」と呼ばれていますが、その大半には「音楽による劇Dramma per musica」というイタリア語のタイトルが付いています。生涯オペラなどの「劇音楽」とは縁がなかったバッハですが、それに近いものをこのような形で作ってはいたのですね。R-15指定だって作っていますよ(それは「風俗カンタータ」)。
BWV207「鳴り交わす弦の相和する競いよVereinigte Zwietracht der wechselnden Saiten」は、ゴットリープ・コルテという人がライプチヒ大学の教授に就任したお祝いの席で演奏されたものです。ここでは4人の独唱者がそれぞれ「勤勉」、「名誉」、「幸福」、「感謝」という「配役」を与えられて、お芝居仕立てでこのセレモニーを盛り立てる、という形を取ることになります。
ところで、この第1曲目を聴くと、なんだかどこかで聞いたことのあるような気になるはず。それも当然のことで、これは有名な「ブランデンブルク協奏曲第1番」の3曲目をそのまま転用、そこに合唱を加えたという、いわゆる「パロディ」だったのです。こういう「使い回し」はバッハのように日々の職務に忙しくてなかなか期日までには新しい曲を作り上げるのが難しい人の場合、日常的に使っていた手法ですから、別に目くじらを立てることもないでしょう。この曲の中程、バスとソプラノの二重唱の後に「リトルネッロ」という部分がありますが、これも同じブランデンブルク協奏曲第1番の4曲目の第2トリオ、こういう形で使われると、逆に親近感が湧いては来ませんか?
BWV217「鳴れ、太鼓よ!響け、トランペットよ!Tönet, ihr Pauken! Erschallet, Trompeten!」は、その逆のケース。冒頭の合唱は「クリスマス・オラトリオ」の最初の曲だというのは、誰でもすぐ分かるはずですが、こちらの方が元ネタになっています。この曲の合唱とアリア5曲のうちの4曲が、翌年に作られた「クリスマス〜」に転用されることになるのです。こちらはザクセン選帝侯妃マリーア・ヨーゼファの誕生日のお祝いのための曲、やはり4人のソリストが、平和、戦争、知恵、風評を司る4人の女神に扮して選帝侯妃を褒めちぎるという趣向です。お馴染み、タイトルそのままのティンパニとトランペットが華々しく盛り上げる1曲目がキャッチーですが、5曲目のアリアのしっとりとしたオーボエ・ダモーレのオブリガートを担当しているマルセル・ポンセールの演奏には、思わず耳を奪われてしまいます。
独唱陣は、ヘレヴェッヘの趣味でしょうか、いずれも軽めの声の持ち主で、爽やかな印象を与えてくれています。特にソプラノのサンプソンの可愛らしさは魅力的、バスのコーイも嫌みのないあっさりとした歌い方がなかなかです。しかし、テノールのパドモアは軽さが度を超して浮つきすぎ。そして、アルトのダンツ。昔はもっと深みのある声だったのに、いつの間にこんなに薄っぺらになってしまったのでしょう。
合唱は、この派手なオケに隠れてしまって、いまひとつ存在感が主張できていないように見えます。パートとしてのまとまりがいまひとつ、これも昔はもっと充実した響きを持っていたはずですが。

2月27日

WHITACRE
Cloudburst and other choral works
Stephen Layton/
Polyphony
HYPERION/CDA67543


エリック・ウィテカーというアメリカの作曲家の合唱曲を集めたアルバムです。「ウィテカー」という珍しい名前、ついフォレスト・ウィテカー(↓)という映画俳優を連想してしまいます(綴りが微妙に違います)が、こちらのウィテカーは、あのようなずんぐりむっくりなみてくれではなく、いかにも精悍なイケメン、しかも、1970年の1月2日生まれといいますから、現在36歳、まだまだ若手です。

  Forest Whitaker
ネバダ州のリノに生まれたウィテカーは、ロックスターを夢見る少年でした。しかし、ラスベガスのネバダ大学に音楽教育専攻として入学し、合唱のクラスでモーツァルトのレクイエムを歌った瞬間に、すっかり合唱の魅力に取り憑かれてしまったと言いますから、人間の運命などというものは分かりません。テクノバンドでシンセを弾いていた若者が、今や、超売れっ子の合唱作曲家として、世界中から注目を集めてしまっているのですから。ちなみに、彼は吹奏楽の分野でもよく知られているそうです。代表作が「ラスベガスを食い尽くすゴジラ」というのですから、笑えますね。
このアルバムには、1991年、21歳の時に作った初めての合唱曲から、2004年の最新作までが収録されています。大半がホモフォニックなア・カペラ、その中に一貫して流れているのは、彼独特のハーモニー感です。ドビュッシーからメシアンに至るフランス風のテンション・コードとは微妙に異なる、「クラスター」を経験した後でなければ生み出せないような不思議な危なさを持つこのハーモニーは、もしかしたら「英語」というテキストの持つ語感と密接に結びついているのかも知れません。「hope, faith, life, love」という曲が、そんな「言葉」と「ハーモニー」が見事に融合された素晴らしい作品です。レイトン指揮のポリフォニーが、いつもながらのタイトな音色で、このハーモニーの妙を存分に聴かせてくれています。
その様な、ある意味穏やかな作風、例えばアルヴォ・ペルトあたりの影響がもろに出ているものになっているのも当然の帰結でしょう。アルバム中最長、13分という演奏時間の「When David heard」という曲が、それを端的に物語っています。「My son」という言葉を繰り返して作り上げられるクライマックスは、圧倒的な力を持っています。余談ですが、この言葉が「○○さん」と聞こえてきて、何度も自分の名前を呼ばれているような錯覚に陥ったのも、不思議な体験でした。
アルバムタイトルとなっている「Cloudburst」だけには、ピアノや打楽器の伴奏が入ります。とは言っても出だしはア・カペラ、途中で、それこそ「雲が爆発」して雷が鳴り大雨が降り出すという場面で「効果音」のような使われ方をしています。ここでは、合唱団員が足を踏みならして雨音の「効果」を出しています。
With a lily in your hand」というのが、リズミカルなヴァンプに乗って音楽が進むという、この中ではちょっと異質な肌合いを持っています。確かに、流れるようなテイストの多い中で、一つのアクセントにはなっています。
ただ、最新作(これが初録音)の「This Marriage」での、あまりに洗練されすぎたたたずまいには、ちょっと不安を覚えてしまいます。彼の最大の魅力を放棄してしまったかに見える陳腐なハーモニー、これが「守り」や「枯渇」といった言葉と無縁であることを、切に願うところです。もう一つ、クレジットから、このレーベルのフロント・デザインを創設時から担ってきたテリー・シャノンの名前が無くなっているのが、気になります。

2月24日

MOZART
Konzerte
金子陽子(Fp)
Frank Theuns(Fl)
Marjan de Haer(Hp)
Ulrich Hübner(Hr)
Jos van Immerseel/Anima Eterna
ZIGZAG/ZZT 060201


モーツァルトの協奏曲集、コンテンツは2台のピアノとフルートとハープという二重協奏曲が2曲と、ホルンのための協奏曲の第3番というシングル協奏曲が1曲です。1枚のCDとしては、なかなかヴァラエティのある組み合わせで、楽しみの多いカップリングとなっています。
「2台ピアノ」では、指揮者のインマゼールがピアノ(もちろんフォルテピアノ)を担当しています。最近こそ指揮者としての活動に注目が集まっていますが、彼の場合の出発点はあくまでこの楽器の演奏家であったことを忘れるわけにはいきません。そして、もう1台のピアノが、パリを本拠地に活躍している日本人ピアニスト、金子陽子です。これは、もうインマゼールの魅力が最大限に発揮された仕上がりとなっています。録音の時の写真がジャケットに掲載されていますが、この2台のピアノは、よく見られるようなピアニスト同士が向かい合って演奏するという形ではなく、2人が仲良く並んで(つまり、ピアノは同じ向きで)座って演奏する、というスタイルです。そのせいかどうかは分かりませんが、2人の息はピッタリ合っているのが手に取るように分かります。ちょっとしたフレーズの歌い口も、パートが変わっても全く同じように聞こえてきますし、なによりも、2台の楽器の音色がとても柔らかく融合して、まるで1台の楽器のように聞こえてくるのが素敵です。もちろんそれは、モーツァルト自身も使っていたというウィーンのピアノ制作者アントン・ヴァルターの楽器をコピーしたクリストファー・クラークのフォルテピアノのクセのない素直な音色に依るところが大きいことでしょう。
「フルートとハープ」になると、そんな、聴いていて幸せになれる瞬間が殆どなくなってしまうのは、なぜなのでしょう。その最大の原因は、ここで「指揮者」としてオーケストラを管理しているインマゼールであることは明白です。第1楽章の序奏が、優雅さとは全く無縁な野暮ったいテンポで始まった瞬間から、この曲に関しては何も期待が出来ないことを悟ることになるのです。フルートのトゥーンスは、このオーケストラ「アニマ・エテルナ」のメンバーですが、ソリストとしてはあまりにも存在感が希薄、何とか、もっと軽やかなテンポに持っていこうとする意志はありありと感じることは出来るのですが、指揮者に逆らってまでそれを押し通すことが出来ないという「弱さ」が、そのまま演奏に出てしまっている、というのは勘ぐりすぎでしょうか。フィナーレのテーマの八分音符の扱いも、フルーティストだけが別のことをやっていて完全に浮いている、という醜態をさらしていますし。
そこへ行くと、「ホルン」のフュブナーは、同じオケのメンバーであっても格が違います。堂々と指揮者と渡り合って、見事に自分の音楽を繰り広げることに成功しています。小気味よいテンポ感は爽快そのもの、喜び溢れるモーツァルトです。ちょっと感心したのが、ゲシュトップのうまさ。今の季節はなかなかお目にかかれませんがね(それは「タンクトップ」)。これは、この時代の楽器では出せない半音を出す時のテクニックなのですが、これを使うとその音だけ極端に音色も音量も変わってしまって、現代の楽器を聴き慣れた耳には興ざめこの上ない奏法です。しかし、この人の場合、殆どそれと分からせない絶妙の使い方が聴けます。さらに、カデンツァでは、逆にそれをうまく利用して、素晴らしい効果を上げています。
ここで、ソリストと指揮者という立場の違い、あるいはソリストとの力関係によって、さまざまな顔を見せてくれたインマゼール、それによって、彼の才能がどこで最も発揮できるのか、あるいは発揮できないのかを、私達は知ることが出来るのではないでしょうか。

おとといのおやぢに会える、か。


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