破綻、超ミニ。.... 佐久間學

(06/1/8-06/1/30)

Blog Version


1月30日

MOZART
The Great Mass ・ A Ballet by Uwe Scholz
Leipzig Ballet Company
Eunyee You, Marie-Claude Chappuis(Sop)
Werner Güra(Ten), Friedemann Röhlig(Bass)
Balázs Kocsár/
Choir of the Leipzig Opera
Gewandhausorchester Leipzig
EUROARTS/2054608(DVD)


このところ、モーツァルトの「ハ短調大ミサ」を取り上げる事が多くなっています。全くの偶然なのでしょうが、なぜか最近この曲の新譜が集中してリリースされており、しかも、それぞれに演奏される版が異なっていたり、映像が入っていたりするものですから、つい、こういうものが大好きな私としては紹介しないわけにはいかなくなってしまうのです。それが昂じて、今回はなんと「バレエ版」ですよ。
このDVDは、ライプチヒ歌劇場で2005年6月に行われたライプチヒバレエ団の公演のライブを収録したものです。ここでの振り付けも行っていたウーヴェ・ショルツという振り付け師が、2005年の11月に45歳という若さで亡くなってしまいましたが、この公演は彼への追悼の意味が込められたものとなっています。
バレエ音楽として作られたものではない曲でバレエを踊るという彼のコンセプト、ここで使われているのが「ハ短調ミサ」という事になります。さらに、未完のこの曲を完結させるため彼が取ったのが、「アダージョとフーガ」や「アヴェ・ヴェルム・コルプス」といったモーツァルトの他の作品だけでなく、他の作曲家の曲を間に入れるというアイディアでした。そこで使われたのが、ジェルジ・クルタークの「ヤーテーコクとバッハのトランスクリプション」、トーマス・ヤーンの「場所と時代から」、そしてアルヴォ・ペルトの「クレド」です。思いがけず、ここでまた一つ新しい「版」に出会える事になってしまいました。
この公演、通常のバレエの公演のようにオーケストラ・ピットにはオーケストラが入っていますが、その両サイドに合唱団が陣取っている、というのがちょっと普通と変わっているところです。ここでは、単なる伴奏としての演奏ではなく、きちんとしたコンサートと変わりない環境での演奏を目指しているように思われます。カメラもダンサーだけではなく、合唱やソリストも同じ比重で捉えている事からも、その方針は明らかでしょう。そのダンスは、「ミサ曲」に関しては、非常に音楽に忠実なもののように感じられます。まず、曲の編成に応じて、合唱の場合は大人数、ソロの曲の時はソリストだけによるダンスというような扱いからも、それはよく分かりますし、振りも音楽のビートに完全にのっとったものです。言ってみれば、ディズニーが作った「ファンタジア」のような世界でしょうか。嫌われてしまいましたね(それは「アンタイヤ」)。このバレエ団には日本人のプリマもいらっしゃっていて、「Kyrie」(つまり、ソプラノ1のソロ)では木村規予香さん、「Laudamus te」(ソプラノ2のソロ)では大石麻衣子さんという方のソロダンスを見る事が出来ます。
Gloria」と「Credo」(もちろん、2曲だけ)が終わったあとに、それぞれ、衣装も舞台装置(といっても、後ろに鏡を置くだけですが)もガラリと変わって、さっきの「現代」音楽が、これは生ではなく録音で流れます。この場面の方が、実はダンスとしてはより自由度が増していて、私には楽しめました。
Benedictus」が終わると、なんと、ダンサーたちはメークを落とし、普段着に着替えて三々五々、後かたづけの始まったステージに座り込みます。そして、床材がすっかりはぎ取られた上に身動き一つしないダンサーたちの前で演奏されたのが、アロイス・シュミットのアイディアによる、「Kyrie」の素材をそのまま使った「Agnus Dei」です。この、ダンサーが全く踊っていない「バレエ」がもっとも印象的だった、という皮肉。これこそが、「振り付け」の究極の形なのかも知れません。

1月27日

MOZART
Requiem & Symphony No.36
*
Kate Royal(Sop), Karen Cargill(Alt)
Robert Murray(Ten), Matthew Rose(Bas)
Jiri Belohlavek, Walter Weller
*/
BBC Symphony Orchestra & Chorus
BBC MUSIC/BBC MM262


ヘル・モーツァルト、お誕生日おめでとうございます!あなたが生きておられたら250歳ですね。「BBC Music Magazine」という音楽雑誌に、BBCが放送用に録音した音源が付録CDで付いているのですが、今月号にはあなたの「レクイエム」のライブ録音と、「リンツ」のスタジオ録音のものが入っていましたよ。
1995年から首席客演指揮者を務め、今年の「プロムス」からは晴れてこのBBC交響楽団の首席指揮者のポストに就く事になっているビエロフラーヴェクが指揮をした「レクイエム」、実は、さる筋から「バイヤー版」で演奏されているという情報を得たものですから、わざわざ取り寄せてみることにしたんです。あなたの死後にいろいろな人が手を入れたこの曲のコレクションが、また1枚増えた事になります。
しかし、単にリストを充実させるためだけに入手したこのCDを聴いてみると、そんな私の不純な動機が恥ずかしくなるような素晴らしい演奏だったのには、ちょっと焦ってしまいましたね。
冒頭の「Requiem aeternam」での、重々しい歩みを聴いただけで、ビエロフラーヴェクが目指している音楽がかなり深いものである事が予想されてきますよ。それほどに、指揮者とオーケストラが一体となった「悲しみ」が伝わってきたのですね。それを受けたソプラノソロも、その思いをきちんと受け止め、決して過剰にならない「訴え」を歌に乗せていました。ただ、この段階では合唱がそこまでの境地に入っていないのが、ちょっと惜しいところだったでしょうか。いかにも表面的な歌い方には、「違うな」という感を抱いてしまったのですよ。
ところが、「Dies irae」に入ったあたりから、その感じが払拭されて合唱にも徐々に指揮者のパトスが乗り移ってきたではありませんか。このあたりが、ライブのおもしろさなんでしょうね。それまではちょっとよそよそしかったものが、何かをきっかけに一体となった表現の仲間入りをしてきて、全体が一つの方向を向いた主張を始めるようになってきたのですね。あなたがダイナミックスを書き込まなかったようなところに加えられた、ほんのちょっとした歌い方の工夫(ベースのパートソロで「Quantus tremor est futurus」と始まる部分)が、しっかり私達の耳をとらえて、新鮮な表現に感じられたのです。それは、このように全員の心が一つになった時に、初めて訴える力を持つものなのかも知れませんね。自分のエゴを、さもあなたが望んだものであるかのように押しつけるアーノンクールのような人が同じ事をやってもなんの感興もわかないのは、きっとそのあたりの違いなのでしょう。
Tuba mirum」になると、ソリストたちにも驚かされるはずですよ。バスのローズの声の立派な事。そして、他の人達も同じような立派さのベクトルを持っている上に、アンサンブルでも誰かが飛び出すという事がなく、全く同じ方向を向いているという素晴らしさです。
後半に向けての盛り上げも、すごいものがあります。「Sanctus」で一旦軽いテンポで意表を衝いたかと思うと、次の「Benedictus」では一転してしっとりと聞かせるといった具合です。あ、これはあなたが作ったものではありませんでしたね。でも、このように共感を持って演奏されると、あなたの弟子もなかなかのものだったと思ってしまいますよね。曲が終わって最後の和音が鳴り響いたあと、しばらく静寂が続いた後に訪れる温かい拍手。この拍手まで含めて、確かに良い演奏を聴いたという余韻に浸れるはずですよ。
カップリングが、ワルター・ヴェラーという渋い指揮者の「リンツ」ですが、これもオーケストラの弦楽器の響きを上手に導き出して、とても温かい演奏を聴かせてくれています。
このCD、あなたの頃の習慣とはちょっと違った演奏様式かも知れませんが、もし聴いて頂けるようなことがあれば、きっと満足されると思いますよ。駄洒落好きのあなたにはとても太刀打ちできませんから、きょうの「おやぢ」は勘弁して下さいね。

1月25日

日本語で歌う 冬の旅
斎藤晴彦(Song)
高橋悠治(Pf)
水牛/SG008

役者だった斎藤晴彦さんがクラシックの世界でブレイクしたのは、どのぐらい前の事だったでしょう、「日本語クラシック」という、クラシックの名曲に日本語の歌詞を乗せて早口で歌いまくる、という「芸」で一世を風靡したのは、もはや記憶の彼方へ消えていこうとしています。そんな彼も、最近では「評論家」として、ゲルギエフの「指環」の論評を新聞紙上に掲載したりと、いつの間にかしっかりクラシックのフィールドになくてはならない人になってしまっています。
その斎藤さんが、シューベルトの「冬の旅」に挑戦です。NHK教育テレビの人気番組「クインテット」で「スコアさん」の声を担当している斎藤さんですから、ここでピアノ伴奏が宮川彬良だったりしたらそのまんまあの子供番組の世界になってしまうのですが、もちろんそんな事はありません。斎藤さんと言えば、元をただせば「黒テント」というアングラ(死語)劇団の団員でしたから、そんな、ほのぼのとした世界とは全く無縁のキャラだったわけですからね。ですから、ここで高橋悠治という「くせ者」のサポートを受けるというのが、いかにも斎藤さんらしい姿になってくるわけです。
と、このレーベルである「水牛」的な発想、確か「修練を必要としない楽器による平易なアンサンブル」といったような先入観をつい抱いてしまいましたが、悠治のピアノは、その「水牛楽団」での大正琴やアコーディオンのイメージとは全く異なる、まっとうなものであったのはちょっと意外な事でした。ここで悠治は、斎藤さんが歌うからというのでことさら特別の事をするのではない、これまで数多くの「普通の声楽家」たちとこの曲を共演してきたのと全く変わらないスタンスで演奏していたのです。バッハなどで見せたような不自然なところなど全くない、流れるようなシューベルトの音楽が、そこには繰り広げられています。
その様な、きちんとした音楽的な枠組みを悠治が提示している事により、斎藤さんの歌がしっかりとした意味を持つ事になります。彼の「歌」はもちろんかなり荒削りなもの、クラシック的な発声とは全く縁のない、言ってみればその辺のおやぢが一杯飲みながら声を張り上げているような趣です。そんな、時として暴走しそうになる彼の「歌」に、悠治は敢えて合わせようとはしないで淡々とシューベルトの世界を先導しているのです。まるで、日本語で歌われているその歌詞を冷ややかに眺めているかのように。
斎藤さんと悠治、そして平野甲賀、田川律、山元清多といったメンバーの手になる日本語訳は、ミュラーの原詩の直訳ではありません。どちらかというとことさらに荒っぽい単語を使ったという、妙なエネルギーが溢れているものです。その中で、最も有名な「菩提樹」だけは、完全な創作、というか、原詩のパロディとなって、そのエネルギーを一心に集約しているように見えます。「泉に沿いて それがどうした 淡き夢見ても 眠いばかり」ですからね。これらの言葉が殆ど歌い手の全人格の吐露として発せられる時、そこから見えてくるのは言いようのない暗く寒い世界、そう、斎藤さんがここで歌っている日本語は、そんな悠治のスタンスによって、見事なまでにシューベルトの世界とは遊離した、しかし、決して違和感は伴わないという、マルチレイヤーのようなハイブリッド性を見せることに成功しているのです。○橋□泉でしたっけ(それは「パイプカット」)。
ちなみに、このCDは、いずれ某大型店でも扱い始めるという情報はありますが、今のところネットでしか入手できません。

1月23日

伝説のクラシックライヴ
東条碩夫 他
TOKYO FM
出版(ISBN4-88745-142-3)

今から30年ほど前、もちろんまだCDなどはなく、「レコード」もかなり高価だった時代、FM放送の番組を録音して楽しむという「エアチェック」は、音楽を聴く上での重要なツールでした。その番組は、ただレコードをかけるだけというものだけでなく、実際の演奏会を録音したもの、さらには外国の放送局が録音した海外の演奏会のテープなども放送され、音楽ファン、特にクラシックファンにとって、なくてはならないものになっていたのです。そして、今ではちょっと考えにくい事ですが、公共放送のNHKだけではなく、民間のFM放送局でも、そんなクラシックのライブ番組を作って放送していた事があったのです。
そんな、遠い昔の事がまざまざと蘇ってくるような、懐かしい、そして、今となっては貴重な証言が収められているのが、この本です。中心になっているのは、民放FM曲「エフエム東京(現TOKYO FM)」で「TDKオリジナルコンサート」という、ミッキー・マウスが司会をしている(それはTDR)のではなく、クラシックのコンサートを録音して放送するという番組を制作していた東条碩夫さんの文章です。この番組、実は私もリアルタイムに聴いていたものでした。コンサートをただ録音しただけという、味も素っ気もないNHKの番組に比べて、本当に音楽が好きな人が情熱をもって作っている、という感じがヒシヒシと伝わってくる素晴らしいものだった事が、今でも懐かしく思い出されるものです。なにしろ、武満徹の「カトレーン」という曲を、番組として委嘱し、その初演の模様を放送していたのですからね。その、作曲依頼交渉から始まって、出来上がるまでの経過、本番直前に仕上がったスコアからパート譜を作る修羅場を経て無事本番の収録を終えるまでの筆致には、この大仕事を成し遂げた筆者の執念までもが乗り移ったかのような尋常ではない臨場感が宿っていて、読んでいてまさに手に汗を握る思いでした。新宿の厚生年金ホールで行われたこの世界初演には、私も足を運んでいます。そんな個人的な思い出もあって、この部分はその熱気を体で受け止められるだけのものとなりました。
この本には、それだけではなく、NHKサイドからも近藤憲一さんが同じ時期の活気のあった音楽番組について、膨大な資料を基に、ご自身の体験を披露しながら書いてくれています。「イタリア・オペラ」や「スラブ・オペラ」など、懐かしい名前が登場しますが、中でも、1967年に行われた「大阪バイロイト」については、現在では殆ど語られる事もなくなっているだけに、貴重な報告となっています。何しろ、ヴィントガッセンとニルソンという世界最高の「トリスタンとイゾルデ」が来日したのですからね(そのニルソン、先日お亡くなりになりました。つつしんでご冥福をお祈りします)。後にバイロイトの一つの時代を築いたブーレーズも、この頃は日本のファンには全く相手にされなかった事も、思い出されてしまいます。
他にも、NHKの技術者が、FMの技術的な変遷を述べてくれているのも興味深いところです。初期にはステレオ放送用の回線が完備されていなかったので、「生」放送はモノラルだけ、ステレオは全てテープを各地方の放送局に送って放送していたというような時代を知る事が出来ます。
最近では音楽放送と言えば映像も伴ったものに関心が行きがちで、もはやFMには往時の勢いはありません。さらに、ネットラジオでは外国のコンサートがリアルタイムで聴けるようになり、溢れるほどの情報が飛び交っています。しかし、今ほど情報の多くなかった時代に放送に携わっていた人達の確かな情熱は、今よりはるかに熱いものだったことが分かるはずです。

1月20日

BACH
Violin Concerto, Double Concertos
Midori Seiler(Vn)
Xenia Löffler(Ob)
Raphael Alpermann(Cem)
Stephan Mai/
Akademie für Alte Musik Berlin
HARMONIA MUNDI/HMC 901876


バッハの作品は非常に厳格で重々しいものである、という言い方は、かつては良く耳にしたものです。何と言っても「音楽の父」ですから、そこには権威あるクラシック音楽のまさに源を担っている、神聖で犯しがたいものが存在する、といった評価ばっはりが強調されていた時代が、確かに存在していたのですね。しかし、おそらくバッハ本人にしても迷惑だったに違いないその様なイメージは、このところはかなり陰を潜めるようになってきたのは嬉しいことです。何しろ、彼ときたら、2人の奥さんとの間に20人もの子供をもうけたというほどの「情熱家」なのですから、そんな堅苦しい人物であったわけがありません。
そんな、格式張らないバッハの姿を味わいたいのなら、このアルバムなどはまさにうってつけではないでしょうか。ここからは、ベルリン古楽アカデミーのメンバーが、バッハの音楽を心から楽しんで演奏している様子が活き活きと伝わってきます。
そもそも、ここで選ばれている曲自体が、ある種の「軽さ」を持っているものでした。この4曲の協奏曲たちは、現在では「チェンバロ協奏曲」とカテゴライズされていますが、本来は弦楽器や管楽器のための協奏曲だったものを作り直したという出自を持っているのです。このような「再利用」は、カンタータなど、彼の他の作品でも見られる常套手段、それだけで、「厳格」とは正反対のちょっとさもしいイメージがわき起こってはきませんか?
1曲目のBWV1052は、元のヴァイオリン協奏曲の形にもどしたものです。ここでソロを取っているミドリ・ザイラーが、エマニュエル・バッハによって編曲されたチェンバロ協奏曲などを参考にして、ソロパートを修復したということです。彼女のイマジネーションあふれる演奏は聴きもの、特にカデンツァの見事さには圧倒されてしまいます。
2曲目はBWV1062、有名なニ短調の2つのヴァイオリンのための協奏曲(BWV1043)を、ハ短調に直したものです。この曲の場合、独奏楽器がヴァイオリンからチェンバロに変わったことにより、原曲が持っていたある種の粘着質の部分がさっぱりと消え去ったことに気づかされるに違いありません。特に第2楽章など、2台のチェンバロの対話は思い切り即興性を発揮したバトルのように聞こえてしまいます。
3曲目のBWV1057は、なんとブランデンブルク協奏曲第4番(BWV1049)の作り替え、ヴァイオリンと2本のリコーダーという元の編成から、リコーダーはそのまま残してヴァイオリンをチェンバロに変えた、というものです。ここでは、各楽器の役割分担が少し変わっている、というのも興味深いところです。
最後のBWV1060は、すでに、ヴァイオリンとオーボエという、修復された元の形の方がよく知られるようになっているのではないでしょうか。ここでも、ザイラーのかなりアグレッシブなヴァイオリンに、ちょっとおっとりしたレフラーのオーボエがからんで、なかなか良い味を出しています。
厳寒の続く季節ですが、このアルバムに誘われて春が近づいてきたよう。温かい、爽やかな演奏ですよ。

1月18日

DVORAK
Symphonies Nos. 8 & 9
Charles Mackerras/
Prague Symphony Orchestra
SUPRAPHON/SU 3848-2


昨年80歳を迎えた長老マッケラスが、プラハのスメタナホールでプラハ交響楽団を指揮した演奏会のライブ録音です。出来るだけノイズが入らないように、演奏途中で人が出入りする事がないよう、「ドアはしっかり閉めたな?」と確認がされたと聞いています。この演奏会が行われたのは、2005年の9月13日、プログラムはドヴォルジャークの「自然の王国」と、交響曲第8番と第9番の3曲でしたが、ここには交響曲だけが収録されています。ただ、ライブ録音とはいっても録音の日付が11日から13日までとなっていますから、リハーサルの模様も録音しておいて、本番のテイクで問題があったところを差し替えて編集するという、「ライブ盤」には欠かせない処置が施されているのでしょう。
お客さんが入った本番と、客席には誰もいないリハーサルとでは、当然音の響き方が異なってきますから、それを繋いだ時に違いが分からないようにするのは、エンジニアの腕の見せ所になってくるわけです。ところが、このCDの場合、「8番」の第2楽章で、今まで少しぼやけた音だったものが、急にくっきりした音に変わって、そこで、別のテイクを繋いだことがはっきり分かる場所があります。なかなか難しいものですね。
いや、別に、そんな些細なことに目くじらを立てる必要もないでしょう。録音そのものは、演奏が行われたスメタナホールの美しい響きが存分に味わえる、素晴らしいものに仕上がっています。おそらくワンポイントに近いマイクアレンジなのでしょう、オーケストラの音と残響がほどよく混じり合った、潤いのある音です。特に美しいのは、艶やかな弦の響き。力で説得するのではない、ホールの響きを信頼して楽に弾いている感じが好ましく聞こえてきます。
マッケラスは、ここで2つの交響曲の性格をかなり際立たせているように見えます。例えば、「8番」では、ことさら「甘さ」が強調されているのが、ポルタメントたっぷりに歌い上げる第2楽章のヴァイオリン・ソロや、今時珍しい「演歌的」な第3楽章のヴァイオリンのテーマの処理で感じることが出来るでしょう。それに対して「9番」の方はもっと都会的、フィナーレの金管によるファンファーレなどからは、停滞を許さないスマートさが見て取れるはずです。有名な第2楽章でも、ソロを取る管楽器たちは決して感傷におぼれることのない、ある種の冷徹さを感じさせてくれています。しかし、そこはチェコのオーケストラです。ビブラートのたっぷりかかったホルンやクラリネットを聴いてしまえば、やはり根っこには独特の泥臭さがあることも、やはり感じないわけにはいかないのです。
楽譜を吟味することで知られているマッケラスが、ここでちょっと面白いことをやっています。彼は基本的には批判校訂版であるスプラフォン版を用いて演奏しているのですが、1ヵ所だけ、非常に目立つ形でそのスプラフォン版では採用されなかった自筆稿のヴァリアントを用いているところがあるのです。それは、第4楽章の後半、頭のチェロのテーマが戻ってくるところなのですが、そのスコアでは256小節目の最後の音「H」を、自筆稿にある「C」で演奏しているのです。この音は次の小節の最初の音「H」とタイでつながっていますから、普通はシンコペーションとして認知されるもの(楽章の最初に出てくるのもこの形)ですが、「C」になることによって、全く別なアウフタクトが出現することになります(こちらに譜例があります)。
この有名な曲、一体何枚のCDが出ているのか私には分かりませんが、こんな演奏をしているのはコンスタンティン・シルヴェストリ(1958)とニコラウス・アーノンクール(1998)以外に知りません(もう一人、ライブでは下野竜也が同じことをやっていました)。この「自筆稿版」、もしかしたら、これからじわじわと市民権を得ていくのかも知れませんね。

1月15日

Concertos for Flute and Orchestra
Wolfgang Schulz(Fl)
Ola Rudner/
Haydn Orchestra
CAMERATA/CMCD-28097


収録されているのはシャミナードの「コンチェルティーノ」、ユーの「ファンタジー」、そしてイベールとフランセのフルート協奏曲という、フルートの世界ではよく知られた作品ばかりです。しかし、なぜか、フランセの協奏曲は今まで私の知る限り正規の録音として出ていたものはマニュエラ・ヴィースラーによるBIS盤しかありませんでした。

   CD-529
ですから、今回のシュルツの録音は、そんなカタログの穴を埋めるものとして、渇望されていたものに違いありません。その上、ユーも、オーケストラ伴奏の形は、私にとっては初めての経験です。というより、この曲が本来はオーケストラとフルート独奏の編成で作られたものだとゆーことも、今回初めて知ることが出来ました。事実、この全く新しい響きで迫ってくる「ファンタジー」は、このアルバムでの何よりの収穫となりました。まず、最初のオーケストラだけによる序奏を聴くだけで、この曲が独特の雰囲気をみなぎらせたものであることがはっきり分かります。これは、無機的なピアノ伴奏では決して味わうことの出来ないものでした。その様なさまざまな彩りに覆われて、今まで演奏会用の退屈なピースでしかないと思っていたものが、一つの聴き応えのある作品であることを知った喜びは、格別のものがあります。
そんな風に、バックを務める「ハイドン・オーケストラ」というイタリアの団体は、スウェーデンの指揮者ルードナーのもとで、単なる伴奏に終わらない確かな主張を繰り広げています。イベールの協奏曲でもことさらオケのパートを聴いているのでなくても、今まで気づかなかったようなフレーズがあちこちから聞こえてきて、新しい魅力に気づかされることが何度あったことでしょう。
ただ、もしかしたら、シュルツのフルートにそれほど惹き付けられるものがなかったために、他のパートに耳が行ってしまった、というだけのことだったのかもしれません。ご存じ、このウィーン・フィルの首席奏者は、その強烈な個性でもって、ウィーン・フィル自体の音さえも変えてしまったほどのフルーティストです。複数の首席奏者を持つこのオーケストラでも、彼が乗っている時にははっきりそれが聞き分けられるほどの「目立つ」音の持ち主でした。しかし、その音は力強くは華麗ではあっても、柔軟さや繊細さとはちょっと距離を置いたものであることも事実なのです。さらに、音楽の作り方もいわば力ずくで相手を圧倒させるという趣味の勝ったもの、ですから、イベールの最後の楽章などは、変に力の入ったあまり美しくない側面ばかりが目立ってしまいます。
そんな彼が、まさに軽妙洒脱のかたまりのようなフランセの協奏曲を演奏するのですから、そこにはちょっと戯画的な光景が広がることを避けるわけにはいきません。言ってみれば、「ヒロシ」のように、そこにいるだけでふわっとしたおかしさがこみ上げてくる、といった「お笑い」とは最も遠いところにある、「俺がこんだけ一生懸命やっているんだから、おめーら笑えよ!」みたいな芸人(誰とは言いませんが)に近いテイストを、彼の演奏の中に感じてしまうのです。フランセでたびたび顔を出す「粋な」フレーズが、まるで説教をたれるようなくそ真面目なスタンスで冗談を言っているように思えてしまって、ちっとも「おかしく」ないのです。これは、お笑い芸人としては、かなり恥ずかしいことなのではないでしょうか。あ、もちろん、シュルツはお笑いではなく、フルーティストですがね。

1月13日

にほんのうた第1集〜第4集



デュークエイセス
東芝
EMI/TOCT-11008/11

デュークエイセスというコーラスグループ、昨年創立50周年を迎えたそうです。デューク(19)年しか続かないと思っていただけに、これは驚きです。同じ時期に結成された男声カルテットである「ダーク・ダックス」や「ボニー・ジャックス」が、現在では見る影もなく衰えてしまって、とてもコーラスの体をなしていないのとは異なり、このグループは今でもそのタイトなハーモニーの健在さを誇っています。15年ほど前にはトップテナーの谷口さんが急死するという危機があったのですが、無事に新メンバーを迎えることが出来て、以前と変わらない精力的な活動を繰り広げているということです。もっとも、私にとっては前のメンバーの時代のデュークこそが、最高の存在でした。谷口さんとバリトンの谷さんという、非常によく似た声の2人が中心になって作り出された独特のハーモニーは、どんな時にも乱れることのない鉄壁の強固さを見せつけていたのです。極論すれば、それ以後、日本にはこれ以上のコーラスグループは出現していないのではないでしょうか。
今回、50周年に合わせて、その頃の代表作である4枚組のシリーズが、何回目かの再発となりました。これは、1966年から1969年にかけてリリースされたもので、作詞家の永六輔と作曲家のいずみたくというチームがデュークエイセスのために日本全国47都道府県にちなんだ歌を作るという壮大なプロジェクトの成果でした。最終的には1県で2曲以上作られたところもあり、全部で53曲となるシリーズが完成したのです。(アルバム未収録の曲もあります)
この録音が行われたころの日本の音楽シーンは、さまざまな面で大きな変化を遂げた時期でした。このシリーズでも、第2集(196710月)と第3集(1969年3月)の間には、マルチトラックを導入したのではないかと思われる、サウンドとしての劇的な変化が見られます。演奏というか、編曲の面でも、この頃には確かに新しい流れが始まっているような感触がはっきり分かるはず、以前はウッドベースだったものが、キレの良いエレキベースに変わっただけで、曲の姿が全く変わっているのに気づくことでしょう(このピックベースは、もしかしたら江藤勲さん?)。
この53曲の中には、例えば「いい湯だな」とか「女ひとり」といった、今でも親しまれている「ヒット曲」も確かにあります。しかし、大半のものはまず普通の場所では聴かれることのない、忘れ去られた曲に違いありません。ご当地宮城県の歌は「こけしの唄」というものですが、「こけし お前は 俺に似てる」というこの歌を知っている人は、今では誰もいないはずです。しかし、今回久しぶりに全曲を聴き直してみて、そんなポピュラリティとは無縁の、「作品」としての価値を持っている骨太な曲があったことにも気づかされました。それは沖縄の「ここはどこだ」(第2集)と、広島の「伝説の町」(第4集)という、戦争に対する思いをさりげなく扱ったものです。特に後者では「みんな みんな 思い出すのだ」と、あの鋼のハーモニーに乗って伝えられるメッセージには、強い訴えかけが宿っていることを感じないわけにはいきません。「大切なことを 忘れようとする人たち」という歌詞は、もしかしたら永六輔は未来へ向けて語りかけていたのかも知れません。いずみたくのおきまりの循環コードに乗った音楽は、それ自体では殆どなんの魅力もないものですが、この歌詞がデュークのハーモニーを伴った音となると、いいようにない深い味が出て来ることに気づかされます。
このアルバムは、言ってみれば「歌謡曲」というジャンルの作品、それが30年以上経ってもオリジナルのアルバムと同じ形でリリースされているという事自体が、このプロジェクトの成功を物語っているのではないでしょうか。クラシックも含めて、レコード制作という場でこれほど良心的な仕事が行われたことは、この国では殆ど他に例を見ないはずです。

1月10日

VERDI
Messa da Requiem
L.Price(Sop), F.Cossotto(Alt)
L.Pavarotti(Ten), N.Ghiaurov(Bas)
Herbert von Karajan/
Coro e Orchestra alla Scala
紀伊國屋書店/KKDS-244(DVD)

以前、さまざまな形で出されていたユニテル(「ウニテル」というべきでしょうか)によるカラヤンの映像が、DVDとなって紀伊國屋からまとめてリリースされています。アンリ・ジョルジュ・クルゾーが監督をしたというこのシリーズ、ただ、「指揮の芸術」という形で、演奏だけでなくインタビューまで含めてのパッケージとしては、今回初めて出てくるぞー、というのはメーカーの言い分です。もっとも、ここでご紹介するヴェルディのレクイエムに関しては、もともとインタビューは収録されてはいなかったということで、これがそもそもの完パケということになります。
さて、この映像は、1967年の1月に行われた、ミラノのスカラ座でのトスカニーニ没後10周年の記念演奏会と同じ時期に収録されたものです。ライブのコンサートは2回行われたのですが、その間のオフの日に、スカラ座の客席にわざわざ足場を組んでカメラを設置し(それは、オープニングですぐ目に入ります)撮影が敢行されました(コシマキには「刊行」となっていますね)。もちろん、演奏メンバーは同じなのですが、テノールだけが、コンサートでのカルロ・ベルゴンツィからパヴァロッティに変わっているというのが、興味深いところです。契約上の問題(ベルゴンツィはDECCA専属?)ということなのですが、そこで急遽抜擢されたパヴァロッティの初々しい映像が、ここでの最大の見所となりました。まず、顔からして違います。

なんでも、リハーサルもコンサートのためには行われたものの、パヴァロッティが参加したこの撮影のセッションは殆どぶっつけ本番だったとか。最初のうちの、譜面にかぶりつきの彼の姿からは、後年のあの周囲を威圧するオーラなどは微塵も感じることは出来ません。声もいかにも萎縮したものです。しかし、さすがはパヴァロッティ、後半になると見違えるほど歌に力がみなぎってくるのが手に取るように分かります。このあたりのドラマティックなまでの変化を、殆どドキュメンタリーのように、今回は楽しむことが出来ました。
もちろん、現在でもこれだけのレベルの歌手を一堂に集めるのは難しいほどの、プライス、コッソット、ギャウロフという夢のようなスターが、カラヤンのもとで繰り広げるアンサンブルの素晴らしさは驚異的。そして、カラヤンの作り出す、決して華美に走ることのない味わい深い音楽は、まさに絶品です。後の、カラヤン自身の演出による映像だったら絶対にあり得ないような、例えばティンパニの後ろでカラヤンはフォーカスアウトしているカットなども、貴重なものです。
ちなみに、この映像は今まで、NHKのBS放送や、CSのクラシックチャンネルでは何度も繰り返しオン・エアされていたものです。さらに、古くはVHD、そしてLDや最近では輸入盤のDVDでも市場に出ていたことがありました。しかし、今回はいままでPALだったマスターを新たにNTSCでテレシネし直したものが使われているそうで、その結果収録時間が4分も長くなったということです。
真偽のほどは定かではありませんが、以前BSで放送されたものを録画したVHSと、このDVDを比べてみれば、その違いには歴然としたものがありました。ピッチの違いまでは私の耳で確認することはちょっと無理でしたが、映像に関しては、前に「バングラデシュ・コンサート」で感じたのと同じように、なにか遠い世界で行われているモヤモヤとしたものが、いきなり現実味を帯びて迫ってきたというショッキングなものでした。音声も、いかにもサウンドトラックという怪しげな音から、DGのギュンター・ヘルマンスによる素晴らしい音に生まれ変わっています。
マスタリングによりこれほどの違いが出るということで思い出したのが、以前酷評したプラハ・スタヴォフスケー劇場での「ドン・ジョヴァンニ」の韓国版DVDです。この度国内盤で発売されたDVDは、まるで別物、音と映像もきちんとシンクロされていて、やっと本来の形で鑑賞することが出来るようになりました。もっとも、それだからといって演奏に関しての印象が変わることはありませんが。

DENON/COBO-4471/2

1月8日

MOZART
Requiem, Mass in C Minor
B.Bonney(Sop), A.S.von Otter(MS)
A.Rolfe Johnson(Ten), A.Miles(Bas)
John Eliot Gardiner/
Monteverdi Choir
English Baroque Soloists
PHILIPS/074 3121(DVD)


1991年の「没後200年」に、バルセロナの「パラウ・デ・ラ・ムシカ・カタラナ(カタルーニャ音楽堂)」というところで行われた演奏会のライブです。以前からさまざまな媒体で出ていた映像素材ですが、「生誕250年」に合わせて、輸入盤DVDが発売になりました。モーツァルトの「レクイエム」と「ハ短調ミサ」が1枚に収録されているという、ファンにはたまらないアイテムです。
まず、DVDならではの楽しみ。この素晴らしい演奏会場の映像を、心ゆくまで楽しむことにしましょう。1908年に完成した、殆ど工芸品と言っても差し支えないような美しいコンサートホール、石をふんだんに使ったまるでカテドラルのような内装と、ステージのまわりの装飾には目をひかれます。客席も、高々とそびえるバルコニーと、ステンドグラスで覆われた天井からつるされたシャンデリアが見事です。まさに、ホール自体が一つの芸術、この収録後の1997年には、世界遺産に登録されたというのも納得です。
さらに、映像では音だけでは分からないような演奏上の「秘密」が分かるのも、もう一つの楽しみです。この場合、「ハ短調ミサ」が、私にとってはさまざまな好奇心を満たしてくれるものでした。ご存じのように、この曲は未完に終わったものですから、演奏にあたっては後の人が手を加えたものが使われることになります。ガーディナーが使っているのが「シュミット/ガーディナー版」という、ちょっと珍しいもの、これは欠落している部分をモーツァルトの他の作品などで補填し、さらにオーケストレーションにも手を入れたという「シュミット版」をベースに、ガーディナー自身がさらに手を入れた、というものなのでしょう。正確には、シュミット版から、悪趣味と思われる余分なものを取り除いた、と言うべきでしょうか。CDでも彼の演奏では、シュミットが加えた曲は全てカットされています。これを映像で確認してみると、確かに彼の譜面台の上に置いてあるスコアは分厚いシュミット版、そして、その開き方を見てみると、「クレド」の2曲目が終わったところでかなりのページを飛ばしているのがよく分かります。もちろん、オーケストラの楽器編成も、しっかり確認できますから、シュミットが加えたフルートやクラリネットが除かれているのがよく分かります。
ただ、その2曲目の「Et incarnatus est」では、オーボエ、ファゴットの他に、フルートがオブリガート楽器として加わることになっています。全体の曲の中でフルートが登場するのはこの部分だけ、今の我々の感覚でしたら、なぜこの1曲だけのためにフルートを用いたか、と言う疑問が起こるはずです。確かに、実際の演奏会ではフルート奏者は出番まで何もしないでステージ上で待っているのでしょうが、ここで、きちんと編集された映像ならではの秘密が見られます。この曲になると、2番オーボエの席にいきなりフルート奏者が座っているのです。本来、モーツァルトの時代には、オーボエ奏者がフルートを持ち替えて演奏するというようなことは、普通に行われていました。それを、こういう形で再現して見せたのですね。もちろん、分業化が進んだ現代では両方の楽器で同じクオリティを保つのは不可能ですから、演奏者は入れ替えた、と言うわけです。
と、マニアックなことばかり書いていると「余分なものが多すぎる」と叱られそうですね。いや、そんな「余分な」ものは、実はこの素晴らしい演奏の前に言葉を失ってしまった私の、ある種の照れ隠しと受け取って下さいな。ここでのガーディナーの演奏、合唱といいソロといい、なんと素直に心の中に入り込んでくることでしょう。先ほどの「Et incarnatus est」でのボニーの歌など、うっとりして聞き惚れるばかり、まさに至福の一時を味わうことが出来ました。

おとといのおやぢに会える、か。


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