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寄るの、女王が。.... 渋谷塔一

(03/9/10-03/9/28)


9月28日

BERLIOZ
Symphonie Fantastique etc.
Olga Borodina(MS)
Valery Gergiev/
Wiener Philharmoniker
PHILIPS/B000 1095-02
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCP-1078(国内盤 10月1日発売予定)
ゲルギエフという指揮者は、今まで私たちにさまざまな驚きを与えてくれました。それは、ただ単に奇をてらったものではなく、表現上の新しい試みが確かな感動に結びつくという、真の意味での新鮮な驚きだったのです。中でも、ロシアものでは、彼の本能とも言うべき感性が、普通のヨーロッパ人とは何かが違う心からの共感を伴った訴えとして伝わってきたものです。今回のライブ録音のパートナー、ウィーン・フィルとの共演でも、普段のこのオーケストラが見せる洗練された顔とは少し異なる、かなりワイルドな一面をも引き出していました。
ですから、今回の「幻想」では、このフランスの曲に対してゲルギエフがどのようなアプローチを見せるかという点が、最も大きな関心事になるのは当然のことでしょう。同じフランスの作曲家のラヴェルが編曲した「展覧会の絵」では、あれほどの野卑な側面を明らかにしてくれたゲルギエフのことです。この、交響曲とは言っても極めて描写性の強い作品からどれほど活き活きとしたものを引き出してくれるか、期待は高まります。
ところが、スピーカーから聞こえてきたその演奏は、何かよそよそしいものでした。いかにも丁寧に、細部をきちんと整え、この曲に必要とされるエスプリさえ醸し出そうとしている努力はよく分かります。しかし、それは、あのゲルギエフが今まで見せてくれた心からの叫びとは全くかけ離れたものだったのです。その結果として見えてくるのは、いかにも中途半端な音楽。例えば、第2楽章のワルツなど、精一杯めかし込んで田舎から出てきたおやじが、都会の別嬪さんを相手にまるで熊のようなステップで踊っているようなものにしか聞こえません。第4楽章のマーチも、自信のかけらもない弱々しい、ちょっと怪しいリズムの行進です。終楽章の盛り上がりも、単に物理的に華やかだと言うだけで、いつものようなキレる一歩手前の狂乱ぶりには遠く及ばないものでした。今ではほとんどの指揮者が行っている第1楽章と第4楽章の繰り返しをしていないというのも、気になります。さらに言えば、コルネットも入れて欲しかった。今や「くびれ」は女性のマストアイテムですから(それはコルセット)。
ですから、楽しめたのは、むしろカップリングの「クレオパトラの死」の方でした。ボロディナの声の深い響きがまず魅力的ですし、ここでのゲルギエフはまずドラマとしての盛り上げに全精力を傾けていますから、それは心地よい揺さぶりが伝わってきます。声やテキストと一体となった音楽の流れを作り出すことにかけては、この人の能力は並はずれたものがあります。やはり、彼の本領はオペラにあるのでしょうね。

9月26日

VIVALDI
Gloria
Tõnu Kaljuste/
Estonian Philharmonic Chamber Choir
Tallin Chamber Orchestra
CARUS 83.403
ドイツのシュトゥットガルトにあるCARUSというレーベル、先日も別のディスクを紹介しましたが、リリースされているものはどれをとっても極めて質の高いアルバムばかりであるという、侮れないところです。このように、そのレーベルであればどんな時にも裏切られることがないという信頼を獲得しているものなど、創成期のERATOぐらいしか思い浮かびません。そのERATOにしても、身売りを重ねたあげくにメジャーの傘下に入って変哲のないレパートリーを録音させられ、あげくの果てにはボロ雑巾のように捨てられてしまうのですから、この世界の無常を感じないわけにはいきません。このCARUSには、そんなERATOの轍は踏まずに、今後も高いクオリティを維持していって欲しいものです。
CARUSが抱えるアーティストの中で、特に合唱団には有名無名取り混ぜて聴き応えのあるものが揃っていますが、その中でもこのエストニア・フィルハーモニック室内合唱団は、他のレーベルにも数多くの録音を行っていて、ほとんど「世界一」の合唱団としての輝きを持っています。今回指揮をしているのは、1981年にこの合唱団を創設したトヌ・カリユステ。しかし、彼とこの合唱団とのつながりは、それ以前、1971年に、当時は「エレルヘイン室内合唱団」(1966年にトヌの父親によって創設)という名前だった、この合唱団の前身に音楽監督として就任した時から始まっています。現在、この合唱団のシェフは、あのポール・ヒリヤーに代わっていますが、カリユステも折を見てこのように共演の機会を持っているのでしょう。とは言っても、現在彼は、あの「合唱の神様」エリック・エリクソンから受け継いだスウェーデン放送合唱団だけではなく、やはり名門のオランダ室内合唱団の指揮者としても大活躍、この古巣との共演もこれからは少なくなってしまうのかも知れません。
このところ、CARUSにはモーツァルトの「リタニア」などを録音していた彼らが次に選んだレパートリーはヴィヴァルディ、その2枚目になるこのアルバムでは、有名な「グローリア」を取り上げてくれました。ヴィヴァルディは、いわゆる「ミサ曲」という、通常文全てに曲を付けたものは作ってはいません。そこで、カリユステは、単独で作られた「キリエ」と「クレド」を、この「グローリア」の前後に配し、さらにそのあとに「マニフィカート」を置くという構成で、一連の教会の礼拝(これらを実際に同時に演奏することはあり得ませんが)のような雰囲気を、アルバム全体に与えています。確かに、こうすることによって、「グローリア」だけを聴いた時とは全く異なる印象が生まれてきます。およそヴィヴァルディらしからぬ神秘的なイントロを持つ「キリエ」は、ですから、一見華やかな「グローリア」に、もっと深い意味を持たせるかのような作用をもたらしているのです。さらに、タリン室内管弦楽団と、この合唱団の演奏が思い切り挑戦的。アグレッシブなオケと、暗めの音色の合唱が作り出す世界から、私たちはイタリア・バロックの範疇を超えた、もっとグローリア、ではなくグローバルなものすらも感じることが出来るはずです。

9月24日

60 Flute Masterpieces
James Galway(Fl)
Many Soloists
Many Conductors
Many Orchestras
RCA/09026 63432 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-38267/81(国内盤)
1939年生まれのフルーティスト、ジェームズ・ゴールウェイは、1999には60歳、日本で言う「還暦」を迎えました。その記念にと、それまでに録音した膨大なレパートリーの中から「60曲」を選んで、その年に8巻、15枚組のボックス・セットとして発売されたのが、この「60 Flute Masterpieces」です。その時には入手できたのは輸入盤だけでしたが、このたび、ゴールウェイの来日に合わせて晴れて国内盤が発売されました。しかも、セットではなくそれぞれの巻が分売になっていますから、必要なものだけ買うことが出来るという、実に有り難いことになっています。ゴールウェイの過去の数々の名盤は、現在はほとんど廃盤状態ですので、この企画は待ちに待ったもの、この機会に、欲しくても手に入らなかったあのアイテムを、心ゆくまで楽しんでください。
ところで、人気、実力ともに抜きんでているゴールウェイのことですから、録音したものはいつでも(オールウェイズ)全てリリースされていると思いがちですが、中には録音されたきりお蔵入りになって、ついぞ日の目を見ないものもあるのです。このシリーズの第8巻に収録されているジョン・カーマイケルというオーストラリアの作曲家が作った「フェニックス」という、フルート協奏曲も、そんなもののひとつです。1980年にシドニーで初演され、そのメンバーによってすぐ録音されたものですが、なぜかリリースの機会がないまま、このボックス・セットに収録されるまで20年近く誰にも聴かれることがありませんでした。1980年といえば、ゴールウェイがソリストとして独り立ちした直後です。まるで映画音楽のようなスペクタクルなこの曲に、これから世界を制覇しようというゴールウェイの意気込みが加わって、胸のすくような快演が展開されています。
もう一つの目玉は、第7巻に収録されている、1984年に録音されたハチャトゥリアンの協奏曲。元来はヴァイオリン協奏曲であったものを、ランパルがフルート用に手直ししたものが一般には広く演奏されていますが、これは、ゴールウェイ自身が全く新たにトランスクリプションを行ったものです。不世出のヴィルトゥオーゾが行った編曲ですから、そこにはあらん限りのテクニックが盛り込まれて、とてつもない難曲に仕上がっていますが、それをいとも易々と吹いてのけたゴールウェイのまさに真骨頂がここでは聴くことが出来ます。バックのオケの指揮をつとめているのが、今をときめくチョン・ミョンフンだというのですから、これを聴き逃すなんて、何ともったいない。
手前味噌になりますが、以前某月刊誌に「ぜひともゴールウェイのオリジナルアルバムをきちんと入手可能な状態にしておいて欲しいものだ。」と書いたことがあります。これが、今回の国内盤リリースの何らかの要因になったのであれば、これほど嬉しいことはありません。
(14/9/19追記)
「フェニックス」は、1985年にLPとしてリリースされていました。

9月22日

BRAHMS
Intermezzi,Klavierstücke
Lars Vogt(Pf)
EMI/557543 2
もうすぐ、久し振りに某クライバーの正規盤が発売されるとのことで、CD業界は大賑わいです。ほんとに何年ぶりでしょうか・・・。その反面、年間かなり多くのアルバムをリリースしているはずなのに、イマイチ印象が薄い人というのも確かに存在します。このフォークトもそんな人。ハイムバッハの音楽祭のライヴCDもきちんと発売されますし、ブラームスの独奏曲のCDも着々と発売されているのですが、なぜか騒がれることはありません。しかし、なぜ注目されないのかが不思議なほどきちんとした音楽を演奏する人ですから、今回のブラームスの落ち着いた曲集などは、まさに彼にぴったりといえましょう。
1889年から亡くなる1年前の1896年まで、毎夏保養地イシュルで過ごしたブラームス。とはいっても1890年に弦楽五重奏を完成してからは、創作力が枯渇してしまい、作品の整理などを始めてしまったといいます。(それでも、後に優れたクラリネット奏者、リヒャルト・ミュールフェルトを知り、あの4曲の美しいクラリネットを使った作品が書かれるのですが。)そんな中で合間を縫って書き上げられたのが、彼が終生愛したピアノのための作品でした。作品116117118119の合計20曲は、彼の呟きでもあり告白でもあり、辞世の言葉でもあったのです。どの曲も、無駄を一切排した音のみで書かれていますが、実はどれもが本当に難しいし、譜面に書かれていない部分がものすごく多い作品でもあります。
冒頭のOp.117No.1、この曲はまるで「子守歌」のように優しく耳をくすぐるでしょう。しかしながら、これを実際に演奏しようと試みると大変です。ブラームス特有の厚みのある和音、(これをきちんと押さえることから難しい)そして、複雑な内声部。その上「常に弱く」と指示されています。それを全てクリアしなくてはいけません。そして、もうひとつ。「ゆっくりした曲の方が難しい」これを嫌というほど思い起こさせる曲ともいえましょう。
フォークトの演奏には、心からの共感がこもっています。音をひとつひとつかみしめるような味のある演奏。あのアファナシエフのように無理やり自分の世界に引きずり込むやり方ではありません。あくまでも自然な音楽が聴いていて本当に心地良いのです。とは言え、今年33歳の若い彼らしく、動きのある作品・・・例えばOp.117No.3118No.1などでは、若さのエネルギーが迸る瞬間もあったりして、それはそれで新鮮です。
13曲中、Op.118No.2の劇的な曲の展開、そして美しさが一番耳に楽しかったですね。しかし、これから先フォークトは何を弾くのでしょうか。それとも、倉庫で荷物の運搬でもするのでしょうか(それはフォークリフト・・・前にも使いましたが、もうおぼえていないでしょうから)。

9月20日

SCHÖNBERG Verklärte Nacht
STRAUSS Metamorphosen
Frieder Bernius/
Streicherakademie Bozen
CARUS/83.198
合唱物専門レーベルだと思っていたCarusですが、今回は珍しく弦楽合奏曲のリリースです。ただし、指揮がベルニウス。そう、リゲティらの合唱曲や、バイヤー版のモーツァルトのレクイエムで、すでにこのサイトではお馴染みの指揮者ですね。
そんな彼の選んだ曲は、これまた珍しいことにシェーンベルクの「浄夜」とシュトラウスの「メタモルフォーゼン」という、好きな人にはたまらない世紀末(・・・・・じゃないな)物。やるじゃん!ベルニウス。
さて、早速聴いてみました。「浄夜」は弦楽合奏版の大きな編成。そもそも私は「浄夜」については小さい編成の方が好きなのです。なぜなら、この音楽の持つ厳しさ、そして後半の暖かさは極めて切り詰めた音のぶつかり合いがあってこそ生きてくると思うからです。それがこのような弦楽合奏になると、ひたすらぬるま湯につかるような「ふにゃふにゃ感」が加わるような気がして馴染めません。ま、これは聞く人の自由といえばそれまでですが。
ベルニウスは全体的に早めのテンポで、このひたすら粘液質な音楽を薄めにかかります。あまりにも爽やかな味わいは、まるでモーツァルトかベートーヴェン。冒頭の恋人たちの重苦しい歩みを表す音楽さえ、少し天気の悪い森の中を歩く若者2人を思わせる軽快さ。続く男女のやり取りも彼にかかると他愛のない痴話げんかくらいの痛みに聴こえるのが不思議です。これにはホールの潤沢な響きも関係しているのでしょうか。とにかく瑞々しく若々しい息吹がたっぷり横溢しているのには少々苦笑してしまいました。女の重苦しい告白の場面も難なくこなし、男の優しい抱擁も、それに続く喜びも全て健康的。う〜ん。こういうのもありかな・・・。
こんな調子ですと、「もう一曲のメタモルフォーゼンも似たもの同然」だと誰しも考えたくなるのですが、こちらは冒頭から悲痛な表情です。音楽の運びもゆったりしています。「浄夜」ではあれほど急いでいたのに。音を一つ一つ噛み締めるようにゆっくりとした葬列の歩み、ここにはこれがあるのです。しかし、この曲には本当の「救い」が存在しないのだな。と改めて感じたのでした。途中で一瞬明るくなるけれど、ほんの一瞬だけで最終的には闇に溶け込んでしまう音楽。シュトラウスの曲の中でも特異な位置をしめる作品です。
もしかしたら、この2曲は声を使わない宗教作品なのかも知れない・・・・そんな思いにとらわれ、なぜベルニウスが取り上げたかという理由もわかるような気がしました。

9月17日

MOZART
Piano Concertos
Derek Han(Pf)
Paul Freeman/
Philharmonia Orchestra
BRILLIANT/92112
今、CDをレギュラー盤で買うと、大体1枚2,3002,400円前後。4枚買うと10,000円くらい(チロルチョコ1,000個分)の出費になるでしょうか。
その一方で、お店に山積みされたボックス・セットに目を転ずると、シュッツの11枚組みで4,800円とか、ミケランジェリ14枚組みで3,490円、このところ見かけませんが、リング全曲(14枚組み)で1,990円などというように、例えを揚げればきりがないほど、このところの一部のCDの値崩れにはすさまじいものがあります。こういうアイテムになれてしまうとNAXOSが1枚990円でも「安い!」という気持ちにはならなくなってしまいます。そんな廉価盤レーベルの最たるところが、このBRILLIANTでしょう。ここでも度々取り上げてきましたが、他のレーベルの版権の切れた音源を買い取り安く販売するものと、お抱えアーティスト(主にオランダの演奏家)に拠る新録が程よく混じっていて、中にはとんだ掘り出し物があったりするのです。
さて、今回私が購入したのは、モーツァルトのピアノ協奏曲全集(11枚組)というもの。実は、こちらは以前から「モーツァルト全集」としてこのレーベルで発売されていたものですが、その時は普通のケースに入った11枚が紙製の箱に入っているという非常にかさばるものでした。それが今回紙ジャケ、スリムケースで出直ったのです。
11枚のCDを端から聴いて行くこの嬉しさといったらどうでしょう!何しろ番号順に収められているわけではないので、どこから聴いても初期の作品と後期の作品がバランス良く耳に届くのも粋な計らいです。大部分のピアノを担当しているのが、アメリカ生まれの中国系ピアニスト、デレク・ハン。とても素直でオーソドックス、そしてカデンツァなどはとても凝っていて全体的に申し分ない仕上がりです。フィルハーモニア管の木管群の飛びぬけた響きも聴き物。水準の高いモーツァルトといえましょう。その上、2台、3台のピアノのためのコンチェルトは、以前HUNGAROTONから出てた「ハンガリー三羽烏」(シフ、コティシュ、ラーンキ)による演奏が収録されています。これも往年のファンにとっては懐かしい名演です(ちなみに「サニタリー三羽烏」といえば、「ジフ、ティッシュ、ソージキ」ですね)。
毎日少しずつ聴いて、本当に楽しんでいるのですが、惜しむらくは劣悪な盤質。外周の作りが雑なせいか、3枚ほどのCDの最後の部分が再生不可になってしまうのです。(私の再生装置が悪いのかも)何しろ大好きな22番、26番、19番の最後が軒並み途切れてしまって欲求不満。せっかくのよい演奏なのに値段が安いからと言ってこんなところで我慢させられるなんて・・・。

9月16日

Parsifal Goes la Habana
Ben Lierhouse Project
GATEWAY 4M/NCW-W-C002
東北の地方都市では、町中に鳴り響いたジャズの調べに盛り上がっていたようですね。けやき並木を震わす健康的なホーンの響きと4ビートもいいものですが、家でしみじみ聴くには、多少病的でスローなラテン・ジャズなども良いかも知れません。このあたりの音楽は、何かクラシックにも通じるような、ある種マニアックなテイストが、ワグネリアンの心もくすぐってくれるはずです。そう、ベン・リーハウスという人がプロデュースしたこのアルバム、ジャケットを見ただけでは、単にワーグナーの音楽をキューバ風の粘着系(吸盤ミュージック)にアレンジしたものの様に思えてしまいますが、実際はそんな単純なものではありませんでした。このアルバムでの演奏家の編成もユニークなもの。基本的なトラックは、キューバのミュージシャンによって収録されていますが、それにクラシックのストリングスの厚いサウンドがダビングされています。そして、コーラスも。
もちろん、中には「ローエングリン」の「結婚行進曲」を、そのままサックスやトランペットに、いかにも「ジャズ風」に吹かせるという分かりやすいものもありますが、「神々の黄昏」が元ネタだと言っている「Knocking at the Door」などという曲では、いったいどこが「黄昏」なのか、さすがのワグネリアンにも分かりかねるほどの不可解なものだったりします。おそらく、ここにはプロデューサーの主観というか思いこみがかなり入り込んでいるのでしょう。決して元ネタの分からない「おやぢ」のように。
と、なかばワーグナーとの関連性を見つけ出すのを放棄しかけた時です。「Morning in Pinar del Rio」という曲で、それまでのいかにも「ラテン」というメロディーがいきなり「ジークフリート牧歌」に変わったのです。その、何とも鮮やかな手口には、一瞬言葉を失ってしまいました。ラテンとワーグナーがこんなにスルリと、まるでリバーシブルのぱんつの様につながっていたのだとは。次の「Lonesome in the Forest」は、タイトルでもう察しが付くことでしょう。「ジークフリート」の「森のささやき」そのものです。原曲の構成もイメージも変えずに、見事にラテン・ジャズに仕上げた手腕は、まさに特筆に値します。それはこのアルバムのハイライト「The Way to the Light」に至って、驚嘆に変わります。そこでは、なんとあの「パルジファル」が、ゴスペルのテイストをたたえたワールド・ミュージックに変貌していたのですから。
ゴスペルと言えば、このベン・リーハウスのプロジェクト、次回はニューヨークのハーレムのワーグナーなのだそうです。その次はスペインのフラメンコだとか、楽しみのような、怖いような。
このアルバム、ブックレットには英語、スペイン語、フランス語のほかに、何と日本語のライナーノーツが載っています。そういえば、ラジオ仕立てのナンバーでは日本語のMCも聴かれます。ワールド・リリース盤のオペラの対訳に、日本語訳がつけられる日も、遠くはない・・・?

9月14日

CHERUBINI
Messa in Fa Maggiore "di Chimay"
Ruth Ziesak(Sop)
Herbert Lippert(Ten)
Ilder Abdrazakov(Bas)
Riccardo Muti/
Chor und Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
EMI/557558 2
ケルビーニという作曲家、どうも日本ではその作品があまり知られてはいないようですね。「マリア・ルイジ・カルロ・ゼノビオ・サルヴァトーレ・ケルビーニ」などというフルネームをそらで言える人など殆どいないでしょうし、下手をすると、女たらしの小姓に間違われたりして(それはケルビーノ)。彼は、パリを中心にオペラの作曲家として生涯に25曲に及ぶオペラを作っていますが、後半生にはレクイエムやミサ曲など、大規模な宗教音楽を作るようになります。その、創作の転機となったのが、この「シメイのミサ曲ヘ長調」なのです。
1805年、ケルビーニはウィーンを訪れて自作のオペラを上演、ハイドンやベートーヴェンとも親交を持ち、特にベートーヴェンからは絶賛の言葉をもらうのですが、その頃シェーンブルン宮殿に総司令部を置いた、時のフランス皇帝ナポレオンによって、宮殿の音楽監督となるためにパリに呼び戻されてしまいます。ところが、ナポレオンはケルビーニの音楽が、実はあまり好きではないことが分かり、元々偉い人から何か言われるとすぐ傷ついてしまうような性格だったケルビーニは深く落ち込んでしまい、もう作曲をする気力など一切なくなってしまって、しばらくの間「引きこもり」の生活を送ることになるのです。
その「引きこもり」先というのが、今はベルギー・ビールでお馴染みの「シメイ」でした。そこの王子の庇護の元、シメイのお城の中で、ケルビーニは絵を描いたり、植物学の研究にいそしむという、世間の荒波に背を向けての暗い日々を送っていました。このジャケに使われた絵も、その時に描かれたものです。ある日、そんな大作曲家が逗留しているということを知った村人たちが、「教会の献堂式のために、ミサ曲を作ってくんろ」と頼みに来たのです。そこで作られたのが、この「シメイのミサ曲ヘ長調」のもとになった曲、これがきっかけとなって、ケルビーニは作曲への意欲を取り戻し、それからは数多くの教会音楽を作り続けることになるのです。ちなみにこの曲は、パリに戻ったあとできちんと手を加えられて、1809年に初演され、翌年には出版されています。
ケルビーニの教会音楽というと、一部のものはCDになって耳にすることが出来ますが、今ではすっかり忘れ去られてしまっていたものも多くあります。なんと言っても、彼が作ったミサ曲の総数すら、文献によってまちまちなのですから。もちろん、この曲も現在のCDリストには全く見あたらないものでした。これは、ケルビーニの作品をライフワークとして演奏し続けているムーティが、バイエルン放送響を率いて3月にミュンヘンで行った「蘇演」コンサートのライブ録音。作曲家がオペラで培ったドラマティックな表現と、若い頃に身につけた、パレストリーナあたりの古典的な書法を併せ持つこの長大なミサ曲に、ムーティは輝かしい光を与えてくれました。弦楽器や合唱の音が多少無機質に聞こえるのは、多分コピー・コントロールのせいでしょう。

9月12日

BACH
Concertos
Hilary Hahn(Vn)
Jeffrey Kahane/
Los Angeles Chamber Orchestra
DG/474 199-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1161(国内盤 9月26日発売予定)
1996年、17歳という若さでバッハの無伴奏パルティータを録音したヒラリー・ハーンは、その後もSONYレーベルに1〜2年のインターバルで録音を行ってきました。2002年までにSONYから出したアルバムは5枚、その全てが大きな賞賛を持って受け入れられ、セールス的にも確かな実績を築いてきたはずでした。しかし、米COLUMBIAという老舗がルーツであるこのメジャーレーベルが、やはりメジャーであるWARNERと同様、コアなクラシックから手を引くという以前からの噂は本当だったのでしょう。もはや、ヨーヨー・マのようにボーダーレスとしての使い道が残されているアーティストでもない限り、この、まさに「看板娘」として6年間働いてくれた天才ヴァイオリニストといえども、新天地へ放り出さざるを得ない状況になってしまっていたのです。
その、DG移籍第1弾が、このバッハアルバムです。すでに20代半ば、ジャケ写のハーン嬢にはもはや少女の面影はなく、その精悍な顔立ちからは、あたかも獲物を狙う猛禽のような雰囲気さえ窺うことが出来ることでしょう。デビューアルバムでも手がけたバッハの、今回はコンチェルト、どのような演奏を聴かせてくれていることでしょう。
ソロコンチェルトはホ長調とイ短調の2曲、これは、派手さに於いて勝っているホ長調が聴き応え十分です。とてつもなく速いテンポで、バッハが書き込んだ細かい音符を音にする様は、まさに王者の風格、世界チャンピオンを目指すオリンピック選手のように、音楽の隅々まで磨き込んだ演奏は、聴くものに一陣の爽快感を与えずにはおかないことでしょう。
ソリストが2人登場する「2つのバイオリンのためのコンチェルト」では、彼女の凄さを相対的に確認することが出来ます。第2ヴァイオリンのマーガレット・バーチャーは、バックをつとめているロス・アンジェルス室内管のコンミス、もちろんソリストとしてもそうそうたる経歴を持っている人ですが、ハーンと比べられてはかわいそうというものです。全く同じフレーズを交互に弾くところなど、ひらり(左)から聞こえてくるヒラリーはその存在感からして違いは明らか、彼女がいかに傑出した演奏家であるかがはっきり分かってしまいます。相方にやはりロス室内管の首席オーボエ奏者、アラン・ヴォーゲルを迎えた「オーボエとヴァイオリンのためのコンチェルト」では、その対比はさらにきわまります。いい年をしたオーボエ奏者は、ハーンの前ではまるでライオンの前の小兎、萎縮しきったその演奏は、この猛禽の実力を誇示するものではあっても、対等に渡り合ったアンサンブルには程遠いものです。
このように、まさに「女王様」の貫禄にあふれたハーンの演奏、しかし、そこから見えてくるのは、摩天楼の建ち並ぶ大都会を颯爽と走り抜ける真っ赤なアルファ・ロメオ、ケーテンの宮廷で、羽ペンを走らせている壮年のバッハの姿など、思い起こすすべもありません。

9月10日

MOZART
Night Music
Andrew Manze/
The English Concert
HARMONIA MUNDI/HMU 907280
(輸入盤)
キング・インターナショナル
/KKCC-498(国内盤)
有名なシンケルの重々しい「魔笛」のセット・デザインのジャケ、タイトルが「夜の音楽」、そして、演奏しているのが、「悪魔のトリル」で一躍有名になったアンドリュー・マンゼですから、このアルバムを聴こうとするときには嫌でもある種の先入観を持たずにはいられないことでしょう。つまり、何かおどろおどろしい、闇の中から生まれたような音楽とか。
しかし、それは全くの見当違いだったことが、最初の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を聴いた時に分かりました。マンゼとイングリッシュ・コンサートとの初めての共演盤、これは、音楽がまるで羽を持ったように自由に活き活きと飛び回っている、とても洒落たアルバムだったのです。この超有名なセレナーデ、最近では殆どBGMのように聴かれてしまう、いかにも典雅な「クラシック」の代表のようになってしまっています。ですから、プレーヤーにしても、なるべく邪魔にならないような演奏を心がけるのが当たり前になっているのでしょう。極力インテンポで、するする滑り抜けていくような演奏スタイルが、この曲には求められるようになっていたのでした。バイアグラも必要でしょう(それは、イン○テンツ)。しかし、バロックヴァイオリンの真の姿を現代に蘇らせてくれたマンゼは、そんな生ぬるいものには真っ向から反旗を翻しています。彼が目指したのは、もっと変化に富んだ、あちらこちらでゴツゴツぶつかり合うような音楽です。例えば、呈示部から展開部へ移る、いわば音楽の変わり目での、まさに意表をつくようなテンポの切り替え。聴き手は、ここではっきり音楽がその舞台を新たな次元に移したことを知るのです。ダイナミックスの対比も極端すぎるほどのもの。しかし、私たちはそこで、ピアニシモとフォルテとが、ただの音量の違いではなく、表現の上での決定的な違いであることを知るのです。
最後に収められている「音楽の冗談」こそは、このようなマンゼの姿勢が最もマッチしたものとして、見事な仕上がりを誇っています。演奏のスタイルはもちろんのことですが、この曲をオリジナル楽器で演奏することによる効果がこれほど発揮されているものは初めて聴きました(なんちゃって。実は、オリジナル楽器でこの曲を聴いたのが初めてなのですが)。なかでも、ホルン(もちろん、ナチュラルホルン)の効果には、驚かされてしまいます。その端的なものが、第2楽章のメヌエットで出てくるホルンだけによる二重奏。モーツァルトは、ここでわざと間違った臨時記号を付けているのですが、マンゼは1回目はそれを無視して、わざと「正しく」吹かせます。繰り返しで同じ箇所になったとき、初めて「楽譜通り」演奏させるのですが、ナチュラルホルンですから、その音はゲシュトップがかかって、音程だけではなく、音色までも素っ頓狂なものになるのです。これこそが、モーツァルトが目指した「冗談」の正体、半音が自由に出せるモダン楽器では絶対分からない面白さです。フィナーレでもまさに狂ったようなホルンのスタンドプレイが聴きもの、たまっていたストレスが一掃されてしまうこと、請け合いです。

おとといのおやぢに会える、か。


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