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身に余るミュージック。.... 渋谷塔一

(02/11/8-02/11/29)


11月29日

HAPPY BIRTHDAY
Gidon Kremer/
Kremerata Baltica
NONESUCH/7559-79657-2
最近、理由あってワーグナーの事を集中的に調べまくりました。それこそ、資料を読み漁り、CDを聴き呆けて、そのうえ実演まで観てくるという入れ込みようです。まさに「にわかヴァグネリアン」、小さな脳みそが、愛と官能で一杯になってしまってはいかんのう
全く、ワーグナーのエピソードといえば山のようにあるのですが、中でも有名な物のひとつに、こんなのが。「1870年、(これは彼らの長男ジークフリートの誕生の翌年)1225日。この日はコジマの誕生日。階段の脇に15人の小編成のオケを配置し、彼女のために(息子のために)作曲した『ジークフリート牧歌』を演奏した」というもの。なんとステキな贈り物でしょう!オンナだったら、誰しもくらくらしてしまうのでは。私も、誰かのために真似してみたいものですが、残念ながら私には、そんな作曲能力もオケを雇うだけのお金もありません。そんな私は、この「happybirthday変奏曲」を大切な人の誕生日にプレゼントしましょうか。
これは、クレーメル自身が、演奏会のアンコールでもしばしば取り上げ、その度に聴衆が盛り上がるという有名な曲です。とにかく面白いこと請け合い。最初、例のメロディが荘重に奏されます。あまり真面目なので笑ってしまうのもよいでしょう。と、思ったらいきなりハイドン風、(特に最後の部分がハイドンしてます。)次はモーツァルト。やはりメロディの最後のトリルがいかにもって感じ。おお、次はベートーヴェン!ちょっとこれはわかりづらいかも。次はロマン派。この後をひくメロディは・・・ブラームス。そのままシューマンに突入。粘っこいです。はい。そして、ドヴォルジャーク。これは笑えます。まるきり「アメリカ」のパロディ。これで終わりではありません。あと5つの変奏が続き、ピアソラ風、ラカトシュ風、などなど、果てしなく変貌していくあのメロディ。いやぁ。ほんと楽しめます。昔はグロリュー、最近はピアニスター・HIROSHIが同じような事をしてましたが、やはりクレーメルはスゴイ。真面目な顔をしてこんな曲を演奏するんですから。
この曲だけでなく、「McMozart's Eine Kleine Bricht Moonlicht Nicht Musik」。これは題名だけ見ると、モーツァルトとベートーヴェンの混ぜ合わせのようですが、実は違うのです。3分程度の曲ですが、実にいろんな仕掛けがしてあって、その上作曲家の名前もうそくさい!「Teddy Bor」だなんて・・・。
このCDは、実は以前発売の「アフター・モーツァルト」の流れを汲む物で、ちょっと冗談音楽系と、現代音楽系を程よくミックスした、ある意味画期的なアルバムなのです。全曲紹介したいのですが、字数が尽きました。ワックスマンの「蛍の光」変奏曲も収録されているので、これにて失礼します。

11月27日

The Art of Michael Gielen
Michael Gielen/
SWR Symphony Orchestra
BMG
ファンハウス/BVCE-38056(国内企画)
11月も残すところあと3日です。そろそろ年の瀬。で、こんなアルバムはいかがでしょう。今年75歳を迎えた大指揮者ギーレンの業績を讃えるべく編纂された4枚組み。聴き応えありです。
さて、ギーレンといえば、御存知の通り、現代音楽のスペシャリストとして幅広い活動をしている人ですね。最近はヘンスラーレーベルから多くのCDがリリースされ、ますます人気が沸騰中。マーラーやシェーンベルクなどの規模の大きい作品を振らせたら、右に出るものはいないのではないでしょうか?(これは誉めすぎ)
1927年生まれのギーレンは、高名なオペラ演出家を父に持ったせいもあり、幼い時からウィーンの文化にどっぷり浸かっていたようです。その上彼のおじさんは、あのシュトイアーマン(シェーンベルクの友人であり、例のマーラーの交響曲第4番の室内楽版を書いた人ですね)。ギーレンが、どんなに規模の大きな曲を指揮する時でも、曲の構造をすっきり見せてくれるのは(時として寒くなりすぎるときもある)そんなところに根があるのでしょうか。興味深いところではあります。
このアルバムは、そんなギーレンがARTE NOVAレーベルに録音した音源をまとめたものです。1枚目はモーツァルトの交響曲第39番と、ツェムリンスキーの「叙情交響曲」。そしてベルクの「アルテンベルク歌曲集」。2枚目はベルクの「叙情組曲」からとラヴェルの「ダフニスとクロエ」全曲。もちろん本来の輸入盤は、こういう曲の組み合わせではなくてこの企画のために、多少カップリングが歪曲され収録されています。それが結果的には、ギーレンの音楽の方向性が良くわかるというわけです。何しろ、モーツァルトもツェムリンスキーも、よく言えばスマート、悪く言えば冷たい。曲の書かれた時代が違っても、ギーレンにかかるとひたすら音は機能的に響き、どこにもムダがなくなります。もちろんラヴェルも、ミュンシュやクリュイタンスなどとは全く違った肌触り。「そういえばチェリビダッケもラヴェルを得意にしてたらしいけど(聴いたことないです)きっとアノ人も、こういう感じに振るのかしらん。」なんて考えてしまうほど、フランスっぽくない演奏です。
ここまで聴いてもまだあと2枚あります。残りはバルトークのピアノ協奏曲第3番と、ショスタコの交響曲第12番。そしてギーレンお得意の現代曲、エリオット・カーターの作品集。こんなに入って3800円ですよ。これから物入りの季節でもあります。ついつい見栄張って、お金もないのに彼女にフランス料理を奢ってしまい、懐が寂しい時なども、この1セットで随分楽しめるはずです。とは言え、ギーレンでは潤いのあるぎーれんな(綺麗な)演奏は期待できませんけど。

11月24日

TCHAIKOVSKY,MYASKOVSKY
Violin Concertos
Vadim Repin(Vn)
Valery Gergiev/
Kirov Orchestra
PHILIPS/473 343-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCP-1069(国内盤)
ゲルギエフが新しいCDを出すたびに、私達は彼がその曲から導き出すもののあまりの大きさに衝撃を与えられてきました。今回、若手ヴァイオリニスト、ワディム・レーピンと共演したチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲においても、その衝撃に対する期待は裏切られることはありませんでした。
おそらく、ゲルギエフが目指したのは、普通の演奏でこの曲にまとわりついてくる安っぽいギャラント趣味と甘すぎるセンチメンタリズムの払拭だったのではないでしょうか。第1楽章のオーケストラの序奏に見られる過度なまでの壮大さを味わうだけで、その意図は十分に伝わってきます。レーピンの骨太なヴァイオリンと相まって、この曲のたくましさを存分に堪能できることでしょう。この流れはそのまま第2楽章でも継承され、そこで私達は、なんとも新鮮な体験に遭遇することになります。切々と訴えかける、まさにセンチメンタリズムの極地とも言えるこのカンツォネッタが、ゲルギエフの手によって甘さを抑えた男性的なものに変わるとき、かつて味わったことのない魅力が現れます。さらに中間部、必ず「泣き」が入るメロディーが、実はこれほど生命力に満ちていたものだったと知れば、この曲に対する新たな見方が出来ようというものです。そして、アタッカでなだれ込む第3楽章のドライブ感といったらどうでしょう。わき目も振らず疾走するゲルギエフとレーピン。と、一瞬音楽が安らいだ時に聴こえてくるのはオーボエの物悲しいロシア風のテーマ。そう、かつてここからこれほどまでのロシアの情感を感じられた演奏があったでしょうか。チャイコフスキーが、結局はロシア人であったという紛れもない事実をこれだけ見事に示してくれた演奏を、私は知りません。
カップリングはチャイコフスキーの次の世代にあたる作曲家ニコライ・ミヤスコフスキーの作品。彼は交響曲は27曲も書いていますが、ヴァイオリン協奏曲はこれ1曲しか残しませんでした。CDも、恐らく現在はこれしか出ていないだろうというほどの、いわば隠れた名曲です。チャイコフスキーよりももっと剥き出しのロシアの情感が、あちこちにちりばめられていますから、ゲルギエフは存分にダイナミックな音楽を繰り広げてくれています。さらに、レーピンの超絶技巧は並外れたもの、難しいカデンツァを鮮やかに弾き切るさまは、まさに神業と言ってもよいのでは。これは、ドリンク剤のお陰だけではないはずです(キョーレーピンって)。
余談ですが、この演奏がライブ録音されたのは、フィンランドにある「マルッティ・タルヴェラ・ホール」というところ、かつてその深い独特の声で私たちを魅了してくれたこのバス歌手の名前を冠したホールが出来ていたなんて、さすがはフィンランド。

11月22日

R.STRAUSS
Metamorphosen etc.
David Zinman/
Tonhalle Orchester Zurich
ARTE NOVA/74321 95999 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCE-38055(国内盤)
ジンマンのR・シュトラウス作品集第5弾です。今回の曲目は「変容」、「4つの最後の歌」そして「オーボエ協奏曲」というもの。そうです。彼の晩年の作品が大好きな人(もちろん私も)にとってはまるで夢のような収録曲ではありませんか。
演奏についてはまず申し分のないもので、いつものジンマンらしく、スコアをすみずみまで読み取り、その結果、思いがけないところが強調されていたりもします。例えば「4つの最後の歌」の第2曲「9月に」での冒頭。本来なら、全ての音が溶け合って、混沌とも官能とも区別のつかない音楽になるはずなのに、ジンマンは三連符で奏される弦の刻みを強調して、まるで星屑が降ってくるかのような、不思議な効果を上げるのに成功しています。その傾向は全てに於いて顕著で、至るところから人懐こいメロディが現れては消えるのです。すでに声は音楽の一部として取り込まれてしまい、歌詞すらもあまり意味をもたないように聴こえます。
オーボエ協奏曲もなかなか素晴らしいもので、もうさんざんこの曲を聴き尽くしたはずの私でさえ、新たな発見が随所にあり、なかなか楽しい思いをしましたね。何より、今回一番心に残ったのが「変容」でしょうか。最近、巷で話題になったダニエル・キースの「アルジャーノンに花束を」。この小説は随分以前に読んだのですが、最近テレビでドラマ化されたため、もう一度読み返してみたのです(ドラマは失望するのが嫌なので見ませんでしたが)。内容は熟知してたのですが、たまたまシュトラウスを聴きながら読み返してみたら、驚く程小説と曲の構造がよく似ているような気がしました。最初静かに始まり、だんだん音を増やしていって最高潮に達し、また波が引くように静かになる。これは、子供のような知能しか持たないチャーリーが、手術により一瞬だけ天才になり、また元に戻る。曲は20分、小説はたった半年間の時間の流れ。ただそれだけの出来事なのに、その中にはおよそ考えられないくらいの濃密なドラマが詰まっているのです。変化を受け入れることは様々な苦痛を伴う、同じ事柄でも受け取る側次第で、まるで違った様相を呈する・・・・。曲も小説もそんな主題が隠されているように思ったのです。
「変容」が作曲されたのが1944年(初演は1946年)、キースが小説のアイデアを思いついたのが、やはり1944年(完成は59年)。もしかしたら、キースはこの曲を聴いてたかもしれないな、それはできーすぎかな、なんて想像を巡らすことも、音楽を聴くときの一つの喜びなのかも知れません。

11月20日

症候群
嘉門達夫
DAIPRO-X/DXCL-65
私、渋谷が極めようとしているのは「おやぢ道」。日本語の特性である同音異義を逆手に取った言語遊戯、あるいは一つの言葉を類似した発音の単語に置き換えることによって生じるシュールな世界の創造といったものを目ざして、日々の修練に怠りはありません。そんな私のお気に入りは嘉門達夫です。まさに「同志」と言っても差し支えない彼が作ったこのニューアルバムには、まるで宝の山のように「おやぢ」が転がっています。
しかし、嘉門のような熟達者にとっては、「おやぢ」をただの「おやぢ」で済ましてしまうことは許されないことだったのでしょう。例えば、「バスジャック」というナンバー。ここでは、バスジャックに遭った乗客が、犯人の要求で1人ずつおやぢを言わなければならなくなったという状況が想定されています。そうしないと、無線でバスの中の様子を聞いている犯人に、バスを爆破されてしまうのです。乗客がおずおず「サルが、去る」、「ネコが、寝込む」と言い始めたのはいいのですが、だんだんやけっぱちになって「ライオン、ライオン」、「カメレオン、カメレオン」、「ヤンバルクイナ、ヤンバルクイナ」といい始めると、無線で犯人の声。「ちょっと待て。続けて言っているだけじゃないか」「ドッカーン」。・・・どうでしょう。ここでは、嘉門のおやぢに対するとことん厳しい審美眼が明らかになっていると、誰しも感嘆の声をあげるに違いありません。
嘉門の更なる魅力は、普段我々が見過ごしているような何気ないものに注がれる暖かい眼です。それが端的に現われているのが、「哀歌〜エレジー〜2002」でしょう。物悲しいランドスケープ・ミュージックに乗って語られるシュプレッヒ・ゲザンクは、このようなものです。
 「『ポニーテールがお似合いですね』と言われて照れる武士の気持ちがわかるか!」
 「音楽の時間、顔がサルに似ているというだけで、シンバルをやらされるやつの気持ちが分かるか!」
 「なげやりな態度の槍投げの選手の気持ちがわかるか!」
 「いつも不戦敗続きの勝負パンツの気持ちがわかるか!」
 「『ハイ・チーズ』と言われて写真を撮っているバターの気持ちがわかるか!」
これが延々続いたあと、
 「で、結局、バナナはおやつなのかぁ〜!」
と締められれば、このアーティストの繊細な観察眼の前には、ただただひれ伏すしかないのではないでしょうか。
ここで、嘉門の非凡な音楽的才能についても言及しなければなりますまい。このアルバムでは、嘉門は全ての曲のアレンジを自らの手で行っていますが、先ほどの「哀歌」でも見られた、メロディーメーカーとしての資質は、私にとってはとても新鮮な驚きでした。そのことは、シングルカットされた「夢・ドリーム」を聴けば、その斬新で高度なコード感覚とともに、誰もが納得することでしょう。

11月18日

Nuits-weiß wie Lilien
Walter Nußbaum/
Schola Heidelberg
BIS/CD-1090
「夜−百合のように白く」という、洒落たタイトルがつけられたこのアルバム、文字通り、夜の暗さも百合の明るさも表現する可能性を秘めた「人間の声」の魅力がたっぷり詰まったものです。現代付近の作曲家の、主に無伴奏の合唱曲が、全部で18曲収録されています。
「現代」という時代、ありとあらゆる様式がそれこそ作曲家の数だけ用意されているという混沌の様相を呈していますが、ここに集められたものは、それぞれがはっきりとした主張を持った、それゆえに必ずしも耳あたりは良くない曲ばかりです。その筆頭は、何といってもシェルシの「TKRDG」でしょう。歌詞はなく、タイトルの通り、何種類かの子音だけで歌われる(という言い方も不正確。ただ声を出すだけ)音楽は、とことん刺激的です。この曲が作られた60年代には確かにあった、傍目には人を寄せ付けない、しかし、一歩踏み込むと作曲家の生き様までもが目の当たりにできる魅力に満ちています。
これを聴いてしまうと、シェーンベルク、ヴェーベルンあたりの「無調」の音楽は、いかにも人工的な匂いが鼻に付きます。ヴェーベルンの「2つの歌」などは、今から思えば「あんなものもあったなあ」という感慨以外には、何の価値も見出せないほどです。ことさら奇を衒った音の並びの、なんと空虚なことでしょう。
クセナキスの「夜」は、実は私がはじめてこの作曲家に接した記念すべき曲。その時の稚拙な(東京混声合唱団)演奏からも、この曲が持つ異常なほどのメッセージと、その作者の並外れた才能を感じ取れたものでしたが、このアルバムのスコラ・ハイデルベルクの、まさに信じがたいほどの表現力にかかれば、その何十倍もの力で圧倒されるものがあります。初めて聴いた人は、あっとおどろくことでしょう。声によるグリッサンドの重なりや、ショッキングなピチカート。「戦士」クセナキスの面目躍如です。
そして、お目当てのリゲティの「ルクス・エテルナ」です。かつて、あれほどまでに難解な響きだったものが、このアルバムの中で聴かれると、なんと安らぎに満ちていることでしょう。時とともに微妙に変化する光の、なんと多彩なこと。人類が到達した「声」の可能性の最も美しいものがここには確かに存在しています。ここで歌っている合唱団の一人一人の声は、まるで磨き上げられた木材のような存在感を持っています。それが精緻な音程で重なり合う様は、あたかも熟練した職人による寄木細工のよう、この曲の演奏に、新たな魅力が加わりました。
細川俊夫の「アヴェ・マリア」も、この曲の流れをくむもの。さらに静謐な雰囲気をたたえた佳曲です。

11月15日

原 智恵子 伝説のピアニスト
原智恵子(Pf)
渡邊暁雄/
日本フィルハーモニー交響楽団
DENON/COCQ-83614
いつものお店の店員さんに訊いた話です。お客さんが「オススメの演奏ありますか?」と聞いてきた場合は、値段の安い、そして傾向の違う演奏のものを2枚勧めて、「ご自分で聴き比べてください」と言うのだそうです。例えば、「幻想」ならミュンシュとチョン・ミョンフン。「マーラーの5番」ならブーレーズとバーンスタインなどと言うように。彼にしてみれば、「演奏の好みは、あくまでも自分で決めることで、誰かの言いなりになってしまってはいけない」ということなのだそうです。
で、原智恵子です。私が彼女の名前を知ったのは、随分前のこと。昔からショパンに興味があって、ショパンコンクールについての資料を調べていたら、なんと1937年(第3回)に日本から2人参加していたという事がわかったのですが、そのうちの1人が原智恵子だったのです。当時は海外に出るだけでも大変なことだったはず。日本の洋楽事情だって、今と比べれば惨憺たる有様だったに違いありません。そんな時期に彼女は堂々と本選に進み、入賞こそ逃したものの「聴衆賞」をもらったというのです。これは、彼女のあまりの熱演に感動した聴衆が騒ぎ出し収拾がつかなくなったため、会場にいた大富豪が、急遽この賞を提案、どうにか騒ぎを収めたという、いわくつきのものです。こんなに凄いピアニストなのに、なぜか現在の日本では彼女のソロピアニストとしての足跡は全く知られていません。かろうじて、大チェリスト、ガスパール・カサドの妻、伴奏者としての記録が残っているだけです。
そんな彼女の幻の演奏の復刻が今回の1枚。62年に彼女が来日(!)した時、日本フィルと共演したショパンの協奏曲第1番です。これが、渡邊暁雄の見事な指揮に支えられた、本当に素晴らしい演奏なのです。彼女の演奏はとにかく熱い。体中で「音楽する喜び」を表現しているかのようです。そしてタッチには女々しいところなど全くありません。どちらかというと男性的。フレーズも無意味に引き伸ばしたりしません。今まで、何種類もこの曲を聴いてきましたが、「やる気」ではNo.1かもしれませんね。
こんな彼女が、どうして戦後の日本では黙殺されてしまったのか不思議でしたが、合わせて読んだ本(原智恵子 伝説のピアニスト 石川康子著 ベスト新書)で、答えらしき物を見つけることが出来ました。それによると、当時の大物評論家Nが、彼女のことを嫌っていたというのです。鼎談の時には「がんばれ」のようなことを言っておきながら雑誌の評でめためたにけなしたり。何しろ権威に弱い日本の音楽界(この体質は今でもそんなに変わってないでしょう)、Nの一声に逆らう人はいなかったようです。しかし、それからおよそ30年が経過しました。既にNもこの世の人ではありません。そろそろ自分たちの耳で彼女の真価を確かめてもいいのではないでしょうか。
ちなみに、Nが晩年べた褒めしていた女流ピアニスト、ディーナ・ヨッフェは今何をしているのでしょうね(ビュッフェでディナーを食べてたりして)。さんざん貶したツィメルマンは素晴らしい活躍をしているのに。とにかく、音楽や絵画などを選ぶ時は、もっと自分の感覚を信じてもいいのかもしれません。好きなものを人に決めてもらうなんて変ではありませんか???

11月13日

BEETHOVEN
Symphony No.9
Simon Rattle/
Wiener Philharmoniker
東芝EMI/TOCE-55505(国内盤 1120日先行発売予定)
世界的な名門オーケストラ、ベルリン・フィルの芸術監督としてのキャリアがつい先頃始まったばかりのサー・サイモン・ラトルは、ベートーヴェンの交響曲の録音を、もう一つの世界的なオーケストラ、ウィーン・フィルとともに着々と進めています。このたび、日本でのシーズンに合わせたかのように、先頃の「5番」に続いて待望の「9番」が発売されることになりました。
この「第九」のCDは、ラトルのオリジナル楽器的なアプローチが見事に結実した、たいへん魅力的な仕上がりを見せています。今までのオーソドックスな演奏を聴きなれたリスナーはあるいは軽い戸惑いを覚えるかもしれませんが、虚心に耳を傾ければ、その活き活きとした音楽を通して手垢に汚れていない真実のベートーヴェンの姿が、夜空に輝く星のようにくっきりと浮かび上がってくることでしょう(虚心の星)。まず第1楽章では、大胆なテンポの動かし方に驚かされます。これなどは端的にオリジナル楽器の影響。オリジナル楽器を演奏するというのは単に楽器だけではなく、当時の演奏様式までもきちんと検証して実践するということです。オリジナル楽器による演奏家のCDを聴いてみればすぐ分かることですが、当時は現在よりもはるかに自由度があって表現の振幅が大きい演奏が行われていました。これを、ラトルのような軽いフットワークの持ち主が行った場合、その効果には絶大なものがあります。フレーズの終わりの極端なリタルダンドや、スビト・ピアノでそれにあわせてテンポも瞬時に落とすという演奏が、あたかもあの感情の起伏の激しいベートーヴェン自身が今そこで指揮をしているかのようなリアリティをもって迫ってきます。こう書くと、何かぎすぎすとした演奏のように思われるかもしれませんが、これがウィーン・フィルの手にかかると、その暖かい音色でなんともいえない豊かなものに感じられてしまうから面白いものです。ゆっくり流れるような第3楽章ではその美点がいかんなく発揮され、あくまでも柔らかく、夢見るような世界が広がります。これ以上美しくはなれないという弦の響き、ホルンソロのさりげない歌わせ方などが、ラトルの文脈の中では妙に心地よく耳に馴染みます。
声楽陣が参加する第4楽章に入っても、ラトルのアプローチにはいささかの変化もありません。ここで合唱団に求められるものは、安直な「人類愛」のメッセージなどではなく、その言葉を通じて伝えられるべき音楽。したがって、「Brüder兄弟よ!」という大げさな言葉にしても、楽譜(もちろんベーレンライター版)に楔形のアクセントがあれば、ためらわずそれに従って短く歌わせ、言葉のイメージを変えてしまうことすらも厭わないのです。マーチが終わると、声楽が入らないオーケストラだけの部分が現われますが、このシーンの変わり目における、ドラマティックとも形容すべき表現の落差の大きさには心底驚かされます。いきなり変わるテンポに乗って激しく走り出すラトル。まさに、髪を振り乱して疾走するあのベートーヴェンの姿が等身大で眼前に広がる瞬間です。もちろん、その髪はグレーのカーリー・ヘア、燕尾服の下にはお洒落なカマー・ベルトを巻いているのは、言うまでもありません。

11月10日

MESSIAEN
Harawi
Marcelle Bunlet(Sop)
Olivier Messiaen(Pf)
INA/IMV044
いつも思うのですが、どうもCDと言うのは厄介な代物ではないでしょうか。なんと言っても、大きさがヤバイ!私のように、少々手が小さい者ですら、片手で簡単に持ち運びができますね。しかも軽い。20枚くらい買ったとしても、自転車の荷台につけて運ぶ必要はありません。それで、ついつい目についたCDを端から買ってしまうのですね。で、増えること、増えること!
なんで、こんな事を書き出したかと言うとですね、先日、このメシアンの「ハラウィ」について、調べる機会があったのです。この曲、以前聴いた事はありましたが、CDは1枚も持っていなかった私、早速、その時の新譜を購入して、できたらこの「おやぢ」に書こうと思ってたのです。これは私の根性がなくて実現しませんでしたが。その時、使おうと思った“おやぢねた”がハラウィに引っ掛けて「はらみ」。そう、その時は8月の中旬。8月29日の「焼肉の日」を記念して書くつもりでした。
あれから2ヶ月、私のCD棚には、合計5種類の「ハラウィ」が置かれています・・・・。そうです。いつの間にか増えてしまったのです。何しろ、この「ハラウィ」。曲自体が大変面白いのですね。「愛」をテーマにしたこの歌曲集ですが、使われている歌詞も摩訶不思議なら、曲調も摩訶不思議。まるで打楽器のように使われる声と、訳すのが不可能がメシアン自身による詩。ここに、いつものメシアン特有の鳥の歌がミックスされた、聴けば聴くほどはまる作品なのです。
この曲をしみじみ聴くきっかけとなった、日本人のメゾによる演奏は、正直、残念ながら必ずしも出来が良いとは思えませんでした。(書けなかった理由の一つです)それは、なぜかはわかりませんが、まず、フランス語が完璧に出来ることが第一条件で、さらに熟達した歌唱技法が必須条件。そして、更に一振りのエスプリを加え、やっとメシアンの目指す音楽に近づく・・・・ような気がします。
それで、いろいろ聴き比べる羽目に陥ったのでしょう。今日購入したのは、96年録音のソプラノ歌手、レンツ=クーンによる演奏。かなり期待して聞いたのですが、とても薄味で、ただただ音楽が鳴っているようにしか聞こえませんでした。たぶん、私の求める物が大きすぎるのかもしれません。今のところ、この曲のBEST(と、私には思える)は、54年録音のマルセル・ビュンレによる歌とメシアン自身のピアノ伴奏。このビュンレは46年にこの曲を初演した歌手で、さすが曲のすみずみまでに、血が通った演奏だと思うのです。
日頃、友人なんかに「自分で聞き比べないとわかんないよ」と、言っているのを、実践したわけですが、それを貫くには、かなりの忍耐力と時間、それに財力とはらうぃ・・じゃなく、広い部屋が必要というわけですね。

11月8日

GLASS
Naquoiquatsi Original Motion Picture Soundtrack
SONY/SK 87709(輸入盤)
ソニー・ミュージック
/SICP-218(国内盤)
3種の神器は、鞭と蝋燭と浣腸だなどというバカなことが、さる掲示板に書いてありましたが、何事も3つ一まとめにするというのは良く使われる手法です。マスターでしたら、さしずめ3人娘か3大愛人でしょうか。
作曲家でも、3人一まとめというのが良くありますね。3大B(ブーレーズ、ブゾーニ、ベリオ・・・ではなくて、もちろんバッハ、ベートーヴェン、ブラームス)とか、新ウィーン楽派の3人(シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン)、日本の場合だとその名も「三人の会」(黛敏郎、芥川也寸志、團伊玖磨)とか、「山羊の会」(間宮芳生、外山雄三、林光。これはちょっとマニアック)。で、いわゆる「ミニマル・ミュージック」でも、このジャンルの教祖的存在は「ミニマル3人衆」と呼ばれているのです。その3人とはスティーブ・ライヒ、テリー・ライリー、そしてフィリップ・グラスです。
ミニマル・ミュージックというのは、ごく限られた音符による一定のパターンを延々と繰り返していくうちに、いつしか元の形が変わって新しい風景が現われるという作曲技法です。例えば、ライヒの「ピアノ・フェイズ」という曲では、2人のピアニストが、1〜2小節程度の全く同じパターンを同時に引き始めるのですが、片方の奏者がほんの少しずつ遅く演奏するために、段々音がずれてきて、そこに新しいメロディーが生まれてきます。これを延々と続けていくと、もともとの単純なパターンが、実に変化に富んだものに変貌するというものです。
ただ、こういう曲を演奏する場合には、普通の曲とは全く違う緊張感を強いられることになります。ほとんど機械になりきって演奏するという、まるでコンピュータのようなことをやらされているわけですから。いえ、実は、その辺に目をつけた人はちゃんといました。80年代にコンピュータが手軽に音楽の現場に導入された時に、このミニマルのコンセプトをそのまま取り込んだジャンルが、「テクノ」というポピュラー音楽の1分野だったのです。したがって、ミニマリスト(ミニマル・ミュージックの作曲家。ちなみに、ブルマが好きな作曲家は「ブルマリスト」)たちは、もはやクラシック音楽の作曲家という範疇では収まらないほどの拡がりを持つことになります。なかでもフィリップ・グラスは、早くから映画音楽とのかかわりをもっており、そのポピュラリティに於いて、他の2人より一歩抜きん出ています。ゴッドフリー・レッジョによる文明批評ドキュメンタリー「カッツィ3部作」の完結編である「ナコイカッツィ」のサウンドトラックも、まさにそのような多くの聴衆を相手にした音楽として成立していることは明らかでしょう。ここで注目したいのは、ソリストとしてチェロのヨーヨー・マを起用したことです。譜面づらは単調な音の羅列でしかない無機的なミニマルのフレーズから、彼はとても豊かな叙情性を引き出して、まさに称賛に値する感動的な音楽を作り出しています。

さきおとといのおやぢに会える、か。


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