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腹が減ると。.... 渋谷塔一

(02/10/15-02/11/5)


11月5日

MAHLER
Symphony No.5
Simon Rattle/
Berliner Philharmoniker
EMI/CDC-5573852
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55463(国内盤)
鳴り物入りで、アバドの後任者としてベルリン・フィルの音楽監督に就任したサー・サイモン・ラトルの治世がいよいよ始まりました。知性あふれる彼と、この世界一高性能と言われているオーケストラとの最初のコンサートの模様が記録されているのが、このCDです。今まで、多くの指揮者が新しいポストに就いてきたはずですが、その門出をこれほど広汎な人たちに知らしめたということは、かつてあったためしがありません。なにしろ、9月初めに行われたコンサートの録音が、ほんの一月ほどでCDになってしまい、それが全世界で発売されるというのですから。こんなことは、もう一つの有名なオーケストラの「ニューイヤー・コンサート」以外にはありえません。それほどに、このラトルの演奏は多くの人に待望されている、と、レコード会社は判断したのでしょう。
その「マラ5」の演奏、期待を裏切らない、素晴らしいものに仕上がっています。ラトルはこの曲を演奏するにあたって楽譜を徹底的に見直し、今までにない新しいアイディアを取り込んだといいます。しかし、その結果聴こえてくる音楽は、何の衒いもないごく自然なものでした。楽譜の指示はとことん徹底するけれど、そこに過剰の思い入れを盛り込むことは決してないという基本的なアプローチが、その自然さを生み出しているのでしょう。
「新しいアイディア」の一つ、第3楽章のスケルツォで、楽譜に「オブリガート・ホルン」と記されているホルン奏者を指揮者の脇に配置して、あたかも協奏曲でのソリストのような扱いにしたことは、単なる思い付き以上の確かな効果を発揮しています。この楽章でのこのホルンの役割がこれほど大きかったことが始めて認識できましたし、それに応えたホルン奏者(シュテファン・ドール)の、正規の位置では決して見せないであろう、文字通りのスタンドプレイが聴けるのも、大きな収穫です。
国内盤に特典として付いているラトルのインタビューを聞いてみると、第4楽章の「アダージェット」がヴィスコンティの「ベニスに死す」に使われたのはまちがいだと言っています。あの曲には、「死」のイメージは全くないというのですね。確かに、ここでの演奏は、ありがちなねっとりした表現とは遠くへだたったあっさりしたものです。この流れは次の第5楽章を予言するもの。果たせるかな、小気味良いリズム感(ラトルのグルーヴ感は驚異的!)に支えられたこのフィナーレは、最後の「愛の勝利」への道程が手にとるように分かる極めて見通しの良いものになっています。そう言えば、第1楽章の最後、フルートの物悲しい嬰ハ短調の上向アルペジオのあと、低弦のピチカートで奏される単音の嬰ハの音が、短調ではなく、あたかも長調のように響いたのも、決して偶然ではなかったのかも知れません。

11月3日

Schubert for Two
Gil Shaham(Vn)
Göran Söllscher(Guit)
ユニバーサル・ミュージック/UCCG-1128(国内盤先行発売)
この3日くらい、プライヴェートでゲルネを聴き続けた私、すっかり体中がシューベルトのエキスでシャーベット状態になっています。
そんな時、いつものお店に行ったらそこでもシューベルトが。曲は良く知っている「アルペジォーネ・ソナタ」なのだけど、何か違うのです。いつもの店員さんが「このところのイチオシで、毎日1回掛けているんです」と言います。以前そういえば、オーボエ編曲のアルペジォーネが掛ってて、その時もつい買ってしまいましたっけ。たぶん彼は編曲マニアなのでしょう。勝手にそう解釈してみました。
そのときかかっていたのが、この「シューベルト・フォー・トゥー」というアルバムです。ヴァイオリンのギル・シャハムと、ギターのイョラン・セルシェルのコンビによるシューベルト作品集でして、この2人の共演アルバムは以前の「パガニーニ・フォー・トゥー」から実に9年ぶり。今回もシャハムの美音とセルシェルの叙情性が完璧に溶け合った、極上のシューベルトの世界を堪能できるのです。
シューベルトの作品には、確かにギターの音色が良く似合います。あの「水車小屋の娘」にもギター伴奏の良いCDがありますし、彼の肖像画でもお馴染みの、友人達との気の置けない演奏会の場面では、ピアノよりギターの方が雰囲気にあっているような気がするではありませんか。
まず聴いたのは、このアルバムのメインである「アルペジォーネ」です。最初、あのメロディがヴァイオリンで弾かれるのには違和感を感じるかもしれません。普通チェロで代用される、あの懐かしげな音楽には音域が高すぎるのです。しかし、そんな思いも一瞬のこと。シャハムの哀愁たっぷりの歌わせかたに聞き惚れているうちに、違和感はきれいさっぱりなくなってしまいました。そして美しい第2楽章、いかにもシューベルトらしく長調と短調が交錯する終楽章。それらが終わる頃には、もうすっかり元々この組み合わせで書かれたかのように思えてしまいます。
次にお店で掛けてくれたのは、「楽興の時」と「アヴェ・マリア」でした。こちらも御存知の通り編曲ですが、全く良くできているものです。鄙びた民謡性がはっきり打ち出された、とても親しみ深い音楽になっているのですから。
これだけ聴いても、まだ内容の1/3との事です。あとは「ソナチネ」やら「ドイツ舞曲」やらがぎっしり入っているというのですから。
ついつい購入してふと気がつくと、ストアプレイは岡城千歳が編曲したという、マーラーの「巨人」に替わってました。やはり、あの店員さんは編曲マニアだったに違いない・・・・。

11月1日

SCHUBERT
Die schöne Müllerin
Matthias Goerne(Bar)
Eric Schneider(Pf)
DECCA/470 025-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCD-1071(国内盤)
正直言って、私は「水車小屋の娘」のバリトン盤はあまり好きではありません。なぜなら、この歌曲集は少々短絡的な若者の失恋の話。ディースカウなどで聞くと、(上手いのですけど)あまりにも分別くさいではありませんか。やはりテノールで聴きたいと思うのです。
そんなわけで、9月の始め、このゲルネ盤を店頭で見かけた時にも、一瞬躊躇ってしまったのです。私は確かにゲルネが好きだけど、「水車小屋」は聴きたくないな・・・・。で、買わずに帰ったのですが、すぐさま後悔して、もう一度お店に行ったのです。すると、なんと、1枚もなくなっているではありませんか。まさか、バリトン盤だから??いえいえ、さすがにそんな事はありませんで、単なるブックレット不良だったのですが・・・。で、1ヶ月遅くなってやっと手にしたこのCD、聴いてすぐさま「なぜあの時すぐ買わなかったのだろう」と後悔しました。それほどまでにステキなのです。
いつものように、彼の声は極上のベルベット・ヴォイス。常に柔らかく、決して声を荒立てることはありません。まず第1曲目、「さすらい」。譜面上では単なる繰り返しに過ぎない素朴なメロディなのに、まるで全てが違うように聴こえるのには全く驚く他ありません。それほどまでに、この単純な有節歌曲を、彼はこの上ないニュアンスを込めて歌うのです。第2曲目「どこへ?」ああ、この柔らかい歌い口の素晴らしさ。シューベルトの曲の持つ美しさをしみじみ味わうことができます。ピアノを受け持つシュナイダーの手腕にも注目。ある時は歌と対話し、ある時は逆らい、そして包み込む。少々くせのある音楽作りかもしれませんが、もう一人の登場人物である「小川」の役を完全に演じているのです。
希望に満ちた前半の曲が終わり、坂道を転げ落ちるように悲劇的様相を帯びる後半、特に15曲目あたりからがゲルネの真骨頂と言えましょう。悲しみ、絶望といった諸々の感情を、彼はあくまでも控えめな表情で歌いきります。人は本当に絶望している時は涙も出ないと言いますが、このゲルネの歌もそう。第19曲目の「しおれた花」での静かな諦観。いつぞやの「夕星の歌」にも通じる、冷静さと背中合わせの限りない暗闇。これは彼以外に歌い得ない世界かも知れません。終曲での安らぎで、思わず涙し、「もう決してバリトンはイヤなんて申しません。これからも聴いてあげるね。」と心に誓った私でした。

10月30日

ROPARTZ
Requiem
Michel Piquemal/
Choer Régional Vittoria d'Ile de France
Ensemble Instrumental Jean-Walter Audoli
ACCORD/472 345-2
宗教音楽に目がない私としては、ジョセフ・ギイ・ロパルツという、1864年生まれのフランスの作曲家が作ったレクイエムには、そそられるものがありました。(作った人の名前から「おケツ、いい、おパンツ」などというお下劣な連想をしてそそられるなどということは、決してありませんが。)さる文献には、「フォーレのレクイエムと同じ楽章編成」とか、「デュリュフレのレクイエムのさきがけとなったもの」などとあります。そのどちらも大好きな私がぜひ聴きたいと思ったのは当然のことでしょう。アマチュアの合唱団などではよく演奏したりするそうですが(あの末廣誠さんも指揮したことがあるそうです)、CDは1種類しか出ていませんでした。その、1991年に録音されたACCORD盤をカタログで捜し出し、CD屋さんに客注を出したのですが、一向に入ってくる気配はありません。おそらくもう廃盤になってしまっているのでしょう。
と、ほとんど諦めかけていたら、全く新しい体裁で再発されたではありませんか。だいぶ前にこのACCORDレーベルは、MUSIDISCというレーベルに統合されていたのですが、そのMUSIDISCが最近UNIVERSALというメジャーに吸収されてしまい、そこのシリーズ物として晴れて陽の目を見たのですね。品番もしっかりユニバーサルの3桁、3桁になってますし。
という訳で、私にしては待望のCD、一刻も早く聴いてみたいと思ったのですが、演奏者の名前を見て、かすかな不安がよぎってしまったのは正直に告白しなければならないでしょう。指揮がミシェル・ピケマル(ピクマル)、デュリュフレを始め、フランスの珍しい合唱曲を盛んに録音してくれていますが、いかんせん極めて大ざっぱな芸風で、その演奏には少なからず失望させられたことのある人なのです。案の定、このCDから聴こえてきた音は、合唱もオーケストラも、焦点の定まらないいいかげんなものでした。アインザッツは合わないし、音程も不安、音色もバラバラと、とても聴いていられないほどです。それでも何とか「本当はこうなんだろう」という音をイメージしながら聴いていくと、作品の持つ魅力には徐々に浸れるようにはなってきました。フォーレの静謐さを引き継いではいるものの、様式的にはもっとカラフルな和声を駆使した小粋なもの、かといって、デュリュフレに見られるような思わず引きずり込まれる特異な情感といったものにはあまり縁がないようです。このような締りのない演奏ではなく、もっときちんとしたものを聴いてみたいという願いがかなえられる日が、果たしていつか来ることはあるのでしょうか。
ただ、カップリングの「ミサ・ブレヴィス」は、女声合唱とオルガンという小さな編成もあって、なかなか楽しんで聴くことが出来ました。

10月27日

MESSIAEN
Des Canyons aux Étoiles...
Jean-Jaques Justafré(Hr)
Roger Muraro(Pf)
Myung-Whun Chun/
Orchestre Philharmonique de Radio France
DG/471 617-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1132/3(国内盤 1030日発売予定)
メシアンの大作、「渓谷から星たちへ...」の、久しぶりの新録音です。タイトルにある「...」は、75年録音のERATOの国内盤にはあったのですが、今回のユニバーサルの邦題からは除かれています。「モーニング娘。」みたいに、最後までが作曲家の意図なのでしょうから、「...」をつけないというのは...。
メシアンという人は、若い頃に自己の作曲語法を確立してからは、生涯そのスタイルを変えずに曲を作りつづけたという、現代の作曲家としては大変稀な存在です。ですから、一度、彼の特有のハーモニーやリズムや旋法、あるいは鳥の声の模倣などに馴染んでしまえば、どの時期のどんな曲を聴いても、彼の魅力を存分に味わうことができます。ただ、そのことを裏返せば、彼が作ったものは決まったスタイルに安住してしまった、ただの惰性による作品でしかないという非難を受けることにもなりかねないのです。メシアンが、常に自分の作品に詳細な註釈を記していたことは、もしかしたらそのような非難をかわすための手段だったのかも知れません。同じように、晩年は惰性に陥ってしまった武満徹も、自己の作品については饒舌でしたから。
そんなわけで、メシアンが1974年にアメリカのオーケストラからの委嘱によって作った、全3部、12曲から成るこの作品も、基本的には「駄作」です。ただ、私達には、フランス人であるメシアンが、ユタ州の砂漠に素材を求めた結果、いくらかでもアメリカのテイストを作品に盛り込むことができたのかという興味を持つことと、その試みが無残にも失敗して、結局彼には自己の世界を一歩も踏み出すことが出来ないという事実を確認するという楽しみが残されています。風の音を出す「エオリフォーン」と、大地の音(?)を出す「ジェオフォーン」という、みせかけだけの新しい楽器の導入に、作曲家としての良心を見るか否かは、ひとえにこの音楽を聴く人のメシアンに寄せるまなざしにかかっているのです。
もし、この作品が人の心を打つならば、それは、この曲から作曲者の期待以上の魅力を引き出している演奏者に負うところが大きいことでしょう。フランス国立フィルのホルン奏者ジュスタフレは、このとてつもない難曲から、見事な愉悦感を引き出しています。ホルンだけで演奏される第2部の最初の曲「恒星の呼び声」での特殊奏法を駆使したパフォーマンスは、まさに絶品です。DGでの前作でも参加していたピアノのムラロは、とことん醒めた目でこの曲に立ち向かっています。そこには、ERATO盤での初演者ロリオに見られるような熱い情念こそ薄められてはいますが、曲の持つ理知的な一面を明らかにする確かな力があります。指揮者のチョンも、前作同様、アクの少ないアプローチによって、例えば第3部の最初「蘇りしものとアルデバランの星の歌」のような、透明感あふれる珠玉の「天上の音楽」の再現を、見事になしえています。

10月25日

BRAHMS
Piano Sonatas
Lals Vogt(Pf)
EMI/CDC 557392 2
最近お気に入りのラルス・フォークトのブラームスです。今回のアルバムはソロの作品集で、録音時期は、先日ご紹介したピアノ四重奏曲第1番の1ヵ月後のものです。
ブラームスのピアノ作品と言うと、まず「後期作品集」が頭に浮かびます。その殆どが「間奏曲」と銘打たれた、諦念と憧憬に支配された味わい深い小品は、いかにもブラームスの晩年の作品と言う風情です。グールドとアファナシエフの2つの代表的名演があり、これはどちらを選択しても間違いなし!と太鼓判を押せるほど、評価の定まった演奏でもありますね。
そんなブラームスのピアノ作品の中でも、正直なところピアノ・ソナタと言うのはあまり重要視されていません。3曲あるのですが、そのどれもが20歳前後の作品。それでも第3番は、しっかりした構成と華やかな演奏効果を持つせいか、よく演奏されるのですが、今回収録された第1番と第2番については、あまり聴く機会がありません。例えば、同じく3曲ピアノ・ソナタを書いたショパンの「第1番」が、殆ど演奏されることがないのとよく似た状況です。
ブラームスが作曲する時、敬愛するベートーヴェンの作品を徹底的に研究して、それを自分の作品に活かしたことは周知の事実ですね。それでも第1番の交響曲は、草稿から完成までに20年を要しているので、そうこうするうちにすっかりブラームスらしい音楽になってますが、こちらのピアノ・ソナタはまだまだ音楽が練れていません。第1番は、冒頭のメロディからわかるとおり、明らかにベートーヴェンの「ハンマークラヴィア」が下敷きになっています。時折はっとするところもあるけれど、やはり習作の域を出ないと思ってました。
しかし、今回のフォークトの演奏は、そんな認識をすっかり覆してくれるものでした。その1番、冒頭から落ち着いた音楽を聴かせてくれます。語り口の何とも言えない甘さの心地よさは、やはり、書かれた時期がロマン派であることを感じさせるものでしょう。第2楽章での、右手と左手の語らいは第3番のソナタと同手法。ここで、はっきりブラームスらしさというものを感じ取ることができました。力強い第3楽章も、習作なんて言ってごめんなさい。の音楽です。ほんとにとてもいい曲ではないですか。流動的な終楽章、巧妙に第1楽章のテーマを反復しつつも、やはり聴こえてくるのはブラームスの音楽です。フォークトは、曲のどの部分でも決して音を荒立てることをせず、叙情性を全面に打ち出し、曲の美しさを際立たせるのに成功しています。
第2番、この曲も改めて良さを実感しました。曲の構成は、確かに第1番と良く似ているのですが、(特に第2楽章、アンダンテなどそっくりです)全体の印象がもう少し進化しているとでもいいましょうか。それでも、終楽章の冒頭はベートーヴェンのテンペストの序奏部に似ているのがご愛嬌。しかし、ここでのフォークトの演奏が良いのです。たぶん、ベートーヴェンのソナタであったら、こういう歌わせ方はしないだろうな。そう表現すれば伝わるでしょうか?
すでにフォークトの3番のCDは発売されているので、これでソナタ全集の完結でもありますね。作品への興味も、演奏も満足させてくれる1枚でした。

10月23日

TAN DUN
Water Passion after Saint Matthew
Tan Dun/
Berlin-RIAS Kammerchor
ソニー・ミュージック/SICC-96/97(国内先行発売)
バッハ没後250年にあたる西暦2000年に、シュトゥットガルトの国際バッハ・アカデミーが、4人の現代作曲家に委嘱して4つの福音書に基づく受難曲を作ったことは、このページの読者でしたらすでにご存知のことでしょう。その4つのうちの3つ、リームグバイドゥーリナゴリホフについては、それぞれの初演を収録したCDが発売になった時点でご紹介してあります。そして、同じ時期に録音されていながらなぜか今までリリースされていなかったもう一つの作品、タン・ドゥンによる「マタイ受難曲」が、このほどやっと発売されることになりました。これで、晴れて私達は、バッハ・アカデミーの総帥ヘルムート・リリンクが示したかった、「現代における受難曲」の全貌を知ることができるようになったのです。
もっとも、この「マタイ」の場合、世界初演の直後に東京でも作曲者自身の指揮で演奏されていますので、音楽自体は割りと知られているものではありました。ただ、それはあくまでもタン・ドゥン作品としての単純な聴かれかたでしょうから、4つの受難曲が出揃ったところでのさらなる評価は、いずれメディアを賑わすことでしょう。なんといっても、オペラ「TEA」の世界初演が控えていることですし。
他の彼の作品同様、この「マタイ」には多くの音楽的な要素が盛り込まれています。モンゴルの「ホーミー」を思わせる倍音唱法、まるで京劇のような、ハイトーンなど、印象的な音色は確かな効果をあげています。その中で、作曲者自身が最も重要だと位置付けているものは、このところの彼の関心事「水」にこだわった多彩な打楽器群でしょう。しぶきをあげたり、チョロチョロ流したりという、ジョン・ケージの時代にはある種興味本位でしかなかった音源が、立派にコンサート用の楽器として成立している姿には、感慨深いものがあります。
しかし、私にとって興味深かったのは、仏教の「声明」と寸分たがわない合唱でした。キリスト教の経典(?)である福音書と声明との妙なるミスマッチも、これらの多くの要素を重ね合わせるタン・ドゥンのたぐい稀なバランス感覚を持ってすれば、極めて主張に富んだ表現へとなりうるのです。作品全体の基本的な部分は、西洋音楽の伝統に基づいたまっとうなハーモニーの合唱に委ねている点にも、その感覚の妙味を見ることができます。
何といっても圧巻は、打楽器群がこの世のものとも思えない悪魔的な響きを発する、終わり近くの「死と地震」でしょう。そして、それに続く「水とキリストの復活」では、同じモチーフの合唱が延々と繰り返され、あたかもバッハのマタイ受難曲の終曲のような、圧倒的な集中力を見せて、全曲が締めくくられるのです。そこには、確かに、テキストとしての福音書が持つ個々の宗教を超えた拡がりを見ることができるのではないでしょうか。

10月20日

BACH
Matthäus Passion
Rogers Covey-Crump(Ten)
Michael George(Bas)
Emma Kirkby(Sop)
Stephen Cleobury/
Choir of King's College, Cambridge
The Brandenburg Consort
BRILLIANT/99929(DVD)
半年ほど前、行きつけのCD屋さんで、「今度ブリリアントのDVDが出るんですが、いかがですか?」と聞かれました。あの価格崩壊CDで一躍有名になったレーベルが、今度はDVDのような画像ソフトにも手を出したというのです。「マタイ全曲入って1390円、お得でしょう?」。しかし、話を聞いてみるとそのDVDの画像というのは、教会の中とか、風景とかを写しただけで、そのバックに「マタイ」が流れているというものらしいのです。それなら、この価格も納得できます。しかし、そんなどうでもいいような画像を2時間半も見せられるのもちょっと辛いので、そのときは無視していました。もちろん、現物もありませんでしたし。
ところが、つい最近別のお店で見つけたのがこれ。値段は1990円とちょっと高くなっていますが、「ブリリアントのマタイのDVD」ですから同じものでしょう。しかし、ジャケットの写真を見てみると、きちんと教会の中で演奏している合唱団やオーケストラが写っています。以前出ていたものは、ステンドグラスのような、いかにもというジャケだったそうですから、おそらくそれで先ほどの店員さんは勘違いをしてしまったのでしょう。そう、これは、ケンブリッジ大学のキングス・カレッジのチャペルで行われた聴衆を前にしてのコンサートのきちんとした映像だったのです。録画の日にちや演奏者を見てみると、以前やはりブリリアントから発売されてその価格の安さで一大センセーションを巻き起こしたバッハ全集に含まれているものと全く一緒、ということは、このときのライブ演奏の音声だけをCDにしたものが、あれだったのですね。
演奏しているのは、そのキングスカレッジの聖歌隊。指揮のクロウベリーは、動いている姿をはじめて見ましたが、とても穏やかな指揮ぶり、CDで聴くこの合唱団の端正な演奏そのものです。独唱陣では男声アルトのマイケル・チャンスの劇的な歌い方が、ひときわ抜きん出ています。イエスのマイケル・ジョージも深みのある落ち着いた声です。お目当てのエマ・カークビー(ソプラノ)は、このような曲ではちょっと違和感がありますが、その存在感はさすが。しかし、肝心のエヴァンゲリストを歌うロジャーズ・カヴィ・クランプは、いささか力不足の感は否めません。彼の声は「ヒリヤード・アンサンブル」や「ゴティック・ヴォイセズ」のようなアンサンブルではその魅力が存分に発揮されますが、このような大ソロは、ちょっとつらいものがあります。
オケは、もちろんオリジナル楽器を使ったブランデンブルク・コンソート。女性のメンバーはお揃いのワインレッドのドレス、教会の薄暗い内装にマッチして、とても素敵です。もちろん演奏も素敵、オーボエのソロなど、モダン楽器をしのぐほどの表現力を見せています。珍しい「オーボエ・ダ・カッチャ」を実際に演奏している姿も見ることが出来ますし、興味はつきません。
PALからNTSCに変換しているので、動きに滑らかさを欠くきらいはありますが、変に小細工をしていない画像自体は、素直に音楽を伝えてくれています。これで1990円は絶対お買い得。寒さに向かう折、暖かい下着を買いためておきましょう(それはBVD)。

10月17日

Echoes from the Past
Sergei Nakariakov(Tp,Hlh)
Saulius Sondeckis/
Lithuanian Chamber Orchestra
TELDEC/0927-45313-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11406(国内盤)
最近、輸入盤の値段の安いことと言ったら・・・・。先日店頭で見かけた「バロックからロマン派まで」と銘打った12枚組など、なんと2290円!や、安い。安井昌二(ビルマの竪琴か、おまえは)。内容は、どうもベルリンクラシックスの音源を使ったもののようで、中にはケーゲルの“展覧会の絵”まで含まれているのですから、確かに自分で聴いてもよし、プレゼントにしてもよし、と、優れものの1SETなわけです。
あ、なんだかお店の人の口調になってしまいました・・・・。
殆どの新譜は輸入盤の方が発売も早く、その上安い。話題の「ラトルのマラ5」にしても、国内盤の発売はまだ先なのに、輸入はもう売られています。その上お店によっては1700円前後。で、困っているのが国内盤です。差別化を図るため、メーカーもお店もいろいろ考えるのです。一番手軽なのが、特典を付ける事。それはボールペンであったり、ケイタイストラップであったり、油取り紙であったり。ポスターというのも良く見かけますが、これはアーティストがある程度美形の場合喜ばれるようです。諏○内さんや村○さんは飛ぶようになくなりますが、アーノン○ールさんや、アファナシ○フさんだったら、あまり貰い手がないでしょうね。
そんな、ポスターが飛ぶようになくなるアーティストの一人、セルゲイ・ナカリャコフの新譜です。1977年生まれの若き天才トランペッター、ナカリャコフは既に何枚ものアルバムを出していますね。そのどれもが、高い音楽性と驚くべきテクニックに彩られた素晴らしいものですが、最近は少々傾向が変わったように思ってました。昨年日本映画に出演したことも賛否両論を醸し、「もしかしたら、このままイロモノ系の奏者になってしまうのかも」なんて心配まで。「若いうちはちやほやされるけど、もう少し年を重ねたらしらないぜ」なんておやぢはいらぬお節介をやいていたというわけです。
しかし、今回の新譜の素晴らしさはどうでしょう。4曲の協奏曲が選ばれていますが、そのうち3曲はファゴットの曲、そして1曲はチェロの曲なのですが、彼の技巧は最初のフンメルからして、冴えまくってます。もちろん音域も違う楽器ですし、構造も全く違うはずなのに、まるで最初からトランペットのために書かれたかのように無理なく奏されます。「ほんとにトランペットで吹いているんだよな?」と確認したくなるくらい上手いんです。もちろん原調ですし。
フンメル、モーツァルト、ウェーバーと半ば呆れて聴いていて、最後のサン=サーンスまで行ったら、もう開いた口が塞がりませんでした。これで弱冠25歳。凄すぎです。

10月15日

PÄRT
Orient & Occident
Tônu Kaljuste/
Swedish Radio Symphony Orchestra
Swedish Radio Choir
ECM/472 080-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCE-2021(国内盤 11月6日発売予定)
エストニア生まれの作曲家、アルヴォ・ペルトと、マンフレート・アイヒャー率いるドイツのレーベルECMとの結びつきには、浅からぬものがあります。1984年に、それまでジャズ専門だったこのレーベルが、「New Series」と銘打ってクラシックのフィールドに進出した時に最初に選ばれたのが、この作曲家の「タブラ・ラサ」という作品だったのです。クールなジャズのイメージと、ペルトのどこか醒めた雰囲気の漂う作風は見事にマッチし、それ以後多くのアルバムがリリースされることになります。
そんなECM-ペルトの10作目にあたる最新アルバムには、タイトル曲の「オリエント&オクシデント(東洋と西洋)」のほかに、「巡礼の歌」と「水を求める鹿のように」が収録されています。もちろん、すべての作品はこれが世界初録音になります。
最初に聴こえてくるのは、男声合唱と弦楽合奏のための「巡礼の歌」。もともとは1984年に作られたものです(2001年に現在の形に改訂)。したがって、技法的にはごく限られた音によってゆったりとした音空間を作り出すといった、お馴染みの「ペルト節」がたっぷり聴かれます。合唱もひたすら同じ音を繰り返すだけ、まさにそれからしばらくして世界中を席巻することになる「ヒーリング・ミュージック」の原点を見る思いです。
アルバム中最も新しい作品である、弦楽合奏のための「オリエント&オクシデント(東洋と西洋)」になると、いささか様子が変わってきます。作曲家が新しい境地を求めようとたどり着いたのは、ポルタメントを多用した歌い口、まさに「東洋」の世界なのでしょうが、すんなり聴くにはほんの少しの忍耐が必要とされるものではあります。しかし、心の深いところの琴線に触れるモチーフを見つけ出しさえすれば、豊かな音のうねりに身を任せるのは容易なこと、どっぷりペルトワールドに浸っていただきましょう。
最後の「水を求める鹿のように」は、ソプラノ・ソロ(ヘレナ・オルソン)、女声合唱と、フル・オーケストラのための曲。今まで、ペルトのある種モノクローム的な音色に馴染んできた人には、ここでの華やかな音響世界はやや異質に感じられるかも知れません。それだけではなく、ここにはドラマティックと言えるほどの昂揚した表現が求められています。ペルトを単なる心地よい音楽の作り手ととらえていた人には、少なからぬ衝撃が味わえるはずです。しかし、熱く盛り上がるペルトも、なかなか捨てたものではありません。甘い味だけではなく、辛味も少々(それはソルト)。
ペルトの作品の演奏にかけては絶対の信頼を寄せられている、エストニアの合唱指揮者カリユステは、主兵スウェーデン放送合唱団から、幅広い表現力を引き出すだけではなく、前任者エリック・エリクソンと同様、オーケストラのコントロールにも並々ならぬ才能を発揮して、細やかな表情を描き出しています。

おとといのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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