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m @ s t e r v i s i o n
Archives 2001 part 2
★★★★★=すばらしい ★★★★=とてもおもしろい ★★★=おもしろい ★★=つまらない ★=どうしようもない

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ハイ・フィデリティ(スティーブン・フリアーズ)

おれはいま大変なショックを受けている。なにしろおれの知らない間におれをモデルにした小説が出版され映画にまでなってしまったのだ。主人公がガイジンに変更され、舞台が西新宿からシカゴ(←店名じゃなくて街の名前のほうね)に移されているが、あれは間違いなくおれだ(キャサリン・ゼータ=ジョーンズと付き合った事はないがリリ・テイラーに似た女とは…あ、いや) そのままではあまりにバレバレだと思ったのか作者は「おれのキャラクター…人生観とかものの考え方を3つに分散させて中古レコード屋に勤める3人の登場人物に割り振る」などという手の込んだことをしているのだが、そんな小細工をしてもおれはお見通しである。今まで小説を盗作されただの歌をパクられたのといったニュースをデンパな話と一笑にふしてきたが、まさかそうした事態が我が身に降りかかろうとは。うーむ、奴らいったいどうやっておれの頭の中を覗き見したのか。謎である。きっとおれが寝ている間に何者かが…(中略)…したに違いない。証拠物件としてパンフレットと原作本とシナリオ本を全部 買ってきたので近々に訴訟の手続きに入る予定である。 ● 自分の話なので照れくさいが(←しつこい)これはジョン・キューザックがデビュー時から一貫して演じてきた文系おたく少年が「20年後にどうなっているか」という話である。原作者のニック・ホーンビィはおれより6つ年上、ジョン・キューザックは3つ下。おれはレコード屋まわりはアナログ盤の新譜が出なくなった時点で止めてしまったけれど、あらゆる意味で痛すぎる話なのでとても冷静にレビュウなど出来ん。まあ、同じ音楽ものとはいえ「あの頃ペニー・レインと」みたいな普遍性はないので「どなたにもお勧め」というわけにはいかないし、経験則から言うと女性観客の7割は主人公に対してバッカじゃないの?この男」と思うはず。「相手の音楽的嗜好など二の次で自分の音楽の趣味(の良さ)をひけらかすためために編集したテープ/MDを異性にプレゼント」した前科のある人はこの映画を観てよおく反省するよーに。…おれか。 ● 製作・共同脚本・共同選曲も兼ねたジョン・キューザックは言うことなし。「アナライズ・ミー」や「ミート・ザ・ペアレンツ」のロバート・デ・ニーロに過去の役柄のイメージが反映されているように、本作のジョン・キューザックにも「すてきな片想い」や「やぶれかぶれ一発勝負!!」や「シュア・シング」や「テープヘッズ」(←ティム・ロビンスとのコンビだ!)や「セイ・エニシング」の記憶が二重写しになっている。監督は「グリフターズ 詐欺師たち」でキューザックを初めて大人の俳優として使いこなしたスティーブン・フリアーズ。共同脚本のD.V.デヴィンセンティスとスティーブ・ピンクはキューザックの地元シカゴの旧友(ダチ) ● ヒロインのイーベン・ヤイレはデンマークの女優さんで「ミフネ」の娼婦/家政婦をやってた人。意外にハリウッドのラブコメにハマってる。そして本篇最高のキャラクターは、主人公が経営する中古レコード屋の「週3日のバイト」のはずが頼みもしないのに毎日 出てくるようになって店主より偉そうにしてる店員のジャック・ブラック! 「ジャッカル」の銃器おたくで出てきた時からその意地悪キャラで目立ってたが、ここではまさしく「アニマル・ハウス」のジョン・ベルーシを思わせる大爆発いやもうサイコー。もともと「テネイシャスD」という弾き語りコミック・デュオで大人気という喉も(映画では)初めて披露している。あと、またもやジョーン姉ちゃんが共演してて、レコード店につかつかと入ってきて実弟を「この腐れちんぽのクソッタレ!」と罵倒して去っていく。主人公に気がありげな地元新聞記者の役で、最後のほうにチラッと出てくるナターシャ・グレッグソン・ワグナー(「アナザー・デイ・イン・パラダイス」「ルール」)がメッチャ可愛いくて、おれならゼッタイ浮気するね。<一生リアリティの世界に戻って来ん奴っちゃな。 ● [追記]観てる最中に「ん?」と思ったとこを“証拠物件”で確認したけど「14世紀にショットガンの弾を作れるのかよ」云々って「死霊のはらわたII」じゃなくて「キャプテン・スーパーマーケット(=死霊のはらわた3)」のほうだよな。音楽ネタにこれだけトリヴィアルなのに映画ネタはえらい雑だなあ。

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星降る夜のリストランテ(エットーレ・スコラ)

イタリア映画の名匠エットーレ・スコラが描く、ローマのとあるレストランの一夜のスケッチ・・・というものから想像される以上でも以下でもない娯楽映画の小品。街の何の変哲もないレストラン。べつに「閉店最後の夜」でもないし、個々のテーブルの事情には「意外な相関関係」もなく、最後には「客が全員一緒に何かをする」わけでもない。カメラはレストランから一歩も外に出ないし、回想シーンもない。ただとりとめもなく、テーブルについて食事(およびその他のこと)をする客たちの様子を…さまざまな人生の断片を描いていくだけだ。ここにあるのは、人生とほんの少しの法螺。そうしたものがお好みならば期待は裏切られないだろう。 ● レストランの女主人にフランスからファニー・アルダン。大学教授と不倫中の小娘にベルギーからマリー・ジラン。この2人の台詞はたぶん吹替。連続脱ぎ記録を更新中のマリーちゃんも、さすがにレストランから一歩も出ない映画では脱ぎようもなく、あえなく記録は中断。大学教授にジャンカルロ・ジャンニーニ。スパゲッティ・カルボナーラにケチャップを所望してシェフに嫌な顔をされる「日本人家族」(親子ともメガネでカメラを片時も離さない)が広東語を喋ってるのがちょっと悲しいっス。

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人間の屑(中嶋竹彦)

金なし甲斐性なし根性なしの自堕落バンドマンがグルーピー女を次から次へと妊娠させ、さりとて責任もとらず、のらりくらりと生きていく。うーん。予告篇では面白そうだったんだんだがなあ。外道プロデューサー・仙頭武則にしちゃ今回は90分と短いので「イケるかも」と淡い期待を抱いていたんだが…。なにしろ重い。演出が重すぎる。いくつかの作品でチンピラ役に絶妙に演じて、この役にベストキャストと思われた村上淳だが、本作では軽妙さが微塵もない。俳優個人の根の真面目さが透けてしまってる。「ダメ男もの」ってのは「おもろうて、やがて哀しき」に演出するってのが定石でしょうが。どのエピソードもヤリッぱなし・投げっぱなしで話を後始末をつけない典型的なダメ脚本(=中村義洋) 最後の展開も何が何やら。脚本(ほん)が読めないってのはプロデューサーとしては致命的だろ>仙頭武則。神代辰巳の「鳴呼!おんなたち 猥歌」でも観て出直して来な。 ● 夏生ゆうなと佐伯日菜子という「蛇女」主演コンビを相手役に持ってきたのは面白いキャスティングだと思うが、夏生ゆうなは演技のデフォルメの方法を間違えてるので笑えないし、佐伯日菜子は役づくりなんだか大根なんだかわからない気持ち悪い演技で観客を困惑させるばかり。主人公の祖母を演じる岸田今日子はもちろん台詞の一言目から素晴らしいのだが、録音技師がヘボで台詞が聞き取りにくいことこのうえない。 ● ちなみにこの主人公、ムシャクシャすると街中でも構わず絶叫するんだけど、それは「ダメ人間」なんじゃなくて「病気」なので、医者行ってクスリ服んだほうがいいと思うぞ。あと作者は何か勘違いしてるよーだが「猫イラズ」ってなあ野良猫じゃなくてネズミを殺すための薬なんだよ。


XE クリスマス・イヴ(雑賀敏郎)[ビデオ上映]

ギャガと東映ビデオが始めた「デジタル・シネマ・プロジェクト」の第1弾。チラシによると「次世代メディアへの完全対応を目的としたデジタル式映画製作スタイルの新提案ブランド。撮影→編集→仕上げ→上映&ビデオグラム・パッケージまで一貫したフルデジタルによるコンテンツ供給を目指して」るんだそうだが、簡単に言やあ「Vシネをビデオで撮って安くあげましょう」ってことである。だけど製作費が安いからって出来あがりも「安い映画」でいいってことにはならんでしょ。同じくHPの解説によると本作は業務用のデジタル・ベータカムで撮影されており「デジタルの機動力と表現力を駆使した制作アプローチとなり、フィルム上では表現しえなかった独創的映像とCGIのオンパレードとなっております」んだそーだが、それってよーするに撮り方から演技から演出からなにからAVとかビデオ撮りのテレビの深夜ドラマと同レベルの代物なわけだ。つまりVシネマ以下。そんなもの金だして映画館で観たかない。10分で退出。 ● 監督は火野正平主演のVシネマ「新・麻雀放浪記」シリーズの雑賀敏郎。中身は(冒頭10分で判断するに)たぶん「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」のパクリ。

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見出された時 「失われた時を求めて」より(ラウル・ルイス)

文豪マルセル・プルーストの7篇からなる大作「失われた時を求めて」の最終章がこの「見出された時」…なのだそうだ。無教養なおれはもちろん1篇たりとも読んだことはないので、以下は映画のみを観ての印象。 ● 病床のプルーストが若かりし頃を回想するという導入。あ、これ自伝なんだ?<そんなことも知らない。難解という形容をされることの多い原作で、たしかに最初のうちは、死にかけの老人の白濁した意識に浮かんでは消える泡のようにさまざまなシーンがランダムに出てくるので混乱するが、しばらく観てるとドラマはおおむね時系列に沿って進行するようになるし、親切なヘラルド映画が場面のアタマに「○○○の場」というような説明字幕を補ってくれているので「スローターハウス5」や「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」を理解できる程度の頭があれば何も難しいことはない。ただ肝心のドラマが退屈なんだよな。言ってしまえば「男色家の親友と初恋の女の倦怠期の夫婦と、主人公との親交の話」なんだが、ドラマらしいドラマが何にも起こらない。2時間40分。おれはじゅうぶん観たので1時間ちょっとで退出。 ● 監督のラウル・ルイスはチリの巨匠らしいけど、おれは観るのは初めて。ゆるゆると滑るカメラに連れて(静止物であるはずの)装置や登場人物までがするすると移動していく(ある意味で演劇的な)演出はちょっと面白かった。フランス映画界オールスター・キャスト。唯一のアメリカ人キャストのジョン・マルコヴィッチは、あれは自分でフランス語しゃべってるのかな?(声質は似てるけど口パクがズレてた気もする)

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初恋のきた道(チャン・イーモウ)

松田聖子「野菊の墓」以来の正統的なアイドル時代劇。ほっぺの赤い新人女優チャン・ツィイー(章子怡)の「アップの撮り方」から「照明のあて方」から「劇伴を入れるタイミング」まで完璧なアイドル映画である。チャン・イーモウ(張芸謀)にこんな素養があったとはねえ。この人は昔からあざとい映画づくりをする人だったけど(いや、おれはそーゆーとこが好きなんだけど)今度のはまたあざとい あざとい。チャン・ツィイーの走りかたなんか絶対に監督がポーズつけてるよな。モノクロのエピローグで「初恋もの」を「先生もの」にチャッカリすり替えて観客に滂沱の涙を流させるとこなんざ卑怯と言ってもいいほどだ。だって授業の場面なんてそれまで1度も描かれてないんだぜ。まあ、おれも泣いたんだけどさ。また本作では、久々に「チャン・イーモウの色彩」が楽しめる。少女の着てる赤い服。紅葉の黄。雪景色の白。…ということで(あんまり褒めてるように聞こえんかもしれんが)おれとしては全面肯定なんだけど、女性の皆さんは「ヒロインの憧れの人」が「コント山口クンと竹田クン」の竹田クンであることについてどー思ってるのであろうか? あと、ここん家は「盲のばばあ」と「プータローの娘」の2人家族で何して喰ってるんでしょうか?(社会保障?)

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スナッチ(ガイ・リッチー)

「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」で当てて手にした潤沢な資金と有名スターで「ロック…」の続篇を作った…ような映画。図を描きながら書いたに違いない脚本と、MTV的なチャカチャカした映像は一緒だが、前作と較べると、構成はルーズに、よりコメディ色が強まり、主人公の行動からは切実さが失われ…てゆーか、主人公そのものが居なくなってる。「ダイ・ハード」と「ダイ・ハード3」の関係と言えばわかりやすいか。「ロック…」がタイトなクライム・サスペンス・コメディだとすれば、「スナッチ」は落語とか法螺とか馬鹿噺のたぐいだ。くっだらねえ馬鹿噺のほうが好きってのは少数派なんだろうなあ、やっぱ。 ● 役者陣では、スンゲー訛りのキツいアイリッシュ・ジプシー役のブラッド・ピットも秀逸だが、なんと言ってもムチャクチャ言葉遣いが汚くて短気な地元のやくざボス・煉瓦頭(ブリックトップ)を演じたアラン・フォードがキョーレツ。前作で子連れの借金取りを演じたヴィニー・ジョーンズが前作ほど目立たないのは残念。

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小説家を見つけたら(ガス・ヴァン・サント)

世間では、なんだ「グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち」の2番煎じじゃん…で片付けられている本作だが、おれはそうは思わない。なぜならおれは「グッド・ウィル…」を観てないから(火暴) いやだってロビン・ウィリアムズがぶつぶつぶつ… ● 肝心の「書く喜び」が表現できてないとか、アンナ・パキンとの恋はどーなったんだ、とかいろいろと文句はあるのだが、おれの場合は「ショーン・コネリーを観る喜び」がすべてに優ったということだな。名の通った名優ならばつい熱演しがちな役どころを、コネリー爺さんはいつものようにひょうひょうと余裕で演じる(…まあ、手抜きとも言うが) これが俳優デビューだという黒人青年役ロブ・ブラウンの、ベテラン俳優を前にしても物怖じしないまっすぐな瞳も素晴らしいし、絵に書いたような卑劣な悪役を絵に書いたように演じるF・マーリー・エイブラハムも楽しませてくれる。 そして、いまひとつ柄に合ってるとは思えなかった「シーズ・オール・ザット」や「あの頃ペニー・レインと」と違って、本作での「いいとこのお嬢さんで、勉強の出来るクラスメイト」という役はまさしくアンナ・パキンにピッタリ。いや、おれ、こーゆー(昔の)小学館の学習雑誌の表紙になってたような「玉子のほっぺをした優等生の級長タイプ」ってのに弱いんだよな<ああそーですか。

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ミート・ザ・ペアレンツ(ジェイ・ローチ)

ジャンルとしては「ランディ・ニューマンが主題歌を歌ってる映画」である。結婚を考えてるカノジョの両親に会いに行ったら、親父さんがロバート・デ・ニーロだった…という話で、主人公のベン・スティラーに次から次へとふりかかるヒサンな運命に、観客は爆笑しつつも同情する…というのが作り手の目論見なのだが同情なんか出来んよ。だってタイトルクレジットすら終わらない前に小学校の前の歩道に煙草をポイ捨てするような人間の屑だぜ。誠実であるべきところで嘘をつき(誰にでもある)過ちを素直に謝るべきところを姑息な策で誤魔化そうとする。もちろんこれはコメディ映画だから、そのために事態はドンドン悪化するんだが、自業自得。同情の余地なし。デ・ニーロ父さんが正しい・・・というわけで「まあ退屈はしない」という程度の消極的な星3つである。 ● デ・ニーロとスティラーはギャラに見合うだけの仕事はしている。ヒロインのお母さんブライス・ダナーも素敵。だが、ビバリー・ダンジェロの娘みたいな顔のヒロイン(テリー・ポロ)が魅力的じゃないのが致命的。「何があっても愛し合ってる2人」という部分が疎かにされてるのはジェイ・ローチが「何が映画の芯なのか」をわかっていない証拠である。


ザ・セル(ターセム・シン)

チラシに引用されている【「セブン」より病的でクレイジーだ】という THE MOVIE NETWORK の評は、ただ単に「本作がサイコサスペンスである」ということを表してるんだと思ってた。大間違い。この映画の作者の精神は、たしかに「セブン」より病んでいて、狂ってる。作者は、子どもがカエルの肛門に爆竹を突っこむ無邪気さで、不快な描写を羅列する。「ドラマ」や「ユーモア」といったエクスキューズが希薄な所為だと思うが、本作を観ていて感じる「おぞましさ」や「嫌悪感」にはそうとうなものがあった。これが日本じゃ「R-15」指定(アメリカはR指定)で、渡邊元嗣の他愛ない艶笑コメディに過ぎないピンク映画が「R-18」ってのはなんか納得いかないなあ。だが、それが星1つの理由じゃない。 ● 犯人は映画が始まって40分であっさり逮捕されてしまう…ただし昏睡状態で。この映画において「ストーリー」はヒロインのサイコダイブを描くための「段取り」にしか過ぎないので「現場検証をもっとしっかりやっとけば危険なサイコダイブの必要はなかった」という根本的な脚本の不備もここでは不問にする。だからそれが星1つの理由じゃないし「犬にシリアルキラーの犯罪の片棒を担がせるとは何ごとか!」と怒ってはいるが、それが星1つの理由でもない。ましてやアカデミー賞には[こんな服]着てったくせに、高額のギャラをもらって出演してる映画で乳ひとつ見せないジェニファー・ロペスに対する抗議でもない。 ● 監督はCM/MTV界の鬼才ターセム。かつて映画館でも上映された「ナイキの悪魔vs人間サッカー」とか「ウォッカのボトルを通して見ると、猫が豹に変身する」CMを撮った人だそうで、ギャガが付けた「ヴィジュアル・モンスター」というキャッチフレーズも決して誇大表示ではない。これは、言わば究極のMTV映画なのだ。ご存知のようにMTV(ミュージック・クリップ)にはパクリが多い。半分以上はどこかから借りてきたイメージで作られてると言っても過言ではない。それでも世間から(表立っては)倫理的な非難を受けないのは、おれたちがあれを一種のパロディだと思って観てるからだ。つまり、ミュージック・クリップにおいてはあくまでも「サウンドが主で、ヴィジュアルは従」であり、従であるところのヴィジュアルに目くじら立てても仕方がない、と。ところがターセムはそうしたMTVの方法論をそのまんま劇映画に持ち込んでしまった。サイコダイブのシーンは現代美術/オブジェ/パフォーマンスからの盗用で溢れかえってる。たとえば、予告篇でも印象的な「馬のスライス」はダミアン・ハーストの[この作品]を(牛と馬の違いこそあれ)そのまんま再現してる。それでいてエンドロールにはそうした美術作品のクレジットが1つも出てこない(よな?) そりゃ、美術作品のイメージを借用した作品はこれが初めてってわけじゃない。だからって、ものには限度とか節度ってものがあるだろよ。盗み/パクリと、引用/オマージュは別ものだ。恥を知れ、恥を。星1つ。 ● 以上さんざん貶してきたが、あなたがヴィジュアル至上主義でグロテスクが気にならない…というなら必見。また本作において唯一、真にオリジナルな創造物である石岡瑛子の豪華かつ壮麗な衣裳には一見の価値あり。

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プルーフ・オブ・ライフ(テイラー・ハックフォード)

この映画の効果的な観賞法をお教えしよう。最初の10分は、本篇のヒーローたる「人質奪還人」ラッセル・クロウのキャラクター紹介として、ロシアでの決死の人質救出作戦が描かれるのでここをチェック。そしたら次の1時間半は寝るか、ロビーで本でも読んで時間をつぶす。いや、大丈夫。ここは本来ならラッセル・クロウと(人質の妻の)メグ・ライアンとの「許されぬ恋」が描かれるパートであったのだが、例のスキャンダルのせいで激しいラブシーンがすべてカットされてしまったので見るべきものは何もない。で、最後の30分でようやく「ハリー奪還」が始まるのでここは必見。以上、楽しんでくれたまへ。 ● ビリングトップはメグ・ライアンなのだが、前述のように「見せ場」がカットされてしまったので何もしていないように見える。ラッセル・クロウは「肉体派アクションスター」としての務めをきっちり果たしているが、ヒロインへの想いがカットされてしまったので、会社の方針に逆らってまで一個人として命を賭けてメグ・ライアンを助けるほどの動機が無くなってしまったし、ラストシーンで彼女を見送る切ない「顔」がまったく活きてこない。それにゲリラに捕まった亭主(デビッド・モース)の描写をあんなに丁寧にしたら、観客がそっちに感情移入して「亭主が酷い目に遭ってるあいだに色男と乳繰り合ってる」ヒロインに反感もっちゃうじゃないか。あほか。おれは今まで娯楽映画の作り手としてのテイラー・ハックフォードに全幅の信頼を寄せていたのだが、それもちょっと揺らいだぞ。ラッセル・クロウの元・軍人の同業者にデビッド・カルーソ。ちなみに思わせぶりなエンドタイトルには何のオチもないのでさっさと退場するがよろし。

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風花 かざはな(相米慎二)

最初に断っておくと、おれは(「魚影の群れ」と「ラブホテル」の例外を除いて)脚本に描かれていることを時間内に収めることの出来ない相米慎二を「駄目な監督」だと思っていて、役者の生理に頼りきった撮りっぱなしの垂れながしをちっとも面白いと思えない。だからこれも割り引いて聞いてもらっていいんだけど、本作も2時間弱の上映時間を3時間にも感じる、だらだらした駄目な映画である。たしかに小泉今日子と浅野忠信は魅力的に撮れている。今まで見せたことのない貌を見せている。特に浅野忠信は「権威をかさにきたアル中の文部官僚」というサイテーな男を演じて、おれは初めてこの役者を良いと思った。だが、そうした表情をかっちりと構成された物語の中に適切に配置して、初めてそれは「映画」と呼べるものになるのだ…と、おれは思うが、相米慎二はそうは思ってないんだろうな、きっと。 ● キョン2(←死語?)は相変わらずキレイなんだけど「トウのたったピンサロ嬢」という役とはいえ、ちょっと老け方がヒドくて、なんか悪いクスリでもやってるんじゃないかと要らぬ心配をしてしまったよ。えーと、サービスシーンはありません。あと、あの唐突な「舞踏」は何?(そんな前フリあった?) 浅野忠信と打算で付き合ってるクラブの女に麻生久美子。 ● 最後にこの映画に出てくるとびっきりの怪談をご紹介しよう・・・あなたはカノジョ/カレと北海道の大雪原を何時間もクルマで走っている。すっかり日も暮れた。道に迷ったのだろうか。ガソリンの残量も心配だ。こんなところで立往生したら確実に死が待っている。…と、温泉旅館の灯りが目に入る。助かった! だが…、迎えに出た宿のおやじは柄本明で、宿泊客は全員が東京乾電池の劇団員なのだった(!)…ヤだよ、そんな旅館。

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PARTY 7(石井克人)

いちばんの見どころはタイトルバックである。予告篇にも一部が使われていたキャラクター紹介を兼ねたアニメーションなのだが、こいつがやたらカッコイイ。はっきり言って「人狼」よりも「BLOOD」よりも動画が上手い。なに?誰?誰?と思ってエンドロールで確認したら、なんだアニメーション・パートはマッドハウスが制作してて(「妖獣都市」「獣兵衛忍風帖」の)川尻善昭が原画を手伝ってるんじゃないの。それじゃ上手くて当り前(メインの原画&アニメーション監督&キャラクター・デザインはマッドハウス所属の小池健) ● それに較べるとドラマ本体の部分は(おれにとっては)どーでもいいもので、徹底的にキャラクターに寄りかかった作風は「SMAPのコントの長いやつ」にしか感じられないんだが「こんなの映画じゃない」とか言っちゃうと「モンティ・パイソン・アンド・ナウ」や「ケンタッキー・フライド・ムービー」まで否定することになるので、まあ、楽しんだ人には「それは良かったですね」と申し上げておく。てゆーか、偉そーなこと言って、おれだって何度か笑ったんだけどさ。てゆーか、原田芳雄の「まる見えの…並木路」ってダジャレに反応したのが場内でおれだけってのは「若者の中に年寄り1人」ってのがバレバレじゃねーかちくしょう。 キャスト? キャストに関しては、大杉漣は出てるが田口トモロヲは出演してない。以上。

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ギャラクシー・クエスト(ディーン・パリソット)

ウディ・アレンが「アニー・ホール」の冒頭で引用するグルーチョ・マルクスのジョーク「ぼくを受け容れてくれるようなクラブの会員にはなりたくない」というのが、おれの座右の銘だ。東京ファンタには行っても常連客の輪には加わらないし、コミケにもSFコンにもオフ会にも参加したことがない。皆さま先刻お察しのとおりヒネクレ者なのである(>「ハイ・フィデリティ」参照) だからSFコン参加経験者が本作に感じるであろうフクザツな想いとも無縁だし「あそこにおれがいる」なんてふうにも思わなかった。「ギャラクシー・クエスト」はたしかに評判どおりのウェルメイドでハートウォーミングな快作で、星4つに充分 価すると思うが、こういう一見 完璧にみえる映画を観ると、おれのヒネクレ者の血が疼きだす。これじゃあんまりハートウォーミング過ぎるんでねえの?とか、メンバーの“屈折”に屈託/屈折が無さすぎるんでないの?とか、ティム・バートンならばこのような一般観客向けの立派な映画にはならなかったろうに、とか謂れのないイチャモンを付けたくなってしまうのだ。並みいるSF/ホラー大作を押しのけてアメリカの2大SFアワードのひとつ「ヒューゴー賞」を受賞したそうだが、そりゃそうだろう。ヒューゴー賞ってのはSFコンベンションでSFファンが選ぶ賞なんだから。冒頭のジョークをパラフレーズするなら「万人にお勧めできる“おたく映画”なんて観たくない」ってこと? ヤダねえ、おたくって>おれ。 ● この映画は、往年のテレビ場面から始まるので最初は(左右に黒味を残した)スタンダードサイズ。それがある時点からビスタサイズ相当に横幅が伸び、いつのまにかシネスコになっている。この画面サイズの切り替えが(1度 観たかぎりでは)論理的でないように思われて、すげー気持ち悪いんだけど。あとシガニー・ウィーバーはあの「決めポーズ」からしたら、最後には絶対カラテ・アクションがあると期待するよな誰だって。

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ツバル(ファイト・ヘルマー)

♪わ〜れは往くぅ〜♪←それはスバル。 ● ドイツの短篇映画作家の長篇デビュー作。ドイツの実景はまったく登場せず、主演俳優はフランス人、ヒロインはロシア人、台詞は英語に良く似たカタコトの架空言語のみ(日本語字幕は出ない)、モノクロ彩色(場面ごとにセピア/グリーン/レッド/ブルーと色味が変わる)だが昔のドイツ表現主義とは無縁…と、ドイツ色は皆無。空襲であたり一面の焼け野原となった街でポツンと1軒だけ焼け残った銭湯(東欧式の室内プールみたいなやつね)を舞台にしたレトロフューチャーなスチームパンク・ファンタジー。てゆーか、これって話はピンク映画の下町銭湯ものそのものじゃん! ● 雨ばかりが降る憂鬱な街。カラックス組のドニ・ラヴァン演じる あばた面の青年は、寂れた銭湯の内気なボイラーマン。物干台を操舵デッキに、満天の星空を大海原に見立てて、夜ごと冒険を夢見てるけれど、実際には銭湯の外へは一歩も出たことがない。オンボロ銭湯の入湯料はコインの代わりにボタンでもOK。地下にはホームレスも住みついてる。客はいつもパラパラで今にも潰れそうなんだけど、昔気質の(盲の)父親に真実を告げるのが嫌で、賑やかな「ざわめき」をテレコで場内に流して親父の「耳」をごまかしてる。家を出てった兄ちゃんは金に目がくらんで、街の“復興計画”を推進する政治家&ゼネコンと結託、銭湯を取り壊そうと企んでいる。そんな時、老朽アパートから立退きをくらった元・船長の老人とその娘が銭湯に転がり込んでくる…。 ● ヒロインの“船長の娘”を「ルナ・パパ」のチュルパン・ハマートヴァが演じてるんだけど可愛いんだ、これが。どんぐりマナコをクリクリ動かして愛らしいったらない。アニメに出てくるイタズラ好きのリスのよう。まん丸い金魚鉢を抱いて全裸で水中をたゆたうという夢のようなシーンまである。このあと、ボイラーの点火プラグの争奪をめぐる主人公とヒロインのドタバタがあったり、保険所の調査員の目をごまかすためのてんやわんやがあったりして、どう観ても渡邊元嗣が撮ったとしか思えないスラップスティック・ファンタジーなのである。元嗣クンはすみやかに本作を観賞してピンク映画化を進めるよーに。キャスティングを指定しておく。ボイラー青年は ささきまこと。天使のようなヒロインはもちろん西藤尚。盲の父親に十日市秀悦。地上げ屋とグルになる長男に山崎信。番台のおばちゃん(失礼)に林由美香。保健所の女調査員に工藤翔子…でよろしく。 ● じつをいうと大林宣彦的とも言えるんだが、それだとヒロインが勝野雅奈恵になっちゃうからなあ(木亥火暴) ちなみに「ツバル」とは宝島の名前。

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キング・イズ・アライヴ ドグマ#4(クリスチャン・レヴリング)[キネコ作品]

「ドグマ95」の第4作。これで#1「セレブレーション」(トマス・ヴィンターベア)、#2「イディオッツ」(ラース・フォン・トリアー)、#3「ミフネ」(ソーレン・クラウ・ヤコブセン)と「ドグマ95」の創立メンバーの作品をひとわたり観終わったわけだが、彼らが「自然主義のように見えて じつはこの上なく不自然な制約を自らに課して変態的な内容の映画を撮るデンマークの奇人変人集団」であるという おれの仮説はほぼ実証されたと言っていいだろう。ドグマ#5以降は自己申告制に変わったので、世界中の誰でもドグマのHPで申請さえすれば「ドグマ映画」を名乗れるわけだが、この「変態イズム」を理解してるのは「ジュリアン」のハーモニー・コリンぐらいで、あとは洒落に過ぎない「純潔の誓い」を真に受けて踊らされてる馬鹿ばっか…という気がする。だってこの「キング・イズ・アライヴ」にしたってドグマ映画は「回想禁止」のはずなのに堂々とナレーションで開幕/閉幕するし「カメラは手持ちに限る」はずなのにヘリからの空撮があるぜ。な、そんなもんなんだよ。 ● 砂漠で(ブニュエルのように不条理に)遭難した幾人かの人たちが、ゴーストタウンに孤立するうち次第にあさましい人間の本性を露にしていく…という話なんだけど、ちょっとお行儀が良すぎる。ドグマ映画にしちゃ鬼畜/変態度数が足りない。石井輝男だったらメンバーの半数は気が触れて喚きちらすわ男が女をレイプするわ女が男のノドをかっ切るわ…で最後は軍隊がやって来て機銃掃射で皆殺しのはず。<んなもん比較すなぁー! ジェニファー・ジェイソン・リーとかロマーヌ・ボーランジェとかキチガイ演技には定評ある面々が揃ってるのに勿体ないことである。退屈だからみんなで「リア王」を演じましょう…というのもよく判らない。まあ不条理劇だからそれはいいとして、劇の内容とドラマがあんまり上手くリンクしないんじゃダメでしょう。「ブレードランナー」で最初に撃ち殺されるレプリカントを演じた異貌の俳優ブライオン・ジェームズの遺作である。

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パダヤッパ(K.S.ラヴィクマール)

スゴい。スゴすぎる。ほかの印度産歌舞音曲娯楽映画とは突き抜け方のレベルが違う。「ムトゥ 踊るマハラジャ」のトリオ・・・監督・脚本K.S.ラヴィクマールと売れっ子作曲家A.R.ラフマーン、そして“スーパースター”ラジニカーントが再タッグ。21世紀だってのにアナクロ一直線。CGバンバン使っても画質は1970年代の東映映画のまんま。演出家がどれだけハメを外してもラジニ兄貴の度量がすべてを受け止めてしまうスゴさ。もうひれ伏すしかない。畏れ入りました。 ● いつもの「スーパースター、ラジニ」のロゴで開幕。お話は奇想天外だが基本はシンプル。海外留学帰りのゴーマンお嬢さまが、村長(むらおさ)の跡取り息子パダヤッパに恋するが、かれは彼女の家の使用人のお淑やかな娘に一目惚れ。フラれたことなど(それも自家の使用人なんかに!)人生で1度もなかったお嬢さまは、復讐の炎をメラメラと燃やし阿修羅と化す・・・と、つい仇役の視点で書いてしまったが、それほどこの悪役キャラが魅力的なのである。庭の花を摘んだ使用人の娘に「ここで育つもの咲くものは全部わたしのものよ。誰にも渡さない」敢然と言い放つ。惚れて惚れて惚れぬいたラジニにも懇願なんてしない。だってあなたはわたしと結婚する運命なのだから。ストーカーまがいの愛ではあるが(マサラ映画のお約束でパダヤッパがある日とつぜん無一文になっても)「パダヤッパ以外とは結婚しない」と決して自分を曲げることがない。演じるランミャー・クリシュナンはミニスカ&ブーツにパツンパツンに膨れた躯のグラマーガール。…いや「グラマーガール」なんて日本じゃ死語だが南インドじゃまだまだ現役なのである。ボンベイあたりのスリム美女の流行などどこ吹く風。ラジニの妹の結納式で、ヘソ出しの民族衣裳に着替えた彼女が踊る誘惑のダンスが素晴らしい。女が誘い、男が抵抗する。スリリングな官能は「バンド・ワゴン」のシド・チャリースのそれにも匹敵する。大臣に出世した彼女の兄が、憎っくきラジニに言う名台詞「わたしが過去を忘れたとでも? いいや。政治家は約束は忘れるが受けた屈辱は忘れない」 ● ラジニの役どころは♪おいらはタミルドゥ生まれ タミル地方のためなら命も賭ける♪と歌う村1番のいい男(…つまりいつもと同じ役) 今回の決めポーズは「敬礼」で、決め台詞は「おれにはおれのやり方がある」 油断するとす〜ぐスローモーションになっちゃうし、一挙手一投足にいちいちビュンビュンと擬音が付く、やたらとやかましい主人公である。実年令50才のラジニが20代の若者を演じるという梅宮の辰っちゃんの「不良番長」ほども無理な設定をすんなり成立させてしまうのが娯楽映画の懐の深さってやつよ。 ● ラジニの愛を射止める使用人の娘に「アルナーチャラム 踊るスーパースター」に続いての共演となるサウンダリヤー。娯楽映画のヒロインというものは、初登場シーンでスローになったり、風が吹いて髪を揺らしたりと観客に印象付けるためにさまざまな演出を凝らすものだが、ここでは「最初に後姿を捉えたカメラがそのままクレーンでぐわんと頭上を跨いで前面にまわって顔を写す」という荒ワザを駆使している。もちろん彼女にも♪愛が選挙なら あなたが大差でひとり勝ち♪と歌う、艶やかで幸福感に満ちたダンスシーンが用意されている。お腹いっぱいの3時間。いいかげんな娯楽映画を心から愛する人は必見。

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偶然の恋人(ドン・ルース)

ラプコメではなくて、ストレートなラブストーリー。あんまり期待しないで観に行ったらすごく面白かった。「思いあがった売れっ子の若い広告屋」がヒロインとの恋愛を通じて「人間らしさ」を取り戻すというストーリーラインはブルース・ウィリスの「キッド」と一緒だが、あれよりはずっと良く出来ている。監督・脚本はクリスティーナ・リッチ「熟れた果実」のドン・ルース。感情の機微をうまくすくいあげる達者な脚本と、ポンッポンッと時間を飛ばしてテンポよく進行する演出。悪意にあふれていたブラックコメディ「熟れた果実」の作者と同一人物とはとても思えないウェルメイドな仕上がりである。 ● 主演のベン・アフレックは基本的に大根役者だが、今回はじめて「イキがってる若造」だけじゃない、その下にある顔を見せているように思えた。グウィネス・パルトロウは薄幸のヒロインが役柄に合ってるし、実生活での元・恋人同士だけあって、たしかにベン・アフレックとの画面での相性もしっくり来る。出てきた瞬間に、ああこれが「代わりに死ぬ人」ね…とわかる(きっと最初はアイダン・クインにオファーしたに違いない)グウィネスの夫役に、「シックス・デイ」の悪役トニー・ゴールドウィン。冒頭でアフレックと一夜を共にする臓器開発メーカーの美女に「スピーシーズ」のナターシャ・ヘンストリッジ。ベン・アフレックの台詞じゃないが おれの ORGAN DEVELOP してほしいぜ(火暴) ● 笑いを意図してるわけではないが、墜落事故を起こした航空会社がイメージ回復を狙って打つ「わたしたちは忘れません」キャンペーンの感傷的なテレビCMがなんともグロテスクで、なんかそこだけ「熟れた果実」の種子がまぎれ込んだようだった。

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キャスト・アウェイ(ロバート・ゼメキス)

まず本篇に入る前に、トム・ハンクスが出演する FedEx の企業PRを20分も見せられる。エンディング前にはさらに「FedEx がいかにお客さまの荷物を大切にしていて、最後まで責任を持って荷物をお届けするか」を描いたCMが本篇内に挿入されるのだが、あの荷物ってアメリカを飛び立った飛行機に積んであったってことは、あの女性彫刻家が発送した荷物でしょ? 発送人に届けてどないすんねん!>トム・ハンクス。 ● 無人島漂流ものにもかかわらず「孤島サバイバル」のサスペンスには乏しい。土人も襲ってこないし、人喰い鮫も出て来ない。もちろん「嫌よ嫌よも好きなうち」な上流階級マダムとかも出てこない。脱出の緊迫感も「パピヨン」あたりと較べると、あっさりしたものである。演出のウェイトが「主人公が生還した後」の描写に置かれていることは時間配分からも明らかなのだが、では、そのだらだらと長いエピローグでロバート・ゼメキスが何を言わんとしてるのかは――おれ、バカだから――見当もつかん(脚本は「アポロ13」「猿の惑星」新版のウィリアム・ブロイルズ Jr.) ● おれは、役づくりで本当に痩せたり太ったりするような演技手法には何の価値も見出さない人間なので、本作でのトム・ハンクスにもちっとも感心しなかった。痩せたトム・ハンクスに昔のコメディ俳優時代の面影がうかがえるのはちょっと嬉しかったけど。ヘレン・ハントは「ハート・オブ・ウーマン」そして本作と、日劇作品2本連続のヒロイン役、しかもピカデリー1では「ペイ・フォワード」も同時公開という売れっ子ぶり(なにゆえに!?)

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岸和田少年愚連隊 EPISODE 1: カオルちゃん最強伝説(宮坂武志)

シリーズ最新作は「ぴあ」の新作紹介欄にも無視されて、新宿・昭和館で3本立ての1本として1週間のみのロードショー。傑作なのになあ。ポスターにはデカデカと「竹内力“長ラン”作品」と書いてあるが、そんなジャンルあったのか? ● 巻頭いきなり「岸和田少年愚連隊」そして「EPISODE 1: THE BATTLE OF KAORU」という黄色い文字がジョン・ウィリアムズまがいのマーチに乗って画面を流れていく。「遥か昔。これは日本の西の国での出来事…」 頭・尻(ケツ)に「岸和田少年愚連隊」シリーズにおける“現在時制”である1970年を置いて、岸和田町内の“歩く人間凶器”カオルちゃんの15才の頃…1959年を回想する構成。昭和34年に長ラン(=ロング丈の学ラン)があったのか?とか野暮なツッコミをしてはいけんよ。竹内力がしゃあしゃあと15才の高校1年生を演じる。愛らしい小6の男の子が“ホルモンのせいで”ひと冬でゴジラに大変身。犬っころ並みの脳味噌でモゴモゴと怒鳴り喋る様子はフランケンシュタイン(のモンスター)そのもの。どっからどー見てもおっさんなので劇中では「おっさんやないけ!」「そんな15才がおるけ!」「特撮やろ?」「キッツイわあ」と出演者全員からツッコミを入れられる。それに対してリキ兄ぃは「んがぁー!」と咆えて暴れまくる。殴るわ蹴るわ跳ぶわでアクションもハンパじゃない。もちろん惚れた女にゃ純情一途。ろくでなしの父親と借金に苦しむ女子中学生を体を張って助けるけど、彼女の前では「んがぁー!」と咆えるしか出来ない。いや、素晴らしい。これだけの虚構を堂々と背負って立って、娯楽映画としてのリアリティを成立させられるのは世界広しといえどもラジニ兄貴とリキ兄ぃだけ。いいかげんな娯楽映画を心から愛する人に捧ぐ。 ● カオルちゃんの終生のライバル…と本人だけが思ってる卑怯で弱っちい“スネーク倉本”に(竹内力よりさらに歳上の)田口トモロヲ。パクリ専門の如才ないライバル、イサミちゃんに山口祥行。11年後のイサミちゃんに原作者・中場利一(ちなみにカオルちゃんの11年後は竹内力がそのまんま演じてる) 悲劇のヒロインに暗い目の新人・鈴木希依子。ご町内筆おろし担当のバーのママさんに伊佐山ひろ子。カオルに愛情を持って厳しく接する“美人女教師”であるべき野村真美が、あまり魅力的じゃないのが惜しい。脚本は「岸和田少年愚連隊」シリーズのメインライター、NAKA雅MURA。監督は「大怪獣東京に現る」の…というよりは「ギャングスター 東京魔悲夜外伝」「鉄 平成侠客伝」など数々のVシネマで竹内力と組んでいる宮坂武志。

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F A M I L Y(三池崇史)[キネコ作品]

もはや日本映画界に向かうところ敵なしの三池崇史だが、ただ1人だけ、空手の師匠・真樹日佐夫には逆らえないらしく「おい三池、こんどおれが週刊実話で連載してる『ファミリー』っての映画にするからよ、おまえ監督しろや」「…お、押忍」ってことで(←推定)「なぜ今さら岩城滉一のVシネマ?」な新作が出来あがった。いまをトキめく三池崇史監督作品が、なにゆえ銀座シネパトスで2週限定のレイトショーというショボい公開なのかというと、それはひとえにこれが真樹日佐夫の「おれ映画」だから。なにしろ自分で劇画の原作書いて、脚本書いて、製作して、岩城滉一の心の師である「真樹道場」の館長・真樹として出演までしてるのである。実兄・梶原一騎の「空手バカ一代」(1977)で映画デビューして、真樹日佐夫 主演による(ただし台詞は吹替だった)「カラテ大戦争」(1978)でヒロインを務めた夏樹陽子を出演させて、しかし自らラブシーンまでは演じなかった“分別”を褒めるべきであろうか。真樹日佐夫 本人にお勧めする。 ● では、どうしようもないVシネかと言うと、そうでもない。かつて師匠の「あの巨乳のネエちゃんと絡みたい」の一言で桜庭あつこ「シルバー」(1999)を監督させられた(←推定)三池崇史は、明らかに「日本を影で動かしている秘密結社ジャパン・マフィア」だの「やくざ組長・自衛隊士官・殺し屋の3兄弟の兄弟愛」だのといったストーリーには興味がないらしく端から説話をあきらめてメンドくさいとこはさっさとナレーションで済ませ、低予算のビデオ撮りを逆手に取ってみずから撮影監督をつとめて、露出変えまくり&ホワイトバランス弄りまくり&フレーム歪みまくり&ビデオ編集ソフトのフィルターかけまくりで遊んでいる。明るい自然光の場面が皆無なのでキネコの劣悪画質も気にならない。イメージフォーラムの実験映画のような趣きすらある。おまけに「天国から来た男たち」の金で(←推定)ちゃっかりフィリピン・ロケまでして戦車まで出てくるのだ。もう何がなにやら…。

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ダブル・デセプション 共犯者(大川俊道)

「ぴあ」の新作紹介欄にも無視されて新宿トーアで1週間のみのロードショー。LA在住の日本人富豪の娘が誘拐されるが、じつは誘拐されたのは替え玉で、その事を知った本物の富豪令嬢が、元刑事のボディガードと組んで武装誘拐団と対決する…というアクション映画。東大出身モデル/タレント・菊川怜の“ハリウッド映画デビュー作”・・・とは言っても、皆さま先刻ご承知のとおり、撮影監督をはじめとする現地スタッフを使ってLAに“海外ロケ”をした日本製ハリウッド映画、つまり斎藤陽子「SASORI in U.S.A.」の類である。しょせん菊川怜は斎藤陽子とどっこいどっこいの二流素材で、映画はつまらん、脚本はズサン、英語はヘタ。濡れ場はおろかシャワーシーンすらない。そのうえタンクトップの下には全篇ブラ着用・・・なめとんのんかコラ!という代物である。監督・脚本は「あぶない刑事」「クライムハンター」シリーズの大川俊道。ウド・キアが(最近の出演作の例に倣って)1シーンのみ特別出演。替え玉娘を演じた星野マヤのほうが英語の台詞はまだまともだった。

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サトラレ(本広克行)

「異能ゆえに迫害される主人公と、それを母親のような愛情で保護するヒロイン」というパターンのバリエーション。妖怪サトリの反対だからサトラレ。「自分の心が他人に伝わってしまう(ことを本人だけが知らない)男の物語」というアイディア素晴らしいと思う。全体的にはアイディアを巧く転がせずファンブルしてるような出来なのだが、終盤で泣かせモードに入った途端に、それまでの稚拙さが別人のように演出家が力を発揮し始める。長過ぎる上映時間(2時間10分)の二流コメディだが「泣ける映画」をお求めならお勧めできる。 ● 本広克行のエンタテインメント志向には好感が持てるが、ウェルメイドな娯楽映画を目指すならもっと脚本をシェイプアップ/ブラッシュアップする必要がある。おれがプロデューサーなら、まず冒頭のプロローグと設定説明は半分にする。「特能保全委員会」と「もうひとりのサトラレ」の場面はすべてカット(「サトラレの孤独」を描きたいなら恋人はおろか友だち1人いない主人公の孤独をこそ描くべき) 「踊る大捜査線 THE MOVIE」のラストのように長ったらしいクライマックスも今の半分で充分。ラストは小野武彦と小木茂光のシーン(「初めて“あの男”と…」「そんなこと言ったかな」)でブッタ切る。もちろん鈴木京香のテーマをすべて台詞で説明するナレーションは全部カット。台詞をもう少し早口で喋らせて編集でリズムを整えれば1時間40分に収まるはず。 ● キャラクターの成長/変化を効果的に見せるためには、冒頭でヒロインが「サトラレを“研究対象”としてしか見ていない功利心旺盛な冷たい女」であることを強調しておくべきだし、同様にサトラレのほうも「若き天才ゆえの傲慢(を本人が自覚してない)」を“克服すべき弱点”として提示しておくべき。新人外科医のサトラレが1人だけ手術を執刀させてもらえないのは、かれがサトラレであるからではなく「他人の心を思いやる気持ちが欠けているから」としたほうがラストに繋がると思うが(←そうしようと試みた気配はあるが現状では説明不足) サトラレが「医者を志した理由」は説明されるが「なぜ外科医なのか」は説明されない。「もうひとりのサトラレ」があの場所にいるのを委員会が知らないのはあまりに不自然。あれだけ慎重に危機管理をしているのだから委員会に反抗を示した時点でヒロインは担当から外されるはず・・・などなど大きな穴もボコボコ開いている。なかでも絶対に看過できないのが(おそらく童貞の)サトラレにヒロインと2人で「無人島の一夜」を過ごさせておきながら――それもひとつテントで同衾だぞ――「セックス」の問題を、まるでそれが存在しないかのように回避していること。だってそうだろ。おれが二十いくつにもなって童貞で、鈴木京香から「2人で無人島に行かない?」と誘われたら、島で考えることは「ヤリたいヤリたいヤラせておねがいおまんこおまんこおま(以下略)」しかないぞ。 ● サトラレの安藤政信はほぼ完璧。鈴木京香は、コメディ演技はもう少し大袈裟にしたほうが効果的だと思うよ。サトラレの祖母に八千草薫(素晴らしい) 外科部長に寺尾聰(主役やらなきゃ素晴らしい) 普通なら本田博太郎の持ち役である「特能保全委員会の政府官僚」には小野武彦。サトラレに24時間、影のように張りついている警護官に小木茂光(キャストをほんの数人しか載せないことで悪名高い東宝のチラシだが、本作でもあれだけ印象的な小木茂光が載ってない。ひでえなあ)

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死びとの恋わずらい(渋谷和行)

原作コミック:伊藤潤二 脚色:友松直之
辻占(つじうら)・・・道端の古いお堂の前に立ち、最初に通りがかった者に聞く「占ってください。わたしの恋は実るでしょうか?」 あらわれるのは決まって黒服の美少年で、かれはあなたに死に至る禍々しい預言を告げる・・・高校生のあいだに伝わる都市伝説をモチーフに、クラス内の恋愛模様をからめてに描く耽美的ホラー映画。原作をかなり脚色してあるらしい脚本は、スプラッター・ピンクの傑作「コギャル喰い 大阪テレクラ篇(天使幻想)」の友松直之。[主観]トリックによる一種の心理ミステリーで、じつを言うと[「コギャル喰い」と同じネタ]なのだが、現実を鮮やかに反転させる後半の展開はスリリング。ただ演出がヘボなので冒頭10分も観ればネタが割れてしまう。監督の渋谷和行はビデオ・クリップ出身。アタマ悪いなあ。これはホラーだよう、こいつが怪しいよう、あいつが恐いよう…と演出するからバレるのだ。この映画の前半は「時をかける少女」のようなスウィートな学園ラブストーリーとして演出すべきなのだ。あと「俳優Aが俳優Bのほうを向いて俳優Bに台詞を言う。俳優Aのほうを向いて俳優Aの台詞を頷きながら聞いた俳優Bが、一泊おいて軽く頷いてから俳優Aに台詞を言う」という女子プロレスのしょっぱい前座みたいな台詞の遣り取りはなんとかならんか? ● 10年ぶりに生まれた町に戻ってきたヒロインに「ガラスの脳」の後藤理沙。相変わらずのエロキューションもアクセントもムチャクチャな舌ったらずの蓄膿声で、もともとホラー映画向きの女優じゃないし――普通ならこのあと「でも可愛いから許す(火暴)」という“お約束”の文章が続くはずなんだが、どうやら「恐怖に顔をゆがめてる」つもりの顔がどー見てもありゃただのしかめ面で、あんまり可愛いくないんですけど…。教室の最後列にひっそりと座っている「ヒロインの幼なじみ」に、松田龍平。「御法度」のときと違ってすべて自力で立たねばならぬ本作では演技の稚拙さが目立つが、…まあ、異形の役なのでこれでいいでしょう。主役2人が下手なぶん、得をしてるのがヒロインと三角関係になる「優等生のクラスメイト」役の、三輪明日美。妹が出ればもれなくお姉ちゃんも付いてくる…というわけで、三輪ひとみの役はなんと全身刺青のキチガイ女。ご本人もHPで「特殊映画女優まっしぐら」とか言ってるけどいいのかほんとに!? おお、2人の幼少時の想い出の廃墟があの「カリスマ」の廃ホテルだ。世界が繋がってるのか?<んなワケない。

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ザ・カップ 夢のアンテナ(ケンツェ・ノルブ)

製作:ジェレミー・トーマス
「夢のアンテナ」というのは比喩ではなくて衛星放送を観るためのアンテナのこと。インドのチベット仏教の僧院の幼き修行僧たちが、サッカーのワールドカップ決勝戦を見るために奮闘する話。ジェレミー・トーマス製作の「リトル・ブッダ」でアドバイザーを務めた縁で、ブータンの高僧が初めて映画を監督。本物の僧院でロケーション。出演者も全員が本物のラマ僧・・・と聞くと、えらい抹香臭そうだが「リトル・ブッダ」や「クンドゥン」と較べてもはるかに宗教色は薄い。子どもたちが袈裟 着てなくて坊主頭でなけりゃフランスの寄宿制小学校の話と言っても通りそうだ。僧院生活入門の趣きもあって、悪戯ざかりの子どもたちの毎日が活き活きと描かれている。「町外れに住んでる少しイカれた占い乞食」とか「さすがはインド人、相手が坊さん(しかも子ども)でもビタ1文負けない よろず屋のおやじ」とか脇のキャラクターも楽しい。でまた先生が良い人なんだわ。この人も本当の指導僧だそうだけど、厳しい中にも子どもたちをちゃんと信頼してて“徳”ってのは顔に出るんだねえ。いや、もちろん実際の僧院生活はもっと厳しくて辛いものかも知らんし、これは控え目に込められた故国チベットへの想い(と中国への批判)を伝えるためのガイジン向けプロパガンダ映画として製作されたのかも知れないが、そんなことはどうでもよろしい。家族全員で楽しめる理想的なファミリー映画。

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ファストフード・ファストウーマン(アモス・コレック)

(一部の皆さまごめんなさいと先に謝っておくけど)嫁き遅れた35才ウェイトレスの生活とロマンス。これに雑誌の交際欄で知りあったジーナ・ローランズみたいな婆さん(未亡人)とジョン・カサヴェテスみたいな爺さん(寡男)のカップルが加わって、なんか不思議な四角関係となる生ぬるいほどほど優しいファンタジー。フランスで人気だという(いかにもヒネクレ者のフランス人が好きそうな)ヒロインのアンナ・トムソンは(元ストリッパーだけあって)ウエストが細くて胸がドーンで尻(ケツ)がバーンという理想的な体型なんだけど、いかんせん顔がアナゴさん(←マスオさんの同僚)なのがなあ…(火暴) 回想から始まって冒頭に戻らないのはルール違反。「モアイの謎」のヒロイン&実写版「ポカホンタス」のポカホンタス役&ジョン・ウー「ブレイクダウン」「狼たちの絆」という2本のTVムービーに出演してるおれのお気に入りのエキゾチック美女サンドリーヌ・ホルトがチラッと出てくる。

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イディオッツ ドグマ#2(ラース・フォン・トリアー)[キネコ作品]

ラース・フォン・トリアーのことだからまた「愚か者ほど心は澄んでいる」てな偽善的な話じゃねーの?とか思って観に行ったおれが甘かった。これ、じつは「白痴(=イディオッツ)の話」じゃなくて「市民の前で白痴を装ってさまざまな嫌がらせを試み、相手が“障害者じゃ怒れないし…”と困った顔をするのを見ては世の中の偽善をあざ笑ってる若者グループの話」なのだ。ワザと不快な表現をして観客を挑発するのがトリアーの目的で、観終わった観客一同「いやなもん見ちゃったなあ…」という顔で、うつむいて口もきかずに退場する…そんなタイプの映画である。日本での公開がなかなか決まらず「ダンサー・イン・ザ・ダーク」大ヒットの直後だというのにレイトショーでひっそりと上映されてる理由が解かったよ。撮影順としては「ダンサー…」の1本前の作品で、悪意がストレートなぶんだけ、こちらのほうが素直と言えるかも。間違っても感動して泣いたり心が癒されたりする心配はないので、金を払っていや〜な気分になりたい皆さんにお勧めする。 ● 若者たちはリーダーの親戚の所有する空き家で集団生活をしていて、つまり、この映画は「傲慢なリーダーと自分に自信を持てないメンバーによる政治的コミューンの運営と崩壊」に関する物語でもある。「ドグマ95」作品であるので監督名は表示されない、のみならずエンドクレジットはスタッフ/キャストの区別なく職種/役名もなしにただ人名のみが列記される(←1960年代によくありましたな) ピアニカ演奏によるサン・サーンスの「白鳥」を劇伴として2箇所で使用しているのは「純潔の誓い」違反だと思うが。しかし「マイクばれ」ってのはたまにあるけどカメラマンが映っちゃってる場面をそのまま使うってのは珍しいよな。あと関係ないけど、メンバーの1人が「ペド」って名前で、デンマークじゃ普通の名前なのかもしらんが英語圏に行って「ハーイ、アイム・ペド」とか名乗ったらボコボコにされると思うぞ。<余計なお世話。

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ビジターQ(三池崇史)[ビデオ上映]

うっひゃっひゃ。こりゃムチャクチャだわ。6人の監督がデジタルビデオ作品を競作する「ラブシネマ」シリーズの大トリには満を持して“破壊神”三池崇史が登板。森田芳光「家族ゲーム」、石井聰亙「逆噴射家族」、佐藤寿保「エキサイティング・エロ 熱い肌」などの“家族解体/再生(?)もの”の系譜に新たな怪作を付け加えた。竹内力の結婚パーティで「なんでおれを使わないんだあ!」と泥酔して監督にカラんだ成果で役をゲットした遠藤憲一が、冒頭からちんちんぶらぶらさせて最狂時の大杉漣にも匹敵するキレっぷりで崩壊家族の家長を熱演。母親には実生活で出産直後だった内田春菊。主演女優が水芸よろしく母乳を飛ばしまくる映画ってのは前代未聞じゃないか? 家出援交近親相姦な長女に(夏生ゆうな系の)不二子。謎の訪問者Qに(鈴木一真/村上淳 系の)渡辺一志<本職は自主映画監督だそうだ。そしてある意味、内田春菊 以上に勇気ある出演者が、遠藤憲一の同僚のテレビキャスターに扮した中原翔子。出てきたと思ったらアッというまに裸に剥かれて頚(くび)絞められて死姦され死後硬直で股おっ拡げたまんまあんなことこんなことまで。そんな役、演じてて楽しいのか!? 脚本は江良至、撮影は山本英夫。84分。基本的にはC級トラッシュ・ムービーなので“ひろくお勧め”はしないがゲテモノ好きの諸兄とイカモノ喰いの諸姉は必見。

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不確かなメロディー(杉山太郎)[キネコ作品]

忌野清志郎の新バンド「ラフィータフィー」のライブハウス・ツアー ドキュメントであり、忌野清志郎その人のドキュメントでもある。いわゆる「コンサート・フィルム」ではない。忌野清志郎を知らない人にはちょうど良い入門篇だと思うが「新譜に気がついたら買う」程度のファンとして言うならば、あちこちの雑誌で読んだことあるようなインタビューなんか要らないからもっとライブ映像/音源をフィーチャーしてくれい!という感じ。じっさい本人とバンドメンバーにとおり一遍の話を聞いただけでは「忌野清志郎その人のドキュメント」としてはまったく喰い足りないし、長崎で原爆慰霊碑・広島で原爆ドームという紋切り型はなんとかならんか。清志郎の歌をフルコーラスで聞かせるほうがよほど有効というものだ。 ● ナレーションは清志郎の同級生・三浦友和。バンドメンバーの藤井裕が元サウス・トゥ・サウスってのは知ってたけど、なんと元ブームタウン・ラッツのキーボードだったジョニー・フィンガーズが参加してたとは知らなかった(←昔はLPレコードを買ったらマニファクチャーなんたらかんたらってとこまで読んでたのに、最近じゃパーソネルすら見ないので。<大人ってやぁねえ) サキソフォンが武田真治で神妙に「バンドの一員」として務めているのだが、邪悪な清志郎(もうすぐ五十)のことだから「タケダ君を入れとけばヤング対策はバッチリだぜ。イエ〜」とか思って誘い込んだんだろうなあ:) ピンク映画の名撮影監督・斎藤幸一がカメラマンの1人として参加している。それと「PARTY 7」の最終回のあとで、本作のレイトショーに備えて、ちゃんとスピーカーのボリュームを上げてるのは偉いぞ>シネセゾン渋谷。

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バガー・ヴァンスの伝説(ロバート・レッドフォード)

そりゃこれだけ映画を観てりゃゴルフをする暇なんぞないわけで、だからおれにはこの映画の良さが理解できていない…という可能性もゼロではないが、まあ、大概の人にとっては失敗作と映るでしょう。観ただれもが彼自身の主演作「ナチュラル」を思い浮かべるとおもうが、バリー・レヴィンソンと較べるとロバート・レッドフォードはフェアリーテイルが下手だね。この手の話には――そう「フィールド・オブ・ドリームス」のように――フッと飛翔する瞬間がぜったいに必要なのだ。CGでゴルフボール飛ばせばいいってもんじゃない。まあレッドフォードも「ミラグロ 奇跡の地」ではいいセンまで行ってたと思うが。 ● 冷静に考えればもともとの脚本に不備があるのだが(わかりやすいので)マット・デイモンとウィル・スミスを責める。この映画のマット・デイモンは、のほほんと酒とギャンブルに興じているようにしか見えず、落魄の悲しみが伝わってこないので到底、救いの手をさし伸べる気になれない。ウィル・スミスにいたっては、おれがプレイヤーならこんな、やくたいもない事を耳元でぐっちゃらぐっちゃら囁くようなキャディは、その場でウッドでブン殴るね。詮無いこととは知りつつ、つい、当初 予定されていたブラッド・ピット&モーガン・フリーマンの組み合わせであったなら…と考えてしまう。それが無理でも、たとえばジム・カヴィーゼルとジーン・ハックマンであったなら…と。シャーリーズ・セロンはキレイだから許す…と言いたいところだが、この役ってこんな美人が演っていいの? エマ・トンプソン タイプの女優がやるべき役だと思うんだが。まあ、ノンクレジットで出演/ナレーションしている老優には敬意を表するけど。 ● 演出としては「マット・デイモンが大恐慌下の南部にとっての力道山である」点をもっと強くおすべきだったと思う。それとゲーム当日の朝は絶対に「贅を尽くしたアメリカ最高のゴルフコース」の空撮から入るべきでしょう(CGでも可)

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あなたのために(マット・ウィリアムズ)

ナタリー・ポートマンはミスキャスト…と最初は思った。だって「男の甘い言葉にコロリと騙されて妊娠しちゃった思慮の浅い17才@トレーラー住まい」には見えないもの。ワザとらしい南部訛りの下には「ハーバード大学に通う秀才のユダヤ娘」の素顔が透けている。この調子で2時間つき合わされるのはタマらんなあ…と気が重くなったが、そこへ、普段は「嫌味な都会女」の役をふられることの多いストッカード・チャニングが「浅黒く日焼けして二の腕の太い(←それは演技じゃありません)ちょっと浮世ばなれした信心深い南部女」に扮して登場。その化けっぷりの見事さに半分 浮かしかけた腰を落ちつけたのだった。アシュレイ・ジャッド、ジョーン・キューザック、サリー・フィールドら、共演女優陣が一様に素晴らしい。ナタリー・ポートマンもドラマが進むに連れてだんだんと聡明になり(なぜか南部訛りも取れて)地に近くなるので安心だ。 ● 17才のヒロインが、男に臨月の体をウォルマート(郊外スーパー)に置き去りにされて、こっそり店内で寝起きして赤ちゃんを産んでからの、喜怒哀楽をもれなく網羅した5年間の話。「マグノリアの花たち」よりは「恋する人魚たち」「ミス・ファイアクラッカー」に近いかな。「苦味の少ないマイルドなジョン・アーヴィング」といったところ。あるいはNHKの朝ドラのトンデモ版。3年後ぐらいに続篇を作ったら面白いんじゃないだろうか(産んだ娘がティーンエイジャーになってて母ちゃん以上の波乱万丈な人生を送るの) ● もともと群像劇だったというベストセラー小説を「エドtv」「シティ・スリッカーズ」「バックマン家の人々」「スプラッシュ」などの職人脚本家チーム、ローウェル・ガンツ&ババルー・マンデルが脚色。ヒロインを捨てた男の「その後の人生」も並行して描かれるのだが、こちらのパートがいまひとつ上手く機能していない…というか、無くても良いのでは?と思ってしまうとこが欠点。マット・ウィリアムズはもともとプロデューサーで、これが初監督。まあ、無難にこなしてると思う。原題は「WHERE THE HEART IS(ハートのあるところ)」 もちろん邦題から明らかなとおり20世紀FOX配給である。

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スイート・ムーンライト(ダンテ・ラム)

「東京攻略」に続いてまたもや香港映画における「東京=NY説」を裏付ける1本である。つまり香港っ仔は東京に憧れ、東京人はNYに憧れ、ニューヨーカーはパリに憧れ、パリジャン/パリジェンヌはパリが世界で一番と思ってるわけだ。まったくなんて傲慢なやつらなんだ!…あ、いや香港映画の話だった。これは日本のTVの「トレンディ・ドラマ」ワナビーな、東京ロケのラブ・ストーリーである。え、今どきトレンディ・ドラマなんて誰も言わない? いいんだよ、香港映画が作るとなぜだかひと時代前のテレビドラマみたいになっちゃうのだから。中国の経済解放区・深[土川]でバリバリ働いてる香港人ビジネスマンが、御茶ノ水のアテネ・フランセに留学してる恋人を半年ぶりに訪ねたら、彼女は(日本の漫画家のアシ修行をしながら原宿の似顔絵描きで食ってる)自分の親友とデキていた。落ち込む主人公を(喫茶店のウェイトレスをしながらスーパーモデルを目指してる)香港娘が慰めるうちに…という話。主人公のレオ・クー(古巨基)は顔も髪型も煮えきらないキャラ中村雅俊時任三郎そっくりだし、彼女を寝取っちゃうケーハクな親友を演じるサム・リーは明石家さんまのノリか。実際、サム・リーの広東語の「品の無さ」はさんまの関西弁に通じるものがあるかも。てゆーか、サム・リーの日本語台詞、なに言ってんだかまったくわかんねーぞ。 ● 「デッドヒート」「フィスト・オブ・レジェンド 怒りの鉄拳」のゴードン・チャン(陳嘉上)製作。ゴードン・チャンの助監督から昇進したダンテ・ラム(林超賢)監督。複数カップルのラブ・ストーリーと「異国で/都(みやこ)で夢に向かって頑張る」もの(←なんだそれ?)の相乗効果で感動を演出すべきストーリーラインなのだが、なにせB級香港映画お得意の行き当たりばったり脚本なので弾の無駄撃ちが多すぎる。原題は「天旋地戀 WHEN I LOOK UPON THE STARS」 ● レオ・クーはアイドル歌手/俳優だそうだが(少なくともこの映画では)少しも魅力的ではない。その“待ちきれなかった”カノジョにロレッタ・リー/ジジ・リョン系統の(美人ではあるが、とりたてて特徴のない顔の)アニタ・チャン(陳頴妍) スー・チーは舌ったらずな喋り方に目を上下左右にクルクルさせて得意技を全開。喫茶店でコーヒー飲んでる客になんだかんだと話しかけてくるお節介なウェイトレスの役なんだけど「こんな娘なら煩わされてもいいかも」とか思ってしまった。同僚の(ダンサーになる夢を諦めてしまった)ウェイトレスを演じているディオン・ユイ(余迪安)が控えめな感じの美人でなかなかいいぞ。そして、テーマの重要な伏線を担いつつも思いっきり笑かしてくれる深[土川]の工場長にエリック・ツァン。スー・チーかエリック・ツァンのファンならば観る価値があるかも>あ、おれか。


詩人の恋(ケイシー・チャン)

100%の香港映画だが、北京の詩人の伝記で、劇中にも多量に詩作が引用されるので北京語で製作されている。1980年代に「朦朧詩」と呼ばれるニューウェイブな詩で一世を風靡したグー・チョン(顧城)が、ニュージーランドの島で「エデンの園」を気取って妻と愛人と3人暮らしをするようになるが、おなじみ「金のためには書かない」というゴタクを並べて周囲に迷惑をかけまくったあげく、精神に変調をきたして妻を殺して自殺するまで。原題は「顧城別戀」。実話である。女流監督のケイシー・チャン(陳麗英)は丹念な取材を重ねて事実に忠実に映画したらしいが、それは結果として「事実をただ追っただけ」の退屈きわまりない代物になってしまった。北京語の映画にもかかわらず香港人・香港人・日本人という変則キャストなので、おそらく北京語の台詞はすべて吹替で、そのせいもあって3人の主要キャラクターの感情がまったく伝わってこない。漢詩の教養のない身にはグー・チョンの詩の魅力もわからず。いっそのことケイシー・チャンは製作に専念して、バリー・ウォン系の監督に「猟奇性犯罪もの」として撮らせたほうが百倍おもしろかったのでは? てゆーか、この人もともとはミッシェル・リー主演の暗殺者アクション「緑野追撃(疊影驚情) THE BLACK MORNING GLORY」(←なぜか観てる)でデビューして、2作目が「真説エロティック・ゴースト・ストーリー(2) 覇王ウーチュンの逆襲」という娯楽映画バリバリの出自なんだけどなあ…。 ● 詩人には「美少年の恋」のアイドル、スティーブン・フォン(馮徳倫) 後半、気が触れるくだりを「虚ろな目を泳がせる」という解かりやすい演技で見せてくれる。 北京大学の学生のくせに英語も出来ないバカ娘な愛人に、日本から森野文子。明らかに「脱げる人」という条件での起用で大胆なヌードを惜しげもなく魅せてくれるので「桜っ子クラブさくら組」や舞台ミュージカル版「セーラームーン」などのアイドル時代を知る人なら必見でしょう。おれは(世代的に)知らんけど。 愛人を容認するどころか自分からニュージーランドに呼び寄せるよくわからん妻にテレサ・リー(李綺虹) 持ち前の溌剌とした魅力を発揮しようのない脚本なのが残念だが、3人の中では唯一まともな演技をしている。…しかし、これって中国に著作権が確立していて詩人に印税が入ってきていれば起こらなかった悲劇なのでは?

★ ★
ユリョン(ミン・ビョンチョン)

韓国映画版の「沈黙の艦隊」。結局、日本の映画界はこれほど映画にしたら面白そうな素材を実写映画化できなかったわけだから、とにもかくにも韓国映画が、安っぽさなど微塵もないエンタテインメント大作として仕上げたことは感嘆に価しよう。だから(三池崇史を除く)日本の映画人はこの映画や「シュリ」にいっさい文句を言ってはならない。まず作ってみろよ。話はそれからだ。 ● もとが舞台劇というだけあって基本はデイスカッション・ドラマである。韓国が極秘に開発した原子力潜水艦。乗組員は全員、戸籍を抹消された者のみ。それで艦のコードネームは「ユリョン(幽霊)」 日本海のジブラルタル海峡=対馬を抜けて南下するが、そこでクーデターが発生、艦長は殺され、クーデターの首謀者である副官が指揮権を掌握する。核ミサイルを日本に撃ちこもうとするこの副官チェ・ミンスのキャラには明らかに「シュリ」で1番人気だった北朝鮮テロリストのリーダーのキャラが投影されている。それを阻止せんと1人立ち向かうのが新入りの「431」ことチョン・ウソン。2人とも韓国男優にはめずらしく目がパッチリしてるのは女性観客にはポイント高いかも。「クリムゾン・タイド」や他の潜水艦映画をよく研究していて舞台劇としてはOKなんだろうが、映画としてはアクション映画としての側面が弱いのと、「シュリ」と違って今回はテロリストの主張に納得できなかったので ★ 2つ。

★ ★
独立少年合唱団(緒方明)

ようやく海を渡らずとも済む映画館にかかったので観に行った。プロデューサーが仙頭武則なので例によって「ベルリン国際映画祭アルフレート・バウアー賞・受賞」(ってなに?)という箔をつけてからの日本公開。そのためドラマの素材選びと組み立て、演出、カメラのフレーミング、彩度を落とした現像法など、映画の撮り方の隅々にまで外道プロデューサーの下品な戦略が染みわたっていて、嫌らしいことこの上ない。狙いすぎ。40才の新人監督・緒方明にとって、これがほんとうに撮りたかったものなのだろうか。あざとさに堪えられず1時間で退出。甘ったるいケーキとか食べたあとで無性に沢庵と日本茶が欲しくなるように(ならない?)無性にB級アクションとかピンク映画のような慎ましい娯楽映画が観たくなったよ。

★ ★ ★ ★
LOVE / JUICE(新藤風)

新藤兼人の孫娘だという24才の女性監督の劇場映画デビュー作。まず懺悔する。そもそもおれはこの映画を「つんくのテレビ番組で作った映画ぁ!? どーせ出来そこないの自主映画だろ?」と鼻で笑って観に行かなかった。にもかかわらず「ベルリン国際映画祭 最優秀新人監督賞・受賞」という報にコロッと掌を返して、いそいそと凱旋ロードショーに足を運び、あまつさえ星4つも付けている。それって、結局は権威に弱いってことじゃないの? か〜っこ悪りぃ>おれ。 ● 東京郊外の(昭和30年代に建てられたような)木造平屋の貸家を真っ赤なペンキで塗りつぶして共同生活する2人の女の子。レズのチナツ(藤村ちか)とノンケのキョウコ(奥野ミカ)はシングルベッドに2人で寝起きして、タバコとドラッグとバイトとクラブ通いの日々を送ってる。たぶん写真専門学校生のチナツは内田有紀をふっくらさせた感じの見た目ボーイッシュ/精神オンナノコで、キョウコに惚れてる。美術専門学校を自主中退かなんかのキョウコはCHARA系のフシギちゃんで、チナツの気持ちには気付いてるけど男が好きで気が多くて、その度にキョウコはヤキモキ・・・という話を新藤風は、矢崎仁司や風間志織に代表される1990年代 自主映画のタッチで撮る。1時間18分。照明をほとんど使わない金谷宏ニの撮影も秀逸。よくある自主映画と違うのは、気分で撮ってるようでいて、その底にはしっかりした構成の脚本があるからだ(祖父の薫陶かな?) 「擬似レズ・シーン」とか「オナニー見せ」といった場面もあるがヌードは一切なし。意識して煽情的になるのを避けたのだろう。それはいいとして、でもラスト近くの「2人が双子の胎児のように丸まって眠っている」ところを上から撮ったショットだけは全裸であるべき。バイト先のスナック店長に永澤俊矢、熱帯魚屋のおにいさんに西島秀俊が助演。

★ ★ ★
アンブレイカブル(M.ナイト・シャマラン)

M.ナイト・シャマランが「シックス・センス」に続いてまたも今まで観たことのない映画を作った。上に挙げた★の数とは関係なく、あなたが映画ファンを自認するならぜったいに観ておくべき映画である。本稿ではネタバレはしてないが、なるべくなら白紙の状態でご覧になることをお勧めする。 ● これは、いまハリウッドで流行している「とあるジャンル」へのM.ナイト・シャマランからの「おれならこう撮る」という自信に満ちた挑戦状である(もちろん脚本も自筆) 「シックス・センス」とはジャンルから内容からまったく別の映画でありながら、その脚本の骨格は驚くほど「シックス・センス」によく似ている。ファブリックを張り替えてあるのでちょっと目には「同じソファ」だと気付かないが、同じ骨組みを使っているので優れた座り心地は維持されている。そんな感じ。ゆっくりと進行する哀しみに満ちた演出トーンや、落ちついた色調で撮られたフィラデルフィアの街並みといった要素も共通している。 ● そして「シックス・センス」がじつは「母と子」の物語であったように、本作は「父と子」の物語である。父親ブルース・ウィリスは東京ドームの警備員。1人息子のスペンサー・トリート・クラーク君(「グラディエーター」の、あの子だ)は父親のたくましい背中に憧れていて、お父さんが好きで好きでたまらないのだけれど、なぜかお父さんはぼくとの間に「壁」を作ってるような気がしてならないんだ…。さて、怖がりに来た観客たちに感動の涙を流させた【「シックス・センス」の方程式】にしたがうならば、本作においてもエモーショナルなクライマックスは「父と子の心がはじめて本当に通じ合った瞬間」に持ってこなくてはいけないはずなのだが、残念ながら本作においてはサプライズ・エンディングを優先させてしまっている。思い出してほしい。「シックス・センス」はブルース・ウィリスの「秘密」と「クルマの中での母と子の場面」の両方があって成立していたのに。 ● 本作にはもうひとつ「普遍性」という意味で弱点がある。この映画が扱っている素材は「アメリカの漫画やテレビを見て育った男の子」じゃないとピンと来ない類のものなのだ。それを理解しない日本のOLとかが観たら、下手すると場内で失笑が起こる可能性もあるぞ。それとオープニングとエンディングの説明字幕は映画を台無しにしてる。これは「ダークシティ」の冒頭ナレーションと同様の事態、…すなわちシャマランの意思に反して映画会社が勝手に入れたのじゃないかな。あとニューラインはすでにスピンオフ作品「セキュリティ」の映画化を進めてるとみたね。

★ ★ ★
フリークスも人間も(アレクセイ・バラバノフ)

今世紀初頭のロシア、サンクトペテルブルク。スパンキングのエロ写真がきっかけで崩壊してしまう2つの家族を描いた上流階級淪落もの。あるいは、寺山修司「トマトケチャップ皇帝」のようなエロ・アート映画。「性的に苛められるシャム双生児」とか「盲の令夫人」とか「ノスフェラトゥのような禿頭の(悪漢の)助手」とか「悪漢と通じている(メイド服の)メイド」などといういかにもなイメージがてんこ盛り。着色モノクロ。ナレーションはすべて無声映画のような字幕画面で示される。そのすじ(どのすじ?)の皆さんにお勧めする。 ● ジェレミー・アイアンズのように邪悪な顔をしたエロ写真家にセルゲイ・マコヴェツキー。まったく手入れをしてない陰毛もあらわにエロ・モデルに堕とされてしまうヒロインは、なんとカネフスキーの「動くな、死ね、甦れ!」「ひとりで生きる」の“守護天使”ディナラ・ドルカロワ。なんだ最初に言ってくれれば有難味ってものが…あ、いや。<てゆーか、あんた人間失格。

★ ★ ★
小さな目撃者(ディック・マース)

製作・脚本・音楽:ディック・マース
予告篇を観ていて「アムステルダムを舞台にした追っかけアクション映画」といえば「アムステルダム無情」AMSTERDAMNED/1987/ビデオ題「アムステルダム 怒りの追撃」)という傑作があったなあ…と思ったら、なんだおんなじ監督じゃないか。「アメリカからホテルに着いたばっかの唖(おし)の女の子が殺人現場を目撃。悪いおじさんに追われてアムステルダム中を逃げまわる」という、ただ それだけの話。1時間40分。ハリウッド映画なら「ショックで唖になってたヒロインが絶体絶命の危機に“パパーッ”と叫ぶ」というクライマックスを用意するところだが、この監督はそんな“余計なドラマ”にはまったく興味がない。でも、アクション映画はそれでいいのだ。(たぶん地元警察全面協力と思われる)クレーンを駆使してのアムステルダム縦横無尽なロケは地元監督ならではだろう。ヒロインの少女にフランチェスカ・ブラウン。最後の最後まで何もしない(ちょっと娘に無理解な仕事人間の)お父さんにウィリアム・ハート。娘想いの(でも、あいかわらず声はやかましい)お母さんにジェニファー・ティリー。運河に浮かぶボートで寝起きしてるヤク中の浮浪者にデニス・リアリー。

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ぼくの国、パパの国(ダミアン・オドネル)

原作戯曲&脚色:アユーブ・カーン=ディン
1971年。イギリスはマンチェスターの長屋に住むパキスタン移民の頑固親父とイギリス人の母ちゃんと息子6人・娘1人の7人兄弟のてんやわんやを描いた人情喜劇。話の軸となるのは、なんでもパキスタン/モスリム流にさせようとする寺内貫太郎のような親父と、ビールも飲めばベーコンも食べるマンチェスターっ子の子どもたちの対立。たまたま此処では頑固親父が「パキスタン移民」という設定だけれど、描かれている物語は森繁久弥や小林桂樹が主演するような昔ながらのホームドラマである。歳の離れた(ちょっと変わり者の)末っ子の坊やの視点で進行するのもセオリーどおり。とりたてて新しいところもトンガったところもないが最初っから最後までニコニコして観ていられる。まあ、息子とパキスタン女の縁談を強引に進めようとする頑固親父が「自身なぜイギリス女と結婚したのか?」を描かないのは作者の怠慢だし、ラストシーンでは いちばん反抗的だった息子は やはり家を出て行くべきで、そこに親父がためらいながらも「がんばれよ」と声をかける(あるいは黙って見つめあう)というのが定石だと思うけど。あと、家族でパキスタン人街に映画を観に行く場面があって(こないだ観たばっかの)グル・ダットの「十四夜の月」が上映されてた(おお、シンクロニシティだ) てゆーか、この親父、あれだけインドを敵視してるくせに、映画はいいのか映画は?(ま、映画の魅力は宗教対立を超越するってことですな)

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24時間4万回の奇跡(ブノワ・マリアージュ)

なんだ、少女映画なんじゃないの。そうと知ってればもっと早く観に…あ、いや。 ● ベルギー映画。「24時間にドア開け閉め41,828回」の世界記録に挑む親子の話・・・ではなくて、…いや、ドア開閉記録に挑戦する話は出てくるんだけど、それはエピソードのひとつでしかなくて、それにしたって世界選手権とかじゃなく町内会の「なんでもギネスに挑戦コンテスト」みたいなやつで、たんに賞品の自家用車めあてで親父が息子に挑戦させてるに過ぎなくて「記録達成のサスペンスと興奮」なんてものは端からまったく意図されておらず、つまりはこれ、世の中からちょっとズレた人たちばかりが出てくるイギリス田舎町コメディの新作なのである。モノクロの画面にとらえられた寂れた炭坑町(?)を丘の上から見下ろすショットは、まるで筑豊の町のよう。これは、わびしさが胸に染みるコメディ調の「動くな、死ね、甦れ!」だ。<そうかあ? ● 地方新聞社の雇われ記者 兼 カメラマンをしてる、どうしようもなく自己中心的な親父に(ベルギー映画「ありふれた事件」の監督・脚本・主演をつとめた)ブノワ・ポールブールド。お父さんの原付バイクの後ろにちょこんと乗っかって、なぜか取材現場に付いていく(視点的主人公である)女の子に正統的美少女モルガーヌ・シモンちゃん(バトンガールの衣裳も可愛い) ハト気狂いの伊藤雄之助みたいな顔の隣人(ほんとはいい人)にフィリップ・グラン=アンリ。監督のブノワ・マリアージュはドキュメンタリー界の人で本作が初の長篇劇映画。

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フォーリン・フィールズ(アーゲ・レイス)[キネコ作品]

デンマーク映画。タイトルは「FALLIN' FIELDS」じゃなくて「FOREIGN FIELDS(異国の戦場)」ね。デンマーク人の若者が国連の平和維持軍に志願してボスニアに赴任する。任務にもようやく慣れたころ、射撃の腕前に目をつけた外人部隊あがりのベテラン軍曹に「ちょっとしたバイトをしないか」と声をかけられる…。戦場の真実を告発する社会派ドラマ・・・ではなくて、アイス・T/ルトガー・ハウアーの「サバイビング・ゲーム」(1994)と同ジャンルの殺人サバイバル・ゲームものである。国連軍の兵士が[小遣い稼ぎにアメリカのリッチなミリタリー・マニアあたりを対象に「セルビア人農家 襲撃ツアー」のガイド]をするって設定がほんとにありそうで怖い。主人公は(「ペレ」の坊やが成長して立派に青年になった)ペレ・ベネゴー。ベテラン軍曹には「モルグ」のニコライ・ユスター=ワルドー。「タクシー・ドライバー」の頃のロバート・デ・ニーロを彷彿とさせるギラギラした魅力を発散している。ミリタリーおたくの客に「太陽の誘い」のアメリカかぶれ青年ヨハン・ワイデルベルク。監督はドキュメンタリー出身の新鋭。脚本のイエンス・ダールはハードコアなドラッグ・サスペンス「プッシャー」の人。なんかデンマーク映画界じゃどうやっても「ケビン・ベーコン ゲーム」は2人以上は行かない気がするなあ。てゆーか、ラース・フォン・トリアーといい、デンマークって国にゃフィルムはないのかフィルムは!

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デルフィーヌの場合(ジャン=ピエール・アメリス)

アルプスの山裾(すそ)にあるフランスの地方都市グルノーブルに住む奥手の中学3年生デルフィーヌが、転校生の不良少女と親友になって大人の世界に足を踏み入れ、やがて初めての恋に身を焦がす。まだ15才の少女にとってはその恋が世界のすべてで、だから同い歳のカレシから「公園のトイレで童貞少年のちんぽを1本くわえて50フラン。400本のちんぽを咥えたら2万フランになる。その金で2人してこんな田舎町を捨ててジャマイカに行こう」と言われたときにも、ほかの選択肢は考えられなかった…。 ● 原題は「悪いつきあい」。“衝撃的な実話”の映画化だが、それをことさら煽情的にスキャンダラスに描くのではなく、引っ込み思案だったひとりの少女が「初めての恋」を通して強くなっていく姿を描くまっとうな青春映画になっている。何より映画にリアリティを与えているのは、これが映画初出演だという(撮影時16才の)モード・フォルジェの好演である。ミニモニにはいれるくらい小っちゃな、モロお子ちゃまとして登場して――初体験のシーンで見せる幼い乳房は、なにかイケナイものを観てるような気にさせるほど――それが恋を知ることにより、それまでは親に寄生虫検査の結果すら言い出せなかった少女が、どんどん逞しくなっていく。もちろん彼女がこんなにも強くいられるのはこれ1回きりのことだろう。次の恋ではもっと臆病に(=大人に)なっているかもしれない。その、だれもが1度だけ経験する輝きを身にまとっているからこそ、少女は「穢れる」とか「堕ちる」といった通俗的な概念と無縁でいられるのだ。 ● 東京での上映は新宿のシネマ・カリテだけなんだけど、これは渋谷あたりの女子高生(および元・コギャルな皆さん)に観せたほうが共感が得られそうな気がするなあ。…おれ? おれはもちろん、ヒロインを映画に誘っても好きな映画のことばかり一方的にベラベラ喋ってカノジョを退屈させたあげく「ねえ、○○クン、デートしたことある?」とか聞かれてしまう(←これがデートだってば!映画おたくの情けない男友だちに感情移入して観てるわけで、そんな○○クンだからヒロインの試練に“救い”の手を差し伸べられるはずもなく…って、なんかチクチクするなあ(火暴) ● 悩み多きティーンエイジャーの顔の蔭で、ヒロインを利用する生来のジゴロ体質なカレシに、ちょいジョニー・デップ似のロバンソン・ステヴナン。ヒロインと固い絆で結ばれる不良少女に、ジェーン・バーキンの娘の(てことはシャルロット・ゲンズブールのタネ違いの妹の)ルー・ドワイヨン。…しかし、なにも公園の汚い公衆便所なんか使わなくても。<そーゆー問題じゃありません。てゆーか、50フランて、たったの850円だぞ。850円で女子中学生にフェ…あ、いや。<あなた退場。

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楽園をください(アン・リー)

アン・リーが「グリーン・デスティニー」の1本前に撮った作品。南北戦争ものには違いないが、ここで描かれている若者たちは「グローリー」のデンゼル・ワシントンのように立派ではないし、また「パトリオット」のメル・ギブソンのように猛々しくもない。では何かと言えば、これは「新撰組」なのだ。長州人の父を持つ若者が、わけもわからず幼なじみの親友とともに新撰組に入隊する。はじめのうちは都でブイブイ言わせていたものの、だんだんと尊皇攘夷派に押され、ついには朝敵とされて江戸へ落ち延びる。そこで妻子を得たのを機に(五稜郭へは行かず)東北で百姓となって生きる決心をするまで。肩までのロンゲの若手美男俳優たちがコスプレで悲愴に切りむすぶ。もちろん観客は彼らが負ける運命にあるのを知っている。基本的に男だけの世界であり、女性は物語からも戦争からも除外されている(唯一の女性キャストは歳下の童貞を押し倒してさっさと“母親”になってしまう) 日本の少女漫画が原作って言われても驚かないぞ。だから「悪魔とともに往け」という原題の映画に「楽園をください」という「恋する惑星」以来のチカラワザ邦題を付けて やおい映画として売ったアスミック・エースは、ある意味で監督のアン・リーよりも正しくこの映画の本質を掴んでいると言える。…かもしれない。 ● 本来ならば敵方につくべき出自ゆえ仲間にうまく溶け込めない主人公を「ワンダー・ボーイズ」の大学生そのままの所在なげな風情で演じるのはトビー・マグワイア。眼光するどいヒゲモジャの土方歳三にジェームズ・カヴィーゼル<いい加減、ジムなのかジェームズなのかハッキリせい。虫けらのように人を殺せる冷酷な美男剣士・沖田総司を まんま「ベルベット・ゴールドマイン」な細身のパンツで腰くねらせて演じるのはジョナサン・リース・マイヤーズ! だって明らかに耽美ショットを撮ってませんか?>アン・リー。あと、カントリー・シンガーのジュエルが映画初出演して、まるで日本のグラビア・アイドルのような芸術的な乳首隠しのワザを見せる。そして本作で最も卓越した演技を披露するのは「シャフト」で中南米ギャングのボスを怪演したジェフリー・ライト(撮影はこっちが先なんだけど) 「友情ゆえに南軍ゲリラで戦う黒人奴隷」という役柄を、しごくまっとうに静かに演じて並みいる美男俳優たちを喰ってしまう。この人は近い将来かならずメジャー作品で準主役級の俳優になるね。 ● 鳴らしても決して「勇壮」にはしない(アトム・エゴヤン組の)マイケル・ダナの音楽と、スケール感あふれる(デビッド・リンチ組の)フレデリック・エルムズの撮影も素晴らしい。…まあ、だいぶCGマット画を使っては、いそうだが。

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わすれな草(イップ・カムハン)

「山豹」という通り名を持つ男がブラジルから30年ぶりに香港に戻ってきた。かつて自分を裏切り最愛の女を奪ったライバル「九紋龍」に復讐するために。山豹は、たまたま出会った威勢の良いチンピラ「煙仔」を殺しの助手にスカウトする…。UFO出身の監督&脚本家イップ・カムハン(葉錦鴻)の2作目。撮影とか音楽のつけ方は明らかに「ウォン・カーウァイ以降」の映画なのだが、香港映画ならではのベタなギャグも(弾けぬままに)そのまま共存していて、どうにもちぐはぐな印象は拭えない。途中で投げ出されたままで最後にちょっとだけ帳尻合わせをされるようなエピソードも多く、全体の構成も巧いとは言いがたい。だからおれも ★ ★ ★★ ★ のあいだを行ったり来たりしながら観てたんだが、あまりにもロマンティックなラストにヤラれてしまった。カメラが場末のカラオケ・ダンスクラブに入っていった瞬間に「おお、そう来るかあ」とラストシーンが見えてしまい、そうなればもう流れだす涙を止めようもない。歳月とともに色褪せる思い出の切なさを描いたメロドラマであり、また「生意気な若者がその若さゆえの思いあがりから、愚鈍な老いぼれに見える年輩者をバカにしつつ最後には固い絆で結ばれる」という「父と息子」パターンの系譜に連なる作品でもある。 ● 30年前に最愛の人からもらった「吸いさしの煙草(半支煙=原題)」を大事に煙草入れにしのばせている山豹を「部分カツラ」という禁断のギャグもくりだして熱演するのは、香港映画の体臭を体現する名脇役 エリック・ツァン。この人、じつは元・一流サッカー選手なんだけど、本篇では一瞬だけサッカーボールを蹴るファン・サービスもある。チンピラ・煙仔には「ハイティーン・ブギ」の頃のマッチ(近藤真彦)を彷彿とさせるようなピッカピカのアイドル、ニコラス・ツェー(謝霆鋒) 主人公の思い出のなかに登場する絶対の美女(ヒロイン)にスー・チー。いや、おれ、この女優さん好きだけど、でもスー・チーって「美人」かあ?(どっちかっつうとヒラメに似てると思うぞ) 回想のなかの山豹と九紋龍に「美少年の恋」のスティーブン・フォン(馮徳倫)とサム・リー。煙仔がひそかに想ってる、キリリと美しい婦警さんにケリー・チャン。煙仔の(元・娼婦の)母親にエレイン・ジン。町の軽食堂で昔の武勇伝ばっか してる親分にアンソニー・ウォン。本屋を経営してるヘンテコな女親分にサンドラ・ン(役名が「三妹姐」ってのは、やっぱり「古惑仔(欲望の街)」での“女人街の女親分”を意識してるんでしょうな)・・・と、けっこう豪華キャスト。 ● テレサ・テンの北京語版「時の流れに身をまかせ」が、主人公の想い出の歌として使われていてメロドラマ感を演出しているのだが、ここはやはり訳詞をつけてほしかったなあ。あと関係ないけど、ゴールデン・ハーベスト傘下のUFO製作なのにメディア・アジア配給なのは何故? 系列会社なのか?>ゴールデン・ハーベストとメディア・アジア。

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東京攻略(ジングル・マ)

香港では2000年の旧正月に公開された全篇“海外ロケ”のオールスター映画。ここでは(日本映画がNYロケをするような)憧れの視線込みで「東京ロケ」なわけだ。新宿のシネマミラノで観たんだけど、いきなり「ミラノ会館脇のトップ珈琲前の路地でトニー・レオンが大立ちまわりする」シーンから始まって臨場感満点:) そのあとも渋谷駅前のスクランブル交差点や有楽町の東京国際フォーラムの中庭などで迫力あるアクション・シーンが展開する。まあ、この辺りは香港流のゲリラ撮影かもしらんが、クライマックスの一大ボート・チェイス(ヘリ空撮あり)などはいくらなんでも当局の許可なしでは不可能だろうから、日本映画だってやろうと思えば東京を舞台にした大アクション映画は作れるはずなのだ。ただ誰もやろうとしないだけだ。事件のキーパーソンとなる謎の男を演じる仲村トオルや、神戸組6代目組長に扮した阿部寛を見てみろよ。メインストリームからアクション映画が絶えてしまった日本映画では、なかなか居場所を見つけられずにいる2人が まさに水を得た魚のようにイキイキとハジケてるじゃないか。もう、なんか口惜しくてしようがないぜ。 ● ベテラン・カメラマンであり、本作でも自身で撮影をしているジングル・マ(馬楚成)の監督3作目。アクション・シーンがMTVのイメージ映像のようだったデビュー作「ヴァーチャル・シャドー 幻影特攻」よりは改善されてるが、アクション演出で「観客の血を熱くさせる」地点には到達していない(てゆーかぜんぜん遠い) この人は2作目の「星願 あなたにもういちど」のようなラブ・ストーリーのほうが向いていると思うんだけどなあ。ストーリーが(香港映画の常ではあるが)けっこうイイカゲンなくせに、悪漢に襲われて着のみ着のままで逃げ出したケリー・チャンが翌朝「着替えを持ってたのか?」と訊かれて「今朝はやく起きて買ってきたの」と答えるなどという妙に律儀な説明台詞があったりして変。 ● 消えた婚約者を追って東京へやって来るヒロインに、日本語がますます達者なケリー・チャン。遠藤久美子、小沢真珠、森山祐子、そしてセシリア・チャン(!)といったキレイドコロを「チャーリーズ・エンジェル」みたいにはべらせてる探偵事務所の所長にトニー・レオン。つまり宍戸錠や千葉真一のラインだな。トニーだとちょっと不真面目さが足りない。レスリー・チャンとかレオン・カーフェイの感じ? 主人公の借金を取り立てるためにヒロインを追っかけてくる男にイーキン・チェン。「ケリー・チャンがトニーのほうばっか見てるのでヤキモキする」って役にはちょっとハンサムすぎる。これは陳小春かサム・リーの役でしょ。あと、大和武士がひさびさに破壊的なパンチ力を披露してる。 ● ちなみにこちらはメディア・アジア配給「君のいた永遠」の製作プロダクション「レッド・オン・レッド」の作品なのだが、本作はゴールデン・ハーベスト配給。うーん…。

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女帝(金澤克次)

ラーメン屋雑誌の雄「週刊漫画TIMES」で連載中の人気劇画の映画化。ひとことで言えば誇大妄想 成り上がりヤンキー漫画である。本宮ひろ志の極端なやつだな。いつか女の頂点に立って、金や権力で人を踏みにじる奴らを見返してやるんや!とかたく決意して「女として勝負するとき」のために二十歳の今日まで処女を後生大事にとってあるようなヒロインの目標とするところは(なにせヤンキーであるので)「銀座のNo.1ママになること」であり、ヒロインと純愛/同志愛を共有する「スケコマシやくざ」の野望は「日本の首領(ドン)になること」である。銀座のママさん…て「ずいぶんセッコイ頂点やなあ」という気がせんでもないが、こうした世界観と笑うしかないような御都合主義を受け入れられるのならば、力のこもった娯楽映画といえよう。おれも最初のうちは失笑/爆笑しつつ観ていたのだが、後半はドラマに引きこまれて「ヒロインとスケコマシやくざの警察署の廊下でのすれ違い」などというベタなラストシーンにはちょっとジーンとしてしまったよ(←バカ) なお、本作が扱うのは、ヒロインが十三(じゅうそう…東京だと上野/錦糸町あたり?)のスナックから出発してミナミのクラブで売り出すまで。まあ「立志篇」ちゅうとこやな。このぶんじゃ銀座進出は「女帝5」あたりか? ● ヒロインには(じつは途中まで鷲尾いさ子かと思ってた)小沢真珠。シャワーシーンすらないのはちょっとサービス不足では? ヒロインに本気で惚れてしまうスケコマシやくざに高知東生。まあ、これは地でやってるんだろうけど、人の良さが出ていてなかなか好演。誰が観ても回想シーンとわかるようにご丁寧にもまっ黄っ黄のフィルターを掛けられて登場する、ヒロインの母親に多岐川裕美。熊本の女だというのがえらくご自慢のようで、地元・熊本で経営するスナックの名前が「火の国」。「うちは火の国の女だっちゃね」というのが口癖で、じっさい多岐川裕美は4シーンに登場して4回ともこの台詞を言うのである(火暴) 「ミナミの妖怪」と呼ばれる実業界の大物に、顔半分に青痣メイクのミッキー・カーチス。ヒロインの処女をいただいておいて「あんたの覚悟しかと受けとめたで」って、そりゃずいぶん都合のよろしい理屈やなあ。ただのスケベじじいやおまへんか。ヒロインをイビりたおすミナミのクラブのNo.1ホステスに川嶋朋子。こちらは観客サービスも満点。それと共謀してヒロインを苛める(不幸な死を遂げたヒロインの母親の仇でもある)土木屋の社長に片桐竜次。もちろん最後にはヒロインにぎゃふんと言わせられるんだけど、きっとこの後もヒロインの勤める先々に片桐竜次があらわれては卑劣な嫌がらせや、しょうもない悪だくみをするんだろうなあ。で、そのたんびにヒロインに手痛いしっぺ返しを喰らって「憶えてやがれ小娘がぁ!」とか捨て台詞を残して次回に続く…と。そんな、水商売の小娘になんぞ構ってる間に商売に精出したらええんちゃう?なキャラなんだろうな、きっと。本作のアドバイザーを勤めている(なんかもう化け物のような)田村順子ママも出てくる。 ● 監督はにっかつロマンポルノ最終番組「ラブ・ゲームは終わらない」で監督デビューして、その年の「首都高速トライアル」でアテた金澤克次。脚本はピンク映画出身で近年はすっかりゲーム業界の人だった吉本昌弘。にっかつ末期のプロデューサー半沢浩が製作して、「受験慰安婦」で監督デビューしてオムニバス「ザッツ・ロマンポルノ 女神たちの微笑み」でロマンポルノの幕引きを任された児玉高史がライン・プロデューサーをつとめるという旧日活系のプロダクション。ああもうツッコミどころ満載でついつい長くなっちゃうなあ。あとひとつだけ。「ミナミの盛り場で楽しいデート」というモンタージュに「かに道楽の看板の真似」と「太鼓叩いとるおっちゃんの人形の真似」は禁止な。


ダンサー・イン・ザ・ダーク(ラース・フォン・トリアー)[キネコ作品]

[注]このレビュウにはネタバレが含まれています。 ● まず、おれの立場を明らかにしておくと、おれは「ハリウッド映画」が大好きで、過去のトリアー作品は「エレメント・オプ・クライム」好き(でも初見時は寝た)、「エピデミック」寝た、「ヨーロッパ」好き(でもちょっと寝た)、「キングダム(1・2)」退屈、「〃(3・4)」観てない、「奇蹟の海」大嫌い…である。だから、これほど大ヒットして評判にならなかったら、そもそも「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は観に行かなかったかもしれない。 ● で、観てみての評価だが・・・なんで誰もこれを底抜けミュージカルだと教えてくれなかったの? 「泣かせる衝撃作」とか言って、みんなでおれのこと騙してさ。だって笑うでしょう。ヒロインが警官を殺していきなり歌い出すんだよ? 死体がむくっと起きあがって「♪ぼくのことはいいから早くお逃げ〜」とか血まみれの顔で歌い踊るんだよ? そしたら息子が外でチャリンコでぐるぐる廻りながら「♪母さんは悪くな〜い。母さんは仕方な〜くやっただけ〜」とか歌うんだよ? 自分が死刑になるかもしれない裁判でいきなり踊り出すんだよ? 死刑台で首に縄かけられていきなり歌い出すんだよ?(そりゃおれが官吏でも困るわな、そんな死刑囚) こーゆー「場ちがいミュージカル」って植木等やモンティ・パイソンやサウス・パークの得意技じゃないっすか(娯楽作品としての完成度は天と地ほど違うけど) おれ、後半は椅子の上でのたうちまわったよ。もうなんかドラマが深刻になればなるほど「来るか? 来るか? …来たぁ!」って感じでさ。ラストなんか絶対「死体から小水がポタッポタッポタッと垂れてきてそのリズムをキューに立会席のドヌーブやらピーター・ストーメアやらが歌って踊って、ついでにぶら下がってるヒロインも目を開けて両手を広げて『ショウ・マスト・ゴー・オン』を歌いあげて、首縄でぶらんぶらんと揺れてるヒロインがニッコリ笑って、その下に周りの人たちが寄って来てヒロインに向かって両手をひらひらさせてグランドフィナーレ」だと思ってたんだけどなあ。ただ、あれだねラー君、そのためにワザと不快に演出した前半部分のヒキが1時間半もあるのはいくらなんでも引っぱり過ぎ。これじゃ笑う前にお客さんが帰っちゃうよ。それと君がアメリカを大嫌いなのはよぉく判ったし、その「反吐が出るアメリカの日常」を小汚いデジタルカメラ画面で撮るのは理解できるけど、それだったらミュージカル場面は思いっきり綺麗に撮らなきゃ。美しいものを描こうとしてるのになぜ美しく描かないのか。タップダンスの足元を映さないようなカメラワークは「芸術家(美しいものを作る人)に対する冒涜」ですらある。 ● ヒロインはありゃ「無垢」なんじゃなくて「バカ」なだけだ。共感できる出来ない以前の問題として、ああいう人は母親になっちゃいかんと思う。カトリーヌ・ドヌーブは誰が見てもミスキャストだし、元「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」のヒロインとしてはトリアーのミュージカルの撮り方を見た時点で敢然とセットを立ち去るべきだった。あれだけのベテランになってなおレオス・カラックスの映画に出て裸身を晒したり、トリアーに「わたしの名はカトリーヌ・ドヌーブです。女優です。端役でもいいですからぜひあなたの映画に使ってください」などという手紙を書いたりする姿勢は偉いと思うけど。デビッド・モースはトリアーに付きあい過ぎ。ピーター・ストーメア程度に軽く演じてちょうど良いのだ。 ● あと公開前に映画館で上映してたビョークの「わたしはみんな見た」のプロモビデオ風予告篇って本篇そのまんま観せてるだけじゃねえか。ザけんなよ>松竹宣伝部。

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ホテル・スプレンディッド(テレンス・グロス)

イギリスの曇天と鉛色の海に閉ざされた北の孤島のホテルに1人の女料理人がやってきて、抑圧されて生気を失った長期逗留客たちを、愛と性とスパイスの効いたイタリア料理で解放する…という話。つまり、ハリー・クレッシングの小説「料理人」の逆パターン。もっともストーリーはハッピーエンドだが映画の味わいそのものは、スティングが奇妙な執事を演じた「グロテスク」によく似たホラー風味グロテスクスカトロ自虐的ブラック・コメディである。たとえばジュネ&カロの「デリカテッセン」のようにストレートに奇妙ではないので、イギリス人のようにヒネくれてない日本人には一般受けしないだろう。おれなんか観終わるころにはすっかりイギリス人のメンタリティになっていて、首をひねりつつ帰っていくOLをニヤニヤ眺めては「ほうら、つまらないだろ」とか悦に入ってたり<なんだかなあ。これがデビュー作となる監督・脚本のテレンス・グロスはテリー・ギリアムの大ファンだという。なるほど逗留客の脱糞から発生するメタンガスを燃料とするボイラーシステムが臭気ただよう蒸気を噴き出しながら、館内のいたるところにスチームパイプを張りめぐらす様など「未来世紀ブラジル」に通じる部分があるかも。女料理人に、笑顔の素晴らしいトニ・コレット(濡れ場ヌードあり) マーク・シャンツの音楽も秀逸。

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二人の短い物語 ニューヨークの片隅で(マシュー・ハリソン)

NYインディーズの新人マシュー・ハリソンが製作・監督・脚本・編集した2本目の自主映画。モノクロ16ミリ。88分。フィルム・フォー社が買いあげて35ミリにブローアップして配給された。本作を観て気に入ったNYの大親分マーティン・スコセッシがプロデュースを買って出たのが(日本では先に公開された)「ステューピッド・イン・ニューヨーク」…ということになる。 ● 主人公は組に属さない独立独歩のチンピラ。マンハッタンからロングアイランド鉄道で1時間ちょっとのマスティックって町(東京でいえば木更津あたりか)から、独りで大都会ニューヨークにやって来て、インディーズ・バンドのブートレグ・テープを路上で売りさばいて生業にしてる。たいした売上げになるわけじゃない。昼飯はダイナーでホットドッグ。夜は殺風景なアパートに帰って、黒猫にキャットフードの缶を開けてやってから、酒を飲みつつテープ・コピーをする。判で押したような毎日。他人とのつきあいは無い。だって、おれの周りは得体の知れないデンパを受信してるようなイカれた奴らばかりだから。ただヤルためだけに通ってくるOLがいるが、べつに恋人ってわけじゃない。そんなとき木更津から、おふくろの死の報せを持って幼なじみの女(情緒不安定で入院歴あり)が上京する。だが一方で、タトゥー&皮ジャン系バンドのおアニイさんたちが、不届きなブートレグ売りを血祭りにあげようと捜しまわっていることを、おれはまだ知らなかった…。 ● チンピラの せつないラブストーリーという、わかり易いジャンル映画であるぶんだけ おれはこっちのほうが好みだな。モノクロ自主映画だけどちゃんと濡れ場もあるし(←結局そこかい!) タフなチンピラには「ブギー・ナイツ」のリムジン運転手とか「マグノリア」のドク(って何の役?)をやってたジェイソン・アンドリュース。幼なじみの彼女にエディ・ダニエルズ。セックスフレンドのOLにキンバリー・フリン。主人公にすりよってくるボンクラな弟分に(「ステューピッド・イン・ニューヨーク」で主役をやってた)ケビン・コリガンが扮している。


異邦人たち(スタンリー・クァン)

フジテレビとポニーキャニオンの肝煎で始まった「Y2Kプロジェクト」が岩井俊二が日和ってポシャった後に(…って、勝手に既成事実にしてるけど)その副産物として産まれたのが、イッセー尾形が出演して日本ロケがあるエドワード・ヤンの「ヤンヤン 夏の想い出」と、大沢たかお&桃井かおりが出演するスタンリー・クァン(關錦鵬)の本作という次第。いや、まあ半分以上うつらうつらしてたので星は付けないけど・・・舐めとんのんか こら!>スタンリー・クァン。疫病の発生で隔離された小島を舞台に、大沢・桃井に加えて、ミッシェル・リー、スー・チー、「ホーク B計画」のチャン・チーラム、エレイン・ジン(「宋家の三姉妹」のお母さん)らが好き勝手な独り言をつぶやいて、そこに大沢たかおの意味不明なモノローグがかぶさるという代物。疫病感染のサスペンスとかは期待するだけ無駄。ここには(通常の意味での)ドラマは存在せず、ただ(何のために凝ったのかわからない)凝った映像が1時間45分のあいだ垂れ流されるという、物語主義者である おれのいちばん苦手なタイプの映画である(…いや観たのはそのうち45分ぐらいだけどさ) 桃井かおりは台詞が英語でもいつもの口調だということがわかったが、そんなこと知ったって嬉しくない。原題は「有時跳舞 THE ISLAND TALES

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サディスティック&マゾヒスティック(中田秀夫)[キネコ作品]

小沼勝をテーマに「サディスティック&マゾヒスティック」というタイトルのドキュメンタリーを作るのに、原作者の団鬼六と「花と蛇」「生贄婦人」の脚本家・田中陽造に話を聞かないってのは、なに考えてんだろ? それほどヒドい出来ってわけでもないが「小沼勝」論としても「ロマンポルノ」論としても突っ込みが足りないし、ロマンポルノを同時代で観てきた観客にとっては、とりたてて新しい発見もないので観る価値はないだろう。小沼勝レトロスペクティブのサブテキストとしては妥当なのかもしらんが、実際問題これを観る時間と金があるなら小沼勝の映画を1本でも多く観るほうが、よほど小沼勝について理解できるし、何より「映画を見る愉しみ」に浸れるってもんだ。インタビューには谷ナオミ・片桐夕子・小川亜沙美・風祭ゆき・木築沙絵子らが出演。

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背信の行方(マシュー・ワーカス)

サム・シェパードの三幕芝居の映画化。過去の悪事を共有する2人の男と1人の女――競馬界の若き大立者。脅迫。靴箱の中の写真。アル中の富豪夫人。華やかな表舞台ケンタッキー・ダービー。名前を変えた男――過去の亡霊がよみがえり現在が過去に飲み込まれていく…という典型的なフィルム・ノワールのプロットなのだが、ドラマを面白くするはずの様々な要素が驚くほどバラバラのままで投げ出されていて、それらは最後まで焦点を結ばない。観客の興味の炎を絶やさぬ薪となるべき「秘密」――登場人物すべての運命を狂わせる原因となる――にしても親切すぎる回想シーンのおかげで観客には容易に類推できてしまうだろうし、そもそもヒロインにシャロン・ストーンがキャスティングされてるって時点でネタバレな気も。もう1人のヒロインたるキャスリーン・キーナーが何のために出てくるんだかよくわからないのは、おれのアタマが悪いのか?(←そんなことこれっぽっちも思ってないくせに) ● 原題の「SIMPATICO」とは主人公の所有するサラブレッドの名前であり、また「気の合う」とか「似た者同士の」といった意味の形容詞でもある。「人生の成功者」として登場する主人公にジェフ・ブリッジス。「敗残者」そして「復讐者」として登場するもうひとりの主人公にノック・ノルティ。開巻1時間も経ってやっと登場したかと思うと杉村春子ばりの“熱演”で観客を呆然とさせるヒロインにシャロン・ストーン。競馬コミッショナーに手練れアルバート・フィニー。田舎のスーパーのレジ係に、独特な不定形の魅力をみせるキャスリーン・キーナー。…と、これだけ芝居巧者を揃えても相手役との化学反応が起きないのでは映画としては失敗作。1994年にサム・シェパード自身の演出で、オフ・ブロードウェイで初演されたときのエド・ハリス、フレッド・ウォード、ビバリー・ダンジェロというアンサンブルも観てみたかったなあ。

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BRUCE LEE in G.O.D 死亡的遊戯(大串利一)

おれはジャッキー・チェンから香港映画に入った者なので、ブルース・リーには何の思い入れもない。今日に至るまで「死亡遊戯」も観ていないのだ。そのような者には本作を評価する資格がないと思うので★は付けないでおく。日本側の製作者たちの熱意は疑いようもないし、後半のアクション・シーンはファンには宝だろう。だが、それ以外の者は観る必要のない作品である。貶してるわけではないよ。特定の観客と幸福な出会いをした映画…だということだ。 ● しかしこの大串利一という御仁、(前半はともかく)後半はブルース・リーの撮った素材をブルース・リーの意図に沿って繋いで音を付けただけなのに堂々と「監督」とクレジットしちゃっていいもんなんだろうか? それとエンディングにNGシーンが付いてるんだけど「ブルース・リーのNGシーン」ってちょっと衝撃的じゃない? いやもちろん映画だからNGがあって当たり前なんだけど「…あ、演技なのか」とか「格闘にも段取りがあるわけか」とか理不尽な落胆をしたりしないのかな?>ファンの人。それってAVでヌイた後で(モザイクが外されて)ゴムフェラしかも擬似ホンバンだったって知らされるよーなもんじゃない?

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ファットマン(ガブリエル・ニッコロ・ボローニャ)

六本木の俳優座のレイトショーで観たんだけど、あやうく「観客1人だけ」状態になりそうでスゲーあせった。いくら図太いおれでも「1人だけの客」じゃ途中退場しにくいもんなあ(けっきょく予告篇をやってるときに2、3人入ってきたし、映画も面白かったので杞憂だったんだけどさ) ● ハワード・ドロッシンの甘やかなメロディがアンジェロ・バダラメンティを想起させることもあって、表面的には「ツイン・ピークス」に似てるといえば通じやすいだろうか。舞台はアリゾナの田舎町。ヒロインは2人の子持ちのブロンド主婦。プロムクイーンと もてはやされた頃の夢を忘れられなくって、地元のカウボーイ・バーで酔客相手に下手なマリリン・モンローの物真似をやったりしてる。関電工に勤めてる亭主は優しい人だが、自分よりも子どもの相手ばかりするのに嫉妬して「あたしと子ども、どっちを愛してる?」とか聞いたり。亭主に飽き足らず、流れ者の男と浮気していて、愛人の前では「暴力亭主に苦しめられている人妻」という悲劇のヒロインを演じてる、そんな女。そして「事件」は起こった…。 ● ミステリーの形式を採ってはいるが、観客の目には犯人は明らかであり、この映画の本当の主役は別にある。それはテレビから怪しげな商品を売りつけるテレショッピングだったり、町にまともなレストランが「ビリー・ボブズ・バーガーズ」という大手チェーン1軒きりという「田舎町の実情」だったり、長年の勤続のはてに不景気で解雇された白人男性であったり、ヒロインの母親がせっせと溜めこんでいる(新聞折り込みチラシに付いてる)チョコチップ・クッキーの割引クーポンだったり、「コマーシャリズムが文化を呑み込んだとき、モラルは消滅する」と説く「THE THEORY OF THE LEISURE CLASS有閑階級の理論=原題)」という、19世紀末の経済学者が書いた実在する1冊の本だったりする。その意味で本作は「アメリカの悲劇」を描いたアーサー・ミラーやサム・シェパードの末裔であるとも言えるだろう。ベン・スティラー「アメリカの災難」や、ガス・ヴァン・サント「誘う女」「わたしが美しくなった100の秘密」が好きだという人にお勧め。 ● 完全なインディーズのプロダクション(IMDbにも載ってない!) ヒロインを演じている「ザ・ドリームマスター 最後の反撃(エルム街の悪夢4)」のチューズデイ・ナイトが、監督のガブリエル・ニッコロ・ボローニャの前作「THE ELEVATOR」に惚れこんで「ぜひ、あたしの映画を撮ってくれ」と頼みこんだら「なら、脚本 持って来な」と言われて、知り合いの二十歳の小娘(アンバー・ベンソン)に書かせたストーリーが元になっている。親子3代のカウボーイの刑事に(ウィレム・デフォーに声とキャラがそっくりな)「ロスト・ハイウェイ」のマイケル・マッシー。ヒロインに惚れてるカウボーイ・バーのオーナー/バーテンのレズ女に(監督のパートナーでプロデューサーも兼任してる)アテナ・ステンランド。白人客ばかりのカウボーイ・バーの用心棒に(フォレスト・ウィテカーの、たぶん弟の)ケン・ウィテカー。ヒロインのひねくれ者の弟の役でなぜかブラッド・レンフロが出ている。ちなみにタイトルの「ファットマン」とは「ビリー・ボブズ・バーガーズ」チェーンでプレゼントしてるキャラクター人形の名前。

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ギプス(塩田明彦)[ビデオ上映]

6人の監督がデジタルビデオ作品を競作する「ラブシネマ」シリーズの第5弾は、期待の新人・塩田明彦の3作目。「月光の囁き」に続いてまた「女王様」ネタである。しかも「眼帯」の次は「ギプス」だ。塩田明彦ってば真性の欠損フェチか?(フェチってわりには全然ネットリしてないんだけど) ● ヒロインはこの春、大学を卒業したばかり。地味ぃな性格で、バイト先でもついつい苛められてしまう「裕木奈江タイプ」の22才。そんな彼女がある日、ご主人様と奴隷がどちらからともなく惹き合うようにギプス姿の女王様に出逢って…という心理サスペンス(残念ながら「エロティック・サスペンス」ではない) その後の話の展開はSMポルノを見慣れた者(=おれ)には目新しいものではない。 ● 監督の熱烈なラブコールに応えて女王様を演じるのは佐伯日菜子。相変わらずの「眼力」を発してはいるが、出逢いがしらにいきなり言うことを聞かせてしまうという設定に説得力を持たせるまでには至っていない。てゆーか、本作のように「女優の魅力にすべてがかかっている」類の映画を、ろくに表情も見分けられないデジタルビデオで撮影するという前提からして間違ってるでしょ。意志薄弱なヒロインには「萌の朱雀」「ユリイカ」(←どっちも観てないや)の尾野真千子。塩田明彦は次回作に唖の女優・忍足(おしだり)亜希子を使ったりするとエロティックでいいかも。

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春香伝(イム・グォンテク)

パンソリとはつまり日本の「浪曲」である。いや「…に類似してる」とか「…のようなもの」というレベルではない。パンソリと浪曲は同じものなのだ。ひとつの概念をそれぞれの国の言葉で言いあらわしているに過ぎない(河内音頭なんてのもかなりの近親て気がする) で、この映画は、パンソリの故郷「全羅道」出身のイム・グォンテク(林權澤)がパンソリの代表曲を映画化したもの。パンソリのステージを撮影して、人間国宝による絶唱を全篇にフィーチャー。これが歌舞伎における浄瑠璃節の役割を果たしている。つまりマキノ正博/広沢虎造の「次郎長三国志」の極端なやつだな。 ● ストーリーは「代官の息子と芸妓の娘の恋」に「やむを得ぬが別れ」が訪れて「悪代官の横恋慕」があり「公儀隠密の帰還」でスカッとしめる…という、つまり「ロミオとジュリエット」+「遠山の金さん」だな。近作が「祝祭」「太白山脈」「風の丘を越えて 西便制」なので皆さんお忘れかもしらんが、イム・グォンテクといえば「アダダ」「シバジ」「ハラギャティ」の文芸エロスの巨匠である。とうぜん今回もヒロインの濡れ場ヌードあり。しかもこのイ・ヒョジョンという新人女優、16才の現役高校生なのだそうだ。おおおぅ。<なにが「おおおぅ」なんだか…。 ● なお、日本公開されているのは14分カットされた120分の短縮版。


ペイ・フォワード 可能の王国(ミミ・レダー)

「ペイ・フォワード」とは「自分が受けた無償の親切を第三者に“先送り”する」こと。オーケー、じゃあここで ぼくからみんなへのペイ・フォワードを受け取ってくれ>「この映画は観ると不快な気分になるから観ないほうがいいよ」 ● 「社会を良くするためにあなたは何が出来るのか?」という社会科の宿題に対して、11才の少年が思いついた「ペイ・フォワード運動」の善意の輪がどんどん広まっていく、という話。…ヤな話だねどうも。まさかこのまんまストレートに話が進むわけじゃないよなあ。何かヒネリとかあるんだよなあ、と思ってるとほんとに最後まで何のヒネリも衒(てら)いもないまま進んでいく。おいおい、これで「フィールド・オブ・ドリームス」みたいな終わり方したら怒るよ おれは、と思ってると、まさしく「フィールド・オブ・ドリームス」以外の何ものでもないエンディングがやってくるのである。カメラがパンして[ヘッドライトの列]が見えたときは椅子からコケたよ。だがそれが星1つの理由ではない。おれがどうしてもこの映画を許せないのは「そのほうが悲しいかも」という以外に何の必然性もなく最後に[11才の少年を殺して]しまうことだ。この話の[主人公を殺さ]なければならない必然性がどこにある? これでは映画のメッセージ自体が「人に親切にするとロクな事がない」というものになってしまうではないか。七生報国かっての<喩えが古すぎ。「物語りのためには何をやってもいい」というのは作家の傲慢である。 ● 「アメリカン・ビューティー」でアカデミー賞受賞のケビン・スペイシーと「恋愛小説家」でアカデミー賞受賞のヘレン・ハントの共演。だが驚くなかれ、この映画で他を圧するスター・パワーを発揮するのはハーレイ・ジョエル・オスメント君なのである。「シックス・センス」のとき同様に、画面に登場した瞬間に観客の心をがっちりグリップしてしまう。この坊やが紛れもないスターである証しだ。こんな健気な子に、目に涙を溜めて「おねがい…」などと頼まれて断れる者がいるものか。いやほんと「おじさんの命ぐらい好きに使って」ぐらい言ってしまいそうで怖いわ。<そりゃちょっとアブない。共演陣では、浮浪者を演じたジム・カヴィーゼル(ジェームズ・カヴィーゼル表記)が素晴らしい。ハリウッド映画にはめずらしく歯がきちんと汚ないのも偉いぞ。トーマス・ニューマンが「アメリカン・ビューティ」の変奏曲のようなテーマを書いている。

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ハムレット(マイケル・アルメレイダ)

またもシェイクスピアの“現代的な”アダプテーションの1作。2000年。ニューヨーク・シティ。デンマーク・コーポレーションの「王」であり「CEO」であった先王が急逝して、弟のクローディアスが新CEOに就任、同時に先王の妻だったガートルードと再婚する…という記者会見から始まる。先王の息子ハムレットはブロックバスター・ビデオの店内で「生きるべきか死ぬべきか」と悩み、エルシノア・ホテルの一室で復讐の計画を練る…。NYの近代的デザインを背景に手持ちカメラを多用して臨場感を狙う。想い出はビデオテープで再生され、先王の亡霊はセキュリティのモニター・カメラに現れ、(旅の一座の芝居の代わりに)ハムレットが自作した「既存の映画ビデオを勝手に継ぎはぎして独自の作品に仕上げたビデオ」(←日本のアニメでやってる人いるよね。こーゆーの何て言うの?)が上映される。 ● かように絵ヅラは徹底的に現代化されているのだが、台詞だけは依然としてシェイクスピアの書いたまま。つまり「汝」とか「そなた」とか言ってるのだ。ローゼンクランツとギルデンスターンはクラブ(註:→→→と発音)でハムレットに「ヘイ・メン、ワッツ・アップ?」とか言いそうな格好で近づいてきて、でも「マイ・ロード、ご機嫌はいかがですか」と丁寧に呼びかける。ディカプリオの「ロミオ+ジュリエット」やマッケラン卿の「リチャード三世」は、あれはあくまでも「架空の世界の時代劇」なのであれでOKなのだが、徹底して現代性を意識した本作に古語英語(に合わせて古臭く訳された字幕)というのは、あまりに違和感がありすぎてドラマに集中できなかった。おれはまだケネス・ブラナーの通し狂言「ハムレット」やメル・ギブソンのとかを観てるからストーリーを知ってたけど、初めて「ハムレット」に接するOLとかは何が何だかわかんないんじゃないか? ここまでやるんなら台詞/字幕も現代語に書き直しちゃえば良かったのに。 ● イーサン・ホークのハムレットは、まあ及第点か。オフィーリアに(レニー・ゼルウィガーみたいなお多福顔の)ジュリア・スタイルズ。「SAVE THE LAST DANCE」の予想外のヒットでNO.1マネーメイキング・ティーンエイジャーにのし上がったティーン・スターの日本初上陸だが、うーん、決して魅力的じゃないわけじゃないんだけど…。「現代的」と言いつつケネス・ブラナーが発明したハムレットとのベッドシーンもないしなあ(←またそれかい!) 威厳ある先王サム・シェパードと、お人好しの大臣ポローニアスを演じたビル・マーレーは適役。王妃ガートルードのダイアン・ヴェノーラが素晴らしい(=「ジャッカル」の顔傷ロシア警部とか、「インサイダー」のラッセル・クロウの奥さんね) 決闘の場で王妃が[毒杯をそれと知りつつ息子を救う/自らの罪をあがなうために飲み干す]ってのは新解釈だよな(おれが不勉強なだけ?) 監督・脚色は退屈な「メビウス」のマイケル・アルメレイダ。演出にリズムがないんだよ この人。[追記]「日本のアニメファンとかが勝手に編集したビデオ」は「Madビデオ」と称するらしい。

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マイ スウィート ガイズ(ロン・シェルトン)

タイトルバックは華やかなショウビジネスの聖地ラスガベガスの空撮。シーン#1)ベガスのモーテルの一室。両脇に娼婦をはべらせた黒人ボクサーが急性ヤク中で口からアワを吹いてる。 シーン#2)ベガスの路上。交通事故で大破したスポーツカー。相手ボクサーの死体が転がってる。 シーン#3)ロサンゼルスの場末のボクシング・ジムの電話が鳴る。ジムではウディ・ハレルソンとアントニオ・バンデラスが練習をしてる…。こうして冒頭わずか5分ほどの事情説明で、2人はラスベガスのマンダリン・ベイ・ホテルのリングへと呼び出される。マイク・タイソンの前座試合。全世界110局ネット。ゴングは今夜6時。ファイト・マネーは2万5千ドル。いつもツルんで練習したり酒を飲んだりケンカしたりしてる2人だが、闘うのはこれが初めて。勝者にはミドル級選手権への挑戦権。10年選手の落ち目ボクサーである2人にとって逃がしたら2度とないチャンスだ。飛行機代にもこと欠く2人は、バンデラスのカノジョで、ハレルソンの元カノジョでもあるロリータ・ダヴィドヴィッチを運転手代わりに、彼女のクルマでラスベガスへと向かう…。 ● 「さよならゲーム」「ハード・プレイ」「ティン・カップ」「タイ・カッブ」などスポーツ選手もの…とりわけ、やさぐれたスポーツ選手を描かせて比類なき力を発揮するロン・シェルトンの新作だが、あまり期待してもらっては困る。クルマでラスベガスへ行って、10ラウンドを闘って、その晩のうちに帰路につく。それだけの話だ。半分以上はその道中の話だが、とりたてて大した事件が起こるわけではない。試合に間に合うのか?というサスペンスもない。「ロッキー」みたいに練習もしないし生玉子も呑まない。涙、涙の、感動のクライマックスが用意されているわけでもない。何の変哲もない「バカな男たちと、バカな男たちが大好きな女」の話だ。ほんとならシャンテ・シネなんかじゃなくて日比谷映画あたりでかかって、観終わったら「ああ面白かった。さ、ビールでも飲もうぜ」と、そういう映画だ。バカ兄弟コメディ「したがる兄嫁」シリーズのファンにお勧めする。<ずいぶん狭いストライク・ゾーンやなあ。 ● バカ2人のバカぶりが素晴らしい。スペイン人でいまだに英語が下手でほんっとにバカなアントニオ・バンデラス。スキンヘッドの過激なキリスト信奉者で海千山千に見えてやっぱりバカなウディ・ハレルソン。そしてそんな2人をバカにしつつからかいつつも好きでしようがない、気風が良くってイイ女で、だけど目尻の皺は隠しようもない年齢の(ちょうど「さよならゲーム」のスーザン・サランドンみたいな)ロリータ・ダヴィドヴィッチ。途中から同乗するハタチのアジアン・ビッチにルーシー・リウ。短気でやくざなプロモーターにトム・サイズモア。原題は「PLAY IT TO THE BONE」…「骨の髄まで いてもーたれや!」ってな感じ?


処刑人(トロイ・ダフィー)

オーケー、認めよう。殺人は娯楽だ。映画にとって殺人(を含む暴力表現)はセックスや笑いや涙などとともに常に大きな売りもののひとつだ。ただ我々にはモラルというものがあるので、それに抵触しないようにと考え出されたのが「物語」である。「わーい、人を殺すのは楽しいな!」では観てるほうも居心地が悪いので「かれ/彼女には人を殺すだけの正当な理由がある」とか「殺さなければ殺されるので仕方なく殺すのだ」といった因果関係、あるいは「これだけ悪いやつなのだから殺されても仕方ない」とか「相手は人間じゃないのだから殺してもOK」といったエクスキューズが用意される。そうして初めて観客は安心して殺しの快感に酔えるわけである。それは(本作の劇中でも言及されている)「過剰自己防衛」映画の典型であるチャールズ・ブロンソンの「狼よさらば(デス・ウィッシュ)」シリーズにおいても例外ではない(最後のほうになるとブロンソンが強くなり過ぎて、ただの弱いもの苛めにしか見えなくなってくるんだけど、まあ、これは“B級アクションの愛嬌のうち”だろう) ● 「処刑人」はどうか。本作において“正義の処刑人”と“殺される悪人たち”の間には因果関係は一切ない。こいつら“悪人”だから殺す。それだけだ。“悪人”が悪いことをしてる(罪を犯す)場面すら描かれない。あの「シリアル・ママ」でさえ殺人の前には「『アニー』を観てる(しかもテープを巻き戻さない)」とか「秋になっても白い靴を履いてる」といった犯罪行為がきちんと描かれていたというのに! それでは「商業公開される娯楽映画」としては失格なのである。 ● え? 「面白ければいいじゃないか」って? あなた面白かったの? この駄作が? 洒落たつもりかしらんが肝心のアクションシーン(殺人場面)を分断して、FBI捜査官ウィレム・デフォーがベラベラ自分の推理をしゃべくる構成の、興奮のカケラもない代物だぜ。それにそもそも冒頭の30分は不要だろ。タランティーノやロバート・ロドリゲスがものすごいプロに思えてくるシロート映画。全米公開が中止になったのは高校乱射事件のせいなんかじゃなくて「つまらないから」でしょ。 ● 役者は良かった。「処刑人」コンビに、すっかりB級映画スターとなったショーン・パトリック・フラナリーと、たしかに将来有望と思わせる美貌のノーマン・リーダス。キレ者のFBI捜査官にキレまくってるウィレム・デフォー。<次回作は「スパイダー・マン」のグリーン・ゴブリンだ! おお、マフィアの中ボスにロン・“先細りちんぽ”・ジェレミー先生が。 ● あと江戸木純は自分の会社で配給する映画のチラシや予告篇に(もちろん“絶賛”の)コメントを出すときは「映画評論家」を名乗らないよーに。肩書きつけるんなら「配給会社 社長」でしょーが。そゆことしてると水野晴郎になっちゃうぞ。

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真・極道の妻たち 組長の亡霊(深作欣二)

岩下志摩が1998年の「決着」以来、3年ぶりに「極妻」に帰ってきた。本作とは別に、東映ビデオ製作による高島礼子 主演の新作も進められていて、今後は高島バージョンと岩下の「真・極妻」シリーズを並行して製作していく方針のようだ。冒頭の絢爛たる襲名披露のシーンに高島がゲスト出演するというお楽しみもあったりして、「バトル・ロワイアル」で当てた東映&深作、もうイケイケである。 ● タイトルからおわかりのように、なんと「ハムレット」の翻案である。「亡霊の出てくるやくざ映画」ってのは前代未聞ではないか。日大英文科でシェイクスピアを専攻したという笠原和夫の脚色。2時間20分。堂々の大作である。ストーリーは大筋「ハムレット」のとおりで「優柔不断な先代組長の実子(じっし)が、いつ根性きめて侠(おとこ)になれるか」を軸に進んでいく。笠原和夫が見事に大阪弁に移し変えたシェイクスピアのダイアローグの魅力と、初めて「極妻」のメガホンをとる深作欣二ならではのダイナミックな群像演出で、グングンと観客を惹きつけて放さない。で、また「ラース・フォン・トリアーがなんぼのもんじゃい」って勢いでカメラが揺れる揺れる! ● キャストも豪華で、関西随一の広域暴力団「伝馬組」の急逝した先代組長に、長門裕之。その「姐」にもちろん、岩下志摩。姐と再婚して2代目組長となった先代の弟「黒田靖男」に、津川雅彦。先代が年とってからの一粒種である実子に、村上淳。村上を「ぼん」と呼ぶ、津川の懐刀である若頭(かしら)、通称“ぼろ安”に、綿引勝彦。広島で修行中の かしらの息子に、的場浩司。その妹で村上の恋人に、柴咲コウ(どしゃぶりの中での壮絶なレイプシーンあり) 村上と固い信頼で結ばれた若衆頭「蓬来四朗」に、哀川翔。実子の首をつけ狙うブラジル人2世のヒットマン・コンビ「ローゼン倉津とギルデン須田」に、大杉漣と田口トモロヲ。終盤にちょろっと出てくる火葬場の係員に(特別出演の)ビートたけし と泉谷しげる。最後の最後に神戸の屋敷に乗り込んでくる「関東乗栄会」の本部長に、竹内力(ラストカットは哀川翔との睨みあい!) ただ、成田三樹夫が存命なら黒田の役に適任だったのにと、それだけが残念だ。 ● 「どないせえちゅうねん」が口癖だった村上淳が、震える手で拳銃に弾丸を詰めながら「こないなったら、こまいこと気にしとってもしゃあないわ。雀がおっ死ぬのもお天道さんの決めるこっちゃ。やらなあかんことはいまやりゃあ、もうやらんでええし。あとで言うとってもいつか来るこっちゃ。いまやらんでも、いつかやらなあかんねん。覚悟決めるこっちゃ。命がなんぼのもんじゃっちゅうねん。ええい、捨てたろやないかい。…構へんわい」と独白する場面。これにはグッと来た。そして、ここからが原作戯曲と違うところで、壮絶な銃撃戦の末、村上淳は的場浩司に殺されてしまう。ここに至ってついに津川の卑劣な悪だくみを悟った志摩姐さんが長ドスを抜いて的場を一太刀で斬り殺す。そして「夫」の津川にも刃を向ける「お、お、おどれ亭主にドス向けるんか!それでも極道の女房か!」「極道? …そんなもん知らんわ。わては(村上淳の冷たい骸(むくろ)をアゴで指して)その子の母親や」 くぅ〜っ、カッコイイぜ姐さん!(「『総長賭博』の二番煎じやんか」ってツッコミは禁止な。あと、岩下志摩で「極妻マクベス」もいけそうな気が。てゆーか、大阪弁と広島弁の区別がついてないぞ>おれ)

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