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m @ s t e r v i s i o n
Archives 2000 part 4
★★★★★=すばらしい ★★★★=とてもおもしろい ★★★=おもしろい ★★=つまらない ★=どうしようもない

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金髪の草原(犬童一心)

可愛いなあ>池脇千鶴ちゃん。いやほんとこの娘には幸せになってもらいたい…とか、もうおれなんか実の娘を見るような心持ちだね。だから役の上のこととはいえ「行きずりの男と一夜を共にした翌朝、寝坊に気付いて慌ててパンティを履く」などという場面があったりした日にゃあ「お父さんは許しませんよ!」とか座席でひとり激昂しちゃったりして。<バカ。 ● 原作は大島弓子が1983年「ぶーけ」に発表したファンタジー短篇。大島弓子の漫画からは今までにも小中和哉「四月怪談」や金子修介「毎日が夏休み」といった佳作が生まれているが、なにしろ「人間になれると信じてる猫を、少女の絵柄で描いた話」が代表作な人だから、そのまま実写にしたら「なんだよこれ?」と言われちゃいそうな話も多い。この「金髪の草原」など、まさにそうで「自分を二十歳と思いこんでる80才のボケ老人を“二十歳のハンサムな青年”の絵柄で描いた話」なのである。「二人が喋ってる。」の監督・脚本、そして「大阪物語」の脚本で知られる犬童一心は、果敢にもそれをそのままの設定で映画化するという賭けに出た。つまり現実の「若いハンサムな俳優」に80才のボケ老人を演じさせたわけだ。それもまだ「役者」とすら呼べないようなモデルあがりの若者に。漫画としては成立しても「映画としてのリアリティ」は…と心配になるところ。ところがこの若者=伊勢谷友介のギコちない大根演技はそのまま「精神が二十歳な老人が自分の、実際は80才である肉体に感じる違和感」となり、慣れない古い言葉遣いによる稚拙な台詞まわしは「一夜にして“60年後の未来”になってしまった世界に対する戸惑い」へと鮮やかに転化している。見事な演出の計算である。そしてまた(“二十歳のハンサムな青年”てのはあくまで「老人の主観映像」なわけだから、周囲の人間からは歳相応の80才の狷介な老人に見えているはずの)主人公に純愛してしまう18才・美少女なホームヘルパー@糠床持参などという、現実世界では老人役以上にリアリティのない役を、まったく芝居を感じさせないほど自然にこなしてしまう池脇千鶴の説得力は驚異的というほかない。ほんとこの娘には幸せに…(←しつこい) ヒロインの親友に(ここでもやはり現実派の)唯野未歩子。ヒロインの弟に松尾政寿。最後にちょっとだけ筒井康隆が声の出演。ひょっこり訪ねてくる主人公の戦友を演じた加藤武が素晴らしい。 ● 大島弓子の作品を「ファンタジー」と呼ぶときがいつもそうであるように、ここで言う「ファンタジー」とは背後につらい現実を抱えたファンタジーである。「現実のぼくは、なにか重いものを背負ってるんです。…たぶん布団だと思いますけど」 つらい現実があるからこそファンタジーを信じてみたいという気になるのだし、その夢がかなったときに涙が流れるのだ。オリジナルのエピソードを加えて構成しなおした犬童一心の脚色も見事な傑作。…エレファントラブによるヒップホップ主題歌は好きじゃないけれども。 ● 最後にネタバレなツッコミ。「脚色が見事」なんて言ってといてナンだが、おれ、ヒロインがひそかに焦がれているのは唯野未歩子なんだとばかり思っていた。ご覧になられた諸賢はちゃんとわかった?(おれが変なのか?)

★ ★
バトルフィールド・アース(ロジャー・クリスチャン)

ものすごいトンデモ映画を期待して行ったら、なんだそんなヒドい映画でもないじゃない。C級SF映画のストーリーを準A級の予算でやっちゃったってだけでしょう。しかも、厚底ブーツの悪者宇宙人が演じる中間管理職の悲哀とか、「意地悪白人」ジョン・トラボルタと「うすのろ黒人」フォレスト・ウィテカー(信者なの?)のドツキ漫才とか、女房ケリー・プレストンとの公開コスプレ前戯とか見どころ満載だ。そして諸君、嬉しいじゃないか、明日という日が来るように、どんな映画にもエンドロールは必ずやってくるのだよ。 ● 監督は(どの記事を見ても“「スター・ウォーズ」シリーズの第2班監督”としてしか書かれず「ノストラダムス」のノの字も出てこない)ロジャー・クリスチャン。

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シベリアの理髪師(ニキータ・ミハルコフ)

で、その「ノストラダムス」のヒロインでもあったジュリア・オーモンド主演の大河メロドラマ…なのかなと思ったら、ニキータ・ミハルコフのバンカラ讃歌だった。まだ金がすべての時代じゃなくて、酔いどれで豪放磊落でありながら礼節を忘れることはなかった…そんな「旧き佳き失われたロシア」への郷愁と愛情がひしひしと伝わってくる。もちろんミハルコフは前世紀末のロマノフ朝時代には生まれてもいないが「田舎者のマフィアが跋扈する今のロシアはロシアじゃない。おれの属してるロシアはこういうロシアだ」という心の叫びが聞こえてくるようだ。日本の年寄りが明治の帝大生とか士官学校とかを懐かしむみたいな感じか。 ● その一方でメロドラマとしては惨憺たる失敗作で、2時間42分もかけてついに観客をしてヒロインに感情移入させることにしくじっている。もちろんこれは(そもそもあの一瞬のハリウッド進出さえ不可解だった)ジュリア・オーモンドの主演女優としての魅力の無さに起因するところが大きいのだが、そもそもこの脚本で、あんな自分勝手なヒロインに味方しろってほうが無理な気も。シベリア森林伐採マシーンの研究に没頭するキチガイ発明家リチャード・ハリスが傑作、…って、なんでメロドラマにこんな人物が出てくるの? あと「題字:黒柳徹子」って集客になんらかの寄与をするものなのか?>ヘラルド。

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薔薇の眠り(アラン・ベルリネール)

幸せなヌーディスト家族を築くことには失敗しハゲ親父とはとうとう離婚、1994年の「ディスクロージャー」以来ヒットにも恵まれずキャリアは誰が見ても下り坂…そんな特に名を秘す某映画女優が、南仏プロバンスでは2人の娘の母親として幸せに暮らし、NYではバリバリのキャリアウーマンとして男にもモテモテという、どっちにしても幸せな夢を変わりばんこに見て、そのうちどちらの夢でもカレシが出来てあっちでイッパツこっちでイッパツ状態になり、さすがに観客があきれて「夢見てんじゃねーよ」と怒ると、女優はケロッとして「だって夢なんだも〜ん」…という一席。 ● 冒頭のナレーションで「2つのうち1つは夢」と宣言されてしまうので、以降は「南仏とNY、どちらが夢なのか」をサスペンスとして物語が進行するわけだが、肝心のドラマが愚にもつかん代物なので観客としては「どっちでもいいよ、そんなもん」という心境になってしまうのが致命的。いやこれがフローレンス・ゲラン主演の「若未亡人とキャリアウーマン 甘美な淫夢」とかゆー映画だったら喜んで観るけどさ(てゆーか、観たことあるよーな気もするなあ。デジャヴュ?) ● 以下ネタバレだけど、だいたい「書評家は一度は作家にあこがれ、作家は自分がパブリッシャーだったら問答無用で自分の作品を出版できるのにと夢想し、一方、パブリッシャーは書評家になっていつも下らねえ小説ばかり書いてきやがる作家の悪口を思うぞんぶん書いてみたいと願ってる」という有名な「出版界3すくみの法則」(←うそ。いま考えた)を知ってれば、どっちが夢なのかは最初っから明らかでしょう。

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ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ(アラン・ルドルフ)

で、ハゲ親父はハゲ親父でヘンテコな映画に出てるのだった。「アフターグロウ」に続くアラン・ルドルフの新作。そう、カート・ヴォネガット・Jr.の「チャンピオンたちの朝食」である。名前に「Jr.」が付いてることから明らかなようにかなり昔…1973年初版の作品で、テキストの中に自筆イラストがゴチョゴチョと乱入してくるという村上春樹とかが引用しているスタイルはこれが元ネタ(だよね?) 時代性と密接に関連した名作小説の、四半世紀後の映画化という出し忘れの証文のような企画をアラン・ルドルフがどう料理したかというと、奇しくもテリー・ギリアムの「ラスベガスをやっつけろ」と同様で、つまりはミソはミソのままクソはクソのまま破れかぶれでそのまんま映像化しちゃったのである。キャストが全員ヤケクソの怪演をしてるのも一緒。なんというか10人のうち9人までは「何これ?」というであろう代物なのでアラン・ルドルフとカード・ヴォネガットのファン限定でお勧めしておく。 ● 舞台となるのはクソみたいに平和な日常が支配している地方の町で、その名もミッドランド・シティ。町外れには産廃不法投棄の毒々沼がブクブクと泡を吹き上げていて、おそらく後日トロマヴィルと名を改めるのだろう。主人公のドゥエイン・フーヴァー(ブルース・ウィリス)は街道沿いの安売り中古車センターの社長で、みずからCMに出演して道化を演じ、地元じゃ1番の有名人だが、妻のバーバラ・ハーシーはクスリとテレビ漬けの夢遊状態だし、地下の核シェルターに住んでる息子のルーカス・ハースはバニーと改名してラウンジシンガー志望だし、店の営業部長のニック・ノルティは隠れ女装者だし、秘書で愛人のグレン・ヘドリーはイイ人過ぎて鼻に付くし、もうなんだか自分が何やってんだか…そもそも自分はいったい何者なんだかよくわかんなくなってて、いまや精神崩壊の崖っぷち。そんな折り、変人の大金持ちローズウォーター氏(ケン・ハドソン・キャンベル)が、崇拝する孤高の(=誰も知らない三文)SF作家のキルゴア・トラウト(アルバート・フィニー)を地元のアート・フェスティバルに招待したために、キルゴアはブツクサ言いながらもミッドランド・シティへとやって来ることになる−−ドゥエイン・フーヴァーに真理を告げるために。狂騒的な演出スタイルに見合うトーンを見出せずキャスト陣が悪戦苦闘するなかでキルゴアを演じたアルバート・フィニーの演技の強さに感動した。あと、グレン・ヘドリーの下着姿にも。他にもバック・ヘンリー、オマー・エプス、ウィル・パットン、マイケル・クラーク・ダンカンと変に豪華キャストだったり。ヴォネガット自身もCMディレクター役でお気楽出演している<いいのか、こんなんで?


バッドムービー(チャン・ソヌ)

次作「Lies 嘘」でも論議を呼んでいるチャン・ソヌ監督作品。韓国のストリートキッズと浮浪者たちを写した限りなくドキュメンタリーに近い劇映画。ドキュメンタリーの「子供たちをよろしく」(←大好き)と劇映画の「KIDS」(←大嫌い)の中間ぐらいの感じか。もしかしておれがいま15才だったらこの映画に惚れ込んだかもしれない。だが、渋谷を歩いても殺意しかおぼえない中年男にとっちゃ、こんなもの「勝手にやってろ」としか感じんよ。1時間弱で退出。

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デトロイト・ロック・シティ(アダム・リフキン)

げげ。メインの客層がモロ、おれと同年代だ。「KISS」のTシャツ着たおっさんもちらほら(おれではないよ) ● 青春映画の1典型である「人気バンドのコンサートに行きたい」ものの新作である…って、そんなジャンル、ロバート・ゼメキスの「抱きしめたい」以外に何があるよ>おれ。1978年のボンクラ高校生4人組がデトロイトでのキッスのコンサートに行きたいけど、ママの妨害が、肝心のチケットが、ああ、おれはなんでこんなところで初体験…という話。素材に甘えたぬるい代物なんだが、たった95分だし、ジーン・シモンズ(若い人のために註釈つけとくと、キッスで火を吹いたり血を吐いたりたまにベースを弾いたりしてるおっさんね)が自分で製作しただけあってキッス…とゆーか1970年代のロックンロール・バンドへの愛にあふれているし、最後にはちゃんと本物のキッスが本物の「デトロイト・ロック・シティ」を演奏してくれるし、(おれの場合はクイーンだったけど)ボンクラ4人組の、退屈な学生生活をはなれて大好きなバンドのコンサートに行き、ホールに入ったときのドキドキする気持ちは痛いほどわかるのでオマケ気味の ★ ★ ★ を付けておく。 ● 4人組の1人にエドワード・ファーロング<いいかげん高校生役は断れよ。ロックンロール一派とは仲が悪いディスコ派のブス女に“何に出ても同じ役”ナターシャ・リオン。男性ストリップ・クラブのマネージャー役でハードコア男優のロン・ジェレミーが出演。

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この胸のときめき(ボニー・ハント)

「グリーンマイル」でトム・ハンクスの奥さん役をやってた女優のボニー・ハントが原案・脚本・監督なんだけど、や、上手いなあ。とても監督デビュー作とは思えん。この手馴れぶりは只者ではないぞ。…と思ったら、この人、シカゴの有名コメディ劇団セカンドシティ出身で、本作でも共同で脚本を書いているドン・レイク(気色わるい植毛おやじの役で出演もしている)とずうっとコンビを組んで脚本(と、たぶん演出)を手がけてきたのだそうだ。本作に脇で出ているジム・ベルーシもセカンドシティ繋がりである。 ● 愛する妻が事故死して、その心臓を移植された若い娘さんと、それと知らずに恋に落ちる。スタンダード・ナンバーから採った「リターン・トゥ・ミー」という何の変哲もない原題に付けた邦題が「この胸のときめき」…上手いなあ。たまには良いタイトル付けるじゃないの>UIP。 ● まず愛し合う主人公夫妻が紹介される。一転して蒼白な顔でベッドに横たわるヒロイン。そして幸せの絶頂の主人公夫妻がダンスに酔いしれる甘いミュージックの流れるままに、画面は緊急病棟に(夫妻が事故に遭う瞬間は描かれない) ドナーが見つかったという報せがヒロインの元に届いて、手術室に臓器運搬用の冷蔵ケースが運びこまれる。そして手術成功の場面をすっと飛ばして場面は1年後。退院して療養中のヒロインと、妻の事が忘れられず荒れた生活をおくる主人公・・・導入部からボニー・ハントは高低差たっぷり&緩急自在の見事なピッチングを見せる。そうして観客の心をつかんだ後は、ヒロインの実家である下町の伊太利亜食堂を舞台に、市井の人々の生活感あふれる人情劇を巧みなディテイルで描いていく。その鮮やかな手並みは山田洋次のようだ。ヒロインの胸には大きな手術痕があって、それで「年頃の乙女としては好きな男に裸を見せることがためらわれる」という枷が設定されていて、それはいいんだけど「大人の男女が何ヶ月もデートを重ねていて、いつまでもセックスしない」ってのは不自然でしょう。何もそこまで山田洋次に似せなくてもいいんだよ。とうぜん2人が心臓移植にまつわる真実を知ってしまうってのが起承転結の「転」なのだが、そこでヒロインが「あの人の奥さんが死んだお蔭でわたしは生きている」ことに引け目を感じて身を引いてしまうのはわかるとして、主人公が彼女を避けるのがよくわからん。だって嬉しくないか? 付き合ってる彼女のハートには愛する亡妻の鼓動が息づいてたんだよ(おれの感覚が変なのか?) というわけで後半をまとめ損なってるのが惜しいが、それでもこれは見事なプロの仕事であり、近年では最高のウェルメイドなロマンティック・コメディである。 ● この話に、スターと呼ぶには華やかさの足りないデビッド・ドゥカブニーと、美人女優とは言いがたいミニー・ドライバーをキャスティングしたセンスも巧い。2人とも過去の出演作で最高のハマリ役ではないか。主人公の愛する妻に「パトリオット」のジョエリー・リチャードソン。ミニー・ドライバーとは対照的に冒頭だけの出演でその美しさを観客の脳裏に焼きつける。ヒロインの祖父の大滝秀治にキャロル・オコナー。食堂の板さんのハナ肇にロバート・ロッジア。エンドロールの配役表にハント姓が5人も6人も出てくんのがご愛嬌だな。

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ダンサー(フレッド・ギャルソン)

製作・原案:リュック・ベッソン
フランス映画の悪癖たる「私小説的感性」とは無縁のB級アメリカ映画を安価で提供するリュック・ベッソン印フランチャイズの最新作。唖(おし)ではあるが聾(つんぼ)ではないリズム感バツグンの黒人娘が、キチガイ博士の助けを借りて踊るテルミン奏者になる話。そもそも大きな勘ちがいなのは、この黒人娘、しゃべる代わりに踊りながらテルミンを演奏して「これがわたしの自己表現」って、ダンサーにとってはダンスそのものが唯一絶対の自己表現手段なんじゃないのかよ? それなのに肝心のダンスシーンが(劇中の観客の大喝采とは裏腹に)「おお!」とも「はあ…」とも思えぬ退屈な代物では説得力もなにもあったものではない。てゆーか、この話ってそもそも「バカ映画」として演出しなきゃいけない話なのを「ジャンヌ・ダルク」の助監督が大将から初監督を任されて舞いあがってしまいスカした映画にしちゃったんじゃなかろうか。ヒロインの黒人娘ミア・フライアは本職はコレオグラファーだそうで、女優としては笑顔が二流。せめて音楽がエリック・セラだったらねえ…。

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オータム・イン・ニューヨーク(ジョアン・チェン)

秋から冬へと移り変わるニューヨークを舞台にした、変な捻りや衒いのない正攻法のラブストーリー。女ったらしで有名なKIHACHIのオーナーシェフ(48才)が、裏原宿で針金とリボンのヘンテコな帽子を作ってる22才の小娘をいつもの手練手管で一発コマしたはいいが、なんと小娘はあと1ヶ月の命で男はみごとドツボにハマッてしまう…という話。小娘がモラルコード下限の22才ってのがわかりやす過ぎて笑っちゃう。おれは近年のウィノナ・ライダーが…そのワザとらしい演技が大嫌いなので、本作でも彼女がザートラしいカマトト演技をするたんびに鼻白んでしまい映画に集中できなかったが、それが気にならない方には無難なデートムービーとなろう。 ● リチャード・ギアとは対照的な良き家庭人であるKIHACHI店長を演じるアンソニー・ラパグリアが、いかにも「頼りになるイタリア人の親友」って感じでイイ。おれはウィノナ・ライダーがダメな分、ギアと因縁ある女性に扮するジェニファー・ラブ・ヒューイット似のヴェラ・ファーミガばかり見ていたよ。 ● 監督はデビュー作「シュウシュウの季節」に続いて、いかなる政治力を駆使したのか2作目でいきなりハリウッドのメジャー作品をまかされた女優ジョアン・チェン。編集に「シュウシュウの季節」でも製作・編集を手がけた朋友ルビー・ヤン。「さらばわが愛 覇王別姫」の顧長衛(クー・チャンウェイ)がカメラを担当している。

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チューブ・テイルズ

「Mr.クール」(エイミー・ジェンキンズ)≫≫「勃起」(スティーブン・ホプキンス)
≫≫「無賃乗車」(メンハジ・フーダ)≫≫「パパは嘘つき」(ボブ・ホスキンス)
≫≫「骨」(ユアン・マクレガー)≫≫「口(くち)」(アーマンド・イアヌッチ)
≫≫「手の中の小鳥」(ジュード・ロウ)≫≫「赤い服の少女」(ギャビー・デラル)
≫≫「終点まで」(チャールズ・マクドゥーガル)※挿話タイトルは意訳
ロンドンの泉麻人が「ぴあ」で募集した「地下鉄にまつわるストーリー」を映画化した、90分の9話オムニバス。9人の監督がそれぞれ気に入ったストーリーをチョイスしたそうだ。べつに地下鉄のPR映画ではないので「地下鉄にもさまざまな人間ドラマがあるのです」という肯定的な話よりは、地下鉄の不快な体験を強調した「バカヤロー!」的な話のほうが多い。そんな映画と平気でタイアップしてた東京の営団地下鉄は太っ腹なのか、馬鹿なのか…。 ● 9篇のなかでは名優ボブ・ホスキンスが監督の、子どもが初めて大人の嘘の違和感に気付くという、淋しくてほろ苦い掌篇小説の味わいの「パパは嘘つき」と、赤いフラフープを持った少女が母親とはぐれての駅構内での小さな冒険を描いたハートウォーミングなファンタジー、ギャビー・デラル監督の「赤い服の少女」が出色。ユアン・マクレガーとジュード・ロウの監督作品は意外にオーソドックスで、悪く言やあ面白味がない。 ● しかしイギリスって美人女優のいないところだな。「骨」とか「口」なんてヒロインが魅力的じゃなきゃ成立しない話なのに。それともあれか。美人の役に美人女優をキャスティングすると俳優組合から「俳優を容姿で差別するな」と糾弾されたりすんのか。いや有り得るぜ、あの国なら(←偏見)

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X−メン(ブライアン・シンガー)

超能力者集団てえから石森章太郎の「サイボーグ009」かと思ったら、山田風太郎「超人類忍法帖」だった。侍社会との平和共存を標榜する黒装束の伊賀忍者と「自分たちを人ともみなさぬ侍など殺してしまえ」という甲賀忍者が敵味方に別れ、奇妙奇天烈な忍術を駆使して殺しあう話である。鈴木則文の「忍者武芸帖 百地三太夫」や深作欣二の「魔界転生」が好きな方にお勧めする。これで夏木マリ…じゃなかったファムケ・ヤンセンのセックス忍法が見られたら言うことなかったんだけどなあ(火暴) ● 伊賀者の頭領・百地三太夫にパトリック・スチュアート。今回、主役をつとめる鉤爪忍者に「マッドマックス」の頃のメル・ギブソンを彷彿させる野性味が魅力的な…と思ったらやはりオーストラリア出身のヒュー・ジャックマン。死の吸精忍者にアンナ・パキン。これは「男に抱かれて毒息を吐く」くノ一のバリエーションですな(ちがうって) この“悲劇のヒロイン”はもっと可憐な年端もいかない14、5の美少女であるべき。ミーシャ・バートンとかさ。白髪の雷神くノ一にハリー・ベリー。読心術をあやつるくノ一がファムケ様。チームリーダーの仮面の忍者・赤影は(無理を承知で書くが)トム・クルーズの役でしょう。 ● 対する甲賀忍軍。家康に親兄弟を皆殺しにされた復讐に燃える冷酷無比な甲賀弾正にイアン・マッケラン。やっぱ最後は巨大化してほしかったっすね。手下の蝦蟇忍者に(首なし騎士の影武者もこなした)レイ・パーク。一瞬だけ例の隈取り忍者のポーズを見せるサービスカットあり。甲賀忍者はこの他に、毛むくじゃらの大入道と、変化自在のくノ一の計4人だけ。どこが「敵は強大、味方はわずか」なんだよ。ここはフェアに6対6にしてほしかった。それとショッカーよろしく下忍どもがわさわさ出てこなきゃ。 ● 演出のブライアン・シンガーはいきなりアウシュビッツから話を始めたりして、イアン・マッケランの起用といい、ミュータント差別にゲイ差別を重ねてるみたいだけど、あくまでも娯楽映画の範疇でのことであって、変に社会派ぶったりはしていない。第2班監督/武術指導が香港のユン・ケイなのでアクションも(編集で誤魔化さず)ちゃんと魅せている。マイケル・ケイメンのスコアも及第点。 ● なんでも数年おきに第3作まで作る計画らしいが、そんな悠長なこと言ってないで毎年 作ってくれよ。なにも毎回オールスターキャストじゃなくても、各々のメンバーのエピソードをクローズアップした番外篇でいいからさあ。おれ、原作コミックスぜんぜん読んだことないけど、原作もそういうスタイルなんでしょ?

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インビジブル(ポール・バーホーベン)

「透明になると狂暴化する」というのがこの映画で導入された新しいルールである(“言い訳”ともいう) 「姿が消えるとモラルも消える」というわけだ。それでケビン・ベーコンは透明になると、居眠りしてる同僚女性のおっぱいを揉む、トイレを覗く…から始まって、向かいのビルの女をレイプし、最後は恐ろしい殺人鬼と化すわけである(覗きと狂暴化は無関係な気もするが…) かれは世界征服とか銀行強盗なんてことはこれっぽっちも考えない。その姿勢がじつに素晴らしい。おれだって透明人間になったなら(たぶん殺人やレイプはしないし、女性の排泄姿を見たいとは思わんが)断言してもいいけど女風呂やプールの更衣室は確実に覗くね(木亥火暴) 「透明人間 犯せ!」(1978/日活)を心の友としている同志にお勧めする。 ● おれにとってハリウッドで1番の謎は、これだけインモラルな映画しか撮らないポール・バーホーベンに大金を出しつづける会社が次から次へと現れるってことだ。いや、もちろんおれもバーホーベンの映画は「ショーガール」をベストテンに入れるほど大好きだが、なんでこんな悪趣味なキチガイが「第一線のヒットメーカー」でいられるのだろうか。今回もバーホーベンの悪趣味は全開で、いきなり冒頭でネズミが引き千切られるし、話題の透明化プロセスもじつにグロテスク。理科準備室の人体模型状態でもチンポコがちゃんと付いてるのが「バーホーベンらしさ」である。ラストには申し訳程度の道徳的な結末が用意されているのだが、バーホーベンが感情移入してるのは明らかに透明人間のほうなのだ。しごく魅力的なピカレスク・ロマンである。「透明人間によるレイプシーン」を撮影しておきながら完成版ではカットしてしまったというのがじつに惜しい。「DVDには入れるよ」だって、この商売上手が!>バホ。 ● 主演はケビン・ベーコン。ビリング上は2番目で、どうやら「ちんぽの型を取られたり、撮影中1ヶ月に渡って全身ブルーやグリーンのタイツ姿で演技するという屈辱に耐えられる人」という観点で便利にキャストされたとおぼしいが、どうしてどうして、姿が消えてしまっても最後まで映画を支配しているのはケビン・ベーコンの存在感に他ならない。対して、ヒロインのエリザベス・シューは事前に脚本を読んでヌードシーンがあるのを承知の上で引き受けておきながら、いざ撮影となったら「無理があると感じたの。そこで、脱ぐ必要はないんじゃないかと監督に話したら、彼も賛成してくれて、それで脱がないことになったの」だと。この馬鹿たれがぁ! あるんだよ必然性は! アンタが「リービング・ラスベガス」で脱いだのと同じだけの必然性が! これだからインテリ女は使えんぜ(←差別発言) バーホーベンはあまり巨乳好きではないようだが、透明人間映画の場合は視覚効果上の理由(>見えない手でぐにゅぐにゅっと凹むとか)でもっと巨乳女優を使うべきだったのでは? ● 「エアフォース・ワン」「エンド・オブ・デイズ」の底抜け脚本家アンドリュー・W・マーロウのオリジナル・シナリオ。SFXはソニー・ピクチャーズ・イメージワークスとティペット・スタジオ。撮影は盟友ジョスト・バカーノ。そして音楽はジェリー・ゴールドスミス!

ポール・バーホーベン監督について語るケビン・ベーコン

「バーホーベン監督はふだんは知的で情熱的だが、撮影現場ではかなりの変わり者だったよ。とつぜん叫び出したり癇癪を爆発させたり。かと思えば、おとなしくなって笑い出したり。(映画のゴリラの替わりに)彼自身がゴリラを演じてもよかったぐらい。跳んだり跳ねたりしてゴリラのように叫んでいたからね。本当に楽しい人だったよ(笑)」・・・って笑ってる場合ではないのでは。世間ではこーゆー人をキチガイと呼ぶと思うが。

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長崎ぶらぶら節(深町幸男)

どーせガラガラだろうと思って場内に入ったら、そこそこ埋まってたので驚いた。しかも、おれ以外は全員シニア料金入場者だ。こうゆうマーケティングってのも成立するんだねえ。 ● 放っといたら絶対に観に行かない映画である。現に澤井信一郎が監督してても「時雨の記」は行かなかったし。なんでまた観る気になったかというと、高島礼子と原田知世の芸者っぷりが目当てであって、まあ、その意味では目的は達したんだけどさ。2人ともじつに艶やかで、原田知世なんか麩菓子みたいな歌しか歌えんのかと思ってたら、なんだちゃんと腹から声 出せるんじゃん(高島姐さんに歌わせなかったのは正解ですね) これで2人で乳ふりみだして取っ組み合いでもしてくれると言うことなかったんだけど、五社英雄 亡きいま、国営放送の老齢ディレクターにそこまで求めちゃいかんか。 ● 幾多ん傑作に主演ば なさった大女優に敬意ば表してここでは名前は出さんけども、NHKあたりじゃ ちったあ売れたこつしらんけど、あげな田舎芸者、東映楼では使えまへんなあ(<どこの方言や?) あなたが「若い」のはよおくわかったから、最後はもう少し老けてみせてくれなきゃ話が成立せんでしょーが。だいたい、その歳でカマトト演技はやめてくれ気色悪いから。 ● 原作は未読だが、少なくとも映画はラブ・ストーリーとして構成されている。だが演出の深町幸男と脚本の市川森一は、男女の駆け引きを心の機微を愛をまったく描こうとしない。渡哲也には地味な本妻いしだあゆみ、豪商時代の愛人・高島礼子、そして無一文になってから旅を共にする田舎芸者のヒロイン…と3人の女がいるにもかかわらず、彼女たちの確執も、渡の気持ちも観客には不明のまま。原田知世に至っては出てくる必然性すらない。こんなん東映の映画じゃねえ。それとか、たとえば妹分の入院費用はどこから用立てたんだよ。それまでさんざそれで物語を引っ張っといて説明抜きでクリアするのは反則だろが! あとスポーツ新聞でも大きく取り上げられてたヒロインの「土俵入り」。ありゃ着物の裾からおそそがチラリと見えたりすんのがいいわけでしょ? しょんべん芸者のそんな余興なんか献じられた日にゃ帝国海軍の栄えある軍艦が穢れるってもんでしょう。怒れよ>軍人。 ● 渡哲也は色気ある「昔の男」をよく体現している。ベテラン映画俳優に立ちまわりのひとつも用意するのが東映のプロデューサーの仕事だろうが。渡の妻に扮した いしだあゆみ はここでも狙いすました必殺!泣き笑いをカマす。そしてサスガは東映京都撮影所。美術・美粧・衣裳などのスタッフワークは一流であった。


素肌の涙(ティム・ロス)

俳優ティム・ロスの監督デビュー作。同じロンドン生まれで3つ歳上の親友ゲイリー・オールドマンの監督デビュー作「ニル・バイ・マウス」同様に“辛い家族の話”である。天候のバリエーションが「寒風が吹きすさぶ」と「冷たい雨が降りしきる」しかないという「死んでもこんなとこは住みたくねえぞ」なイギリスの田舎町(もちろん、もれなく切り立った海岸線が付いてくる) ロンドンから越してきたばかりの4人家族。レッドネックな父ちゃんと妊娠中の母ちゃん、18才の姉ちゃんと高校退学の弟。で、シスコンの弟が、父ちゃんと姉ちゃんがヤッてるのを見ちまってうじうじ悩む…という話。つまりジョージ秋山の「ピンクのカーテン」だな。悲惨な話を明るく撮ることだって可能だと思うんだけど、ティム・ロスは「ほうら、一見 平和に見える家庭にもじくじくとした膿が溜まってるんですよ」と、どこまでも陰惨に、それも50分程度の内容を倍の長さに引き伸ばして演出していく。なにせ原題が「THE WAR ZONE(戦闘地帯)」だ。そんなの、姉ちゃんとヤッちゃえば終わりじゃんよ。ヤッちゃって2人でそんな町、出てけばいいじゃんか。観てて思いっきり苛々してしまったよ。 ● ヒロインに(つみきみほ似の)新人ララ・ベルモント。典型的イギリス娘な巨乳ヘアヌードにも体当たり。若い頃のリンゴ・スター、てゆーか松尾伴内に似てる弟に新人フレディ・カンリフ。父ちゃんに「ニル・バイ・マウス」と同じくクソ親父を演じるレイ・ウィンストン。母ちゃんに「オルランド」「ザ・ビーチ」(のコミュニティ・リーダー役)のティルダ・スウィントン(あの産後ヌードの垂れ乳&三段腹は特殊メイク?)[追記]妊娠/出産にあわせて撮影したそうで垂れ乳&三段腹も本物なのだそうだ。うーむ、どうせなら産後ヌードより妊婦ヌードのほうが…(火暴)<そーゆー問題じゃありません。

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最愛の夏(チャン・ツォーチ)

「ダークネス&ライト」という原題で1999年の東京国際映画祭のグランプリに輝いた台湾映画(漢字タイトルは「黒暗之光」) 台湾北端の小さな漁村。ヒロインは、夏休みで台北の寄宿制高校から田舎に帰省している17才の少女。両親は盲の按摩、弟は白痴。そして町は貧乏。近所のやくざの親分の預かりになっている士官学校退学の18才の少年に淡い恋心を抱くが…という「ダークネス」ばかりで「ライト」のない話。ここでも、やくざの親分が鳩を飼ってるんだけど、なんで貧乏人て鳩が好きかね?(昔は日本でも鳩、飼ってる人たくさん居たよな) ● ストーリーに奉仕しない場面はいっさい描かない「能率主義のハリウッド映画」に毒されているおれの目には、物語とは直接かかわりのないスケッチが続くこの映画の冒頭部分がひどく退屈に感じられる。ホウ・シャオシェン(候考賢)に師事していただけあってチャン・ツォーチ(張作驥)の演出はじつに不親切かつ無愛想で、たとえば冒頭に記したヒロインの設定はチラシの文章からそれと知れるのだが、劇中では「帰省した」とか「休みは退屈」といった断片的な台詞から類推されるのみで、実際おれなど、観ている間は女子大生かと思っていた。もちろんどのような演出スタイルをとろうが演出家の自由なのだが、おれのようなスレた観客はどうしたって、そうした基本的な情報が告げられないのは「作者がそこに何らかのミステリーを仕掛けたから」だと考えてしまう。この場合はヒロインは「街で何か問題を起こして帰省したのか」とか「歌舞伎町あたりで風俗嬢でもしてたのか」とかだ。それは少なくとも商業映画の監督としては失格ではないのか。 ● まあ、それでも物語が転がり始めた後半部分はなかなか良かったけれども。

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キャスティング・ディレクター(アンソニー・ドラザン)

タイトルから想像されるような「映画界内幕もの」ではない。原題は「HURLY BURLY(ばか騒ぎ)」 バブル時代の六本木でテレビ朝日のやくざなプロデューサーが、女房に追い出されてマンションに転がり込んできた構成作家や売れないお笑いタレントと生産的活動を一切せず2時間の間ただひたすら放蕩に明け暮れるが、最後は援交コギャルの前で「おれ、なんか人生わかんなくなっちゃったよ」と泣き崩れる…という話。1984年にオフブロードウェイでヒットした舞台をショーン・ペン+ケビン・スペイシーというオリジナル・キャストで映画化した1998年作品。デビッド・マメットほど攻撃的ではないが、まあ、ああいったものである。作者のデビッド・レイブが自分で脚本も書いているが、場所の移動や役者の出し入れなど映画への移行が成功してるとは言いがたく、舞台で観るぶんにはいいかもしらんが映画としちゃ退屈だ。 ● 売れないバカ役者にチャズ・パルミンテリ。ショーン・ペンとケビン・スペイシーが穴兄弟になるカノジョに、劇中で語られるほどには「いい女」にも「ダイナマイト」にも見えないロビン・ライト・ペン(夫婦濡れ場も披露) 歌舞伎町の立ちんぼ娼婦に「問題作だから汚れ役もOKよ」とメグ・ライアン。援交コギャルに「X−メン」のときよりソソるアンナ・パキン。

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ちんちろまい(大森一樹・祭主恭嗣・中嶋竹彦・渡辺兼作)

オール博多ロケで、オール福岡県出身の出演者たちが朗々と博多讃歌を奏でるという博多のご当地ムービー。「ちんちろまい」とは古い博多弁で「てんてこまい」の意(発音もそのようにする) 監督が4人クレジットされているがオムニバスではなく、大森一樹がメインのストーリーを撮り、他の3人がそれぞれ脇のエピソードを撮るというスタイルで作られたようだ。大森以外の3人はすべて天象儀館/シネマ・プラセットの出身で、プレスシートに拠れば当初は御大・鈴木清順の参加も予定されていたとのこと。 ● インド映画を模したと思われるミュージカルシーンが売りなのだが、これがなんともケツの穴がこそばゆい代物で、最後まで観通すにはそーとーマゾ的な資質が要求される。それにしても、日本人の群舞ってなんでドリンク剤のCMに見えてしまうのだろう。荒唐無稽なストーリーとも相俟って、じつは本作にいちばん近いのはインド映画などではなく村上龍の怪作「だいじょうぶマイ・フレンド」なのだった(木亥火暴) ● 武田鉄矢が観るに堪えないぶん、武田の妻に床嶋佳子、長女に牧瀬里穂、次女に(「ガラスの脳」の舌足らず娘)後藤理沙…と女優陣にキレイどころが揃っていて、うーんこんな家庭だったら陶然として つい近親相姦に走ってしまいそうだ(…あ、妻とヤルのはいいのか) 反対に唖然としたのは県庁のマルチメディア推進課長に扮した高樹澪。あまりの変わり果てた姿。いったい何があったんだ? さて「武田鉄矢が主演するような映画は観ない」という当サイトのハウスルールを破ってまで映画館に足を運んだのは、もちろん千葉真一大哥と(シンシア・ラスターこと)大島由加里小姐が出ているから(←なんと2人とも福岡県出身) さすがに娯楽映画の場数の踏み方が違う。映画がどのように荒唐無稽になろうとスクリーンに敢然と光り輝いている。特に「ハリウッド大好きの勘違いしたアクション映画スター」を演じる千葉チャンの本気なんだか洒落なんだか判然としない演技が素晴らしい。他に観るべき点もないので千葉チャンのファン限定でお勧めしておく。

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ひかりのまち(マイケル・ウィンターボトム)

撮影:ショーン・ボビット 編集:トレバー・ウエイト 音楽:マイケル・ナイマン
大都会ロンドンでストレスと孤独を伴侶として生きている(クールなクラバーでもない自堕落ジャンキーでもない)ごく普通の市井の人々の、木曜日の夜から月曜日の朝までをスケッチしたマイケル・ウィンターボトム最新作。街を、街の人々を見つめる視線は、まるで市川準の映画を観ているようだ。女優陣がとびぬけて美人じゃないのもこの場合は効果的。 ● ドキュメンタリー・カメラマンによる手持ちカメラのロンドン市内オール・ロケ。16mmブローアップの粒子の荒れた画面。映像と編集に目を奪われがちだが、ここで語られているストーリーはオーソドックスな構成の人情ものファンタジーである。これがファンタジーだから、家出少年は母親と再会できるのだし、妊婦はぶじに出産するし、ヒロインは孤独を分かち合えそうな男性とめぐり逢うのだ。ウィンターボトムが御伽噺を意図していることは「ワンダーランド」という原題からも明らかだろう。もちろん現実がそんなに甘くないことは承知の上だ。マイケル・ナイマンの久石譲ばりに過剰な音楽が、ささくれ立った心を和ませる子守唄の役割をはたしている。 ● おれはじつを言うと、この映画への共感を公言することにいささかのバツの悪さを感じていて、それはつまりこの映画に共感するってことは、自分もまた「ストレスを溜めた孤独な都会人」だと認めることに他ならないからだ。OLの皆さんに特にお勧めする。 ● 続いて公開されるマイケル・ウィンターボトムの次回作「いつまでも二人で」の予告篇がかかってたけど、いくら内容が三角関係のロマコメとはいえ、この予告篇、結末まで言っちゃってるぞ。いいのか?>アスミック・エース。


ピンク・ピンク・ライン(ジョー・ディートル&マイケル・イルビーノ)

なな、なんなんだ、これ? 「どー見ても無実には見えないけど無実だと主張している死刑囚を取材するお間抜けドキュメンタリー映画クルーを撮ったドキュメンタリー映画」というフクザツな設定で、どうやらドキュメンタリー映画のパロディを意図してるらしいが、ちっとも笑えねえ。30分で退出。死刑囚役の人とドキュメンタリー監督役の2人が製作・脚本・監督している(アメリカでは劇場公開すらされてないらしい)C級映画だが、なぜかマイク・マイヤーズ、ジャニーン・ギャラファロ、イレーネ・ダグラス、ジェニファー・アニストン、デビッド・シュワイマーといった人たちが端役出演している。 ● 原題が「THE THIN PINK LINE」で、全米映画批評家協会とNY映画批評家協会のベスト・ドキュメンタリー賞に輝いた「THE THIN BLUE LINE」という1988年の冤罪ドキュメンタリーが元ネタなんだそうだ<わかんねえよ!そんなこと。普通なら絶対に輸入されないレベルの代物なんだが、どうやら配給会社(パルコと東京テアトル)としては、脇役として出演している(「ビバリーヒルズ高校白書/青春白書」の)ジェースン・プリーストリー人気をアテこんでの公開らしい。なにしろチラシに番組名が「ビバ・ヒル」としか書いてないんだから、それだけで了解してくれる人だけをターゲットにしてるんだろう。おれは1回もその番組を観たことないんだけど、ほんとにあるの?>ジェースン・プリーストリー人気。


五条霊戦記(石井聰亙)

最悪だ。石井聰亙は剣戟アクションの「カッコイイ間合い」や「シビれる見得」というものがまったくわかってない。登場人物たちは現代言葉遣いと歴史言葉遣いをちゃんぽんにしたイイカゲンな台詞でたらたらと小難しい能書きを並べるばかりでちっとも戦おうとせず、ようやく刀を抜いたかと思えば、特殊処理された映像と短いカット割りのために、あるいは浅野忠信のアップばかりが延々と写されて、いずれにせよ観客には画面で何が起こってるかわからない。アクションがダメならドラマで魅せるかと言えば、2時間17分も費やしておいてキャラクター描写ひとつまともに出来てない。すなわち、おれが日本映画界で1番 嫌いな外道プロデューサー仙頭武則の特質がことごとく悪いほうに出ているわけだ。能書きのったらのったらタレてるヒマがあったらチャンバラを見せろチャンバラを! 石井聰亙よ、アンタが何に興味を持とうが自由だが、活劇を期待してきた客に対してこのような代物を見せるのは失礼だ。それと仙頭武則、アンタはこっち側に来るな。 ● 時代劇に似つかわしくない面をした俳優たちのなかで、隆大介が孤軍奮闘。山賊の頭領に扮したプロレスラー船木誠勝はなかなかの存在感を魅せるが、台詞まわしが松田優作…てゆーか、松田優作の真似をする竹中直人にそっくりなのは何故?

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硝子のジェネレーション 香港少年激闘団(アンドリュー・ラウ)

製作:バリー・ウォン(王晶) 脚本:マンフレッド・ウォン(文雋) 撮影:アンドリュー・ラウ(劉偉強)
香港映画界にごおごおと音を立てて流れる巨大な水脈となった「古惑仔」ワールドの、これはその水源を描こうという試み。そのことを象徴するようにファーストシーンでは「欲望の街 古惑仔I 銅鑼湾(コ−ズウェイベイ)の疾風」(長い…)で描かれた「高校生の主人公たちが、団地の運動場でヤクザまがいの先輩“カン”に絡まれるが、たまたま通りかかった地元のやくざ“B哥”に助けられる」というシーンを、シリーズ最大の悪役カンにン・ジャンユー(呉鎮宇)、人情派の親分B哥にン・チーホン(呉志雄)というキャストはそのままに、4人の主人公のみを新キャストに入れ替えてカット割りまでそのままに再現している。 ● 時は1989年。不良…とは言っても、バンドを組んで学園祭で体制批判のロックを演奏するのがせいぜいだった4人の高校生が、喧嘩→退学→喧嘩→逮捕というお定まりのコースをたどって地元やくざの下っぱ構成員となる。初めての出入り…それは「人死に」の出る、喧嘩と似て非なるもの。人を殺すということ。それを仕事として生きていくということ。やがて4人はガキから大人になる・・・幾多のやくざ映画で観てきた道筋だ。だがこの映画の仕掛けは(日本公開されたシリーズ4作品によって)我々がすでに登場人物たちの末路を知ってしまっているということ。我々は、この映画で少年たちを助けて主役以上の存在感を示すB哥がすでにこの世にいないことを知っている。いつも4人でツルんでいる彼らがいつまでも「仲良し4人組」でいられないことも知っている。そればかりかこの4人が今は4人じゃないことまでも知っているのだ。彼らの切ない未来の記憶を共有できる同士にお勧めする。 ● 「古惑仔」でイーキン・チェンが演じた主役ナンにニコラス・ツェー(謝霆鋒)。「霆鋒(稲妻のほこ先)」などという勇ましい名前とは裏腹のジャニーズ系美少年。1997年に香港レコード大賞新人賞を受賞して、その翌年、本作で主役映画デビュー。押しも押されもせぬナンバーワン・アイドルである。甘いマスクが災いして本作ではいつまでも高校生のガキンチョみたいでちっとも古惑仔(チンピラ)に見えないんだけど、ラストシーンではそれなりの面構えになってるから、ひょっとしたら演技力があるのかも。陳小春が演じたサンカイには「メイド・イン・ホンコン」のサム・リー。これはキャラ的にもベスト・キャスト。兄貴分にダニエル・ウー(呉彦柤)ことピエール瀧(あれ、逆か?) ナンがひそかに想いを寄せる兄貴分のレコ(死語)にスー・チー。ろくにドラマにも関わらず、すぐ海外留学しちゃう同級生のガールフレンドにリリアン・ホー(何嘉莉) ● 原題は「新 古惑仔 之 香港少年激闘篇」。香港映画としては珍しく製作・脚本・監督=撮影のトリオは1作目 以来、不変のメンバー。もっともアンドリュー・ラウの演出やカメラワークはすっかりルーティンワークと化していて、1本目のときほどの覇気が感じられないのもまた事実だが。なお本家「古惑仔」は香港では本作と同じ1998年に5作目が公開され(日本未公開)、今年(2000年)2年ぶりに最新第6作が(なんと日本ロケで)製作された。

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さよならS(エリック・ゾンカ)

で、こちらはフランス製の古惑仔(チンピラ)もの。原題は「小さな泥棒」。スカしたフランス映画(←偏見)かと思いきや、意外や「鳥取のシケた田舎町で住み込みの板前見習いをしてる少年が、不良に憧れて広島に出て愚連隊に入るが、もちろん世の中はそんなに甘いもんじゃなくて、けっきょく非道い目に遭い、北陸の田舎町に逃げて板前見習いに戻る」という、ちゃんと伏線とかもある古典的なドラマツルギーに則った映画だった。それを63分というコンパクトな時間で語るために「天使が見た夢」のエリック・ゾンカは大胆な省略を行なう。主人公は住み込みの板前を馘首になってガールフレンドのアパートに転がりこむ。夜中に鏡台の抽斗をあさって彼女の給料袋を見つける。すると次のカットでは、少年はもう広島のお好み焼き屋にいて兄貴分たちの与太話を聞いているのである。ゾンカはまた登場人物たちの心情を説明するようなカットや台詞も徹底して排除する。ただただそこで起こった出来事の観察に徹する。まさしくハードボイルドな不良少年もの。 ● アルファベット1文字の「S」と名乗る、劇中で年齢は明示されないがおそらくハイティーンだろう、まだ華奢な身体つきの少年を演じるのはジャニーズみたいな美少年ニコラ・デュヴォシェル。…てゆーか、鶴見辰吾に似てるんだが(火暴)

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パトリオット(ローランド・エメリッヒ)

メル・ギブソンが戦う相手は「ブレイブハート」に続いてまたもイギリスである。よほど英国連邦の領主国に対して思うところがあるんだろうねえ>メル・ギブソン(オーストラリア人) ● 「パトリオット(愛国者)」というタイトルは反語である。「7人の子持ち」というメル・ギブソン自身のような主人公は、かつて血で血を洗う植民地戦争を体験しているせいもあって、はじめの1時間は戦争に反対している。だが卑劣なイギリス軍将校によって息子を殺されたことにより銃を手にして復讐という私闘を戦う(息子の遺品の錫のイギリス兵人形を溶かして弾丸にするって設定が泣ける) だから2時間を経過してもう1人の息子を失った時点でかれの戦いは終わっているのであって、クライマックスの戦闘スペクタクルは蛇足である。第一「アメリカのため」「大義のため」なんてお題目はドイツ人のエメリッヒはこれっぽっちも信じちゃいないだろう(そういうシーンは明らかに演出のテンションが落ちている) ドラマツルギーからいけば「主人公は最後の戦いには加わらずアメリカ独立軍がイギリス兵を蹴散らすさまを丘の上から見守り、戦場を放棄して逃げてきたイギリス人将校を待ち伏せて個人的な復讐を果たす」という終わり方にすべきなのだが、まあスミソニアン博物館が史実監修をしてる映画でそんなデタラメも出来んか。それにしてもメル・ギブソン、ラストシーンでは早くももう1人産ませてるぞ。いったいいつ孕ませたんだ!? ● 今回、脚本をおホモだちのディーン・デブリン君から「プライベート・ライアン」のロバート・ローダットに替えたことが幸いしてか、ローランド・エメリッヒの演出は「最初の30分だけの男」という汚名を返上して(少なくとも最初の2時間余りは)飽きさせない。もちろんキャレブ・デシャネルのカメラとジョン・ウィリアムズの音楽の力も大きいが。 ● 植民地軍の将軍にクリス・クーパー、助っ人のイギリス人嫌いのフランス人将校にチェッキー・カリョとなかなか渋いキャスティング。主人公の戦友の荒くれ男ジョンにレオン・リッピー。敵方の卑劣なイギリス人将校にジェイソン・アイザックス。「ここの民は同胞だ。戦が終わればまた通商を開始する」と大英帝国スピリットを体現する貴族将軍にトム・ウィルキンソン。銃後を守る主人公の亡妻の姉に(ナターシャ姉ちゃんにクリソツの)ジョエリー・リチャードソン(「チャタレイ夫人の恋人」) 息子の恋人に扮した(ちょっとメアリー・エリザベス・マストラントニオ似の)リサ・ブレナーが可愛い。


キッド(ジョン・タートルトーブ)

話としては「クリスマス・キャロル」である。主人公は40才の「有名人のマスコミ対策屋」で、現れるのが3人のゴーストならぬ8才の自分自身。ところがこのスクルージ氏、ちっとも反省すべき点はないのである。券売機の前で財布が見つからずモタモタしてるハタ迷惑なババアには親切に料金を支払ってやり、クライアントが横山ノックみたいなバカ知事でも腐らずに励ましてやり、仕事でクソ忙しいときに田舎の親父から「引越しを手伝ってくれ」と非常識な頼みが来ても代わりに引越屋を頼めるよう小切手を送ってやる。貧乏くさいツラ下げてボスは自分に気があると思いこんでて、自分がおまんま喰ってる仕事に文句ばかり垂れてる、しかもいい歳コイて月に見とれるようなバカ女でも馘首にはしない・・・聖人君子みたいな奴じゃないか。ある意味、おれの理想の人生像だ(何?…ああ、ジャークで結構だよ) ところがこの映画では、そんな羨ましい主人公がよってたかって謂れのない非難を受け、高給とりのポルシェを乗りまわす気ままな独身生活を棒に振り、しがない飛行機乗りへの転身を決意するのだ。ぜったい納得できん。 ● 百歩譲ってこのドラマ展開を認めるとしても、そしたらラストは父親との和解以外にありえないだろが。バカか?>脚本家。あと断言してもいいけど、ああいう人間は疲れて帰った夜の夜中に侵入者を追いかけて町じゅうをカーチェイスしたりはしないぞ。キャストでは、ブルース・ウィリスの無理難題をさらりとこなしてしまう秘書役のリリー・トムリンが最高<もっと出せ。

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ホーク B計画(ブルース・ロー)

もう何年も前から「オウム真理教が香港でサリン・テロを実行する衝撃的な内容の映画がある」という噂ばかりが「B計劃」という原題と共に伝わってきていた幻の作品がとうとう日本に上陸した。だけどこれ、内容がどーのこーの言う以前の問題で、ほんと壊滅的につまらんぞ。じつはゲテモノ映画ではなくて目先を変えた刑事アクションに過ぎない(そういう意味では「B計画」というタイトルは正しいんだけど) 罪なきガキをひとり殺すんだが、そこで観客に「可哀想」と思わせた時点でダメでしょ(←おい、いつもと言ってることが違うぞ) 鬼畜度からいったらハーマン・ヤウの「八仙飯店 之 人肉饅頭」や「エボラ・シンドローム 悪魔の殺人ウィルス」に遥かにおよばない。これが初監督のブルース・ロー(羅禮賢)は「猛龍特技」というカースタント・チームを率いているスタント屋さん(たとえばアンディ・ラウの「フル・スロットル 烈火戦車」で実際にバイクに乗っていたのはこの人)なのでドラマの演出がシロート以下。輪をかけて酷いのが編集で、観客の視線の流れをまったく無視してただ繋いだだけ。大雑把なのにも限度がある。映画には「繋がらないコマ」ってものもあるのだよ。はっきり言って死ぬほど退屈なので義務感の強い香港映画ファン以外にはお勧めできない。 ● 製作・主演は「ストリートファイター」の澤田謙也。オウムを追っかけてくる警視庁特別部隊の隊長役。香港警察の「熱血」と言えば聞こえはいいが自分勝手で短慮で浅はかなバカ刑事という定番キャラにチャン・チーラム(張智霖) 邪魔ばかりする上司の女性警部という定番キャラに「ボクらはいつも恋してる! 金枝玉葉2」「ダウンタウン・シャドー」のテレサ・リー。これまた定番キャラの足手まといなTVキャスターにスー・チー。澤田謙也の部下役で高島(弟)が特別出演。おれが上官なら極秘作戦中にこーゆー素っ頓狂な声でしゃべる奴は自分の手で撃ち殺すね。 ● なお本作はゴールデン・ハーベストの製作部門を率いてきたレナード・ホー(何冠昌)氏の遺作である。偉大なプロデューサーの死とともに(スタジオとしての)ゴールデン・ハーベストが崩壊したのは周知のとおり。

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サウスパーク 無修正映画版(トレイ・パーカー)

トレイ・パーカーは根っからのトロマ体質である…というのが、監督作3本を続けて観ての結論である。長篇デビュー作の「カンニバル!」は大学在学中に撮った作品で、その時点ではまさか3年後にトロマからビデオ発売されるとは神のみぞ知るであったのに映画は「悪魔の人喰い毒々ミュージカル」とタイトル付けても差し支えないほど完璧にトロマ映画である。「オーガズモ」は日本のクズイ・エンタープライズ製作だが1997年の東京ファンタ(もちろんこの時点ではトレイ・パーカーという名前は初耳だし「サウスパーク」なんて聞いたこともない)で観たときは「おお、こりゃまるきりトロマ映画だなあ」と笑ってたら、最後でロイド・カウフマンが出てきてひっくり返った。かようにチープであることから一生逃れられない定めを背負ったトレイ・パーカーにとって、チープであることを逆手に取った「切り貼りアニメ」という手法はまさに金鉱を掘り当てたようなものだ。映画版の次回作は、ぜひ「うる星やつら」のノリで「サウスパークのマクベス」とか「サウスパークの史上最大の作戦」とかの番外篇をやってもらいたいね。「サウスパークと円卓の騎士」で本家に挑戦するってのもいいぞ(本家?) ● じつは2度、観たのだが、最初に観たときはともかくミュージカルとしての完成度の高さにビックリした。なんとトレイ・パーカーが自分で作曲・作詞をしているのだが(おそらくオーケストレイションはマーク・シェイマンがやってるとはいえ)明らかにミュージカルに対する本気の愛情が感じられる。シロートのからかい半分じゃとてもこうはいくまい。5つのメロディが“駅伝のように”絡んでくるクライマックス前の「ビバ・ラ・レジスタンス」は圧巻。ひょっとしてミュージカルおたくか?>トレイ・パーカー。人前では「ミュージカルなんてよお、登場人物がいきなり歌い出したりすんだぜ。不自然だっちゅーの、ガッハッハッ」とか言いながら自宅にはミュージカルのLDがズラリと並んでたり。おまけこっそりバカ高いチケット買ってバーブラ・ストライザンドのコンサートとか見に行ってたりして。 ● で、トレイ・パーカーのメッセージがヒシヒシと伝わってきたのは2度目に観たときだった(それで 1つ増やした) おれはここでいくつかの真理を学んだ。たとえば、カナダ人には白目がない。天国は会員制エロサイトである。ブライアン・ボイタノは森田健作である。アメリカには甥っ子に手を出す叔父さんがゴマンといるらしい。やっぱりビル・ゲイツは地獄行き。…ま、このほかの真理については諸賢が実際にその目で確かめてくれ。ただこの映画版にはキャラ説明がいっさい無いので、TV版を2つ3つ観て予習して行ったほうがいいかも。 ● 「切り貼りアニメ」とはいっても実際にはコンピュータ内で切り貼りアニメをシミュレートしてるらしい。したがって切り貼りアニメとCGのミックスも自在なのだが、CGの使い方に関しては三池崇史のDEAD OR ALIVE 犯罪者」とタメをはるクダラなさである。明らかにディズニーに喧嘩を売ってるカメラのグウワァーーーンという回りこみも微笑ましい。アテレコはアイザック・ヘイズの「シェフ」を除けば、トレイ・パーカー&マット・ストーンと女声担当のプロの声優の計3人でほとんど全部のキャラをアテている。この、1人でほとんどの女声を使い分けて見事な吹替をみせたメアリー・ケイ・バーグマンって人がいまはこの世にいないってのがじつに残念(その後のテレビシリーズはどうしてるの?) ● 最初に観たのが封切2週目の渋谷シネ・アミューズだったので立ち見も出るほどの超満員。でも、みんな(ゴダールのレイトショーには行ったことがあっても)ミュージカル映画なんて1本も観たことなさそうな客ばっかで、ボールドウィン・ネタにもアークエット・ネタにもクスリとも反応しねえの。そんなんで面白かったのかね、この映画?(ま、それが「ヒットする」ってことなんだろうけど) あとこれはぜったい内緒だけど、その帰りにレコード屋(死語)で映画のサントラだと思って「CHEF AID」とかゆーテレビ・スペシャルのサントラ買っちゃったおれってやっぱり馬鹿?(だって背に「サウス・パーク オリジナル・サウンドトラック」って書いてあるんだよお…) しかもその後でちゃんと映画版のサントラを買おうとしてもなぜか外盤しか見つからなくて、おれはどうしても歌詞カードが欲しかったのでわざわざ映画館までもういちど観に行って映画館の受付で(外盤なら1800円で買えるものを)2500円も出して日本盤を買ったら、これがなんと正確には日本盤じゃなく「輸入盤国内仕様」とかいう、シュリンクパックしたままの輸入盤の外袋に帯つけて毎度おなじみ村岡裕司先生のやくたいもない解説文を封入しただけの代物。もちろん歌詞カードは付いてなかった。700円の解説文…(号泣)>捨てたけど。

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カンニバル! THE MUSICAL(トレイ・パーカー)

[ビデオ観賞]…というわけで「トレイ・パーカー ミュージカルおたく疑惑」を解明するため当サイト特捜班(=おれ)はビデオ屋へと足を運んだのだった。 ● 映画はどう考えても嘘としか思えない白々しいテロップで幕を開ける。曰く、この映画はもともと1954年に初公開されたが、たまたま同年に大ヒット・ミュージカル「オクラホマ!」があったため打ち切りの憂き目に遭った(「オクラホマ!」の全米封切は本当は1955年の10月なんだが…) その後ながらく幻の映画でありつづけたが去年、オリジナル・ネガが発見されコンピュータ技術の粋を尽くして丹念に修復された。そしてその際に「お客様がご不快を感じるおそれのある残酷描写をあらかじめカットした」と。・・・で、本篇はいきなり「食人族」も真っ青の人喰いシーンから始まるのである:) ● 1873年、ゴールドラッシュの時代。友愛精神にあふれ決して怒らぬ気色の悪いモルモン教徒なヘナチョコ抗夫たちが、金鉱を求めてユタのド田舎からコロラドのド田舎へ真冬のロッキー越え。ガラの悪い山窩(サンカ)に最愛の女(ただし馬)を食料ごと かどわかされたり、あくまでも自分たちをインディアンであると主張する日本語をしゃべる日本人にしか見えないインディアンに助けられたりしつつ、しかし彼らを待ちうけるのはもちろん雪の八甲田、遭難してひもじいときはお互い様だよね。あ、尻肉はやめてね尻肉は。臭いから。 ● …というような物語が、全篇、明るいミュージカル・チューンで綴られていくのである。「サウスパーク 無修正映画版」の完成度に比べればプロと素人ほどの違いはあるが、それでもトレイ・パーカーがミュージカルおたくであることは間違いないようである。本作でも全曲を自分で作詞・作曲、ついでに監督・脚本そして偽名で主演までしている。日光江戸村あたりの観光客向け西部タウンと町からクルマで30分の野っ原でオールロケ(たぶん) ま、要は出来の良いトロマ映画である。トロマ映画に怒りをおぼえることなく笑える皆さんにお勧めする。 ● 原題は「アルファード・パッカー ザ・ミュージカル」(以下はほとんど IMDb からの棒引きだけど)モデルとなったアルファード・パッカーってのは実在の人物である。アメリカ人喰い史ではかなり有名な人物のようで、本物は釈放されてベジタリアンになり、自分の写真とか売って死ぬまで「人喰いネタ」で喰ってたそうだ<佐川一政か! なにしろ百年以上も前の話だからコロラドじゃ「おらが村の有名人」あつかいされてるらしく、トレイ・パーカーとマット・ストーンが在学していたコロラド大学には「アルファード・パッカー記念グリル」なんて学食があるそうだし、学祭の名も「アルファード・パッカー祭」で、恒例の人気企画が「生肉喰いコンテスト」ってんだからアメリカ人ってやつは…。 ● そもそもこの映画、トレイとマットが在学中に学祭の余興かなんかで「郷里の有名人をテーマにした架空のミュージカル映画」の3分間の予告篇(つまり小中和哉の「ミュージカル いつでも夢を」みたいなもんだな)を作ったところ、これが大ウケ。調子に乗って授業そっちのけで本篇を作ってしまったんだそうだ。おかげでトレイ・パーカーは放校処分。類は友を呼ぶということかトロマのバカ大将ロイド・カウフマンが人喰い男を主人公にしたミュージカルがあるという噂を聞きつけ、3年後の1996年に「カンニバル! ザ・ミュージカル」と改題して目出度くトロマからビデオ発売されたわけである。諸君、これを幸福な結末と言わずしてなんと言う。

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オーガズモ(トレイ・パーカー)

そのチープさも含めて…いや、そのチープさゆえに「ブギーナイツ」なんかより百億倍正しいアメリカン・ポルノのパロディである。おれはポルノ業界の人間じゃないけど断言しちゃう、アメリカン・ポルノの舞台裏は100%ここに描かれたとおりなのだ。 ● 友愛精神にあふれ決して怒らぬ気色の悪いモルモン教徒が欲望と堕落の都ハリウッドで伝道中に、信徒から高額なお布施をふんだくるソルトレイク・シティの本部教会でフィアンセと結婚式をあげる費用ほしさに、いい加減を絵に書いて金粉をまぶしたような悪徳プロデューサー/ディレクターに騙されてマスクド・ヒーローもののポルノ映画「オーガズモ」に主演。とっとと出演料を貰ってユタに帰ろうとしたら、映画が思わぬ大ヒット。頼まれたら嫌とは言えない信仰心があだとなり…という話。ま、要は出来の良いトロマ映画である。もともとのキャラとしてはピンクのユニフォームに身を包んでいる「オーガズモ」が、ラストで本物のオーガズモとして悪役プロデューサー/ディレクターと戦う場面では黒のPVCスーツに変身するという設定を「X−メン」映画版がパクッているのは衆目が認めるところであろう。トロマ映画と裸のネエちゃんを愛する皆さんにお勧めする。 ● トレイ・パーカーの長篇監督、第2作。いつもどおり脚本も兼ねており、敬虔なモルモン教徒じつはポルノ・ヒーロー「オーガズモ」として(今回は本名のままで)主演もしている。オーガズモの片腕で、封印された幻のハムスター拳の使い手、チビの「ちん坊」に扮するのは、「カンニバル!」ではヤリたい盛りのチビ青年を演じていたディーアン・バッハー。悪徳辣腕プロデューサー/ディレクターのマックス・オービソンにマイケル・ディーン・ジェイコブズ。どう見ても日本人にしか見えないのになぜか喋り身振りが黒人ラッパーな寿司バーの「G」に、「カンニバル!」では日本人酋長を演じていたマキ・マサオ。そしてオーガズモの宿敵「ザーメン大王」に、最多一般映画出演回数ととてつもなく長いちんぽを誇るポルノ男優ロン・ジェレミー(本作では見せてません) 「ポルノ女優」の役にポルノ女優のジュリー・アシュトンとチェイシー・レイン(見せてません) そして(製作がなぜか日本のクズイ・エンタープライズなので)日本のAVを代表してイヴと香月あんなが「アナル姉妹」の役で出演(だから見せてませんて) 1997年の東京ファンタで上映されたときはクズイの社長が「まだ完成版じゃない」と言ってたが、シネ・アミューズでやってんのは、あんときのフィルムと同じじゃないか? ● トレイ・パーカーはよほどモルモンが嫌い/好きとみえるが、つくづくいちばん可哀想なのはユタ生まれの非モルモン教徒であろう。何処へ行っても田舎者と馬鹿にされ、どうせモルモンだろと色眼鏡で見られ、しかもモルモン教徒じゃないから心の平安も得られない。信濃町在住の代々木党員みたいなものか?

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新しい神様(土屋豊)[ビデオ作品]

特攻服に日の丸ハチマキしめて「♪ニイタカヤマノボレ!」とか「♪トラ・トラ・トラ!」とか(←あなたこれが何の暗号だったかわかってます?)歌ってる右翼バンドのボーカリストにして右翼活動家・雨宮処凛(あまみや・かりん)を追いかけたビデオ・ドキュメンタリー。…と聞いて、あなたが想像するであろう映画とはおそらく違っている。これは高名な映画評論家の先生であらせられるところの佐藤忠雄がのたまうような「対立するイデオロギー間の対話という殆ど不可能なことに挑んだ」りした映画ではまるっきり無いのだ。 ● これは「自分にからきし自信がない24才の女の子」と「33才のビデオ作家」の美しいラブストーリーである。小学生の頃から苛められっ子で、寺山修司オタクのビジュアル系バンドの追っかけから、四谷シモンみたいな人形作りへ、という経歴。世の中で自分が一番ダメな人間だと思いこんでて、自殺未遂歴は数しれず。あたしは空っぽで「自分自身」が無いので、なにか信じられるものが欲しかった。それが「天皇」で「右翼」だった、と。つまりカルトとかアムウェイにハマる若者と一緒だ。で、33才のビデオ作家は、そんな24才の女の子にカメラを渡してビデオ日記をつけさせる。彼女は毎晩カメラに向かって自分の心情を告白する。自分について、右翼について、天皇について。最初は「土屋さん(=監督)て、あれだけしつこいのは、あたしに気があるんじゃないかしら」なんて言ってるんだけど、だんだんとひと月たち、ふた月たちするうちに「なんかねえ、土屋さんがあたしを好きなんじゃなくて、あたしが土屋さんを好きなのかも」なんて言い出して、驚くべきことにラストでは土屋豊がカメラに向かって堂々と雨宮処凛への愛を告白するのである!(今でもラブラブらしい) 「ゆきゆきて、神軍」よりは「由美香」に近い作品。 ● 雨宮処凛は「若い女で右翼」って物珍しさから方々で取り上げられてはいるが、とりたてて美人というわけではなく、はっきり言って映画が始まったときは「こんな馬面の泉ピン子みたいなネエちゃんに1時間半も付き合うのかよ」と思った。だが映画の魔力とは不思議なものでエンドマークが出る頃には彼女のことがたまらなくいとおしく思えてしまうのだな、これが。 ● 土屋が雨宮にカメラを託したそもそものきっかけが「“元・赤軍派議長”なんて人と呉越同舟で、北朝鮮までよど号ハイジャック犯に会いに行く」ってのに雨宮が参加したからなんだけど、その一行に変態AV男優/監督の井口昇がいるのはなぜ??? あとこまかいツッコミだけど、デジタルビデオの画面に表示される日付が西暦になってたけどいいのか?>雨宮女史。

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恋するための3つのルール(ケリー・メイキン)

慇懃無礼なイギリス人のオークショナーがNY娘に恋をして、プロポーズしたはいいけれど、彼女の親父はやくざ者。あれよと言う間にファミリー・ビジネスに巻き込まれ、ついた綽名が「ミッキー・ブルーアイズ(碧眼ミッキー)」←これが原題。…ま、今どきコメディ映画は売りにくいってのはよくわかるよ。だからっつってなんで“その映画ならではのオリジナリティ”を殺したタイトルをつけるかなあ?>ギャガ。「恋するための3つのルール」なんて捻ったタイトルにしたからって客が増えるってもんでもなかろうに(現に2週打ち切りだ) そもそもこの映画に「恋するためのルール」なんて1つも出てきやしないんだぜ。…じゃあどんなタイトルがいいかって? そりゃもちろん「彼女のパパはマフィアの首領(ドン)」でしょう。←元ネタがマイナー過ぎて通じません。 ● ヒュー・グラントがおろおろするハンサムという自家薬籠中の役柄を演じ、ジェームズ・カーンがコテコテのマフィアを演じるってだけで、ある程度のモトは取れるし、(脚本はヌルいが)まあそこそこ笑える出来なんだけど、問題は主人公が命をかけて守ろうとするヒロインである。ヒロインがなあ…。マリッサ・トメイあたりならドンピシャ(死語)だと思うけど、もうこの際、ジーン・トリプルホーン以外なら誰でもいいよ。(製作当時の)婚約者が浮気しないよう、ワザと魅力的でない共演者を選んだのか?>エリザベス・ハーレー@本作プロデューサー。ジェームズ・カーンの組の“親父”である屠殺屋ヴィトーに(最近ようやくチンピラより親分の方が似合うようになってきた)バート・ヤング。そしてマフィア映画の愚鈍な乾分といえばこの人、ジョー・ヴィッテレリが「アナライズ・ミー」に続いてイイ味を出している。

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オルフェ(カルロス・ディエギス)+黒いオルフェ(マルセル・カミュ)

ブラジル映画。ギリシャ神話を基にした舞台劇の2度目の映画化。町じゅうの年頃の娘と必ず1発はヤッてるというモテモテ男が、美人の婚約者を捨てて毛深くて眉毛の太い田舎娘と恋に落ちる。そして親も友人も捨てて貧民窟を出ていこうとするが、幼なじみのドラッグディーラーに田舎娘を殺されて悲嘆に暮れる…という話。どこが神話じゃ。てゆーか、こんなん主人公に感情移入できん。オルフェは「ギターの調べで太陽を昇らせる」という太陽の申し子で、まあ、仇役のドラッグディーラーが「月」ってことなんだろうが「だからどうした?」ってなもんだ。スタンダードサイズだった旧作と違い、今度はシネスコ&ドルビーデジタルでとらえたド派手なリオのカーニバルの映像が見所といえば見所か。 ● シネマライズではモーニングショーでオリジナルの「黒いオルフェ」をやっていたので続けて観た(映画館で観るのはこれが初めて)…とくれば、こちらを褒めるだろうと思われるだろうが、おれは「黒いオルフェ」の主人公にも反発を覚えてしまった。だってこいつ(ちょっとお喋りだけど)とても可愛いフィアンセとの婚姻届を役場に出したその日に眉毛のつながってる田舎娘と浮気すんだぜ<サイテーな奴。ただ「黒いオルフェ」が秀逸なのは、カーニバルの喧騒にまぎれてヒロインに迫る「死の恐怖」が、ドクロのマスクにガイコツ柄のボディスーツというメキシコの覆面レスラーのような仮装をした男で、この「死神」は最後まで素顔を見せず、わずかにヒロインの口から「田舎から追いかけてきた」と語られるのみで、正体すら定かではない。主人公はまるで死神に操られたかのようにヒロインを死に至らしめてしまうわけだが、その場面のシュールな感覚は観客に「運命」の存在を強烈に感じさせる。 ● 2本続けてリオのカーニバルの映画を観て劇場を出ると、渋谷の街はちょうど金王さまのお祭り。街頭スピーカーからは祭囃子が流れ、渋滞したクルマの列のむこうを町内会の神輿が練り歩いていくさまは、まるで白日夢というか映画の1シーンのようだった。

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クラークス(ケビン・スミス)

おお、もう上映が終わってるではないか。観たのが6週間も前なので内容はほとんど忘れちまったぜ(火暴) ● ケビン・スミスの処女作。クラークスとは「店員」のこと。ボケ役のコンビニ店員とツッコミのビデオ屋店員が主人公の、ゆるいストーリーラインに沿ったショート・スケッチ集。すでにしてジェイ&サイレント・ボブのコンビは登場してるし「スター・ウォーズ」話もしてる。いや、笑えるんだけど、これはよく出来たモノクロ自主映画だなあ。スパイク・リーの「シーズ・ガッタ・ハヴ・イット」をいま観るみたいな感じ?…って、テキトーに思いついた安易な喩えだが。

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スイート・スイート・ゴースト(芳田秀明)

ななな、なんなんだよ? …いや「心に残る佳い映画」を撮ろうとしてるってことはヒシヒシと伝わってくるんだよ。だけどタイトルの意味も含めてこの映画、何が言いたいんだかちっともわからねえぞ。脚本も自分で書いている新人監督・芳田秀明の頭の中では筋が通っていて、きっと自分で観てても滂沱の涙に違いないが、観客の胸には届かない。そうした作者の独り善がりに商品性を持たせるのは本来、プロデューサーの役割なのだが、残念ながら現在のナムコ日活にはまともなプロデューサーがいないのだろうな(…まあ、某・奥山和由がいるけどさ) ● 舞台となるのは長崎県佐世保の沖合いに浮かぶ大崎島。かつては炭坑でもあったのだろうか廃墟となった団地が幾棟も立ちならび朽ち果てたままになっている。主役は2人の高校2年生。ツヨシ(大地泰仁)はポヤーッとした時任三郎タイプ。タクロー(金子統昭)は侠気あふれる寿司屋の板前タイプ。そこに東京から謎めいた少女ヒデヨ(「バウンスkoGALS」の佐藤仁美にちょい似の中島ちあき)が転校してきて…という話。鈴木清順の「けんかえれじい」の世界と寸分変わらぬ“坊や”たちのあまりの純情ぶりに「いつの時代の話じゃい!」と思ってると「ディズニーランド」なんて単語が出てきて現代の話とわかりひっくり返る。あれかい? 大崎島じゃいまだに高校生の夏の飲み物と言ったらサイダーなんかい? あんまり美化しすぎんのも田舎差別じゃねえのか? ● 離婚して佐世保で水商売をしてるタクローの母に麻生祐未。キレイだし良い女優さんだと思うけど、顔で演技しすぎ。そーゆーのを抑制するのも演出家の仕事だぞ。学校のちょっと変わったセンセーに田口トモロヲ、ツヨシの無骨な父に大杉漣、ツヨシんちに居候してるプーの叔父さんに村上淳…って、Vシネマじゃないんだからさ。ちょっとタイプキャストしすぎだろ。ピンク映画の名手・志賀葉一カメラマンによる美しい映像でだいぶん映画が救われている。

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マルコヴィッチの穴(スパイク・ジョーンズ)

落語でおなじみの「あたま山」を翻案した奇想天外なホラ話<ほんとか? そのホラをひと皮剥くと見えてくるのは、なんと報われることのない哀切なラブストーリーなのだった。この1作でスパイク・ジョーンズは「天才ディレクター出現!」とずいぶんもてはやされているようだけど、結局のところこの映画の功績って(マルコヴィッチ本人が出演を承諾したことを除けば)チャーリー・カウフマンのオリジナル脚本に帰すところ大だと思うけど。独創的なアイディアはすべて脚本に書き込まれているはずのものであって、脚本の奇抜さに匹敵するほどの独創的なビジュアルに出遭うことはない。「バッファロー'66」のカメラマン、ランス・アコードによる青白く沈んだルックと重く沈滞した演出は、もっとクッキリと隅々までピントの合った映像のもとでカラッと演出したほうがより効果的ではなかったか。奇想ホラ話の系譜としてはサム・ライミ「XYZマーダーズ」の狂騒的なテンポも、ウディ・アレン「カメレオン・マン」のようなホラ話特有のそこはかとない可笑しさも持ち得ていない。…ま、好みの問題かもしらんが。 ● 社会人になりきれない主人公にジョン・キューザックってのは定石としても、トム・ディチーロ組のヒロイン、キャスリーン・キーナーを「男より頭の切れる女」という持ちキャラのまま引いてくるのはグッド・センス。「ジョン・マルコヴィッチの無二の親友がチャーリー・シーン」というおよそ現実にはありえそうもない設定も活きている。キャメロン・ディアスはもともとインディーズなオフビート・コメディに好んで出ている女優さんだからキャストされた事自体は驚かないが、「元モデルのブスメイク」てのはやっぱり「食神」のカレン・モクの真似かねえ? ● 本作は構えとしては明らかに「NYインディーズ」で、日本では普通なら渋谷で単館公開というコースの映画なのだが、それを全国一斉公開して、みごとに初日の新宿東急800席を満員にしてみせたアスミック・エースの宣伝手腕は感嘆に価するし、とにもかくにも客に足を運ばせたという意味では敬意を表するにやぶさかではないが、それでもこれは言っておく>いくらインパクトがあるからといってネタバレ場面を予告篇やテレビCMに使って観客の愉しみを奪うのはクソ外道である。

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ミュージック・オブ・ハート(ウェス・クレイヴン)

「スクリーム」シリーズ大ヒットのご褒美としてミラマックスから「なんでも好きなものを撮ってよろしい」と言われてウェス・クレイヴンが選んだ初めてのノン・ホラー作品。白人のヒロインが白人の子供や教師なんか1人もいないNYイースト・ハーレムの小学校でバイオリンの授業を始めるまでが前半。10年後、芸術教育の授業をカットしたNY市への抗議行動がカーネギーホールでの募金コンサートへと実を結ぶまでが後半。これで2時間3分。ウェス・クレイヴンがホラー映画の演出で学んできたことは「余計な描写に時間を費やさない」ということだ。描くべきことを過不足なく描いたフェアな娯楽映画。ただ、実話の映画化の厄介な点は「本人の了解」が必要なことで、本来ならこの映画のクライマックスには家を出ていった夫が登場して別れた妻を励ましてしかるべきなのだが、これはきっと本人が了解しなかったんでしょうな。 ● ヒロインを演じるのは、当初 主役に決まっていたマドンナが「ガキにバイオリン教えるよりバツイチ女のロマンスにフォーカスしたい」と言い張って役を降ろされたために、急遽、2ヶ月でバイオリンを習得して撮影に臨んだメリル・ストリープ。嫌な女の部分もふくめてたしかに巧い。熱血校長役で、ふつうなら「好演」と書かれるはずの演技を見せるアンジェラ・バセットが、メリルと並ぶと学芸会のようだ。こうしてメリル・ストリープ版を観てしまうと、この話をマドンナで撮ろうとしてたなんて気が狂ってるとしか思えんな。 ● 「これぞ映画のエンディング・テーマ」という懐かしい感じの主題歌を(教師の1人として出演もしている)グロリア・エステファンと*NSYNC(イン・シンク…と読む。男性グループ)がデュエットしている。 ● ・・・さ、巨匠、気が済んだでしょ。次はいっぱつ怖いやつ頼んまっさ。やっぱり、いびつなユーモアのないウェス・クレイヴンなんてウェス・クレイヴンじゃないやね。

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顔(阪本順治)

サトウトシキの「果てしない欲情 もえさせて!」と同様、こちらも「逃げる人」が主人公である。ユニークなのはヒロインの造形で、クリーニング屋の2階で引きこもって暮らしてた35才の中年女が人を殺してどたどた逃げることによって初めて「人生」を獲得していく(脚本:宇野イサム&阪本順治) 中学2年生の時の集合写真以来、写真の1枚も撮ってないような「顔」のない女が自分の顔を獲得するまでの話だ。ヒロインの台詞「配達先の奥さんと逃げたお父ちゃんが言っとったわ“自転車かて乗りたいと思わな乗れるよにならんし、泳ぎたいと思わな泳げるよにはなれへんのやぞ”て」 そしてヒロインはちゃんと自転車にも乗れるようになるし、泳ぎだって覚えるのだ。うーん、人生のほとんどを映画館に引きこもって生活してるような人間には他人事ではないなあ<ほっとけ。 ● デビュー以来、世間からの落ちこぼれに拘りつづけてきた阪本順治の視点は、はじめて女性の主人公を迎えた本篇でも変わることはなく、バイタリティあふれる市井の人々の描写、すぐれて映画的な省略話法の見事さなど、演出の力を感じさせる。ただ「香典袋のギャグ」は繰り返さないと意味がないと思うが。笠松則道の撮影も見事。アコーディオニストcobaが音楽のみならず主題歌まで歌って大ハリキリだが、このヒロインを「グレート・プリテンダー」ってのは違うでしょう。 ● 何より藤山寛美の娘を「愛嬌なしの人嫌い」にキャスティングするという企画の勝利。意地悪な妹役の牧瀬里穂は、いつのまにかえらい色っぽいネエチャンになっててビックリ。次回はぜひ石井隆の映画でばんばん脱ぎまくっていただきたい。別府の安酒場のママに大楠道代。あいかわらずメチャ巧。でも、本篇で1番の存在感を発揮していたのは、ヒロインと一瞬だけ交錯する「福田和子」に扮した内田春菊。まさしく「実生活が演技の肥やしになる」タイプか。岸部一徳、中村勘九郎、佐藤浩市、國村隼と男優陣も賑やか。おお、豊川悦司がやくざ役ってのは「新・仁義なき戦い」の予告か? まわりに喰われてるけど大丈夫なのか?>豊川悦司。 ● ちなみにこれ松竹製作で、配給が東京テアトルなんだが、自社の新喜劇の大スターの初主演映画を自社の劇場網で大々的に公開しないのは「会社の姿勢」として間違ってないか?>松竹首脳部。テアトル新宿はけっこう入ってたぞ。

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不貞の季節(廣木隆一)

はじめに言っておく。録音の深田晃よ、台詞ひとつまともに拾えぬのなら同録なんぞするんじゃねえ、このスカタン! なかでもヒロインの台詞が聞き取れないのはこの女優のエロキューションの悪さゆえだが、それを補うのが録音技師の仕事だろうが。 ● SM小説の巨匠・団鬼六の私小説的短篇を、ピンク映画出身の廣木隆一がコミカルタッチで映画化した。脚本は「菊池エリ 巨乳責め」(1988)以来のコンビとなる石川均。石川は廣木と同様1980年代後半のピンク映画の担い手だった監督/脚本家。当時この2人は製作プロダクション「雄プロ」の僚友で、にっかつロマンポルノ末期に伊集院剛という変名で「ザ・折檻」「ザ・生贄」といったビデオ撮りのハードなSMドキュメントを乱発していた仲である(…という事実は知ってるのだが、いまだにどれが廣木作品でどれが石川作品かは知らない) 撮影は現役のピンク映画で(も)活躍中のカメラマン鈴木一博。 ● こうした面々で挑むのは、愛する妻と担当編集者との不貞に悩みつつ、その刺激で筆が進んでしまうSM小説家の悲喜劇。いわば、滑稽なモダンデイ谷崎である。団鬼六を思わせるSM小説家に扮した大杉漣が硬軟自在縦横無尽抱腹絶倒快刀乱麻、水を得た魚のような快演で全篇を支える。担当を続けるうちにいつのまにかいっぱしの縄師になってしまった関西弁の編集者に「ナビィの恋」の村上淳。SM小説家の妻に星瑤子。星野友子系の出っ歯顔で、役からするともうちょっと上品で淫靡な雰囲気がほしいところだが、ヘアヌードまで見せてくれるし、和装が似合うので良しとしよう(滑舌悪いけど) キャストはこの他に3人のみ。全登場人物わずか6人というコンパクトな現場だが、そのぶん鎌倉あたりの海岸、小説家の家となる日本家屋、海の見えるホテル、レトロなナイトクラブなどのロケセットが画面を豊かに彩る。廣木隆一はピンク映画時代から最強のロケハン部隊を誇っていたが、本作でもその実力は健在だ。縄師は雪村春樹。エンディング・テーマはブルーハーツの「星をください」 巻末のコピーライト表記にはSMビデオの雄「シネマジック」の名がクレジットされてるんだけど、チラシとかには記載がないのは何故? ● 本作の宣伝のため、大杉漣が精力的に各誌のインタビューをこなしていたが、プレス資料にそう書いてあるのか、どの記事でも判で押したように「名バイプレーヤーが初主演」と書かれてて、それは当の廣木隆一監督の「痴漢とスカート」(1984)をはじめ、数々のピンク映画で主役をこなしてきた俳優に対してじつに失礼なことである。正しく「久々の主演」と表記してたのは(おれの目にした範囲では)「ぴあ」の相田冬二ってライターだけだった。ふむ、たまには偉いじゃんか>ぴあ。

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60セカンズ(ドミニク・セナ)

製作:ジェリー・ブラッカイマー
周知のようにジェリー・ブラッカイマーというプロデューサーは編集と音楽(それに加えて最近はSFX)で誤魔化したカッチョイイ映画で名を成した人である。だが、世の中には編集やSFXで誤魔化しちゃいかんモノもあるのだ。たとえばジャッキー・チェンやリー・リンチェイの格闘技。たとえばよだれの出そうなネエチャンのセックスシーン。もちろん、カースタントもそのひとつ。この映画はそこで致命的な間違いをおかしている。最大の見せ場となるべく用意されたカージャンプも、ワンカットで見せてくれなくては無意味というもの。この映画に「RONIN」のような「TAXi(2)」のようなカースタントの醍醐味を期待してはいけない。 ● ストーリーは「整理され過ぎ」なほどに整理されて「12時間で50台の高級車/稀少車を盗む」という以外の、一切の枝葉をカットしている。したがってこの映画に「ドラマとしての興奮」とか「プロフェッショナル同士の熱い友情」とか「“馬鹿だねえこいつら”という感動」などを求めてはいけない。では肝心の「クルマを盗む」というケイパーもののサスペンスをたっぷり味わえるのかというと「犯罪行為を誘発しないように」という社会的配慮ゆえか、盗難のプロセスは省略され、雰囲気だけで処理されてしまう。 ● と、ここまで貶めておいてなにゆえ ★ ★ ★(=おもしろい)を付けるのか? ここまでヌルくても(あるいはヌルいがゆえに)お遊びのスター映画として成立しているのだな、これが。キャストは全員が過去のイメージの使いまわし。ニコラス・ケイジは、弟のために危険をおかすという「フェイス/オフ」と同じ役を相変わらず訳のわからぬテンションで演じているし、ロバート・デュバルは“オヤジさん”だし、ウィル・パットンは卑怯だし、デルロイ・リンドーはスンゴイ顔だし、これで卑屈な弟役がジョバンニ・リビージじゃなくホアキン・フェニックスだったら言うことなかったのに。アンジェリーナ・ジョリーは金髪ドレッドヘアという不思議な髪型で出てきてフェロモンを撒き散らす(でも脱がない…) 「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」の強面借金取りヴィニー・ジョーンズがほぼ同じ役で出てきて抜群の存在感。 ● 以下ネタバレ(バレてもどーってことないが) まあ、だけど、因縁のある刑事が(法的にも道義的にも)犯罪者である主人公を放免しちゃうのはどーかと思うね。あそこはやはり「クルマ泥棒」として手錠をかけてフェイドアウト。「4年後」という字幕に続いて、刑務所から仮釈されて出てくるニコラス・ケイジ。がらんとした正門前に風が吹き抜ける…。と、向こうから猛々しいエンジン音を轟かせて走ってくるシェルビー・マスタング“エレノア”。運転してるのはもちろんアンジェリーナ・ジョリー。ロケンロール高鳴って、助手席に飛び乗るニック。2人はどこまでも続く一本道を走り去る。エンドロール…でしょう。

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あの子を探して(チャン・イーモウ)

水泉村小学校は中国 河北省 山間部の僻地にある。貧農ばかりの村だから、子どもたちは家で働かされたり町へ出稼ぎに行かされたりで1人減り2人減り、いまや児童は1年生から4年生まで合わせて28人きり。1人しかいない先生の、お母さんが危篤なので、ひと月だけ代用教員が必要なのだけど、なにしろ辺鄙な田舎の小学校だから来手(きて)がいない。で、やって来たのが近くの村の13才の女の子。ほんとはこの子だって学校に行ってなきゃいけない年令なのだけれど。彼女は月50元というわずかな報酬、それと先生が「戻ってくるまで子どもたちを1人も減らさずにいてくれたらあげる」と約束してくれた10元のボーナスだけを目当てに、子どもたちのお守りを始めるが…。 ● チャン・イーモウ(張芸謀)久々の日本公開作(「上海ルージュ」の前後に2本、未公開作がある) 言っとくけど30年前、40年前の話じゃないよ。現代中国の話だ。この国の悲劇は都会の「発展」に、広大な周辺部(=田舎)が「置いてけぼり」にされてること。日本の「1960年代」と「2000年代」がひとつの国に同居してる。この映画に描かれてる大小さまざまな出来事はすべて「お金の問題」だ。香港の批評家には「政府のプロパガンダを撮る御用監督に成り下がった」と言われたそうだが、とんでもない。チャン・イーモウはこれ以上ないくらいはっきりと中国の現状に異議申立てをしている・・・「お金だけでいいの?」と。だから、この映画のエンディングはあくまでも局地的なハッピーエンドであって、その背後にはより本質的な問題が未解決のままに残されているのだ。 ● 出演してるのは全員が素人。チラシに「本当の子どもたち、大人たちがすべて本人の役で出演しています」などと書いてあるので紛らわしいが、実話ではない。脚本のあるドラマである。「本人の役」ではなくて「本名=役名で、実生活に近い役」を演じてるのだ。つまり、貧乏な子どもが「貧乏な子どもの役」を、村長さんが「村長さんの役」を、大衆食堂のオバチャンが「大衆食堂のオバチャンの役」を、という具合に。 ● 主役の、13才の代用教員を演じるウェイ・ミンジ(魏敏芝)が素晴らしい。まったくの素人で、通訳を介さないと監督の中国語も理解できないほどの田舎の子(赤いほっぺたはメイクではない) 決して「けなげな良い子」なんかじゃないのが良い。「楽しいことなんかなんにもない」というふうに、いつもぶすっとしてる。代用教員になったのもお金が目当てで−−彼女には切実な問題だ−−まるっきりやる気なんかない。わざわざ町まで生徒を探しに行くのも「1人でも欠けたらボーナスの10元が貰えない」から。可愛げのない頑固者。大きくなったらコン・リーになるタイプだ。もちろんまだ13才だから世の中のことなんて何にもわかってなくて、でもわからないなりに必死で、知り合いなんか1人もいない町で1人の男の子を探して、探して、探して、探すうちに、だんだん自分でも何でそこまでしてるのかわからなくなってきて、でも、わからなくなっても探すことはやめなくて、そして最後に観客は思い知らされるのだ・・・何にもわかってないのは自分たちのほうなんじゃないか、と。教育映画のステレオタイプな退屈さとは無縁の珠玉の逸品。いまや日本では撮りたくても撮れない類の映画である。必見。 ● コロムビア映画アジア部門が出資してるので、エンドロールが英語。日本での配給はソニー・ピクチャーズ。女神のロゴから始まる中国映画ってのもへんな感じだ。中国語原題は「一個都不能少」、意味は「1人が欠けてもダメなんだ」 前述したように本作はフィクションなので、エンディングの字幕で示される「水泉村は全国から寄せられた寄付金で新校舎を建てた」というのは事実ではない。いや、実際に新校舎は建った。この映画のスタッフが寄贈したのだ。新しい校名は…、水泉村希望小学校。

出演した子どもたちについて語るチャン・イーモウ監督

「何千人の中から選んだ子どもたちですが、彼らは生まれてから一度も白いご飯を食べたことがありません。肉も食べたことがなく、普段はジャガイモだけの食事でしょう。ところが撮影中は合宿して食事係が作ったご飯を食べていましたから、撮影が終わる頃にはふっくらしてきた。この映画は順撮りをしていますから注意してみていただければ、最初と最後で子どもたちの顔が違っているはずです(笑)」

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イギリスから来た男(スティーブン・ソダーバーグ)

予告篇を観て笑っちゃったけど日本のマスコミにゃ、いつからあんなにテレンス・スタンプのファンが増えたのかね? 復活、復活ってさあ、別にテレンス・スタンプはスクリーンから消えちゃいないぜ。それになんなんだあの棒読みナレーションは。素人か? ● さて本篇。ザ・フーのナンバーを友連れにしてLAの空港に降り立つイギリスから来た男。“長い務め”を終えて出てきた彼を待っていたのは愛する1人娘の不可解な死。居ても立ってもいられず真相を解明するために大西洋を渡って来たのだ。寡黙な全身から発散するハードボイルドな佇まい。つまり「冬の華」の高倉健だな。男を迎え撃つのは疑惑の音楽プロデューサー、ピーター・フォンダ。LAの丘の上の大邸宅の壁にズラリとゴールドディスクを並べるビッグネーム・・・1960年代の空気を濃厚にただよわせた2人をキャストした時点で若き戦略家スティーブン・ソダーバーグの勝ちは決まったようなものだ。脚本は「KAFKA 迷宮の悪夢」「ダークシティ」のレム・ドブス。まるで「そうすれば自分の過去に落とし前をつけられる」とでもいうように、復讐に燃える「過去の亡霊」と、輝かしくそして痛々しくもある過去を笑い話に葬って2000年代を生き延びようとするもう1人の「生存者(サバイバー)」・・・まるで日本のVシネマのようなシンプルで情念に満ちたストーリーを、ソダーバーグは時制と場所を無作為に並べ替えたかのような華麗な撮影と編集のテクニックで、あくまでもクールに物語っていく。 ● 本作のもうひとつの大きな勝利をおさめたアイディアは、テレンス・スタンプが若さと美貌に輝いていた20代後半の主演作である「夜空に星のあるように」(1967)の映像を、その設定を引き継いだまま大々的に引用することによって、イギリスの名匠ケン・ローチが監督デビュー作で描いた「家族の絆の哀切な記憶」までもが観客の胸にリフレインされてくることだ。つまり「冬の華」の高倉健に「東映やくざ映画」の記憶を重ねて観てしまうのと同じメカニズムだ。いかにもソダーバーグらしいクレバーでクールな映画である。萩原健一と内田裕也でリメイク希望だ(沢田研二と岸部一徳でも可) 監督は…本当なら工藤栄一だったんだがなあ。今ならきうちかずひろか。 ● ひとつ残念だったのは「テレンス・スタンプの話す“ロンドン下町訛りの英語”と“やくざな言いまわし”がLA人種にはまったくチンプンカンプン」という可笑しさが日本人には、…わかったよ、おれには今ひとつ実感できなかったことだな。

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U−571(ジョナサン・モストウ)

そりゃ現代の戦争に騎士道精神なんてものが介在する余地がないことぐらい判ってるさ。だけどこれは戦火の勇気や男同士の信頼や自己犠牲の精神を描いた映画だろ? 敵国艦とはいえ自分たちの命を守ってくれた艦(ふね)ではないか。沈みゆく勇姿に敬礼ぐらいしたらどうなのだ。基本だろ、戦争ものの。 ● おれは、ただのサイコ野郎にしか見えないマシュー・マコノヒー艦長に命を預けるのはご免だなあ。ありゃあイザという時にキレて部下を大量死させるタイプの指揮官ですぜ。昔だったらアーネスト・ボーグナインとかの役どころであろうタフな下士官を演じるハーベイ・カイテルになら付いて行ってもいいけど、なんかオカマ掘られそうだしなあ(火暴) あと、ボンジョヴィっていつ死んだの? ● 世間ではそこそこ評判が良いようだが、おれは楽しめなかった。「ブレーキ・ダウン」のジョナサン・モストウの演出には、潜水艦ものに必須の要素である「息詰まる沈黙」が欠けてるのが致命的。あと「アメリカ海兵がドイツのUボートを乗っ取って、しかしその事実を敵に察知されないために味方にも無線連絡できない」ってシチュエーションを作っておいて、「連合軍から敵と間違えられて攻撃を受ける」って展開にしないのは、よほどの馬鹿か。あれ、もう終わり?って思ったよ(←面白くて、ではない) 今まで1本も潜水艦ものを観たことがないという方にお勧めする…と書こうとしたけど、それだったらビデオ屋で「U・ボート」を借りてきたほうがいいよな絶対。

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ハリウッド・ミューズ(アルバート・ブルックス)

おお!わが家に福の神が棲みついてくれた有り難や…と思ったらこいつがとんだ疫病神で…でもあとで考えたらやっぱり福の神だったのかも…という、昔からある物語のバリエーション。ポール・マザースキーの「ビバリーヒルズ・バム」なんかもこのパターンでしたな。「オバケのQ太郎」以来の少年漫画の王道パターンでもある。この映画においては窮地におちいる主人公が「書くものにキレがなくなった」と言われ仕事をホサれかけてる映画脚本家で、福の神が「創造の神ミューズ」というわけ。変わってるのは、ふつうこのパターンだと主人公と「迷惑な居候」にはラストシーンに至るまでに確固たる友情/愛情がめばえるもんなんだけど、ここでのアルバート・ブルックスとシャロン・ストーンの関係には最初から最後までなんの変化もないのだ。…ってダメじゃんそれじゃ。 ● 監督・脚本・主演のユダヤ人コメディアン、アルバート・ブルックスは苛められる姿がキュートじゃないのが致命的で、脚本にも演出にもそれこそ“キレがない”。まあ、だけど、わがまま放題で高慢ちきな女神さまを「それって“女優シャロン・ストーン”の地のまんまなんじゃねえの?」って感じで嬉々として演じてて、0.3秒ほどヌードも魅せてくれる(ちょっぴり太目の)シャロン・ストーンは憎めないし、ロバート・アルトマン「ザ・プレイヤー」の爪の垢ほどの毒もないとはいえ、いちおう映画界の内幕ものではあるのでパラマウントやユニバーサルのスタジオも出てくるし、ロブ・ライナー、ジェームズ・キャメロン、マーティン・スコセッシらの本人出演も楽しい(てゆーか、そこがいちばん面白いのだが…) あなたが、いま挙げた三監督の顔がわかる程度の映画ファンでコメディ好きならご覧になっても損はなかろう。

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ステューピッド・イン・ニューヨーク(マシュー・ハリソン)

ボケ・キャラの主人公がツッコミ・キャラの脇役たちに徹頭徹尾ツッコマれまくるという古典的コメディのパターンに則ったNYインディーズ映画。主人公(ケビン・コリガン)はよく言やあナイーブなんだが、20代なかばで火事でアパートを焼け出され住む処もないってのに、仕事をさがすどころか「真実についての本を書くためのリサーチ」と称して自分探しの旅の真っ最中という、目の前にいたら衝動的にスリッパで後頭部をはたきたくなること請け合いのボケ男なのである。こんな奴だから、調子の良さでは天下一品のやくざなジェームズ・ウッズ叔父さん(←地でやってる)からはヤクの運び屋をやらされ銃撃戦にまきこまれるし、ビールの裏問屋をやってるお友だちの血の気の多いマイケル・ラパポート君からは「ぐだぐだ言ってねえで働け!」とかドヤされるし(←正論)、叔父さんのせいで地元の“おっかない方面”を仕切ってるバート・ヤングさんからは脅されるし、なんだか知んないけどネクラ女のリリ・テイラーには付きまとわれるし、おまけに制服のまんま地下鉄通勤してるスッチーのリンダ・フィオレンティーノ姉さんに一目惚れしちゃったんだけどつれない態度だし、ああこんな調子で本当に真実は見つかるんだろうか…。 ● お世辞にも傑作とは言えないレベルだが曲者キャストの共演でモトは取れるだろう。マーティン・スコセッシのプロダクションが製作しただけあって、どことなく「アフター・アワーズ」を思わせる。そーいや主人公はグリフィン・ダンに似てるかも。

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リシュアン 赤い小人(イヴァン・ル・モワーヌ)

モノクロのベルギー映画。前半はロビン・ウィリアムズに似た精力絶倫の小人が67才のアニタ・エクバーグとヤリまくる話。で、後半はロビン・ウィリアムズに似た狂暴な小人が、座長の娘のブランコ乗りの小人♀をコマしてサーカス団を乗っ取る話。クリス・コロンバス監督でロビン・ウィリアムズ主演でハリウッドでリメイクしたらいいんじゃないか? 女中やロボットが出来るんだから、小人なんかオチャノコでしょう。愛と感動の小人映画。おれは観ないけど。 ● 伯爵夫人にソデにされた小人は屋敷に押しかけ、金髪のカツラを被り化粧をして、ホームバーで酔っ払い、泣きながら女を絞め殺して、シャンソンを口ずさむ、それを猫が見つめている。デカダンだねえ。フェリーニなんだろうけど、もちろんあそこまで退廃してもいないし詩情もない。でも、ぐるぐるぐるぐるまわるカメラワークはなかなかなかなかヨカッた。

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ワンダー・ボーイズ(カーティス・ハンソン)

「L.A.コンフィデンシャル」のカーティス・ハンソンが「災難コメディ」のフォーマットで描いた1960年代世代のミドルエイジ・クライシス。ま、ミドルってより「初老」だけどね>マイケル・ダグラス。 ● …いや、傑作である。マイケル・ダグラスがこんなに良い俳優だとは思わなかった。ここでかれが演じているのはピッツバーグで大学教授をしている小説家。処女作が大ベストセラーとなった文壇の寵児もいまや髪に白髪が混じる歳。何年もかかって書きつづけてる2作目は2,611頁にも達していまだに終わらない、…てゆーか、終われない。かれにはこの小説にどう決着を付けたらよいかが判らない。決着を付けてしまうのが怖いのだ。そんな折も折り、大学の創作祭にかこつけてNYから担当編集者が原稿の催促に来るという。だがそんなものはまだ序の口。創作祭の週末にはやまほどの災難がかれを待ち受けているのだった…。 ● 「世間体を人生の指針としているプライドの高い傲慢男」を持ちキャラとしてきたマイケル・ダグラスだが、ここでは別人のようにすっかり脂気が抜け、女もののガウンを着てマリファナを吹かし、よれよれになりながらトラブルに振りまわされるカッコ悪い中年男として登場する。「人に弱みを見せるさまがチャーミングなマイケル・ダグラス」なんて、自分で書いてて形容矛盾だよなあ。これでかれはショーン・コネリーやマイケル・ケインのような終身俳優キップを手にいれたと思う。 ● 共演陣のアンサンブルも素晴らしい。教授を振りまわす大嘘つきで情緒不安定で才能あふれる教え子にトビー・マグワイア。「サイダーハウス・ルール」をさらに上まわる好演。天才じゃないかこの坊や? 「スパイダー・マン」がじつに楽しみである。大学総長でマイケル・ダグラスの不倫相手に、アメリカの大竹しのぶことフランシス・マクドーマンド。あんまり次回作が出ないもんだから自分のクビも危なくなって焦ってる担当編集者に、刑務所から外出許可を貰って撮影に臨んだロバート・ダウニーJr. そして「教授に恋してる女子学生」という彩り程度のチョイ役ながら「鬼教師ミセス・ティングル」よりずっとキレイに撮れてるケイティ・ホームズ。 ● で、まあ最後にようやく主人公はひとつの決着をつけるわけだが、それにしてもワープロのメニューコマンドで終わる映画ってのは初めてじゃないか。コマンドはもちろん「SAVE」…別に人生が「保存」されたじゃないよ。言葉本来の意味のほうだ。豊かなディテイルにオリジナリティあふれる脚本は「恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」のスティーブン・クローブス。ピッツバーグの旧い町並みと陰鬱な曇り空をレンズにとらえたのは「L.A.コンフィデンシャル」「インサイダー」のダンテ・スピノッティ。エンディング・テーマはボブ・ディランの新曲「THINGS HAVE CHANGED」 ♪いかれた連中 おかしな時代 ♪遅れたおれは動きがとれない ♪昔は気にもかけたけど 今じゃ時代が違うのさ…と、サビのフレーズが胸に痛い。これはビタースウィートな大人のための大人の映画。たまりっぱなしの人生のツケの清算を日一日と先延ばしにしているわが同輩たちにお勧めする。

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アイスリンク(ジャン=フィリップ・トゥーサン)

ジャン=フィリップ・トゥーサンは今までおれの守備範囲外だったんだけど、スラップスティックコメディとあらば観ずばなるまい。ベネチア映画祭出品をめざすフランスの映画監督がアイスリンクでホッケー映画の撮影をするんだが、リトアニアから呼んだホッケーチームは言葉が通じなかったり、スニーカーを履きゃいいのに撮影スタッフ全員がスケートを履いてるもんだから…という、いかにもフランス映画らしい(←偏見)テンポの緩いコメディである。なにしろこの劇中監督さん「アイスホッケーの(同点延長の)サドンデスはヨーロッパの現状の象徴だ」などとタワけた世迷言をヌカすいかにもフランス人らしい(←偏見)“お芸術”監督なので、作る映画も腑抜けたラブロマンスであって、決して「ばかばかしい情熱が感動を呼ぶ」なんて具合にはならないのだ。ベネチア映画祭のディレクターが死にそうなジジイだったり、そのアシスタントが死ぬほど性格が悪かったりと、カンヌ映画祭の国のベネチアへの悪意が垣間見える。…いや、まあベルギー人だけどさ>トゥーサン氏。 ● 星条旗の革ジャンで乗りこんでくる傲慢なハリウッド・スターに、サム・ライミ組からブルース・キャンベル。イザベル・アジャーニのように性格の悪いフランス女優にドロレス・チャップリン。かのチャップリンの孫娘でこれが映画デビューだそうだ(いくつの時の子どもだ?) フランス映画なので必然性のないヌードあり。最後のほうにローマのチネチッタ撮影所ロケあり。

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アム・アイ・ビューティフル?(ドーリス・デリエ)

スペインにロケしたドイツ映画。「マグノリア」や「マイ・ハート、マイ・ラブ」と同じく、複数の主人公がリレー式に愛だの人生だの結婚だの死だのを語るスタイルのドラマ。おれちょっと最後まで人間関係がよく把握できなかったけど、よーするに、人生はケツを振って生きようという映画である。陰気で理屈っぽいドイツ人(←偏見)の、陽気で能天気なスペイン人(←偏見)への憧れがよく出ている。聖週間のキリスト山車のパレードがクライマックスで、クリスチャンな方々はここで特別な感慨を感じるのだろうけど…。「ハモン・ハモン」で印象的だった金玉のデカい牛の看板も出てくる。 ● メインのヒロインは「ラン・ローラ・ラン」のフランカ・ポテンテ。その相手役がボンジョヴィ顔(てゆーか、ドイツ顔?)で、なんか主役の男女の顔が似てるのが変な感じ。てゆーか、この2人がいちばんキャラ薄くて霞んでたりして。他のキャストも見覚えがある顔ばかりなので、じつは「ドイツ映画オールスター・キャスト」なのか?

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フローレス(ジョエル・シュマッカー)

堅物の元・警備員ロバート・デ・ニーロが脳卒中で半身麻痺になり、リハビリで嫌々受ける歌唱訓練の先生がドラッグクイーンのフィリップ・シーモア・ホフマン…というあらすじを聞いて、てっきりコメディだと思って観に行ったら浅田次郎みたいな人情劇だった。物語の大半が安ホテルの内部で進行する、いわば落語の貧乏長屋ものだ。ジョエル・シュマッカーは、マッチョイズムの権化のような老人とドラッグクイーンという、とうていわかり合えないはずの2人の友情をメインストーリーに、オカマネタで安易な笑いを取ることよりも、世間からはじかれた人々の孤独な肖像を描くことに注力する。しみじみとした佳い映画だ。ティナ・ターナーの歌そのまんまの「プライベート・ダンサー・クラブ」なんてのが出てくんだけど、いまだにあるんだねえ、あんなの。 ● ほぼ全篇を半身麻痺で(日本人は字幕読んじゃうからあれだけど)台詞も顔を歪めてモゴモゴと喋るデ・ニーロと、“いかにも”とはいえドラッグクイーンの悲哀をにじませるフィリップ・シーモア・ホフマンは、やはり達者。デ・ニーロに惚れてるプライベート・ダンサーにダフネ・ルービン=ベガ。安ホテルの卑屈なフロント係にバリー・ミラー。あばた面のおっかねえやくざにルイス・サグアー。 ● ちなみに本作は、ゲイであることを公言しているジョエル・シュマッカーが初めて撮ったゲイ・コミュニティを題材にした映画であり、フィリップ・シーモア・ホフマンもまた実生活でもゲイであり、劇中でデ・ニーロはチョコレート色の肌の女にしか興味を示さない。カミングアウト大会だな、まるで。

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電話で抱きしめて(ダイアン・キートン)

まあ、それ自体は宣伝的な要請によるものだろうから仕方ないんだけど、この映画あたかも(製作・脚本の)ノラ・エフロンが監督したかのような売られ方をしている。ノラ・エフロンとメグ・ライアン…「ユー・ガット・メール」コンビの新作というわけだ。おれはノラ・エフロンよかダイアン・キートンのほうがよほど上等な監督だと思うけどね。 ● ノラ・エフロンと妹のデリア・エフロンの共同脚本は、肝心の「電話」の使い方が誰でも考え付きそうな描写ばかりで工夫が足りず、ウォルター・マッソーの洒落た「最後の一言」に繋がる趣向もとってつけたみたいでぎこちないし、全体に切れ味が鈍いのだが、94分にあっさりまとめたダイアン・キートンの聡明な演出もあって、女きょうだいのいる諸姉ならば共感できるだろう。死にそうなヘンクツ親父をお持ちならより泣けるはず。 ● メグ・ライアンはカット代の高そうなモップ頭がキュート。今回は白タンクトップ透け乳サービスあり。それ以外でも、ほぼ全篇ノーブラ白セーターで、うーん、この躯でラッセル・クロウと爛れた愛欲の日々を過ごしたのかと思うともうわし辛抱たま…あ、いや。 ● 本作は言うまでもなく7月1日に亡くなったウォルター・マッソーの遺作である。気分屋で自分勝手でだらしがなくて、人に迷惑かけてるって自覚に決定的に欠けてて、だけど一緒にいてこんなに楽しい人はいない…そんなクソジジイを嬉々として演じている。いくら傍らでメグ・ライアンがゴールディ・ホーンのように困り果てようが、リサ・クードローがゴールディ・ホーンのように泣こうが喚こうが、お構いなしのマイペース。死に方まで人を喰ってる。最後に(アメリカ公開時はまだ存命中だったので)本作のエンドロールには含まれていない「追悼クレジット」をささやかながらここに掲げ故人を偲ぶ。

for ウォルター・マッソー
[本名 ウォルター・マッチャンスカヤスキー]
1920−2000
「シャレード」「おかしな二人」「ハロー・ドーリー!」「突破口!」
「フロント・ページ」「サブウェイ・パニック」「がんばれ!ベアーズ」
「わたしは女優志願」「ラブリー・オールドメン」・・・

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最終絶叫計画(キーナン・アイボリー・ウェイアンズ)

なにもそこまでなぞらなくても…というくらい「スクリーム」のストーリーに忠実なスプーフ。出来の悪いZAZパロディぐらいは面白いかなと「控えめな期待」をして行ったら出来の悪いレスリー・ニールセンよりつまらなかった。てゆーか、レスリー・ニールセンには好感が持てるけど、この映画の下品さは好きになれん。いや誤解のないよう言っておくが「下ネタが悪い」って言ってるんじゃない。下ネタ(だけでなく全体的なギャグ)の扱い方が下品だと言ってる。映画というより、タモリがやってた「今夜は最高!」とか、とんねるずのコントとかに近い感じ。 ● ストーリーのみならず、キャストまでケイティ・ホームズ似のヒロイン(アナ・ファリス)とか、パトリック・デンプシー似のボーイフレンド(ジョン・エイブラハムズ)とか、ゲイリー・ビジー似の短小男(ロクリン・マンロー)とか、なんとなくパチもんぽいのは狙ってるのかね。狙ってるんだろうな。じゃなきゃドーソン君は出てこないよな。他に「アメリカン・パイ」のシャノン・エリザベスが出演。 ● …しかし最後のフーダニットにはなんの意味があるんだ? いや、パロディのつもりだってのは判るけどさ。

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ルナ・パパ(バフティヤル・フドイナザーロフ)

「少年、機関車に乗る」「コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って」の監督の新作だけど、この人ってこんな作風だったかい? おれ、たしかロープウェイの映画は観たような気がするんだけどなあ<憶えとらんのんかい! ● 舞台となるのは中央アジアの湖畔の高地/荒地。17才の娘が孕んじまって、頑固者の因業親父と、戦争でアタマがイカれたヒコーキ・バカの兄との3人で、(役者だってことだけ判ってる)お腹の子の父親を探して東奔西走することに…。タジキスタン製のスラップスティック・コメディ。ストーリーの自由奔放(メチャクチャ)さとか、ジプシーっぽい生活風俗とか、明日への希望を込めたエンディングとか、ふたまわりスケールの小さいエミール・クストリッツァの「黒猫・白猫」って感じ(監督本人は否定してるけど。あのエンディングはどー見ても「アンダーグラウンド」だよな) まあ、自分の大好きな映画の記憶をかたはしから詰めこんだのだろう。小賢しさの感じられない不器用なパクり方はいっそ微笑ましい。あと、晴れているのに曇っているよな…北欧の白夜のような光線が不思議。なんかフィルタかけて撮ってるのかね。 ● ヒロインのチュルパン・ハマートヴァが素晴らしい。キョロキョロとよく動く大きな瞳と、ドリフのコントのような大袈裟なリアクションがたまらなくキュート。なんと着ぐるみコントまである。それでいて闇夜に処女を失うシーンでの悶えかたの色っぽさ! この女優を見るだけで木戸銭の価値はあるだろう。ドイツが共同製作してる関係か、「ラン・ローラ・ラン」のカレシ役の俳優が「ヒコーキ・バカの兄」に扮している。いや、ドイツだけじゃなくて、配給元のユーロスペースも製作費の一部を出しているようだ。完成することすら保証できないような国の映画に金を出すとは、偉いというか豪気というか…。

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TAXi(2)(ジェラール・クラヴジック)

今度のタクシーは空を飛ぶ! …バカだねえ。ほれぼれするようなバカっぷりだ。もっとも同じバカ映画ではあっても、自意識のかたまりのようなブラッカイマー映画(「M:I-2」を含む)とは対極にある。ジャン=ポール・ベルモンドのアクション・コメディとかを例に挙げてもいいのだが、じつはこの映画にいちばん近いのは、アンディ・ラウとかトニー・レオンとか金城武とかが時おりスターの格を無視して出演しちゃう「ドリフのコント」+「ハードな刑事アクション」な香港映画である。 ● 前作よりもさらにストーリー性が薄い。製作のリュック・ベッソンが書いた脚本はおそらく30ページぐらいと思われる。ストーリーがない分だけ よりキャラクター主導のコメディと化していて、マルセイユのカミカゼ・タクシーの運ちゃん(サミー・ナセリ)、運転がド下手なヘナチョコ刑事(フレデリック・ディファンタル)、彼が惚れてる カラテが得意な長身ブロンド美女刑事(エマ・シューベルイ)、待たされるばかりで躯の疼きが爆発寸前の 運ちゃんの恋人(マリオン・コティヤール)に、無能な警察署長(ベルナール・ファルシー)と、前作のキャラが再登場。さらに、運ちゃんの恋人の父親である好戦的なイケイケ将軍(ジャン=クリストフ・ブーヴェ)というニューキャラが加わって、マルセイユからパリへとしっちゃかめっちゃかなキチガイ沙汰をくりひろげる。 ● 時速306キロでカッ飛んでくカミカゼ・タクシー、白のブジョー406と 黒の三菱ランサー・エボリューションIVとの凄絶な市街地カーチェイス、芸者ガールを従えて登場するヤクザ組長・ヨシ笈田(「あつもの」)、パトカー200台のカークラッシュ、日系フランス人(?)女優ツユ・シミズ(「アパートメント」)のナース・コスプレによるパンチラ・キック、そしてエマ・シューベルイのノーパン・ミニスカまわし蹴り(!)・・・と10大見せ場 (c)東宝東和(てゆーか、数あってません)を90分につめこんだ、ある意味 理想の夏休み映画。前作がダメな人(>おれ)でも大丈夫。本サイト特薦。 ● (リュック・ベッソンなので)日本ビクターが金出してるせいか知らんが、怪しい日系人や中国人俳優がしゃべる日本語が完璧なのは感心した(まさか日本で吹替えたりしてないよなあ>ヘラルド) あと三菱自動車が「悪役」のクルマを快く提供していて、それって日本の企業としては珍しいメンタリティで感心した。

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ホワイトアウト(若松節朗)

もはや「何々以来」と言えないぐらい久しぶりの日本製娯楽アクション大作。娯楽映画主義者のおれとしては大いなる期待半分/不安半分で観に行ったわけだが、まあこれだけ出来れば合格点でしょう。これからもこのジャンルの日本映画を作ってほしいおれとしては「政治的思惑込み」でオマケ気味の★4つを付けておく。封切直後とあってお客さんもかなり入ってたし良御座んした。 ● 中味は、雪に閉ざされた巨大ダムを舞台とした「クリフハンガー」な「ダイ・ハード」である。「愛する者を死なせてしまった主人公が、その贖いとして雪山に命を賭して挑む」というプロットは「クリフハンガー」そのものだし、織田裕二のウエットなキャラクターはブルース・ウィリスよりはスタローンに近い(やたらとマシンガンを撃ちまくるあたりランボー入ってるし) ● 原作者の真保裕一自身による脚本は、良く考えられた頭の良い脚本で、予告篇などから予想されるような一本道のストーリーではない。ただ、腑に落ちないのは、この脚本だと織田裕二はあれほど死ぬ思いまでして警察に連絡を取るメリットが何もないような気がするんだが(=織田裕二は事件解決にはまるで実効的でない情報を警察にもたらし、代わりに警察から「よく頑張ったねえ」と褒められる<そりゃあんまりだって) それと松嶋菜々子には、東京のシーンで織田裕二と面と向かって「拒絶」させておくべきではないのか。これが劇場映画デビューとなる若松節朗はなるほどテレビ演出家だけあって、せっかく「零下30度の雪山で4ヶ月」もロケしたってのに、アップ中心でロングショットが極端に少なくて、出来あがりを観て「おれは何のために凍傷になってまで頑張ってきたのか」と思ったスタッフ/キャストは少なくあるまい。撮影は「DEAD OR ALIVE 犯罪者」の山本英夫だが、ここはやはり「八甲田山」の闘将・木村大作を連れて行くべきだったのでは? それとあのなかなか切れないウンコのように気持ち悪いエンドロールの出のタイミングは何なのか? まあチラシに記載のある織田裕二の「テーマソング」を流さなかった(よね?)ので良しとするが。あと重箱の隅で悪いが、主演スターの着てるアノラックの色を間違えるってのはちょっとスクリプターお粗末なのでは?(てゆーか誰か気づけよ) これがカーキこっちがオリーブだ<ほら、HTMLのカラーネームにだってある。 ● 悪役の造形が素晴らしい。テロリストのリーダーに佐藤浩市…とわからないくらいにイメージを変えて登場の佐藤浩市。ダムとコンピュータに詳しいインテリ・テロリストに、ワハハ本舗出身とは思えぬクールな2枚目がシビれる(<死語?)吹越満。儲け役である田舎の警察署長に、臭くなる一歩手前で踏みとどまった中村嘉葎男。

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ざわざわ下北沢(市川準)

「ざわざわ下北沢」というよりは「だらだら下北沢」 シモキタ的風景のなかでシモキタ的な人々が1時間45分だらだらする映画。オープニングタイトルが終わる前に飽きた。シネマ・下北沢(←中黒はいるのってダサくない?)が企画・製作・配給。 街の風景を撮りたいから市川準に監督を依頼する。街を総体として捉えたいから明確なストーリーラインを設定しない。…ま、戦略としては正しいのだろうが。 ● 作者たちは「シモキタがぬるま湯だってのは承知してるけど、その微温的人間関係が気持ち良いのだ」と主張する。ぬくぬく下北沢。おれはシモキタとかゴールデン街とか「そんなにムラ社会が恋しいんなら帰れよ、ムラへ!」と思ってしまうほうなので、この映画が描いてる世界は好きじゃない。下北沢の地元住民とシモキタ的なるものを愛する善男善女にお勧めする。 ● ヒロイン…というか水先案内みたいな役回りの「つまらない毎日を送ってる女の子」に、倍賞智恵子のように地味な北川智子。ザ・スズナリで芝居を打ってるアングラ座長に原田芳雄(彼にしつこく次回作を勧めるヒゲの勧進元が、この役のモデルと思われる「はみだし劇場」の外波山文明) 溜まり場のスナックのママにりりィ。そのほか地元住民・柄本明(←こないだ、中野のピンク映画上映イベント“P−1グランプリ”にチャリンコで観に来てた)から、相変わらず芝居が気持ち悪い広末涼子にいたるまでカメオ出演多数。

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ボーイズ・ドント・クライ(キンバリー・ピアース)

「性同一性障害」ってレズとは違うの? 自分が女だと思ってて女が好きな女がレズで、自分が男だと思ってて女が好きな女が性同一性障害? そーゆーのって「おなべ」と言うのでは? それにこの主人公(肉体上は“女性”だということが冒頭で観客に示される)って、メンタリティはもろ、女(と言って失礼なら“女性的な男”)だよ。 ● 監督・脚本のキンバリー・ピアース(♀)は、性同一性障害の主人公の「実録再現ドラマ」ということに足元を掬われている。何よりもまずこの題材を「ロマンチックなラブ・ストーリー」として描くことに注力すべきだった。もっと2人の時間をこそ描写すべきだったのだ。そうすればテーマはおのずと浮かび上がってくる。 ● 主演は「ベスト・キッド4」の男顔ヒロイン、ヒラリー・スワンク。クロエ・セヴィニーがとても女優とは思えないリアルリティあり過ぎのヌードを披露する。 ● 主人公が(ヒロインとは別の)独り暮しの女の家に何日も滞在しててセックスしないのは不自然だろう(アメリカの田舎町だぜ) 一方、ヒロインは主人公とセックスまでしといて相手が女だってことに気付かないんだが、「冷たいプラスチックのディルドー」と「生身の肉茎」の区別ぐらいつくだろ?(つかない?) あと関係ないけど、昨日まで「男友達」として接していた相手をレイプできるってのは、ヤル方にも相当ホモっ気があるよな(勃たないでしょ普通)

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ミッション:インポッシブル2(ジョン・ウー)

ジェームズ・ボンドのテーマの代わりに「スパイ大作戦」のテーマが鳴りひびく007映画。つまり、およそリアリティのかけらもない大仕掛けなスパイ活劇。てゆーか「変装がいちいち観客にバレバレなのはギャグなのか?」とか「あれだけ嘘っぽいハイテク機器を山と持ってるくせに予備のGPS端末ひとつ無いのか」とか「腕時計のタイマーをセットする場面があっても、そのあと一度もタイマーを映さなかったら意味ないじゃん」とか「あの『仮面ライダー』のショッカー軍団のように登場するバイク軍団は何なんだ?」とか「そもそもIMFの目的はなんなのか?」など、ツッコミ所の多さにおいては「アルマゲドン」に匹敵する大馬鹿アクションである。おれはバカ映画に寛容なので星3つ付けたが、心情的には限りなく ★ ★(つまらない)に近い星3つ。観て怒る人もいるだろう。 ● もちろんジョン・ウーだから油断するとすぐスローモーションになるし「2丁拳銃の床スライド撃ち」はあるしオペラコーラスをバックに鳩も飛ぶ。無いのは「三竦み銃の向け合い」ぐらい。てゆーか、それより何よりジョン・ウー映画の胆である「男主人公2人のライバル関係」が確立されていないのが致命的。「ブロークン・アロー」がクリスチャン・スレイターとジョン・トラヴォルタの殴り合いで幕を開けたように、この映画のアヴァンタイトルにおいてはトム・クルーズと悪の主役のライバル心(因縁と言ってもいい)をこそ、きっちりと描いておくべきだった。この三角関係において大事なのは主役とヒロインの間の愛情ではなく、主役と悪役の間の“恋愛感情”であるべきなのだ。 ● ジョン・ウー自身がヒッチコックの「汚名」を意識したと公言してるが、ストーリーラインに関してはそのとおりだろう。「汚名」だけに留まらない。峠道のカーチェイスは「泥棒成金」を思わせるし、そのものスバリ「泥棒成金」の原題( To Catch a Theif )が台詞として引用される。「北北西に進路を取れ」(だったかな)とそっくりな海岸の別荘も出てくる。…とは言ってもそれらはただ「引用した」ってだけで、演出のタッチはヒッチコックの洒落たサスペンスとは似ても似つかない無神経な工業生産品ではあるのだが。…工業生産品と言えば、本作は史上最強のプロダクト・プレイスメント映画でもある。およそありとあらゆるものにメーカーのロゴが付いている。そこまでして金が欲しいか?>トム。エンドロールで「プラダ」だけが1枚タイトルなのもちょっとビックリ。そんなに偉いのか?>プラダ。 ● トム・クルーズは俄かに肉体派に変身して獅子奮迅の大あばれだが、いまさらヴァン・ダムを真似してどーするのか。劇中で敵から揶揄されている「15分ごとに見せるバカっぽいスマイル」も今回はあまり有効に機能していない。ヒロインの(「シャンドライの恋」の)サンディ・ニュートン(タンディじゃなくてサンディなの?)にはバーバラ・カレラのお色気の百億分の一も無い。まあ、トム・クルーズ級のスターが主演する大メジャーなサマー・ムービーで色ちがいの恋が描かれたという事は記録に値しよう。問題は悪役のダグレイ・スコットで、これっぽっちも怖くも格好良くもない。まあ「エバー・アフター」のバカ王子じゃ所詮こんなもんだろうが、いまどき007だってもう少しマシな悪役を連れてくるぞ。そこまでして自分だけ目立ちたいか?>トム。劇中の設定からするとチャーリー・シーンを悪役とか面白いと思うんだけど。てゆーか、マジでトムのこと恨んでそうだし>チャリ坊。 ● 撮影は「トップガン」「リベンジ」「トゥルー・ロマンス」「スティグマータ」とドラマよりビジュアル重視の映画に比類なき才能を発揮するジェフリー・K・キンボール。音楽は工業生産品音楽の名手ハンス・ジマー。まったく監督がトニー・スコットじゃないのが不思議なくらいだ。

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ルール(ジャミー・ブランクス)

「都市伝説ホラー」という東宝東和の宣伝は、めずらしく嘘じゃなかった。「ラストサマー」のプロデューサーが2匹目のドジョウを狙って製作した学園スラッシャー。ナタリー・ウッドの娘さんによる「スクリーム」そっくりなオープニング。ジリアン・アンダーソンそっくりな赤毛のヒロイン(アリシア・ウィット)…と、何から何まで「2匹目のドジョウ」精神に満ちている。まあ、ロバート・イングランドや“チャッキー”ブラッド・ダリフを起用するあたりに−−そしてその使い方に−−これがデビュー作となるジャミー・ブランクス監督26才のホラー映画への愛情が感じられて好感を持ったけど、結局、ジェニファー・ラブ・ヒューイットのぷるんぷるんがないぶんだけ不利でしょう(そーゆー問題じゃない?) あと「わざわざスライドで犯行動機を説明してくれる親切な犯人」てのには笑っちゃったぜ。 ● パンフに鷲巣義明が文章を書いていて、それが肝心の映画の解説を放棄して、相も変わらずカーペンターを褒めてるだけの、しかも何度読み返しても日本語の意味が通じないクズみたいな文章なんだが、ま、それは鷲巣義明がバカなだけだから仕方ないとして、もう1人の山縣みどり とかいう「映画ジャーナリスト」が書いた文章の「…教授役に『13日の金曜日』シリーズでフレディを演じたロバート・イングランド」って酷すぎないか? いくらライターがバカでも校正しろよ校正を>東宝事業部。…てゆーか、もう少し愛情持って仕事できんか?


コーンウォールの森へ(ジェレミー・トーマス)

イギリスの名伯楽ジェレミー・トーマスの監督デビュー作。悪魔のような継父に苛められたうすのろ青年が家出して、コーンウォールの森で出遭ったグリーンピースな気狂いオヤジと人知れず幸せに暮らしていましたが、その幸せは長くは続きませんでした。メデタシメデタシ…という、一種のお伽噺である。お伽噺の心地好さよりは、お伽噺ならではの残酷さが強調されていて、観てて嫌あな気分になった。悪役の造形が洒落にならん人非人なのだ。いや、これがヴァン・ダムの映画ならいくら悪役が酷え野郎でもぜんぜん問題ないんだけどさ。 ● うすのろにクリスチャン・ベール、グリーンピース親父にジョン・ハート。撮影のためロールスロイスを1台オシャカにするとは気前が良いこって。

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押切(佐藤善木)[キネコ作品]

自閉的な17才の美少年・押切トオルはよく悪夢を見る。黒マントに防毒マスクの小人が草刈り鎌で人を殺す。それを子どもの自分が、10年前に引きはらった古い屋敷の窓から見ているのだ。実生活でも奇妙なことが起こりはじめる。そして或る日トオルは、クラスメイトから一斉に「殺人鬼」と非難される…。[パラレルワールド]ネタの良く出来たホラーSFである。雰囲気としては「時をかける少女」のホラー版というところか。 ● 伊藤潤二のホラー漫画が原作、ビデオ撮り、ヒロインが初音映莉子である点など「うずまき」との共通点が多い。思ったことをすべて口にする登場人物たち。いかにもテレビの深夜ビデオドラマ・レベルの陳腐な描写やワザとらしい演技が意図的にキッチュを狙ってるとおぼしき点も共通だ。だが(ビデオクリップ屋の作った「うずまき」と違い)テレビ演出家の佐藤善木(脚色も)にはドラマを語ろうという強い意志がある。ビデオ撮りなのでおそらくはVシネマとしての企画で、つまり製作費が潤沢であろうはずはないのだが、それでもちゃんと怪奇の舞台に相応しい古屋敷を借りてきた製作部の手腕も勝因のひとつ。ま、それとキチガイ博士に天本英世ってキャスティングだけで点が甘くなるのは人情というものだわな。 ● 主人公・押切トオルに、「クロスファイア」で不良少年のリーダーを演じてた、ちょっと野村宏伸に似てる徳山秀典。ヒロインの初音映莉子のはんなり・のったりはまったく「うずまき」のまんまで、これがこの娘の地なんだろうね。物理教師役の田口トモロヲが相変わらず絶妙な味。 ● ビデオ作品をフィルム変換(キネコ)しての上映だが、キネコにしては画質が良い。話の性質上、自然光のシーンがほとんど無いというせいもあるが、まあ、これぐらいの画質で観られるならキネコも許容範囲か。

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ツイン・フォールズ・アイダホ(マイケル・ポーリッシュ)

アイダホ州にある双子滝のお話…ではもちろんなくて、アイダホ通りの安ホテルを訪れたシャム双生児(の片割れ)がタレント志望のホテトル嬢と恋に落ちる話。自分たちも双子であるマイケル&マークのポーリッシュ兄弟が脚本を書いて主演している。 ● 互いの耳元で囁くように喋る美男の双子。絶望の街の娼婦。いかにもデビッド・リンチを思わせる静かな画面構成。だが、エキセントリックなテーマからすると意外なほど、ドラマはストレートな「ちょっといい話」に終始する。展開は予想される範囲を一歩も踏み外さない(…ので、おれにはあまり面白くなかった) それよりもむしろおれには、ただでさえ生まれた時からずっと一緒にいる双子が、あえてシャム双生児の話を映画にしたがる、…あまつさえ2人の身体を密着させる特製スーツに身を包んでまで自ら演じようとする心情のほうにビザールなものを感じられるが。 ● ヒロインにはスーパーモデルで、これが女優デビューとなるミシェル・ヒックス(ちょっとジェニファー・コネリー似?) ちなみにシャム双生児がよく訊かれる質問ナンバーワンは「で、ちんぽは何本?」だそうだ。

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ヒューマン・トラフィック(ジャスティン・ケリガン)

エクスタシーのやりすぎでフニャチン君(=Mr. Floppy)になってしまったユニクロの店員がインポを克服するまでのお話。月→金はユニクロだのシスコだのマクドだのでクソ面白くもないバイトに我慢して堪えて、週末のクラブ通いだけを糧に生きている、ウェールズはカーディフって町の若者たち。自身もカーディフ出身の当時25才ジャスティン・ケリガンのデビュー作は(スコットランドを舞台にした)「トレインスポッティング」への、ひとつの返歌である。 ● この映画が特徴的なのは「関係」がまったく描かれないこと。登場人物たちは自分だけの世界に生きている。台詞はすべて独り言であって、たとえ画面では2人の人物が会話してたとしても、それは「交互に独り言を言い合っている」に過ぎない。金魚鉢を覗いたような魚眼レンズ画面の多用がその印象をさらに強める。意図的なのかなあ。意図的なんだろうなあ。おれはこいつらの仲間にはなりたかねえなあ。 ● あと、ハリウッド映画では考えられないのが、2人登場する女性キャラの顔が揃いも揃ってキッツーいこと。吉本の女漫才師みたいやねんぞ。

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最後通告(フレディ・M・ムーラー)

満月の夜に12人の子どもが失踪した。(舞台がスイスだから)4つの言語圏から均等に。人種も家庭環境もバラバラ。12人の子どもには全員が10才だということを除いて何の共通点もないように見える。警察の捜査はすぐに行き詰まる。やがて12人の子どもからそれぞれの家庭にそれぞれの言語で、まったく同じ文面の手紙が届く「地球を愛してくれないのなら、地球はぼくたち抜きで廻るだろう」 ● 親たちは口では愛してる、子どもがすべてとは言うものの、だれも子どもの方を向いていない。子どもの声を聞いていない。捜査を指揮するのが「水」という名の部長刑事だったり、ヒロインの夫が原発の責任者だったりと、露骨なまでに寓意の明確なファンタジーである。あまりに寓意に拘るあまりキャラクターが紙のように薄っぺらになってしまっているほどだ。 ● 12人の子どもたちには(観客には明白な)共通点がある。水辺の家。板切れの山。カヌーの少年…。だが、劇中の刑事たちはそれらの(観客には見えている)証拠を見ようとしない。あなたそんなバカが探偵役を務めるミステリーなんて観たいか?


NAGISA なぎさ(小沼勝)

日活ロマンポルノの巨匠・小沼勝が12年ぶりにメガホンをとって、「六三四の剣」の村上もとかの長篇マンガの、その最初のパートだけを映画化した。ヒロインのなぎさは12才、舞台は1960年代の江ノ島である。つまり当時の風俗を画面に再現するには時代劇やSF映画と同じくらい手間がかかるたぐいの映画だということだ。だが、弱小プロダクションの自主製作作品である本作にそんな予算があろうはずもなく、現代の江ノ島海岸にとつじょとして1960年代の水着を着た登場人物たちが闊歩し、最新型のクルマが路肩に駐まってる横を1960年代のオープン・スポーツカーが走り、現代の商品がズラリとならんだ商店街をヒロインが駆けぬける映画が出来あがった。そういう無惨な結果になるのを承知で「シックスティーズもの」に拘泥する必要がどこにあるのだ。現代に合わせてアダプテーションすればよいではないか。 ● まあ、それだけならまだ目をつぶろう。Vシネマだと思えばいい。だが、子役たちが大人顔負けのクサい芝居を披露し、大人の役者がそろいもそろって子役なみの稚拙な演技を競う地獄のような光景には、とてもじゃないが堪えられん。1時間で退出。だいたいインモラルな題材に力を発揮してきた小沼勝にこんな素材を振ること自体が間違ってるのだ。チラシなどからは製作スタッフの小沼勝への敬意が感じられて好ましいが、[《小沼ウィーブ》と評されるほど、女性を描かせては細やかに紡がれた(ウィープ)演出をする監督]って、なんだよそれ。《小沼ウィーブ》なんて聞いたことねえぞ。誰が言ってんだ? ● 主演の松田まどかは(美少女ではないが)健康的な女の子で好感を持ったが、ヒロイン像の設定には疑問が残る。だって、東京の私立校に通う金持ちのお嬢さんに「おうちに遊びにいらっしゃい」と誘われて友だちが付いていっても、自分は「家の手伝いがあるから」と帰ってくるので「おお、なかなか骨のある子じゃんか」と思ってると、後日、お嬢さんに「ほんとはあなたと遊びたかったの」とこっそり誘われるとホイホイ取り込まれちゃうんだぜ>それってスゲー嫌な奴じゃん。

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PUPS パップス(アッシュ)

「狼たちの午後」の嫡子といえるドキュメンタリー・タッチの銀行強盗/籠城もの。ただ1975年と状況が違うのは、犯人が13才の男の子と女の子だってこと。「PUPS」とは PUPPIES、つまり「仔犬たち」の意味だ。 ● 男の子がママのベッドルームで拳銃を見つける。で、ガールフレンドの女の子と軽いノリで−−どうせ今からじゃ学校 遅刻だし、なんかみんなウザいし−−近くの地方銀行に押し入ってしまう。さっさとお金を盗ってサヨナラするつもりが、あっという間に銀行のまわりはFBIにかこまれ、近隣のビルの屋上にはSWATの狙撃手が。テレビの真似して精一杯スゴんでみせるけど、13才の2人だからどこかおままごとノリだ「この金でどこ行く?」「ガラパゴス島! 大っきなカメがクルマ代わりなんだよ」「その、ガラなんとか島ってどこにあんだよ」「どっか…海の向こうだよ」「ダメじゃん」とか。 ● 女の子が父親の性的虐待を匂わせたり、男の子の無関心な両親が最後まで登場しなかったりはするが、謎解きミステリではないので動機の解明は焦点ではない。FBIとの電話での要求交渉や、人質となった行員&客のキャラ描写など、とりたてて目新しい工夫はないが、FBIの交渉窓口にバート・レイノルズを配したことで見応えが出た。 ● プロデュース・監督・脚本は、これが2本目となる1964年生まれのアッシュ。プロダクションとしてはインディー映画なのだが、撮影とか照明に安っぽさはない。てゆーか、あの酷薄な結末はメジャー作品じゃ出来ないでしょう。男の子は新人キャメロン・ヴァン・ホイ。女の子は「シックス・センス」のゲロ吐き幽霊少女ミーシャ・バートン(この映画のキャンペーンで来日したけど、いまや14才。「キャメロット・ガーデンの少女」の美少女ぶりはどこへやら。すっかり成長しちゃってミニ ジュリア・ロバーツみたいになってたな) ● チラシに「95年のL.A.インディペンデント映画祭で初公開され、マスコミ、観客から絶賛された。しかし、その2日後、コロンバイン高校で発砲事件が起こり、内容があまりに酷似し過激という理由から一時公開が危なくなる一幕もあった」と書いてあるけど、トレンチコート・マフィア事件てそんな昔だったか?

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だれも知らない夏の空(中治人)

よく言えば可愛く見えなくもない女の子と、「鳩よ」のTシャツ着たブスな姉ちゃんがアコギ片手に全国ツアーに出る話。全国つっても(監督が南紀出身なので)紀州半島中心だけど。いかにも三留まゆみが惚れそうな夏休みの放浪映画で16ミリ自主映画。このヒッピー気分は(現在では)大阪独特のものでしょうな。 ● よく言えば可愛く見えなくもない(弾き語りの)女の子に、いしのだなつよ。「鳩よ」のTシャツ着たブスな(弾き語りの)姉ちゃんに渡辺智江。この2人の歌が全篇にフィーチャーされる(なかには良い歌もある) ヒロインと行動を共にするヒッピーに、大阪の土木主義アングラ劇団「維新派」の加茂大輔(おお、今岡信治の「OL性白書 くされ縁」の兄ちゃんやんけ) ● ついでに言っとくと、弾き語りのニイちゃんネエちゃんたちよ>路上で歌うのは結構だが、トンネルとかガード下で演るのはやめてくれ。やかましくてかなわん。酔っ払い親父が風呂場でがなってんじゃねえんだからさ。

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