1. 眠る子供
12月、もうクリスマスも終わって街は穏やかな顔をしていた。最後の開館日のせいもあるが、こんな年末まで読書に費やそうとする人はさほど多くはないらしい。図書館司書の仕事は忙しいとは言えなかった。旧型のパソコンソフトで新しく入荷した本に検索キーワードをつけるのにも飽きて、江成 智は立ち上がった。
書棚の間をぼんやり散歩するのは、彼にとってはお気に入りの気分転換の方法だった。司書の資格を取った時は、こんなにコンピュータとばかりにらめっこする日々が続くとは考えてはいなかった。しかし、現在の図書館の役割はもう本を貸す場所だけでは留まっていないのだ。AV資料のデータを打ち込むだけで日が暮れてしまうこともあった。紙の本に触れるのが好きだった智には予想外の事態と言えたが、操作にも徐々に慣れて来ていた。インターネットを知ってからは、自宅にも(旧型ではあるが)パソコンを導入して、時間のある時はとめどもないリンクを辿って楽しむまでになっていた。
だが、今日の「散歩」は単なる気分転換だけのためではなかった。
閲覧室に今朝からぼーっと座っている少年のことが気になっていたのだ。
普通、閲覧室と言えば、本を持ち込んで調べ物をするなり、ただ読みふけるなり、どっちにしても手ぶらでぼーっとする場所ではないはずだった。いや、たまに買い物に疲れた主婦などが勝手に休憩する光景は見たことはあっても、朝から七時間以上も何もしないでぼーっとしているのは明らかに妙だった。
歳の頃は中学生くらいか。制服は着ていないが、まあ冬休みだからありえないことではない。しょっちゅう苛々してかきむしっている感じのちょっとぼさぼさの髪。見るからに不機嫌そうで、こころもち下唇を突き出したような----あまりたちのよくない表情ではある。
この頃の少年が読んでも楽しいであろう音楽雑誌も置いてあるし、よっぽど紙に触りたくない限り何か持っていてもよさそうなものだ。
だが事情を尋ねる訳にも行かない。それは司書の仕事ではない。
智は気になりながらも何も出来ずにいた。
しかしもうすぐ閉館である。しかも年内最後の日。本に用事がなければ、何故図書館にいるのか。
近頃の若者はよくわからん。そんな年寄りめいたセリフを心で呟いて、ちらりと時計を見上げる。もう時間だ、と思った途端、閉館を知らせる蛍の光がゆっくりと流れ出した。
少年はそのむすっとした表情のせいか、司書の誰もが声をかけづらそうだった。立ち上がろうとしない少年に、結局智が声をかける。
「あのー……」
頭の中ではいろいろ言葉が巡っていても、智の口調はいつもこんな調子だ。脳と口とをつなぐ神経が絶対何処かで切れているに違いない。自分でもそう思うのだが、そのペースは自分ではどうしようもない。
象がネズミに話しかけている気分になる。目の前の少年の顔が瞬く間に(智にはそう見える)ぱあっと色を挿して、ますます不機嫌の色を濃くしている。
「もう、閉まりますけど……」
「……ってる……」
思ったより幼い声だ。でも少しかすれている。それだけ認知するのが精一杯で、その内容まで把握出来てない智は、さらに何かたたみかけようとすうっと息を吸い込んだ、途端、
「ってるってんだろ! 出てきゃいんだろ?」
智の頭の中でいささか錆びついた翻訳機が動き出した。----多分「わかったって言ってんだろ、出ていきゃいいんだろ」と言ったのだろう、……と解釈してる間が少年を逆なでしたらしく、
「いつまでんなとこいんだよ!」
そう、智は、閲覧室のドアを自分の長身が遮っていたことに、全然頭が回っていなかったのだ。
どうも手ひどく怒らせたらしい。
それを智が理解するまでにも、またちょっとの時間が必要だった。
少年が大股に----歩き方まで全身不機嫌の権化みたいに----ドアの向こうに去って行く。外は寒いが、少年はデニムの上着一枚で玄関から出ようとする。智がおろおろと彼の座っていた近辺を探すが、コートやら手袋やらの忘れ物は見つからない。
この寒空の下、あの格好で家へ戻るのだろうか。いや、そもそもあの格好でここまで来たのだろうか。
冬の日は短い。もう外は闇の色をしている。
どう考えても寒いに違いない。
智は元々自分が寒がりなので、想像するだけで震えそうだった。少年は、そんな智の心など知るよしもなく、スニーカーのゴム底をキュウキュウ鳴らしながら出て行ってしまった。
元々お酒があまり得意ではない智は、納会と称して盛り上がる宴会も一次会で退席した。お酒も得意ではないが宴会も得意ではない。どうもそのペースにはついて行けない性格のようだ。それは周りもよく解っていることで、無理に引き止められることもなく智は居酒屋を後にした。
居酒屋は図書館から歩いて行ける距離にあった。ちなみに智のアパートも、無理すれば歩けないこともない距離にあった。年末の街はタクシーを待つ人の列も多く、寒がりの智にすればその列に並ぶより歩いた方がマシに思えた。裾の長いコートに、手袋をした手をポケットに突っ込み、顔も半分マフラーに埋もれているが、それでもまだ寒くて仕方ない。十一月に髪を切ったことを後悔したり(うなじがすーすーするのだ)、自分の前世はアフリカの砂漠あたりで育ったんじゃないだろうか、と思ってみたりしても、全然状況はよくなるはずがなかった。
だが、図書館の前に戻った時、何故か目がそこに向いてしまった。
いつもなら俯いてひたすら帰ってコタツに入ることしか考えられなくなっている自分の思考回路が、そこで立ち止まってしまった。
見たような気がしたのだ。あの、自分が手ひどく怒らせてしまった少年の姿を。
そしてそれは気のせいではなかった。図書館の玄関で、黒っぽいジーンズの膝を抱えてがたがた震えているあの少年がいた。
智の足が止まった。
「あのー……」
何を言おうとしているんだろう、自分は。
あのー、と言ってから改めて自分に詰問してみたところで答えは出ない。上目遣いで睨まれるとそれはそれは迫力のある不機嫌顔。だがそれを怖がっている余裕は智にはない。
声をかけたはいいが、何を言いたいんだろう。
「……んだよ……」
不機嫌顔がだんだん戸惑い顔になっている。睨まれてない分だけ気が少し楽になった智の頭の中で、突然誰かが脳と口の神経をカチッとつないだような気がした----が。
「待ち合わせですか?」
……つなぐべきはその回線じゃないような気がする。
言った智の心の中でも自分で頭を抱えてしまったが、目の前の少年はもっと面食らっている。と思ったが早いか、ぷっと吹き出しておかしそうに笑い出す。
めまぐるしい(と智には見える)。
「んなんじゃねぇよ」
少し打ち解けてくれたような気はした。多少、不機嫌度が下がったようだ。だから、
「じゃあ、どうしたんです? 朝からずっといらっしゃいましたよね」
つい聞いてしまった。
一瞬また怒鳴られるかと思ったが、さっきの「待ち合わせ」が効いていたらしく、少しつり目気味の目はまだ笑っている。そうしていれば無邪気な少年に見える。だが、
「別に。かんけーねーだろ」
目は笑っていてもどうも打ち解けたわけではないようだった。
「あー……でも、いつまでここにいるんです? 夜は冷えますよ」
言われなくても解ってる。そう目が言っている。笑いがすっと色をなくした。また怒鳴るんだろうか。覚悟はしたのだが、
----彼は、目をそらした。
横顔はまだ不機嫌なまま、それでも、その中にわずかに迷っている色が見えた。智は自分の低速思考回路を何とか加速しようと頑張ってはみたが、それより先にまた誰かが変な回線をつなげてしまった。
かちん。
「もしかして、行くところがない----んですか?」
それは完全にこの少年の中の地雷を踏んづけてしまった。黒のジーンズが立ち上がる。意外と小柄。そう思っている間に、
「ってめーにはかんっけーねーだろー!!」
はき捨てる。そして智を押しのける。展開について行けなくてよろける智にかまわず、また大股で何処かへ行こうとする。
そこに地雷があったということは。
恐らくそれが図星だったのではないか。
智は小走りで少年に駆け寄る。今度の回線の小人は、智の中から何を引っ張り出したのか、とんでもない言葉を智に喋らせた。
「行くところがないなら……ウチに来ますか?」
御家瀬 紅の口はしばらく凍りついていた。
目の前の長身の男は、どうも全体的にのほほんとしていて何をするにもロウペースだが、そのロウペースの口が珍しくよく動いたと思ったら、
行くところがないならウチに来ないか、だと?
この男が何を言いたいのかよく解らない。ただにこにこにこにこと笑っているだけであんまり深く何かを考えている風には見えなかったが、それは彼が自分よりずっと大人で、自分には理解出来ない壁を持っているだけかも知れない。
どちらにしても、行くところがないのは本当で、どうしようもなく寒いのも事実で、これからの長い夜に図書館ほど暖房完備で長居してもいい場所をあいにく知らなくて、もちろん何処か泊まるお金もあてもなくて、お金があったとしても十四歳の子供を独りで泊めてくれるホテルがあるはずもなくて、自分の無計画さに苛々していたのも確かで……。
「あのー……」
そのスローペースがまた口を開いた。
「……僕はとっても寒がりな方でしてね」
?
紅は、どうもこの男のペースに乗れずにいる。いきなり何の話を始めたのかと思ったら。別に自己紹介されるような覚えはないのだが。
「そのー……」
何なんだ?
「つまり……人が寒そうにしているのを見るだけで、すごく寒くなる方なんです」
……開いた口がふさがらなかった。
寒そうにしている人を見ているのが嫌だから、家に来いと言っているらしい。その論理はどうも飛躍し過ぎのような気がしたが、さっきから悪態ばかりついている自分がふぬけた顔をしているのが彼を安心させたらしく、
「ついて来て下さい」
にこーっと、その笑顔が言い残して、歩き出した。
誰が行くって言ったんだよ。
頭の片隅でわめく自分を、寒さで震えている自分の方が押さえ込んでしまった。とにかく今夜をどうにかしないと、これからどうしようか考える余裕もないだろう。
とにかくもう無断で飛び出してしまったのだから。----十三年間過ごして来た孤児院から。
1LDKのこの男のアパートは、LDKの中に生活のすべてがギュッと押し込まれていた。唯一の「部屋」は、男が開けた時にちらりと見えた限りでは、壁がない代わりに本棚が見えた----一面、壁中、本だらけだった。
ベッドまでリビングに置かれている。コタツとベッドと座布団が、まさにリビングに敷き詰められているといった風情。
男はコタツの電源とファンヒーターの電源を入れると、紅ににこにこと笑いかけてから何かを言おうとしたが、それより早く紅はコタツに潜り込んだ。赤外線の熱は冷え切った足の温度をじんじんと音をさせながら上げて行く。男は満足そうに頷くと、ベットのシーツ交換を始めた。それから、押し入れからごそごそと布団乾燥機を引っ張り出して来てベッドの上の布団とシーツの間に差し入れてスイッチを入れる。そこまでやってから、男も寒そうに手をすりながらコタツに入って来る。
多分二十代後半。紅より二十cmは高いと思われる----一八〇cmくらい----ひょろっとした長身。顔もやや面長で切れ長の目をしている。自己主張が激しく一本一本がてんでな方向を向いてしまう紅の髪とは正反対の、すごく腰のなさそうな柔らかそうな髪をしている。
物腰のすべてがふわふわしていてスローペースで、穏やかで柔らかい。他人の警戒心をするする解いてしまう雰囲気を持った男だ。
紅は自分の向かい側で相変わらずにこーっとしたままの男がお茶を入れるのをぼけっと見ているしかなかった。
緑茶。さほど好きなわけではないが、芯から冷え切っている体には安堵感を運んでくれる。こんなにおいしいと感じたことは初めてかも知れない。
この男の雰囲気のせいか、居心地の悪さを感じることはない。孤児院には十三年もいたのに、ずっと居心地が悪くて、落ち着けたことなんてほとんどなかったのに。
初めての部屋で、まだ名前も知らない他人と向かい合っていると言うのに。
名前も。
「……誰なんだよあんた」
突然の紅の言葉に、一瞬笑顔がきょとんとしてから、こんどはおかしそうに少し笑って、「あー、その……あの図書館で司書を、」
「んなこたわーってる」
図書館から追い出された段階でそんなのわかり切ってる。まくしたてそうになって、それはこの男のペースにそぐわないことに思い当たって、少しセーブしてしまった。
----完全にペースを狂わされている。
「えー……と言うと、そのー……」
「名前」
ぶっきらぼうに。そんなこと知ってどうするんだ、ともうひとりの自分がわめく。
「……」
目の前の男も、もうひとりの紅と同じ考えだったらしく、数回、戸惑いの瞬きをした後、それでも、またそのぽわっとした笑顔に戻り、「江成 智、と言います」
紅は、男は名乗ったら自分の名前も尋ねるだろうと覚悟していた。自分を捨てた親がメモに殴り書きしていたという名前。すごく珍しい苗字ではあるが、恐らく偽名だろうと、孤児院のシスターたちが噂しているのを聞いたことがある。
そう、紅には最初から「本名」がない。名前という記号の羅列があるだけで。
しばらく、名前をきかれると思って構えていた紅の思惑に、どうも智は気づかなかったらしい。ずずぅとおいしそうにお茶を啜ったかと思うと、ため息をひとつついて、それから立ち上がった。
何も聞かれない。
そうか、と呟く。
----俺に興味があるわけじゃないんだ。
考えてみればそれはその通りで、別に行くあてがないとはっきり言ったわけではない。多分、家に戻る前にちょっと体を温める場所を提供したくらいの考えでしかないのかも知れない。今までも、似たように震えていた子供たちにも同じことをしていたのかも知れない。
気のいいだけのお兄さん。妙に人に安堵感を与える雰囲気を持った。ただそれだけ。
智は、バスルームへ入った。しばらくして水音が始まり、風呂の準備をしているらしいことは紅にも理解出来た。
体が温まって安心したら腹の虫がキュルキュル鳴き出す。朝から何も食べてないのだから当然だ。目の前に置かれた菓子入れの蓋を取ると、大きなせんべいが数枚入っていた。智に断りを入れるより早く手がそれに伸びていた。
ばりばり大きな音がする。
バスルームから水音を引き連れて戻った智が、その光景に何だか嬉しそうな顔をしている。
----読めない男だ。
「あー……御飯と味噌汁でよければ……」
鍋がかけっぱなしになっているガスコンロに火を点ける。それで初めて、男の笑顔の理由が分かった気がした。多分、今、自分は、今までの不機嫌な仮面をつけていなかったのだ。せんべいに夢中になっていて。
誰も悪いわけじゃないが何だか苛々した。自分の中の「子供」を見られた気がした。嫌で仕方なかった。----が。
食欲には、勝てそうもなかった。
かちゃかちゃ派手な音が自分の前で響いている。
智は、愛用している縁なしの眼鏡をかけて文庫本に目を落としてはいても、その内容は全然入って来なかった。人よりは読書スピードは速い方だと思っている自分が、こういつまでもページをめくらないでいると、いい加減、少年に怪訝に思われるんじゃないかと思ったが、幸い彼は食事に夢中になっていてそれどころではなさそうだった。
食べている時の顔は無邪気な男の子だ。元からつり目気味なので黙っていればそれだけで少し表情がきつくなってしまう、
そういう造りの顔なのだ。多分、いろんな意味でそれで損して来たのかも知れない。
----だから、言葉で鎧を作っているんだろうな。
多分、自分の半分くらいの年齢の少年を前にして、智はそんな分析をしてひとりで頷いていた。
だがしかし。
拾ってしまったはいいが、彼をどうしようか。
あんまりにも寒そうにしていて、それを見ているだけでこっちも寒くなるのは本当だったが、でも、自分でも予想もつかないことを言ってしまったものだ。なんでまた、家に連れ帰って来てしまったんだろう。自分の中の「回線の小人」に口があるならぜひ説明して欲しいのだが、それはどうも期待出来ない。
恐らくは家出少年なのだろう。家族と激しいケンカをして、売り言葉に買い言葉で飛び出して来た、といったところか。前もって準備された家出なら、十二月にこんな薄着ではいないし、多少のお金も持っているだろうから、何も図書館の前で震えていることはなかったはずだ。マンガ喫茶とか、寒さをしのげる手段はあったはずだ。
突然の家出なのだ。衝動的な。
だとすれば、これで警察に連れて行って家族に引き渡したとしても、事態がよくなることは多分ないんだろう。寒さや空腹にめげる程度ならもう家路についていていいはずだ。でも、家には帰りたくなくて、全然見知らぬ他人にはついて来てしまった。
どんな確執があるにせよ、相当の覚悟はあるらしい。
昔の自分は親とそういう類のケンカは出来なかった。智の父は学者だったし、智は小さい頃から本の虫だったし、その二人の間のケンカと言えば、母いわく「教授と助手が研究テーマでもめてるみたいな」口ゲンカになることが多かった。しかも二人ともスローペースなので、やっている当人たちと母以外はもしかしたらケンカとは思わなかったかも知れない。
そんな風にしか生きて来なかった智にとって、この少年は別の時間を生きている気がした。少し羨ましくも感じるくらいだった。
----少年のかちゃかちゃが止まった。
彼は、また不機嫌の仮面を戻していた。そのまますっと立ち上がり、バスルームの方へ歩いて行く。トイレにでも行くんだろうと、さして気にも留めてなかったが、少年が大股で戻って来たので、ようやく本から目を上げた。
「風呂が……」
----。
すっかり忘れていた。
独身寮に住んでいた時、独り暮しの割に水道代だけバカに高いのは何故だと経理に怒られたことをまた思い出してしまった。そのたびに何かタイマーのようなものを買わなければと思うのだが、店に行く頃にはキレイに忘れているのだ。
ユニットバスなのがせめてもの幸い。一定以上の水位にはならないように、風呂釜の途中に排水溝がついているからだ。
「……あー……またやっちゃいましたねえ……」
止めに行こうと立ち上がると、
「止めた」
少年はむすっとしたまま、まるでそれが悪いことみたいにぷいっと横を向く。
「それはどうも……」
ありがとう。
だが彼は智にお礼も言わせてはくれないらしい。再びするっとコタツに潜り込むと、所在なげにちらちらと部屋の中を観察したりしている。
そりゃ所在ないに違いない。このくらいの年頃が喜びそうなものなんてこの部屋には全然ない。テレビくらいのものか。だから、
「……あのー……」
----そう睨まなくても……。
心で苦笑しながら、
「お風呂、入ります?」
多分、意図はないのだ。この智という男の言うことにいちいちびっくりしていたのではこっちの神経がもたない。
今度は風呂と来た。
家に帰るまでの間の暖を提供したとか、家出少年を警察に連れて行く前にちょっとゴハンを食べさせてあげたとか、そういう雰囲気からどんどん遠ざかって行く。
このままじゃ泊まれと言いかねない。いやそれはそれで、今夜の紅にはとてもありがたいことではあるのだが、それにしてもいくらなんでも人が良すぎやしないか。
人に親切にされたこともなければ人に親切にしたこともない紅には、あまり理解不能な回路がそこにあった。
そしてまた自分も、その回路の上を流されてしまった。狭いユニットバスの中で、何でこうなってんのか誰か説明してくれ、とわめくもうひとりの自分と葛藤するはめになっていた。
何もかもが初体験だ。知らない他人にことごとく親切にされるのも、あれだけぞんざいな言葉遣いで喋って嫌がられないのも、……
----風呂を独占するのも初めてだ。
変なことに思い当たって苦笑する。入浴は、孤児院では他の子供たちと決められた時間内で片付けなければいけない日課のひとつのような気がしていた。他の孤児院はどうか知らないが、あまり裕福な施設ではなかったから。
----水面の下にある自分の膝に目を落とす。嫌でも目に入る火傷の跡。シスターたちの噂話でしか知らないが、それはどうも母親が自分を虐待した痕跡らしい。物心つかないうちの虐待が人間にどんなトラウマを残すのか、紅には判らなかったが、多分何かの影響はあるのだろうなと思っていた。
シスターたちは話してはくれなかったので盗み聞きをするしかなかったのだが、紅が一歳(推定)の時に施設の前に捨てられていた翌日から、警察も近所で聞き込みをしていたらしい。母親の目撃証言を求めて。
母親が見つかるまでのつもりが結局十三年いることになってしまったが、いくつかの証言から、決して忘れることの出来ない言葉を紅は聞いてしまった。
ある女性が、赤ん坊を施設の前に置き去りにするのを見た。
その女性は、赤ん坊とは別に、三歳くらいの女の子を連れていた。
----自分は、選ばれてしまったのだ。捨てる子供として。恐らくは姉と思われる子供は、母が手元に置いた。でも、
……自分が捨てられた。母は、姉を「選んだ」のだ。
その時から、紅の言葉は変化していた。どうしようもなかった。自分の存在意義を、母親がばっさり捨てたのだということが----子供という存在ではなく、紅というひとりの人間の存在意義を、名指しで否定されたということが----紅に明らかに変化をもたらしていた。
元々集団生活には馴染めない子供だったが、それ以来ますます馴染めなくなっていた。学校にはとりあえず通ってはいたが、通っていただけで友達も作らなかった(だからこそ、こんな時に泊めてくれと押しかける先がないわけだが)。
----自分の体の周辺ではねる水音でふと我に返る。思い出したくないことが頭の中を駆け巡る。
人の親切に報いる方法を、自分は知らない。アリガトウの言い方さえも。
湯気とため息が入り混じる。紅は頭の中のつらい思い出運動会を振り払うと、栓を抜いて立ち上がった。流れて行く水の渦を見ながら、彼は----智は自分をどうするつもりなのだろう、とぼんやり考えていた。
智には、どうするつもりなのかなんて考えがあるわけではなかった。
目の前のことから考えなければならない。この冬空に少年を放り出すことはとても自分には出来そうもなかったので、とりあえず布団乾燥機を片付けた後のベッドを少年に提供することに決めた。
予備の毛布をひっばり出して来る。何も予定のない休日は本を読んだままコタツで寝入るなんてよくある話だが、コタツで寝ようと決意して寝るのは初めてかも知れない。
なかなか寝つけなくなる予感はあったので、書斎から電気スタンドと何冊かの本を持ち出しコタツの横に置いておく。そして眼鏡をかけ直し、たまに鳴る水音を気にしながらさっきの本をまた開く。
----無理に決まっていた。読むという行為の手順が頭からすっぽり抜け落ちたように何も頭に入らない。
自分はどうする気なのか。明日になったら、彼をどうしようか。やはり警察に連れて行くしかないのか。でも、家に戻っても何だかまた同じことを繰り返しそうな気がする。そしてまた、閉館まで何もしないで図書館でぼーっとしているような気がする。そしてまた、自分が拾ってしまいそうな----
水音が急に激しくなった。流しているのだ。ということは、出て来るのだ。普通に考えれば入った以上出て来るのが当たり前なのだが、智はそれがまるで不測の事態のようにおろおろ慌てている自分に気づいた。
ちゃんと言葉を組み立てようと努力する。セリフを作っておけばいい。出て来たら、----ベッド使っていいですよ、とかなんとか。もちろん無理強いするつもりはないから、もう帰りたければどうぞご自由に。コート貸しましょうか?
でも顔を見たらそんな言葉は全部引っ込んでしまった。さっきまで大暴れしていた髪の毛が濡れてぺたんとしている。
その様子は、まるで打ちのめされた小動物のようで。
「----あー……」
何があーなのか自分でも理解出来ない。だがとにかく、完全に予想を裏切られた。この短い時間でバスルームで何が起きたのか判らないが、彼の表情からさっきまでの棘が消え失せてしまっていた。
さっきの状態が普通かどうかなんて智には判るはずがないのだが、でもそれでも、やはりこの状態は普通でない気がしていた。
ものすごく気まずかった。どういうわけかこの少年は怒鳴ったりむすっとしている方が「普通」に感じる。
一瞬の空白がかなり長く感じた。だが、ようやっとのことで、智は自分の準備した努力だけは主張することが出来た。
「ベッド……使ってもいいですよ」
そして自分自身をバスルームに連れて行くことに決めた。湯が溜まるまでぼけっと待っているしかないような気がしたので、今度だけは水道代もムダになりはしないだろう。
紅の心の中で子供が眠り込んでいる。
バスルームに消えてしまった智の背中を見送りながら、その子供を起こさないためにはどうしたらいいだろうと考えあぐねている。
長らく自分の中に封印して来た自分。子供が子供であることの特権。甘えること。すがること。頼ること。
すべて捨てなければと思っていたのに。
拒絶された続けるものだと思っていたのに。
何故、この男は----智は、この子供を揺り起こそうとするのだろう。
起こさないために、紅は明日のシミュレーションをしてみることにした。恐らく智は自分を警察に連れて行く。そして、施設が自分の家出を届け出ていれば、そのまま強制連行であの生活に逆戻りだ。
ただそれだけだ。
この優しさを信じていけない。こんなのが永遠に続くわけがない。ただ親切なお兄さんは、寒さの中でがたがた震える子供を放っておけなくて、一晩だけコタツで寝る決意をした。
ただそれだけだ。
ただそれだけだ。
ヤケのように自分で自分にリピートし続けなければ、紅の中の子供はむずむずと体を動かす。
----起きないでくれ、頼むから……
この子供が起きてしまったら、元の生活に戻った時、きっと自分は生きて行けない。自分は棘を持っていると判っていても他人の温度が欲しくなってしまったら……
他人に棘を突き刺してまで、他人を傷つけてまで、自分は触れようとしてしまう。
そして自分も傷ついて、無傷なのに傷ついて、苦しんで。
どうしようもなくなる。
そんな気がした。
バスルームで物音がして、慌ててベッドに潜り込む。多分今の自分は不機嫌の仮面をつけていない。何故か、とても怖かった。智に知られてしまうのが。自分の中に眠る子供を、見られてしまうのが怖かった。
もう眠ったと思ったのか、智は上がって来てしばらく何やらごそごそやった後、部屋の灯りを消した。布団の隙間から覗くと、コタツには到底入り切れない体の半分に何枚かの毛布を重ねて、電気スタンドの薄明かりでハードカヴァーを読みふける姿が目に入った。
とことん本が好きらしい。ここに来てから紅に話しかける以外では本を読む姿しか見ていない。
ふっと智が目を上げる。
恐る恐る首を回す。その方向は、ベッドだ。
紅は慌てて息をひそめる。幸い、紅が見ていることには気づいていないようだ。
智はただ無言で、紅の方をじーっと見つめている。逆光になっていて表情はよく見えない。紅は、はっと思い当たって、わざとらしく寝息らしき呼吸音を必死に出してみた。
正解だったらしい。智がほおっと大きなため息をついて本に顔を戻したからだ。
紅の中に、どっと疲れが広がった。しかしそれは不快な疲れではなかった。今日一日、何もしていない割にいろんなことがあったような気がした。
だが、とりあえず今はここにいる。布団乾燥機のおかげで暖かいベッドの中に。
ようやく眠れそうな気がした。安堵の中の深い眠りへ。たとえそれが一晩だけの安堵だとしても。
1. 眠る子供 end.
2. フローラル
年越イベントは佳境に近づいていた。いつもはクラブでの0時なんて、これから客がやって来るという入口の時間帯だが、この日ばかりは事情が違う。二十三時頃からだんだんフロアのテンションが異様になって来る。性別不明の輩がひしめき合っている。
水野 涼子は、そんなフロアの性別不明連中の中でひときわ背の高い友人----内藤 治巳を目で追っていた。
治巳は男だが、その身長さえどうにかなっていたらどう見ても女にしか見えない。涼子の同性の友人たちよりはるかに化粧に凝っているし、小さなミシンを操って自分で衣装も作ってしまう。
----涼子が初めて、治巳のドラァグ・クイーンという趣味の話を聞いた時、デフォルメされた女を演じる(明らかに)男性の姿を想像した。もちろんそういう人たちもたくさんいて、ばさばさ音がしそうな付けまつげや、素顔が全く判らなくなるほどの厚化粧がフロアには溢れていたが、その中にいると治巳は異様とも言えた。
彼は、美しかった。男にしておくのがもったいないほどに。
だが治巳は男だったし、本人いわくゲイでもないようだった。ただの趣味として化粧を始め、ビジュアル系バンドではなくドラァグに走った。どうもそれだけのようだった。
涼子にすれば治巳は友達というより「性格のサバサバした姉」のような感じだった。ゲイではないらしいが、その治巳にとって涼子はとりあえずオンナではないらしい。その関係の微妙さは、最初のうちは同性の友人にきかれると説明出来ずにいつも苦労していたのだが、いい加減周りも尋ねなくなりつつあった。何をどう勘繰っても二人に色恋沙汰の雰囲気なんてまるでありはしないのだから当然なのだけれど。それに、同性の友人たちも治巳に一度会えば理解するのだ、涼子にとって治巳はオトコじゃないんだということが。
ただ……。
時々、この頃、どうしようもなくその存在が揺らぐことがある。まだはっきり自覚出来てはいないけど。あんまり至近距離に近づかれると、どうしていいか判らなくなる。そんな時涼子は、その自分の動揺を説明する言葉を探せずに苛ついてしまうのだ。
----新年へのカウントダウンにフロアがそわそわし始める頃、治巳は涼子のところへやって来た。通りすがりに、談笑していた連中の目をたくさんたくさん奪いながら。
目立つに決まっているのだ。
一八〇cmを超える身長はヒールのせいでさらに高い。肩甲骨辺りまでの目の醒めるようなブロンド(と言っても元からではなく、この日のために丁寧に脱色したのだが)、その前髪の辺りに数束のショッキングピンクがふんわりウェーブを作っていて。
九cmのピンヒールなんて女性でもはきこなせる人はそんなに多くない。そのすぐ上からは大胆にスリットの入ったタイトスカート。一見チャイナドレスにも見えるがそうではない。ブラックライトを反射する白。緩やかなドレープに包まれた上半身から伸びるしなやかで細い腕。細い細い銀色のブレスレットがたくさんたくさんひしめく左手。
今日のマニキュアは同じく白。ちょっとラメ入り。
薄化粧にしか見えないのは実際に薄化粧だからで、それでも目の周辺だけは、そうとは判らないけどすごく作り込んでいる。
そういう「装備」のことは抜きにしたってとにかく元が「美人」。目立たない方がおかしい。
細い眉は手入れしなくてもいい形をしている。今日の口紅はピンク系だけど塗らなくても唇は綺麗なピンク色。顎の細いラインは誰もが綺麗だと認めるはず。
何もかもが、造りが違う。少し彫りの浅いギリシャ彫刻のようだ、と表現した友人もいた。
----左目の下のホクロが、涼子に向けてウインクする。
「せめて〇時の瞬間くらいフロアに来ない?」
大音量の中でもくっきり届く。少し丸い声。
「いやあたしはいい。言ったでしょ、治巳を見に来ただけだって」
見ているだけで充分だった。教育大のキャンパスでも格好はいささか派手だが、ここまで作り込んではいない。
くつくつ、おかしそうに笑う。三十cm、いやヒールも含めて四十cm近く上から落ちて来る視線に一瞬慌てる。治巳は涼子の目の前まで顔を寄せて、「もう二度とないんじゃないかな、涼子、いい加減飽きて来てるでしょ」
それもその通り。
「人生経験だと思って」
いくら外見がなよやかでも腕力は男だ。ずるずる引きずり出されたら涼子にはなす術がなかった。
「……汗かくの嫌いじゃなかったっけ……」
「クラブは別」
またたくさんの目を釘づけにしながらフロアに戻る。すっかりハイテンションのフロアの中でもみくちゃにされて涼子は声も出ない。
治巳が、ふわっとステップを踏む。シャープだけどドレープが後から追いかける軌跡は優雅。その動きで、フロアの人波が動く。涼子はしばし茫然としていた。
治巳の周りだけ、フロアがわずかに空いている。治巳は周りで踊っていた人たちの視線だけくるくる絡めとって、自分の世界へと入って行く。
一挙一動、何もかもが洗練されている。こういう場所での振舞い方を知らない涼子とはえらい違いだ。
ぼんやりしているうちに年は明けようとしていた。DJがレコードを止めた。カウントダウンが始まる。人の足が止まる。治巳によって出来た隙間のおかげでもみくちゃからは解放された。
客の手が上がり、声が斉唱する。数字だけが響くフロア。ワクワクがひしめくフロア。そして、
ゼロ。
あちこちでぱんぱんクラッカーが鳴る。明けましておめでとう! ハッピーニューイヤー! 声が飛び交い、手が飛び交う。グラスの乾杯が、紙のリボンが、フラッシュライトが、ピンスポットの光が。
そしてまた大音量の音楽。
治巳の腕が涼子をまたつかまえた。
「おめでと」
涼子の耳元で、丸い甘い声が、フローラルの香りと一緒にそう囁いた。
パーティはそれからもボルテージを上げていたが、治巳と涼子はそこから抜け出していた。キャッシャーにいたお姉さんは、治巳が帰ってしまうことを随分残念がっていた。
確かに、彼はこのパーティに明らかに華を添えていた。それでも、治巳は涼子がへとへとなのを見てとって抜け出して来たのだ。
「……別にいいのに。ひとりでも帰れるし……」
タクシーの中で、涼子は困ったように言う。治巳は、
「いやいいのいいの。何か今日はいつもの百倍は視線浴びた気分。もう充分」軽やかに言ってから、ふふ、と小さく笑い、「それに一番見せたかった人にはもう見てもらえたしね」
治巳にそんな風に思う人がいるのか。涼子は何故かそれまでそんなことを考えたこともなかった自分に気づいて少し驚いた。
そりゃ「大切な人」の一人や二人いたっておかしくない。これだけ綺麗な人だ。男からも女からも平等に言い寄られているらしい話も聞いている。治巳のクラブの人脈は涼子には未知の領域だ。涼子との間に色恋沙汰がないからと言って、その他の人との間にまでないとは全然言い切れない。
「そうかぁ。もしかしていつも以上に気合入れてた?」ふざけて涼子が問いただす。
「そりゃあもう、ものすごーく!」楽しそうに答える治巳。
何だかほほえましい。笑顔が輝いている。でも----涼子にとって、それは何故かほんの少しせつない。
「で? その人は何か言ってくれた?」
「ん。いつも以上に気合入ってるってさ」
「はは。その人もそう見えたんだ」
「いや、その人がそう見えたんだよ」
「その人『も』でしょ」
「その人『が』だってば」
治巳の言わんとしているところが一瞬つかめない涼子に、
「……いや、別にいいんだけどね」
またふふっと小さく治巳が笑う。
涼子はようやくその意味に辿り着いて何故か真っ赤になる。----それって、
「つまりあたしなわけ?」
「だって普段絶対来ないじゃん。その人が見に来るって言ったんだから、やっぱり張り切っちゃってさあ」
「……なんだかなあ。あたししか張り切る相手がいないの?」
「まあね。そりゃ友達は多くないわな、コレじゃあ」
ドレープのふわふわに触れる。
「……教育大だしね」付け足した涼子に、
「……言わないでよ、それ……」げんなりした顔で治巳が答えた。
二人は同じアパートの二件挟んだ部屋にそれぞれ居を構えていた。と言ってもそれは単なる偶然で、知り合ってみたら二件挟んだお隣さんだった、という方が正しい。その近くの大学に通う一応は大学生だ。
涼子の実家は商売をしていて年末年始も小ぜわしく、帰っても休んだ気がしないので、あえて時期をずらして冬休みの後半に帰省するのが常になっていた。
治巳の方は年末年始はたいていクラブにいた。こういう趣味を持ってからは帰省しづらいというのもないわけではなかった。親はもう諦めているらしく帰っても特には何も言われないが、どうにも気まずい雰囲気になるのだ。
涼子は学校で浮きまくっている治巳のことが入学当初から気になっていた。他の人たちは遠巻きで見ているだけであまりお近づきになりたくなさそうだったので、一年の時、児童心理学の講義で数人のグループで事例研究のレポートを上げる課題が出た時に思い切って声をかけてみた。その時からの付き合いだ。
治巳は先生になりたくてという動機はなかったらしい。それは涼子も同じだった。でも治巳のような教師がいたらそれはそれで実は面白いんじゃないかと涼子は思っていたが、治巳がここに来たのは親の希望であって自分の希望ではなかったらしい。
親思いなんだか親不孝なんだか。その話をしていた時の治巳の格好を見ながら涼子は笑っていた。まだ黒かったけどその上から虹色に染めた髪にローズの口紅。Aラインのペールピンクのシャツは腰の----ちょうどベルト辺りのところだけレースのように複雑な模様で切り取られているが、それを切り抜いて端の始末をしたのは治巳自身だと聞いてもっと驚いた。キャンパスで同じ服を着ている子がいて(当然女の子だ)、それが嫌で加工してしまったらしい。
服飾系の専門学校へ行くべきである。どう考えたって。
だが、そうしていたら恐らくこの二人は出会うことはなかったのだが。それを良かったと涼子が思えるようになったのはつい最近のことだ。
----タクシーを降りて、治巳は涼子に声をかける。「新年会、して行かない?」
「いいよ。----あのワイン開けてくれるなら」
「えー?」一瞬むくれてから、「もう、仕方ないなあ……」
あのワイン。治巳が懸賞で当てたと言っていたワインだ。ワインに詳しくない涼子だが、治巳がすごく大切にしていたのだけは知っていた。涼子はことあるごとにこのワインのことを持ち出すけど、治巳は頷いたことはなかった。
……今日は素直だな。
治巳は鍵を開ける。涼子にとっては勝手知ったる他人の家だ。遊びに来ることはしょっちゅうだ。泊まったことも何度もある。が、男女の間で起こるようなことは、今まで起こったことがない。涼子の同性の友人たちはそれをなかなか信じないが。
「トイレ借りるー」
涼子が、玄関のすぐ横のトイレに真っ先に入る。治巳は生返事をして部屋へ。
「……やれやれ……」
治巳の手が、棚に置かれたワインの瓶に伸びて、
「ついに君の出番だよ」
瓶に映る自分に向けて少し歪んだ微笑を浮かべた。
テレビは年が明けたバカ騒ぎを終えて穏やかな暇つぶしに入りつつあった。
治巳は慣れた手つきでコルクを抜いて、綺麗な赤をグラスに注ぐ。涼子の手がグラスにかかる。
「ちょっと、乾杯くらいしようよ」
「判ってるって」
涼子はグラスを目の高さまで上げる。ぶどう色のレンズから部屋を見回す。
もうひとつのグラスにもワインが満ちて、細い指がそれを抱える。
「はい、お待たせ」
「……何に乾杯するの」
「何でもいいじゃん」
グラスが鳴る澄んだ音が響く。
涼子が先に口をつけた。限りなく甘い。どうも女の子の好みそうな味。涼子自身はお酒が得意な方ではないのでその甘さはおいしかったが、治巳のワインの好みまでは考えたことがなかった。
----こういうのが好きなのかな。
目の前でにこにこ笑っている治巳の方をちらっと見る。
涼子は、テーブルに置かれた瓶のラベルに目を走らせて、その数字を目で追う。それを解釈した時、「あ」と思わず声が上がる。
大事にしていたのはこのせいか。
「……治巳と同い年なんだ」
「え? 何が」怪訝そうに治巳。
「このワイン」
自分の生まれ年のワイン、というのはそれだけで何だか嬉しいものだ。それが判った途端、涼子は何だか申し訳ない気分になった。
「……ごめん」思わず口に出る。
「何が?」
「いや、そういう謂れがあるものだとは思ってなくて」
「謂れだなんて……。別にいいんだ。どっちにしても最初に開ける時は涼子とって決めてたしね」
「そうなの?」
「うん」
いつもの笑顔だ。
人を決して緊張させることのない、ほんの少しの高揚感を含んだ笑顔。
治巳の。
その顔が、涼子の向かいから隣に場所を移した。
「それに、俺はこのワイン、『自分と』同い年と思って開けないでいたわけじゃないよ」
「だって同い年じゃない」
「うん、同い年」
「……じゃあ」
誰と同い年なの?
涼子の中で針が揺れている。そんなに近づかないで、とはまさか言えない。
治巳の端正な顔がいたずらを仕掛けた子供みたいに笑っている。
「……あたし、と……?」
「正解」
言った途端、涼子の視界は一瞬真っ暗になった。
----自分の中で揺れていた針はその予感だったんだろうか。目の前にあるのはふわふわの金髪。言葉を塞がれただけなのに、全身を縛られたように動けない。瞼までも。
あんまり元々恋愛は得意ではない。「女の子」になり切れなかった涼子は誰か異性が自分に対してそういう興味を抱くとは思えなかったせいもある。
----キスの時は目を閉じた方がいいのかな。
などと思っていてもそれさえ自分の意志通りにはなりそうもなかった。
かちんこちんに固まってしまった全身の中で、治巳に触れられている部分だけ力が抜けそうになっている。唇、そして首筋----背中。
唇が離れるまでの時間は涼子にとってとても長く感じた。そのまま、距離は離れない。涼子の肩の上に治巳の顔が軽く重みを乗せて、治巳の両腕が涼子の体を束縛する。
やわらかい束縛。
「----涼子はこういうの多分嫌いだろうけど……」
いつもより甘い声。
「でも時々どうしようもなくなる。俺の中の『男』の部分を鍵かけて閉じ込めておけなくなる……でも」
多分治巳は緊張していた。涼子にそれを判らせるなんて、滅多にないことだ。
「でも……多分イイコでいられる。俺はね。だって涼子を失いたくないから」
「……」
「だから----」
声がいつもの調子に戻っている。少しくすくす笑った後で。
「嫌だって言われたらちゃんとやめられる。そのくらいの理性はあるからね」
言うが早いか、涼子の体から手が離れた。その感触が涼子の中に不思議な熱を呼び起こす。一度離れた手が、再び触れた時、それはまっすぐに腰の辺りにやって来て、シャツの下に滑り込む。
逃げられない。
かと言って、多分嫌ではないのだ。
今度はちゃんと目を閉じた。もう永遠に開かなくても良かった。
----はじめて傷つくのなら、それが治巳である方がいい。フローラルの甘い香りと、丸い丸い囁きの中で。
シャワーの水の流れからピンクがなくなった。鏡の中の治巳はずぶ濡れの金髪の向こうからおそるおそるこっちを覗き込んでいる。
不安は消えない。
治巳自身は変わらない自信があった。見かけによらず自制心は堅いつもりだった。だからこそ、自分で何かの枷をつけて、それを外してやらなければ絶対に涼子を抱くことなんて出来なかったのだが。
あのワインをそれと決めたのは二年の夏だったと思う。
このワインを開ける時に、自分の中で幽閉していた男を解放することにしていた。
でも----
----不安は、消えない。
自分は変わらなくても、彼女が望むならまた「姉」に戻れる自信はあっても、彼女は、涼子の中の自分は多分変わってしまうはずだから。
絶対に変わってしまうはずだから。
いっそのこと性別が逆だったらその方が楽だったかも知れないと思うことはある。治巳は女になったことはないからその気持ちは判らないが、女性は精神的なつながりで満足感を感じることがあるという。
しかしオトコは、どうしようもなく触れたくなる。物理的にだ。この手の中に、腕の中に、この体で、存在をはっきり意識したくなる。そうしなければ、心の中で暴れているそいつを黙らせることなんか出来そうにないのだ。
でも。
今まではそうして来た。なだめたりすかしたり、泣き落としたり怒鳴りつけたりしながら、心の中のそいつを閉じ込めて来た。そして、ワインを持ち出して、交渉が成立した。
自分の中だけの暗黙の約束。
しかしついにその日は来てしまった。
涼子を『女』にしてしまったのだ。
----バスルームから出る時はたいてい地味なトレーナー姿だ。でもこんな姿を他人に見せることは滅多になくて、その滅多にない例外が涼子なのだが、どうもサバサバし過ぎというか人間関係への執着の薄い涼子はそういうことに意味を持たせるのは苦手らしい。
身長さえ逆転していたら性別が逆と思われても不思議ではない。自分の外見に気を回すことがあまりない涼子の髪はショートカットで、ドライヤーは使わないというより必要ないと言っていた(ちなみに治巳は髪が痛むので意志を持って使わない)。体型も涼子には悪いが色気のかけらもなくて、普段はブラジャーなんて苦しいだけだなんてしれっと言ってのけたこともあった(それに治巳がどんなにどきまぎしたかなんて、全然気づきもしないで)。
世の中のスカートというものの存在を知らないかのように、洗いざらしの綿のシャツにジーンズといった姿が多い。ピンクやオレンジなどの暖色系が嫌いで、選ぶ色は主に青と黒。化粧は----最低限。治巳が騒いだせいか値段のみでファンデーションを選ぶことはなくなったようだけど(お肌に合うかどうかなんてまるで考えてないんだから!)、それにしたって飾ることが大嫌いな性格。
アクセサリーも持っていなければ、髪を止めるヘアバンドすら持ってない。髪が邪魔になったら止めるより切ってしまうタイプ。
とどめにすごくキツい顔なのだ。切れ長でつり目気味の目許に、微笑してやっとまっすぐになる感じの「へ」の字の薄い唇。お世辞にも可愛いとは言えない。磨けば美人とは呼ばれるかも知れないけど、黙っているだけで睨んでると思われかねないような。整ってはいるけど男好きのする顔ではない。唯一女の子らしい部分と言えばその身長。一五〇cmをちょっと超えるくらい。
その小柄な体が、治巳のベッドの中にいた。
そんなに高いものではないが一応羽毛だし、寒くはないよな、などということが真っ先に治巳の頭をよぎった。まだ彼女は全裸のはず。
彼女の服が治巳の足元にじゃれつく。じゃれついてくれんのは服だけだ、などと思う自分の思考回路がおかしくて思わずくすくす笑ってしまう。昨夜の涼子は----
処女だったんだな、きっと。
どうしていいのかまるで判らない感じだった。怖がっているようにも見えた。でも決して治巳にすがることも頼ることもなく、それどころか時々本能的に逃げそうになって----治巳の自制心がぽんっと赤信号をつけるたび、涼子ははっと気づいたように目をかたく閉じるのだ。
正直に言えば非常にやりづらかった。自身の理性との葛藤を何度も繰り返した。でもそんなこと彼女には言えないが。
とにかく、それでも、涼子は。
----彼女は治巳を受け入れようとしてくれたのだ。
服を拾い上げて軽くたたんで。すやすや眠っている涼子を起こさないように、ベッドの端に腰かける。見えていた手はぎゅっとこぶしを作ったまま----昨夜からずっとだ----、おびえた子供のように体をまるくして。
寝顔まで不安そうな顔。
----治巳の中の不安も消えない。
こんなに自分でいられるのは彼女の前だけなのに。
自分の中の『男』以外は、何もかもわかってくれている唯一の人なのに。
失うかも知れない。
衝動的に頭がかあっと温度を上げて、かろうじてため息で冷却する。
覚悟していたはずじゃなかったのか?
鏡の中のずぶ濡れの治巳は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
----たとえ覚悟していたとしても、失ったらこいつは泣き出すだろうな。
治巳は笑顔になろうとして、ただ苦しそうに唇を歪めた。笑顔と呼べる顔ではなかった。
涼子が目を覚ました時、治巳は部屋にいなかった。
ぼんやりと上体を起こして、最初に認識したのはファンヒーターの音。そして自分が裸だということ。
反射的に服を探す。綺麗にたたまれているが多分それは治巳がやったんだろう。自分では、どう脱いだかなんて----いやどう脱がされたかなんてまるで記憶になかった。
順番に身につけようとして、自分の体に汗を感じる。冷え性とは縁遠く血の巡りの良すぎる涼子には、このふわふわの布団はどうも暑かったらしい。人間、服を着ないでいると自分から発熱しようとするので実は裸で寝た方が寒くない、という実験を何処かで聞いたような気がする。
とにかく。
勝手知ったる他人のバスルームに自分の服と共に入る。
水音の直前にドアの音を聞いたような気がした。多分治巳だろうな。そう思いながら、頭から湯を浴びる。何気なく自分の体に触れて----それが昨夜とは違うイキモノに変化している気がして、少しドキリとする。
後悔しているわけではなかった。
バスルームから出ると、治巳はワインが放置されたテーブルの上にさらにものを増やしている最中だった。こんがり焼けたトーストにジャムの瓶がずらずら、真っ白のカップに真っ黒なコーヒーを注いでいる。
「……別によかったのに」
涼子の第一声はそれだった。こんな風になっても今までと同じでいられることに涼子自身が一番驚いていたが、その一言のおかげで何かがすっと取れたような気がしていた。
「朝ゴハンを食べないのは美容によくないです」
「美容……健康によくないんじゃないの?」
「どっちにしろよくないの」
「でも、朝ごはんって言うか……」時計に目が走る。十時半。
「いいの!」
ぷうっとむくれる治巳。今度は涼子がくすくす笑って、
「でもありがと」
テーブルの前に腰を下ろした。
ジャムを手にするたびにそのフルーツの効能(もちろん美容の観点から)を述べてみたり、昨夜のパーティでの他のドラァグ・クイーンたちの噂話を聞かせてくれたり、……治巳は、相変わらず決して涼子を飽きさせることがない。くるくる変わる表情は、それでもいつもちょっとの太陽を隠したような華やかな笑顔を保ったままで。
いつもと同じの。
でももう見えるようになってしまっていた。治巳は、自分の中にひとつの感情を押し殺していたこと。そして今も、押し殺していること。
----いつからそんな風に思われていたのだろう。
治巳に出会う前から化粧や服に興味がなくて、後姿を男性(というか少年)と間違えられるなんてしょっちゅうあるくらいに女には見えない自分なのに、そんな自分がいつから治巳にとってオンナになっていたんだろう。
恋愛に憧れを抱くこともあんまりなくて、そういうこととは一生ご無沙汰かも知れなくても焦る気持ちは全然なかった。遺伝子から恋愛に関することだけすっぽり抜けてしまっているみたいな自分なのに、----いつから。
いや、オンナと思われるも何も、男性にとってこの自分の体が性欲に火をつけるものだなんてとうてい考えられない。Aカップですら埋まらない胸も、メリハリのない幼児体型も。セックスを感じさせることなんて何もないはず。だから。
だから。
だからこそ、涼子を選んでくれたことは、涼子に奇妙な重さを感じさせる。
----あたしでよかったんだ。
「……どうしたの?」
覗き込む治巳の目が笑っている。かすめるようなキスがあって。
「いつでも拒否していいから----」
そんなこと、まだ気にしていたのか。
「しないよ」
言わないといけないらしい。
面食らってる治巳の顔は何となくおかしい。
「拒否なんてしない。……最初が……、治巳で、」
あなたでよかった。
その言葉は言えなかった。ちょっとせつなそうな、ちょっと嬉しそうな、そんな治巳の笑顔は一瞬で、イチゴジャムの味の長いキスがその後に続いた。
2. フローラル end.
3. 時が満ちるまでは(そのぬくもりを Part I)
この少年は、眠る時だけは子供の顔をしている。
布団の中で彼が占めている面積はいつもとても小さい。ただでさえがりがりに痩せていて、背もそんなには高くないのに、さらにその体は眠っているといつも小さく小さく丸まっている。
----胎児の姿勢だ。
自分の膝にキスをしそうなくらいぎゅうっと体を縮めている。人間は本能的にこの姿勢になると安心するという話を何処かで聞いたことがあるような気がする。
眠る時しか安心出来ない、いかにもそういう性格のような気がする。いつでもぐうっと気を張っていなければいられないような。
智は少年のはみ出した足先を布団の中にそっと戻すと、届いた少ない年賀状を手にして、書いていない人から来ていないかをチェックし始める。幸い、いないようだった。
今日は買い物に連れて行こう。いくらなんでも全然サイズの合わない服をいつまでも着ているのは嫌だろうし。第一、自分の純和食の食生活では彼は満足していないだろうし。
親の元に返そうという気分には何故かならなかった。返しても多分同じことを繰り返すのだろうという思いもあった。自ら動こうとしなければ、多分何も動かない。彼の性格から言っても恐らくそうだ。
時が満ちるまで、----ここでいい、と、彼が思うなら。
ここに----。
----彼が動いた。自分の視線が彼を起こしたような気がして智は慌てて目をそらす。
少年は目を覚ますといつも最初にすることがある。それは、苛々して口の中で悪態をつくことだ。多分、自分が胎児のように丸まって寝ていたのが気に入らないのだろう、と解釈する。初日なんて枕を抱いていたのだが、起きた途端その枕にすごい勢いで八つ当たりしていた。知らない場所で眠ることが不安で枕を抱いてしまったってそんなの構わないと思うのだが、自分の子供の部分を見るのは彼にとってとことんイヤなことらしかった。
だぼだぼのトレーナーを引きずって彼が起き上がる。彼が元々着ていた服は昨日洗濯してもう乾いている。いくら風呂に入ったその直後はおとなしくても、乾くと暴発する髪の毛は、寝癖がついてさらにすごいことになっている。
「……それを着て……出かけましょう」
智にすれば用意したセリフだが、少年はぽかんとしている。
「何処に」
「その……あなただって食べたいものがあるでしょう。僕の好みとは全然違うでしょうから……」
戸惑っている。それはそうなんだろうけど。いや確かに智自身も実は戸惑っているのだけれど。それでも。
時が満ちるまでは。
眠る子供の亡霊が、自分の中に占める位置がだんだん大きくなって行くような気がしていた。もう三日、あるいは四日。この男----智のアパートで暮らすようになってから。
年が明けて、世間を歩く人たちは晴れ着姿が多かった。その中を、智は歩いている。元々着ていた服の上にだぼだぼの智のジャンパーを羽織った紅を連れて。
何か食べたいものがないかと智に問われて、紅は、フライドチキン、しかもすごく辛いやつ、と呟いた。そうしたら、智は面白そうに微笑んだ。
----ああやっぱりそういうのが好きなんですねえ、好み全然違いますねえ。僕の家の食事なんておいしくなかったでしょう?
嫌いな食べ物の話をされたら普通、嫌な顔になるもののように思っていたが、智はそれが楽しくてたまらない様子だった。
だいたい、いつまで自分を置いておくつもりなのか。まだ名前すら聞かれない。それでも、出て行けとは言われないし、出て行っても行くあてもないし、もちろん帰りたくもないし、それでずるずるとこんな風に過ごしてしまった。
過ごしてしまった、という言い方は相応しくないかも知れない。
眠る子供の亡霊が、その温度を----智の優しさを、もっともっとと欲しがっている。それは、明らかだった。
このままこの男のそばにいたら、きっと今までの自分は壊れてしまう。今まで張り続けていた糸が、ぷつんと切れてしまう。
それは怖い。
こんな風にしか生きて来なかった紅は、そうなってしまったらどう生きていいか判らない。
それでも。
「えーと……」
郊外型の大きなスーパーマーケットが目の前に開けていた。元旦はさすがに休みらしいが、併設されているいくつかの店の中には開店しているところもあった。そのひとつに智が近づく。
ケンタッキーだ。
何だか懐かしい。実は滅多に足を踏み入れられない場所だった。確かに大好物なんだけど、何処かゴチソウの感が拭えなかった場所。
単純に、嬉しかった。
智はホントに好きではないらしい。店に入り、紅にだけ一方的に選ばせると、自分はウーロン茶だけ注文して二階席へ運ぶ。
また仮面を保てずに食べることに夢中になる紅を、智は楽しそうな顔で見下ろしている。
もう食べている時に繕うのはやめてしまった。そんなことしなくても、自分の中にいる子供は智には見透かされている。そんな気がしたからだ。ただ、紅自身がそれを自覚するのが嫌なだけで。
食べ終わった紅が、指や口元を紙ナプキンで拭っていると、智の変わらない笑顔が声をかけて来た。
「その……それ、買って、持って帰りましょうか? ……ね?」
嬉しかった。
ケンタッキーの袋をぶら下げてコンビニに入る。郊外型のコンビニは店内がやたらに広く、多少の加工はされているが生鮮食品がいくらか並んでいる。
スーパーが閉まっているのでその周りは人で大盛況だ。智も、いくつかの野菜や牛乳を手に取ってカゴに入れている。それからお菓子の棚に行って、せんべいをしげしげと物色している。
どうもこの男はせんべいが好きらしい。常備していないと落ち着かないらしいのだ。
その後、この男にすると小さめのサイズの下着をがんがんカゴに入れているので、それが明らかに紅のためだというのが理解出来た。しかしそこまでは、と止めに入ろうとしても、智はにこーっと笑ったまま絶対に戻そうとしなかった。
こういう拒絶のしかたもあることを紅は思い知った。どうもこの笑顔に遭っては自分に勝ち目がないのだ。
そしてさらに、シャンプーや歯ブラシの棚で足を止めて紅に選ばせようとするので、それは頑なに拒否した。智の余っていた歯ブラシでも構わなかったし、歯磨き粉やシャンプーには全然こだわってないし、そんなに長居をするつもりもなかったからだ。最初は残念そうにしていた智だったが、紅が頑固なのは学習したらしく、諦めてそこから離れた。
文房具棚は通り過ぎるだけ。と思ったが、紅の足はそこで止まった。
キッチンタイマー、と書かれた電卓のような物体が目に留まった。手にして裏を返すと、紅の予想した通り、どうもそれは時間を計るものらしい。
初日の風呂のことを思い出し、紅はそれを、レジで並んでいた智のカゴに投げ入れる。驚いた智が、それでもその物体が何なのか理解して嬉しそうに笑う。
「……覚えててくれたんですねえ」
紅の方は、笑顔に応える方法を、未だに学習出来ずにいた。
家に着いて、荷物を下ろす。冷蔵庫に入れたりして整理する。それから。
智のやることと言えば読書ぐらいしかない。紅のやることと言えばテレビを見るくらいしか。でもそれでも飽きるので、部屋の中をうろうろしたり、アパート周辺を散歩したり(上着を借りて)、智の書斎に入って五分といられなくて出て来たり(そうするとまた智が何だかすごく楽しそうに笑うわけだが)、でも基本的には実に静かな空間。ここ数日、二人はそうやって過ごして来た。
智は本当に何も聞かない。ただ、一晩眠って目覚めたその時、気の済むまでここにいてもいい、と用意されたセリフのようにすらすらと言っただけで。
紅の中の、眠る子供の亡霊は、その言葉を何処かで待っていた----確かに、待っていた。
そして、沈黙にも、気まずさが伴わないことがあるのを、紅は初めて知った。
満たされたような沈黙。沈黙というより、言葉を介する必要のない空間----そんな沈黙。
眠くなれば眠り、食べたい時に食べて。それはとても贅沢な時間。
自分の存在が、赦されていることの、安堵感。
安らぎ。
----縁がなかったはずの感情。
智はきっと誰にでもそんな安らぎを与えてしまう性格なのだろう。自分だけが彼にとって特別であるはずはない。紅の中で、ひとつのラインからはみ出さないようにかちんと鍵をかけているストッパーはそれだけだった。
このままずっと、と願う子供に、支配されないためのストッパー。
次にどうすべきかを、探さなければならなかった。
智は、少しずつ、少年と自分の距離が縮まって行くのを感じていた。
----今日だって。
キッチンタイマーがカゴに入っていた時、智はそれをはっきりした形で実感した。いやその前に、自分の買い物に文句も言わずと付き合っていたことが既に、嫌われてはいない証拠なのだが、それでも、積極的に行動に出たことは智を喜ばせていた。
まだ名前も聞いてはいないが、このまま聞かないままでいても良かった。名前を呼びかけなければならないことなんて何もなかったし、これからもないと思っていたからだ。
そのうちに、きっと彼は出て行く。
棘々しいだけだった表情もだんだん柔らかくなって来た。何かを考え込んでいることも多くなった。きっと落ち着いて、どうしようか迷っているに違いない。
このまま知らない他人でいる方がいいだろう。少年は智の名前を聞いたが、もしかしたらもう覚えていないかも知れない。
自分の存在が何かの役に立ったなら、それをひとつの通過儀礼として彼が成長して行くのなら。
それでよかったのだ。
いずれ忘れられる存在でよかったのだ。
十五分とじっとしてはいられない落ち着きのなさは、智の周りででそういう性格の人がいなかったせいで(あえて会ったことがあるとすればそれは児童書コーナーで暴れる子供たちくらいのもの)、見ていて妙に飽きなかった。むすうっとした「仮面」はもう智にとっては仮面の意味を為してなくて----お腹がすいた顔とか、外に行きたそうな顔とか、そのむすぅとした下の方に透けて見えて来る気がした。
最初の頃は書斎に入ると一分もいられなくてそわそわしていたのに、最近はだんだんじっとしていられるようになって来ている。その理由は、智の仕事が始まる前日になって明らかになった。彼が書斎で唯一興味を持って読んでいたのは、パソコンを買った時について来たデータベースソフトの事例集だったのだ。
智は、自分がいない昼間に彼が使ってもいように、久しぶりに引っ張り出したマニュアルを片手に少しパソコンの設定を変更する。
多分学校で使ったことがあるのだろう、彼はすぐに興味を示してくれた。
「……アカウント、何にします?」
少年は出ているログインウインドウにぽつぽつと文字を打つ。
----K、O、H。
「……あだな、ですか?」
別にどんな意図があったわけでもなく何気なく聞いたつもりが、少年は近くのメモに、少し角張って右上がりの字で四文字の漢字を書く。
やたらに筆圧が強くてシャープペンの芯が二度も折れた。いや、もしかしたら緊張していたのかも知れない。シャープペンの持ち方がちゃんとしているのがまたなんだか智には面白かった。
----御家瀬 紅。
「ミカセ コウ、って読むらしい」
名前。少年の。
彼はシャープペンを投げ出すと『飽きた』という態度で書斎から出て行く。でも残念ながらその背中がほんの少し照れているのが、智にはわかってしまった。
名前。
「あー……御家瀬くん」ちょっと言ってみたかっただけ。それから、「パスワードも決めて……」
だが彼は大股で戻って来て、
「苗字で呼ばれんの嫌だ」
「----は?」
「キライなんだよ、苗字が!」
「あー、それじゃあ……」
「呼び捨てでいい。『紅』で」
「いやー、でもですねえ」
「『さん』とか『くん』とかもだいっきらいなんだよ!!」
久しぶりに苛々少年が戻っている。
----いやそんなことより。
「……今日はずいぶんたくさん喋ってくれるんですねえ」
そういうことを嬉しがる智の神経を、少年は----紅はまだ、理解出来ずにいるらしい。でもとにかく、言葉にならない言葉を口の中でむにゃむにゃ言いながら、自分のパスワードを画面に打ち込んでいる。智は見ないようにパソコンから目をそらしたままで、
「……言いましたっけ、明日から、僕、出勤なんです」
たんっ、と軽いキーの音を最後に、紅の動きが何故か止まる。
「……鍵、置いて行きますから、そのー、……出かける時は郵便受けにでも入れておいて下さいね」
「……あぁ」
判った、というようにため息混じりでそう言うと、パソコンから離れる。
何だか雰囲気が違う。
智はその背中にそう思った。
朝。
誰からも起こされることのない朝は初めてかも知れない。
紅はベッドの中で二転三転して、ふうっとため息をつく。息が白い。
昨日までは智の方が起きるのが早くて、ファンヒーターで暖まった部屋の中で起きていた。でも今日、この部屋は冷え切っている。
時計を見る。10:00。きっと二時間以上前に智は出てしまったのだ。その時にもちろんヒーターも切って。
いや、たぶんヒーターのせいなんかじゃない。どうしようもなく寒いのは。
判っていても、それを自覚するのが嫌で、紅は意味もなく奥歯をぎりぎりかみしめる。行方を封じられた言葉が、紅の中で、しゃぼん玉みたいに、生まれたそばから消えていく。
この部屋は自分ひとりになると自分の居場所じゃない気がして来る。----何故?
昨日まではこんな風に感じなかったのに、何故?
自分の中のざわざわが、眠る子供に手をかける。
紅は飛び起きた。外に行く時にずっと借りていたジャンパーと鍵がコタツの上に置かれている。すっかりそこが定位置になってしまった、畳まれた毛布と、数冊の本と、電気スタンド。
きゅうすや茶筒までが、紅の中の子供を揺らしている。
適当に着替えて、自分には大きすぎるジャンパーに腕を通して、鍵をつかんで部屋を飛び出す。鍵をかける。行く先なんて考える余裕もなく階段を駆け降りる。
とにかくここから離れたかった。ひとりであの部屋にはいたくなかった。
街並は、決して紅の知らない場所ではない。紅の元々の行動範囲よりは外れているが。新しく出来た街で、道は広く、定規で引いたように格子模様を作っていた。
似たような家がたくさん並び、数軒のアパートもあり、そして病院、学校、スーパーマーケットやスポーツセンターやパチンコ屋までも歩ける距離で整備されている。典型的な新興住宅街、そういう街だ。図書館が近いことも、世の教育熱心な親たちをくすぐるらしい。
紅の中学は、出来た頃には予想もつかなかった生徒の増加で、あちこち応急手当のように校舎を増築して、えらくちぐはぐな建物が並ぶ学校だった。最初は郊外にひっそり建っていたはずの紅の孤児院も、いつしか住宅街のど真ん中といった位置になってしまっていた。
智がいるアパートはその住宅街の外れの方にある。紅がうろうろして何となくつかんだ地理ではそんな感じだ。
同じ中学の生徒と会う可能性は充分ありえたし、もう会っているかも知れない。でも、紅の方が学校の連中の顔をあんまり覚えていないので、会っていたとしても全然気づいていなかった。それにまだ冬休みだし、紅が自分の「家」----孤児院から離れた場所で歩いていても、それは文句を言われる筋合いのことではないはずだった。
行き先に困って----見知った街でも土地勘があるとまでは言えない----、智に連れて行かれたスーパーマーケットに足を向ける。お金は一円も持っていないので買い物をする気はなかったが、商品棚の間をうろうろしていたって咎められはしないだろうと思ったのだ。
だがどうもそれは咎められる類の行動だったらしい。紅は何もしていないのだが、しばらくうろうろしているだけで、何人かの店員からちらちらと存在を気にされるようになってしまった。多分この体の割に大き過ぎる上着のせいなのだろう。万引してモノを隠すにはうってつけなのだ。
紅はそのあらぬ疑いに口の中で舌打ちばかり繰り返していた。さりとて、他に時間を潰せそうな手段なんてまるで浮かばないのだ。
まだ昼ですらない。紅は、昨日まで自分が時を退屈という言葉なしに過ごしていたのが全然信じられなかった。
そんな時。
誰かが紅に体当たりをして来た。「あ、すいません」と一応大声で謝りはしたが、相手は明らかにわざと体をぶつけた。その上でわざと謝った。そんな風に感じた。瞬間、紅は自分の脳が久しぶりに一気に沸騰するのを感じる。カッとなって手を挙げたが、その行く先を探せずに降ろす。相手の姿はもうなかった。
大股で店を歩き回り、何とかそのぐらぐら煮えくりかえっている自分の脳を治める相手を探そうとする。あまりに一瞬のことで、性別すら声でしか判別出来なかった相手を探すなんて無理に決まってるのに。それでも、苛々に任せるままにどんどん歩いた。
ふと、店の玄関から自分を見る視線を見たような気がして。
足が速まる。気が急いている。同じくらいの年齢の少年。覚えちゃいないがきっと中学の……ただですら学校中敵に回したみたいに嫌われているのに、関わって来なきゃいいのに、その少年たちが遠くからでもたちの悪い哄笑を浮かべているのが見えて、紅の中で長らく眠っていた火薬に火がついた。
もう少しで自動ドア、というその前で。
誰かが、振り上げられた紅の腕をつかんでいた。
「……ちょっと来なさい」
野太い声。がさっ、と、何も入っていないはずのポケットの辺りで音がした。そのふたつの音が、紅の背中に冷水を流し込んだ。
何が起こったのか、やっとその時理解する。
----あいつら……。
大柄な店員が、紅の両腕を拘束している。痛いくらいに。無実を訴えても通るような気がしない。さっきから目をつけられていた。多分何をどう言い訳してもダメだ。
紅のような人間は、何処へ行っても誰からもそんな風にしか見てもらえない。
唯一の例外を除いては----
頭の隅に、縁なしの眼鏡をかけて本を読む姿がちらりとかすめた。
どうしようもない。
このままサヨナラもアリガトウも言えないまま、自分は引き離されるのだ、そして連れ戻されるのだ、あの場所に----!
「いやーだあ、こんなところにいたのお?」
ぎゅっと目をつぶった紅の耳に、違和感のある甲高い声が響いた。店員の手が緩む。見上げると、オバケでも見たような目でぽかんとしている店員の顔が目に入った。
「コウちゃんったら、だめでしょう勝手に帰ったりしちゃあ」
こ……コウちゃん、だって?
呼ばれ慣れないその言葉が、それでも自分の名前で、その上自分に向けられている。振り返ると、大柄な女性が----いや、大柄すぎる、多分男性だ、えらく「美人」だが。
声が、無理にひしゃげたような甲高さで、
「そのポケット、アタシがイタズラして入れたのよ。コウちゃんが盗もうとしたわけじゃないのお。だから離してあげてえ? ね?」
さらに典型的なオネエ言葉。ウインクまでつけて。
店員はそのやたらに綺麗な男性にこれ以上近づかれるのが気持ち悪いという顔で紅から手を離した。
「つ……連れの方ですか?」
「弟よ。悪いぃ?」
こんな兄を持った記憶はもちろんないし、こんなところでこんな形で再会するのもありがたくない。
でも何故名前を……。
「こっ、これからは気をつけて下さい」
「はああい」
にっこり。
店員は逃げるようにその場を去る。紅は拍子抜けしてその男性を見上げる。
智より背が高い。が、足元に目を落としてそれがブーツのせいだと気づいた。
彼は、綺麗に磨かれた爪で肩にかかった金髪をはらうと、
「……大丈夫だった?」
今度は普通の男の声でそういって、紅に穏やかに微笑んで見せた。
「見てたよ、ぶつけられたトコから。でも君が何も確認せずどんどん歩き出したんで、ひょっとしてこんなことになるかもって思ってついて来たわけ」
そして楽しそうに笑って、
「こんな俺だから持てる武器はあれしかなくってね。自分でも気持ち悪かったよ。あっさり引き下がってくれてよかった。もう一分あんな喋り方してたら喉がおかしくなりそうだった……さて、行くよ弟くん」
「待っ……」
モデルか何かだろうか、翻るコートの裾から見えた細身のパンツに包まれた足はやたらに長くて歩幅も大きい。その男が今度は紅の腕を取って----これがまた細い指で----、つかつかと歩き出す。
ひょっとしたらコレは本当に運命の再会なのだろうか。この男なら、小さい頃に「女の子」に見えていたとしても全然不思議はない。
「なんでオレの名前知って……」思わず口に出たその言葉に、
「え?」
びっくりした顔。
「へえ。すごい偶然もあるもんだね。----コウジとかコウイチとかなの?」
「……」
ホントに単なるすごい偶然のようだった。
裁縫用具、ビタミン剤、プーアル茶のティーバッグ……無造作にカゴに飛び込んで来るそういうものたちをぼんやり眺めていると、
「コウちゃんの買い物は終わったの?」
「呼び捨てでいい」答えるより先にむすっと反論してしまう。
「あはは。確かに『ちゃん』って年でもなさそうだね……で、」
「金持ってねえ」
「じゃ何しに来たの?」
「……ヒマだから」
「……変わってるね。スーパーマーケット好きなの?」
「このへん、よく知らな……あ」
なんだか話し易いこの男の雰囲気のせいでよけいなことまで口走ってしまった。気づいた時にはその危惧が当たっていた。男が複雑な顔で紅を覗き込んでいた。
「家出少年か」
今度こそ警察行きだ。見た目はともかく、この男は良識がありそうな気がしたからだ。しかし、彼は肩をすくめただけで、
「金も持たないなんでムチャなことするねえ」
そう言ったっきりそれについては何も聞かなかった。
それからも、男はめまぐるしいばかりによく喋った。だがうるさいとは感じない。それなりに言葉を選んでいるようで、そして紅が話す時はきちんと耳を傾ける。人の話の聞き方を心得ている。
智とはタイプが違うけど、近くにいても嫌ではない。これだけよく喋るのに、不快に感じないのは紅にすると珍しい。
世の中にはいろんな人間がいるものだ。それなのに自分は、十四年生きて来て、こんな風に感じられる人間にどうしてひとりも出会えなかったのだろう。
----ひとりでもいたら、もしかしたら、自分は飛び出したりしなかったのではないか。
教育大の学生、と言っていたが、もし彼が十年早く生まれて教師になり、自分の担任にでもなっていたら。
多分、紅の人生は変わっていた。
そう思わせる雰囲気が、彼にはあった。
店を出てから、男は、本当に暇なら一緒にアパートに来るかと言って来た。本当に暇だったし行くがあるわけでもなかったので、紅は男について行った。
店からたいぶ離れてから男は自己紹介した。内藤治巳。「ハルミ」だなんて、名前まで女性的。マーケットからのんびりと、街のあちこちを紹介されながら歩いて、あるアパートに辿り着く。階段を上がり、「内藤治巳」の表札があるドア----を、通り過ぎてしまった。
「俺の部屋はそこだけど、今はこっち」
言うなり、二軒隣の呼び鈴を鳴らす。出て来たのは紅より小柄な女性。治巳は、それが自然なことのように彼女のうなじにすっと手を回して腰を屈めた。
「買って来たよ」
「ん……」
彼女の返事は閉ざされたまま、目だけ、どう反応していいか判らず固まってしまった紅の方に視線が走った。そして唇が自由になったその後に、
「よしなさい、そこの青少年の健全な育成によくないでしょ」
クールなひとだ、と紅は思った。
彼女は----見ていればそうとしか思えないが----治巳の恋人らしい。こちらは身長以外はあまり女性的なタイプではない。スーパーマーケットで家出少年を拾って来た、とあっけらかんと言ってのける治巳に「ふうん」と事も無げに答えて、「何か飲む?」と聞いて来た。
「……水で……」
「別に遠慮することないけど。コーヒー、平気?」
頷く。
居心地が悪いわけではないが、自分がここにいていいものかと迷う状況ではあった。せめてあまりじろじろ見ないようにしようという努力をしてみていると、
「……はい。もしかしてコイツなんかやらかした?」
コーヒーとともに言葉がやって来た。
「やらかしたって……ひどいなあ涼子は。何もしてないって」
涼子、というのが彼女の名前らしい。
「ほんとに?」
治巳にではなく紅に尋ねる。
とりあえず頷く。
「そう。んならいいんだけどね」
二人は、それからしばらく、買って来たものを整理しながら中国茶談義なんかを繰り広げていた。いささか無愛想に見えていた涼子という女性の方も、治巳と話している間に表情が少し変化して来るのが判る。さっきまでの自分も外から見るとこんな風なのかも知れない。黙っていればきつく見られがちなところに紅は妙な親近感を感じたりする。
話しながら、涼子は台所に立ってチャーハンを作り始める。そういう会話にはなってないはずだが、何も言わないうちからコトが進んでいて、紅には状況が飲み込めないまま、それでも、自分の前にも皿がコトンと。
----そういえば朝から何も食べてなかった。
「おなかすいた顔してるよ」
涼子が、ちょっとの含み笑いと一緒にそう言った。
「……まあ気にしないで。時々拾って来るのよ。年齢性別問わずにね」
治巳が自分の部屋に戻り、何故か涼子の部屋に取り残されていた紅に、涼子がそう言って苦笑する。まるで犬か猫のような口ぶりだが話から行くと人間らしい。
智もそうなんだろうか、とちらっと思う。
「でもまあ今日はどうする気なのかな。寝るところあるの?」
「ある」
一応は。
「なんだ、じゃ家出少年じゃないんだ」
涼子はひとりで納得している。この状況ではそう誤解させておく方がいいように思えて何も言わずにおいた。
「あいつこれから出かけちゃうはずなんだよね。……そうだ、あたしこれからスカッシュやりに行くんだけど、付き合う?」
紅は自分を短気な方だと思っていたが、その自分にもこうめまぐるしく感じる状況というのがあるとは思ってもみなかった。紅は、三十分後には、慣れないラケット片手に壁とボールと格闘することになっていたのだった。
午前の間、時間を潰す方法を考えあぐねていたのが嘘のように、それからはあっという間に時間が飛んだ。涼子はスカッシュがやたらと強くて、紅は、自分の中で休憩していた負けず嫌いが騒ぎ出してつい夢中になっていたのだ。それに(爽やかにスポーツするなんてそれまでの自分では考えられなかったけれど)、今のこの状況では、何かに苛々して考え込むよりも、何もかも忘れられるだけ動いている方がマシだった。
ものがスカッシュだったのもよかったかも知れない。自分ひとりの力がすべての世界だから。
涼子も特に紅が何者かは気にならないらしい。年齢差もいい意味で感じさせない。すんなりと対等に付き合うのだ。これもまた、紅が今まで抱いていた「大人」とは随分イメージの違う個性だった。
「実はね」ジュースで休憩しながら涼子が言う。「治巳は汗かくの嫌いで付き合ってくんないのよ」
深く納得する。おかしくなって思わずくすくす笑う。涼子も笑っている。
----もし自分があのまま捨てられなかったら、「姉」とこんな風に過ごしていたかも知れない。
ちらっとよぎったそのことが呼び覚ました痛みで、一瞬笑顔が凍りそうになる。
がんっと立ち上がって。
「もう一試合やろうぜ」
「おやあ? その気になったわねえ?」自信満々の笑み(実際、紅は一度も勝てないでいるのだが)。
「まあね」紅もにやりとして。
「じゃあぶちのめしてさしあげましょ」缶をダストボックスに投げ入れて、二人は再びコートに向かった。
紅は結局全敗のままだった。でも嫌なわけではない。実力の差は歴然とし過ぎていた。それでもこの涼子という人は、手加減なんかしやしないのだ。
それはそれで、紅は、涼子が自分を人間として認めてくれている証拠にも感じられた。
親がいないことで欠陥商品のように蔑む教師すらいるこの自分を。
ひとりのおとな、みたいに。
智は紅の中の子供を刺激する。この人は自分の人格を尊重してくれる。施設を出て、数日に出会った人間なんて、広い地球の山のような人間の中のほんの一部に過ぎないのに、何故今まで知る人々とはこうも違う個性が揃っているのだろう。
----スポーツセンターの玄関から見た外はもう真っ暗だった。きっと智も帰っているだろう。
「……家まで送ろうか? 雪、ちらついて来てる」
慌てて目をこらす。まだ小ぶりだが、確かに白いものが舞っていた。
「いや、大丈夫」
「そう?」
追求はしない。涼子はそういう人だ。
家、という響きに少し胸が締めつけられる。自分の帰る場所なんて、今はひとつしか思い浮かばないけど、でもそれは----
そこは自分の家ではないのだ。
「場所わかる?」
「うん」
「じゃあ気をつけてね」
涼子は、ダウンジャケットの襟に顔を埋めるようにして歩き出す。
外は寒くて、それでも、自分が戻るべき場所が待っていることは不思議な温度を紅にもたらした。
白い息を吐きながら、足が徐々に加速する。ぽつぽつ灯り始めた家々の窓をどんどん後ろに飛ばしながら。
アパート。階段を駆け上がる。もうすぐ。
もうすぐ智が。
----いた。
ドアの前で、全身みっちり防寒したままの智が、立っていた。壁によりかかって。あの眼鏡をかけて、雑誌を手にしている。文字を見ている時は集中力がすごくて、紅の足音に全然気づいていないみたいに。
何故外にいるのか。まさか自分を待っていたなんてことはないだろう。だいたい、待つだけなら中で充分だ。
空気の冷たさに震えて、紅が智のジャケットのポケットに手を突っ込んだ途端、その理由はすぐ判った。冷たい金属が紅の指に触れる。紅はさあっと体温が下がった気がした。
鍵を自分が持ったままだったのだ。
いったいいつから智を締め出していたんだろう。彼の家なのに。人が目の前で寒がるだけで耐えられないくらいの寒がりの智を、雪の中で待たせてしまった。
「……あ……ご……」
謝らなきゃ、と焦る心とは裏腹に、声が動いてくれない。アリガトウと同じくらい慣れない言葉なのだ。
智は雑誌から少し目を上げる。紅に気づいて。
「あー……もう自分の家に戻っちゃったのかと思いましたよ……」
ふわっと。
紅を責めるつもりなんか最初からない笑顔。
「……帰る時は、挨拶して行って下さいね」
『帰る』場所なんて、今はここしかない。
もちろんそんなことを智には言えない。
言ったらきっとずっとこのままでいられるかも知れないけど。
それは確かにそう望んでいる心がここにあるけど。
それを望んではいけないのだ。
望んではいけないと。
わかっているのに。
もう止められなかった。
眠る子供が目をこすっていた。新しい世界に戸惑いながら、ゆっくりゆっくり起き上がろうとしていた。
3. 時が満ちるまでは(そのぬくもりを Part I) end.
4. 君がただぼくを見て笑ってくれたら(そのぬくもりを Part II)
「やあおはよう。俺に会えなくて寂しくなかった?」
目の前の白い歯が、少し斜めに笑ってそう言って、橘 麻衣があっけに取られている顔を面白そうに一通り眺めてから、ふっと振り返って昇降口へ向かった。その横から自分と同級生たちが今度は逆に自分から「まきのせんぱーい!!」と黄色い声を発しながら小走りに近づいて行く。
牧野 剛。3年生で剣道部の主将。一年の時に試合で三年生に勝ってしまったという伝説を持つ男だ。がっしりした体は学校中の生徒の中でも飛びぬけて高くて一九〇cmに届きそうなくらいある。歯磨きのCMに出られそうなくらい綺麗な歯をしていて、笑っていない顔を女の子に見せることが滅多になくて。もうその剣道の腕で高校の推薦入学が決まってしまって、この時期の三年にしては至ってお気楽。一年生と二年生の女子には絶大な人気がある……らしい。麻衣は二年だが、今のところその数少ない例外だった。
麻衣にとってだけは、この男はどうも意味不明な行動をする。それはもう三ケ月ぐらい続いている。
朝、昇降口前で会って、必ず挨拶されるのはまだいい。他の女の子たちにだって挨拶しまくっている。まるで毎朝、優勝したスポーツ選手の祝賀パレードみたい……とまでは行かないが、女の子たちに手を振らないで登校して来ることなんてこの男にはありはしないのだ。
しかしだ。
麻衣だけはどうも、その聴衆の一人という扱いをしてはくれない。必ず目の前にやって来て、おはよう以外に何か言わないと気が済まないらしいのだ。
おまけに、髪を二つに分けて束ねているそのリボンを新調したとか、シャンプー変えたとか、靴が新品だとか、鞄に下げてるキーホルダーが違うとか、なんでそんなことに気がつくんだというくらいよく気がつく。
クラスではいてもいなくても気づかないような地味な存在なのに。背だって一番小さいし、そんなに美人でもないし(ちょっとはれぼったい下唇と、二重なんだけどいつも眠りかけみたいに伏し目がちな瞼が特に自己嫌悪の元なのだ)。同窓会になったら最後まで「そんなやついたっけ」って言われるに違いないくらいに地味ーな地味ーな存在なのに。
それが始まってからしばらくは、教室に入ってから、いつも一緒にいる「グループ」の子たちにからかわれることもあったが、今となっては黒板に書かれてある日付を毎日書き替えるのと同じ程度のイベントになってしまった。一部の熱狂的「マキノセンパイファンクラブ」からは相当長い間疎まれていたが、そうされている麻衣自身がほとほとイヤーな顔をしながら受け流しているので敵ではないと判ってくれたらしい。
同じグループの子たちも、どちらかと言えばマキノセンパイには冷めている。でも試合で活躍してるところに出くわせばやっぱり声がまっ黄色になるんだけど。
「……牧野先輩、やっぱり忘れてなかったみたいだね」
靴箱の前で、同じグループの香奈に声をかけられて、麻衣はただげんなりした顔で応える。声も出ない。香奈は続いてたたみかけるように、
「……あれは絶対だよ。麻衣がなびかないから、それでちょっかい出して来てるんだよ。絶対そうだよ。麻衣は最初っからぜーったい牧野センパイにキャーキャー言わなかったもんね」
上履きに履き替えて教室へ向かう。
「じゃあ、私が牧野先輩のこと好きだって言ったら止まるのかなあ」半分ヤケである。
「えっ、好きなの?」
「まさか」首をぶんぶん横に振る。自分の髪束が首筋にぶつかる。
「……麻衣ってさあ、ホントに好きな人いないの?」
いるよ。
心だけで呟いて、「いないよ」
「今イチ信じらんないなあ……」
『好きな人』の話なんて、十四歳くらいの年頃のオンナノコにとってはある種の通過儀礼みたいなもので、恋なんてしてもしていなくても、誰かひとりを心に秘めなければ話について行けない。昨日のテレビドラマや、今をときめくミュージシャンたちのニューシングルの話と一緒に、そわそわたなびく少女の吐息を飾る宝石のひとつに過ぎない。
でも麻衣の心に影を残しているその人のことは、決してそんな風に軽く口に出して言いたくないのだ。とても壊れやすくて、とても敏感で。麻衣にはきっと最後まで振り向いてはくれない、否、どんな美人だってどんな聡明な子だって、オンナだってだけで眉をしかめて嫌がるような、そんな人だから。
みんなはきっと言うのだ。「まさかあいつじゃないでしょ?」って。
でもそのまさか。
笑顔すらも見たことがない----麻衣の心に宿る名前は、御家瀬 紅。
チャイムが鳴ってギリギリにいつもその人はやって来る。なるべく誰とも口をききたくありません、と全身で主張するみたいに棘だらけの態度。そう、まるで彼はハリネズミみたいなイキモノだ。ちょっと触っただけで全身を逆立てて、それがオンナとわかればなおのこと威嚇して、絶対、絶対、特定の距離より中には麻衣を近づけてはくれない。
それでも。
それでも去年、バレンタインのチョコレートは受け取ってくれた。ただ、受け取っただけで「オレは食べねえからな」と言われたけど。でも。
それでわかった。わかってよかった。彼は甘いものが好きじゃないってわかったんだから。それまで、彼のココロに関することなんか、ひとつも知らなかったけど、それでひとつは理解出来たんだもの。
まだまだ何も知らないのに何故惹かれるのかなんて麻衣には全然わからなかったけど。
人を寄せつけないその態度は、孤独が好きなその態度は。
たぶん、何処か自分と似てるのだ。
彼は妥協の出来ない人で、麻衣は妥協することを選んだ。本当に心を開いているわけでもないのに、友達のフリをして一緒にいるだけのグループ。誰かとの絆がそこにあるように見えていればとりあえず安心出来るような浅い浅い人間関係。
ひとりでいることにとても強い背中には、自分がそうなれなかったこと、なりたかったこと、そして----「私も同じ」って言いたい気持ち、そんな気持ちを麻衣の中に溢れさせる。溢れて、溢れて、溢れ過ぎて時々苦しくなるくらい。
だから、背中を見ているだけで、それだけで嬉しかった。
----それなのに。
チャイムが鳴って、ドアの音を何度聞いても、その席に彼は現れなかった。冬休みの前までは、いつもあった背中が見えない。ホームルームになって、出席を取ってもやっぱり現れなくて。先生が誰か理由を知らないかなんて言うもんだから、それが教室中でざわめきになって。
無断欠席。
元から学校に馴染んでいなかった人だから、風邪を引いたんだろうとかいうことより先に、とうとう来なくなってしまったのか、という下世話な推測が教室を巡る。自分のことを言われているわけではなくても麻衣の心がチクチク痛む。その推測を否定出来るだけの理由がないからますます痛む。それどころかその推測が麻衣の中にだってぐるぐる回るからますます、ますます痛くなる。
来なくなってしまったら。
麻衣が学校に来る意味の70%はそれで消える。
今日の麻衣は何だか暗い、と昼休みに香奈やヒトミや由加里に言われて、その理由は当然話すつもりがなくて、それで香奈が例の----マキノセンパイ問題のことを持ち出した時にそれに乗るのも嘘は方便だと思ってしまった。
「麻衣ってそんなに嫌いなの? 別に見てる分にはカッコいいから流しとけばいいじゃん」ヒトミは割り切りがいいというか、さっぱりしている。
「って言うか……当人はともかく周りがね……」それを気にしているのは嘘でもなんでもない。
「そうだよねえ。『ファンクラブ』がね。たまに陰険なやつとかいるからねえ」香奈の言葉に由加里が、「誰よ、それ」と身を乗り出して来る。
「最近は、なくなったよ。手紙とかは」と麻衣。
「手紙?」同情してるのか好奇心満々なのか今いちつかめない由加里の目。
「そう。いい気になるな、とかね。ブスがお情けで声かけてもらってる、とかもあった」
「ひっどーい……」さすがの好奇心由加里も少し身を引いた。
「うーん、でも、その通りかも……」
「麻衣は自分で悲観するほどのことはないと思うけどな。少なくとも私、麻衣を気にしてるやつ、ひとりは知ってる」
由加里はとことんそういう話が好きな子なのだ。
「へえ。そりゃ初耳だ」ヒトミの返事はそっけない。逆に彼女は誰と誰がくっつこうがあんまり気にはならないらしい。
「それって確かな話なの?」香奈は比較的中立で。
「んー、たぶんね」にやにや由加里。「で、さ、麻衣」
「なに」
「好きな人いないって言ってたよね」
「うん」ウソはっぴゃく。
「もしさ、そいつに告白されたら、付き合う?」
……告白されたら。
あの人はそんなことをする人ではないから、そういう仮定で物事を考えたことがないのだけれど。
「……わかんないな、その時にならないと」
「人によるよね」クールなヒトミ。
「それもある」
「そうかぁ……」
由加里がこういう含みのある言い方をするのはいい前兆じゃあない。あんまり考えたくないけれど、また何か悩みの種が増えそうな、そんな予感がふつふつと沸いた。
考えてみたらその日の放課後、由加里が有吉風太なんかと話している時点で気づくべきだったのだ。由加里はクラスの中でも美人の方だし、ちょっと気は強いけど男の子には人気がある方だった。だから、クラスの中でもほとんど目立たない存在の風太と何やら話してること自体、珍しい、と言えば珍しいことだった。
風太は、とにかくおとなしいタイプの男の子だ。中庸を絵に描いたような。ただ何事にも一生懸命で、勉強もそこそこ出来る。むすっとしっぱなしの誰かさんとは大違いで、いつも人当たりのいい笑顔を浮かべている。
確か弓道部----だけど、ここの弓道部はレベルが高くて、だからちょっとうまいくらいでは全然目立たない。練習熱心みたいだけど(朝一番にたいてい教室にいて、それは部活の朝練のせいだというのを聞いたことがある)、周りがすご過ぎて目立てない、そんな状況らしい。
背は、同じくらいだけど、それ以外はあの誰かさんとは全然共通点がない。残念ながらそんなわけで麻衣にとっては一番どうでもいいタイプ。
----なんだけど。
そのどうでもいいタイプが、麻衣の通学路の途中で麻衣を呼び止めた。今まで帰りに会ったことがなかったのは、彼の部活のせいでもあるが、麻衣がそもそもこのクラスメイトの存在を気にしたことがないせいかも知れない。
「……家、こっちだっけ」
「ん……」明らかに上の空。そんな話題どうでもいいという返事。
麻衣の頭の中で昼間からの由加里の行動ががんがんフラッシュバックして、何で世の中地味な人を地味なまま放っておいてくれないのだろうかなんて変な恨み言を心の中で呟いた。
----で、何で一緒に歩き出すのだろう、この人は……。
「……あ、……ああああのさ」
「なに?」
----落ち着きましょうよ。こんな女子中学生があなたに何をすると言うのよ。
「橘って……」
10歩の空白。
「……マキノセンパイと付き合ってるの?」
ぽんっ、と音がして麻衣の頭の中で何かが弾けた。またマキノセンパイ? またその話題? グループの中で持ち出されるのはまだしも、全くの他人に聞かれるとそれは芸能レポーターに捕まった芸能人の気分で、
「……その名前、聞きたくない」
冷え切った声で麻衣が答える。
「……そう……なんだ……」
『なんだ』に含まれる安堵感が、頭の中の由加里と手をつないでぐるぐる回り始めてしまった。
どうしよう。
「……やっぱり……橘だけは違うよね、そういうとこ」
----ん?
話がそっちの方向に行くんじゃないかと身構えていたので、ちょっと拍子抜けして、ちらっと振り返る。いつもと同じようにすんなりした笑顔がそこにあって。
「……ねえ」
声とともに、少しずつ、笑顔の質が変化する。
「……橘ってさ……トモダチと一応一緒にいるけど、でも……『いるだけ』って思うようなこと……ある?」
麻衣の足のスピードが落ちる。いつもの笑顔の裏にある、その表情は。
「……橘なら、そういうこと、判るんじゃないかって気がして……」
その表情は、----穏やかな孤独。
「話したくて……ずっと」
「……有吉でも……そんなこと思うの?」
麻衣はきっと同じような顔をしている。表面だけで笑っていたその頬から、貼りつけてあるだけの脆い仮面がちょっとズレて。
「……橘だけは違うって気がして……、それでずっと気になってて……。多分、……なんていうか、……イヤかも知れないけど、」
深呼吸。
「同じかも知れない……って……橘だけは、……それで……」
さらに深呼吸。
「俺……」
今度は呼吸のしかたも忘れたように沈黙が続いて。
「気になって……」
風太の足がついに止まる。麻衣の足はその緊迫感が止めたようなもの。
「好きになった」
吐き出すように言ったあと、息がしばらく荒くなる。そして喉が震えたままのため息が何度かあって。
麻衣の前に、拳を握ったままカチンコチンに緊張して立っている風太がいる。
こんなに寒いのにこんなに顔を赤くして、それでも、自分は嘘をついていないという証明だとばかりに麻衣の目を凝視している。
----何もかもストレートな男だ。ひねくれ過ぎて絡まっている誰かさんとは大違い。
誰かさん。
麻衣の中に封印したはずの背中が何故かこんな時にふわりと浮かんだ。
どんなに想っても多分受け入れてはくれないひと、なのに。
「すっ……」
かちこちの体から出るかちこちの言葉。
「好きな人、いっ……、いないんだろ?」
あっ
麻衣の心が小さく上げた悲鳴は、風太には届くはずもない。頭の中で踊っていた由加里がそこにぱちんとはまった。ジグソーパズルの最後の一片みたいに。
自分の嘘が、この一直線な告白を後押ししてしまっていたことに、今、気づいたのだ。きっと由加里の前で、心に想う人がいることを一度でも言っていたら、それが彼に伝わっていただろう。そうしたら彼は言わなかったかも知れない。その想いを永遠に表に出さないつもりだったかも知れない。そしてもちろん麻衣はそれに気づかないまま卒業して。ただのほろ苦い思い出として終わるかも知れない恋だったのだ。
どうしよう。
自責型の麻衣は、自分がついた嘘が彼に迷惑をかけたような気分に陥る。
----こんなに真剣に言ってくれているのに。
「……好きになってくれるなんて思ってないんだ……」
かああっ、と麻衣の顔の温度が上がる。それってまるで……。
「……ただ、もし、橘の隣に今誰もいないんなら……」
そこにただ、座らせてくれるだけでいい。
何もして欲しいなんて言わないから。
麻衣の中に想いが溢れる。強い背中のハリネズミ。
そこにただ----。
「----なんで……私なんか……」
風太の緊張が、ぷつんと音を立てて切れた。
「……私なんかで……」
今度は麻衣が糸を張り始める。
「……ホントに私なんかで……いいの?」
何もして欲しいなんて言わない。ただ隣が空いているならそこにいさせてくれればいい。その想いは、ぎゅうっと麻衣の心臓をわしづかみにして離さない。
わかりすぎるくらいわかるから。
それを拒絶したらどんなに痛いか、どんなに心が引き裂かれるか、それもわかってしまうから。
拒めなかった。いずれ傷つけてしまうかも知れないのに、どうしてもその哀しいくらいの想いを切り捨てられなかった。
それに……。
きっとその手は温かいのだ。自分のことを想ってくれて、何も望まないまま差し伸べられたその手のひらは。
決して自分に伸ばされることのないぬくもりを待って震えているより、その温度に触れたら。そのめくもりを感じられたら。
変わらないとは言い切れない。恋に恋するだけの、何も知らないその人の、その幻影に恋したような、そんな自分の苦しさを、彼が----風太が変えられないって、誰が言い切れる?
だって風太はそこにいるのだ。生身の、現実の風太が、手を差し出しているのだ。
麻衣に背中を向けるだけの他人じゃないのだ。
それに、彼は----もう学校に来ないかも知れない。
もう会えないかも知れない。
もう二度と。
ぴしっ、と麻衣の心がひび割れた。ひび割れはカタカタ震えて、差し伸べられたその手にすがった。そうでなければ、本当にぱらぱらと崩れてしまいそうな気がした。目の前の風太の目がほんのちょっと潤んでいて、締めつけられるような緊張から解き放たれて今にも倒れてしまいそうな顔をしていた。
凄い勇気だったに違いないのだ。麻衣にだってそのくらいわかる。
「ね……」
その勇気に応えてあげたくなって。
「一緒に……帰ろ?」
風太の顔にほんの少しの笑顔が戻った。麻衣も笑顔の努力はしたが、拭い切れない罪悪感が真っ黒い染みになってそれを邪魔しているような気がした。
嘘を重ねてしまった。
隣の席は空いてない。来る見込みのない相手だけど、でもそれでも予約席だった。
そこにこっそり貼られた名前を、貼り替えることがもし出来るのなら----
----麻衣は、心の半分でそっと風太の方を見ていた。でも、それでも消えることのない染みは広がって行くばかりで。
麻衣の心のもう半分は、自分がひどい女だとしか思えなかった。どうしても。
由加里がそこに絡んでいる限り、噂に加速度がつきそうなことは予測していたが、しかしそれにしたって早すぎだった。麻衣と風太がどうも付き合っているらしい、という話は、あの告白から三日もたたないうちにクラス中に蔓延していた。
別に特に教室でイチャついていたとかそんなことはない。部活をしていない麻衣の帰りと、部活が始まるまでの少しの間と、その重なり合うほんのわずかな時間で、ちょっと話し込んだりしているくらいの付き合いでしかないのに。
でも雰囲気で判ってしまうのだろうけど。特に風太はなんだか性格まで変わっちゃったように見える。明るくなって----そう、輝いてる。前に比べたら。
噂のネタにされるのはあまり嬉しくはなかったが、ありがたい副作用がひとつだけついていた。マキノセンパイが----あの牧野 剛が、どうも麻衣を「聴衆の一人」に格下げする気になったようなのだ。
その朝も例によって白い歯でにっこり微笑んで、うんざり顔の麻衣と対面し、それでもじっと顔を眺めた後で、
「……幸運な彼氏に伝えてくれ。俺は他人のモノに手をつけるような男じゃないから心配するな、って」
それが最後だったのだ。
その次の日から、まるで肉食獣に襲われるのを心配する小動物のごとく、麻衣はおっかなびっくり登校することになってしまった。これで本当に、永遠にアレから解放されたんだろうか、と余計な心配をするようになってしまったのだ。
でも、いくらおどおど登校しても、もう何も起こらなかった。それに安心出来るまで、また少し間が必要だった。
恋という気まぐれなものは、彼を輝かせ、麻衣を苛んでいた。同じ恋を共有しているはずの二人なのに、片方は光へ導かれ、片方は闇に突き落とされていた。
紅は、年が明けてから一度も登校して来ない。
4. 君がただぼくを見て笑ってくれたら(そのぬくもりを Part II) end.
5. フェルマータ〜孤独な時間につけられた記号
年が明けてから、涼子の朝はその音で始まることが多くなった。静かな呼吸と、穏やかな鼓動と。
まるでそうしないと涼子が逃げるとでも思っているみたいに、体中で涼子を絡めとったまま、眠っている治巳の腕の中で。
まだ抱かれることに全然慣れない涼子は、目が覚めてその状況に置かれているのを自覚するたびにびくんと反応してしまうのだ。もういい加減にそういう純情は捨てなきゃならないと思ってはいるのに。
自分の中でしっかりかけられた箍にうんざりして来る。親がその手のことにうるさかった記憶もないし、学校が厳格だったわけでもないのに。
何が何だか判らないままコトが終わる段階はもう過ぎていた。でも涼子の脳細胞は、最後の砦を崩そうとはしなくて。快楽のシナプスだけを決して通してはくれないのだ。
どう自分を駆り立てても、いつも置いて行かれてしまう。自分の足元だけが、後ろに流れるベルトコンベアになっちゃったみたいに。それでも応えなきゃならないって、----そうじゃなきゃ彼が終われないから----、決してうまくない演技で、のぼりつめたフリだけはしても。
----治巳もきっと気づいてる。絶対に楽しくないに違いないのに。
それでも、彼はそこにいて。痛いくらいに抱きしめて。牛の歩みのようにしか変われない涼子を、離すつもりはないらしい。
本当に少しずつ変わってはいるのだけれど。
涼子が自分でも今まで知らなかった声。キスが挨拶から激情にスイッチする瞬間。体のあちこちに、まだ目覚めていなかった感触がたくさんあったこと。ゆっくりだけどそこに「回路」が出来て来て、ちゃんと脳に伝えてくれるようになってきたこと。
今までの人と治巳がどんな付き合いをしていたかなんて涼子は知るよしもないが、それでも判ることがある。治巳は、慣れているのだ。オンナノコの扱いが---ベッドの中でも。
それも涼子には初めての回路だ。でも、ぴゅんと飛んだシナプスに、名前をつけるのはとても簡単。
嫉妬。
----最悪だ。
嫉妬?
それは違うはずなのに。こんな、女としてはまるで欠陥商品の涼子はそれでも今は治巳の彼女なんだから、嫉妬はされる側のはず。
涼子には自分の価値が理解出来なくなっていた。治巳の手の中でだんだん女になっていくにつれ、自分が今まで持っていた自尊心のカケラは壊れて行くばかりなのだ。
なぜあたしなんだろう。
わからない。
なぜ友達のままではいけなかったんだろう。
わからない。
何故あたしと寝るんだろう?
今時、処女をありがたがる風潮がないくらいのご時世なのに、何も知らず、うまく「反応」する術すら知らない女と寝ることにどんな意味があるんだろう?
----わからない。わからない。わからないことだらけ。
話していた時間よりキスしている時間の方が多くなって、最初は笑っていたその顔がため息になり、声が変わる。普段だってなにげなく触れられているはずの髪の毛の、その指先の、意味が変わる。
治巳の。
隣でかさっと音がして、こもった声が何かを呟いている。きゅっ、と一瞬治巳の手に力がこもる。
「----おはよ……」
彼の目が、とても大事そうに涼子を包み込むたび、どうしていいか判らなくなる。
「ちゃんといてくれたね……」
「……えっ」
「涼子が俺から逃げる夢を見てた……」ぎゅうっと腕が強くなる。「ずっと怖かったから、涼子を、失うんじゃないかって……」
----やっぱり……どうしていいのか判らなくて。
「起きなきゃ……講義、あるんでしょ」
色気もなにもあったもんじゃないセリフでその腕から逃げ出した。
そう、確かに----逃げてる。それは、ある意味、夢ではないのだ。
しかしそんな朝----いや、もう昼近いけど----に客は現れた。呼び鈴に答えて、治巳のシャツを羽織ってスコープで外を覗く。
とたん、ばたばたと戻って。
「起きてっ!! 服着て!!」
「そんなに慌てなくてもいいじゃ……」不満そうな治巳にシャツ投げつけて最後通告。
「紅くんが来てる」
「げっ」
----忘れてた。スカッシュの約束。こういう関係であることは少年も知ってはいるが。しかしこの光景はあまりに露骨過ぎる。
涼子はどたばた大騒ぎの室内を横目で見ながら、ドアの向こうの紅に「ちょっと待っててくれる?」と声をかける。そしてその騒動に自分もひとしきり荷担する。もうそのどったんばったんで、紅には何が起きているのかバレている気はしないでもないが。
とにもかくにも。
動ける服に着替えて。
「……お待たせ……」
「別に隠すことねーだろ」
紅に開口一番に言われてしまっては返す言葉もありゃしなかった。その上、
「……やっぱり慌てることなかったじゃん」
後ろで笑っている治巳はまだシャツの前をはだけたままで。
青少年健全育成条例違反だ、と涼子は思った。
紅は、多分、基本的には運動神経はいいのだ。ただ、今まであまりそれを発揮する機会もなければ、自分から進んで何かやろうなんて思っていなかったに違いない。
何処か無気力さを漂わせながら苛ついていた目の中に、体を動かしている時だけは十四歳という年相応の無邪気さが見えるようになって、涼子は自分が彼の心にいい影響を与えられているような気がしていた。
彼が何処に住んでいるのか、何処の中学の学生なのかも涼子にはまだ判らなかった。ただ、時が過ぎるにつれて、ひとつだけはっきりしたことがある。
何処に籍を置いていたとしても、今の紅は学校に行っていない。
街に制服姿が戻って来ても、彼は涼子の家の呼び鈴を鳴らすのだ。そして、自分と同じくらいの制服を見るたびに、露骨に嫌な顔をする。思いっきり不機嫌になる。
涼子は教師になる気はなかったが、普段の講義の中でカウンセリングの勉強もしていたせいか、もし彼が登校拒否児だとしてもそれを大人ぶって諌めるようなことはするまいと思っていた。
だから何も聞かないのだが、紅は時々、制服とすれ違うたび、嫌な顔のみならず、何か言いたげな目をすることがある。涼子がそれに気づかないフリをしていれば、それ以上何も言おうとはしない。
でもそのうち、と涼子は思っていた。
自分は突破口になれるだろうか。この紅という少年が抱えた闇を抜け出すための。もしそうなら、それをちゃんと受け止める必要がある。どんなに深い闇だとしても。
----ジュースを手に戻って来た紅は、一つを涼子に投げてよこす。がしゃがしゃ振って、開ける。目の前の十四歳はホントにおいしそうにごくごく音を立てて飲み出す。
「いい飲みっぷりだわねえ」
「まあね」
笑顔を見せてくれることも多くなった。ちょっときついつり目気味の目が、きゅっ、と細められて。そういう顔をしている時の紅はなんだかとてもかわいくて、ホントの姉だったら頭をくりくり撫でてしまいそう。
----そしてうざったがれたりして、ね。
自分の想像がおかしくてくすくす笑う涼子に、
「……んだよ?」イヤそうな顔、ではない。
「……なんでもない。それよりさ、うまくなったよね。すごく」
「ん」またジュースに夢中で。
「そのうち、あたしに勝てるよ、きっと」
「勝ったらさ、何かおごって」
「おいおい、今までだっておごってるじゃん」どころではなく実際は全部涼子持ちだ。紅は現金を持ち歩いていないのだ。
「もっとすっげーおごって」
「何よそれ……」
笑いながら、ちょっと痛い視線を意識する。世間の壁というやつだ。
涼子は大学生だから、昼間のスポーツセンターにいたっていいのだが、紅はこんな時間にここにいる立場じゃないはずだからだ。それも……
最近、紅はよく訪ねて来る。別に多分スカッシュじゃなくてもいいのかも知れないけど、でも今のところ涼子と紅の間にあるのがこれしかないから、ここへ来てしまう。
しょっちゅう、来てしまっているのだ。
定期的に通っている主婦なんかは、もう気づいているに違いないのだ。これじゃあ、紅の登校拒否を宣伝しているようなもの。
登校拒否は犯罪ではないけど、誰かが警察に言わないとは言い切れず、涼子は正直それが不安でもあった。学校であれ警察であれ、もし見つかってしまったら、紅の意志なんかそっちのけで引き離されるような気がしたのだ。たとえ日曜日だって、会うなと言われてしまうかも知れない。
ただのスカッシュ仲間、なのに。
学校に行かないのは犯罪ではないが、義務教育中なのを知っていながら親が子供を学校に行かせないのは犯罪のはず。
涼子は親ではないが、きっと問題視される。知っていながら、追求しないのだから。どう考えても今の涼子の存在は、教育上好ましいとは言えない。
----しかしそれにしても。
紅の親は、彼が学校へ行っていると思っているのだろうか。紅が涼子の前に制服で現れたことはないから、だとしたら彼は制服を着て学校へ行くフリで家を出て、何処かで着替えて来るのだろうか。毎日そんなことをしていたら、それだけで目をつけられてもおかしくないような気がするけれど……。
それに、たいていの登校拒否は昼夜が逆転したり、部屋に閉じこもり気味になったりして、自分の世界を閉ざすケースが多いと思っていたのだが、この少年は何故か外に出ている。自分と同じ年頃には憎悪しか感じていないようだけど、涼子にはこんなに明るい笑顔を見せることもある。
----行動原理がつかめない。十四歳という年齢の微妙なバランス。
「なぁにボーっとしてんだよ」
こんっ、と空き缶でつつかれて、涼子はふと我に返る。この少年は、こっちに向けられている何人かの訝る視線にも気づいていないようで。
「別に。……あー、もうこんな時間……」
「えっ」少年は、壁にかけられた時計を見て、「あーっ、急がなきゃ……」
缶を投げ入れるその手つきももう慣れたもの。
「じゃね」
彼のものにしてはヤケに大きなジャンパーを引っ掛けるようにして、紅は駆け出す。最初の日以来、十七時を過ぎると彼はそうやってウサギみたいにすっ飛んで家へ戻ろうとする。
中学生が部活でもやっていればちょうどそのくらい家に着くのだろうか。学校に行っていると思わせるための芝居?
でもそれにしても、紅の足は軽やかだ。家に帰ることがすごく嬉しいみたいに。
その後姿を見送りながら、涼子は軽く伸びをする。今夜はひとりだ。治巳は久々にドラァグやりに行くんだと言っていたから。そう思ったら洗濯だの掃除だのいやに生活じみたことばかり次々と頭に浮かぶので、我ながらとことんイロケのないやつだなあ、などと思いつつ、自分も家路へとついた。
「……会費、今、いいですか?」
司書の後輩が封筒を手に智のところへやって来た。コンピュータから目を上げてきょとんとしている智に、その子がおかしそうに笑って、
「江成さん……もしかして忘れてます?」
「……はい?」
「ひどいなあ、鈴木さんに言いつけちゃいますよ?」
鈴木さん。同僚の女性の名前。
でも彼女はもうすぐ佐世保さんになるはずで……
「あー……」
その通りだった。頭からすっぽり抜け落ちていた。その日は、彼女の、送別会だったのだ。
「……困っちゃいましたね……」声を出すつもりはなかったのだが思わず声になる。
「えーっ、お金ないとか言いませんよね?」
「……あ、いえ、そちらの方は大丈夫なんですが……」
ここのところ、ひとりで暮らす以上の出費があるもので、お金は余分に持つようにしている。
「じゃ何なんですか?」
「……いえなんでもありません。ちょっと待っていて下さいね」
自分の荷物を置いてあるロッカーへ行く。財布を取り出して、小走りに追いかけて来た後輩に会費を支払う。
彼女は----もうすぐ佐世保さんになってしまう鈴木さんは、智の同僚であり、パソコンの先生でもあった。このスローペースの生徒は最初、キーをひとつ探し出すのに数十秒かかるようなありさまだったのに、根気強く付き合ってくれた。彼女がいなければ智はここでは仕事にならなかった。そういう意味では、同い年だし同僚なのだが頭が上がらないのだ。
どんなに宴会が嫌いでも、飲み会が苦手でも、彼女の最後の送別会だけはちゃんと出ようと前から思っていた。
----そう、去年から告知されていたのに。
とことんそういうことに興味がないのだ。
----送別会のことなんてすっかり忘れていた。
コンピュータの前に戻って仕事を続けながら、智の頭の中によぎった『困ったこと』----それは紅のことだ。
智はほとんど寄り道せずに家に帰る方なのだが、最近、智が帰るとたいてい紅は家にいる。そのおかげで、帰る頃にはいつも部屋は暖かくて、寒がりの智にはそれはありがたいことなのだが。
問題は彼が、どうも智が帰るまで食事もせずにじっとしている雰囲気だということ。以前は食べたければひとりで勝手に食べていたのに。
----それはまるで、自分の帰りを待っているかのような。
そんなことをして紅にどんなメリットがあるのか智には判らない。だから、多分たまたまそう見えただけで、待っているわけじゃないのだろうと心の中で勝手に結論づけていたのだが、それが何日も何日も続いて、あげくの果てに昼間出かけていてもその辺りの時間に飛んで帰って来るらしいのを目撃してしまって。
智は紅への連絡手段がない。智の家には電話回線はあっても電話機がないからだ。電話線はパソコンにだけつながっていて、智と話がしたい人は彼の持つ携帯電話にかけて来る。一応、携帯電話の番号を紅に教えてはいるが、紅がかけて来るというのは絶望的だ。公衆電話に入れる十円玉一枚だって彼は持っていないのだから。
あの部屋で、ひとりで自分を待ち続ける人がいる。
こんなことで心を痛める日が自分に来るとは智は思っていなかった。
----しかも相手は中学生の家出少年だなんて。
今の紅は本当にずっと待ちかねないのだ。その理由までは問いただしたことがないけれど。そして今までは一応、ほとんど決まった時間に帰っていたので何とかなっていたのだが。
さてどうしたものか。
……と考えあぐねたところで、智には名案なんてあるはずもないのだ。心に紅のことを引っかけたまま、携帯電話を気にしながら、智は慣れない宴会の席に赴く以外に道はなかった。
しかし色々な意味で「鈴木さん」とは話が弾むのだ。というより、彼女はこの職場で唯一、智のこのペースに合わせることが出来る才能があったと言うべきかも知れない。普段は滅多にこういう場に長居をすることはないけれど、彼女に「最後だから」と言われるとどうも拒み切れずに、智は初めて居酒屋で日付変更線を超えることになった。
翌日は非番なので、仕事の心配はしていなかった。それに、そこまで来てしまったら紅もひとりで適当にやっているだろう、という気がして、それまでの思い出話やら自宅のパソコンの相談やらで、久し振りに紅以外の人間とたくさん喋った。
それはそれなりに楽しい時でもあった。恐らく相手が良かったせいだと思うが。
ようやくその宴が解散した頃には、時計は午前三時を回っていた。
お酒は得意ではないのできこしめしてはいなかったが、二人が新人だった頃の失敗談や転勤してしまった上司の思い出話なんかで智は少し別の意味で「酔って」いた。普段そういうことは滅多にないが、ちょっと鼻歌を歌ったりしながら、例によって歩ける距離の自分のアパートに戻って来る。
----鍵、もしかして開けっ放しかな。閉めて郵便受けにでも入れておいてくれていればいいのだけれど。
頭の片隅でそんな現実的な心配をしたのはドアの前まで来てからだった。だが。
電気が、ついていたのだ。鍵も開いていて。
「……紅……?」
ドアの内側でそっと鍵を閉めて、おそるおそる呼びかける。
やっぱり待たれていたらしい----。
こんな時間まで。
「……先に寝ててもよかったの……に……」
リビングのコタツの前に彼はいた。ここのところいつもそうやって智の帰りを『待って』いるかのような少年の姿が。
いきなり立ち上がって近づいて来る。智がその動きに追いつけないでいるうちに、がんっと壁を殴る音が耳元で響いた。とっさに驚いてずるっと滑って床にへたり込んでしまう。いつもとは逆に、見上げた位置に紅の顔がある。
智の背中にある壁を、また少年は殴りつける。出会って以来、最悪に苛々している顔が目の前にある。智の方を見てはいない。殴られる壁と殴る紅の間で、どう対処していいやら途方に暮れている智は、それでも、とりあえず説明だけはしようとした。
「……すいません、ちょっと送別会があったんですが……えーと、当日まで僕自身がすっかり忘れていて……」
がんっ、とまた壁が鳴る。
何に苛々しているのかは智には全く判らない。
「……何か用があったのなら、……」
「ねぇよ!!」
ものすごい剣幕だった。
そのまま、両手でばんっと壁を叩いたかと思うと、壁を離れて、コタツに潜り込む。智が使っていた毛布をひっつかんで頭からかぶってしまう。
「……あの……ベッド、使っても……」
「……っけーねーだろ」
関係ないわけはない。
関係はあるに決まっているのだ。
だが今の紅に説明を求められる状況でないことは明らかだった。
見ればベッドは綺麗なままで。紅が寝ていた様子はない。
綺麗な----?
----ベッドメイク、したんだろうか、紅が。
今までそんなことをしたことはなかった。だがこの状況から判断するに、今度は彼がコタツで寝る決意をしたかに見える。智にベッドを返すつもりで。
もしかしたら紅が帰る気になったのかも知れない。帰る時は挨拶して欲しいと自分が言ったから、何かを言いたくて待っていたのだろうか。
だけどそんな日に限って、智は何の予告もなしに、いつもの時間に帰って来なかった。
----そんなところかな。
智はしばらく壁に寄りかかったままコタツのそばの毛布の山を見ていた。この少年の性格ではそうだとしても早く帰って来て欲しかったなんて言えるはずもない。そんな風に納得しておくことにした。もう眠かったというのもあるが。
智は電気を消してバスルームへ向かった。
完全な暗闇に包まれた紅はひとりで、心の中の泣きわめくガキに手を焼いていたところだった。
自分の『子供』は、必死に止めようとしていたが、紅は智を殴るつもりだった。
殴るなんてなまやさしい状況ではないところまで追い込んでもよかった。多分その程度では何も変わらないような気がした。
----こいつを納得させるにはどうしたらいいのか?
それを今日、ずっとひとりで、考え続けた結論のひとつがそれだった。
智を殴る。できれば怪我をさせるくらい。背は負けてるけど体力的には多分紅が勝っている。やってやれないことじゃない。
智に追い出されればいい。彼が自分をもう置いておけないと思うようなことをすればいい。そうすればきっと、彼は自分を警察に引き渡す。
あの優しい顔がどう歪むのかなんて全く想像がつかなかったのだけれど、とにかく、今まで見せることのなかった怒りの----あるいは悲しみの顔で、智が自分を突き放す。
そうすれば、この子供は、泣き飽きてまた眠りの中へ戻ってくれるかも知れない。
今夜なら理由がある。ことわりもなく彼は遅くなった。今なら、それを理由にすることが出来る。そうして自分を納得させて。足を向けたまでは予定通りで。
----紅がこんなにも苛々した顔で大股で近づいて行けば、たいていの他人はおびえる。たかが十四歳とはいえ、顔の造りが根本的に底冷えする表情なのだ。だから紅に向けられる感情はいつも否定的なものばかりで、自分に向けて誰かが、最初から笑顔で接してくれることなんてまずない。去年バレンタインとやらのためにチョコを持って来た同級生だって、紅が噛みつくとでも言うかのようにずっとびくびくしっぱなしだった。第一印象の悪さを競う競技があったらあっという間にメダル候補だ。
違ったのは智と、----あの二人。治巳と涼子ぐらい。
そしてこんな時にまで彼はやはり違うのだ。
壁を背に床に座り込んでしまって、それはそれで紅の計画には有利な条件になるはずだった。それでも。
それでも智は紅を恐れることはない。ただ驚くだけで。
ちゃんと説明しようとして。
そのまま紅の動作が一瞬止まってしまった隙に智は余裕を取り戻す。わからない、という顔をしてはいるけれど。
----何故この男はオレを恐れないんだ?
脅すつもりで壁を殴りつけても、その拳が自分に向かおうとしているなんて思ってはいない顔。
胸の中で火がつく。自分に対して怒りが湧き上がる。焼けつくように痛み出す。それを吐き出す場所を探して何度も壁を殴って、それでも最後までとうとう拳を下ろせかった。
ただどうしようもなく苛ついた。ここへ来て以来、こんなにもどかしくて苦しい怒りを感じたことはなかった。
自分で自分を破滅に追い込まなければこれを終わらせることなんて多分出来ない。いつか引き戻される時が来るなら二度とここには戻れないようにしておかなければ。
もうこんなこころを抱えるのは嫌なのだ----。
まるで赤ん坊のようにすべてを赦された世界にいたら、きっと戻ろうとしてしまう。
赤ん坊たるべき年齢の頃には赤ちゃんでいられなかった頃のツケなのだろうか。
きっとゼロ歳だった自分も赤ん坊ではいられなかったのだろう。膝に残された傷跡、捨てることを選択された子供。
誰にも愛されたという自覚のない子供----。
『なかないで』
気づくと、その子供は、……自分の中で眠っていた子供は、紅のこころを覗き込んでいた。少しおどおどしてはいたが、もう泣いてはいなかった。さっきまで、智を殴ろうとしていた自分を必死で止めていた小さな子供。
『なかないで』
泣いてなんかいねぇよ。
言い返して背中を向けても、子供はふらふらしながら紅の背中に手を伸ばす。
『なかないで』
「……るせえっ!!」
誰もいない部屋で毛布に八つ当たりする。バスルームから戻っていた智が、薄暗がりの中で、頭をタオルでがしがしふきながらきょとんとして紅を見下ろしている。
「……すいません……」
「あやまんな!!」智がうるさいんじゃない。
「……いや、でも……」
怯えればいい。怖がってくれた方がいい。嫌われる方が慣れているのだ。好意なんて自分にはどう扱っていいかまるで見当がつかないから。
まだ嫌われた方がわかる。
それなのに智は視線はまだあたたかいままなのだ。
そんな風に優しくされても、どう対処していいのか、わからないのに……。
「……ベッド……」
「かんけーねーっつってんだよ!!」
がんっと床を殴る。今度こそ嫌われる。それでいいんだ。もうケリをつけなきゃ。彼に、これ以上、すがり続けているわけには行かない。それでも、出て行けないのはコイツのせいだ。じんわりと目の縁に涙を戻した紅の中の子供。
納得させてやる。単なるオトナのひとりに過ぎない智の別の顔を見てやるんだ。
立ち上がって、作戦を再開することにする。手を固めて。また泣きわめき出した子供をむりやりねじ伏せる。今度は壁ではなく、まっすぐに智のみぞおち辺りを目指した----
その手が、つかまれた。
紅には予想外だった。いや自分がもしかしたらまだためらっていて、智にでも止められる程度の動きでしかなかったのかも知れない。しかしいずれにせよ智は紅の動きを止めた。
バスルームから出て来たばかりのあたたかくて大きな手のひら。それが紅の腕を止めて、その後にもう片方が頬にあたる。
「どうしたんですか?」
智の指先が頬を撫でた時、紅は初めて気づいた。
自分が----泣いていることに。
『なかないで』
その声が余韻を残して別の声に重なる。
「……何か昼のうちにあったんですか? ……僕で役に立つなら話を聞きますから……だから泣かないで……」
「……ちが……」
違う。
声に出来ない。初めての体験。喉がひきつれてまともに話せない。
「大丈夫ですか?」
「……っく……」
自分の目のはずなのにコントロールが効かない。悲しさなのか苦しさなのか、----あるいはとてつもない安堵感なのか。涙の意味を知らない紅は、それが流れるたびに自分の中に複数の感情が巻き起こり、混乱して、まるで整理がつけられそうになくなっていた。
「----僕は……」
こらえ切れずに落ちた涙の一瞬の隙間で。
「……子供を持ったことはありませんが……」
智の指先が紅から離れて。
「……世の中の親、というものは、こんな時、どうすればいいんでしょうねえ……」
「……と、……は、やじゃ……」
「……そりゃあ」いつもの笑顔が見えた。「そりゃあ、僕は親じゃないけど……」
自分でも判別出来ないくらいの嗚咽の間の言葉を智はあっさり翻訳する。
それから何かを考えているかのような間があって。
「……えーと……」心を決めたように頷いて、「怒らないで下さいね」
「な、にを」
答えは言葉では返って来なかった。紅の頭がふわっと動いて。目の前が真っ暗になった。大きな手が後頭部から背中に下りて温度を作って、それからゆっくりと宥めるようにノックする。
他人の心臓の音。
他人の体温。
はじめての。
ほんの刹那のあたたかい空間はすぐに離れて。
「……今日は、ありがたくベッドを使うことにします……それでいいですか?」
笑顔は何も言ってはくれない。
殴ろうとしたのに。それは判ったはずなのに。だから止められたのに。
そのことを責めないのは何故。
どうして?
きらいになってくれたほうがましだ。
紅の視界がまた涙に消される。
でもそれとは反対に----紅の中で泣きわめいていた子供はもう泣いてはいなかった。
5. フェルマータ〜孤独な時間につけられた記号 end.
6. Pink(心の向いたその先に)
麻衣が、初めてデートに出かける、と正直に話したら母親の方が張り切ってしまった。いやそういう母親だから話した、という方が正しい。何せ前日、どんな服を着て行こうかとクローゼットの前で悩んでいたら知らないうちに一時間もの時がたっていたのだ。
朝にこれやったら絶対遅刻だった。だから母親が選んだコーディネイトを勉強机の椅子の背にかけておくことにした。おかげで遅刻はしなかった。
冬の映画館には、その上映映画が恋愛ものだというせいもあるか、カップルがよく入って行く。そして麻衣と風太の二人も。
何か買って来ようか、と話しかけて来る風太は学校での風太と同じく明るくて屈託がなくてストレートだ。もうどうしようもなく嬉しそうではしゃいでいた(と言っても別に周りに迷惑のかかるはしゃぎ方ではないのだが)。
映画の間の二時間弱は二人とも物語に集中していて一言も口を聞くことはなかった。上映が終わり客電がのろのろと明るくなると、風太の目がちょっと赤くなっていた。
わかりやすいひとではある。
その後、ファーストフード店でコーラ片手に映画のことや、学校のことや、とりとめもないことをたくさん喋った。
風太はいつも学校では穏やかに笑っているけれど、麻衣の前で見せる笑顔は影がある。それに気づいた時、麻衣の心はほんの少し風太への距離を縮めていた。恐らく自分は、影に弱いのだ。紅は影の塊みたいなものだし。----反対にあのマキノセンパイに影なんてものは似合わない。
「……やっぱりさ、」風太がその影のままで麻衣に話しかけて、「どんなにその人にマイナスの面があっても、それをちゃんと受け止めてあげられるようじゃないとホントの恋人とは言えないよね」
麻衣の中で、映画の男女の姿が甦る。
「そうだね。いいところだけ見て好きになるようなのは長くは続かないよね」
「橘と意見が合うと何だか嬉しい」
意見が合わなくても嬉しいって言いそうな気がするくらい笑顔。
「でもそれって友達にも言えることだよね----きっと」
「うん」
「橘って、学校のトモダチに、本音、普通に話せる?」
「ううん」首を横に振る。「あんまり」
「……何だか安心するな、俺、……」
今まで滑らかに動いていた口が一瞬止まる。
「俺さ」
「なに?」
「……橘にだけは嘘ついてない。なんていうか、今、そばにいて一番、自分に素直になれるっていうか、そういうの……橘だけなんだ。だから……わかってくれると嬉しいんだ」
その時は風太は笑っていなくて。
学校での風太と少し違う。自分にだけ違う顔を見せる。麻衣だけが特別。誰でもない麻衣だけが。
麻衣は苦しいくらい思いの花束を持たされた気分にちょっと陥る。麻衣は風太に好きだとは言ってないけど(というより言えないのだけれど)、それでも風太は自分に思いを伝えて来る。直接的でまっすぐに。
たくさんの花束は綺麗だけど時々怖くなる。こんなにもたくさん、受け取るだけが精一杯になっている自分。
----橘だけだから
----橘だけはわかってくれるよね?
----橘だけは。
繰り返されるその言葉の中で、自分の名前が浮き上がる。
風太は優しい。色々気を使ってくれる。通りすがりに気になった雑貨屋さんに入った時も、ずいぶん長い間眺めていたけど文句言わずに付き合ってくれたし、別にたいして重くもない荷物を盛んに持ってくれようとするし、ドアは先回りして開けてくれるとか、麻衣の中で初めて体験する「大切にされること」のオンパレード。
こんなにも。
----それなのに。
風太がトイレに立った時、罪悪感メーターが一気に跳ね上がってどうしようもなくせつなくなる。それでも今こうして二人でいる現実を捻じ曲げることなんか出来るはずがない。
戻って来た風太は時計を見て、そろそろ帰ろうか、と言った。確かにもう空は暗くなり始めた。
電車の中の風太は少し無口で、それでも輝いた瞳は麻衣に多くの思いを見せていた。麻衣を家の前まで送り、まだぴょんぴょんはしゃいでいた母ににっこりと自己紹介して、風太は帰って行った。
「いい子じゃないのー! でも麻衣ってあんなにサワヤカなのが好みだったっけ?」
……母には、読まれているらしかった。
学校での風太は変わらない。いつも通りの影の見えない笑顔で。でも、麻衣と二人きりになるとそれがわずかに変わる。
誰もいない廊下や校庭の片隅。風太にとって空間はいつも麻衣を単位にして区切られている。そこに麻衣がいるかいないか。それこそがチャンネルを変える唯一の鍵。
学校では下世話に何かを聞き出そうとする由加里や、それを「くだんない」と切り捨てるヒトミや、そんな二人を苦笑して見守っている香奈と時を送る。ただ過ごすだけでもうそんな日々には何の意味もない。
紅は来ない。忘れようとしても視界に入るその空席が最大のネックで。
そこにいて、見つめられれば満たされていても、全く消息が見えなくなると単なる飢えにとって変わる。どうしようもないほど、一目でいいからもう一度会いたいと思ってしまう。それでも----彼は現れない。
放課後、誰もいなくなった教室に忘れ物を取りに戻った時、ふっ、と麻衣の心に魔が射した----自分ではそういう言葉でしか説明が出来なかった。風太が部活に行ってしまった後で、静かな教室の中で、忘れ物があるはずの自分の席より先に、紅の席に足が向いた。
一秒にも満たない躊躇の後でその席に座る。
冷たい椅子と机。そっと机の下に手を差し入れる。無造作に投げ込まれているいくつかの教科書。その中に、最近配られた連絡用のプリントや学級新聞なども突っ込まれている。
その紙たちを取り出して。教科書にまるで壊れモノのように触れる。
そっと開いて。綺麗なもの。まるで使ってないみたいに綺麗。いや多分、マトモに使ってなんていないんだろうけれど。
彼を知る手がかりが何もない。プライヴァシーの問題とかで名簿も作られなくなってしまった。友達の両親のことや住所や電話は知ってはいるけど、それ以外のクラスメイトについてはどんな家族構成かも知る手段はない。
紅は家にいるのだろうか。学校に行かない息子に、ご両親は困り果てているのだろうか。机から取り出した連絡プリントに進路相談の三者面談の文字が見えてそんなことに考えが及ぶ。
ノートが出て来た。
麻衣の手の中にある文字は筆圧が強そう。ところどころ黒鉛の粉が散ったような跡があって、それはシャープペンの芯が書いてる途中で折れた痕跡。
角張っている。ちょっと右上がり気味。でも丁寧で読み易い字。落書きとかもなくって、日頃見ている態度とは違う一面がそこから見える。
----意外と、授業、私よりマジメに受けてるのかも知れない。
またひとつ彼の内面を知ったような気がして、そんなことで嬉しくなる。
連絡プリント類を揃える。彼がやって来た時にぐちゃぐちゃと突っ込まれた状態では気分が悪かろうと思った。これを日課にしようか、などとふと思った。小さくても彼にかかわっていられるような気がする。そして彼がもし来ることがあれば----。
がらっ、と音がした。
麻衣は咄嗟に驚いて動けない。全身が動きを止めてしまう。
誰かが来た。
もし風太だったら。
こんなところ見られたら----
罪悪感メーターが振り切れる。測定不能。目をぎゅっと閉じてしまう。見られない。
「……あら」
落ちて来た声は女性だった。クラス担任の声。
「橘さんね。どうしたの? ここ……御家瀬くんの……」
「……あ……はい……」
風太ではないと判った安堵感が先に走る。開いた視界の前に先生が、大きな封筒を持って立っていた。
「……プリント、整理してくれてたのね」
「……はい……」
それはその通り。
「御家瀬くんはクラスで孤立してるように見えてたけど、もしかして橘さんは仲良かったのかしら」
からかうような口調ではなかった。純粋な質問。麻衣の中で、さっき紅の席に近づかせた悪魔が囁いた。
「そんなにいいというわけじゃないです。でも、話したことあったし……」嘘ではない。バレンタインの時に一言だけだけど。「最近連絡もないしどうしたのかなって、気になって……」それも嘘ではない。でも、『最近連絡ない』って、最近じゃなきゃ連絡あったの? ----あるわけないのに。
でも、そう言ったらこの教師は誤解してくれはしないか。そうすれば……。
「……そうだったんだ……」
ほらね。
まだ若い女性教師は、自分の担当クラスに不登校が出たことをかなり気に病んでいたらしい。目の端に浮かぶ安堵感とため息が如実にそれを物語っている。
「……何だか安心したわ。彼にも『話せる』子がいたのね」
ちょっと誤解がオーバーロード気味だけれど、それだけ彼女は行き詰まっていたのかも知れない。麻衣はさらに救いの手(のフリ)を差し伸べてみる。
「……あの、私、これ、持って行ってもいいでしょうか? 彼の家に」
「えっ」
だめかな。
担任は必要以上にびっくりしているような気がした。それってそんなに珍しいことだろうか? 休んでいる友達に連絡プリント持って行くことが。だって三者面談のこともあるし。
「橘さん、……知ってるのよね? 彼の家のこと」
----その言葉で担任の驚きの意味を汲み取ることになる。紅の家に何かの事情があるらしいこと。でもこればかりはこの場でごまかせそうもなくて、
「……いえ、そこまで立ち入ったことを話したことはなくって……」
「……そう。でも、多分私が行くよりはいいわね。彼には----あんまり好かれてないみたいだったし」
自嘲気味の笑顔。担任は封筒を差し出すと、プリントをそこにまとめて入れて、彼に渡すつもりだったのだと話した。
「橘さんが行って話して、何か変化があればいいのだけれど……家の方は、ちょっと具合が悪くてとか、風邪を引いてとか、おっしゃるのだけれど、それでこれはあんまり長すぎるでしょう? だから、つまり……『不登校』ということで先生方の間でも意見が一致してはいるのだけれど……その原因が判らないから、私が行って余計こじれたらどうしようかしらとか、ちょっと心配もあったの……それで……」
「先生、心配し過ぎですよ。今時の中学生にとって『先生』の存在なんてそんなに大きくないですよ、きっと」
彼女があんまり落ち込んでいるのでちょっと励ましモードになって見せてから、
「私が行きます」
にっこり微笑んで見せる。その笑顔は彼女への安心半分、『彼に会える』が半分。
「そうしてくれる?」
教師もほっとしていた。
二人でプリントを整理して、封筒に収める。その後で教師は一枚のメモを手渡す。地図のコピー。
「彼の『家』は、そこなの」
『家』に含まれた微妙なニュアンスを気にしながら目を落とす。そこに書かれていた名前に息が止まる。
教会が併設されている孤児院。麻衣がこの街に引っ越して来る前からあったという。時々慈善団体訪問なんかのニュースで名前を知ることがある、その施設の名前がそこには書かれていた。
----孤児……
麻衣の動揺に教師も気づいたように。
「……やっぱり、私が行こうか?」
「……いえ……」麻衣は封筒を握りしめた。「今から、行って来ます」
「そう。明日、様子を教えてね」
「はい」
麻衣は自分の席に戻って忘れ物のノートを取って、そのまま学校を出る。ノイズが多くて見にくい地図だったが、それでも最初から附近の地理を知らないわけではないので、何とか辿りついた。
夕方の教会には人がいなかった。教会の隣に平屋のあまり立派とは言えない建物があって、何人かの子供の姿が窓から見え隠れする。一番端の方に入口があり、シスターがひとり、ちょうどそこから入るところだった。
「あの……」駆け寄って声をかける。
「なんでしょう?」穏やかな笑顔と声。
「あの……えーと……」自分をどう紹介していいやら一瞬迷ってから「御家瀬 紅くんのクラスメイトで、橘と言います。あの、連絡のプリントとか、持って来たんですけど……御家瀬くん、いますか」
「あら……」
戸惑われている。すごく戸惑われている。
「ちょっと待っていてくださる?」
小走りになる。ドアから中へ入ってしばらくした後、別の初老のシスターが顔を出した。「どうぞこちらへ」
案内された場所は事務室のようだった。その片隅に置かれたソファに腰を降ろす。温かい紅茶が出て来る。
「……御家瀬くんのお友達、なのかしら」
初老のシスターは多分ここの責任者のような立場なのだろう。麻衣の向かいに座った第一声がそれで。その『お友達』に含まれる微妙な意味合いが麻衣には感じられる。
多分彼は友達がいないのだ。学校でもここでも浮いていて。
「……彼がそう思ってくれているかどうかは、わかんないですけど、でも……話したりしたことはあって……」
教師についたのと同じ嘘。それでも、今の紅の周りの大人には、それが充分過ぎる効力があることに麻衣は気づいた。
誰も彼を扱えないのだ。だから、彼とコミュニケートする術を持つ人がいるなら、それが誰であれ、縋りたいのだ。
大人という名の無責任。誰も彼をわかろうともしないで。
「まあ、そうなの……じゃあもしかして……その……連絡は、来てる?」
----連絡……?
麻衣の中でその言葉がものすごいスピードで、駆けた。とんでもないスピードを持った言葉だった。連絡、連絡、連絡。つまり連絡がない? 『家』に? ということはここにはいない? ということは?
家出した----? 紅が?
「……いえ……ありませ……」
解釈の結果に今度は麻衣が戸惑う。学校に来ないどころじゃない。彼は、……
いない、のだ。
「……そうですか……」
「……あのっ……」言葉がつんのめる。「いつから、いないんですか、彼は……」
シスターたちはいないなんて一言も言ってはいない。でもその言葉に麻衣には隠せないところまで話してしまったことを理解したのか、シスターはそれまでのことを話してくれた。
彼は年が明ける前からいなかった。冬休みに入って、孤児院の中でも友達がいないしシスターとも馴染んでいなかった彼は、昼間、金も持たずに街の中をただふらふらして戻って来る、という所在ない生活を送っていた。それまでの長期休暇はいつもそんな調子だった。施設がハイキングやキャンプやクリスマスパーティやその他の行事を計画しても積極的に参加はしない。自分から心を開こうとは決してしない。そういうタイプだった。
しかし施設の規則上、ここにいられるのは義務教育----つまり中学三年生までだ。その期限まであと一年と少し。そんな時期になってもこの状態では、彼がここを出て行くことになった時に社会に適応出来るとはとても思えなくて、今までより少しキツめに注意してしまったと。そうしたら。
「……上着も着ないで……デニムのジャケットだけで、もちろんお金も持たずにぷいっと出て行ったっきり、戻らなくなってしまいました」
いなくなってもう一ケ月になろうかとしている。今どこでどうしているのかまるでわからない。お金は持っていないので、自分ひとりの力では遠くに行けないだろう。頼れる親戚もない。こんな時駆け込める『友達』がいないのは麻衣の方がよくわかっている。事態は悪いことを想像させる要因で溢れていた。
麻衣はプリントを握ったままの手が震えるのを抑え切れなかった。
どう考えても、そんな状況で、この冬空の下、彼がマトモに生き延びていると考える方が不自然だった。薬で眠らされた女性が外に放置されて凍死したなんてニュースもあった。薄着で、外にいるより他に手段がなかったら、同じように----
心のひび割れがまた音を立てる。何故最悪の事態ばかり心に浮かぶのだろう。
「学校には、あんまりご心配をかけたくなくて……でもそろそろもうごまかし切れないのでしょうね。こうしている間に、せめて食事や寝るところとしてだけでも、ここに戻って来てはくれないかと、思ってはいるのですが……あまり騒ぎ立ててもよくないでしょうし……」
住宅街のど真ん中の孤児院、という存在を快く思っていないらしい人々がいることも時々ニュースで耳にする。シスターたちが言いにくそうにしているのは多分そこなのだろうと理解して。
「……連絡、来たら、絶対知らせます」
「ええ、お願いするわ」
「とりあえず、これ……」プリントを渡す。
「ありがとう」受け取ったシスターは息をついて、「あの……」
「はい」
「……紅くんは……、私たちシスターには全然心を開いてくれなかったわ。でも同世代の子たちになら、少しは話せることもあるんじゃないかと思うの。その……もし、戻って来た後、話せることがあったら……力になってあげてくれないかしら……」
「……はい……」
麻衣が役に立てる機会があるなら、それを受け入れないわけがなかった。ただ紅がどう思ってくれるのかは別、なんだけど。
麻衣は事務室から出る。ドアの外で何人かの子供が盗み聞きをしていたらしくぱたぱたと走り去る。彼らも小さいなりに紅の失踪を心配しているのだろう。
外はもう真っ暗だった。
「やーっと『復活』したのねえ、ハルミちゃーん」
大音量の音楽の間で、ぺたっ、と背中に何かがくっついた。治巳は苦笑しながら振り返って。見慣れた常連客のひとりがそこで満面の笑みを浮かべている。
「また口説きに来た?」
「もー諦めてるって言ったじゃん」
その人は男性。治巳の肩くらいの身長は考えてみれば紅と同じくらいか。
何の仕事をしているのかよく判らないけど、昼間に生きているとはとても思えないタイプの。初対面からいきなりカミングアウトされて、それでちょっと口説かれたのがそもそもの出会いなのだけれど……そう言えば名前を知らない。
「おかえり----」またくっつかれた。
「そんなに長い間来なかったっけ」
「んー、もう来ないかと思ってたー」
「あらら」別の声がフロアから届く。「また仔猫に懐かれてる」
「にゃー」肩の辺りでこもった声がする。
「久し振り、依子」フロアからやって来た声に呼びかけると、
「ん」少しだけ唇の端が微笑む。相変わらず漆黒の綺麗な髪は顎の辺りでボブに切り揃えられていた。造られたみたいに整った体つき。大きな瞳はコンタクトで少し光っている。それから----少し厚めの唇。
----キスの味を、思い出してしまった。
ようやく"仔猫"が離れて行った後で、フロアから離れたところで依子は振り返る。
「もう来ないかと思ってたのは私も同じよ」
「なんで?」
意味ありげな含み笑いだけで言葉を継がない。その代わりに、ひんやりする腕が首の後ろに回る。あの頃と同じように滑らかな動きで、唇が近づいて来て。
触れる直前に止まるのもあの頃と同じ。
----どうする? と呼吸が問いかける。最後の一歩を踏み出すのはいつも治巳の方で。だから私は何もしていない、そんな顔で笑う。
彼女とは----付き合っていたわけではない。
彼女は誰のものにもならない。彼女が自分でそう言った。だけどキスをして。夜を過ごして。ただそばにいたいと思う時だけそばにいるだけの。
「カウントダウンパーティの時よ。あんな早く帰るんだもん。しかも女連れで。みんな言ってたよ?」
唇のすぐ前で含み笑いが少し続く。
「----私には白状してもいいんじゃないかなあ。どう?」
「何を」
と問いはしたものの、その答えを聞きたくないと頭の隅で声がした。その唇に----何ケ月ぶりかで触れる。
驚かない唇に触れられた時の感触が戻るまでに少しかかった。涼子はまだ戸惑う。たかが、キスだけでも。
----彼女の震える薄い唇が。
治巳は依子から離れた。
「……ふうん……」依子が面白そうに治巳を見ている。「ねえ」
「なに」
「私は治巳の人生のうち何ケ月かしか知らないわけだけど、ホントの治巳はどっちなの?」
「どっちって」
ライトの余韻だけがフロアから届く。その隙間で。
「……あの子、……抱かない方がいいと思う」
ずんっ、と重たい石が治巳の心の中に落ちて来た。
「これは女のカン、というやつだけど、……」さっきから絡んだままの腕が治巳のうなじを温めていた。「治巳、……大事なんでしょ、彼女のこと」
耳の中に何かが詰まったように感じる。聞きたくないのかも知れない。自分の中で渦を巻いていた男の手が治巳の胸倉をつかんだような気がした。
線の引き方。何を超えれば彼女が手に入るのか。
----手に入る。
征服欲。自分の中で血の色がするそれをつきつけられる。
単なる自己満足でしかなかったんじゃないのか。
彼女の中に見え始めた怯えや恐れ。今まで"友達"でいた時には決してそんな顔をすることはなかったのに。見ないようにして来たはずのそれが、依子の唇に封印を溶かれたように蘇生する。
明らかに違うのだ。彼女は----涼子は、
----俺を受け入れてくれていない。心の底の何処かで。
受け入れてくれるひとの触感。その違いが際立つからこそ見えて来るひとつの壁。未だに超えられない涼子という名の高すぎる壁。
「……遅かった、みたいね。あの日言えばよかったかな」
「依……」
「私にはわかるんだから。----キスのしかた、変わったもん、治巳」
今度は直前で止まらないキス。でもほんの短くて。
「彼女、私が思うより強いといいね。治巳、自分で気づいているかどうかわかんないけど、」少し息を継いで、「治巳は一線を超えるととたんに別人になる。それまでが『紳士』だったから、そのギャップに、壊れやすい"女の子"はきっと耐えられないよ。私は、耐えられたけど----ううん」首を横に振って「耐えた、けど」
「……」
うなじを滑り降りた指が見えなくなる。
「オトコってイキモノは大変よね。女は、セックスなんかに人間関係の価値基準を置かないんだから。抱かれたか抱かれてないかは、心の距離には関係ない。特に----ああいうタイプの子は。体が近づいただけ心が離れることも、あるよ」
ふざけたように言って。そして指がひらひら舞って。
「治巳、気をつけて」
「……ひどいなぁ、そこまで言っといて」
「やだな、応援してるのに。これでも」
「アドヴァイスはありがたく戴いときます」
「そーしなさい。……フロア行こ」
単なるクラブ仲間に戻った依子に手を引かれてフロアへ出る。音の中へ飛び込んで頭をそっちへ切り替える。フロアではまた"仔猫"に懐かれて----でもそれが、自分の中のスイッチをかたんと後押ししてくれた。
ほんとうに自分はこうなると思っていなかったのか。
そうだとしたら。
----"友達"だった頃、俺は、涼子の何を見ていたのだろう。
音楽にその逡巡を紛れさせる。かき消そうと努力しても、男につかまれたままの胸倉の痛みは消せなかった。
パーティは朝まで続いたが、まだ朝日は顔を見せてはいなかった。街灯がぼんやりと照らす道路はタクシーどころか車すらも滅多に通らない。アパートの方向に向かって、ちらちらと道路を振り返りながら歩き出す。二十分も歩いた頃にようやくタクシーを捕まえた。
いつもなら、二十四時間営業のファミレスで始発を待ったりするのだけれど、今の治巳はどうもそんな気分になれずにいた。
依子は、誰に対してだって優しくて温かい。男の友達も多くて、だが彼女の場合友達という言葉とセックスは分かれていない。友達でも寝ることに違和感はない。彼女が自分でそう言った。
その依子のポリシーに触れた時から、実は判っていたことではある。『抱かれたか抱かれてないかは、心の距離には関係ない』ということ。
それでも。
何故そう思うのだろう。『一線』を超えた向こう側では必ずステータスは上がるものだと思ってしまう。下げることだってありうるのだということ。冷静に考えていた時にはわかったことかも知れないけど。
タクシーを降りてアパートの階段を上がる。自分の部屋のドアの前で足を止めた後、ざわざわした胸を抱えたまま通り過ぎる。涼子の部屋に灯りがついている。まだ起きていたのかもう起きたのかは判らない。ドアに手を当てて、呼び鈴に手が伸びた。
心の中で何かのカウントダウンが始まる。赤黒い岩のような塊が爆発寸前のように音を立てて。自分で自分がコントロール出来ない予感がして。それでも判っていたことはひとつあって。
涼子に、会いたかったのだ。
「……どうしたの?」
「ずいぶん早起きだね」
「うん。実は紅くんと遊んで来た後、疲れて寝ちゃって、で、ちょっと前に目が覚めたらもう眠れなくてさ。どうだったの、久し振りのクラ……」
「中、入ってもいい?」
「……いいけど」
いつもの笑顔で話していた涼子が、『入ってもいい?』の言葉で歪んだのが見えた。いや、今日は見ようとして、見たのだ。カウントダウンのスピードが速くなり、予感は、行動に進化した。
玄関のドアが閉まる。後ろ手に鍵をかけたのは治巳。
彼女は怯えていた。もうそれは明らかだ。多分治巳はいつのと違う顔をしている。どんな顔なのか鏡がないから判らない。でも。
「どうしたの」
"友達"の声で言おうとした涼子の声は震えていた。ゼロに近づいたカウントダウンが治巳の手を動かして。
がんっ、と鈍い音がする。涼子の肩を壁に押しつける。玄関の壁に磔にされた涼子は完全に恐怖の顔でしかない。いやいやをするように首を振って、手先で弱々しく押しのけようとするけれどそれは何の役にも立たない。
辿りついたゼロの先は。
「……や……いや!!……」
床に倒れた涼子の悲鳴が聞きたくなかった。だから言葉をふさごうとして。涼子の歯が反撃に出た。口の中に血の味がした。
マイナスのカウントダウン。自分を動かしているのが誰なのかもうわからなくなる。ただどうしても彼女に。
自分のすべてを涼子に知って欲しくなった。心の中で歪んだ微笑を続けるこの男の存在も。
「----こんなのいや……」
涼子が息を荒くする。見る間に涙が目の端に浮かんで流れた。手の自由を奪われて、足が時々治巳の足にぶつかるけど、それはまさに「ぶつかる」程度でしかない。
涼子は運動神経はいい方だ。だから本気になれば逃げることも簡単だと思っていた。
むしろそうやってくれたら冷静になれたのかも知れないけど、それでも彼女は逃げなくて。
苦しくなる。自分のやることに対する彼女の優しさが。否、だからこそ治巳はどうしても彼女でなければならなかったのかも知れないが。
彼女だけが----自分のすべてを受け入れてくれると信じていたから。
「……涼……」
「はなして」泣き声。「おねがい……こんなの、……こんなのやだ……」
「イヤだ」
離したら----彼女は逃げる。
自分から離れる。
考えた時、何かが爆発した。起爆剤がそこにあった。涼子がパジャマ代わりにしているトレーナーに手をかける。言葉にならない泣き声がやがて言葉にならない悲鳴に変わる。時間帯を考えているのか声を押し殺して。
ただ意識のすべてがそこだけにあった。離れたくなかった。離れそうな気がしたのだ。彼女とつながりたかった。どんなことをしてでも。
だから彼女を。
----支配したかった。
だから彼女を。
ここにとどめて。
治巳の中で男がにやりと笑っていた。
胸倉をつかんでいたその手は優しかった----まるで同志を歓迎するかのごとく。
「……ねえ」ミキは講義室で突っ伏している涼子に声をかける。「具合でも悪い?」
「大丈夫」
起き上がった涼子は明らかに沈んだ顔をしていた。
「いや、悪そうに見えるけどな」
「ううん」首を横に振る。「……なんでもない。今日、講義受けたくないな」
「どうしたの。好きじゃなかったっけカウンセリングの授業」
「好きだけど……」
ドアから入って来る人の姿に涼子の顔色が変わった。いや、それは前からそうだった。涼子と彼----治巳は付き合っていたから、この講義でも席を並べて受けることが多かったから。ただ、今日の顔色の変わり方は。
「……ケンカでもしたの?」
「あたし、やっぱり帰る」
「な……、どーしたの? ケンカの原因は何?」
「ケンカじゃないの。でも----距離を置こうって思ってる」
「なんでぇ!?」
ミキには理解出来ない変化がそこにあった。その前の日まで二人はハタから見ていてもイヤになるくらいアツアツだったのに。
----というか、どっちかというと治巳の方が涼子にベタ惚れって感じだったけど。
でもこの涼子の態度は『距離を置く』どころではない。普通に、同じ講義を受ける学生として、同じ講義室にいるのも嫌がっているかのように見える。
「ちょっと待って、何があったの?」
教室を抜け出す涼子についてミキも外に出る。学食に向かって歩き出した途中、ずっと食い下がっていたら涼子は肩をすくめた。
「……経験豊富なミキちゃんには話してもしゃーないことなの」
「何の経験よ……」
学食で席を確保してココアを買って来る。
「……あたし、ダメだ。治巳、怖い」
「……はあ?」
どういう意味で怖いのだろう。怖いという形容詞がつくようには見えないのだけれど。
「……じゃあ……言うけど……」
「言いなさい」
「……笑わないでね?」
その言葉で、ミキにもピンと来るものがあった。そうか。涼子はその手のことはオクテだから----。
「どうしていいのかわかんないのよ。あたし……治巳があたしに何を求めてるのかわかんなくなった」
「……って、そのままでいいんじゃないの? 多分。だって治巳、幸せそうだけど。すごく」
「でも……」
「寝たんだ」
涼子は純情だ。しかし二十一にもなって純情もほどほどにしないと。そんな過剰反応しなくったって、とミキは変な心配をしてしまう。
「あ、いや、その……なんていうか……」
真っ赤になってモジモジしている様子はまるで中学生くらいの女の子のよう。
「涼子はそういうの得意じゃなくったって、そりゃ世の中的には『愛情表現』なんだし、寝たからって距離を置くって、それ、悲しい仕打ちなんじゃないの? 男としては」
「寝たのは……」言いづらそうに、「初めてじゃ、ない、けど……」
「あら意外。涼子ったらそんな風には」
「じゃなくて、初めての人は、その、治巳、なんだけど、別にそれで距離を置きたいわけじゃなくて、……」
モジモジが涙目に変わった。予想外の展開にミキは慌てて、椅子を移動させる。周りから彼女を見えなくするような位置へ移ると、
「----付き合ってれば、寝ることはつまり、その、当たり前のことなんだっていうのは、わかるんだけど、でも……」
「……」
ただの痴話ゲンカではないように見える。ミキの顔からも笑顔が消える。
「……あたしの意志は……女の意志は、どうでもいいものなの?」
「えっ」
「ミキはどう思う? どうしても受け入れなきゃダメ?」
「なに言い出すの涼子」
「あたしやっぱり嫌なんだ。どうしてだかわかんないけど、嫌なの。こういう性格の人間だって世の中いてもいいと思いたいんだけど、でも、多分そんなの無理なんだよね……。でも嫌なんだ。治巳を嫌いなわけじゃなくて、ただ、どうしても、嫌で……」
「----イケないんだ」
ぶっ、とココアを吹き出しそうになっている涼子。
「……も、そう、だけど、そういう問題とも、ちょっと……」
ココアが鎮静剤にならないかと思ったミキの思惑はいい方に働いたらしかった。それから彼女が話したことはもちろん涼子サイドの言い分でしかないわけだけと、それでもミキには、それがレイプという言葉で表現出来る類のものだと理解出来た。
壁に押しつけられて、床に突き倒されて。嫌だと言っているのに服をむりやり脱がされた。泣いて頼んでも、止めてくれなかった。しかも最悪なのは脱がせたのが下半身だけで、やるだけやって何も言わないでそのまま涼子を放っといて帰ったってところで。
そんなことしそうな人には見えなかったが、少なくとも涼子がそう感じた以上は。
「レイプなんじゃないのそれって」
大きく目を見開いた涼子がぶんぶん首を振る。
「そんなつもりじゃ……今までそんなことなかったんだよ、優しくしてくれたし、それにあたしたち一応付き合って……」
「でもさ。やっぱりひどいよそんなの」
「……あたしはわからないけど、男の人ってそういうものなのかなって……」
「なぁにがそういうものよ。ああ涼子ったらもう、」知識がないことがそういう解釈を産むとは考えたことがなかった。「ただ突っ込みたいだけなら『プロの人』でいいじゃない?」涼子がまた真っ赤になるのに構わず、「そんなさ、穴だけの存在みたいなやり方、恋人に対するものじゃないって」
「そ、そういう言い方は……」
「私が言ってやろうか」自分で怒り出したらテンションが高くなって来た。
「いや、いいの、もう」
「だって……」
「最中にね」涼子が息をつめる。「……治巳が、何回も言ってた。嫌いにならないでって」
「……」
涙目がすこし穏やかになる。それもまたおもいがけない変化で。
「----お願いだから嫌いにならないでって。『ボク』から離れないでって」
「『ボク』?」
「そう」
治巳の普段の一人称は「俺」だ。
「だから」涼子は涙を拭った。「たぶんレイプじゃないの。そんな言葉は使いたくないの」
少しだけ怖くなる。涼子はとっつきにくそうな雰囲気を持っているけれど、仲良くなった子にはとても優しい。干渉することのない優しさの距離をわきまえている人だ。そんな彼女は多分、そんな風に言われたら----嫌いにならないで、と言われたら、嫌いになれないのだ。恐らく。
ミキは涼子との付き合いはまあ長い方だった。高校の時からの、親友、と言っていいと思う。だからこそ涼子もミキにはここまで話してくれたのだと思う。しかし。
いい感じではない。
治巳も元々、人当たりはよさそうに見えて人付き合いの得意なタイプではない。ひょっとしたらこの二人は、お互いにとってお互いの存在感が過剰なまでに高くなり過ぎて、たとえ近づくことで傷だらけになっても近づこうとする類の関係に感じられる。
DV(ドメスティック・バイオレンス)のパターンだ。妻はその事態に恐怖しながら逃げられない。殴られる自分が殴られることで相手に必要とされてしまうことに気づいていない。必要とされていることが深層心理で足枷になっていることに気づいていない。
私がいなきゃあのひとはダメになる、普段はとても優しい人だから、という言い訳とともに。
でも。
「----距離を置こう、って、言ったの? 治巳に」
「……ううん、まだ……」
「……言える?」
言えないのだ、恐らく。そして涼子の首が横に振られて。
「……わかんない……どうしたらいいのか」
予想通りだった。
「私が言う」
「ミキ、やめて、もう少し様子を見てからでも」
「あんたには言えない。涼子、あんた自分がどういう状況に置かれているのか全然見えてない」
絶句する涼子。
「離れなきゃダメだよ。そうした方がいいって」
その講義が終わる頃に教室に出向く。治巳がドアから出て来たところをつかまえる。
「ねえ、----回りくどいのヤだから単刀直入に言うけど、涼子はさ、治巳のなんなわけ?」
「……」
表情が読めない。何の感情も見えない顔。
「彼女、----傷つけるようなことして欲しくないの」
「……わかってる」
「わかってないよ」
「わかってる……」
「なにをわかってるの」
「心配しないで」
「そんなのむり」
「……もう、大丈夫だから」
「どーだか」
「相変わらずすごい正義感だね」
「ふざけないで」
「……もう充分だよ」
「あのね」
まだ何か言いかけたミキの口が止まる。今まで滑らかだった治巳の口がぼそぼそと呟くように聞き取れなくなる。
「……なに?」
「……もう……制裁されてる」
「……え?」
制裁?
「……言っといて。もう二度と近づかないって。そうしないと……」息を継いで、「俺自身が壊れる。それが……よくわかった」
ミキは拍子抜けしていた。
わかっていたんだ。自分でも。してしまったことのコトの大きさが。
「……伝えとく」
近づかないことなんて多分出来ないんだろうな。
心で思ったそれは口に出さないまま、ミキは治巳を見送る。
いずれにせよ、涼子は不思議な存在感を持った人間で、きちんとお互いのテリトリーを侵さない範囲で他人を受け入れることを知っている子だ。
ただ----それって恋愛向きじゃないのかも。
必要以上に踏み込むと壊れる関係。
壁を介することで成立する優しさ。
----私はどうなのかな。
ふと浮かんだ疑問を心の底に閉じ込めて、ミキは学食へと戻った。
6. Pink(心の向いたその先に) end.
7. ドミノ
ただ買い物に付き合ってもらうだけでもそれをデートと人は呼ぶのだ。麻衣の荷物ばっかり増えて行くがその大部分は風太の手の中にあった。それでも楽しそう。
麻衣も最近は慣れて来たと思う。風太という存在に。
誰かに大切にされることの温かさは、嬉しい。それ以上でもそれ以下でもない。自分が「好き」と感じることはなくても、それがもたらす温かさを手放すのが怖い。
ずるい、とは思うのだけれど。
その手の温度だけ、もらって。心がまだ別の方を向いたままなのに。
でもこの頃は時々忘れることもある。紅のことを。風太と一緒にいる時は、付き合っている二人として、それ以外の思考が排除されることも多くなって来た。いい傾向だ。
----ホントはこのまま好きになれたら言うことないのに。
心に引っかかったトゲが抜けずにいる。むしろ紅がいないことが幸いなのかも知れない。これで視界に紅が存在してしまったら、そのトゲは暴走するかも知れない。
家に帰るために歩きながら、風太と何気ない話をする。周りの風景はいつもの通り。----だったはずなのだが。
「……あれっ」
先に気づいたのは風太の方だった。
「……あれ、あれウチのクラスの」
「え」
指差した先にあったのはスポーツクラブ。別に日曜日に中学生がスポーツクラブにいてもおかしくはないけれど、風太の焦ったようなニュアンスは別の意図を含んでいるように感じる。そしてその理由はすぐにわかった。
「……御家瀬くん……だよね」
「----!!」
息が止まった。
学校の廊下で先生と麻衣が話しているのを聞いた時から、風太の心の疑問は確信になった。
彼女は御家瀬 紅の様子を見に行ったと言う。クラス委員とかならともかく、そうでない彼女が、何故仲がいいわけでもない紅の様子を見になど行くのか。
麻衣の心に誰かがいる----、それは、付き合い始める前から薄々気づいていた。由加里が好きな人がいないと言ったのは、風太への気遣いなのかと思ったが、実際はそうではないらしい。
彼女は、友達----由加里に本音を話していないのだ。
それでも、告白しようと思ったのは、そいつの存在を自分で塗りかえることがもしかしたら出来るかも知れないという考えがあったからだった。
だが、それはどうも難しいらしい。
彼女は時々考え込む。自分以外の誰かのことを。いつしか、風太はその正体が知りたくなった。そして。
疑念は確信になった。彼女の中にいるのは紅だ。
よりによって、というのが最初の感想だった。自分とは全く正反対の男。
麻衣は気づいていないらしいが、紅はその孤立した態度からいい鬱憤晴らしのネタにされることが多く、陰湿で幼稚な形のイジメのターゲットにされていた。給食のパンの中に針を刺されるとか、上靴を隠されるとか、そういう類の。それでも紅自身があまり気にしている様子がないのも風太には理解出来なかった。まるで、自分以外の人間のやることなんてどうでもいいというふうに。
それは強さに見えた。とんでもない強さに。
でも、ある程度迎合することが保身に役に立つと思っていた風太には、その様子は----ある意味では嫉妬、なのかも知れないが----好きになれるものではなかった。
その紅が、スポーツクラブにいるのを見つけた。年上の女性と一緒に。年は離れているが姉なのかも知れない。どういう付き合いなのかは判断出来なかったが、少なくともとても楽しそうではあった。
いじめられて学校に来たくないという立場にいるにしてはお気楽過ぎる。こっちが日々色々悩んでいることを全部否定されたような気がした。あまりに身勝手な怒りであることは判っていても。
この光景を彼女が見たら。
それはひとつの賭けで。
麻衣は----相当ショックを受けているのは判った。でもそれでもしばらく紅から目が離せず、同じスピードで歩き続けていた足が止まった。
「……どうしたんだろうね」
何気ない風を装ってそう言った風太の声にはっと振り返る。
「……さ、さあ……」
慌てている。繕っている。そんなことをしても、もう無駄なのに。
風太はその瞬間悟ったのだ。自分が賭けに負けたことを。
どんなに自分が努力してもこの心だけはこちらに向いてはくれないのだ。隣の席に貼られた名前はあくまで紅でしかないのだ。
身勝手な怒りの矛先がまた照準をゆっくりと紅に合わせる。
嫉妬という名で表せるあらゆる感情の渦が巻く。
どろどろと。
「……行こう」
風太が声をかけるまで、うつろな瞳の麻衣は紅のことを考えていたに違いないのだ。目の前にいる自分を差し置いて。それが。
自分を砕いた。
麻衣が歩き出したとたん、風太の手がすっと麻衣の肩に回った。
今まで手をつないだこともなかったので、その温度に麻衣はびくりとする。だが、振り払うつもりはなかった。そのまま、しばらく歩いて。
角を曲がった路地で。
風太の手から荷物がすとんと落ちた。
何が起きているのかつかめずにいる麻衣の体が傾いた。自分の背中。自分の首筋。そこにある風太の手を感じて。そして。
彼の腕の中にいた。
心臓の鼓動。爆発しそうに速い。風太と自分の鼓動が重なっている。いきなりの展開に混乱していた瞬間が終わると、その思ったより広い胸の中で、麻衣の顔は沸騰していた。
前兆なんかなかった。あったとしても麻衣は気づいていなかった。頭の中は----さっきの紅のことでいっぱいだったのだ。女の人といて、楽しそうな紅が。
だから何もわからなくて。
そっと、手を、風太の背中に回す。優しく風太の手が麻衣を抱きしめている。
あたたかくて。
せつないくらいあたたかくて。
その空間はとても心地よくて。
ずっとこのままでも。
「……麻衣……」
名前を呼ばれたのが初めてだということを、意識した途端にまたかあっと熱くなる。
「……もう少し、このままで、いても……いい?」
「……いいよ……」
ぎゅうっと手が強くなる。溢れるくらいの思いが込められた腕。
麻衣は目を閉じた。ただ、そのあたたかさだけを感じていたかった。
どのくらいそうしていたのかはわからなかった。離れた時、風太はすごく照れていて、しきりに謝っていたが、それは謝る理由になんかならなかった。付き合っているんだし、このくらいのことは恋人としてやっていけない範囲だとは思わなかったから。それに。
その空間は嫌ではなかった。誰かに抱きしめられる温かさは不快なものではないのだ。恋人が触れ合うことの意味を初めて知ったような気がしていた。
でも。
それが紅を見た直後だったことは、麻衣の心に影を落とした。
ひょっとして……紅を見つけた時の自分の動揺が風太にバレたのではないか?
思えば思うほどそれが正しいような気がして。
家に戻ってからもその動揺は消えなかった。が、しばらくたつとそのことよりも、紅がいたという事実の方が自分の中で大きくなっていた。
紅が、いた。
しかも女の人と一緒だった。
出て行って行くあてもないと思っていたのは麻衣の誤解で、実は元から仲のよい人がいたのかも知れないと思った。とにかく「親戚」という可能性は最初からありえなかったので、そうなると、友達----あるいは。
----紅があんなに笑顔でいることなんて珍しい。学校ではあんな笑顔を見せたことなんてない。それを思えば、あんまりよくは見なかったけど、それは、
紅の彼女----。
ありえないことではなかった。麻衣の心にその一言がもたらした闇は底無しだった。自分でもその底に何があるのか全然見えなかった。ただ、翌日から、学校の帰り、風太が部活をしている間に、麻衣の日課が増えることになった。
角を曲がったその先にはアパートがあって、少し首を伸ばせばその様子を見ることが出来た。その電柱の影。最近、ここに立ち寄ることが風太の日課になった。
部活を終えて帰る時に少し遠回りする。その時、必ず、彼女はいる。同じように物陰に隠れてアパートを覗いている麻衣の姿が。
麻衣は風太の存在には気づいていないらしい。ただ、ぼおっとアパートの方を見ている。部活の関係でずっと見ているわけではないが、学校が終わった放課後からずっとそこにいるのだとしたら、毎日数時間はそこに立っていることになる。
それが風太を苛々させる。
理由は判っていた。一度、アパートから出て来る紅を目撃したからだ。ここが紅の家なのかどうかは風太には判らなかったが、麻衣はいつの間にかまるで紅を付け狙うストーカーと化していた。
彼女が何をしたいのかはよく判らない。ただ単に紅がそこにいると判ってその同じ空気を吸いたいとでも言うのだろうか。言いたいことがあるなら----告白したい、とかなら、もうとっくにたくさんのチャンスがあったはずなのに、彼女はただ見ているだけなのだ。彼がいるかも知れない空間を、ただじっと。
自分がそんなことをされる立場になったら正直、気味が悪くなるだろう。ましてや紅のような性格だったらなおさらではないか----それを思うからこそ、風太は麻衣をそのまま泳がせておくことに決めたのだが。
いつになるにせよ、紅は気づくに違いない。そして恐らくは、手ひどく彼女を振るのだろう。麻衣の心を、ずたずたに傷つけるのだろう。
そうなれば。
----その傷に入り込めるのは俺しかいない。
唇の端を少し歪ませる。この間からそんなひどいシミュレーションを頭の中で繰り返している。だから----麻衣も恐らくそう望むように----紅と麻衣が早く出会えばいいと思っていた。どんな形にせよ。
涼子がパソコンを前にレポートの宿題でうなっている時にも紅はやって来た。ただ、この日はそんなわけで出かけるつもりはないと言ったら、涼子の持っていたいくつかのコミック本を見せて欲しいと言って来た。それでその日は、涼子はキーボードを打ち、紅はマンガを読む、という妙に静かな午後が部屋に流れていた。
しかし、レポートが一区切りついてお茶でも入れようと立ち上がった時、涼子は普段と違う雰囲気に気づいて紅に声をかける。それで。
「……やれやれ……」
涼子は予備の毛布を引っ張り出して来る。少年は、コミックを手にしたままベッドに横向きに寄りかかって眠り込んでいたのだ。
寝顔がかわいい、などと思って、いつもはそんなことは出来ないので思わず頭を撫でたりしてしまう。ちょっとうるさそうに眉をひそめたけど起きなかった。膝を抱くような態勢になっているのはクセなんだろうか。
とりあえず毛布をかけ、自分の分だけお茶を入れる。もうすぐいつも帰る時間。目を覚まさなかったらどうしようか。彼はいつも飛んで帰っているから。帰りたいのか、帰らないと怒られるのか、どっちにしても起こした方がいいのだろうか。
でもとても気持ちよさそうに寝ている。眠っている時はとてもリラックスした子供の顔。何だか起こすのもかわいそうな気がしなくもない。
テーブルの上に無造作に放り投げられたジャケット。彼にしてはあまりに大きい。父親か兄のものなのだろうか。紅と出会ってしばらくたつが、彼のことを本当は何も知らない。好奇心が動き出し、そっと音を立てないようにしながらジャケットのポケットを探ってみたりする。携帯かPHSでも出て来たら、彼について何かの手がかりを提供してくれるのではないか、と思ったのだ。
しかし、出て来たのは、紙片1枚。そこに書かれた番号は携帯電話だ。
涼子はそっと自分の携帯に向かった。音量を下げて、ゆっくりと番号を辿る。
誰が出て来るのか予想もつかなかった。別の友達、あるいはガールフレンド? 家族ってことはないだろう。家族なら紙で持ち歩かなくても覚えていそうなものだから。
しかし。
「……あー……えーと、もしもし?」
乾いた雑音混じりの声は男性。……明らかに同世代ではない声だ。やはり父か兄か……?
「あの……突然すいません、御家瀬さん……ですか?」
「……」
電話の向こうは黙っている。どう答えていいか迷っている風にも感じられた。
何故だろう。もしかして涼子が知っている御家瀬 紅という名前は偽名だったのだろうか? それだってありえないことではない。
「えーと……もしかして紅の……お知り合い、ですか?」
電話の向こうは長い沈黙の後にそんな言葉を返して来る。
どうやら偽名ではなかったようで。あるいは偽名だとしてもよく通じている名前だったようで。
「……ええ、まあ、そんなところで……」
「じゃあもしかして、いつも昼間に一緒にいるのはあなたですか?」
責めるどころか何だか嬉しそうですらある。その反応がよく判らないまま、少なくともこの人は紅の登校拒否を知っているらしいことは理解出来た。
「ええ。あの……と言っても別にそんなにたいした」
「……あー、どうも、いつもお世話になってます……」
「……え、あ、いえそんな私は」
「……なんて僕も言える立場の人間じゃないんですけど……」
「え?」言える立場の人間じゃない?
家族なら『お世話になってます』くらいのことは"言える立場"だと思うのだけれど。
「……あの、それで、どういったご用件で」
ご用件。
考えていなかった涼子はどきまぎして、つい、
「あ、その、紅くん私のところに遊びに来てたんですけど、ちょっと今、……眠っちゃってて……いつもこのくらいの時間に帰っているので、家族の方が心配していたらどうしようかなーとか……」
「それはどうもご丁寧に」
いや全くその通り。
電話の相手は、またしばらく黙った後に、涼子と会って話せないだろうかと言って来た。この男がどんな人間であるかは判らないが、紅が学校に行っていないことにそれなりに心を痛めているらしいことは判ったので、この後すぐに近くのコンビニで落ち合うことになった。
現れた男は背がひょろっと高い優しそうな青年で、一目見て紅の血縁ではないことが涼子にも理解出来た。何処も似ていないからだ。男は、近くの図書館で司書をしているそうだ。江成 智と名乗ってから、自分と紅との出会いをゆっくりと話し出した。
最初に涼子が紅に「寝るところはあるのか」と聞いた時に「ある」と答えたその場所。いつも時間通りにすっ飛んで帰るその場所。紅の、刺々しい心が戻るべき場所として認知していたのはこの男だったのだ。物静かでゆったりとしたその男の話しぶりにも、態度にも、穏やかな安堵感が満ちている。安堵することに飢えているような紅には、智のような優しさが必要だったのだろう。
そして智の方も。表向きだけ強がる小動物のような紅が自分を必要としてくれていることが何処かで嬉しいのだ。そんなこと、自覚しているかどうかは別として。
多分、あまりにもぴったり嵌まってしまったのだ。パズルのピースのように。会ったその時から、離れがたくなってしまったのだ。必要とする者と必要とされる者のバランスがぴったりと釣り合ってしまっているのだ。この2人は。
涼子は最初に、家出少年とわかっていながら親に引き渡さないのは、法律的には誘拐ととられてもしかたない、というところから話を始めた。まだ14歳は、親の管理下にあるべき年齢なのだから。
「……ということになりますかねえ」
「なりますかねえって……」この男の口ぶりはどこまで本気なんだか冗談なんだか、まだペースがよくつかめない。「考えたことなかったんですか?」
「……というか、ここまで長期になることは予想していなかった、というか……」
「どうして追い出さなかったんですか?」
「そんなこと……紅くんはいい子ですよ。追い出されるようなことは何も……」
「でも大人としては社会のルールを教えてあげることも必要なんじゃないですか? もちろん私も人のことは言えないですけど……でも、彼は多分、江成さんのそばにいたいんですよ、ずっと」
「……」
驚いている。この顔は。冗談でもなんでもない。
マトモに自覚なし、なのだ。この人は。
「……あの……」
いずれにせよこの状況はよくない。打破するチャンスを作れるかも知れない。涼子は心で頷く。
「他のどんな大人より……多分親よりも、今の私たちのことを紅くんは信用してくれている、と思うんです。やっぱり、……一度は家に返してあげないと。もうすぐ彼は義務教育が終わりますし、そうしたら家を出て自力で暮らしても咎められないわけですから、せめてそれまでは……待つべきかなって思うんです」
「……」
智はただ俯いてずいぶん複雑な顔をしている。
「……江成さんは多分言いにくいんでしょうから、私が……チャンスを狙います。前からそうしようかとは思っていたんですけど……ただその時は……江成さんも『協力』していただけたら----少なくとも、邪魔しないでいただけたらありがたいんですけど」
「……わかりました」
決意したように顔を上げた。
2人でアパートの部屋に帰る。部屋を開けると紅が目を覚ましていて、何してたんだよお、とふくれっつらで出迎えた。しかし、その後ろから智の笑顔が出て来た途端に、表情が変わる。
母親と再会した迷子のような安堵の表情。
この2人の絆はもしかしたらもう戻せないところまで来てしまっているのかも知れないと思わせるような。
この2人を引き剥がすことは生木を裂くようなことになるのかも知れないと。
----ほんの少し、不安を募らせる笑顔だった。
買い物して帰る、という智とスーパーの前で別れた。
そのまま1人でアパートに近づく時に、最後の角で足を止める。
紅はそのまま慎重にアパートの門の辺りを覗き込んだ。
数日前から夕方辺りにそこにぼんやりと立っている少女。自分が通りがかるたびにあからさまに身を隠そうとしているので、その行動の動機は紅なのだろうとは思うのだが、声をかけられたことは一度もない。
誰なのかは思い出せない。コートから見えている制服のスカートから察するに、自分がかつて通っていた学校の生徒。正直、女子の顔なんて紅にとってはどれも同じようにしか見えていなかったので名前なんて覚えてないが。
辛うじて髪型から、あの時の女だろうかとおぼろげな記憶を引っ張り出すことまでは出来た。バレンタインとやらで渡されたチョコ。何度も断ったのにどうして譲らなくて今にも泣きそうだったので、仕方なく受け取った。でも15分後にはゴミ箱に消えていたピンクの包装紙。
チョコの持つ意味ぐらいは知っている。それでも、モノと同時に気持ちも拒絶したつもりでいる。今さら付きまとわれるいわれはないはず。少なくとも紅はそう思っていた。
今ここにいることを知られてしまったのは----何処かで見られたのかも知れない。後をつけられたのだろう。その当時の自分の迂闊さに腹を立ててもどうしようもない。
自分はともかく、智の存在を知られるのが紅には怖かった。
家出した中学生。不登校。いつか学校や施設に見つかってしまった時、彼が責められるようなことになったら、と想像すると胸が痛くなった。
1度だけ大きく深呼吸してから、その角を飛び出す。
少女はまだ紅に気づいていない。アパートの2階をじっと見上げている。
「……おい」
足音を殺して、声がぎりぎり届く距離で。
びくんと震えた肩が振り返る。
さらっと揺れた髪の束の向こうから、怯え切った眼差しが紅を捉えた。
「----!!」
アスファルトに擦れる靴の音。
「逃げんな」
手を出すことはしないまでも、噛みつきそうな声だとは自覚はしている。
張りついたように動きを止めた少女に向かって紅は近づいて行く。あの時もこんな顔をしていたような気がした----そんなに紅が恐ろしいなら近づいて来なければいいのに。
「……こないだから何してんだよ」
ハーフコートの襟元を必死に握りしめている手袋が、ぎゅっと一度力を込めた後にぱたんと下に落ちる。
何かを覚悟した瞳。
「----会いたかったんです」
か細い声は、それでもはっきりと紅の耳に届いた。
途端に全身から力が抜けてしまいそうになった。
「……くだらねー」
言い捨ててその場を離れようとする。会いたいだけならもう用は済んだだろう。
「待って!」
少女は思いの他強い声音で紅を引き止めた。
振り向いた視界の中では、寒さからなのか別の理由なのか、唇がわずかに震えている。
「……やっぱりダメだった。ずっと忘れられないの」
ゆっくりと区切るように。心を届けようとする真剣な言葉たち。
だからこそ逆に思う----受け入れられるわけがないから。
こんな時は武器だなと思う。小馬鹿にするように眉を吊り上げて嘲笑う。
「っつーかさ。あんた、誰」
少女が息を呑むのがわかった。
「忘れられないって、何? 前にどっかで会ったっけ? んな、大した面識もねー人間の家を見張るような真似、気持ちわりーんだけど」
「----わ、私……」
「聞こえなかった? 気持ちわりーんだけど。あんたストーカー?」
吐き捨てて、彼女がそれ以上の言葉が続かないままぼろぼろと涙をこぼし始めたのを確認して、階段に足をかける。さっき智から預かった鍵をポケットの中で確認しながら。
学校での人間関係なんて全て断ち切ってしまいたかった。これで少女が紅をひどい男だと認識して二度と近づかないでいてくれるなら、その方がお互いにとって都合がいいはずだから。
心の何処かで判っている。今の自分にとって必要と思える人は彼しかいないのだ。
誰も与えてくれなかったぬくもりを教えてくれた人。
----でも、このままではいけないのもわかってる。独り暮らしの彼に、経済的なことを始めとして、負担をかけてばかりなのも自覚している。
ちゃんと考えたいとは思い始めている。だからこそ、今、学校や施設関係者に自分を見つけて欲しくはなかったのだ。
階段を半分まで昇りかけた時、意図しない力で体がぐらっと揺れた。
咄嗟に手すりにしがみつく。何が起きたのか理解出来ずに慌てて周囲を見回そうとしている間に、ばしっと紅の頬が鳴った。
愕然とする。目の前にいる少年が誰なのかなんて紅には判らない。怒りに歪んだ表情で、彼は叫んでいた。
「……いきなりストーカー呼ばわりかよ……少しは言い方ってもんがあるだろ!?」
彼の肩越しに先ほどの少女も何かを喚いていたが、その言葉は判別出来なかった。
「ずっとお前のこと思ってたのに----同じ学校の生徒だってことぐらいは制服見りゃわかんだろうがよっ!」
また手が伸びて来る。相手が誰なのか確認する暇も、躊躇している余裕も、紅にはなかった。また殴られそうになりその手を避けるために体をよじった。
空中をかする手。予想外だったのか、驚きに目を見開いた彼の体は大きくバランスを崩した。
ちらついていた小雪が鉄の階段を少し湿らせていたせいか、そのまま彼の体は傾いて落下して行く。
何かを掴もうとした手のひらが空しく空中を泳ぐ。その腕に伸ばした紅の手は、指先をわずかにかすって宙を横切っただけだった。
ごんっ、と鈍い音。その直後に上がる甲高い悲鳴。階段の下のコンクリートの白い台座に彼が倒れている。
----うそだろ……?
声にならない。動けない。何が起きたのか、そうなってしまってから頭が記憶を辿り始める。
少女が泣き叫びながら少年を助け起こそうと地面に座り込む。
悲鳴を聞いたらしく出て来た若い男が少女を制した。頭を打っているとしたら動かさない方がいい、という言葉を聞いたような気がした。そして。
突き刺さる視線。
ようやく手足が動かせるようになってみれば、通行人も含めてそこにいた数人の目は紅に釘付けられていた。
明らかに、非難する言葉を込めた冷たい瞳。
----その場の光景をどう解釈されたのか、やっと理解したその時に、紅の視界に入って来た人がいる。
ざわめく悪意の噂話が紅に向かって押し寄せて来る。その波の向こうに----
「……ちが……」
届くはずのない声で弁解する。
その人にだけは嫌われたくなかったのに。
こんな形で----こんな形で離れることになるなんて。
7. ドミノ end.
8.epilogue
交番に涼子が辿り着いた時、その前のベンチで智が茫然と座り込んでいた。
「……江成、さん?」
声をかけつつ、そっと隣を目で示すと、彼は少しだけ体をずらした。
そこに腰を落として、急いで来た呼吸を整える。
電話である程度の事情は聞いてはいたが、涼子にはまだ信じられなかった。紅は、見た目は確かに少しきつくはあるが、他人に暴力をふるうような子供だとは思えなかった。ましてクラスメイトを階段から突き落としたなんて。
ただ、智のこの落ち込みようが奇妙な説得力を持っている。彼もまた紅を信じたかったという気持ちの表れのような気がして。
「----大丈夫ですか?」
「ええ……」
ぼんやりした視線は地面に投げ出されている。
ちらっと見上げた交番の中では、色々な人が入り乱れて事情聴取をしているらしい。物理的スペースの問題でそれ以上中には入れそうもないので、涼子たちはただ外にいるしかなかった。
文字どおりの蚊帳の外。智には聞こえない程度に細く溜め息を吐く。
本当は最初から蚊帳の外ではあったのだ。智も涼子も彼から見れば全くの他人。家出したまま帰ろうとしていなかった少年に居場所を作ってしまった智。少しずつ話を聞き出そうと探りながら距離を測っていた涼子。
「……潮時、だったんでしょうね」
白い息と共に洩れた言葉。つられるように瞼が上がった。
智自身は気づいているんだろうか。自分の笑顔がこんな風に何処か寂しげな影をまとっていることに。
真っ暗に更けた夜の闇の中に白いものが舞っていた。
涼子はそれ以上声を出すことも出来ず、智の横顔と交番の灯りを見比べていることしか出来なかった。
今となっては、もう涼子と智が出来ることは何も残ってはいないだろう。多分本当の両親も彼を引き取りに来ている。突き落とされたという少年の容態によっては、そのまま帰らせてはもらえない施設に向かうことになるのかも知れない。
どちらにしても、涼子たちとは無関係の場所に、彼はこのまま連れて行かれることになる。
ほんの数週間だけ近くにいた、全くの他人。
そんな立場でしかないのに、それでも何故か彼の行く末を見届けたいと思えている。
その願いが通じたわけでもないのだろうが、しばらくして交番の中の人影がにわかに動き始めた。
涼子は思わず立ち上がってそのシルエットたちを目で追いかける。
背後で智も腰を上げているのが判った。
ざわざわとした判別出来ない言葉と共に、交番から人が吐き出されて来る。
シスター姿の女性。この近所にある、そんな服装をする人たちと言えば教会なのだが、彼女は何度も頭を下げながら紅を気にしている。
気温以上に思考の中が冷たくなる。----まさか。紅は、併設されている孤児院の……?
その後ろからうなだれたままついている紅。むすっとした無愛想な顔はいつもの通りだけれど、涼子にはその下にある甘えた寂しさは見えていた。
そのつり目が、ゆっくりとまばたきをした後に涼子たちの方に視線を向ける。
スロウモーションのように見開かれて行く目。何かを言い出しかけている唇。
涼子の方がそこに先に駆け寄った。
「あのっ、」
驚いている警官にたたみかけるように。
「少し話をさせてもらっても----いいですか?」
しばらく会えないような気がしたのだ。被害の大小はまだ不明とは言え、彼が傷害事件を起こしたことに変わりはない。
知り合いか? と警官が紅に問い掛ける。目を見開いたまま頷く紅。
警官はシスターらしき人に目で尋ねている。彼女は、紅の表情の変化に何かを見たのか、はっきりと頷いてみせてくれた。
少しだけ離れた雪の中。紅は、俯いたまま先ほどの集団に見えない角度で手を伸ばして来てから、恐る恐る目を上げた。
こんな時になってからやっと、彼は「子供」になれたんだ、と、その様子を見ながら涼子は思った。
涼子の背後にそっと立つ智にも視線を移す。泣き出しそうな赤ん坊の顔。
「----今、何年生だっけ」
涼子の冷静な声に、紅からは掠れた声で「2年」と返って来た。
「そうか。じゃ、あと1年だね」
まばたき。意味が判らない、と無言で言っている。
「義務教育が終われば、紅はもう自由だよ。誰にも束縛されずに、自分の責任で生きて行くことが出来るようになる----。ホントに意味で、大人になれる」
説教されているとでも思ったのか、紅は少し眉をひそめた。
「今度会う時は、ちゃんと対等に遊ぼう? 少なくともあたしは----そうしたいな、と思ってる。だから、一度ここでお別れ。1年たったら、また、会いに来て」
腕にまとわりついていた手をそっと温めるように握った。
少年の目が少しだけ揺れ始めている。そのままふっと横に逸れた瞳に映っているのは、多分智の姿。そして、わずかな布ずれの音。
濡れている彼の目の中で、智の笑顔が静かに頷いたように見えた。
シスターに連れられて帰る背中をただ見送る。
家----否、施設へと帰して貰えたのだということは、恐らく相手の怪我は大したことはなかったんだろう。
やっと彼を、戻るべき場所に帰せたのだ。涼子は肩の大きな荷が降りたと感じていた。
この数週間が彼にとって良かったのか悪かったのか、その結論が出るのがいつのことになるのかは涼子にも判らない。ただ、この幸せな時間は永遠であるべきではなかった。それだけははっきりしている。
----あの少年は、人との距離感がまだつかめずにいるのだ。そして恐らくは智も、自分も----治巳も。
ひょっとしたら彼が同級生にした仕打ちも、その距離感の誤解が招いた悲劇だったのかも知れない。
立ち尽くしていた涼子の隣に、いつの間にか智も立っていた。
「1年後に、再会する約束をしたんです」
涼子の声に、彼は何かを納得したように小さく頷いて、ふと思いついたように言葉を継ぐ。
「----水野さんは、確か教育大……でしたよね」
「はい」
彼独特の、思考をまとめるようなワンテンポがあって。
「向いているかも知れませんね、先生になるの」
向けられた笑顔に他意はないように見えた。
「そう、なんですかね」
痛みを知らない人間が、ただいざという時の保険のように教職員資格を取りたがることはある。同期生達の中にも「とりあえず組」は確かにいる。
涼子も入学前はどちらかと言えばそうだったかも知れない----教師になる自分を想像したことはなかったから。
でも。
知識を教える教職に興味はなかったけれど、ハリネズミ達の殻をほぐすことなら出来るのかも知れない。
「とりあえず取っておこうかな、資格」
誰にともなく呟いた声は、舞う雪の中に小さく溶けて行った。
麻衣の恋は終わった。少なくとも麻衣にとっては「終わった」。
紅から見ればそれは、始まってすらいないのだから終わったとは呼べないのだろうけれど。
紅がどういう人間なのかは判っていたつもりだった。小さな小さなハリネズミは、元々他人を少しでも受け容れるようなココロの持ち主ではなかったのは、知っていたつもりだった。
それでも。
あからさまに拒絶されるまで、麻衣の中では終わらせることが出来なかった。
終わらせることが出来た。今は何故だか、そんな風にすら考えられるようになっていた。
風太にもあれから会っていない。「事故」の時に放たれた言葉で、麻衣は自分の気持ちが彼に悟られていたことを知ってしまった----紅に対する想いを捨てられないまま彼と付き合っていたこと。「好きになってくれなくてもいい」、そうは言っていたが、だとしてもこれは裏切りだ。彼に合わせる顔がなかった。
----麻衣の周りにあった恋は全て掻き消えてしまった。向けていた想いも、向けられていた想いも。
事故のショックで数日学校を休んでいたが、本人が怪我をした訳ではないのでそれ以上は欠席出来なかった。
雪がちらついた朝。既に噂になっているらしく、クラスメイト達は何処か遠慮がちながらも麻衣に視線を向けて来る。
この分だと、浮くことを恐れて大人しくしていることはもう多分無理かな。麻衣は心で呟いた後、何故か少しだけ笑い出したくなった。
孤立していたハリネズミ。自分を頑なに持つ姿に、何処か麻衣は憧れていた。だからこそ紅に心惹かれた。この自分が、きっと今度は孤立する。色んな噂に遠巻きに囲まれて。
----俯いて歩いていた麻衣の前に、大柄な人影が立ちはだかる。
首を傾げつつ目を上げると、そこに現れたのは。
「よう」
久し振りに対面する真っ白な笑顔。その腕ごしに何人かの女の子たちのムッとした顔が見える。あれは----マキノセンパイファンクラブ、だ。
「休んでたからお前まで怪我してんのかと思ってたけど、違うんだな」
遠巻きに視線で絡め取られるのに比べると、正面からそう真っ直ぐに尋ねられる方が気が楽だった。
「私は、何でもありません」
声に出してみてから、そう言えばこの人に----牧野センパイに話しかけられて、答えたのは初めてだったかも、と思い当たる。
目の前のセンパイが、言外にそれを認めて嬉しそうに目を細める。
「そうか。そりゃ良かった」
さり気なく手を挙げてその場を離れる。ただの挨拶。それ以上でもそれ以下でもない会話。
でも、何だか不思議とホッとした。
「グループ」であったはずの由加里やヒトミや香奈ですら、近づくことにまで遠慮しているような自分に、以前と変わらず接してくれる人がいる----自分という存在が、どんな環境の変化であっても、その人にとっては等価だったと、そう如実に理解させてくれる存在。
それがあの牧野センパイだなんて、何だか可笑しい。
心から湧き上がるくすくすが抑え切れなくなって、麻衣は小さく笑い出した。
----自分の我がままな想いで、色んな人を傷つけてしまったけど。
目立ちたくなかった。異質になりたくなかった。時をやり過ごすことしか考えてなかった。そんな自分に、この出来事は小さな風穴を開けてくれるのかも知れない。
せめて変わろうと思った。----変わりたいと思った。
恋は成就しなかったけど、でもそれは紅がくれた勇気なのだと麻衣は思った。
まずは風太に会いに行こう。抱え切れないほどの想いという名の花束をくれた彼と話そう。ちゃんとその想いを返してあげなきゃならない。全てを、謝らなければならない。
ざわめく校舎に足を踏み入れながら、麻衣は独りで静かに心を決めていた。
=== END === / 2005.08.05 / textnerd / Thanks for All Readers!
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