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公園の猫(itokio版)

※元々ガラケー用掲示板サイト「itokio.com」で書いたものの再録です。
 細切れな書き方になっているのは1メッセージ100文字という制限があったためです。


昼休みに入った。
誠は立ち上がって軽く伸びをする。
同僚の雅人(マサト)が声をかけて来た。
「昼、どうする?」


「何でもいいや」答えた誠に雅人は苦笑いする。
結局、いつもの定食屋に足を向けた。


誠は注文を終えると、前の客の忘れ物らしいスポーツ新聞を手に取る。
記事に見覚えのある地名が見えたからだ。


それは小さな記事だった。
公園で高校生同士のケンカがあって、被害者は病院に運ばれたが間もなく死亡したらしい。


その公園は、誠の住むアパートのすぐ近所だった。
小さな地方都市の更に副都心といった場所。
大型店と住宅街が混在する街の一角にあった。


夏休みになると、深夜まで若者がたむろしたり花火をしたりで、毎年地元住民の間で問題になる。
こんな事件が起きるとまたうるさくなるな、と誠はぼんやり思った。


誠がその公園を気にしていたのには理由がある。
そこは3ケ月ほど前に知り合いになった少年の『職場』なのだ。


街の中心部から条例を傘にして追い出された、体を売ることで生活している男女が数人、この公園を窓口にしていた。


誠自身は残念ながら、職に貴賤はないなんて言えるほど聖者ではない。
好ましいと思えたことはない。


知り合ってからもその少年をそこから引き剥がせないかと考え続けていた。


それは結局徒労に終わり、今でも少年はそこで仕事をしている。
ただし、日課が1つ、増えていた。


それは誠に会うことだ。
会うと言っても話をするわけではなく、公園で誠の帰宅を待ち、遠くから手を上げて「生きてるよ」と挨拶する。
それだけだ。


ぼんやりと新聞に目を落としながらそんなことを考えているうちに料理が来た。
時間に急かされながら片付ける。


会社に戻りながら、雅人は同僚仲間とボウリングするけど来るかと聞いて来た。


「いつ?」聞いた誠に「今夜」と答える雅人。
「悪い、それは無理だ」「ふうん」雅人は少し意地悪そうに笑った。
「最近お前、真っ直ぐ帰る日が増えたよな。彼女でも出来た?」


「いないよ」即答はしたものの、雅人は信じてなさそうだった。
誠はそれ以上何も言わなかった。


仕事を終えた夕方。
同僚たちが楽しそうにボウリングの話をする中を抜けて誠は家路を急いだ。


アパート近くの駅を降りて例の公園へ。
誠はいつものように少年──シュウの姿を探す。
しかし、今日に限って彼の姿が見えない。


きょろきょろする誠に、誰かが近づいて来た。
「よ、エセ兄貴」振り向くと、ここを『職場』にしている1人、マナが立っていた。


「もしかしてエセ弟探してる?」シュウはここの職場仲間に誠との関係を『エセ兄弟』と説明しているらしく、マナはいつもそんな言い方をする。


「うん、まあね」誠が答えると、マナは暫く絶句した後、目を伏せてぽつんと呟いた。
「あー、知らないのか…」「知らないって、何を?」


「シュウ、死んだよ」マナは抑揚のない声で言った。
誠は一瞬意味がつかめずきょとんとマナを見返した。
「…は?」


「昨日あんたとの『日課』の時から内臓やられてたみたい。あれからすぐ救急車行き。で…」マナは声を詰まらせた。


「新聞じゃ、高校生のケンカとか書いてたらしいね」マナの言葉で、誠は昼に読んだ記事を思い出した。
マナの話は続く。
「あのババア、証拠隠滅する気だね。実行犯捕まってるし」


誠は苦々しげなマナの舌打ちに何かを納得したように頷いた。
マナは真っ直ぐ誠を見て呟く。
「見苦しいよね。自分のモノにならなきゃ殺すなんて」


「あいつは誰のものにもならないよな、猫は所属意識が希薄だから」「そうだね。孤独だったかな、あいつ」「……」誠はどう返していいのか判らなかった。


「ね」マナは少し寂しげな顔で聞いた。
「あんたはどーやってシュウと知り合ったの? あの孤独ちゃんがなんであんたを『兄』と思ってたのか、知りたくなっちゃった」


「話せば長いよ」誠は少し困ったように俯いた。
「いいよ、今日は臨時休業! 缶ビールでも仕入れてあんたんトコ行こう? 家、近いんでしょ?」


今日は金曜、明日は休みだ。
たまには思い出に浸るのも悪くない。
誠はマナに頷いて見せると、2人でコンビニへ向かった。
ビールと適当につまみも仕入れる。


そして誠の部屋へ行く。
物怖じせずくつろぐマナを前に、誠はゆっくりとあの時のことを思い出していた。


あれは3ケ月前。
世間はゴールデンウィークの真っ只中だった。


誠は街の中心部で本やCDを買って部屋に戻る途中、例の公園を通りかかった。
時刻はもう夜だった。


小さな街灯だけの公園では、高校生と思しき集団が何やら談笑していた。
誠は特に意識したわけではなく、また周辺住民とイザコザにならなければいいなあ、と思いながらぼんやり見ていた。


だが、 高校生の1人が誠の視線に気付いた途端、彼らはクモの子を散らすように逃げ出した。


呆気に取られて立ち尽くしていた誠は、彼らがいた場所に何やら黒い塊が落ちているのに気付いた。
不審に思って近づいてみる。


そして彼らが逃げ出した理由を悟った。
顔をもっとよく見ておけば良かったと思ったがもう後の祭だった。


黒い塊に見えていたそれは人だった。
土埃にまみれて倒れている。
手足の露出した部分には無数のすり傷。
集団でいたぶられた結果であることは明らかだった。


年の頃は高校生ぐらいか。
小柄で痩せ過ぎの体。
また若者同士のケンカだろうかと誠はげんなりした。
そして携帯を取り出し119番通報をしようとした。


「救急車なんか呼ぶな」キー操作音でかけている先が判ったらしい。
その少年がそう言った。
「…大丈夫なのか?」誠の声にようやくよろよろ身を起こす。


「いつものことだから」街灯に照らし出された顔は予想外にあどけないが、眼光だけは妙に鋭い。
「ほっといてくれ」


そう言う間も足がふらついている。
「せめて傷口洗って薬ぐらい塗ったら? 家、近く? せめて送るよ」誠は手を伸ばした。


少年はその手を無視して歩こうとする。
誠はその態度にムッとして、それ以上関わらないことに決めて公園を出ようとした。


その背後で重い音がした。
振り返って誠は大きなため息をついた。
「…おいおい…」また少年は倒れている。
「大丈夫じゃないだろって…ほら」


今度は出された手を大人しくつかんだ。
最初からそうしろよ、と誠は内心だけで悪態をつく。
脇から腕を入れて支えてやると、改めて家は何処かと尋ねる。


「あんたの家は近い?」少年は答える代わりにそう言った。
「すぐそこだけど」「連れてってよ。長くは歩けそうもないや」少し自嘲気味の声。


確かにそうだなと誠は納得した。
「わかった」頷いて歩き出す。
その時に、グウ、と何かが鳴った。
誠は「ひょっとして腹減ってる?」と聞いてみる。


「うん、立てないぐらい」「…はあ? お前、怪我して立てないんじゃなくて、腹減って立てないの?」「多分、そう」誠はぽかんとしばらく呆れて少年をまじまじ見た。


この時代にこんな若者が食えなくて公園で倒れているなんて、どうもおかしいと誠は思った。
再びのろのろ歩き出しながら聞いた。
「お前、ホームレスなのか?」


「家はないよ」さらっと言う。
でもそれにしてはと誠は思う。
普通、何日も風呂に入れなかったりで、もっと薄汚れて体臭もキツくなるものじゃないのか?


それを読んだように少年は続けた。
「風呂なら入ってるよ。客先とかで」そして誠を少し伺うように見て付け加える。
「売り物だからね」


誠の足が一瞬止まる。
客先。
風呂。
売り物。
自分の頭の中に浮かんだその『職業』に頭を振る。
「まさか体売ってるとか言う?」「うん」事もなげに言い切る。


アパートの前に着いて鍵を取り出す手が震えた。
「何びびってんの?」面白そうに少年が言う。
誠は、何だかとんでもないやつと関わっちゃったなあと思っていた。


「俺は客じゃないぞ」「わかってるって」「男に興味ないから売り込むなよ?」「…あのね。 僕の客には女性も多いんだけど」「そうなのか?」「うん。たいていは40代のババアだけどね」


ドアを開いて、とりあえずバスルームを案内する。
「服、何か貸してよ」そうするより仕方なさそうだ。
誠は頷いてバスルームを出た。


鼻歌なんか歌いながらシャワー浴びている少年。
誠はちょっと感じた嫌な予感がどんどん確信に変わっていた。
(俺は騙されたな、多分)


腹は減ってそうだけど死にそうってほどじゃなさそうだ。
あの状態では『仕事』にならないから、誰かの家で最初からこうするつもりだったのだろう。


泊めて欲しいと言い出したらどうしようか。
目覚めたら何か盗まれているなんてことになるんじゃないか? 誠は疑心暗鬼になっていた。


とりあえず貸した服は返って来ないかもと思いながらスウェットを出してやる。
少年は大人しくそれを着て出て来た。


「何て呼べばいいかな」と誠が聞くと「シュウ」と答える。
「俺は誠」名乗りはしたがシュウはあまり興味がなさそうに頷いただけ。


「ところでさ」シュウが急に声のトーンを変えた。
妙に明るい。
でもその内容は…「一緒に寝てくんない?」


誠は思いっ切り咳き込んでしまった。
頭がクラクラする。
「俺に売り込みは無駄だってのに!」「男に興味ないんだよね」「そう!」


「だから、なんだけど」「はあ!?」こいつ何企んでる? と誠が身を引いた途端、「…たまには何もしないで眠る夜があってもいいかなって」


誠は一瞬絶句した。
「1人で寝りゃいいだろ?」「──寒いんだ、1人は。他人の体温がないと寝つけない」そんなの関係ないだろ? と誠は心で呟いた。


壁に視線を落とすような横顔はまだ笑っている。
でも。誠は少し眉をひそめる。
目が、笑ってないように見えたのだ。


「『商売』はやらない。約束する」横顔の笑顔が崩れた。
何か嫌なことを思い出したような目。
誠は、気付きたくなかったな、と少し思う。


「…狭いぞ?」「うん」シュウはほんの少しだけ悲しげな色を残したままの目で誠を直視した。 綺麗な形のアーモンド・アイだと誠は思った。


男と同衾するなんて、大学に入ってからしばらく会ってない弟と小さい頃にやって以来だ。
何故か雷を怖がった弟にしがみつかれ、全く眠れなかった。


その時の弟もこんな今にも落ちてしまいそうな目をしていたことを思い出す。
誠は軽く頭を振った。


部屋にストックしていたカップラーメンを、食べるか? と差し出してみる。 シュウはおとなしく頷いて受け取った。


湯を沸かして注ぎ、無言のまま出来上がりを待ち、ずるずると食べる。
TVを見るともなく見る。
誠にとっては、いつものようにだらけた休日。


深夜を過ぎて眠気が襲って来た。
ベッドに潜り込む。
壁に顔を向け横たわると、後ろからシュウがごそごそと入って来た。


顔が見えなければ弟とザコ寝していると思えなくもないな、と誠は自分を無理に納得させようとしてみる。


パジャマの背中をぎゅっとつかまれる。
そのままぴたっと貼りつかれてしまう。
甘えるような縋るような…。
誠は壁に向かって眉をひそめた。


「そんなにくっつくなよ…暑くないのか?」尋ねてみたが返事はなく、ただ小刻みに少し震えているのが判るだけだった。
何だと言うんだろう。


考えても仕方ないことだ、と誠は考え直す。
今夜だけやり過ごせばいいだけだ。
目を閉じて、全て無視を決め込んで、眠りに身を任せた。


翌朝は妙に早く目が覚めた。
背中をつかんでいる手はまだ寝ているらしい。
とりあえず、寝込み強盗ではなかったことに誠はホッとした。


起こさないように身を剥がし、台所でヤカンに水を張り湯を沸かす。
毎朝の習慣だった。
それからトイレへ。


残る休日も2日だけだなあ、などとぼんやり思いながら用を足す。
そして出て来た途端、予想外の光景を目の前にして、誠は呆気に取られた。


「おいっ」誠が声をかける。
びくっと震えたシュウの手から、刃が少し出たままのカッターナイフが落ちる。


「何する気だった?」誠がそれを拾ってベットの脇にある机に戻す。
ぼんやりと誠の方を見ているシュウの目の焦点は合っていない。


「…夢じゃなかったんだ」現実感のない声でシュウが呟く。
誠はシュウの目の前で手を振ってみた。
「まだ寝てんのか?」


軽くかがんでシュウの視点と同じ位置から覗き込もうとして、──『それ』に気付いた。


慌ててシュウの手を取る。
昨夜の怪我はほとんどが浅いすり傷でカサブタになっていたはずなのに。
手首に一筋だけ走る新しい傷口。
深くはない。


滲む血をティッシュで押さえ、そのまま救急箱が置いてあるカラーボックスの近くまでシュウを引っ張った。


救急箱と言っても100円ショップで買ったプラスティックのケースにバンソウコウや胃薬が入っているだけなのだが。


誠は片手でシュウの手首を押さえたまま、もう片方の手でバンソウコウを取り出した。


傷は1枚では足りなそうなので2枚並べる。
手当を終えると、肩をつかんで今度こそ覗き込んだ。


「どういうつもりだよ?」返事が返って来るとは思えないまま尋いた。
シュウはしばらくぼんやりと誠を見ていたが、突然誠の方に凭れかかって来た。


誠は反射的にシュウの体を抱えるように受け止めてから、慌てて手を離した。
「ちょっ…な、何してんだよお前…」行き場所のない手をホールドアップのごとく空中に預ける。


「…たんだ」小さな声でシュウが何かを言った。
「な、何?」誠が聞き直すと、子供がイヤイヤをするように首を振ってしがみついて来た。


(勘弁してよ…何でこうなるわけ??) 誠は内心弱り果てながらも、目の前で震えているシュウを無視するわけにも行かない。


どんな事情があるにせよ、手首に刃を当てるぐらい思い詰めているらしいことは判る。
背に手を回して、子供をあやすように軽く叩いてやる。


しばらくそうしているうちに、徐々にシュウの震えは収まって来ていた。
そして、さっきと同じ消え入りそうな声がまた聞こえた。


「…たんだ」「何?」「怖かっ…」シュウは言いかけて言葉を飲んだ。
誠の脳裏に小さい頃の弟の顔が浮かんだ。
雷を恐れていた小さな子供。


子供心に、たとえ兄にしがみついたところで、雷が見逃してくれるわけでもないのに、と思っていた。


実際には何の役にも立たない温もりが、それでもその夜は弟を救った。
ただ安心して縋れる腕があるということが。


本当はそんな安堵は親が小さい頃にイヤと言うほど与えてくれるものの筈だが、誠の弟はそれを望めなかった。
弟は虐待を受けていた子供で、その後に故あって誠の両親に引き取られた。


だからむしろ誰かに縋りつくほど懐いたことはいいことで、それを知っているから誠は、眠れなくても拒まずに弟の好きにさせていた。


あの時の弟の影が何故かシュウと重なる。
必死で存在を確かめるように縋っている手が。
抱きしめてやるだけで落ち着いて行く呼吸が。


こいつも同類なんだろうか、と誠はぼんやり思った。
こんな類いの情緒不安定は自分の『存在』に足場を探せないせいで起こることがある。


それをどうにかしてやるには結局そいつを全肯定してやるしかないんだ。
ココニイテイイヨと伝えてやるしか。


集団でいたぶられたその傷をいつものことだと彼は言い、その翌日には怖いと言った──いや、多分今までは言える相手がいなかったのだろう。


誠はシュウが落ち着くまでそのままでいて、そしてなるべく安心させるような声でシュウに言った。
「これからはたまに来てもいいよ」


びっくりした目で見上げるシュウにさらに畳みかける。
「…いや、なんか、こういう場所があった方がいいんだろ? お前は」「こういう…って」「仕事出来ない場所」


シュウのアーモンド・アイが誠の奥を覗き込むように見上げていた。
「…出来ない?」「ん、出来ないよ」


こいつはひょっとしたら、セックス抜きで誰かと抱き合ったことがないんじゃないか。
誠はふとそんなことを思った。
孤児かも知れないし、被虐待児かも知れない。


静かに体を離す。
「落ち着いた?」誠の声にシュウは少しぼんやりしたまま頷く。
「これから、どうする?」


「服、取って来て、これ返す」シュウは着ている誠の服を指さした。
「家、ないって言わなかった?」


「ない。服だけ置かせて貰ってる」そんなこと頼める友達はいるのか、と誠が思った途端「パトロンってとこ」面白くなさそうにシュウは笑った。


「客の1人。45歳のオバサン」「へえ…」何と言っていいか判らない。
誠は曖昧に言葉を濁した。


「今日はここにいる?」シュウの言葉に頷くと、「夕方には来るから」そう言って玄関に向かった。
「…わかった」誠の声に安心したように微笑んだ。


シュウが出て行った後、誠は洗濯やら掃除やらといった雑務を一気に片付けていた。
連休もあと2日。
多分、最終日の明日は何も出来ないだろうと思っていた。


洗濯の合間にコンビニに夕食を仕入れに行き、ふとシュウの分もと思っている自分に苦笑いする。
本当に来るかどうかも判らないのに。


もし来ないなら明日の朝にでも食べよう、と思ってサンドイッチを余分に買ってしまった。


夕方、6時頃になって呼び鈴が鳴った。
ドアスコープで覗いた先には、空色のシャツと黒のGパンのシュウが立っていた。


ドアを開けてやると、何やら嬉しそうだった。
誠は少々面食らっていた。
その隙に部屋に上がり込まれた。
「あ、ちょっ、シュウ」


「はい、これ」「あ、うん」紙袋を渡されて中を確認した。
貸した服がきちんと洗濯までされて入っていた。
それはいいのだが。


「疲れた…」と言うが早いか、シュウは誠のベットにバタンと倒れ込んでしまったのだ。
「おまっ…勝手に人のベット占有するなって!」


「1時間だけ…」むにゃむにゃとそんなことを呟いたかと思うと、すう、と寝息を立てて本当に眠り込んでしまった。
「冗談だろ…」誠は途方に暮れた。


ホントに1時間たったら起こしてやる、と内心思いながら、返された服を片付け、買って来たコンビニ弁当に手をつけた。


のんびり安らかな寝顔は、1人じゃ眠れないなんて嘘だったのかと思わせるに充分だった。
それも誠には何だかシャクだった。


単に体よく利用されただけだったのか? 一瞬でも弟と重なって心配なんかした自分がお人好し過ぎたのか。


しばらくはおとなしく寝ていたが、やがてシュウはせわしなく寝返りを打ち始めた。
食事を終えた誠は他にやることもないのでそれをぼおっと見ていた。


シャツの襟からちらっとアザが見えた。
キスマークみたいだ、と何気なく思ってから、『みたい』じゃなくてそのものではないか、と思い至る。


服を置かせて貰っている所は客の1人だと言っていた。
服を取りに行ったついでに営業して来たんだろうか。


そう考えれば、疲れて眠いのも納得は行く。
そして、そんな時に『何もしないで眠れる』場所としてここに来てしまったのだろう。


仕事出来ない場所。
ここをシュウの側もそう認識したのだとすれば、それはそれでいいのだが、勝手にベッドを乗っ取られるのは少々困る。


起きたらどう言ってやろうかと誠が思案していた時、眠りこけていたシュウのGパンから何かの着信メロディが流れ出した。


気付いたようにシュウの体がもぞもぞ動き、ポケットから携帯を取り出して音を止めた。
本当にきっかり1時間だけ寝ていた。


呆気に取られる誠の方を眠そうに見て、ベットから降りてバスルームに向かう。
「あ、あのなシュウ」誠は慌てて声をかける。


「時間ないから後で」シュウはそれだけ言ってバスルームに消えた。
「ちょっ…」誠の声がドアに遮られる。


自分が必要な時だけこっちに縋って来る…そんな我がままさ加減がまるで猫だな、と誠はげんなりした。


用を足したらしいシュウが出て来たと思ったら、すぐ玄関に行く。
「これから仕事?」「まあね」「気をつけろよ、また喧嘩に巻き込まれないように」


シュウは一瞬不思議そうな顔をしてから、「ああ」と思い出したように微笑んだ。
「避けられるたら避けるよ」妙な言い方ではあった。
まるで避けられないというような。


そんな出会い方をしてから、その気まぐれな猫は時々誠の部屋を訪れるようになった。
最初の数回は予告なしに。


さすがにそれは困ると抗議したら、それからは事前にメールが飛んで来るようになった。
ごく短いものだが。


時々はまた一緒に寝て欲しいと頼まれることがある。
そんな日はたいてい、腕や足にすり傷が増えている。


彼にとっては、例の高校生連中との喧嘩(と当時の誠は思っていた)は、彼自身の異様な孤独感をとても刺激するらしい。


そんな1ケ月が過ぎた。
その頃から誠は、会社帰りに公園をちらっと覗くクセがつき、やがてそれが日課になった。


薄暗い街灯で照らされるシュウの方も、誠が来れば手を上げて挨拶めいたことをするようになった。


そんな風にコミュニケイションが取れて来ると、高校生のように見えるシュウが何故今のような生活をすることになったのかが気になるようになって来た。


未だに親しいと考えていいのかどうかすら判らない微妙な関係ではあったけれど。


例によって気まぐれにシュウが誠の部屋に来た時に、誠は思い切って切り出してみた。
「今度さ、どっか遊びに行こうか?」


部屋の中でぼーっとしているだけだと必要以上のことを何も喋ろうとはしないシュウとの間に、何かの風穴を開けてみたくなったのだ。


シュウはきょとんとしていた。
誠はなるべく他意のない笑顔で返事を待っていた。
が、彼は戸惑ったように「…別に」とだけ答えた。


「ここでぼーっとしてるだけじゃつまんなくない?」誠の言葉に、返って来たのはまたもや「…別に」。
誠が呆れて溜め息をつく。


「お前、こんなことやる前は友達とどっか行ったりしてなかったの?『職場』と客先とここの往復ばっかじゃ飽きない?」シュウは誠の瞳を覗き込むように見た。


「僕のこと知りたい?」シュウが誠に向かって問いかけた。「…まあ、今まで何してたとか、気にはなるよ」と誠は答える。


シュウは凄く嬉しそうに目を細めた。座っていたベッドから降りて、床にあぐらをかいていた誠の隣に座る。


誠の膝に手をついて顔を近づけて来る。──近過ぎる、と誠が思うほどに近く。


「な、何してんだよ…」思わずシュウを避けるように体を揺らす。膝を抑えつけられているのでそれ以上離れることは出来ない。


「…知りたい?」シュウが少し首を傾げた。誠は頷いておく。息がかかる距離にいるのが妙にくすぐったい。


「教えてあげよっか?」「お、教えるのはいいけど少し離れろって。膝も痛ぇよ。そんなに乗り出して来なくったって話ぐらい出来るだろ?」


「…」言われて、シュウはおとなしく引き下がった。誠はホッとしていた。隣で膝を抱えて座るシュウは、顎を膝に乗せて誠をじっと見ている。


「両親はいない」シュウは唐突に言った。「それは判るけど、でも誰からか生まれて来なきゃこの世にはいないぜ?」少しふざけたように誠が答える。


「…たとえ産んだとしたってあんなの親じゃないよ」その言葉に、誠が少しだけ思っていた予感は的中したことを思い知らされる。先を促すように目で頷く。


「父親は早くに死んで、母親が別の男を連れ込んで来た。初めて男に抱かれたのはそいつ。8歳の時。死んだ方がマシだと思った」


淡々と話す内容に誠は呆気に取られていた。義父に『抱かれた』? 誠にはまるで想像もつかない世界だった。


「…でも、それを堪えてれば優しい人なわけだ。そういう性癖の人間ってたいていそうなんだろうけど。だからもう悩むのが嫌になった。プライドを殺す方を選んだ」


そんな話なのに笑っていた。膝の上から誠を見上げる目は。でも誠にはそれが、何処となく気が狂っているように見えた。


ひょっとしたら、そう解釈しないと誠の頭が追いつけなかっただけなのかも知れないが。


「慣れたよ。慣れなきゃどうしようもないし。慣れてくれば、それなりに楽しむ方法を見つけることも出来た。で、今の僕がある」「…」


「12歳で、近所の人に児童虐待と通報されて僕は施設に入った。性的虐待の場合は猶予なしに引き剥がされるからね」「…そうだろうな」


「でもね…」ついに声を立てて笑い出してしまった。シュウは膝に顔を埋めて笑いを噛み殺している。


「その時の僕はもうひとりでいることの方が怖くて仕方なかった。あの人のやったことは、立場は確かに性的虐待でも、でもその時の僕には虐待なんかじゃなかった」「…」


「好きなわけじゃないけどね。でもいつも近くにいてくれたんだ。少なくとも好きだと言ってくれていた」


それは違う、と誠は思いながらも、突っ伏して笑っているシュウにどう言えば判って貰えるのか判らない。


まるで想像外の世界でもある──8歳の自分の『息子』を手にかけるなんて。そしてその『息子』がそれを肯定してしまうだなんて。


元々児童虐待とはそういう側面はあるものだとは知っていたけれど──子供は、親の行動がどんなにひどくても、それを否定は出来ないのだ。


「中学の時からはずっと施設。規定では義務教育卒業以降はそこを出なきゃってことになってた。学校行く気なかったから、何して働こうか考えてた」


「まさかお前まだ中学生?」「いや、卒業はしてるよ。その時に、例の『パトロン』がいきなり僕を養子にするって言いやがった」


誠にはその話はあまりに突拍子もないものに思えた。パトロン、という表現からして、その人はただの客だと思っていたのに…。


「最初は大人しく従おうとしたよ。あそこにいるのもいい加減嫌になってたし。出て行けるならって」「…」


「でも、そいつは僕の『父親』知ってたんだよ。本人は事故で死んでたけど。それで、僕はまた関係を強要された──今度は『母親』に」


ただ絶句するしかなかった。この少年は、親子関係ですらセックスでしかつながって来なかった──そういう人生を過ごして来ていたのか?


「結局そこも飛び出した。それからはフラフラしてる。持っていた荷物はそいつのトコに置きっ放し」「でも『客』なんだろ?」


「そう。僕にとってはただの客。向こうは親気取りだけどね。あんなの、親だなんて僕は認めたくない…」


「お前、荷物こっちに引き上げて来いよ。ちょっとずつ持ち出して」誠の言葉に、突っ伏していたシュウの顔が上がった。
「…え」「服置くぐらいなら何処だって一緒だろ?」


茫然と誠を見ていたシュウの顔にやがて凄く嬉しそうな笑みが広がる。
「うん」人懐っこい笑顔。
シュウの表情には妙な二面性があるな、と誠は思った。


信じてない人間に向ける妙に冷たい目。
多分、信じ切った人間にだけ見せる素直な甘え。
本当は親に見せるべきものだ、と苦々しく思いながら。


そんな話をした日から数日、シュウは毎日のように誠の家に荷物を置きに来た。
怪しまれないようにと考えれば、本当に少しずつしか持ち出せないからだ。


部屋の一角に大きめの藤のバスケットを置いて、そこを彼の物の置き場所にした。
それで収まるかどうか誠は不安だったが、それは見事に杞憂に終わった。


元からそんなに荷物がある方ではなかったらしい。施設に入っていたから当然だろうが。それからは、前よりも誠の家にやって来る頻度は上がっていた。


誠が帰る頃に公園で挨拶して、そのままついて来たりする。それまでの1日の出来事を何気なく話したりしながら。とは言っても、専ら誠が話しているだけだけれど。


シュウは楽しそうだった。話しているだけで。甘えて来る仔猫。ますますそんな風に見えるようになって来たな、と誠は思っていた。


そんな日々は穏やかだった。その事件が起こるまでは。その日、会社帰りの誠の姿を見つけた公園にいた女性が、大慌てで呼び止めるように手を振った。


誰だっけ。記憶にはなかったが、周りに人はいないので自分のことと判断して近づいてみる。女性は真っ青な顔をしていた。


「あんた、友達でしょっ、シュウのっ」その名前で、間違いなく自分を呼んでいたんだとやっと納得する。「うん、まあ」


「時間ある? 一緒に来て欲しいの…」「何処へ?」「トイレ…」「は!?」女性にトイレに付き添ってくれと言われても困る。大体、入れるはずがない。


「勘違いしないでよっ、男子トイレよ!…シュウが、最近よく絡んで来る連中に連れられてトイレの方に行ったの。止めたかったけど、でも…」


誠の顔から色が失せた。女性の言いたいことは判った。ただ殴る蹴るだけなら、ヤツらは隠れもしていない──あえて隠れに行ったということは…


公園の公衆トイレを目で探して、誠は走り出した。「あんた、名前は」「マナです…『仕事』仲間」「そうか…」


トイレの中を覗いて見たが、そこにシュウの姿はなかった。
個室のドアは全て開いている。
ただ、わずかに血の匂いがする。
誠は外で待っていたマナに「いない」と報告した。


安心と不安がない混ぜになった顔で沈黙していた2人の耳に、かさっと小さな物音がした。 トイレの裏手。
目配せと同時に走り出す。
そしてそこでようやくシュウの姿を見つける。


誠の後ろからやって来たマナは悲鳴を上げた。
今まではせいぜいすり傷程度で済んでいたのに、自分の体を抱えるようにして壁に寄り掛かっていたシュウの口の端に血がこびり付いている。


「…誰だ」誠の声は自分でもぞっとするほど低かった。
「知ってんのか? いつも同じヤツなんだろ?」シュウは声に気付いてゆっくりと誠を見た。
その目から涙が落ちる。


「こんなのどうかしてる…シュウ、お前にどんな落ち度がある? 何でこんなことされる?」「違う」背後からマナが言った。
「シュウは何もしてない…何もっ!」


「じゃ何故!」誠は行き場のない怒りで壁を殴った。
無意識に目の前が霞む。
しばらく経って気付いた──自分が悔し涙を流していることに…。


唇を噛んで誠は手を伸ばす。
「立てるか?」シュウはまだ止まらない涙もそのままにそっと首を振った。
今度は立てないぐらいひどいのか、と誠は思っていた。


だがシュウから出て来た言葉は「触らないで…」「え?」意味が判らず面食らっている誠に、シュウは更に畳みかけた。
「今の僕は…汚い、だからっ…」「んなこと気にしてねえよっ」


「スーツ…」「気が咎めるならクリーニング代請求するから、ほら」腕を掴んで立ち上がらせようとした時、異質な匂いに気付いて、誠はシュウの言う『汚い』の意味を悟った。


…何故そこまでする? ただ怪我だけではなくて、シュウの過去の傷まで抉らないと気が済まないのか?何のために…。
誠は身を引くシュウを強引に引き寄せて立たせた。


腰が立ってない。
ふらつくシュウはそれでも誠に触れまいと必死に他に支えを探そうとしている。
「意地張るなよ、俺には弱み見せてもいいだろ?」誠の声にシュウは目を見開いた。


「もう聞かないから。何があったか…だからとにかく、着替えよう…な?」安心させるように心がけたのが功を奏し、シュウは大人しく従った。


数日、シュウは誠の家から外出しなかった。
自分の意志を無視して凌辱されることの辛さは誠には判らない以上、時に解決を任せる以外に誠が出来ることはなかった。


せいぜい夜に一緒に寝て欲しいと頼まれればそれを引き受けるぐらいで。
迷子になるのを怖がる子供のように縋りつく手に「ここにいる」と答えるぐらいで。


やがて彼が『復職』を決意した時、次にヤツらが来たら誠の携帯を呼び出してすぐ切るように説得する。


シュウが本当に実行するか不安だった誠は、シュウの仕事仲間で今回の第一発見者のマナにも番号を教えて、同じことを頼んだ。


2人からの電話は着信音を変えた。
出来れば鳴らないでいてくれるに越したことはないけど…その願いも空しく仕事終了間際にそれが鳴った。
マナの方だった。


職場の連中に気づかれないようにしていたつもりだが、誠は内心かなり焦っていた。
終業のベルと共に急いで準備して会社を飛び出した。


電車のスピードすら焦れったいと感じながら公園に着く。
息を切らせて髪を乱した誠にマナが近づいた。


「シュウはっ」誠の言葉にマナは「大丈夫…今回は」と答える。
「『あっおまわりさん!』って叫んだら、ヤツら逃げてくれたの」誠は一気に脱力した。


「シュウは仕事入ってたみたいですぐ行っちゃった…ね、これから時間ある?」マナに聞かれて誠は不思議に思いつつ頷く。
「来て欲しいところがあるの」マナは真剣だった。


案内されるまま誠はマナについて行く。
さっき降りたばかりの電車にまた乗り、2つ目の駅で降りた。


日向ケ丘、というその駅の周辺は、この街の中でも高級住宅街として名が通っている。
駅前に少し大型店があるが、後は一戸建てが整然と並んでいた。


そのうちの1軒でマナは足を止めた。
表札は、雉川と書いてある。
キジカワと読むのだろうか。
ぼんやり表札を見ていた誠にマナが話し出した。


「あいつらがシュウを襲いに来た時、『俺達だって好きでやってんじゃねえ』って言ってたの…それに、どう考えてもここまでしつこいのは変だって前から思ってた…」誠も頷いた。


「だから、私、今日は逃げる奴等をつけたの。そしたら──」彼女の目の動きで、彼らがここに来たのだと判った。


「奴等の1人が言ったの。『報告して来る』って。そして家に入って行った…」誠はマナの言いたいことを理解する。
シュウが執拗に攻撃されるのは、この家にいる黒幕のせいなのだ。


ただの若者の喧嘩で説明のつかない事情…こんな高級住宅街に居を構えるようなステータスのある人間が、何故たかが1人の男娼にあそこまでするのだろう。


誠がそれ以上に解せないのは、辛く思っていてもそれを『被害』と認識していないかのようなシュウの態度だ。
こんなことをされる謂れはないと警察に訴える権利はあるはずなのに。


それで何となく思う。
シュウはこの雉川なる人物を知っているのだ。
彼の側にも、この雉川の横暴を放置するだけの事情があるのだと。


「…シュウに聞いてみたか?」「ううん」マナは首を横に振った。
「そうか。俺が聞いてみるよ」マナは少し怪訝そうだった。
「シュウがこの家を知っているの?」


「…シュウの過去、聞いたことある?」俺の質問にマナはまた首を横に振った。
「そこまで親しくないよ…あなたには話したんだ」「まあね。かなり複雑でさ」「ふうん」


マナは何かを納得したように頷くと、「じゃこの件はあなたに任せる。あいつにそこまで信頼されてるヤツは他にいないし。シュウ、一匹狼だしね」


2人はそのまま雉川家から離れて公園に戻る。
マナは仕事に、そして誠は自分の家に。
コンビニ弁当で適当に夕飯を済ませた時、携帯にメールが入った。
シュウからのいつもの合図。


そのうちシュウはここに来る。
その時にじっくり聞いてみればいいか。
誠はのろのろと部屋を片付けながら心でそう呟いていた。


暫くして呼び鈴が鳴る。
ドアを開けると、嬉しそうな顔でシュウが立っている。 妙に上機嫌だ。
だが、これから聞こうとしている内容のことで誠の方は深刻だ。


「どうしたの?」上機嫌なままシュウは誠を見上げる。
ためらいもせず誠の脇腹から両手を背中に回して来て胸元に額を預けて来る。
「怖い顔してるよ?」


誠は深呼吸してから単刀直入に聞いた。
「…雉川って誰なんだ?」誠の背中でびくんとシュウの掌が震える。


そしてますますキツく誠にしがみついて来た。
子供がイヤイヤをするように頭を振る。
「言いたくない」


「そいつが黒幕なんだろ、お前を傷つける奴の。何者だよ? お前の何なんだよ?」「嫌だ。あんな奴の話なんか」「シュウ、そういう問題じゃない」


セミのごとく誠にくっついたままのシュウを引き剥がしてその顔を覗き込んでギクリとした。
泣いている?


「何処で知ったの…雉川なんてもうどうでもいいのに…」子供がしゃくり上げるような声だった。


「僕には…今の僕には誠がいて…くれるから…だからっ」「…え?」不意を突かれた言葉だと誠は感じた。
どういう意味かと聞く前にまたしがみつかれる。


「ちょっ…シュウ、それじゃ答えになってない」「言いたくないっ」「それじゃ変わらないだろっ!?俺は…」言いかけて、誠は自分の心に浮かんだ一言に戸惑っていた。


この気持ちは何なんだろう。
どうしようもないくらい、この腕の中で震えている小さい体を害する者に感じる怒りは…。


「俺は…」知らず知らず泣くシュウをまた抱きしめていた。
啜り上げていた声が徐々に静かになる。
「俺は…お前を守りたいだけなんだ」


シュウの息が止まるのが判った。
誠自身だってどう解釈していいやら判らない。
それでもただ、今は、シュウを守りたかった。
もう二度とあんな目に遭わせたくなかった。


「僕はこのままがいい…僕が少しだけ我慢すればずっとこうしていられるから」誠の腕の中で仔猫のように身を寄せている頭が呟いた。
「帰されちゃうよ…」


「帰される?」意味が判らず問い返した誠にシュウは答えなかった。
答えたくない、と全身が言っているように見えた。
それでも誠は、はっきりと言葉を出す。


「俺は行く。はっきりと抗議する。これ以上の横暴を許したくなんかない。シュウが傷つくのをこれ以上見たくないんだ」まるで恋人にでも言うセリフだと誠は思った。


シュウが何を恐れているのかは知らない。
それも直接雉川に聞けば判ることだろう。
誠はもう決めていた。
相手がどんな人間であれ、理不尽な暴力を放置は出来なかった。


シュウは見上げた誠の決意が固いと判ったのか、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、その夜は妙にシュウは甘えていた。
ちょっとしたことでもやたらと誠にくっつきたがった。


それを拒否する気になれずに受け入れていたのは、 後から考え直せば小さな予感だったのかも知れなかった──


翌日、不安そうな顔のシュウは誠の部屋にいたいと言って、誠もそれを了承した。
誠は会社の帰りに雉川の家に寄って来ると話した。


そしてその言葉通り、会社が終わってすぐに誠は日向ケ丘の駅へ向かった。
さほど難しい道順ではないのですぐ辿り着く。


呼び鈴に応えて出て来たのは、いかにも金持ちといった厳めしい調度品と、でっぷりと貫禄のある中年女性だった。


品定めするようにじろじろと見る。
何かのセールスと思われているのかも知れない。
ふてぶてしい声で聞かれた。
「何の用だい」


「『シュウ』のことでお聞きしたいことがあります」誠はそう切り出した。
雉川は片眉を吊り上げて誠を睨んだ。


「またお節介が出て来たって訳だ…」雉川はくすくす笑った。
「あんたの名前を当ててやろうか?…マコト、だろ?」


予想もしなかった言葉に誠は驚いた。
シュウが話したのだろうか。
そんな個人的なことを打ち明けられるような間柄だったのか?


「あの子がヤられた時にあんたの名前を呼んでたって話だよ。あいつらがそう報告して来た」歪んだ笑顔で雉川が言う。
誠はトイレでシュウを見つけた時の涙を思い出した。


「だけどねマコトさん? あの子を救おうなんて騎士(ナイト)を気取るのはやめた方がいいよ? どうせすぐ裏切られる。そしてあの子を罵る側に回ることになる」


あまりに自信たっぷりに言い切る態度に誠は眉をひそめる。
「何でそう言い切れるのかって顔だね?」言い当てられて、少しうろたえながらも頷いた。


雉川は喉の奥でククッと笑って言った。
「前例があるからだよ、5人もね」


誠は何故か血の気が引く思いがしていた。
その一方で、そう感じる自分が意外だった。


いつの間にそう思っていたんだろう。
シュウが、あんな風に甘えてくれて、手を伸ばして、助けを請うのが自分だけだなんて…


彼は『商売人』だ。
体よく利用するために相手に媚を売るのも仕事の内だ。
誠の方は無意識に『客』じゃないと思っていたが…シュウの側は?


「…上がりなさい。話せば長くなる。でもあんたみたいな騙され易そうな坊やは聞いといた方がいいだろうしね」雉川は何処か勝ち誇ったように誠をリビングに招いた。


ソファに座った雉川は、今までの『前例』の話をした。
大学教授や医者といった、自分の立場に自信のある人間も、雉川からシュウを引き剥がそうとしていた。


雉川は了解していたと言う。
そしてシュウは色々な『保護者』の下を転々と渡り歩いた。
だが、「最後には必ずここに戻って来るんだ」雉川は笑った。


そしてその理由を『自由』と説明した。
「あいつらはそのうちにシュウの商売を認めなくなる。あの子はうまいからね」下卑た声で何を指しているかはすぐ判った。


「あの子はセックス依存症なんだよ。誰かに抱かれてないと自分の存在すら危うく感じる。『親』がそれでしか愛情表現をして来なかったせいか」「…」


「だから1人に縛られた生活が堪えられなくなって、最後には泣きついて来る。あたしだけはあの子を縛らないと向こうも知っているから」


何故、縛らないのか。
誠が聞きたかったことを先取りするように雉川が答えた。
「あたしはあの子の客じゃなく、親だからね──戸籍上の」


それが何故あの行為の理由になるのか理解出来ずに誠は言葉を失った。
親だからいいってものじゃない。
雉川は少し肩をすくめてから話を続けた。


その話の中で、シュウが前に言っていた、大きくなってからのシュウを突然引き取った『母親』が雉川なのだと判った。
誠は何も知らないと思われているようだ。


家を出たシュウが男娼になったのを知った雉川は、公園で彼と話し合った。
その時に、彼の方から今の関係を提案されたと言う。


自由にさせて欲しい、定期的に家に寄るしその時は言うことを聞く。
もしそれをサボったらどんな罰を与えるのも自由だと。


そして契約が成立した。
最初はすり傷程度の怪我。
それでも守らなければもっと暴力はエスカレート。
更に上は『暴行』、そして最後には…


「レイプの時点で既にリーチだ。あたしもそんなことは望んじゃいないけど…そうなるまであの子がここに来てないのも見逃せないしねぇ…」


リーチ、という言葉に突かれる。
「殺す、と言うんですか、『息子』を」「ルールの立案はあの子の方だよ」そんな…言い出しかけて息を飲んだ。


「あの子は投げやりでね。最初から生きようとする気のない子だった」それは違う、と誠は思った。
雉川に雇われた奴らに襲われて確かにシュウは怖がった。


誠の腕の中で震えていた。
暴力を怖がるのは、恐れるのは、それが嫌だからだ。
安全でいたいからだ。
それは生きることを放棄した人間の感情じゃないはずだ。


そう考えた時、誠の頭の中に、奇妙な仮説が横切った。
シュウがこの条件を出した頃は確かに、雉川の言うように投げやりで、あの怖がった時に彼が変わったのだとしたら?


もっとはっきり言えば──誠が、シュウを変えたのだとすれば?


誠は雉川を強い目で見返す。
自分は6人目の前例にはならないと、その瞬間に思ったのだ。
自分は今までの連中とは違う。
だから今までと同じにはならないと。


「それでもいいです。じゃあ俺を6人目にして下さい」誠の言葉に雉川は眉をひそめた。
「裏切られない自信があるとでも言いたげだね…」


「そうじゃないです」「じゃただの独占欲かい? 無駄なことを」「違います」「それはどうかね? あの子に自由にさせる気かい?」「今までだってそうして来ました」


雉川は下品な声を立てて笑った。
「その禁欲がいつまで続くか見物(みもの)だねえ」誠は一瞬頭に血が昇る思いがしたが、必死で自制した。


「じゃあいいんですね? あのくだらない『ルール』は凍結で。シュウには、手を出させないで下さい」誠の言葉に雉川は下賤な視線を向けたまま頷いた。


誠は、雉川の家を出る直前、もう1度だけ雉川を睨むように見据える。
「何だい?」とまだ余裕の表情。
誠は淡々と言った。
「俺は…シュウを抱いてませんから」


途端、雉川の余裕が急にかげる。
「何だって?」「だから禁欲なんて言葉は通用しない。俺は今まで通りです。シュウは、自由だ」


誠はそう吐き捨てて雉川の家を出る。
携帯の時計表示を確認して、今日は公園では会えないな、と考える。
その途端にメールが着信する。
行くから、とそっけない一文。


急いで帰宅すると、ドアの前に不安そうに座り込むシュウがいた。
誠の姿を見つけて立ち上がる。
もう抱き着こうとするのが癖になっているらしい。


「外では止せって」誠が困ったように体を逸らすと、不満そうに唇を歪めた。
構わず、鍵を開けて中へ。
すぐ続いたシュウは、ドアが閉まると同時に額を背中にぶつけて来る。


そのまま甘えるように擦り寄って来る。
背中から手が伸びて、誠のお腹を自分に引き寄せるように抱え込まれる。
「おかえり…」背中でこもった声がした。


「今日『仕事』は?」「予定ないよ」「じゃあ…話すことがある」誠はそう言いながら、さりげなく手を離そうとする。
シュウは大人しく従って向き直り、誠を見上げる。


期待と不安の混じった目に、誠は言った。
今日から、自由だと。
そして今日からこここそがシュウの『家』なのだと。


「雉川に、止めさせるように頼んで来た。あんなくだらないルール…言い出したのはお前の方って本当なのか?…とにかく、一時凍結だ」


シュウはしばらく黙って誠を見上げていた。
てっきり喜ぶものと思っていた誠は、少々その反応に戸惑った。


「シュウ?」沈黙に耐え切れなくなった誠の声に、シュウは掠れた小声で答える。
「僕に…何をさせたいの?」「…え?」


一瞬の絶句の後に、悲しい予想が襲って来た。
今までの5人は、雉川とのくだらないルールからの解放に何かの代償を求めたのだろう。
それは予想範囲だ。


「何もしなくていい。今までと同じだ。来たい時にここへ来ればいい」笑いかけた誠の表情をまだ窺うシュウに「お前はもう自由だ」と畳みかけた。


シュウがそっと手を伸ばして来る。
掴まれた腕に徐々に力が入る。
「…どうして?」「どうしてって、何が?」「誠には、何もメリット、ない…」


「そんなの必要ない。俺がこうしたかった、それだけだ」そう言ってもシュウの表情は明るくならない。
ああ、そうか、とその時に気付いた。


シュウは自分と誰かをつなぐ絆に飢えている。
誠の側に、シュウを必要とする理由がないのが怖いのだ。
今はこうしていても、いつか切り捨てられるかも知れないと。


あんな親であっても、誰からも省みられないよりはマシだと──だからあんなルールを。
誠は一瞬、どうしていいか判らず息を止めた。


一匹狼に見えていたこいつの心の底にもそんな想いが眠っていたんだな、と思う。
素直じゃない奴だ。
縛られなければ不安だと言っているのと同じ。


「じゃあ…」と誠はいたずらっぽく笑って見せる。
「俺の言うこと、聞くか?」「…?」シュウは少し不思議そうに首を傾げた。
「…興味、ないんじゃなかった?」


「こらこら、お前はそこから離れられないのか?」「だっ…」僅かに顔が赤くなった。
うろたえてるシュウを見たのはそう言えば初めてかも知れない。


「勘違いするな。俺はお前を見てると弟を思い出すんだ。もう何年も会ってないけどな」シュウの目はまた不安の方が濃くなる。
この子は何処まで毒されてるんだろう。


「どうする?俺の『条件』聞いてみるか?」シュウはこくんと頷いた。
「俺の条件は──昼間の仕事に就いてみろ、ってことだ。そんな仕事、辞めちまえよ」


予想外だったのだろう。
シュウは口をぽかんと開けたまま止まってしまう。
誠は更に付け加えた。
「言っておくが、嫉妬じゃないからな?」


「じゃ何なの?」疑わしそうに上目遣いするシュウに誠は答える。
「…いや、その方が時間合うと思っただけだよ。昼間1人でいるの退屈じゃない?」


実の所は、シュウが少しでも今いる闇の世界から抜け出して欲しいと思っていたのが本音だったのかも知れない。
こんな生活から。


この少年は自分で他の生き方が出来ないと思い込んでいるだけだと。
違う道がない訳ではないと。
チャンスは、まだあるのだと。


シュウは少しの間、猫みたいなその目でじぃっと誠を見上げたまま黙っていた。
それから、ちょっといたずらっ子の笑顔になる。


「ね。…それって僕と一緒にいたいってこと?」言われて誠は思いっ切り咳き込んだ。
「おまっ…、な、何でそーいうことになる!?」「…違うの?」


本当にそんなつもりなど全くなかったのに、そう言われて妙に意識してしまっている自分に目眩がする。
誠は落ち着こうと溜め息をついた。


途端に凄い勢いで抱きつかれて誠はバランスを崩して転びそうになる。
「わあっ何するんだよいきなりっ」


「嘘でもいいから言って? そしたら考えてみる」「はあ? だから何でそういうことに…」「嘘でもいいって言ってるのに」胸元で必死にすり寄って来る。


少し潤んだ目だけが誠を下から見上げている。
明らかに含んだような視線に誠の頭はパニック寸前になっていた。
こいつにとって俺って…まさか…


「意地悪。トーヘンボク。バカ誠。鈍感っ」反応出来なくなっている誠にシュウは散々そんな言葉を投げつけて離れて、ベットに潜り込んでしまった。


「…あのな、俺は」「聞きたくない」頭から毛布を被ってしまった下から洩れて来る声。
誠は心底困っていた。
確かに優しくはしてやったけど、でもそれとこれとは…


膝をついてベットの山を見下ろしていると、それがもぞもぞと動いた。
怒った顔が隙間から覗いている。
誠は手を伸ばしてその髪の中に指を入れる。


ゆっくり撫でてやる。
シュウの表情からトゲトゲしさが溶けて行く。
「狡いよ…」今度は切なそうに目を閉じた。
そうかも知れない、とは思うけれど…。


「…こうされるの、好きか?」「うん…」やがてうっとりした目が誠を見つめる。
自分を撫でる手に甘えるように頭が動いた。


「俺はこれ以上のことは出来ないから」言葉面は拒んでいても、顔は笑顔であるように気をつけたつもりだった。
しばらくの沈黙。


他人との距離を測る物差しはセックスだと何処かで思い込んでいるとしたら、それを断つ切っ掛けが今ここにある。
誠はそう信じていた。


だから、殊更に思うのだ。
シュウがその潤んだ目の意味を言葉にしたとしても、それに応えてはならないのだと。


シュウが誠の手を引いた。
手のひらを抱きしめるように。
指先から早い鼓動が伝わって来る。
ともすると理性に反してうわずりそうな心を深呼吸で宥める。


頭の隅では判っていた。
その時には自分はもう負けていた。
自分を傷だらけにしても誰かに触れたいと願い続けていた、その公園の猫に。


──そして、この夏が来た。


もう温くなってしまった缶ビールを飲み干すと、誠はベットに背を預けて黙り込んだ。
話し始めてもう3時間は経っていた。


目の前にいるマナは横座りした膝の上で缶を揺らしている。
マナの「好き…だった?」の問い掛けにYesもNoも答えを出せない。


今まで女性として来た恋愛の感触とはまるで別で。
キスしたいとも寝たいとも思ったことはない。
ただ、そばにいてやりたいと、守ってやれたらと思ったことは確かだ。


それは『好き』ではないと思う。
言葉少なにそう説明しようとした誠の言葉に、マナは静かに首を振った。
「じゃ、片想いだったってわけだね」


「シュウが言ったのか?」「うーん、女の勘」「何だよそれ」マナは少し笑った。
「誠さんと公園で『挨拶』が終わるたびに、凄くせつなそうな顔するからね…それに」


ちょっと声をひそめて、「女はイったフリ出来ていいよね、とか話してくれたことがあるんだ」「…そりゃまた、ずいぶん赤裸々な」


「男性相手の時は大変らしいよ? 客が自分だけ満足して解放してくれればいいんだけど…こう、相手を悦ばせないと男の沽券に関わると思ってるのがいるらしくて」


まあその気持ちは誠も男だから判らないとは言わない。相手の子が不満そうにしてたらショックを受けることもあるだろう。


「でもシュウも男だからフリが出来ないって。どうしてるの、って聞いたら、目を閉じて想像するしかないよ、って笑ってた」


マナはビールの残りをあおって缶をテーブルに置く。
そして小さな声でつけ加えた。
「好きな人がいるから、彼に抱かれてることを想像するんだって…」


誰のことかなんて聞けなかった。
聞いても今更何が出来る訳でもない。
ただ、それが自分のことだと想像しても思ったほどの嫌悪感は沸いて来ない。


マナもそれについてはもう何も言わなかった。
声のトーンを少し変える。
「ね、雉川に聞いてみる?」「…え?」「私は気になる…だってこんなのルール違反でしょ?」


それはそうだ。
手を出させないと約束したのに。
「明日、会社休み?」「あぁ…」マナは真相を確かめたがってるようだ。


「行ってみない?」その言葉に、誠は何処かぼんやりしたまま頷いた。
もし本当に雉川が黒幕なら、もっと怒りを感じるはずだと自分でも思っていた。


ふと目を閉じて思う。
怒っても無駄だからだろうか。
何をしてももうシュウが戻って来ることはない。
誠の指先にとくとく鳴る小さな鼓動を残したまま。


もう戻って来ない。
あの声も、じっと不安そうに見上げるアーモンドアイも、帰るたびに抱き着きたがる癖も、ベットの中でしがみつく手のひらも。


「誠さん!?」マナの驚いたような声に目を開いて初めて、誠は自分の視界が滲んでいたことに気付いた。


「変な我慢はしなくていいよ、私には」マナは誠の隣に近づいてそっと体を引き寄せた。
誠がシュウによくしていたように背中を優しく撫でる。


その腕の中で、誠は再び目を閉じた。
勝手に溢れて来る涙を、止める方法を探せなかった。


──翌日。
マナと日向ケ丘の駅で待ち合わせた誠は、無言のまま雉川の家に向かった。
何やら雰囲気が慌ただしいのを見て、改めて思う。
ここがシュウの戸籍上の家なのだと。


形通りの葬式。
弔問客は何やら雉川の会社関係と見える中年が多い。
わずかに洩れて来る会話もそれを裏付けている。


誰もシュウ個人のために来ているヤツはいない。
予想は出来たことだが。
誠は近づいて一般の弔問客を装う。
受付の近くに雉川の姿が見えた。


誠に気付くと、途端に一瞬、苦々そうな形相になった。
話していた相手に挨拶すると、つかつかと近づいて来る。
「…あたしがやったとでも思ってるのかい?」


答えない誠に肩を竦めて見せて、家の中に入るよう促した。
マナの方をちらと見る。
「別に構わないよ、そこのお嬢さんも」面倒臭そうに雉川が手をひらひらさせた。


通されたのは2階の部屋。
真ん中にテーブル、無造作に本が重なった机、
洋服ダンス、そしてベット。
恐らくは、シュウの部屋だ。


1階は客が出入りするからと思ったのだろう。
雉川は「ベットにでも座ってて」とだけ言って、一旦部屋を出た。


しばらく黙ったまま待っていると、雉川はスポーツ新聞を手に戻って来る。 差し出されて受け取って読んだ誠は何とも言えない気分になる。


そこには実行犯達の証言が乗せてあった。
金で雇われて被害者に暴力を振るっていたこと。
その依頼が最近途絶えて金がなく、腹いせに殴り散らしたこと。


「あたしは約束を守ってたよ。そうじゃなきゃルールにならない。あんたが、結局は騎士(ナイト)になり切れなかっただけだ」


膝の上のマナの手は悔しそうに震えている。
誠もただ唇を噛んだ。
雉川は溜め息をついて肩を竦めた。
「他には何か用かい」


誠は「いえ」とだけ答えて立ち上がる。
マナもそれに続く。
「帰るならいつでもどうぞ」雉川はまた面倒そうに手を振って2人を送り出した。


電車に揺られてあの公園に戻って来る。
全てが始まった場所で全てが終わった場所。
『仕事』に戻ったマナを見送った後、誠は昨日から続く虚脱感をまだ拭えずにいた。


シュウがいた頃には雉川のやり方に怒りを感じていたのに。
今回の事件に雉川が直接関わりがなかっとしても、そもそも暴行を加える指示をしていた時点で犯罪だ。


でもそれを告発する気にさえなれない。
目の前にシュウがいない、違いはそれだけなのに。
誠は部屋に入った途端にその静けさにたまらなくなる。


弟みたいだと思っていた。
わざと距離を置いたつもりでいた。
でも、それは自分への言い訳に過ぎなかったんだと自覚させられた。


どうしようもなかった。
心に開いた空白の底が見えない。
誠はソファに身を投げ出して目を閉じた。
死んだ後に気付くなんて。


誠にとってもシュウは必要だったのだ。
こんな短い期間であんなにも誰かを気にかけたことなんかなかった。


ココニイテイイヨという言葉を探していたのは、もしかして自分の方ではないか?


ただ漠然と、誰とも深入りすることもなく過ごしていた自分。
シュウと過ごした3ケ月。


自分にもまだ、そんな風に誰かを想う情熱があったんだな、と誠は苦笑する。


お互いにここにいたかった。
そして、いて欲しかった。
互いの存在が存在を補強するような不思議な関係。


恐らくはもう誰とも築けない関係だったのだと感じる。
そして、それでいいのだと思う。


携帯電話に残る素っ気ないメールをディスプレイに映す。
じっと見つめていた文字の輪郭がふわりとぼやける。


誠はもう止めようともせず、流れるままにその涙を放置していた。
──いつまでも。

--- End of story.

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