ぼんやりと目を開けたアテナは、目の前に拳崇の横顔があることに、一瞬硬直した。
まだ目覚めるには至っていないのだろう、彼は目を閉じたまま、規則正しい呼吸を繰り返している。
"・・・そっか、泊めてもらったんだった。"
両親の死を突きつけられ、全てを失い絶望した自分を、彼はここへ連れ帰ってくれた。
特別な関係など無い相手だ。
何の対価もなしに、居座ることなどできない。
さりとて、いきなり全てを失った自分には、払えるものなど・・・。
住まわせてもらう代償に、躰を差し出す覚悟までしていたが、彼はそんなことは望まなかった。
厳密には、望まない訳ではなかったらしいが、この状況でそうすることを良しとはしなかった。
その流れで、気持ちがぐらついたのは確かだ。
いや、正直に言えば、ぐらついたなどという生やさしい状態ではなく。
押し流されてしまった、といった方が正しいだろう。
そのまま口説かれていたら、間違いなく、受け入れていたと思う。
だから、一つしか無いベッドを彼女に譲り自分は床で寝るという拳崇を説得し、どうにか一緒にベッドを使ったのだが。
自制できる自信がない、という彼の言葉には、そうなっても構わないと思っていた。
代償だとか、そんなことはもう考えていなかった。
求められるのなら応えたいと、そう思える程に、彼に気持ちが傾いてしまっていた。
なまじ覚悟を決めていただけに、ココロの準備が出来てしまっていた、ということもあるかもしれない。
だが、普段見せていた軟派な姿とは裏腹に、彼は思いの外、意思が堅い様だった。
貸してもらった大きすぎるTシャツだけを身に纏い、ドキドキしながら彼の隣に横たわったアテナだったが、拳崇は早々に寝息を立てていた。
"・・・据え膳食わぬは男の恥、なんじゃないの?"
そんなことを思ってみる。
なんというか、我ながら挑発的な格好だったと思うのだけれど。
それで反応しないとは、コレ如何に?
色気が足りないとか、そんな話ではない筈だ。
だけどこれは、問題かもしれない。
こういう対応をされたということは。
それが出来てしまったということは。
状況的に立場が弱いから、彼に従おうとしているのだと、そう受け取られているのだろう。
本心ではなく、やむを得ずなのだ、と。
それだけ、大切に思ってもらえている、ということでもあるのだが。
だから今、彼に愛を囁いたとしても、信じてはもらえまい。
状況的に仕方なく、気持ちを偽っていると、そう考えられてしまうだろう。
"長期戦に、なっちゃうかもなぁ・・・"
旨く距離感を保ちつつ、少しずつ、彼にココロを許していく様に振る舞わなければ。
そうしなければ、この想いを信じてもらえそうにない。
"この、ガンコものめ。"
そう考えた時、アテナは不意に、おかしくなって笑みを溢した。
いつのまにか、すっかり虜にされてしまっている。
この、目の前で眠る自称・騎士に。
何がそんなにツボに入ったのか、今となってはもう分からない。
厳しい戦いの中、吊り橋効果もあったかもしれない。
だが、一度自覚してしまうと、もうこの想いは止められなかった。
好きだ、と想う。
愛している、といってもいい。
だが、今、愛を告げる訳にはいかない。
ちゃんと、この想いを信じてもらうには。
ちゃんと、受け取ってもらうには。
機が熟すまで、何とも思っていない風を演じる必要があるだろう。
だから、せめて。
「おはよう、・・・ケンスウ。」
薄らと目をあけた彼に、彼女は微笑む。
だからせめて、彼のことを名前で呼ぼうと、彼女はそう決めていた。
☆
過去の記憶の世界から、ゆっくりとアテナの意識が浮上する。
雨音だろう、屋根を打ち付ける物音を耳にしつつ、薄らと目をあけてみれば、視界に広がるのは知らない天井だった。
ログハウスだろうか?
無骨な丸太を組み合わせた、剥き出しの天井。
それが、先程闘った場所にあった山小屋だと、暫しの後に思い至る。
「気がついたか?」
かけられた男の声にそちらを見れば、窓辺には拳が腰掛けていた。
なにかもう、見るからにボロボロだ。
体中あちこちアザだらけ、包帯がぐるぐるに巻かれていたり、ガーゼが貼り付けてあったり。
顔も腫れ上がっている。
恐らくは氷水だろう、右手にもった水袋を頬に宛てている。
「・・・ええと?」
ゆっくりと、身を起こすアテナ。
どうやら、ベッドに寝かされていたらしい。
状況が理解できず、問いかけるように拳を見返す。
彼はため息をひとつ。
「俺に勝った奴に、のたれ死なれても困るんでな。」
あの後。
極限まで振り絞った一撃によって決着がついたものの。
精も根も尽き果てた彼女は、そのまま気を失って崩れ落ちたらしい。
敗者となった拳も、起き上がれず。
降り出した雨に、これは不味いと焦ったところで。
「そいつが来なけりゃ、俺ら二人ともヤバかったぜ?」
苦笑しながら拳は、アテナの背後を包帯だらけの左手で示した。
振り返れば、丁度扉をくぐって入ってきた男がひとり。
背格好は拳と同じくらいだろうか。
肩から引きちぎられた様に袖のない、年季の入った白い胴着を身に纏っている。
額には、赤い鉢巻。
「・・・気がついたようだな」
男は身を起こしていたアテナに気づくと、無骨な顔に人好きのする笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。
色々、助けていただいたみたいで。」
どうやらこの男がここへ運んでくれたらしいと、アテナは礼の言葉を口にする。
「隆、そいつすげぇぞ?
そのナリで、滅茶苦茶手強いぜ?」
拳は、嬉々として先程のアテナとの闘いの模様を語って聞かせる。
その様子から、先の闘いは彼にとっても有意義だった事が窺えた。
隆と呼ばれた男は、興味深そうに聞き入っている。
特に人間業とは思えない連撃の話題に対しては、反応が顕著だった。
いや、そんな生やさしいものではなく、穏やかな佇まいだった隆が、その話題に触れた途端に殺気を帯びた。
だが、
「バカ、あれは"瞬獄殺"ってか、"殺意の波動"じゃねぇよ。
あんな禍々しいものじゃなく、・・・そうだな、どっちかっていうと、お前の"闘気"に近いと思うぜ?」
拳の説明に、隆の殺気は霧散する。
どこか、ホッとしたような表情が浮かぶ。
「・・・殺意の、波動?」
話が見えないアテナが、疑問を口にする。
「あぁ、なんていうか、」
拳が苦笑しつつ、答える。
「俺らの流派のな、"闇"ってところさ。」
「すまん、神経質になってしまった。」
拳の言葉に被せ気味に、隆が頭をさげた。
あまり、部外者が立ち入って良い話題ではないらしい。
死に体同然の状態から繰り出された、圧倒的な"力"。
どうやら隆は、それを"殺意の波動"によるものではないかと、疑った様だった。
"瞬獄殺"、そういう似た技があるのだろう。
そして話の流れからして、この2人は同門らしかった。
闘いの前、拳が口にしていた"アイツ"とは、おそらくこの隆のことだったのだろう。
「しかし、拳がそこまで言うその力、見てみたいな・・・。」
そう言って隆は、アテナを見つめた。
彼女は何か、奥底まで見透かされているような、居心地の悪さを感じる。
そう感じたところで、彼女はふと、気がつく。
先日までよりも、更に心が動いていることに。
八神庵から聞かされた、"贄の種子"。
いよいよ、それが馴染んでしまったのではないのか、と不安になる。
そんなアテナの様子に、隆は微かに眉をひそめた。
「どうした?」
その隆の反応に、拳が気づく。
「いや、なんというか・・・、」
アテナもまた、隆の反応に気づき、彼をまっすぐに見返した。
言いよどむ様に、隆は視線をそらしながら、言葉を続ける。
「清澄な、強い"気"を纏っているのに、・・・何か、歪というか」
うまく表現できないらしい、言葉を探す様に、隆は暫し言葉を切った。
「・・・一見してわからない程度に、歪みを生じていると、感じる。」
抽象的な、分かりづらい表現に、アテナは小首を傾げる。
その様子に、拳は苦笑を浮かべた。
「初対面じゃ、そういう反応になるよな。」
顎で隆を指し示しながら、続ける。
「こいつはな、色々と"見える"みたいなんだよ。
さしずめ、今のはアンタの纏っている闘気が、何か違和感があるってことなんだろうよ。」
拳の言葉に、隆も頷く。
その言葉に、アテナはハッとした。
先程思いだした拳崇への"想い"に、動揺している自覚が彼女にはある。
その程度で動揺するなど、先日までの精神を縛られていた状態なら、あり得ないことだ。
八神庵の言葉どおりなら、今のアテナの精神は、彼女自身のものではない、ということになるのだろうか。
もしも今、目の前にいる男達が、"オロチに連なる者"だったなら。
何もかも奪われるのを、黙って受け入れてしまうのだろうか。
拳崇への想いを、抱いたままで。
それがオロチの"贄の種子"の影響で、自分の精神に歪みが生じている、ということなのだろう。
それがこの隆という男には、見えているというのか。
「色々見えちまうもんだから、一撃で勝負を決めちまうことが多いんだよ、コイツ。」
非道く恨めしそうな目で、拳は言葉を結んだ。
反則だろ、と言外に含めつつ。
だが、そんな相手なら。
闘えば、"何か"が得られる気がする。
暫く寝かされていたお陰だろう、体力的には問題なさそうだ。
アテナはひとつ深呼吸すると、まっすぐに隆を見つめた。
「わたしも、闘ってみたい。
手合わせを、お願いしたいです。」
その言葉に、隆は先程と同じ、屈託のない笑みを浮かべた。
「勿論だとも。」
☆
雨上がり。
少し前に拳と闘った広場で、アテナは隆と相対していた。
先程までの雨のお陰で、少し気温が下がっている。
離れた間合いを保ったまま、構えを取る二人。
「いいか、隆とやるなら、最初から全開でいけ。
出し惜しみはなしだ。」
アテナの後方、セコンドの様に控える拳が、アテナの背に語る。
「──でなきゃ、一撃で終わる。
何もできないまま、沈められるぞ?」
拳の言葉に、アテナはコクリと頷きを返す。
彼女の返事に、拳は満足げに頷くと、その場を離れる。
二人の間、今度はレフリーの様な立ち位置へと移動する。
そのまま、邪魔にならない位置まで後退すると、二人を交互に見比べる。
「準備はいいか?」
審判の問いかけに、二人はお互いに視線を交わす。
隆は、目の前の赤い拳法着の少女を見据える。
どこまでも澄んだ、清流のような闘気。
彼女の為人を示すかのような。
にもかかわらず、彼女には似つかわしくない、禍々しい"何か"が、深いところに根付いているように感じられる。
違和感、とでも言えばいいのか。
澄み渡る清流の中に、何か毒々しい揺らぎが存在しているかのような。
何とも言えない、心地悪さを感じる。
「・・・あぁ。」
拳を交えれば分かることだと、隆はそこで思考を打ち切った。
短く、拳の問いに答えを返す。
アテナは、眼前の男をまっすぐに見つめる。
隆──、その名には、聞き覚えがあった。
伝説の、真の格闘家。
噂に聞いたことがある。
真の強さを求めて、あらゆる強者と拳を交える"求道者"。
伝説の英雄とも言われるムエタイの"帝王"をも、下したと言われている。
その圧倒的な闘気は、相対す者を震え上がらせる、と。
だが、そんな噂とはまるで違う。
確かに、こうして構えて向かい合えは、その内包された力の大きさを感じることはできる。
まるで、大きな山を前にしているかのようだから。
だが、そこに炎のような激しさは、感じられない。
むしろそよ風の様に、その佇まいは穏やかだ。
"贄の種子"による影響を感じ取れたことといい、何処か達観しているような雰囲気もある。
まるで仙人のようだ、とも思う。
いったい、どれ程の修行を積み重ねれば、そこまでの境地に到達できるのだろうか。
この男と拳を交わすことで、得られる物は大きいだろう。
そんな期待が、ある。
「──はい。」
アテナは短く拳へ返事を返すと、余計な思考を追いやった。
目の前の闘いに、集中する。
二人の返事を聞き、拳は深呼吸を一つ。
恐らく、一瞬で決着する。
そんな予感がしていた。
「──始め!」
拳の合図と同時に、アテナは自らの中心へ向かって、サイコパワーを収束させていく。
あの時の感覚は、覚えている。
サイコ・イリュージョンを放つための、準備動作。
自らの内にある"力"を束ねる、だけでなく。
外からの"力"をも、自らの内へと収束させる。
その様は、地鳴りや嵐を呼び込むかの如く。
渦を巻く様に、周囲に漂う"何か"が、彼女の内へと導かれていく。
隆は、身じろぎもせずにそれを見ていた。
「自らの"力"のみならず、空間に漂う"力"までも取り込むのか・・・。」
批判でも非難でもなく、ただ事実だけを、口にする。
ともすれば禍々しさを伴う所行の筈だが、彼女が元来備えている清澄な気が、それを微塵も感じさせない。
むしろ、
「・・・まるで、天に祝福された"力"の様だ。」
そう、どこか神聖な輝きを放つかのよう。
「天と地と、風と水。
全ての"力"の源を束ね、練り上げる。」
隆の呟きは、アテナのしていることの本質を言い当てていた。
彼女自身、理解できていなかったことを、初見の彼が見破ったのだ。
恐るべきは、その目か。
「その荒ぶる"力"をもって、一撃必殺とする。
それが、キミの拳か。
──だが、」
静かに、語る。
暴れる"力"の奔流にさらされているアテナとは対照的に、穏やかな佇まいのまま。
「拳は、風のようなもの。」
静かに、目を閉じて、言葉を紡ぐ。
「風の存在を知らしめるには・・・、
ただ木々の葉を、微かにゆらせばいい。
それで十分だ。」
アテナの束ねる"力"が、大地を震わせる。
「大地は風を呼び、木々はそれに応じて葉をゆらす。」
大地より吹き上がる"圧"が、ユラリとアテナの髪を逆立てる。
「大地は"心"。
木々は"身体"。
そして、風は"拳"。」
言いながら目を開いた隆は、アテナをまっすぐに見据えた。
「一撃必殺の極意。
それは風の拳。」
呼吸を合わせるように、吸い込み、吐き出す。
「いま、それを見せてやろう。
・・・来いっ!」
「行きます・・・!」
これ以上、言葉を交わす必要もなし、と。
練り上げた"力"を爆発させるかの様に、アテナが飛び出す。
先に拳と闘った時よりも、鋭い踏み込み。
第三者の視点でそれを見ている拳は、ぼんやりと考える。
あの時も、滑る様な印象を受けたが、これは正に瞬間移動してくるかのようだな、と。
迎え撃つ隆は、右の拳を腰だめに、引き絞る様に構えたままだ。
一瞬で彼我の距離をゼロとしたアテナは、しかし拳の視界の中で、ゆっくりと崩れ落ちた。
いつの間にか、隆の拳が振り抜かれていた。
あっけない、幕切れ。
拳がそんな感想を抱いた刹那。
『─────!!!!』
何かが、唸るような咆吼を上げた。
或いは、悲鳴だったのだろうか。
振り抜かれた隆の拳、アテナが倒れる前なら、丁度彼女の心臓が在った辺りだろうか。
隆の拳に射貫かれ縫い止められたかのように漂う、黒い靄の様にも見える何かが、霧散した。
或いはそれは、その者の断末魔の叫びだったのかもしれない。
だが、見ていただけの拳には、それ以上のことはわからない。
正直、わかりたいとも思わなかったが。
だってそうだろう?
そんなホラー染みた話の真相なんて、碌なものじゃないに決まってるじゃないか。
「・・・相変わらず、反則級な奴だぜ。」
呆れたように呟くと、倒れ伏したアテナを救助するべく、歩き始めるのだった。
☆
バスルームからは、雨音のようにシャワーの音が響いている。
薄暗い、部屋。
その面積の大半を占めるベッドの隅に腰掛けたまま、拳崇は鳴り止まぬその音を聞いていた。
気持ち、紅潮した顔。
緊張しているかのように、躰を堅くしたまま、黙って座っている。
そんな自分の様子を、意識だけの拳崇は第三者の視点で眺めていた。
肉体よりも、やや上空。
少し宙に浮いた状態で、拳崇の意識は自分の姿を見下ろしている。
"また、この記憶かいな・・・"
嘆息気味に、呟く。
一年前の、記憶。
何度も繰り返し、見せられている情景。
タンタロスを破壊し、アテナが両親の死を突きつけられた日の記憶だ。
拳崇は泣きじゃくる彼女を、自分の暮らすワンルームマンションに連れ帰っていた。
雨に打たれてずぶ濡れだったから、風邪をひかないようにと、シャワーを勧めたのが少し前のことだ。
そう、躰が冷え切っていたから、温まってもらおうと思っただけなのだ。
他意はない、筈だった。
だが、彼女が身につけていた清陵学園の制服はズブ濡れで、文字通り何もかも失った彼女には、他に着替えなどない。
そんな彼女が今、バスルームでシャワーを浴びている。
いったい、どんな格好で出てくることになるのか。
そう考えるだけで、鼓動が早まるのを感じる。
着替えるべき服がないのだ。
知らず期待してしまっている自分に、嫌気がさしてくる。
雨音が止んだ。
続いて鳴り始める、ドライヤーの音。
髪を乾かしているのだろう。
それが終われば、出てくるのだ。
正直、彼女のことは好ましいと思っている。
いやむしろ、控えめに言って"べた惚れ"だと言って良い。
しかし彼女からは、どうやら男としては意識してもらえていないみたいだ。
だが、先のWADやタンタロスとの戦いでは、少なからず"吊り橋効果"があった筈だ。
加えて、彼女は今、精神的に弱っている。
更には、他に"行き場"がないときている。
条件が、整い過ぎていた。
そう、この状況でなら、彼女を手に入れられる。
彼女がここしか、居場所がないと考えているから。
拳崇のことを、何とも思っていないとしても、
今なら拒絶することはできない。
彼女なら、ここに居るためにはそうするしかないと、間違いなくそう考えているだろうから。
「・・・アホか。」
バカなことを考えている、と。
現実の拳崇がぐしゃぐしゃと自分の頭をかき乱す。
自分は、彼女の騎士だと自負しているのだ。
そんな奴が、邪な思いを抱いてどうする?
とりあえず何か着るモノが必要だろうと、手近にあった取込済の洗濯物から、パーカーを手に取った。
そのまま手渡すのもどうかと思われたので、手早く畳んでおく。
そうしている内に、ドライヤーの音もやんだ。
ピタリと、動きを止める拳崇。
傍目にも、緊張していることが見て取れる。
いや、Tシャツとかスウェットくらい、用意した方がよくないか?
カチャリ
逡巡している間に、バスルームのドアノブが、動いた。
ゴクリ、と思わず拳崇の咽が鳴る。
恐る恐る、といった様子で、扉が開き。
おずおずと、彼女が現れた。
拳崇の視線は、彼女に釘付けになる。
彼女は躰にバスタオルを巻きつけただけの姿だった。
右手はドアノブに掛けたまま、左手を胸元に置いて、バスタオルを押さえている。
俯いたままで、その表情はうかがえない。
ためらったかの様な数瞬の硬直の後、彼女は黙ったまま拳崇の元へ歩み寄り、彼の隣に腰掛けた。
俯いたままである上に、彼女の長い黒髪のお陰で、殆ど表情は見えない。
緊張しているのだろう、躰を堅くしたまま、黙っている。
微妙に取られた距離が、彼女のココロを物語っていた。
膝の上に揃えた両手をぎゅっと握り、恐怖に震えそうになるのを、必死で堪えているようにも見える。
そんな彼女の様子を、拳崇は黙ったまま見つめていた。
声を掛けた方が良いとは思うものの、何と言えばいいのかわからない。
むしろ、拳崇を受け入れる体勢であるように思えてしまい、狼狽えていた。
邪な想いが、首をもたげる。
"来て・・・。"
そう言われているように、錯覚してしまう。
「・・・ええんか?」
思わず、口をついて出てしまった。
この状況では、彼女が拒否できる訳が無いことなど、わかりきっているのに。
彼女にYESと意思表示させてしまえば、事に及んだとしても合意の上でのことだと言い張れる。
だがそれは、無理強いすることへの言い訳でしかない。
言ってしまってから、後悔した。
罪悪感に苛まれる。
だが、遅かった。
小さく、彼女が頷いたのだ。
相変わらず俯いたままで、表情は見えない。
だがどう考えても、そこには絶望が浮かんでいるだろう。
"いやなこと、思い出させんな、くそっ・・・"
その様子を見下ろしている拳崇の意識は、毒づいた。
不用意な一言で、どれだけ彼女を追い込んでしまったのか。
それは拳崇にとって、悔やんでも悔やみきれない記憶だった。
この時の彼女にとって、自分はただの友人か、それ以下でしかなかった。
それでもここに居るためには、彼女には拒否権がなかったのだ。
少なくとも彼女がそう考えていたことに、この時の拳崇は気がついていたのだから。
結果的には、その後のフォローが功を奏した。
お陰で、拳崇に対する彼女の視線が、良い意味で変化してくれた。
そのことは、不幸中の幸いだっただろう。
──そうなる、筈だった。
"──!、お前、何しよんねん!?"
徐に、彼女の顎に手をやり、ゆっくりと自分の方へ向けさせる。
彼女は抵抗しない。
拳崇の視線を受けて、静かに目を閉じる。
当然のように、現実の拳崇はそのまま彼女の唇を奪った。
それを見た、拳崇の意識は慌てた。
記憶と違うではないか。
『何を狼狽える必要がある?
貴様の望みどおりだろう?』
拳崇の意識よりも更に上方から、不遜な声が響く。
"違う!"
声の主を振り仰ぎ、拳崇の意識が叫ぶ。
そこに居たのは、赤い軍服のような衣装をまとい、腕組みをして宙に浮いたまま、こちらを見下ろしている男。
確か、"ベガ"と言ったか。
『何度も同じ事を言わせるな。
欲望を殺せば、サイコパワーもまた死ぬのだと。』
眼下では、ゆっくりと彼女をベッドに押し倒す自分。
彼女は顔を背けこそしたものの、抵抗せずに素直に仰向けに横たわる。
巻き付けていただけのバスタオルが、はずみでハラリと落ちた。
顕わになる、彼女の肢体。
生まれたままの姿の彼女に、思わず生唾を飲み込んでしまう拳崇の意識。
だが自分の躰は躊躇もなく、そのままのし掛かるように、彼女に覆い被さる。
『貴様の内に眠る、大いなる"力"を目覚めさせる為には、貴様の欲望を解き放つ必要があるのだと、何度言わせる?』
「・・・ん」
首筋を這う男の唇に、少女が微かに声を漏らした。
彼女の瞳に、涙が浮かぶ。
"違う!
俺は、こんなこと・・・っ!"
意識だけの拳崇は、思わず耳を塞ぐ。
そんなことをしても、音が防げる訳ではないことは、もう彼にも分かっていたのに。
「は・・・ぅ・・・んぁ」
切なげな、少女の声が響く。
伴奏のように、男の荒い息づかいが重なる。
彼女の膝を開かせると、両脇に抱える様にその間へ躰を潜り込ませた。
「・・・ん、ぐ、・・・ぃ、・・・ぁ・・・」
少女の瞳に溢れる涙に、興味も関心も示さず。
ただ己の欲望に忠実に、彼女を貪る。
それはもはや、獣の所行だった。
"・・・もう、やめてくれっ"
もう何度、この光景を見せられたか。
自らの欲望に忠実に、少女の躰を蹂躙する、獣。
それが自分の本心だと、突きつけられ続けている。
愛しい彼女の涙も、恐怖と屈辱に耐える表情も、絶望に打ち拉がれる姿も。
全て無視して、彼女を貪り尽くす、獣。
おぞましい。
こんなものが、望みだというのか。
おそろしい。
こんなものが、自分だと言うのか。
堪えようとしても堪えきれない少女の切なげな声に、微かに甘い響きが混ざりゆく。
それにつれ、彼女の瞳から、光が失われてゆく。
それでも、獣はその責めを緩めることはない。
より一層、激しさを増してゆく 。
肉を打ち付ける音が、薄暗い部屋に木霊する。
そのリズムが、無慈悲にも加速していく。
"・・・!!!"
声にならない叫び。
意識だけの拳崇は、眼前の光景に耐えられない。
自らの精神が、壊れていくような感覚。
だが、彼女が感じている絶望は、恐らくこんなものではあるまい。
そこに意識が向いてしまうことが、更に彼の絶望を深めていく。
『存外、しぶといものだな。』
その様子を、無表情で眺めていたベガは、関心したように呟いた。
もう少し早く、落ちるかと思っていたのだが。
『まぁ良い。
まだ時間はある。』
焦燥感を浮かべる意識だけの拳崇を眺めながら、ベガの口元に笑みが浮かんた。