「神龍拳!!」
拳の放つ闘気が、竜巻のように周囲を飲み込み、巻き上げる。
触れる者を巻き込み、吸い上げる、恐るべき闘気の竜巻だ。
「・・・くっ!」
ゴリゴリと、気力と体力を削り取られていく感覚。
防御姿勢のまま、ともすれば飲み込まれそうな勢いに、アテナは耐える。
──危なかった。
やや遠い間合いから放たれた拳の上段回し蹴りは空を切り、一瞬無防備な背中をこちらに向けた。
──、チャンスだと思った。
反撃に転じようと一歩踏み出した直後、ヒヤリとした寒気を感じた彼女は、咄嗟に全力で防御を行った。
果たして、その判断は正しかった。
空振りは、フェイク。
直後に放たれたのは、強力な大技だった。
"──チッ、カンもいいのかよ!"
神龍拳をやり過ごされ、拳は内心毒づいた。
明らかに、初動は'誘い'に引っかかった様子だったのに。
まったく、オモシロイ奴だ。
見た目は、か弱い少女にしか見えない。
体捌きも、どこか頼りなさを感じる。
にも関わらず、彼女が放つ一撃は、速く、重い。
ことに、防御技術は一流と見える。
得体の知れないワザで、尽くいなされてしまう。
蝶のように舞い蜂のように刺す、などという言葉があるが、あれはこういう奴をいうのだろう。
戦術の組み立てがやや甘いが、これは経験値が足りていないのか。
将来的には、強大な敵となりそうな予感がある。
"まったく、世界は広いぜ。"
世界中の、あらゆる格闘大会を戦った。
中には妙なワザを使う者もいたが、その強さは底が知れていた。
だが、目の前のコイツはどうだ?
計り知れない、とはよくいったものだ。
血湧き肉躍る。
終生のライバルとやり合う時のような、高揚感。
自然、彼の口元には笑みが浮かぶ。
神龍拳の勢いが途切れ、自由落下を始めた拳は、着地に備えて気を練り始める。
恐らく相手は、無防備な着地に合わせて、反撃に転じるだろう。
そこを潰してやる。
ここで、勝負を決める。
「──破っ!」
果たして、彼女は拳の着地に重ねて、頂肘による一撃を放つ。
だがそれは、悪手だ。
「もらった!」
ゴスッ
鈍い音と共に、彼女の鳩尾に拳がめり込む。
「カ、ハ・・・」
呻くアテナの顎に、流れるように肘が入る。
「──真!」
そして、追い打ちの様に、炎を纏った拳が、膝と共に打ち込まれる。
「──昇竜拳!!」
☆
打ち付けるシャワーの温かさが、冷え切った躰に熱を与えていく。
アテナは俯いたまま、身じろぎもせずに温かな雨に打たれていた。
──あれから。
両親の亡骸を確認した警察署前で、拳崇に縋って泣き崩れてから。
誘われるまま、彼の暮らすワンルームマンションへと連れ帰られていた。
風邪をひくといけないからと、シャワーを勧められたのが少し前のことだ。
狭いバスルームで、温かな湯に打たれ続けたまま、彼女はふと、鏡の中の自分の姿を見た。
"・・・ヒドイ表情。"
泣きはらした目は腫れぼったく、暗く沈んだ表情とあいまって、殆どホラーのレベルだと、彼女は自己分析する。
"・・・退かれちゃう、かな?"
両親を唐突に失った。
父も母も、早くに身内を亡くしていたと聞いているから、祖父や祖母、親戚もない。
住む家も失った。
彼女には、何も残されていなかった。
だけど、彼女は生きている。
生き残って、しまった。
強目のシャワーを浴びる内に、彼女の思考に冷静さが戻ってきていた。
唐突に何もかもを失った喪失感は、どうやっても拭い去れない。
けれども、生きている以上、蹲ったままでは居られない。
両親が残してくれたこの命、生き残った以上は、無駄にはできない。
この先、生きていくためには、生活基盤としての'居場所'が必要だ。
そして目下、唯一住まわせてもらえそうなのが、ここだった。
同級生である、椎拳崇が暮らすワンルームマンション。
そう、同級生でしかない相手だ。
特別な関係がある訳ではない。
クラスメイトですらない。
確かに彼は、多少は自分に好意を持ってくれている様子ではある。
だが、友人だと言えるほどの繋がりも、あるとは言えないほど希薄な関係でしかない。
そんな自分が、ここに居ても良い理由とは、なんだろうか?
"・・・受け入れなきゃ・・・ね"
自分は女で、彼は男だ。
そして彼は、自分に'女'として魅力を感じてくれている、らしい。
親友に言わせれば、今の状況は彼に'お持ち帰り'された状態な訳で、それはつまり、自分への興味・関心だと考えていい筈だ。
恐らくは、邪な想いだって、抱いていることだろう。
彼が'男'である以上は。
ならば、取り入るにはソコしかない。
そういう関係であるなら、ここにいても良い理由になる筈だ。
"・・・受け入れなきゃ・・"
精神に、蓋をする。
自分の気持ち、彼をどう思っているか、そこは考えない。
彼の望みを、全て受け入れる。
そうしなれば、ここには居られない。
ここに居られなければ、路頭に迷うことになる。
そうなったら、生きていけない。
"・・・全部、受け入れる。"
例えそれが、純潔を奪われることになるのだとしても。
忌避感、、、というよりも、むしろ恐怖感が強い。
そもそも、自分が異性と躰を重ねるなど、想像したこともなかった。
まともに恋愛した経験もないのだ。
親友から色々と吹き込まれているお陰で、知識だけはあるものの。
いずれはそういうこともあるかもしれない、等と、ぼんやりと思ったことがあるくらいで。
だが、ここで拳崇を拒絶したとして。
他に居場所を求めれば、結局は同じことをしなければならなくなることは、想像に難くなかった。
何ももたない自分にできることなど、限られている。
ならば、見知らぬ他人に弄ばれ、おもちゃにされるよりも、好意を持ってくれている相手に抱かれる方が、まだマシではないだろうか。
'おもちゃにされる'という意味では、変わりないのかもしれないが。
顔を上げて、直接シャワーに晒す。
浮腫んだ目元を解す様に、ゆっくりとマッサージする。
強張った表情筋を、どうにか弛緩させる。
鏡に向かって、無理矢理笑顔を作ってみる。
少しは、見られる顔になっただろうか。
どんな状況であれ、可能な限りベストな自分を装いたい。
それは、せめてもの彼女の意地だった。
シャワーを止める。
手早く水気を拭き取ると、そのままバスタオルを躰に巻いた。
洗面台に置かれたドライヤーを手に取り、手早く髪を乾かしにかかる。
恐らくこちらの物音は、リビングで待っている彼には聞こえている筈。
そろそろバスルームから出てくる頃合いだと、分かってしまったに違いない。
或いは言葉通りだったのかもしれないが、先にシャワーを浴びさせたのは、つまりはそういうことなのだと思うから。
長い時間を掛けてから、ドライヤーを止めた。
心臓が跳ねる。
覚悟は、決めたつもりだ。
しかし、押し寄せる恐怖と緊張の波に、俯いてしまう。
蓋をしたはずの思考が、ぐるぐると回り始める。
拳崇の事を、好きか、嫌いか。
少なくとも、嫌いではない、と思う。
出逢った時の状況が状況だったから、最初は苦手意識をもっていた。
けれど、嫌いだった訳ではない、苦手だっただけだ。
先のWADとの攻防では、迂闊にも、ときめいてしまった。
タンタロス戦の後に至っては、姫抱きされて、ドキドキした。
そもそも、外見だけなら、 好みなのだ。
このまま普通に関わっていれば、いずれ彼に恋していたかもしれない。
だからこれは、気持ちの前倒しだ。
先にカラダの関係を結んでしまっても、いずれ気持ちは追いついてくる、筈だ。
自らの内面に言い聞かせる様に、彼女は深呼吸をひとつ。
今の彼女は、バスタオル一枚を纏っただけの、あまりにも無防備な姿だ。
先ほどまで着ていた清陵学園の制服は、ずぶ濡れのため乾燥中。
身一つで放り出された格好の彼女に、他に着替えなどない。
だからこれは、仕方の無いことだと、自分に言い訳をする。
後悔、するかもしれない。
だけどそれも、生きていられればこそだ。
生きていなければ、悔やむこともできないのだ。
ここで、生きる手段を手放す訳にはいかない。
このまま野垂れ死にするようでは、両親に顔向けできないじゃないか。
悲壮な覚悟をもって、彼女はバスルームのドアノブに手を掛けた。
☆
リビングといっても、所詮はワンルームマンションだ。
他に部屋があるわけではない。
先程までアテナが篭もっていた小さなバスルームの他には、トイレがあるだけだ。
部屋の隅には小さなキッチンコーナーが設置されているし、部屋の大部分を占めているのは、今、彼女が腰掛けているベッドだ。
緊張と恐怖で、顔を上げることができない。
油断すれば震えだしそうな躰を、彼女は懸命に押さえていた。
「・・・ええんか?」
刑の執行宣告にも等しい拳崇の問いかけに、アテナは小さく頷いた。
頷くしか、なかった。
他に選択肢など、ありはしない。
しかしそれっきり、隣に座る拳崇には、動きがなかった。
いったい、どんな表情をしているのか。
どんな表情をすればいいのか。
やるなら、さっさとやってくれと言いたい。
時間を置かれても、恐怖が膨らむばかりだ。
震えないように堪えるのにも、限界がある。
"──!"
そっと、膝の上で重ねていた彼女の手に、拳崇の手が重ねられた。
ピクリ、と肩が跳ねてしまったのは、彼女にもどうしようもなかった。
いよいよ、か。
そう思うと、自然と躰が強張ってしまう。
むしろ、震えなかった自分を褒めてあげたい。
こみ上げる涙も、ギリギリ堪えきった。
こうするしか、ない。
仕方が、ない。
仕方ないんだから。
「・・・アテナ」
名を呼ばれ、ゆっくりと彼女は顔を上げた。
ともすれば強張りそうになる表情を、懸命に解しながら。
流石に、笑みを浮かべることは出来なかったが。
拳崇は──、
どこか、困ったような表情を浮かべて、彼女を見つめていた。
「ごめんな。
──試すつもりじゃなかったんや。」
そう言って、苦笑いを浮かべる。
「俺も男やさかいな、キミのその決意と覚悟は、喜んで受け取りたい気持ち、もの凄くあるんやけども。」
言いながら、傍らに畳んであったパーカーを、そっと肩から羽織らせてくれる。
男物、恐らくは拳崇のものだろう。
「ぶっちゃけ、このままキミを押し倒して、俺のもんにしてしまいたい。
本音言うと、朝までずっとキミを抱いていたい。
・・・けどな、」
言いながら正面にまわり、両の肩に手を置かれ。
「この状況は、フェアやないと思うねんよ。
我ながら、卑怯やと、思うから。」
自然と、俯き加減になるアテナの顔を覗き込むように。
「何よりキミに、『幸せな未来』を諦めて欲しくないねん。」
ハっと。
思わず、彼女の目が見開かれる。
「このまま流されたら、二度とキミは心から笑顔になれへんやろう。
少なくとも、俺の隣では。」
言われて初めて、気がついた。
目の前の事に必死になって。
なりふり構わず、生きる術にしがみつこうとして。
「この先何年経っても、アテナには隣に居って欲しいし、
その時には、笑顔で居って欲しいねん。」
だが、いつのまにか、幸せな未来を。
この先への希望を。
「それは、正々堂々と口説いた結果でなきゃ、アカン。
こんな、逃げ道塞いで脅迫したみたいな格好や無うて、な。」
諦めて、しまっていた。
「せやから、これは俺のワガママや。」
口元に笑みを浮かべ、まっすぐにアテナを見つめてくる。
「アテナには、ここに居ってほしい。
代償に、自分の身を差し出そうなんて考えんと、」
恐る恐る、顔を上げる。
「ただ笑って、俺の傍に居って欲しい。」
じわり、と。
目の奥が熱くなる。
「なん・・・で・・・?」
震える声で溢された言葉に、優しく微笑む。
「キミの笑顔を守りたい。
キミの、幸せな未来に、共に在りたい。」
ポロポロと、涙がこぼれた。
「──俺は、アテナのナイトやさかいな?」
お得意のセリフと共に、ウインク。
アテナは、溢れる涙を止められない。
胸が熱い。
多分、顔も真っ赤だろう。
不覚にも、
「・・・あり・・・がとう・・・」
ときめいてしまった。
ぎゅっと抱きしめて欲しいと、思ってしまった。
「・・・、わたしの、ナイトさん。」
だから、そっと。
彼の頬に、唇を押し当てた。
精一杯の、微笑みをたたえて。
☆
一瞬途切れた意識を繋ぎ止めるかの如く、怒濤のように苦い記憶があふれ出す。
両親を失った直後の、最も苦い記憶。
そして、ほんの微かな、甘酸っぱい記憶。
あの時も。
目の前の事にしがみつくあまり、自分の未来を、諦めてしまっていた。
諦めそうになっていた。
諦めるな、と。
自称・彼女のナイトは言った。
「・・・真・昇竜拳を喰らって、立つのかよ・・・。」
フラフラと、気力を振り絞って立ち上がろうとするアテナの姿に、拳は驚愕と呆れがない交ぜとなった呟きを溢した。
諦めない、と。
あの日、彼女は自らのナイトに誓った。
頬へとはいえ、口づけまで捧げて。
「まったく、面白い強者だぜ、アンタは。」
それでも、油断なく構える拳。
幽鬼の如く、力なくユラリと立ち上がったアテナの瞳に、それでも強い意思の光が灯る。
大気から、力を集める様に。
陽の光から、恵みを得る様に。
大地から、吸い上げる様に。
彼女の内へと、'力'が集い、収束されていく。
「──来いよっ」
力強く、言葉を発する拳。
丹田に力を込め、気を練り上げる。
こういうしぶとい相手を屈服させるには、心を折るしかない。
彼は、数多くの戦いから、そう学んでいた。
だからこそ、相手の必殺の一撃を、叩き潰す必要がある。
故に、一見隙だらけなアテナの'タメ'を、敢えて見逃す。
ゴウッ
唸るような低い音と共に、アテナの中心へ向けて、力の奔流が流れ込む。
渦を巻くような、大気の流れが。
収束させたような、極光が。
地鳴りのような、大地の振動が。
彼女を中心に、集まってくる。
強烈な一撃のお陰で、躰の感覚はこの上なく頼りない。
自らの足で立っているものの、両足の感覚は殆どなかった。
アテナは今、自分が地に足をつけているのか、ふわふわと宙を漂っているのか、区別がつかなかった。
それでも。
"──いけるな?"
記憶の中の彼が、彼女の背に問うた。
アテナは小さく頷く。
いつも優しい彼だが、こと修行に関しては、決して甘やかしてはくれない。
こんなフラフラな時でさえ、行けというのだから、鬼教官にも程がある。
だが、そんな彼の後押しは、いつだって彼女に力を与えてくれる。
最後の一押しとばかりに、彼女のナイトの幻影は、自らの力を押し込む様に、彼女の背を押した。
「・・・行きます・・・!」
'力'が、溢れる。
荒れ狂うような奔流は、しかし彼女の意のままに、指向性を持ったかのように。
「何っ!?」
拳の驚愕を他所に、滑る様に彼女は突進する。
残像が残るかの様な、すさまじいまでのスピード。
遠距離攻撃の間合いだった筈が、刹那の間に詰め寄られる。
「・・・チィっ!」
虚を突かれ、万全の体勢とは言えなかったが、それでも拳は迎撃の意思を込めて、昇竜拳の構えを取った。
いや、取ろうとした。
スルリ、と。
まるでソコが分かっていたかのように、気を練る基点となるポイントに、彼女の手刀が滑り込む。
「くっ」
僅かに体を捻り直撃を避けた拳だったが、次の瞬間には、掌底が顎部を打ち抜かんと迫っていた。
首を傾け、辛くも躱す。
だが、意識が上体に向いた刹那、足刀が足元を払いにかかる。
「無っ」
腰を落とし、防御で凌ぐ。
その瞬間には、鳩尾を狙って頂肘が迫る。
"・・・バケモノかっ!?"
およそ人間業とは思えない、スピード。
これが先程まで、死に体同然だった奴の動きか?
直前の動作が残像のように網膜に残り、まるで分身しているかのように錯覚する。
余りのスピードに視覚が追いつかず、アテナの姿がブレて見える。
そのくせ、一撃一撃にはしっかりと重さがある。
まるで悪夢だ。
開幕の数手こそ対応してみせた拳だったが、4手目・5手目となる頃には対応が遅れ出す。
6手目・7手目には捌ききれず。
8手目には、ついに直撃を喰らう。
そうなればもう、防ぐ手立てはない。
"分かる・・・"
攻めるアテナの視界には、不思議な光が溢れていた。
それは彼女にしか知覚されていなかったが、確かにそこにあった。
光は流れを生み出し、彼女を教え導く。
何処を撃つべきか。
何を放てばいいか。
どう体を流すのか。
それを理解したときには、彼女はもう、その通りに動き出した後だ。
迷いはない。
その動きは、一手毎に加速していく。
それはさながら、幻想の様に。
「・・・サイコ・イリュージョン!」
初めこそ彼女の攻撃を捌いてみせた拳だったが、加速し続ける猛攻の前に為す術も無く、既に滅多打ちだった。
文字通り幻想の様な数多の攻撃が降り注ぎ、ついに拳の上体が、ガクリと落ちた所へ。
「──サイコソード!」
激闘に終止符を打つ、輝く剣が空を舞った。