雨が降っていた。
冷たい、雨。
少女の体温を奪うがの如く、容赦なく打ち付ける。
「・・・庵・・・」
呟くように、絞り出される声。
雨音にかき消されそうな、か細い声。
彼女を胸に抱いたまま、八神庵は少女から瞳を逸らすことが出来なくなっていた。
腕のなかの温もりが急速に失われていくことに、彼は非道く不安を覚えていた。
「・・・ごめん・・・ね・・・」
力無く、少女が言葉を紡ぐ。
その瞳は庵の姿を写してはいたが、果たして彼女がそれを認識できているのかは疑わしい。
「・・・い・・・おり・・・」
庵の頬に触れようと、彼女が手を伸ばす。
しかし、その手は虚空を泳ぐ。
たまらず、その手を握りしめる庵。
――が、ヌルリとした感触に、思わず自分の手を見つめる。
降りしきる雨にも流しきれない、赤い色。
庵の手は、血塗れだった。
「・・・ごめ・・・ん・・・」
彼女はもう一度、詫びた。
そして。
それが彼女の最期の言葉となった。
全てを洗い流そうとするかのように、雨は激しさを増していく。
声にならない庵の叫びは、その音にかき消されていった・・・。
☆
"・・・なに、今の?"
アテナはその場に立ちつくしていた。
八神庵が去った後。
不意に浮かんだ、イメージ。
庵の腕の内で、彼の名を呼びながら息絶える少女。
とても、自分によく似た――或いは、自分自身なのか。
"なんなの・・・?"
やけに鮮明な映像である反面、非道く現実感を伴わない光景。
"疲れてるの?"
先程、垣間見た理香のイメージといい、どうも今日は不思議な映像が思い浮かぶ。
――ドクン
微かに、鼓動が大きくなった様な気がした。
―――ドクン
いや、そんな生やさしいものではなく。
「アテナ?」
迎えに来てくれた理香の姿を認めた刹那、それは動悸に近い状態となっていた。
目の前の光景が、次第に白く融けていく―――
☆
「え?」
いつもの放課後。
教室内には、まだ殆どのクラスメートが居残っている。
アテナもまた、机の中身を鞄へ移しているところだった。
「だ〜か〜ら〜、ディノ・アクアリウムのチケットが手に入ったんだってば。」
きょとんとしたアテナの目の前で、理香は2枚のチケットをひらひらと振って見せた。
「アテナ、行きたがってたっしょ?」
思わず、コクコクとうなずくアテナ。
「でもどうして? あそこのチケット、なかなか手に入らないんでしょ?」
アテナの問いに、理香はニヤリと笑った。
「B組の留学生、椎拳崇だっけ? 入手元は、彼よん♪」
拳崇、の名を聞いて、アテナの脳裏にイヤな思い出が甦る。
約半年前、彼の転入初日に彼女は、B組に間違えて座り大恥をかいたのだ。
以来、ことある毎に彼につきまとわれて、いささか辟易している。
「元々、アテナを誘いたかったみたいなんだけどね・・・」
一瞬、イヤな表情を浮かべたアテナに、理香は言葉を続けた。
「なんか、あたしに取り次ぎを頼みたいみたいな、ふざけたことを言うもんだから、取り上げちった。」
てへ、と笑う理香に、アテナの瞳が点になる。
「――それって、泥棒って言わない?」
「いいの、いいの」
咎めるアテナに、理香はへらへらと笑い飛ばす。
「それとも何? アテナはあたしよりも、彼と一緒に行きたかった?」
「な・・・なんでそうなるの?」
思わず頬を染めるアテナに、理香は嫌らしい笑みを浮かべた。
「・・・アクアリウムをエサに、何処ぞに連れ込まれてみたかったんだ?」
「あのねぇ・・・」
睨むアテナに、理香は肩を竦める。
「ま、やっこさんも、留学期間があと2週間しかないってんで、焦ってるんでしょうけどねぇ。」
言いながら、瞳を細める理香。
「・・・外見だけなら、結構好みなんでしょ?」
ぎくっ
そんな音が聞こえてきそうなほど、アテナの反応は素直だった。
ケラケラと笑う理香に、アテナは頬をふくらませる。
「ま、今度の土曜日、空けといてよ。」
☆
"あぁ、また昔の記憶だ。"
アテナは、ぼやける意識の淵で考える。
あの後―――
確か、金曜日になって、理香がチケットをなくしたって騒いで。
手分けして探している最中に、わたしは"力"の目覚めを迎えたんだ―――
そして――
それが全ての始まりだった――
☆
「・・・やっぱり、ね。」
土曜日。
港近くにある、ディノ・アクアリウム前。
昨日、大騒ぎして見つけたチケットを1枚持って、アテナは入口前で所在なげに立ちつくしていた。
今日何度目か、時計をみる。
――2:32pm
理香と待ち合わせの約束をした時間から、すでに30分以上が経過していた。
昨日の別れ際、あれほど遅れないように約束したのに。
「・・・もうっ」
腹立たしいくらいによく晴れた青空に、アテナは毒づいた。
と、けたたましく携帯電話が鳴り響く。
発信人は、思った通り、理香だ。
文句をまくし立てるべく、アテナは大きく息を吸ってから、応答ボタンを押した。
直後――
『ごっめ〜ん、ちょっち、訳ありでさぁ、』
思わず首を竦める大音量で、理香の声が耳元でけたたましく鳴り響いた。
なおも何やら言い訳を続ける理香の声を、アテナは聞いていなかった。
受話器を思わず耳から離してしまっていた。
『・・・ね、アテナの分は、チケット渡してたよね? 悪いんだけどさ、先に入っててよ。ね!』
「ちょ、ちょっと」
――ブツ
言うだけ言うと、理香は電話を切ってしまっていた。
嘆息気味に、アテナは携帯を見つめ――、電話を切った。
「なんだかなぁ、もう。」
☆
思い出した。
この後、わたし達を乗せたエレベータ・カーゴが止まって・・・
事故に巻き込まれたんだ。
人工DNAで構成された太古の恐竜たちが、制御不能に陥って。
楽しいはずのアクアリウムは、あっという間に海底の地獄に変わって。
わたし達のエレベータ・カーゴに、水棲恐竜が突っ込んできて―――いつの間にか、海底のアクアリウム施設にいたんだっけ。
今から思うに、きっと夢中でテレポートしたんだろうな。
そして―――、遅れてきた理香が、別のエレベータ・カーゴに閉じこめられて。
アクアリウムの電源が死んで、空調も止まったために、閉じこめられた理香は酸欠の危険に晒されて。
予備動力を作動させるために、廃墟と化したアクアリウム内を、職員専用フロア目指して彷徨った。
理香を、助けるために。
そして――――、あの男に出会ったんだ。
☆
「・・・お急ぎかな、お嬢ちゃん?」
崩れ落ちたコンクリート片やら埃やらをかき分け、アテナはようやく目的のフロアにたどり着いていた。
最後に理香と話してから、かなりの時間が経っていた。
もう、彼女が閉じこめられたエレベータ・カーゴの酸素濃度は、限界に近い筈だ。
目の前に立ちふさがった男の背後に、アテナは予備動力操作盤を見つけていた。
「そこを、通してもらえませんか?」
アテナは慎重に言葉を選びながら、男に問いかけた。
大柄な男だ。
全身、黒一色で統一された衣装に、金色に染め上げられたオールバックの髪。
人相は、お世辞にも良いとは言い難い。
アテナの言葉に、男は満面に笑みを浮かべた。
イヤらしい笑みを。
アテナを小馬鹿にするかのように、口の端をつり上げ、顎をつり上げて見せる。
「通りたきゃ、押し通ってみるんだな。 お前さんの"力"でよ?」
「!」
直後、アテナの頬を何かが掠めた。
一瞬、硬直するアテナ。
いつの間に振り上げたのか、左の拳を掲げて、男がニヤニヤと笑っていた。
「・・・・お友達を助けたいんだろう?」
「あなた、いったい!?」
自分の置かれた状況、さらには"力"のことまで知っている。
目の前のこの男はいったい何者なのか?
いや。
もしかしたら。
「これは・・・あなたの仕業なの?」
「さぁて、な?」
地獄と化したディノ・アクアリウム。
怪我人も大勢出ていることだろう。
いや、もしかしたら死人も出ているのかもしれない。
たった一人の男の仕業で?
そもそも、なんの為に?
「考え事をしてる暇があるのか?」
揶揄するような男の言葉に、我に返るアテナ。
「きゃっ!!」
立て続けに数発、何かが彼女を掠める。
「どうした? よけなきゃ、今度は本当に当てるぜ?」
男が何をしたのか、アテナには皆目見当もつかない。
微かに、男の肩が動いたような気はするのだが。
何かが掠めた頬が、ひりひりと痛んだ。
「・・・全くのド素人って訳か?」
引きつったアテナの表情に、男は嘆息気味につぶやいた。
「こんな小娘の相手をせにゃぁならんとは、・・・山崎竜二も落ちたもんだぜ。」
山崎、それが男の名なのだろう。
男の視線が自分から外れたのを見て取ったアテナは、脇をすり抜けようと試みる。
「おぉぅと」
「きゃっ!」
だが、素早く動いた(つもりの)アテナを、山崎はあっさりと捕まえた。
胸ぐらをむんずと捕まれ、宙づりにされる。
「・・・そんな動きじゃ、ハエが止まるぜ?」
「くるし・・・」
喘ぐアテナに構わず、山崎は彼女を値踏みするように視線を走らせる。
「そらよっ」
ブン。
そのまま壁際へと投げ捨てる。
「力、使わねぇのは勝手だがな?」
ジャリ。
瓦礫を踏む靴音に、アテナは地に伏した姿勢から、弱々しく上体を起こした。
「いいのか? ・・・お友達は、手遅れになるぜ?」
楽しげに言いながら、背後のモニターを顎でしゃくる山崎。
「――理香!」
そこには、苦しげにうずくまる理香の姿があった。
☆
そうだ。
あの時も、無我夢中だった。
今から考えても、自分が何をやったのか、はっきりとは覚えていない。
ただ、持てる力の全てを、山崎にぶつけた。
―――いや、ぶつけようとしたんだ。
山崎は、わたしの攻撃をかわすと、何故かその場を去っていった。
もしかしたら、わたしの"力"を値踏みするのが目的だったのかもしれない。
本当の意味で、全開で"力"を振るうことになったのは、理香の元に戻ってからだった。
そう。
そしてわたしは、親友を失ったんだ―――。
☆
「――理香!?」
何故か見逃してくれた山崎を訝しみながらも、アテナは予備動力を起動した。
モニターには、確かに電源が回復し、エレベーター・カーゴから解放された親友の姿を映していた。
だが、流石に酸欠寸前の状態まで追い込まれていた理香は、カーゴを降りた所でへたり込んでしまっていた。
そして―――
「それ」はやってきた。
地響きを伴い彼方から現れたそれは、本来、超硬質ガラスに囲まれた檻の中に存在するはずのもの。
禁断の技術で復元再生された、2足歩行型の大型肉食恐竜。
そいつは明らかに、理香を獲物として認識している。
それが、モニター越しでもわかった。
「・・・いけないっ」
アテナがはっきりと記憶出来ているのは、そこまでだった。
後は無我夢中だった。
気がついたときには、アテナは理香の眼前に「跳んで」いた。
背後で彼女の驚きの声が挙がったが、今はそれどころではなかった。
目前に迫った肉食恐竜へ、力の限りをぶつける。
目の前が――いや、周囲が真っ白に染まっていく。
―――アテナが我に返った時、眼前には血の海が広がっていた。
そして散らばる、無数の肉片。
荒い呼吸を何とか整えながら、恐る恐る背後を振り返る。
「・・・理香・・・?」
だが、そこには恐怖の色をその瞳にたたえた、親友の姿があった。
「・・・いや・・・」
一歩近づいたアテナに対し、理香は微かに後ずさる。
それは決して親友を見る瞳ではなく―――
「・・・理香。」
「いやっ、来ないでっ!」
初めて親友の目の前で「力」を振るった結果がこれだった。
絶対的な、拒絶。
彼女の叫びは、アテナの中で繰り返しこだまする。
何度も、何度も。
決して、消えることがなく―――
☆
「・・・気がついた?」
アテナは元居た従業員用の部屋に寝かされていた。
うっすらと瞳を開けた彼女の視界にまず飛び込んできたのは、心配そうに覗き込む理香の瞳だった。
今度は室内には理香とアテナの2人きりだった。
「・・・理香・・・」
先ほどまで思い出していた記憶――驚愕の表情の理香がダブる。
「無理するから、だよ?」
一瞬表情が強張るアテナだったが、理香はそれには気づかなかった。
感情の動きが乏しくなっている今のアテナでは、殆ど表情に出なかったため、かもしれない。
「そういうところ、ちっとも変わってないね、アテナは。」
「――ごめん。」
素直に詫びるアテナに、理香は微笑みを浮かべる。
「もう遅いし、今日は、うちに泊まりなよ。」
「・・・いいの?」
アテナの問いに、理香はクスリと笑った。
「アテナがイヤじゃなければ、ね?」
屈託のない親友の笑みに、アテナは先ほど迄の記憶――絶対的な拒絶を浮かべていた理香とのギャップに、何ともいえない違和感を覚えていた。
多分に、当時の絶望的な気分を引きずっている。
「・・・ありがとう。」
そう口にするのが、精一杯だった。
「・・・何か食べる?」
小テーブル上に置かれた篭に盛られたリンゴを見、理香はアテナに問いかける。
彼女はアテナの返事を待たずに、一緒に置いてあったナイフで皮をむき始めた。
「そういえば、フジ子さんは?」
8等分されたリンゴの1欠片を受け取りながら、アテナは尋ねた。
「・・・八神さん、だっけ? あの人に話があるって、引っ張っていったよ。」
理香もまた、リンゴを頬張りながら答える。
「・・・気になる?」
「そう言うわけじゃ。」
意味ありげに覗き込む理香の瞳に、アテナは苦笑を浮かべた。
何かというと恋愛話に結びつけたがる親友のことだ、八神庵を気にしてのことだと受け取ったに違いない。
そんなことを考えていると。
『・・・あの子は"アテナ"よ。 あなたの"はちす"じゃないわ。』
不意に、八神庵と話すフジ子の姿が、アテナの脳裏に浮かんだ。
まっすぐに庵を見据え、フジ子はキツイ口調で言い放つ。
しかし、庵はそれには取り合わない。
『――貴様には、関係ない。』
『八神っ』
言い捨て、背を向ける庵に、フジ子は思わず声を荒げていた。
"なに?――なにが、見えているの?"
唐突に浮かんだ映像に、アテナは戸惑った。
が、それがサイコパワーの発現――遠視の一種だと思い当たる。
無意識のうちに、サイコパワーを使ってしまっている自分に気づく。
"フジ子さん、庵さんを知っていたんだ。"
一方で、冷静に分析もしていた。
『"はちす"さんは気の毒だったわ。 でも、あの子は、彼女の代わりじゃないのよ!?』
『何を勘違いしている?』
フジ子の言葉に、庵は不機嫌そうに彼女を振り返った。
『あの女は・・・オロチの匂いがする。 それだけだ。』
「アテナ?」
突然固まったアテナに、理香は心配そうに覗き込んでいた。
しばし呆然としていたアテナだったが、親友の言葉に我に返る。
脳裏に浮かんでいた光景は、既に消え失せていた。
「・・・ごめん、なんでもないわ。」
何事もなかったかのように、頭を振る。
「・・・すっぱっ」
思い出したようにかじったリンゴは、思いの外 酸っぱかった。
☆
中国某所。
いくつもの小さな滝が流れ落ちる畔に、その祠は建っている。
鎮元大仙。
そう書かれた門をくぐった中庭に、佇む人影。
紅い、軍服の様な衣装を身に纏った、大柄で体格のよい男。
「・・・ヌルいわ。」
足元に崩れ落ちた青年に向かって、男――ベガは吐き捨てた。
「もう少し、歯ごたえがあるかと期待しておったのだが、な。」
ニヤリと、口元に浮かぶ厭らしい笑み。
「くっ・・・!」
彼の足元に倒れている青年――椎拳崇は、もはや呻くことしか出来なかった。
「・・・幻斎といい、貴様といい、――どうも、サイコパワーというものを勘違いしておるな?」
そう言うとベガは、拳崇の頭部を鷲掴みにすると、無理矢理引き起こす。
「まぁ良い。 貴様には特別にこのベガが、サイコパワーの本質を教えてやろう。」
楽しげに嘯くベガに、拳崇はもはや抵抗する余力を持ち合わせてはいなかった。
「――貴様の"女"を迎えに行くのは、その後だ。」
ベガの浮かべた笑みは、しかしもはや拳崇の瞳に映ることは無かった。
「安心しろ。――貴様の望みは叶えてやる。」