アテナ外伝

Act.5 傷跡

雨が降っていた。
冷たい、雨。
少女の体温を奪うがの如く、容赦なく打ち付ける。

「・・・庵・・・」

呟くように、絞り出される声。
雨音にかき消されそうな、か細い声。
彼女を胸に抱いたまま、八神庵は少女から瞳を逸らすことが出来なくなっていた。
腕のなかの温もりが急速に失われていくことに、彼は非道く不安を覚えていた。

「・・・ごめん・・・ね・・・」

力無く、少女が言葉を紡ぐ。
その瞳は庵の姿を写してはいたが、果たして彼女がそれを認識できているのかは疑わしい。

「・・・い・・・おり・・・」

庵の頬に触れようと、彼女が手を伸ばす。
しかし、その手は虚空を泳ぐ。
たまらず、その手を握りしめる庵。
――が、ヌルリとした感触に、思わず自分の手を見つめる。
降りしきる雨にも流しきれない、赤い色。
庵の手は、血塗れだった。

「・・・ごめ・・・ん・・・」

彼女はもう一度、詫びた。
そして。
それが彼女の最期の言葉となった。
全てを洗い流そうとするかのように、雨は激しさを増していく。
声にならない庵の叫びは、その音にかき消されていった・・・。


"・・・なに、今の?"

アテナはその場に立ちつくしていた。
八神庵が去った後。
不意に浮かんだ、イメージ。
庵の腕の内で、彼の名を呼びながら息絶える少女。
とても、自分によく似た――或いは、自分自身なのか。

"なんなの・・・?"

やけに鮮明な映像である反面、非道く現実感を伴わない光景。

"疲れてるの?"

先程、垣間見た理香のイメージといい、どうも今日は不思議な映像が思い浮かぶ。
――ドクン
微かに、鼓動が大きくなった様な気がした。
―――ドクン
いや、そんな生やさしいものではなく。

「アテナ?」

迎えに来てくれた理香の姿を認めた刹那、それは動悸に近い状態となっていた。
目の前の光景が、次第に白く融けていく―――


「え?」

いつもの放課後。
教室内には、まだ殆どのクラスメートが居残っている。
アテナもまた、机の中身を鞄へ移しているところだった。

「だ〜か〜ら〜、ディノ・アクアリウムのチケットが手に入ったんだってば。」

きょとんとしたアテナの目の前で、理香は2枚のチケットをひらひらと振って見せた。

「アテナ、行きたがってたっしょ?」

思わず、コクコクとうなずくアテナ。

「でもどうして? あそこのチケット、なかなか手に入らないんでしょ?」

アテナの問いに、理香はニヤリと笑った。

「B組の留学生、椎拳崇だっけ? 入手元は、彼よん♪」

拳崇、の名を聞いて、アテナの脳裏にイヤな思い出が甦る。
約半年前、彼の転入初日に彼女は、B組に間違えて座り大恥をかいたのだ。
以来、ことある毎に彼につきまとわれて、いささか辟易している。

「元々、アテナを誘いたかったみたいなんだけどね・・・」

一瞬、イヤな表情かおを浮かべたアテナに、理香は言葉を続けた。

「なんか、あたしに取り次ぎを頼みたいみたいな、ふざけたことを言うもんだから、取り上げちった。」

てへ、と笑う理香に、アテナの瞳が点になる。

「――それって、泥棒って言わない?」

「いいの、いいの」

咎めるアテナに、理香はへらへらと笑い飛ばす。

「それとも何? アテナはあたしよりも、彼と一緒に行きたかった?」

「な・・・なんでそうなるの?」

思わず頬を染めるアテナに、理香は嫌らしい笑みを浮かべた。

「・・・アクアリウムをエサに、何処ぞに連れ込まれてみたかったんだ?」

「あのねぇ・・・」

睨むアテナに、理香は肩を竦める。

「ま、やっこさんも、留学期間があと2週間しかないってんで、焦ってるんでしょうけどねぇ。」

言いながら、瞳を細める理香。

「・・・外見だけなら、結構好みなんでしょ?」

ぎくっ
そんな音が聞こえてきそうなほど、アテナの反応は素直だった。
ケラケラと笑う理香に、アテナは頬をふくらませる。

「ま、今度の土曜日、空けといてよ。」


"あぁ、また昔の記憶だ。"

アテナは、ぼやける意識の淵で考える。
あの後―――
確か、金曜日になって、理香がチケットをなくしたって騒いで。
手分けして探している最中に、わたしは"力"の目覚めを迎えたんだ―――
そして――
それが全ての始まりだった――


「・・・やっぱり、ね。」

土曜日。
港近くにある、ディノ・アクアリウム前。
昨日、大騒ぎして見つけたチケットを1枚持って、アテナは入口前で所在なげに立ちつくしていた。
今日何度目か、時計をみる。
――2:32pm
理香と待ち合わせの約束をした時間から、すでに30分以上が経過していた。
昨日の別れ際、あれほど遅れないように約束したのに。

「・・・もうっ」

腹立たしいくらいによく晴れた青空に、アテナは毒づいた。
と、けたたましく携帯電話が鳴り響く。
発信人は、思った通り、理香だ。
文句をまくし立てるべく、アテナは大きく息を吸ってから、応答ボタンを押した。
直後――

『ごっめ〜ん、ちょっち、訳ありでさぁ、』

思わず首を竦める大音量で、理香の声が耳元でけたたましく鳴り響いた。
なおも何やら言い訳を続ける理香の声を、アテナは聞いていなかった。
受話器を思わず耳から離してしまっていた。

『・・・ね、アテナの分は、チケット渡してたよね? 悪いんだけどさ、先に入っててよ。ね!』

「ちょ、ちょっと」

――ブツ
言うだけ言うと、理香は電話を切ってしまっていた。
嘆息気味に、アテナは携帯を見つめ――、電話を切った。

「なんだかなぁ、もう。」


思い出した。
この後、わたし達を乗せたエレベータ・カーゴが止まって・・・
事故に巻き込まれたんだ。
人工DNAで構成された太古の恐竜たちが、制御不能に陥って。
楽しいはずのアクアリウムは、あっという間に海底の地獄に変わって。
わたし達のエレベータ・カーゴに、水棲恐竜が突っ込んできて―――いつの間にか、海底のアクアリウム施設にいたんだっけ。
今から思うに、きっと夢中でテレポートしたんだろうな。
そして―――、遅れてきた理香が、別のエレベータ・カーゴに閉じこめられて。
アクアリウムの電源が死んで、空調も止まったために、閉じこめられた理香は酸欠の危険に晒されて。
予備動力を作動させるために、廃墟と化したアクアリウム内を、職員専用フロア目指して彷徨った。
理香を、助けるために。
そして――――、あの男に出会ったんだ。


「・・・お急ぎかな、お嬢ちゃん?」

崩れ落ちたコンクリート片やら埃やらをかき分け、アテナはようやく目的のフロアにたどり着いていた。
最後に理香と話してから、かなりの時間が経っていた。
もう、彼女が閉じこめられたエレベータ・カーゴの酸素濃度は、限界に近い筈だ。
目の前に立ちふさがった男の背後に、アテナは予備動力操作盤を見つけていた。

「そこを、通してもらえませんか?」

アテナは慎重に言葉を選びながら、男に問いかけた。
大柄な男だ。
全身、黒一色で統一された衣装に、金色に染め上げられたオールバックの髪。
人相は、お世辞にも良いとは言い難い。
アテナの言葉に、男は満面に笑みを浮かべた。
イヤらしい笑みを。
アテナを小馬鹿にするかのように、口の端をつり上げ、顎をつり上げて見せる。

「通りたきゃ、押し通ってみるんだな。 お前さんの"力"でよ?」

「!」

直後、アテナの頬を何かが掠めた。
一瞬、硬直するアテナ。
いつの間に振り上げたのか、左の拳を掲げて、男がニヤニヤと笑っていた。

「・・・・お友達を助けたいんだろう?」

「あなた、いったい!?」

自分の置かれた状況、さらには"力"のことまで知っている。
目の前のこの男はいったい何者なのか?
いや。
もしかしたら。

「これは・・・あなたの仕業なの?」

「さぁて、な?」

地獄と化したディノ・アクアリウム。
怪我人も大勢出ていることだろう。
いや、もしかしたら死人も出ているのかもしれない。
たった一人の男の仕業で?
そもそも、なんの為に?

「考え事をしてる暇があるのか?」

揶揄するような男の言葉に、我に返るアテナ。

「きゃっ!!」

立て続けに数発、何かが彼女を掠める。

「どうした? よけなきゃ、今度は本当に当てるぜ?」

男が何をしたのか、アテナには皆目見当もつかない。
微かに、男の肩が動いたような気はするのだが。
何かが掠めた頬が、ひりひりと痛んだ。

「・・・全くのド素人って訳か?」

引きつったアテナの表情に、男は嘆息気味につぶやいた。

「こんな小娘の相手をせにゃぁならんとは、・・・山崎竜二も落ちたもんだぜ。」

山崎、それが男の名なのだろう。
男の視線が自分から外れたのを見て取ったアテナは、脇をすり抜けようと試みる。

「おぉぅと」

「きゃっ!」

だが、素早く動いた(つもりの)アテナを、山崎はあっさりと捕まえた。
胸ぐらをむんずと捕まれ、宙づりにされる。

「・・・そんな動きじゃ、ハエが止まるぜ?」

「くるし・・・」

喘ぐアテナに構わず、山崎は彼女を値踏みするように視線を走らせる。

「そらよっ」

ブン。
そのまま壁際へと投げ捨てる。

「力、使わねぇのは勝手だがな?」

ジャリ。
瓦礫を踏む靴音に、アテナは地に伏した姿勢から、弱々しく上体を起こした。

「いいのか? ・・・お友達は、手遅れになるぜ?」

楽しげに言いながら、背後のモニターを顎でしゃくる山崎。

「――理香!」

そこには、苦しげにうずくまる理香の姿があった。


そうだ。
あの時も、無我夢中だった。
今から考えても、自分が何をやったのか、はっきりとは覚えていない。
ただ、持てる力の全てを、山崎にぶつけた。
―――いや、ぶつけようとしたんだ。
山崎は、わたしの攻撃をかわすと、何故かその場を去っていった。
もしかしたら、わたしの"力"を値踏みするのが目的だったのかもしれない。
本当の意味で、全開で"力"を振るうことになったのは、理香の元に戻ってからだった。
そう。
そしてわたしは、親友を失ったんだ―――。


「――理香!?」

何故か見逃してくれた山崎を訝しみながらも、アテナは予備動力を起動した。
モニターには、確かに電源が回復し、エレベーター・カーゴから解放された親友の姿を映していた。
だが、流石に酸欠寸前の状態まで追い込まれていた理香は、カーゴを降りた所でへたり込んでしまっていた。
そして―――
「それ」はやってきた。
地響きを伴い彼方から現れたそれは、本来、超硬質ガラスに囲まれた檻の中に存在するはずのもの。
禁断の技術で復元再生された、2足歩行型の大型肉食恐竜。
そいつは明らかに、理香を獲物として認識している。
それが、モニター越しでもわかった。

「・・・いけないっ」

アテナがはっきりと記憶出来ているのは、そこまでだった。
後は無我夢中だった。
気がついたときには、アテナは理香の眼前に「跳んで」いた。
背後で彼女の驚きの声が挙がったが、今はそれどころではなかった。
目前に迫った肉食恐竜へ、力の限りをぶつける。
目の前が――いや、周囲が真っ白に染まっていく。

―――アテナが我に返った時、眼前には血の海が広がっていた。
そして散らばる、無数の肉片。
荒い呼吸を何とか整えながら、恐る恐る背後を振り返る。

「・・・理香・・・?」

だが、そこには恐怖の色をその瞳にたたえた、親友の姿があった。

「・・・いや・・・」

一歩近づいたアテナに対し、理香は微かに後ずさる。
それは決して親友を見る瞳ではなく―――

「・・・理香。」

「いやっ、来ないでっ!」

初めて親友の目の前で「力」を振るった結果がこれだった。
絶対的な、拒絶。
彼女の叫びは、アテナの中で繰り返しこだまする。
何度も、何度も。
決して、消えることがなく―――


「・・・気がついた?」

アテナは元居た従業員用の部屋に寝かされていた。
うっすらと瞳を開けた彼女の視界にまず飛び込んできたのは、心配そうに覗き込む理香の瞳だった。
今度は室内には理香とアテナの2人きりだった。

「・・・理香・・・」

先ほどまで思い出していた記憶――驚愕の表情の理香がダブる。

「無理するから、だよ?」

一瞬表情が強張るアテナだったが、理香はそれには気づかなかった。
感情の動きが乏しくなっている今のアテナでは、殆ど表情に出なかったため、かもしれない。

「そういうところ、ちっとも変わってないね、アテナは。」

「――ごめん。」

素直に詫びるアテナに、理香は微笑みを浮かべる。

「もう遅いし、今日は、うちに泊まりなよ。」

「・・・いいの?」

アテナの問いに、理香はクスリと笑った。

「アテナがイヤじゃなければ、ね?」

屈託のない親友の笑みに、アテナは先ほど迄の記憶――絶対的な拒絶を浮かべていた理香とのギャップに、何ともいえない違和感を覚えていた。
多分に、当時の絶望的な気分を引きずっている。

「・・・ありがとう。」

そう口にするのが、精一杯だった。

「・・・何か食べる?」

小テーブル上に置かれた篭に盛られたリンゴを見、理香はアテナに問いかける。
彼女はアテナの返事を待たずに、一緒に置いてあったナイフで皮をむき始めた。

「そういえば、フジ子さんは?」

8等分されたリンゴの1欠片を受け取りながら、アテナは尋ねた。

「・・・八神さん、だっけ? あの人に話があるって、引っ張っていったよ。」

理香もまた、リンゴを頬張りながら答える。

「・・・気になる?」

「そう言うわけじゃ。」

意味ありげに覗き込む理香の瞳に、アテナは苦笑を浮かべた。
何かというと恋愛話に結びつけたがる親友のことだ、八神庵を気にしてのことだと受け取ったに違いない。
そんなことを考えていると。

『・・・あの子は"アテナ"よ。 あなたの"はちす"じゃないわ。』

不意に、八神庵と話すフジ子の姿が、アテナの脳裏に浮かんだ。
まっすぐに庵を見据え、フジ子はキツイ口調で言い放つ。
しかし、庵はそれには取り合わない。

『――貴様には、関係ない。』

『八神っ』

言い捨て、背を向ける庵に、フジ子は思わず声を荒げていた。

"なに?――なにが、見えているの?"

唐突に浮かんだ映像に、アテナは戸惑った。
が、それがサイコパワーの発現――遠視の一種だと思い当たる。
無意識のうちに、サイコパワーを使ってしまっている自分に気づく。

"フジ子さん、庵さんを知っていたんだ。"

一方で、冷静に分析もしていた。

『"はちす"さんは気の毒だったわ。 でも、あの子は、彼女の代わりじゃないのよ!?』

『何を勘違いしている?』

フジ子の言葉に、庵は不機嫌そうに彼女を振り返った。
『あの女は・・・オロチの匂いがする。 それだけだ。』

「アテナ?」

突然固まったアテナに、理香は心配そうに覗き込んでいた。
しばし呆然としていたアテナだったが、親友の言葉に我に返る。
脳裏に浮かんでいた光景は、既に消え失せていた。

「・・・ごめん、なんでもないわ。」

何事もなかったかのように、かぶりを振る。

「・・・すっぱっ」

思い出したようにかじったリンゴは、思いの外 酸っぱかった。


中国某所。
いくつもの小さな滝が流れ落ちる畔に、その祠は建っている。
鎮元大仙。
そう書かれた門をくぐった中庭に、佇む人影。
紅い、軍服の様な衣装を身に纏った、大柄で体格のよい男。

「・・・ヌルいわ。」

足元に崩れ落ちた青年に向かって、男――ベガは吐き捨てた。

「もう少し、歯ごたえがあるかと期待しておったのだが、な。」

ニヤリと、口元に浮かぶ厭らしい笑み。

「くっ・・・!」

彼の足元に倒れている青年――椎拳崇は、もはや呻くことしか出来なかった。

「・・・幻斎といい、貴様といい、――どうも、サイコパワーというものを勘違いしておるな?」

そう言うとベガは、拳崇の頭部を鷲掴みにすると、無理矢理引き起こす。

「まぁ良い。 貴様には特別にこのベガが、サイコパワーの本質を教えてやろう。」

楽しげに嘯くベガに、拳崇はもはや抵抗する余力を持ち合わせてはいなかった。

「――貴様の"女"を迎えに行くのは、その後だ。」

ベガの浮かべた笑みは、しかしもはや拳崇の瞳に映ることは無かった。

「安心しろ。――貴様の望みは叶えてやる。」



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ACT.6

ひとこと