曹洞宗 寶聚山 満福寺


概要



 全国有数の観光地として国内外からの観光客が絶えない角館の中心部から約3km離れた農村部『中川』地区の広大な地に佇む曹洞宗寺院。山と清水の大自然に囲まれた広大な境内は、桜、杉、モミジ、クリ、沙羅双樹などの多数の樹木や季節の草花が彩を添え、静寂の中に小鳥のさえずりや虫の声が日本の四季折々の風情を感じさせてくれます。時にはリスやタヌキ、カモシカなどの動物達も見られます。また冬期は積雪が2mを越すこともある豪雪地帯でもあります。

 満福寺は中川地区(旧中川村)において、近世より重要な役割を果たしており、葬送儀礼はもちろん、様々な行事の中心として機能していました。檀信徒の皆様方とともに、季節ごとのお寺の行事を通じて結束し約350年の間、この地で檀信徒の菩提を弔い続けてきました。


法隆寺金堂壁画 薬師如来模写絵(鈴木空如 筆 常時展示)


 明治〜昭和期の『信仰の仏画師』鈴木空如は現在の大仙市太田町の旧家の三男として生まれました。19歳で画家を志して上京。日清戦争への従軍を経て、25歳で東京美術学校(現東京芸大)の日本画選科に入学し、研究科(現大学院)を修了して、仏画家としての道を歩みました。


 表現技法を学んで自身の技術向上に生かすとともに、法隆寺金堂壁画の価値を世に広めるため、飛鳥時代に描かれた壁画を模写。大小12面(縦3・1メートル、横1・6〜2・7メートル)を原寸大で、3組計36面描きました。


 空如の死から3年がたった49年、金堂壁画は火災で一部が焼失し、残りの多くも変色するなどした。67〜68年の再現事業では、空如の模写が参考にされました。


 その代表作【法隆寺金堂壁画模写】は、完成度の高さに専門家を驚かせたと言います。現在とは照明技術も異なる劣悪な環境の中、何十回にも渡り法隆寺に足を運び入念に模写し、時代を経た古い色合いや剥落、変色、にじみ方はもちろんのこと、高い技術できめ細かに仕上げられた薬師如来図をぜひご拝観ください。また薬師如来図前にて御祈祷した図柄入りの御朱印(書き置きのみ)もございます。




縁起


宗派・・・曹洞宗(そうとうしゅう)

山号・・・寶聚山(ほうじゅさん)

本尊・・・釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)

 その前身は中川地区の北西部にある山谷川崎の地に正覚院殿権大僧都玄明徹心法印が創建した真言宗正覚院であった。当時の山谷川崎には、源頼義の家臣藤原仲光の居城とした山谷館があり、仙台伊達氏の家臣片倉小十郎が居城とした片倉館などがあり、特に山谷館の城主仲光が帰るときに、節木田某をここに残し、その子孫は修験の明楽院となったという。正覚院はこれらの城館主とかかわりをなす祈願所であったとされる。

 江戸時代となって密教は衰退し、藩政の宗教政策・寺請制度によって、寛永年間(1624〜1643)、かつて会津の雄であった名族芦名家の菩提寺として同じく会津より移った萬松山天寧寺(角館町上新町)十二世龍山呑海大和尚(寛文四年寂)により本尊釈迦牟尼佛が安置され曹洞宗に改宗し寶聚山満福寺として開山された。以来天寧寺の門首(第一の末寺)として寺運が隆盛した。幕末の文政7(1824)年、十三世祖山應仙の代に火災焼失し、その後仮本堂を再建したが老朽破損がひどく、昭和53年、本堂・位牌所が新たに建て替えられた。


現住職

満福寺25世 堀井 英和(ほりい えいわ)

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