Sonic Barrier



      
   

   3


 月明かりが、消灯時間が過ぎた寮内の廊下を静かに照らしていた。
 暴力的な昼間の太陽熱から解放され、辺りの空気はしんとした佇まいをみせていた。トリスは、
手にしたノートを握り締めたまま、大きくあくびをした。
「ふあ〜……、眠い。……途中でうっかり居眠りしちゃったから、こんな時間になっちゃった。
……ネスは、まだ起きてるかな?」
 トリスは、ネスティの部屋の前に立ち止まると、軽く息を吐き出して、こんこん、と小さく二
回ドアをノックした。
「……ネス?」
 返事はなかった。
「ん〜……寝てるのかな? ま、いいや。寝てるなら、机の上にでも、この課題をやったノート、
置いておこうっと」
 そう言って、ドアを開けたトリスの目に入ったのは、
「あれ……ネス、……いない?」
 空っぽのベッド。シーツや毛布は、几帳面に折りたたまれて上にきちんと置かれていた。
「……ちょっと起き出したって感じじゃ……ないわね? 寝た跡もないし……」
 トリスはため息をつくと、ノートをネスティの机の上に置いた。開け放された窓からは、涼し
い風が入り込み、ノートが軽くパラパラとめくられた。
「う〜ん。おかしいな。最近、ネスってば、しょっちゅういなくなっちゃうのよね……。まあ、
いろいろ仕事があるらしいんだけど……に、しても……妙に疲れてるし……」
 そのとき。
「きゃあっ! ……何!?」
 突然、窓から昼間彼女が遊んだ、ビーチボールほどの大きさのある球体が飛び込んできた。そ
れは、部屋に入ると大きな二つの目を金色に光らせ、高い金属質の鳴き声を発した。

……ピピピピピピ、ピピルリルピピピ……。

 鳴きながら、それは小さな二枚の鳥のような白い羽根をぱたぱたと気ぜわしくはためかせ、ネ
スティの部屋の中を飛び回った。トリスは目を丸くしたまま、それを見つめた。
「な、何これ……? あ、そうだ、授業で教わったわ! え〜っと、え〜っと、この丸っこい身
体と、ちっちゃい羽根は、……機属性の召還獣で…………そう、ライザーね!」
 トリスが見つめる中、ライザーは何かを探すように目をくるくると回した。

 ……ピピピピピピピピピピピピピ、ピリリリルルピピピピピ……。

「どうしたの……? もしかして、あなた機属性ってことは、ネスが管理してる召還獣なの?
 ……ネスを、探してるの?」

ピピピルリリリリピピピピピピピピピピ……。

 ライザーは、しかし、そんな彼女の様子にはおかまいなしにしばらく部屋の中を飛び回ったか
と思うと、ふいに開いていた入り口のドアから廊下へ飛び出した。トリスは慌ててその後を追っ
た。
「あ、待って! 自分の管轄下の召還獣が勝手に寮内を動き回ったら、ネスが監督不行き届きで
怒られちゃうじゃない!」
トリスは、慌ててライザーの後を追った。

*


 地下室では、ネスティが作業を続けていた。植物のようなその機械は、ゆらめくランプの明か
りで照らし出され、ひどく不気味な様相を呈していた。ネスティは静かに立ち上がると、機械の
前で長々とした誓約の呪文を詠唱した。呪文を詠唱する彼の、こめかみの薄い皮膚には血の気が
乏しい細い青筋が浮き上がっていった。ふいに彼は右手の人差し指と中指を立て、眉間の前に置
いた。その薄く形の良い唇からは最後の言葉が繰り出され、彼はそのまましばらく静止した。装
置はその完璧な詠唱にしばらく振動したかと思うと、ふいに白々と発光し始め、作動準備に入っ
た。しかし。
 次の瞬間には、乾燥した砂浜に吸い込まれる水滴のように、光は瞬く間に消え去ってしまった。
ネスティはため息をついて機械を見つめた。

 ……分からない。手はつくしたんだが……。器質的な問題というよりは、僕とこの装置との親
和性のもんだいなのか? ……いや、そんな。ありえない……。

 そのとき。
「ねえ、ちょっと待ってよ!」
 ネスティは、聞きなれた声が部屋の外から響いてくるのを聞いた。
「……トリス!?」
 彼が驚いて彼女の名前を呼ぶのと同時に、高い金属性の声を上げて、ライザーが部屋に飛び込
んできた。

ピピピピピピ、ピピピピピピルルルルルルルピピピピピピ……。

「うわあっ! ……ライザーじゃないか? いったい、どうしたんだ?」
 ネスティが飛び込んできた召還獣に驚いていると、部屋に入ってきたトリスが目を丸くして言
った。
「……ネス!? どうして、こんなところにいるの?」
 ネスティは彼女の顔とライザーを交互に見比べると、やれやれ、といったふうに軽くため息を
ついた。

*


「じゃあ、何? このライザーは、やっぱり、ネスの召還獣なの?」
 ライザーを胸に抱えてトリスが尋ねると、ネスティは苦笑しながらうなずいた。
「ああ、間違いない。それは僕が誓約を結んでいる個体だ。しかし問題は……別に今召還したわ
けではないというのに、僕のところにやってきた、ということだな……」
 トリスは首をかしげた。
「う〜ん、無意識のうちに呼んじゃったとかってことは、ないの?」
 ネスティはあきれたように言った。
「……君はいったい、普段授業で何を学んでいるんだ、トリス? 誓約には相応の正しい手続き
と呪文の詠唱が不可欠なんだ。……召還術は、いい加減な姿勢では成功できない高度な技法で、
使用者には魔力の他に適正な技術知が求められるものだ。そんなこと、あるはずはない」
 トリスは口を尖らせた。
「そりゃまあ、分かってるけど。でも……現実にこうやって来ちゃったんだし。本当に、ありえ
ないの、ネス?」
 ネスティは淡々と言ってのけた。
「ありえない。……火にかけてもいない水が、常温で勝手に沸騰するはずはなかろう? それと
同じだ」
「むぅ……。勉強不足で、悪かったわね?」
 ネスティにぴしゃりと言われて、トリスは膨れっ面のまま、どん、と床に座り込んだ。ネステ
ィは、しかし、頭の中では別のことを考えていた。

 ……トリスの言うとおりかもしれないな。さっきの呪文はとても強力なものだったから……、
もしかして、呪文の誓約の力に引かれ、現在僕と誓約を結んでいるこのライザーが、勝手に呼び
出されて来てしまったのかもしれない。ともかく、

 ネスティは、横目で無邪気にライザーと戯れているトリスを見た。

 トリスには、早くここを引き上げてもらおう。どんな事故が起きるかも分からない。僕は対処
できるが、彼女は無理だ。……巻き込むわけにはいかない。

 ネスティは、大きく息を吸い込むと、トリスに言った。
「さあ、君はもう部屋に戻って休んだほうがいい、トリス」
 トリスは目を大きく見開くと、ネスティに言った。
「……ネスはどうするの?」
 ネスティは言った。
「さっきも言っただろう? 僕は、明日までにこの有機解析装置を、正常に作動させなければな
らないんだ」
 トリスは微笑んだ。
「だったら、あたしも手伝うわ!」
 ネスティはため息をついた。
「……いや、結構だ。君に手伝ってもらうべきことはない」
 トリスは、口を尖らせた。
「何よぅ、そりゃあ、あたしはネスみたいに頭も良くないし、その機械の構造は良く分からない
けど、でも……何か要るものがあったら取って来たりとか、そういうことだったらできるわよ? 
……第一、一人で徹夜作業なんて、つまんないでしょ?」
 ネスティは言った。
「いや、いいんだ、本当に手は足りている」
 トリスは、ネスティに尋ねた。
「どうして、ネスにしか動かせないの、その機械?」
「それは、僕が機界、ロレイラルの……」
 そこまで言ってネスティは、小さくため息をついた。
「召還術を熟知しているからだ」
 トリスは、納得したようにうなずいた。
「そうよね〜。今、派閥にいる中で、機属性の召還師で、なおかつ一番物知りなのはネスだもん
ね……」
ネスティは言った。
「この装置は……発動のために特殊な技法を用いるんだ。通常の召還術では対応できない……。
召還師は、普通、誓約の言葉で召還獣と誓約を結ぶ。しかし、この装置は、召還技術を駆使して
作られているにもかかわらず、通常の人間の'言葉'による認識速度を遥かに凌駕したスピード
で演算プログラムが作動するんだ。その高速の発話は、ある種のソニック・バリア、つまり、音
速の障壁を発生してしまう。このため、人間の思考スピードでは対処することができないから、
操作が不可能になってしまうんだ。機属性の召還師にしか、このソニック・バリアを突破する誓
約の呪文は唱えられない」
 トリスは感心したように言った。
「すごい機械なのね〜?」
 ネスティはうなずいた。
「ああ。これが完成すれば、召還術の次元が変わってしまうかもしれない」
 トリスは尋ねた。
「正式な名前は、何ていうの、この機械?」
 ネスティは……一瞬ぎくりとした顔をしたが、すぐに普通の顔になると事も無げに言った。
「この機械に……名前はない」
 トリスは、ふ〜ん、と言って、少しだけ目を見開いた。
「でも、他に機属性の人だっているでしょう? どうして、ネス一人にこんな大変そうな仕事、
押し付けるの?」
 ネスティは、トリスの言葉を遮るようにして言った。
「それよりも、課題をずっとやっていて、疲れただろう、トリス? もう今日は寝たほうがいい。
明日も朝から授業なんだから」
 トリスは、まっすぐにネスティの目を見た。
「……ネス、あたしに何か隠してる?」
 ネスティは、ぎょっとしたように言った。
「え? な、なぜだ、トリス?」
 トリスは、小さくため息をつくと立ち上がった。
「別に何がどうってことはないんだけど……。ネスがあたしに妙に優しいときって……何かある
ことが多いような気がするのよね?」
 ネスティは、息を殺してトリスの顔を見た。いつもと変わらない彼女の大きな瞳には……不安
げな自分の顔が映っている。
ネスティは、ため息をつき、苦笑した。
「……仕方ないな。それでは何か用があったら言うから、君はその辺にいていい。その代わり、
その入り口の付近にいて、絶対に装置に近づくな。それから……何か事故が起きたら、速やかに
僕の指示に従うんだ。いいな、トリス?」
 トリスは笑顔になると、うなずいた。
「うん、ネス!」



   4


 陽の差さない地下室にも、白々とした明け方の気配は浸透してきていた。トリスは、冷たい床
に腰を下ろし、膝を抱えたままネスティの作業を見つめていた。
 一通り確認が終わったらしく、彼は立ち上がると静かに口の中で呪文を詠唱しだした。その誓
約の言葉に……周囲の空気がひたひたと波打って行くようだった。細波のように打ち寄せる誓約
の'力'に、彼の身につけているマントが優雅に揺れた。トリスは考えた。

 ……いつも思うけど、召還術を使ってるときのネスって……すごいっていうか、こう、近寄り
がたいっていうか、……威圧感があるっていうか。

 誓約に、装置が反応した。それは青白く明滅しながら……金属質の高音を発した。
「作動したか!?」
 ネスティが目を開けると、機械はウウウウウウ、というような音を立て、突如金色のまぶしい
光を発した。しかし、それと同時に。

 ……ピピピピピ、ピルルルルルルル、ピピピピピゥイイイイイゥイイイイイイ!

 トリスの抱えていたライザーが、羽根をぱたぱたと羽ばたかせ、装置に突っ込んで行こうとし
た。ネスティは驚いてそれを見た。
「何!? この装置は……ライザーと同調してしまったのか……!」
 トリスは叫んだ。
「あ、ライザー! そっちに行っちゃ駄目!」
「トリス、危ない! 近づくな!」
 ネスティは、装置に駆け寄ろうとしたトリスを、後ろから肩を鷲づかみにした。その瞬間、ラ
イザーが、機械の中腹に飛び込んだ。同時に、凄まじい音量で金属質の鳴き声とも軋みともつか
ない音が部屋中に響いた。

 ピ、ピピピピピピピピピピピルルルルルルルッ! ビビビビビビビビビビビガガッガッガガガ
ガガガガガガガガガギギギギギガガガガガアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!!

 トリスは、耳を押さえて言った。
「……あ、頭が、割れそう! 何、この音!?」
「逃げろ、トリス!」
 ネスティはすぐさま、抱え込んだ彼女の肩を入り口の方に向かって押した。
「……だって、ネスは!」
「僕は大丈夫だ!」
 そう言いながら、ネスティは装置を凝視した。

 ……しまった! この装置はロレイラルの生物の言葉にしか反応しない……ということは、ラ
イザーの言葉に感応して、計算外の作動をしてしまったのか?

その瞬間、装置は目もくらむばかりの光を放って爆発し、発火した。

「き、きゃああっ! 火事! ネス、火が出たわ! あ! その設計図面も燃えてる!」
 トリスはネスティの手を振り解くと、床に置かれた図面のところに駆け寄った。そして彼女は咳
き込みながら、設計図面についた火種を必死に足で踏みつけて消そうとした。
「バカ!」
 ネスティは、そのトリスのウエストに手を回して後ろに引き戻した。
「そんなもの、どうでもいい! 怪我をするぞ、トリス!」
 トリスは振り返るとネスティの顔を見た。
「だって……何日もかけて、ネスが寝ないで書いた図面でしょ!?」
 ネスティは怒鳴った。
「図面なら、全部僕の頭に入っている! そんなもの、どうでもいい! さあ、早く避難しろ!」
 トリスが驚いてネスティの顔を見ていると、突然、ライザーと一体化した装置が、その張り巡
らされた金属のコードを、触手のようにトリスに伸ばしてきた。

 ギ、ガ、ガ、グ、ガ、ガガガガガガガガガガ、ガ、ガガガガガガ………。

「きゃあっ!」
 トリスが叫び声を上げるのと、コードが素早く彼女の身体に巻きついて引き上げるのが、ほと
んど同時に起きた。
「トリス……! くっ、この、化け物め!」
 ネスティは慌てて呪文を詠唱したが、装置は凄まじいスピードで暴走し始め、ネスティの命令
をはねつけた。

 ……音速障壁が……凄い速さで展開している……。

「……ネ、ネス……た……すけ、て……。く、るしい……」
 全身をコードで巻かれて引き上げられたトリスは、唯一自由な左手をネスに伸ばした。
「トリス……! 待っていろ、今、誓約を解除して緊急停止するからな!」
 ネスティがそう言った瞬間、装置はその触手のようなコードをすべてトリスに絡みつかせ、彼
女の身体は、コードが築き上げた繭のようなものの中に、すっぽりと覆われてしまった。
「トリス!?」
 ネスティは青ざめながらコードを手で引き裂こうとしたが、コードは簡単に彼を跳ね除け、ネ
スティは床に叩きつけられた。ネスティは、口元から流れ出した鮮血をその白い指先でぬぐうと、
装置をにらみつけた。

 ……速い……! 想定された音速障壁どころの騒ぎではない……。通常の誓約で不可能ならば、
直接、やるしかないか……!
 
「アクセス!」
 ネスティの言葉は、暗闇と発火する装置の間を鋭利な刃物のように切り裂いていった。一方、
金属のコードで全身を覆われながらネスティを見ていたトリスは、朦朧とする意識の中で考えた。

 ……だ……め……も、のすごく、ねむ、く、なって……。な……に……? ネス……の……首
から……たくさん……触手み、たいな……コードが、出て……る……? 

「トリス、しっかりしろ!」
 ネスティの叫び声を聞きながら、トリスは、意識を失った。



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