1
リィンバウムの南方、聖王国の都、ゼラム。蒼天の節、三の月。
盛夏。
日射しが、導きの庭園の芝生に白い波形を描いていた。ネスティはそのまぶしさに、思わず顔
をしかめた。
「……まったく、トリスのやつ……」
そう言って、彼は大きく息を吐き出すと、手にした杖を握りなおした。
「何度注意されたら気が済むんだ? あれほど出かけるのは課題を終わらせてからだと、口を酸
っぱくして言い聞かせたというのに……」
真夏の午後の太陽光線は、固く閉じられたネスティの服の襟元や袖口からも、じりじりと這い
上がるようにして熱を運んでくる。彼は、やれやれ、といった風に首を横に振った。どんなに気
温が上がっても汗一つかかない彼の身体は、傍目には暑さに強そうに見える。しかし。
……そろそろ……まずいな。まったく、連日これでは……体力の消耗が甚だしい。
ネスティは、肩で大きく息をした。
……どうなっているんだ? いくら真夏とはいえ……気温が高すぎる。
ネスティは眼鏡の位置を直すと、辺りを見回した。
おかしいな? ……どうせ庭園のこの木の下辺りで、暢気に昼寝でもしていると思ったんだが
……?
見上げると、庭園の中程に植えてある大木が、 そよそよとその明るい緑色の葉を誇らしげに
揺らしている。ネスティは木陰に入ると腰を下ろし、しばらく考えた。
……他にトリスが出かけそうな場所は、どこだ……?
そのとき。
「トリスおねえちゃ〜ん! そっち、ボールはそっちだよ〜!」
快活な小さい男の子の声が、向こうの方から響いてきた。
「よぉしっ! まかせて!」
その後を追うように、ネスティの聞き慣れた少女の声も、庭園の中を駆け抜けていった。彼は
それを聞きつけると同時に立ち上がった。
「……トリス!」
声は、木が生えている場所から少し南に下った場所から聞こえてきた。ネスティはつかつかと
早足でそちらに向かった。近づいていくと、彼はそこに見慣れたものが転がっていることに気が
ついた。
「……これは、トリスの靴と……?」
ネスティの目の前には、テニスコートほどもある広い池があった。この池は子どもたちが水遊
びをしても構わないように、一番深いところでも、子どもの膝の辺りに水面が来る程度に浅く掘
られている。中央には噴水が勢いよく水柱を上げていて、からからに晴れた空の下、いかにも心
地よく涼しげに見えた。
その池の傍らに……トリスの脱ぎ散らかした靴とタイツが転がっていた。
ネスティは、それを見て眉間に皺を寄せた。その瞬間、池の方から楽しげな水しぶきが上がり、
子どもたちの笑い声もわき上がった。ネスティは顔を上げてそちらを見た、そのとき、
「え〜い!」
と、トリスが言ってビーチボールに飛びつくのと、
「あっ! おねえちゃん! 危ない! 人にぶつかるよ〜!」
と、少年が叫ぶのと、
「……うわあっ!」
と、ネスティが声を上げるのが同時に起きた。
一瞬、ネスティの視界は真っ暗になった。それと同時にネスティの頭の上で、数人の子どもた
ちの声がざわざわと響いていった。
「……あ〜あ、おねえちゃんが思いっきりぶつかるから……ひっくり返っちゃったよ、このおに
いちゃん?」
「ご、ごめんなさ〜い! ケガはなかったですか! ……って、あれ、ネス!? どうして!」
「おねえちゃん、知ってる人なの?」
「……知ってるっていうか……、えっとね、みんな! あたし、今日はもうこれで! ちょっと
用事ができたから!」
「どうして〜? つまんないよ、おねえちゃんが抜けたら三人になっちゃうから、試合ができな
いじゃないか!」
「そうだよ〜! それに、今同点なんだぜ! 勝負がつくまで遊ぼうよ!」
「あ、う、うん、そうだね! そうなんだけど、でも……急用だから……」
「……ほう、どんな急用なんだ、トリス?」
トリスが硬直しながら後ろを振り向くと、彼女の兄弟子が、愛用の赤いマントについた埃を払
いながら、冷ややかな笑みを浮かべて起きあがったところだった。トリスは、しどろもどろにな
りながら彼に謝った。
「……ネ、ネス……! ごめんなさい! ……抜け出したことと、遊んでたことと、ぶつかった
ことなら謝るから! ね?」
ネスティは、ゆっくりと息を吐き出すと、目の前の少女を頭の天辺から足のつま先までとっく
りと見た。先ほどまで池の中を素足で走り回っていた彼女の脚には、水滴が幾本も筋をつけてい
た。彼女の小さな手も、腕まくりした制服の袖口も、それから短く切った髪の毛の先も濡れて、
真昼の太陽光線を賑やかに反射している。ネスティは大仰にため息をついた。
「……トリス、何だ、その格好は……?」
トリスは、え? と言った。
「あ、ああ、これ? ……暑かったし、それに、靴とか服とかを濡らすと、ネスに怒られるんじ
ゃないかと思って!」
ネスティの顔から、瞬時にして笑顔が消えた。同時に、トリスは反射的に両手を前で組み合わ
せると首をすくめた。
「君はバカか!?」
「ひっ!」
ネスティに怒られて、トリスは軽く目を閉じた。しかしそんな彼女の様子にもおかまいなしに、
ネスティは散弾銃のように言葉をまき散らした。
「まったく、小さな子どもじゃあるまいし、もう十七歳だろう? そんな格好で子どもたちと一
緒になって走り回って、恥ずかしいとは思わないのか!? 仮にも一応見習いとはいえ、君は蒼
の派閥の召還師の一員であり、ここは公共の場だ! それが! 課題をサボってほっつき歩いて
いるだけでも問題だというのに、探しに来てみればこの有様だ! いったい君は何を考えている
んだ? 今の君の姿を見たら、街の人間は召還師というものをどう思うか、想像できないの
か!?」
トリスは、ネスティの言い様に、さすがに頬を膨らませた。
「……何よぅ、この前、靴を履いたまま池に入って遊んでたら、'靴を濡らすな'って怒ったく
せに!」
ネスティは、あきれたように言った。
「この前って……革靴を濡らして台無しにして怒られたのはもう七、八年も前のことだろう?
……いいから帰るぞ、トリス!」
*
ゼラムの街は、どこもかしこも乾燥して白い砂埃を巻き上げていた。ネスティの隣を歩きなが
ら、トリスは考えた。
……ネスったら……さっきからずっと黙ったまんまだわ……。そんなに怒ってるのかな? そ
りゃ、ネスに言われた課題を放り出して遊びに行っちゃったのはまずかったけど……でも夕ご飯
までにはやるつもりだったし、それにこの暑さじゃ、日が落ちるまで勉強なんかする気になれな
かったんだもん……。
傍らを歩く彼女の兄弟子の顔色は、いつものように白い。黒髪が、その青みがかった白い肌の
色をいっそう引き立てるように、顔を取り巻いている。表情は……例によって外界と一定の距離
を取り続けようとするかのように、怜悧だ。しかし。
「ねえ、ネス、疲れてる?」
ふいにトリスに尋ねられ、ネスティは、少々あわてたように言った。
「どうしてだ、トリス?」
眼鏡の奥の彼の目は、少し当惑の色を見せている。トリスは、その目をのぞき込むようにして
言った。
「何だか……様子が変だよ?」
ネスティは軽くため息をついた。
「……誰かさんが言いつけを守らずに、ほっつき歩いているのを探し回っていれば、疲れもする
さ」
トリスは口を尖らせた。
「むぅ……。そりゃ、勝手に遊びに行ったのは悪かったとは思うけど……?」
そのとき。
「……ネス!? どうしたの!」
急にネスティの身体がぐらりと前方に揺れ、倒れかけた。彼は慌てて重心を取るようにして少
しかがみ込み、片手で額を押さえると、肩で大きく息をした。
「……何でもない」
ネスティはそう言って、身を起こした。
「嘘! 顔色が真っ青よ!? ……あ、あたしを探しに来たから? ……ごめん、ごめんね、ネ
ス!」
「いいから」
ネスティは、トリスの顔を見ると静かに言った。
「気にするな。暑さのせいだ。行くぞ、トリス」
2
その日の夕方、青の派閥の本部地下。
金属質の低い音が響いていた。ネスティは、床に座ったまま図面を確認し、首をひねった。
……おかしい。もうとっくに作動準備はできているのに……。いや、理論上の数値はあてにな
らないのが、この装置の特徴なんだが……それにしても……?
ネスティの目の前には、巨大な機械が据えられていた。それは……機械というよりは、何か巨
大な植物といった姿で、血管のように全身にコードをめぐらせ、呼吸するように低いきしみ音を
部屋一杯に充満させていた。機械から伸びた金属コードは、床にも天井にも絡みつき、広い地下
室を全面的に占拠していた。ネスティは、自分の腕よりも太いコードの一本にそっと触れ、誓約
の呪文を詠唱した。数秒後、ふいに、彼に触れられたコードは赤い光を放ちはじめた。それは、
きゅるきゅるきゅる、という高い音を立てながら、天井に向かって生き物のように伸び上がって
いった。
……今度こそ……いけるか?
ネスティはまばたきもせずに機械を見守ったが……赤い光は、やがてちかちかと弱弱しく点滅
し、また、消滅した。
ネスティは、ため息をついた。
「……どうしたんだ? ……なぜ、僕を拒む?」
そのとき、ぎいっと音をたてて、地下室の扉が開いた。
「いつまでかかっているんだ、このできそこないが……!」
ネスティは、音もなく立ち上がると、振り返ってその声の主の方を振り返った。
「……フリップ様。申し訳ありません。理論上は全て完璧に仕上げましたが……どうしても僕の
命令に反応しないのです」
フリップは、ふん、と言って、ネスティの顔と装置を見比べた。
「まあ、お似合いだな? できそこないの機械人形同士、どちらも役にたたん」
ネスティは無表情のまま、フリップに言った。
「……申し訳ございません」
フリップは、そのネスティの顔を目の端でとらえるようにして一瞥をくれると、すぐさま機械
に目を転じた。
「本当に、すまないと思っているのか?」
ネスティは、はい、と言って再度図面を凝視した。フリップは、チッ、と舌打ちをした。
「……貴様を見ていると、虫唾が走る」
ネスティがそれに答えず、作業を続行していると、フリップはさらにイライラした様子で言っ
た。
「ふん、……まあいい。明日だ」
ネスティは、え? と言ってフリップの顔を見た。フリップは、口端に冷ややかな笑みを浮か
べながら言った。
「明日までに、作動させてみろ」
ネスティは驚いた表情で言った。
「しかし、期限は来月では……?」
「口答えするな!」
ネスティの返答を遮るように、フリップは怒鳴った。ネスティは……押し黙ったままうなずい
た。フリップは、そのネスティの顔と機械を交互に見ながら言った。
「これを動かせるのは、おまえしかいないというのに……。まったく、話にならん。明日までに
少しでも作動するそぶりがなければ、しばらく貴様の薬の供給は差し止めさせてもらうからな?
貴様には金ばかりかかるというのに、たまに役に立ってもらおうと思うと、このザマだ。分かっ
ているのか、この派閥のお荷物め!」
ネスティは、はい、と言ってうなずくと、機械に近づいてコードの一本を丹念に見た。フリッ
プは、ふん、と言って腕組みをした。
「本当に分かっているのか!? 本体は順調に出来上がっているのに、一向に誓約に応じないと
いうのは、どういうわけだ、このできそこないめ! ……これさえ成功すれば、蒼の派閥は金の
派閥よりも、いや、デグレアよりも強大な力を入手できるというのに……。貴様を飼ってやって
いるのも、そのおまえの唯一の取り柄を役立ててもらおうという、上の方のお考えがあるからこ
そなのだ! 分かっているんだろうな、ネスティ・ライル?」
その名前を聞いて、一瞬、ネスティの眉毛の端がぴくりと跳ね上がったが、すぐさまもとの無
表情に戻った。
「……分かっています、フリップ様」
*
夕食時。
派閥本部の寮内にある食堂で、トリスは向かいに座った兄弟子の皿を見つめていた。
……いつものことだけど、ネスってば……本当に小食よね〜。
ネスティの皿の上には、野菜や卵を挟んだ小さなコッペパンが一つあるだけ。トリスは小さく
ため息をつくと、自分のお皿に乗った、ホワイトクリームがかかったパスタを一口分フォークに
巻きつけ、勢い良く頬張った。
……ん〜、おいしい! 今日は外で遊んだから、もう、お腹ペコペコだったのよね〜。このク
リームがまた……え!?
「んぐっ、ゴホッ、ゲホッ!」
急にむせて咳き込みだしたトリスに、ネスティは眉をひそめた。
「……どうしたんだ、トリス、みっともない。そんなに慌てて食べるからだぞ?」
トリスは慌てて水を飲んでパスタを飲み下すと、立ち上がってネスティの皿を指差した。
「ネ、ネス! それ、その、パンにかけてるの! マスタードかなんかだと思ったら、ガ、ガ、
ガムシロップじゃない!」
ネスティは、事も無げに言った。
「これか……? これは、今日は疲労しているから、効率良く脳に栄養源を供給しようと思った
までのことだ」
そう言って、ネスティは無表情のまま、ガムシロップを大量にかけたパンを淡々と口に運んだ。
トリスは……唖然とした顔のまま、がたん、と椅子に座った。
「不味くないの?」
トリスに聞かれて、ネスティは言った。
「問題ない。……別に、死ぬわけではあるまい?」
トリスは大きくため息をついた。
「……将来ネスのお嫁さんになる人は、大変よね?」
ネスティは、そのトリスの顔をちらりと一瞥した。
「人の心配より、自分の心配をしたらどうだ? ……課題はもう出来たのか、トリス?」
トリスは慌てて言った。
「あ、後で持っていくわよ! もう少しで終わるから! 本当よ!」
ネスティは、そうか、と言って最後のパンのかけらを飲み下すと、口端を軽くナプキンの端で
ぬぐった。
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