4
午後の日射しのまぶしい、職人通りの石畳の上を、ヴェルナーは、たどたどしく歩いていた。
「あと、もう、一週間を切っちまったな……」
ヴェルナーは、ぼそりとつぶやくと、ため息をついて錬金術工房の扉を叩いた。出迎えたのは、
左右違う色の、四つの瞳。
「あ、いらっしゃい、ヴェルナーさん!」
イングリドが言うと、ヘルミーナが、いそいそと依頼品の包みを取り出した。
「はい、これ! 先生から言づかってます!」
ヴェルナーは、ありがとうよ、と言って、品物を確認し、代金を支払って、工房の中を見回し
た。
「……まだ、採取から帰って来ねえのか、リリーは?」
イングリドはうなずいた。
「はい。レッテン廃坑ですから……、まだちょっとかかると思いますよ!」
ヘルミーナが、可愛らしい笑顔をヴェルナーに向けて、言った。
「何か、先生にご用ですか……? 何だったら、帰ってきたら、お伝えしますよ?」
ヴェルナーは力無く笑うと、二人の少女に、いや、いい、じゃあな、と言って、足早に立ち去
って行った。
ヴェルナーの足は、いつの間にか自分の店とは反対側に向かっていた。ため息をつきながら、
ぼんやりとした顔で……、しかし、他人から見れば、十分に目つきの悪い仏頂面で、歩きながら
ヴェルナーは、つぶやいた。
「……ちくしょう、何だってこんなときに、やたらと採集に出かけてばかりいやがるんだ、あい
つは……? ちっとも、会えやしねえ……」
いつの間にか、彼は、ザールブルグで一番にぎやかな、中央広場まで来ていた。周囲を子供た
ちが鬼ごっこをして走り回り、行き交う人々のざわめきや、店の売り子の威勢のいい声で、辺り
一面の空気が、にぎやかに膨張していた。そんな陽気な風景の中で、ヴェルナーは、一人、陰鬱
に大きく息を吐き出すと、噴水の際に腰掛けた。
……どうすりゃ、いいんだろうなあ……?
いつもはからかってばかりいても、愛する少女が死ぬ、いや、未来永劫消滅すると宣告されて
は、さすがのヴェルナーも、気が気ではない。しかも、彼女は、王室騎士隊が討伐に出るため怪
物がいなくなるこの四月は、目を輝かせて「採集の書き入れ時よ!」と言いながら、頻繁に遠出
をしてしまうのだ。
……一言、俺に護衛の仕事の声をかけてくれりゃ、いいものを……。
しかし、ヴェルナーは気がついていなかった。自分がいつもにも増して、ひどく不機嫌そうな
顔をしているため、リリーも、さすがに護衛の依頼をしづらくなっているのだ、ということを。
……いっそ、レッテン廃坑まで行くか? しかし、行き違いになったら、面倒だ。
ヴェルナーは、ため息をついて、噴水の池を見るともなしに見た。その瞬間、揺れる水面に、
勝ち誇ったような笑顔を浮かべた女の顔が映っているのが目に入った。
「レ、レト……!」
ぎょっとして振り返ったヴェルナーに、レトはその完璧に口紅で塗り上げられた唇の片端を持
ち上げて見せた。
「……いつまでたっても、ごはんを持って来てくれないと思ったら、こんなところで油を売って
いたのねェ……? もう、待ちくたびれたから、探しに来ちゃったわよ?」
レトは、目の覚めるような赤い、しかし不思議と上品な色合いの、ぴったりと身についた上着
と長いスカートを身につけていた。上着は衿こしが極度に高い位置についており、たっぷりと布
地を使った大きな衿が、そこから威圧的に肩まで伸びていた。首元は大きく開き、そこには彼女
の華奢な鎖骨を強調するかのように、銀の細いネックレスが、何段も重ねられていた。
上着のウエストは細く引き絞られていたが、逆にスカートの腰の部分は大きく張り出され、そ
れは美しい曲線を描いて、膝元で一旦細く絞られたかと思うと、裾に向かってゆるやかに広がり、
わずかに裾を引きずっていた。ヴェルナーは言った。
「何だ、その格好は……? 例の、薄っぺらい、ひらひらした服は、どうしたんだ?」
レトは、そのたっぷりとした髪を威厳をもって掻き上げると、形の良い唇に笑みを浮かべた。
「普通の人間らしくしてみたの。だぁって、いつもの格好じゃ、街に出るのに、目立ちすぎるも
の〜!」
レトの掻き上げた髪は、午後の日射しを反射してきらきらと照り輝き、人通りの多い中央広場
では、それとともに、どよめきとも歓声ともつかない声が上がった。周囲の人々は、男も女も、
皆目を丸くして、あるいはうっとりとため息混じりに、女神の姿に見とれていた。ヴェルナーは
頭を抱え
「……十分、目立ってるぜ、おまえ……」
レトはその紫石英のような瞳を輝かせた。
「当然、よ……。あたしを誰だと思っているの〜 世界中のあらゆる美と恋の源泉なのよォ?
ふふふふ……」
ヴェルナーは、周囲の視線が自分たちに突き刺さるのを感じ、慌てて立ち上がってレトに言っ
た。
「……いいから、とっとと店に帰るぞ! おまえの食い物なら、もう引き取ったからな!」
ヴェルナーに強引に肩を押されて歩き出しながら、レトは不満そうに唇を尖らせた。
「うん、もう……。せっかく久しぶりに、にぎやかなところに出て来たんだもの、もう少し、ゆ
っくりしていったって、いいでしょう? ……あらァ! ねェねェ、ヴェルナー! あそこに、
すっごくいい男がいるじゃない! ねェ、あれ誰? ……あたし、あっちに取り憑こうかしらァ
〜?」
レトは、はしゃいで目をきらきらと輝かせながら、ジグザール城の門の前を指さした。ヴェル
ナーは、レトの、金色の長い爪を生やした人差し指の示した方向を見て、首を軽く左右に振った。
「……ウルリッヒか……。王室騎士隊の、副騎士隊長だ。……やめとけよ、グラセン鋼で作った
武器よりも、お堅い男だぜ?」
それを聞いてレトは、紫色に光る双眸をますます妖しく輝かせると、長く尖った舌を出し、口
端を、ちろり、と舐めた。
「あァら、いいじゃない……。ますます、気に入ったわァ……。あたし、お堅い、いい男を狂わ
せるのが、だ〜い好きなのよォ! ……ち、ちょっと、何よ、ヴェルナー、乱暴に引っ張らない
でよ! いったぁ〜い! 髪の毛までひっつかまないでよォ……、もう!」
「うるせぇ!」
ヴェルナーは眉を吊り上げ、レトの腕を、その長い髪ごとむしり取るようにして引っ張ると、
その場を去ろうとした。ヴェルナーに引きずられるようにして歩きながら、レトは言った。
「ンもう! 冗談だってば! ごく軽〜い冗談よォ! そんなにおっかない顔、しなくてもいい
じゃない〜! 契約が完了するまでは、あたしは、あんた以外に取り憑けないんだもの〜! …
…きゃあ! 何、この毒々しい気配は! ううっ、は、吐きそう……」
「おい、どうした……?」
レトは突然、胸を押さえてその場にうずくまった。ヴェルナーが驚いて尋ねると、レトはぜい
ぜいと肩で息をしながら言った。
「……き、気持ち悪〜い……。この禍々しくもおぞましい気配は……、ア、アルテナ……?」
ヴェルナーは、自分たちのいる場所を確認してうなずいた。
「なるほどな……。おまえ、女神アルテナが、嫌いだったんだよな。見ろ、すぐそこのフローベ
ル教会は、古くからアルテナを信仰している教会だ」
ヴェルナーの指さした方向を見たレトは、髪の毛を逆立てて金切り声をあげた。
「きゃああ! もう、嫌! 何で人間は、こんな汚らわしいものを建てるのよォ……」
そう言って、その場に本格的にへたり込んだレトに、頭上から穏やかな声がかけられた。
「どうか、なさいましたか……?」
白いゆったりとした僧衣を身にまとい、おちついた物腰に静かな微笑みをたたえた若きフロー
ベル教会の神父は、心配そうにかがみ込み、見知らぬ女性に優しく話しかけた。しかし、声をか
けられたレトは……、差し出された手を、思い切りよくはねのけると、叫び声をあげた。
「ぎゃあっ! な、何よあんた! こ、こっちに来ないでえっ! ううううう〜……」
ヴェルナーは、ため息をつくと、驚いた顔をしている神父に言った。
「悪いな、クルト神父……。こいつはアルテナ様が嫌いなんだとよ。外国の人間なんでな」
クルト神父は、静かに居住まいを正すと、ヴェルナーの顔を見て言った。
「そうですか……。信仰の問題は多岐に渡るもの。違う神を信奉するがゆえに、アルテナ様を疎
んじる方がいらっしゃったとしても、仕方がありません。ですが……、アルテナ様は、たとえ他
の神々を信奉する方あっても、その慈愛の御手を差し延べられるはずです。……助けが必要なら
ば、いつでもおっしゃってください。ご加護を……」
そう言って、クルトは、ヴェルナーに礼儀正しく頭を下げると、そっと教会の扉を開け、中に
入っていった。
「おい、大丈夫か……?」
ヴェルナーが聞くと、レトは、目を赤くしながら恐ろしい形相で言った。
「……な、何よ、今の男は! アルテナっぽいっていうか、アルテナくさいっていうか、全身ア
ルテナ臭ぷんぷんっていうか、頭のてっぺんから足のつま先まで、ものの見事にアルテナ漬けっ
て感じだったわよ〜!」
ヴェルナーは言った。
「しょうがねぇだろ……? あいつは、アルテナを祀っているこの教会の神父だからな」
レトは、きっ、とフローベル教会を見据えると吐き出すように言った。
「それで……! アルテナのインチキな教えの毒牙にかかって、あんなに汚らわしくなっちゃっ
たのね? ……ああ、もう! いい男なのに、もったいないわ〜!」
ヴェルナーは、やれやれ、といった風情で首を横に振り、手を差し延べた。
「おい、いいから、もう行こうぜ?」
レトは、ヴェルナーの手につかまって立ち上がると、よたよたと歩き出した。
その一部始終を、じっと見ていた黒髪の少女がいた。キャラバンの馬車の前に座り、異国情緒
溢れる占い師の衣装を身にまとったその少女は、ヴェルナーとレトの後ろ姿を、食い入るような
眼差しで見送った。
5
窓のない雑貨屋のカウンターには、眉をつり上げた赤い服の女神が、脚を組んで偉そうに腰掛
けていた。
「おい、レト、そんなところに座るんじゃねえ!」
カウンター越しに背後からヴェルナーに怒られて、レトは、ふん、と鼻先でふて腐れたように
息を吐き出すと、腕と脚を組んだまま、ふわふわと空中に浮かび上がった。
「……あのとき、アルテナに力を奪われさえしなければ……、こんな、つまらない目に遭わずに
済んだのに〜!」
レトは、ぶつぶつ言いながら、空中を旋回し、やがて、止まった。ヴェルナーは、言った。
「おまえが勝手に人間の魂を奪い取って、消して回るから、アルテナ以下、神々の怒りを買った
んだろ? いくら契約を望む人間がいたからって、それはやりすぎだったんじゃねぇのか……?」
レトは、腕組みをしたまま、くるり、と身体を上下反転させた。そして、頭を下に向け、その
たっぷりとした髪を雑貨屋のカウンターに垂らしながら、ヴェルナーをにらみつけた。
「……何も知らないくせに……、分かった風なことを言わないでよ! ……人の子の魂を奪うの
は、何も私の一存ではないの、それが彼らの望みでもあるからなのよ……!」
ヴェルナーは、その剣幕に少し驚きながら言った。
「馬鹿言え……、そんなもの、望むやつが、どこにいるんだ?」
レトは、ふふ、と息を漏らすように笑うと、再び頭を上にした。
「……ねェ、ヴェルナー。あんたに、いいことを教えてあげるわ。世界の真理よ。歴史において
……、可能性は決して再生せず、一切は、ただ、繰り返すのみ。人の子は、何度転生を繰り返し
ても、それを覆すことはできないの。そう! 今生で手に入らないものは、未来永劫、決して手
には入らない……。人の子がそれに耐え得るのは、常に忘却のまどろみの中にあるから……、た
だ、それだけ。……ねェ、前世や来世のことを、あんたは、覚えているの?」
ヴェルナーは、レトを見上げて言った。
「……何だよ、その、‘来世を覚えている’ってのは……?」
レトは、くすっと笑うと、また、ふわふわと店の中を浮遊し始めた。
「これだから人の子の想像力は……、貧しいわねェ! いい? 時間は過去から未来に向かって
流れるもの、あんたたちはそう認識しているかもしれないけど、神の視点から見れば、それは大
いなる誤り。時間は……、直線的に流れるものではなく、延々と循環する。そう! あんたたち
にとっては、‘今までに起こったこと’と、‘これから起きること’との間には、天と地ほどの
差があるかもしれないけれど、神から見れば……、それとこれとの間に、違いなんて、ないのよ。
たまぁに、そのことに気がついた人間が、予言者と呼ばれることがあるようだけど、ね……」
レトは、つ、と空中で静止すると、ヴェルナーの顔を見て、薄い笑みを浮かべながら言った。
「へえ〜、こんなことを聞いても、頭っから否定したり、怯えたりしないのね、あんた……、見
所あるわァ〜……」
ヴェルナーは言った。
「いや……、そういえばそんな話を……、何かの本で読んだことがある。時間認識の世界観には、
たしかそんなやつもあったっけ。……うろ覚えだがな」
レトは、ひゅう、と軽く口笛を吹くと、言った。
「だったら話は早いわ。ねェ、ヴェルナー。あたしは、決して自らの傲慢で人の子の魂を奪い、
滅している訳ではないのよ……。いい? この世界で、人の子にとって一番美しく、素晴らしい
ものは、恋! 恋なのよ……。人への思慕、芸術への熱狂、学術研究への情熱、武芸や技術への
飽くなき向上心……、人の子の世は、恋で溢れているわ……! 恋こそが歴史を突き動かし、世
界を発展させる。それを否定し、人の子は一切の自然の範を超えるな、と押さえつけるのが、ア
ルテナのやり方なのよ? ……あたしのほうが、よっぽど、人の子の真実をよ〜く理解している
わァ!」
レトは、その紫色に輝く双眸でヴェルナーの顔をのぞき込み、口端に笑みをたたえ、ゆっくり
と、低い声で言った。
「……あんたに聞くわ、ヴェルナー。もし、自分の望む相手が、あるいは望むものが、未来永劫、
自分の手には入らないということを悟ってしまった人の子が……、恋するものから、永遠に拒絶
されていることを知ってしまった人の子が……、自らを滅さずにいる理由なんて、あるのかしら
ァ?」
そのとき、雑貨屋の中に、凛とした、厳粛な音楽のような声が響いてきた。
……相変わらず、ですのね、お母様……。
「げっ! ア、アルテナ〜!!!」
レトはそう叫ぶが早いか、しゅるしゅると音を立てて旋回し、すぽん、とガラス鉢の中に収ま
ってしまった。鉢の中で、例の金魚に身を変えたレトは、慌てたように、いくつも空気の泡を吐
き出した。
……また、水の中に、お逃げになったのですね、お母様……、いくらそこには私の力が及ばな
いからと言って……、少し、卑劣すぎますわよ……。
女神アルテナの声は、幾千もの鈴を同時に振り鳴らすような音をたて、窓のない雑貨屋の中の
空気を、ひんやりと清浄に充たしていった。魚に身を変えたレトは、怒りで顔を真っ赤にしなが
ら言った。……もっとも、もともと赤いのだが、ヴェルナーには、やはりそれが、よく分かる。
「うっるさいわねえ! この偽善者! な〜にが、自然の範を超えるな、よ! あんたはそう言
って、人の子が自らの運命を創生することを否定し、安寧という名の諦念を押しつけているだけ
なのよ! そう! 優れたもの、美しきもの、強きもの! あんたはそれらの価値を地に落とし、
負け犬の不平不満に都合のいい、嫌みったらしい教えを焚きつけているじゃない? 恋を、情熱
を、自然の範を超えようとする一切の人の子の熱情を否定して、ただ、家畜のようにぼんやりと、
あんたを信奉してあれ、と言う! それが心と体の安寧だなんて屁理屈をつけて! 医薬と健康
の女神ィ? ハッ! 笑わせるんじゃないわ! あんたはねェ、最悪の欺瞞女よ!」
穏やかな声が、悲しげに店の中に響いた。
……その勝手な論法で……、人の子の魂を、いくつ、消滅させて来たのですか……? 魂は、
不可触。人の子は、未来永劫、たとえ何度繰り返されようとも、自らの生に耐えねばなりません
……。それが人の子の真実、そして世界の真理……。われわれに成し得ることは、せめて、その
痛みに耐え得るよう、人の子に安らぎを与えることのみ……。なぜ、お母様はそのように、人の
子の欲望を煽るのですか……?
魚になったレトは、怒り心頭に達した、といった口調で言い返した。
「それが偽善だっていうのよ! いい? 私の歴史は、人の子が生まれたときより生じ、人の子
の歩みとともに、私は在るのよ! 私こそが、真の神! あんたが後からしゃしゃり出て、あた
しのやり方を片っ端から否定して、挙げ句の果てにはこのあたしを神界から追い出して……!
おかげで、それ以来ずっと、つっまんない歴史が続いているじゃない? 恋と熱情の否定された、
冷え切ったこの歴史がねェ!」
おごそかなため息が、雑貨屋の中をこだました。
……お母様のやり方では……、人の子の世に争いは耐えませんわ……。お気の毒に……、まだ、
お気づきではいらっしゃらない……。お父様も、お嘆きですわ……。早く悔悛なさって、神界で
の裁きを受け、こちらにお戻りになってください……。
レトは、ぷかっと泡を吐き出した。
「い・や・あ・よ! だって、つまんないんだもん! あんたの取り澄ました顔を見て過ごすく
らいなら、たとえこの身を魚に変えようとも、あたしを求める人の子たちと、永遠に契約を結ん
で暮らしたほうが、よっぽど楽しいわ!」
アルテナの声が、静かに響いた。
……仮にも一応、神であるあなたが……、そのようなことをおっしゃるなんて、何と、嘆かわ
しい……。
レトは、魚になった口を目一杯広げると、目をつり上げて言った。
「……るっさいわねェ! 偉そうに、あたしに説教する気〜〜 あんただって、十分、みっとも
ないわよ! いっつも、いっつも、お付きのプロイティダイの三姉妹を、ぞろぞろ、ぞろっぞろ
引き連れて、たま〜に、物好きな男が追っかけてくりゃあ、矢を放って追っ払って……! いや
あねえ! この、ヒステリーお局集団の、万年日照り女ァッ!」
一瞬、雑貨屋の中が、しん、と静まりかえった。不気味な沈黙が続き、やがて、この世のもの
とは思われない、大地を叩き割るような、女神のすさまじい怒りの声が店中に響いていった。
………………………………なぁんですってえ〜〜〜〜〜………!?
その瞬間、ばんっ! という大きな音がして、ヴェルナーの目の前に置いてあった地球儀が破
裂し、粉々になって四方に飛び散った。ヴェルナーは咄嗟に両腕で顔をかばったが、地球儀の欠
片の一つは彼の右頬をかすめ、一筋、薄く血が流れて来た。ヴェルナーは、右の手の平で、思い
切りよく、カウンターを、どん! と叩いて、立ち上がった。
「いい加減にしろ! 神様だか何だか知らねぇが、ここは俺の店だ! 勝手に暴れるんじゃねぇ
! 母娘喧嘩なら、表に出てやってくれ!」
ヴェルナーがそう言った途端に、先ほどまでのひんやりとした気配が消え、店の中は、再び普
段の雰囲気に立ち戻った。ヴェルナーはため息をつくと、支柱だけになった地球儀とガラス鉢の
中の魚を交互に見て、言った。
「……おい、これを壊したのは、仮にも一応、おまえの娘だろ? 母親なら……、きっちり弁償
してもらおうか……?」
しかし魚は、つぶつぶと泡を吹きだしたまま、何もしゃべらない。ヴェルナーは、軽く舌打ち
をした。
「ちっ……、都合のいいときだけ、魚の振りをしやがって……」
ヴェルナーは、首を左右に振ると、再び椅子に腰掛け、地球儀の支柱を指でなぞりながら、一
人、つぶやいた。
「……ったく、あいつ以外に、これを壊すやつがいるとは、……思わなかったぜ」
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