口紅金魚



      
   

   1


 春の暖かな日射しが、錬金術工房を、柔らかく暖めていた。錬金術師の少女は、作り上げたば
かりのアイテムを手に、一人、つぶやいた。

 ステキ……こんな綺麗な色の口紅、初めて見たわ……。ラフ調合した甲斐があったわね。
 ……………………んー、もう我慢できない! ……ちょっとだけ、つけちゃえ!

 午後の白い光の中、首の周りのカラーを外し、いつもはひっつめて、フードで覆っている美し
い榛色の髪の毛を下ろした少女は、鏡に向かって、ごくり、と唾を飲み込んだ。

 だ、誰も、見て、ないわよね……?

 そう思いながら、彼女は、出来たての口紅を手に取った。

 うん! 我ながら、見れば見るほど綺麗な色に出来上がったわ、この、「魅惑の口紅」……。
よお〜し! 
 …………………………どう、かな?

 口紅を塗った自分の顔をまじまじと眺めていると、背後で、がたん、と音がした。振り返ると、
赤茶色の髪の男が、ぼんやりとした目つきで、自分のことを見ていた。

*


 リリーは気がつくと、彼の腕の中にいた。至近距離で見る彼の瞳は、いつもとは違った輝きを
見せていた。その瞳が自分の顔を映しだし、顔の像は次第に大きくなり、やがて見えなくなった。
 
 唇を奪われたことに気がついたのは、数秒後。

 しかし、そのことよりも、リリーの頭の中に閃いたのは、自分が調合したアイテムの、強力な
副作用についてであった。

 ……トロイヤの丸薬が、変な風に効いちゃったのかしら……、とにかく、ヴェルナー、変だわ! 
……いつも変な人だけど、でも、普通じゃないわ! 何とかしなくちゃ……。

 そう考えながら、リリーは自分の腕をヴェルナーの胸に押し当て、鍵の壊れたドアを無理矢理
にこじ開けるようにして、彼から身体を離した。
「ね、ねえ、ヴェルナー、あの、その、き、今日は、何の用事で、……きゃっ!」
 しかし、すぐに捕まって、また、唇を奪われたリリーは、もがきながら、その腕の中を脱出し
た。

 ど、どうしよう。
 この口紅、作るべきじゃ、なかったわ。こんな、いつも無愛想で、あたしに文句ばっかり言
ってる人が、こんなになっちゃうんだもの。魅了の効果、すごいかも。あっ、これをモンスタ
ーに使ったら、戦闘が楽になるかなあ〜って、……また、やだ〜!

「お、落ち着いてよ、ねえ。い、依頼品なら、できているから。お、お代はまた後でもいいわ。
ね? ちょ、ちょっと?……」
 そう言って訴えるリリーを抱きしめながら、ひどく大切なものを眺めるような目で見て、ヴェ
ルナーは言った。
「……いつも、からかってばかりで、その……、悪かったな」
 リリーは、全身の血液が逆流していくような感覚を覚えた。

 うそ。ヴェルナーが、人に、謝ってる?

 しかし、ヴェルナーは、そんなリリーの様子にもおかまいなしに、ため息混じりに言った。
「おまえが……、好きなんだ。ずっと、前から……」

 す、すごい、この口紅の効力、犯罪的だわ。
 どうしよう? と、とにかく、なんとか言いくるめて、逃げなくちゃ!

「あの、ね。そ、そういう話は、また、後で、しましょう? ね? 仕事で来たんでしょう? 
 あ、あの依頼品の国宝布、できてるわ。だから……」
 ヴェルナーは、リリーの目をのぞき込むようにして、言った。
「そんなもの、おまえに会うための口実だ……」

 やばい。やばいわ。引き網粉かければ、治るかしら? ち、近くに、ないわ……。とにかく、
なんとかヴェルナーを、元に戻さなくちゃ! あ、これはどうかしら? この至近距離じゃ、あ
たしにもかかっちゃうかもしれないけど、仕方ないわ! え〜い、一か八か!

 リリーは、机の上にあった安眠香を、ヴェルナーに向かってぶちまけた。

*


 ヴェルナーは気がつくと、錬金術工房にいた。目の前では、リリーが床に倒れていた。
「……ど、どうしたんだ? たしか、俺はここに依頼品を引き取りに来たはずじゃあ……」
 リリーは、いつもはひっつめている長い髪を下ろしていた。周囲の床には安眠香の容器や、調
合機材が散乱していた。途端に、先ほどまでの記憶が、ヴェルナーの脳裏に鮮明によみがえって
来た。
「うっ……! 俺は、何てことをしちまったんだ……?」
 顔面蒼白になったヴェルナーがそう言った瞬間、しゅうしゅうという音がして、リリーの傍ら
に落ちていた口紅から白い煙があがった。
「な、何だ?」
 ヴェルナーが驚いて見ていると、煙は急にぐるぐると旋回し、ふいにまばゆい金色の光に変わ
った。光は目もくらむほどの力強さで部屋の中を煌々と照らし出し、ヴェルナーは、思わず腕で
顔を覆った。その瞬間、光の中から、突如として、一人の女が現れた。リリーがつけていた口紅
と同じ色の、たっぷりとした水量を誇る滝のような長い髪を腰まで垂らした女は、空中で静止す
ると、腕組みをして、ヴェルナーをにらみつけた。
「な〜によォ、ぶつくさ言ってさ。あたしはあんたの気持ちに、ほんのごくわずかばかり、手助
けしただけなのよ? だいたいねェ、愛し合っている者同士のキスからしか、あたしは実体化で
きないの! ねェ、この娘のこと、好きなんでしょ?」
 ヴェルナーは、驚愕しながら言った。
「おまえ、何者だ!?」
 女は、にやり、と笑って、滑らかな白銀色の生地の、ドレープが細かく入ったドレスの裾をゆ
らゆらと揺らしながら、空中で半身を傾けた。動くと、女の露わになった白い肩に下からねじり
上げられるように巻き付いた、光沢のある肩紐や、身体全体に巻き付くようにからんだ服の生地
が、複雑で美しい陰影を見せた。
「あたし? やだわ〜、人間って、すぐそれを聞くのよねェ……。ま、いいわ。人の子は、あた
しのことを愛と美の女神と呼んだかと思うと、他方では夜魔だの淫魔だのと呼んだりもする。そ
れは名づける者の勝手な理屈だけど……、そうねェ、あんたとは、しばらくおつき合い願うこと
になるから、名前がないと不便かしらァ? だったら、とりあえず、レトって呼んで!」
 ヴェルナーは言った。
「レト……? 女神アルテナの、母神の名前か?」
 レトは、空中で身を垂直に起こすと、その、流れるような美しい形の眉毛を、片方だけ、ぴく
り、と持ち上げた。
「あァら、よ〜く知っているじゃない、あんた。でもねェ、言っておくけど、あたしがあの娘の
母親なんじゃなくて、あの娘が、あたしの、娘なの!」
 ヴェルナーは、小さくため息をついた。
「……どっちだって、同じじゃねえのか?」
 レトは、ヴェルナーに近づいて、妖しく紫石英のように輝く瞳で、彼の顔を至近距離でのぞき
込むと、きつい口調で言った。
「ち・が・う・の・よ! その辺りをはっきりさせといてもらわなくっちゃ、嫌よ。なんたって、
あんたには、このあたしが、これからしばらく取り憑くことになるんだもの。……気をつけてね
ェ〜 あたし、アルテナのこと言われるの、大っ嫌いなのよ! 何で人間には、あたしより、ア
ルテナのほうが有名なのよ! あ〜、ムカつく!」
 ヴェルナーは、眉をひそめて言った。
「おい……。取り憑くって、……どういうことだ?」
 レトは、くすくす笑いながら、空中をひらひらと舞った。白銀色のドレスが、光の加減で桃色
にも青色にも光って見えた。舞いながら、楽しそうにレトは言った。
「だぁって、契約だものォ! この娘、恐れ多くも、この、あ・た・し・を! 呼び出したのよ
! そして契約の手順にしたがって、あんたと口づけを交わした。つまりね、あんたとこの娘が
結ばれるまで、あたしはあんたに取り憑くことになったってわけなのよ!」
 ヴェルナーは、目を白黒させながら聞いた。
「契約、だあ?」
 レトは、再び空中に静止すると、にんまり笑った。
「そ、契約。この娘、知らなかったみたいだけど、ま、きっちり誓約通り手順を踏んじゃったん
だもの、仕方ないわァ。後は、月齢周期で言えば、次の満月の夜までに……、あんたと結ばれな
かったら、代償として、私はこの娘の魂をいただいていくことになるんだけどォ?」
 ヴェルナーは、驚きの声をあげた。
「何だよ、魂をもらっていくっていうのは! リリーを……、殺す気か?」
 レトは、ひゅう、と小さく口笛を吹いた。
「あんた、それって大きな誤解よ! 魂をあたしに奪われた人間はね、死ぬんじゃないの、消滅
するのよ! そう、二度と転生することはないわァ……。ま、それを望む人間もいるんだから、
そんなにおっかない顔、しないでよ? ふふ、うふふふふふふ……」
 ヴェルナーは、レトをにらみつけながら、言った。
「……おい、契約は、撤回できないのか〜」
 レトは、口端に、ぞくりとするほど妖艶な笑みをたたえた。
「それは、できないわ。人の子の世の契約は、破棄したり変更したりすることができるかもしれ
ないけど、神の契約は、未来永劫、書き換えはできないのよ」
 そう言って、レトは、面白そうにヴェルナーの顔を見ると、さらに言った。
「ま、いいじゃない。契約が完了するまでは、あたしはあんたに取り憑くけど、その間、他の男
はこの娘には、絶対に手は出せないのよォ! ……嬉しいでしょ? あんた、運がいいわよ! 
たまたまあんたが一番乗りだったんだもの! ……普通、この契約の術を知っている人間だった
ら、望む相手の目の前で、これを行使するはずなんだけどねェ。ふふふ……。そう。この娘を憎
からず思っている男なら、絶対に、あんたと同じことをしたはずなのよ?」
 ヴェルナーは、眉間に皺を寄せたまま、横を向いた。
「……何が、言いたいんだ?」
 レトは、からかうような口調で言った。
「つ・ま・りィ、相手は、あんたに限らなかったのよ……。でも、あんたが一番最初に契約の場
に現れたから、あたしはあんたに取り憑くことになったってわけ! あたしはね、愛の女神とし
て、この娘が恋を成就させるまでは、ここにいなくっちゃ、いけないの。っていうか、ぶっちゃ
けていうと、この娘が誰かと結ばれるまで、帰れないのよォ〜。やだわァ。もっと積極的な娘だ
ったらよかったのにさ」
 ヴェルナーは、首筋に冷や汗をかきながら言った。
「……誰でもって、俺は、そんな……」
 レトは、くすっと笑った。
「あたしが呼び出せたってことはねェ、この娘だって、あなたのこと好きなはずなのよ……。極
鈍だけどねェ。ここまで鈍い娘、見たことないわ」
 レトは、ふっと笑うと、床に倒れたまま眠っているリリーの顔を見た。
「ま、愛の女神としては、今回の契約は、腕が鳴るわねェ!」
 
 

   2


 雑貨屋の若き店主は、カウンターの上に置いた、水を張ったガラス鉢をながめて、ため息をつ
いていた。鉢の中には、小振りな魚が、ひらひらと、自らの美しい鰭を自慢するように泳いでい
る。
「何よォ〜 文句あるの、ヴェルナー?」
 鉢から、しなやかな毛皮を指先で滑らすような声が響いてきた。
「……だらけだ」
 ぼそり、とヴェルナーが言うと、魚は、つぶ、つぶ、と、大きく二つ、泡を吐いた。
「……なあにィ? 聞こえなかったわよォ!」
 ヴェルナーは、ぎろり、と魚をにらみつけた。 
「文句だらけだって言ったんだよ!」
 魚は、今度は細かな泡をたくさん吹き上げた。
「うふふふふふ……。私は気に入ったわ。このお水、そこにある井戸の水ね? すっごく綺麗! 
気分いいわァ……。それに、このガラスの鉢も、しゃれた細工で、あたし好みよ。あんた、いい
趣味してるじゃない、ヴェルナー? いいから、早く食べるものを持ってきてよォ!」
 ヴェルナーは、カウンターの上に頬杖をつくと、また、深くため息をついた。

*


 数十分前、ヴェルナーの雑貨屋までついてきたレトは、店の中を好奇心に輝く目で見回して、
言った。
「へえ〜、面白いものがたくさんあるじゃない? ここ、気に入ったわ!」
 ヴェルナーは言った。
「おい……、品物に触るなよ……、って言ってるそばから、何しやがるんだ、レト!」
 レトは、金色に輝く長い爪を生やした、しなやかな人差し指を、カウンターの向こう側の棚に
向かって、ちょい、ちょい、と軽く振った。すると……、棚の奥から、ヴェルナーがしまってお
いた、異国のガラズ製の大振りの鉢が、空中にふわふわと浮き上がってきた。鉢は、呆気にとら
れているヴェルナーの目の前で、たん、と軽い音をたて、カウンターの上に静止した。レトは、
満足げに微笑むと、ヴェルナーに言った。
「ちょっと、これに水を汲んできてちょうだい!」
 まったく、何で俺がこんなことを、とヴェルナーが、ぶつぶつ言いながら表の井戸から水を汲
んで店に戻ってくると、レトは嬉しそうに手を叩いた。
「きゃあっ! いい水ね! ふふふ、素敵よ……」
 そう言った瞬間、しゅるしゅると音を立てながらレトの身体は旋回し、すとん、とヴェルナー
が抱えたガラス鉢の中に収まってしまった。鉢の中で、レトは、小さな魚に身を変えていた。魚
は、レトの髪の色と同じ、艶やかな口紅色の鱗を輝かせていた。驚いて見ているヴェルナーに、
レトは言った。
「なァに〜? びっくりしたァ? うふふふ……、人型を保っていると、疲れるのよ、あたし。
余計な力を消耗したくないもの……。ね、水は毎日、取り替えてね! 水が濁ると、美容に悪い
のよォ〜」
 ヴェルナーは、そっと、鉢をカウンターの上に置いた。
「……なるほどな。さすがは、言い伝えでは、魚に姿を変えて、神々の審判から逃げた女神だ…
…」
 レトは、いや、ひらひらした背びれや尾ひれをはためかせた小さな魚は、急に不機嫌そうに言
った。
「ちょっとォ、その話、やめてくれない? あたしだって、好きでそうしたわけじゃあ、ないん
だからね! ……まったく、ぜ〜んぶ、アルテナが悪いのよ! あの娘のせいで、私は愛と美を
司る、第一女神の座を奪われたのよ! あ〜あ、腹が立ったら、おなかが空いて来ちゃっ
たァ。ねェ、ヴェルナー、ごはんちょうだ〜い!」
 ヴェルナーは言った。
「……何だ? パン屑でも食うのか、おまえ……?」
 魚は、ぷかっと大きく泡を吹きだした。
「何よ、それ。あたしをその辺の魚と一緒にしないでちょうだい! いい? あたしは、美と愛
の女神なのよォ〜 その、あたしの栄養源っていったら、決まってるじゃない!」

*


 翌日の朝、ヴェルナーは、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、市場に引かれていく仔
牛のような目をして、職人通りを歩いていた。
「……やっぱり、あそこに頼むしか、ねえか……」
 そう独り言を言ったヴェルナーは、ふう、と大きくため息をついた。
「酒場に依頼したら……、ハインツの旦那は、そりゃあ、顧客の情報は絶対に漏らしやしねぇだ
ろうが、旦那自体にいろいろ勘繰られそうだし、なあ……」
 ヴェルナーは、頭を左右に振った。すでに目的の工房は、目の前にある。
「でも、なあ……。変に思われや、しねぇかなあ……? だいたい、昨日の今日じゃ、あいつに
会いづらいしな……。やっぱり、やめるか……?」
 そう考えて、ヴェルナーが踵を返して帰ろうとした瞬間、目の前の錬金術工房の扉が開いた。
それと同時に、威勢の良い声が響いてきた。
「じゃあ、また頼むぜ、リリー!」
 そう言いながら出てきた、黒髪のたくましい冒険者の男は、工房の中を振り返ると、陽気な笑
顔を見せた。彼について表に見送りに出てきたリリーは、にっこり笑って言った。
「良かったわ〜! 品物、気に入ってもらえて。じゃあ、お店、頑張ってね、ゲルハルト!」
 ゲルハルトは、品物の入った袋を持ち直すと、リリーに言った。
「おうよ! リリーに頼んでおいたら、間違いはねえからな! この鋼、大事に使わせてもらう
ぜ! それじゃ、あばよ!」
 快活に手を振って去っていくゲルハルトを、リリーは笑顔で見送っていたが、ふいに、彼女の
視界に、赤茶色の髪の、目つきの悪い男の姿が飛び込んできた。
「ヴェルナーじゃない! おはよう! もしかして、うちに何か用?」

*


 リリーの淹れてくれたミスティカティを飲みながら、ヴェルナーは、苦虫を噛み潰したような
顔をしていた。リリーは言った。
「どうしたの? お茶、苦かったかしら……?」
 ヴェルナーは、ティーカップを置くと言った。
「別に……、苦かねえよ」
 そう言ってため息をついたヴェルナーに、リリーは奥の方からいそいそと何やら取り出して来
た。
「ねえ、ヴェルナーの依頼していた国宝布、できているわよ! これ、取りに来たんでしょ? 
はい!」
 艶やかな、きめの細かい織りの布を見て、ヴェルナーは、一瞬目利きの店主の顔に戻り、言っ
た。
「ありがとよ。……しかし、こりゃすげぇ……。ほら、これは俺の気持ちだ。気が変わらないう
ちに取っておきな。」
 ヴェルナーは、多めの代金をリリーに手渡した。リリーは笑顔でヴェルナーを見た。ヴェルナ
ーは、その顔に、ふと、昨日のことを思い出し、小さくため息をついた。
「あの、な、リリー。昨日の、ことなんだけど、な……」
 途端にリリーの背筋が、びくん、と言って、まっすぐに伸びた。
「な、なあに、ヴェルナー……?」
 そのリリーの顔に、ヴェルナーは、口を軽く引き結ぶと、言った。
「いや、何……。昨日、これを引き取りに来たんだが……、おまえ、覚えているのか……?」
 リリーは、その大きな目をさらに大きくして、言った。
「う、ううん! えっと、……ヴェルナー、は?」
 ヴェルナーは、大きく息をつくと言った。
「そうか……。いや、実は、昨日、ここに来たら……、おまえはここにぶっ倒れて寝てたんで、
……その、今日、出直したんだ」
 リリーは、機械仕掛けの人形のように、かくかくと首を動かした。
「え? あ、そ、そう! ごめんね、ヴェルナー! 気がつかなくって! あ、あたし、そうだ
ったの……? ごめんなさい! 調合で疲れていると、よく、床で寝ちゃうのよ、うふふふ、う
ふふふふふ……」
 ヴェルナーは小さく言った。
「……覚えてねえのか……」
 リリーは、言った。
「な、なあに、ヴェルナー? 今、何か言った?」
 ヴェルナーは、やれやれ、と言った顔で息を吐き出すと、リリーに言った。
「何でもねえよ……。それより、お前にやって欲しいことがある。俺の頼みだ。受けてくれるよ
な?」
 リリーは言った。
「何?」
 ヴェルナーは、少しためらうようにリリーから顔をそむけたが、やがて彼女の方に向き直ると、
意を決したように言った。
「……その、ルージュを……、三個ばかり……」
 リリーは、その大きな美しい目を、しばらくの間ぱちぱちとさせていたが、やがて、口を開い
た。
「……つけるの、ヴェルナー?」
 ヴェルナーは、そのただでさえ悪い目つきをさらに悪くして、言った。
「何で俺が、そんなものを! ……頼まれたんだよ……」


   
   3


 窓のない雑貨屋のカウンターに肘をついた若き店主は、眉間に皺を寄せたまま、ガラス鉢の中
の口紅色の魚を見つめていた。悩める若き店主は、傍目にはひどく不機嫌そうに見えた。

 春の空気には、穏やかさの中にも、一点、青臭い棘が混じっている。

 それは、うっかり油断すると、たちまち人間の身体に突き刺さり、精気を吸い取っていくかの
ようだ。ここ数日、ほとんどまともに寝ていない店主は、急に、眠気に襲われた。

 ……眠い。しかし、寝ている暇は、ねえ。……うまくこいつを追い返す方法を考えねえと、リ
リーが、死んじまう……。いや、俺が何とかすりゃいいのか……〜 別に、そのうち何とかしよ
うとは思ってたけど、な……。でも、なあ……、あいつはただでさえ、鈍そうだからな……。あ
いつを相手にしていると、調子が狂っちまう……。ったく、もう少し時間がありゃあな……。

 ヴェルナーは、このところずっと、その仏頂面をますます凶悪化させていた。その険悪な雰囲
気に気圧され、最近ではメイドも、手早く仕事を終えると、早々に帰っていってしまう。滅多に
客の訪れないこの店で、口紅色の魚は、ヴェルナーと二人きりになると、待ってました、とばか
りに、べちゃべちゃとしゃべりはじめるのであった。
「ね〜ェ、退屈だわァ〜。何で、こんなに、お客が来ないのよ、この店!」
 魚は、つぶつぶと泡を吐き出しながら言った。
「ひっさびさに街に来たってのに、あんたとメイドの顔しか見てないわよォ、ちょっと、どうな
ってるわけェ?
 ヴェルナーは、疲れ切った声で言った。
「……うるせえな……」
 口紅色の魚は、鉢の中をぐるぐると泳ぎ回った。
「あ〜ん、もう! 退屈退屈退屈! つ・ま・ん・な・い・わァ〜!」
 最近は、朝一番にメイドが水を取り替えてくれるので、ガラス鉢の中は、いつでも清潔である。
メイドは店主が珍しいもの好きであることをよく心得ているので、このガラス鉢を店に置きだし
たことを、さほど疑う様子もなく、せっせと世話をしている。しかし……。
「ねえねえ、おなか空いたわァ。それにしても、あの、何でも分かった風のメイド! なんでこ
のあたしに、毎日毎日パン屑なんかよこすのよ! この間なんか、乾燥させたイトミミズだの、
ミジンコだのを、よこしやがったわ! ちょっとォ、ヴェルナー、あんた、あの娘に何とか言っ
てやってよ! あたしはそんな下卑たもの、食べないんだって!」
 口紅色の魚は、大きな泡をぷかぷかと吐き出しながら、怒りの形相を露わにした。
 最近、ヴェルナーは、この魚が怒っているのか、笑っているのか、顔を見れば分かるようにな
ってしまった。彼は、そんな自分に、深くため息をついた。
「……しょうがねえだろ〜 おとなしく、普通の魚の振りをしてろよ……。おまえが、あんなも
の食べるなんて知られたら、説明が、厄介だ……」
 口紅色の魚は、ますます怒った顔で……くどいようだが、ヴェルナーにはそれが分かる……、
文句を言った。
「や・あ・よ! あ〜もう! おなか空いたおなか空いたおなか空いたぁ〜っ!」
 ヴェルナーは、だん、とカウンターを叩いた。
「おい、静かにしろ!」
 そのとき、急に、口紅色の魚の目が輝いた。……しつこいようだが、ヴェルナーには、それが
分かる。
「あっ! 食べ物の匂い!」
 魚がそう言うのと同時に、雑貨屋の扉が開いた。軽快な足取りで階段を上がってきたのは、…
…この店の馴染み客の少女。
 ヴェルナーは、ここ数日間自分の頭を占拠している彼女の顔を見て、大きく肩で息をした。
「ヴェルナー、頼まれたルージュ、持ってきたわよ!」
 そう言って、顔の両側に垂らした直毛の髪を揺らしながら、リリーはヴェルナーに微笑みかけ
た。ガラス鉢の中で、魚は嬉しそうにくるくる回った。
「何だ? 持ってきたのか? 取りに行こうと思っていたのに……。でも、ありがとよ。」
 ため息混じりに、ヴェルナーは言った。リリーは怪訝そうに聞いた。
「……ねえ、何だかヴェルナー、疲れてない?」
 ヴェルナーはうつむいたまま、右手を軽く振った。
「……別に、疲れちゃいねえよ」
 リリーは、そう? と言って、代金の銀貨を受け取りながら、ふと、カウンターの上のガラス
鉢に目をとめた。
「うわあ、綺麗な魚ねえ! どうしたの? 飼いだしたの?」
 かがみ込んでガラス鉢の中をのぞき込みながら、リリーは言った。
「ちょっと、な。預かっているんだ……」
 リリーは、へ〜え、と言って、指でガラス鉢を、軽く、つんつん、とつついた。魚は……、目
を細めて面白そうに笑っている。……もちろん、言うまでもなく、ヴェルナーには、それが分か
る。
「ちっ、ふざけやがって……」
 ヴェルナーが独り言を言うと、リリーは、えっ? と言って彼の顔を見た。彼女の大きな瞳に、
彼の疲れた顔が映っている。ヴェルナーは、自分の心臓が、どくん、と音を立てるのを聞いた。
「……何でもねえよ」
 
 これだけじゃ、足りないわ……。

 ふいに、魚が小声で言った。リリーは、驚いたように、ガラス鉢を見た。
「ねえ、ヴェルナー、この魚……、今、しゃべった〜」
 ヴェルナーは、冷や汗をかきながら、つとめて平静を装って言った。
 「……何言ってんだ〜 魚が……、しゃべるわけ、ねえだろ」
 リリーは、軽く笑うと、そうよねえ、と言って、ふいにヴェルナーの顔をまっすぐに見た。そ
の視線に少したじろいで、ヴェルナーは言った。
「……何だよ……?」
 リリーは、唇を横に引き結ぶと、意を決したように言った。
「ねえ、ヴェルナー、あなた、最近、あたしの調合したアイテムに、何か不満でもあるの?」
 ヴェルナーは、両手の拳を、無意識のうちに握りしめた。
「……別に、そんなもの、ねえよ」
 リリーは、ますます怪訝そうな表情で、彼を見た。
「そう……? 何だかここのところ、ずっと顔を見るたびに不機嫌そうだし、……不機嫌そうな
のはいつものことだけど、でも、何かあたしに言いたそうな感じに見えたから……」
 ヴェルナーは、眉間に皺を寄せて、言った。
「……いつも不機嫌そうで、悪かったな。ったく、俺はな、おまえみたいに、年がら年中サルみ
たく考えなしに、暢気に一つのことをやってられる性分じゃねえんだよ!」
 リリーは、頬を膨らませた。
「もう! また、人のことサル呼ばわりして! 人が、心配して聞いているのに、その言い方は
何よ! ……お客様が、自分の作った品物に、何か不満でもあったら大変だって思うのは、当然
でしょう?」
 リリーの真剣な眼差しに気圧されて、ヴェルナーはリリーから目線を逸らせて、ぼそりと言っ
た。
「……別に、品物に不満なんか、ねぇよ……」
 
 ……そう! おいしいわよォ! あんたの作ったルージュ!

 魚が小さく言いながら、泡をつぶつぶと吹きだした。ヴェルナーは、自分の首筋に冷や汗が伝
い落ちるのを感じた。リリーは小首をかしげた。
「そうなの? ……なら、いいんだけど……」

 ……ねェ、だから、もっとちょうだい! おなかが空いたの!

 魚がささやくような声で言った。それを制するように、ヴェルナーは慌てて大声で言った。
「リリー!」
 リリーはぎょっとしたように聞き返した。
「……何?」
 ヴェルナーは慌てて言葉を続けた。
「その、ルージュなんだけど、な。あともう五つばかり、頼む!」
 リリーはきょとんとした目でヴェルナーを見ると、言った。
「……いいけど……」
 リリーのその目に、ヴェルナーは思わず、つっけんどんに言った。
「何だよ?」
 リリーは小さくため息をついた。
「何でも、ないわ……」
 リリーはそう言って、また魚に目を向けた。魚は嬉しそうに、ガラス鉢の中を軽快に泳ぎ回っ
ている。口元は、嬉しそうに、ごはん、ごはん、と言っている、のが、やはりヴェルナーには分
かる。……ヴェルナーは、口の中で、静かにしやがれ、とつぶやいた。しかし、そんな彼ら二人
のやりとりに気づかないリリーは、魚を見ながら軽く微笑むと、言った。
「これ、金魚ね」
 ヴェルナーは聞き返した。
「……何だ、そりゃ?」
 リリーは、くすっと笑うと、魚の動きを目で追いながら言った。
「この、魚よ。ケントニスのアカデミーの庭の池にもいたわ。エル・バドール大陸の商人は、ま
だこのストウ大陸の内陸部には入って来てはいないけど、でも、季節風に乗って大陸の反対側の
国との海洋交易は、かなり古くからやっていたのよ。この大陸の、東の果ての海岸沿いの国の、
観賞用の魚だって聞いたわ」
 ヴェルナーは、少しだけ目を輝かせると、へえ〜、と言った。
「そいつは、興味深いな……。じゃあ、おまえのいたケントニスには、そんな国からの交易品も、
いろいろと入ってきているのか……?」
 リリーは、魚を見る目を、軽く細めて言った。
「うん。港町だもの。それに、船で長い期間旅をするための技術も、進んでいるのよ。錬金術だ
けじゃなくてね。……でも、あたし、こんな綺麗な色の金魚……、見たことないわ。何だか、こ
の色、どこかで見たような気がするんだけど……、でも、どこだったかしら……?」
 リリーは、つぶやくように言った。ヴェルナーは、慌てて、そんなリリーの思考を遮るように
して、言った。
「な、なあ、リリー。今日は、暇なのか? 暇なら……」
「ごめん、暇じゃないのよ!」
 リリーは、急にガラス鉢から顔を上げるとヴェルナーの顔を見て、言った。
「珍しいものを見たんで、つい忘れていたけど、私、調合の途中で、荒熱を取る時間を利用して、
ここに来ていたのよ。そろそろいい頃だから、次の手順に移らないと、冷え過ぎちゃうわ! そ
れに今、依頼の品が立て込んでいて、絶対に失敗できないのよ! じゃあね、ヴェルナー!」
 朗らかな笑顔がヴェルナーの目の前に差し出された、と思った瞬間には、リリーはくるりと向
きを変えて、すでに階段の中腹まで駆け下りていた。



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