6
夕暮れ時の空気が、ザールブルグの街の通りに充満していた。そこかしこから、夕食の湯気の
匂いと、楽しげな歓談の声があがっていた。夕食の席についていた錬金術師たちは、リリーの様
子に、内心では首をひねりながら、食事を摂っていた。ふいに、イングリドが言った。
「リリー先生……、あの、さっきから、ポテトスープが……」
ぼんやりとスプーンを動かしていたリリーは、慌ててイングリドに笑顔を向けた。
「え? あ、ああ、あはははは……。おいしいわね、この、スープ……!」
イングリドは、ため息をついた。
「いえ、その……、おさじが、スープを、すくってないと、思うんですけど……?」
リリーが見ると、スープ皿には、なみなみとポテトスープがよそわれたまま。リリーのスプー
ンは、皿の外の、あらぬところをひたすらすくっていた。愕然としたリリーは、とりあえず、ス
プーンをスープ皿に投げ込むと、笑って見せた。
「うふふ、うふふふふ……」
仕方なく、イングリドとヘルミーナも、引きつった顔で笑った。
三人の少女の異様な様子に、師のドルニエは、短くため息をついた。いつの間にか日は落ちて、
春のザールブルグの夜の空気は、暖かな夜風を運んでいた。しかし、四人の食卓には、寒い気配
がただよっていた。リリーは慌てて自分の皿を持って、立ち上がった。
「ごめんなさい! ちょっと、研究が残っているから、もう、食事はいらないわ!」
自分の寝室に戻り、一人髪をほどいたリリーは、ため息をついた。
「……ヴェルナー、やっぱり、そうなのかなあ?」
リリーのため息は……、ゆるく渦巻く、春の穏やかなそよ風に、溶けていった。
*
一方、その頃、窓のない雑貨屋のカウンターでは、若き店主が頬杖をついて、ぼんやりとガラ
ス鉢を見ていた。
「いよいよ、明日が満月、か……」
ガラス鉢の中で、口紅色の鮮やかな鱗を翻した金魚は、つぶつぶと泡をはき出すと、にやにや
笑いながら言った。
「大丈夫よ! なんたって、このあたしが契約を取り結んでいるのよ! うふふふふふ……、い
ろいろ、手は打ってあるわ。……ねェ、あんた、明日、あの娘のところに、行ってみなさいよ…
…」
*
遡ること数時間前。
その日の夕方、リリーは中央広場で、疲労困憊した顔で、親友の占い師、イルマと話をしてい
た。イルマは、心配そうに言った。
「大変だったわねえ。それで、テオの怪我の具合は、もう大丈夫なの?」
リリーはため息をつくと、力無くうなずいた。
「うん……。あたしがもっと気をつけてあげていれば……、こんなことには、ならなかったのに
……」
イルマは、大きく首を横に振った。
「そんな! リリーのせいじゃ、ないわ! レッテン廃坑の岩盤は崩れやすいって話だし、仕方
がなかったのよ! それに、リリーがすぐに助けてあげたから、テオも、そのくらいの怪我で済
んだんでしょ?」
リリーは泣き出しそうな顔で言った。
「でも……、まさかあんなことになるなんて……」
イルマは、軽くリリーの肩を叩いた。
「大丈夫、大丈夫! あのくらいの怪我、すぐに治るわ! それに、全員同時に生き埋めにな
らなくって、本当に良かったわね!」
リリーは、小さくうなずいた。
「うん……。位置的に、あたしとシスカさんは、助かったんだけど……、テオだけ、崩れてきた
岩盤の下敷きになっちゃって……、まあ、直撃は免れたみたいなんだけどね……。さっきまでフ
ローベル教会の救護室で看病してたんだけど、もう大丈夫だって、クルトさんが言ってくれたか
ら、これから工房に戻るわ……」
イルマは、微笑んだ。
「テオなら、身体は丈夫そうだし、すぐに元気になるわよ! ……どうしたの、リリー? そん
なに心配なの……?」
浮かない顔をしていたリリーは、慌ててイルマに微笑んでみせた。
「……う、ううん! 何でもないの! ただ、ちょっと……、最近、採取に行くと、変なことば
っかり起きるから、少し、気が滅入っていて……」
イルマは、きょとん、と目を見開くと、リリーに聞いた。
「何? 変なことって……〜」
リリーは、ため息をついてうなずいた。
「うん……。レッテン廃坑に行く前に、テオとピルツの森に行ったのよ。そうしたら、テオが、
あたしに見せたい物があるって言って、森の大木に昇り始めたの。でもね、その瞬間に……、そ
の木が、いきなり、折れたの……」
イルマは言った。
「ええっ!? ……それで、怪我はなかったの?」
リリーは首を横に振った。
「なかったわ。でも、あんな太い木がいきなり折れるなんて……、本当に、びっくりしたわ。他
にもね、この間、日時計の草原に、ゲルハルトと行ったら、急に雨が降ってきて……、ゲルハル
ト、濡れちゃいけないからって、あたしにマントを被せてくれたのよ」
イルマは、ぱん、と両手を顔の前で打ち合わせた。
「あらっ! 優しいじゃない、ゲルハルト!」
リリーは、力無くうなずいた。
「うん……。そうなんだけど、ね……、でも、そうしたら、突然、マントが、消えたの……」
イルマは、驚きの声をあげた。
「え、ええ〜! 何で?」
リリーは、首を大きく左右に振った。
「……分からないわ。でも、とにかく、消えちゃって……、ゲルハルト、その後、風邪を引いち
ゃって、大変だったのよ……」
イルマは、ふ〜ん、と言いながら手早く商品を包むと、リリーに渡した。
「不思議なこともあるものねえ……。ま、とにかく、宝石草のタネ、十個で良かったわね……?」
リリーは、微笑みながら、包みを受け取った。
「ありがとう。それでいいわ」
イルマは、言った。
「最近、よくこれを買っていくわね〜」
リリーは言った。
「うん……、ここのところ、よく、ルージュの依頼が入るから、その、材料よ」
イルマは、口を少しだけ尖らすと、小声でリリーに聞いた。
「ねえ、その依頼って、ヴェルナーのじゃないの? この間、リリーの工房で作った化粧品用の
袋を抱えて、ここを歩いていたわよ〜」
リリーは慌てて言った。
「え、み、見たの……? あ、ううん! お客さんのことは……、悪いけど、イルマにも、言え
ないわ!」
イルマは、微笑んで言った。
「いいのよ……、じゃあ、今のは、聞かなかったことにしてあげるわ。でも、ね。ちょっと……、
気になることがあったのよ。ヴェルナー、そのとき、ものすごい美人と、腕を組んで、歩いてい
たのよ……!」
リリーは、驚いて、聞き返した。
「えっ……?」
イルマは、目を輝かせてうなずいた。
「あのね、この間、ヴェルナーが、赤い髪をした、大人っぽいすごい美人と、ここを歩いていた
のよ! もう、この辺りを通りかかった人が、みんな、目をまん丸にして見とれるくらいの、絶
世の美人だったわ! うちのキャラバンの男連中なんて、彼女を見た後、しばらく、ぽわ〜っと
しちゃって、半日仕事が手につかないくらいだったのよ! でね、その美人が、そこのフローベ
ル教会の前辺りで、急に、気分が悪くなったみたいで、地面にうずくまっちゃったの。そこにた
またまクルトさんが通りかかって……、あの人、例によって、とっても親切だから、どうしたん
ですか? って感じで……、ヴェルナーたちに話しかけたんだけど、そしたらね、ヴェルナーっ
たら、‘この人に触るな!’って感じでね、クルトさんの手を払いのけて、で、すごく心配そう
に、その美人を、脇から優しく支えるようにして、歩いていったわ……、‘おい、もう、帰るぞ
!’とか、言っちゃって……! きゃっ!」
完全な、誤解であった。
いつの世でも、乙女の、他人の恋愛ごとについての想像力はたくましい。
嬉々として語るイルマの話を聞いて、リリーは自分の胸が、ちくちくと痛むのを感じた。
……何……?
7
翌日、夕暮れの陽が斜めに射し込む中、ヴェルナーは、意を決して、錬金術工房の扉を叩いた。
「ちくしょう……、もっと早く来たかったが……、何でこういうときにかぎって、商談が長引く
んだ?」
ぶつぶつ言いながら、どかどかと扉を拳で叩いたが、返事はなかった。試しにドアノブを引く
と、鍵はかかってはいなかった。不振に思いながらも、ヴェルナーが工房の中にそろそろと入っ
ていくと、そこには、テーブルの前に腰掛け、頬杖をついている彼女がいた。
その目は、心なしか、トロン、としている。
「……あっ、ヴェルナー……! いらっしゃぁ〜い!」
そう言って、リリーは、ひっく、と小さくしゃっくりをした。テーブルの上には、小さなグラ
スが転がっている。ヴェルナーは、唖然としながら言った。
「リリー、おまえ……、酔っぱらってるのか?」
リリーは、首を横に振ったが、その振った自分の首に振り回されて、軽く、テーブルに突っ伏
しそうになり、慌てて体勢を整え直した。
「うううん、え〜っと、ね、ちょっと、ね、さっき調合した、ゆーわくの、カクテルを、ね、
味見、したらけ、なんらけど……、うふふ、うふふふふふ……」
処置なし、といった風に、ヴェルナーは、右の手の平で顔を覆った。
「……何だって、今日にかぎって、こうなんだ……?」
リリーは、それを聞いて、よろよろと立ち上がり、口を尖らせた。
「なによぅ……、もんく、あるのぉ〜?」
そう言って、立ち上がって前に足を、出そうとして転びかけたリリーを、ヴェルナーは、思わ
ず抱きとめて、彼女をまっすぐに立たせた。そしてその細い両肩の上に自分の手を置いて、ため
息をついた。
「……あのなあ、俺は、おまえに、今日、大事な話があるんだ。ここのところずっと、おまえは
遠出ばかりしていただろう? やっと、こうやって、まともに話せると思ったら……って、立っ
たまま、寝るな、おい!」
ヴェルナーは、リリーの肩を軽く揺さぶった。うつらうつらしていたリリーは、はっとして顔
を上げると、きょとん、とした顔でヴェルナーを見た。
「……なんで、そんなに、おっかない顔、しているのよぅ? ま〜た、ルージュ? ろうせ、す
っごい、びじんのこいびとに、あげるんでしょう〜?」
ヴェルナーは、驚いて、聞き返した。
「……何だ、その、恋人ってのは……?」
リリーは、完全に座った目で、ヴェルナーをにらみつけた。にらみながら、身体が斜めに傾い
た。慌ててそれを支えようとしたヴェルナーの手を、リリーは、払いのけた。
「……しってるのよぅ〜! イルマが、見たって、言ってたもの〜。すっごい、びじんと、うで
を組んで、なかよく、歩いてたってぇ〜!」
リリーの大きな瞳に、涙が滲んでいた。ヴェルナーは、ため息をつきながら言った。
「笑ったり泣いたり……、忙しいやつだな……」
リリーは、よたよたした手つきで、涙をぐしぐしと拭くと、言った。
「だれのせいらと、思ってるのよぉ、ばかぁ……!」
「……おい……」
また、よろけかけたリリーの肩を、ヴェルナーはつかまえた。つかまった当のリリーは、はな
してよ〜! と言いながら、じたばた暴れていたが、ふいに、ヴェルナーの顔を、きっ、とにら
んで、言った。
「……キス、した、くせに……」
ヴェルナーは、その語調に少しぎょっとして、聞き返した。
「え……?」
リリーは、今度は、ぼろぼろと泣き出した。
「そりゃあ、ヴェルナーは、大人らし、こいびとくらい、いる、らろうし、それに……、あのと
きのことって、あたしの、調合した、アイテム、の、せいらって、ことくらい……、わかってい
るの、よう……、れも、少しくらいは、ヴェルナーの、ほんとのきもち、も、はいってたのか、
なあ、なんて、思って、た、のにぃ……」
ヴェルナーは、大きく息を吐き出すと、ゆっくり、諭すように言った。
「あのなあ……、おまえ、誤解してるぞ。俺が一緒に歩いてたってのは、別に、恋人でも、なん
でもないぜ?」
リリーは、しゃくり上げながら言った。
「……じゃあ、だれ、なの、よう……?」
「それは、その……」
説明しようとしたヴェルナーは、ふと考え込んだ。
……いや、待て。正直に話したところで、信憑性がねえよな……〜
あれは、神界を追い出された神様で、おまえがそうとは知らずに契約を結んじまったおかげで、
今、俺に取り憑いていて、しかも、好物はおまえがつくったルージュで、ついでに普段は金魚に
なっていて、なんて……。
……駄目だ。
リリーは、いよいよ口を尖らせた。
「られ、なのよぅ〜?」
ヴェルナーは、小さく息をつくと、きっぱりと言った。
「親戚の、オバさんだ」
リリーは、一瞬大きく目を見開いた。
「……な、によぅ、うそ、ついてない〜 わかくて、ものすごく、きれいな人らって、きいたわ
よぅ〜?」
ヴェルナーは、淡々と言った。
「若く見えるかもしれないが……、少なくとも、俺の倍以上の長さは生きてるやつだぜ? ……
いや、もっとだな」
リリーは、目をぱちくりさせながら、また、ひっく、と小さくしゃっくりをした。
「ほんとう……?」
ヴェルナーは、リリーの目をのぞき込むと、諄々と諭すように言った。
「ああ……。厚化粧なんで、ルージュが大量に必要だったんだ。化粧を取ると……、すごいぜ。
もう、人間というよりは、魚みたいなもんだな、ありゃ」
リリーは、きょとんとした顔で、ヴェルナーをみつめたまま動かない。ヴェルナーは、口端に
薄い笑みを浮かべた。
「……納得、したか?」
リリーは、こくりとうなずいた。ヴェルナーは、そのリリーの顔を見て、にやり、と笑うと、
言った。
「……で、誰のせいで泣いてたって?」
リリーは、すでに赤い顔をさらに赤らめた。
「……ずるいわ……」
リリーがつぶやくと、ヴェルナーは、リリーの目の縁に残っていた涙を、指先で軽く拭って、
聞いた。
「誰が、ずるいって……?」
リリーは、ヴェルナーのその手を払いのけた。
「ずるいわよぅ……、あたし、ばっかり、好きで、かってになやんれ、おまけに、ヴェルナー、
あたしのこと、からかって、ばっかりらし〜……、っく……」
しゃっくりをしながら、再びふらふらと自分から離れて行こうとしたリリーの腕をつかんで、
ヴェルナーは言った。
「……そういうことは、素面のときに言ってくれよ……?」
リリーは、ヴェルナーを、座った目でにらみつけて、言った。
「ヴェルナーは、あたしのこと、ろう、おもってるのよぅ……?」
ヴェルナーは、視点の定まらないリリーの目を見ながら言った。
「……できれば、もう少し、おまえがまともな状態のときに、言いたかったんだけどな……?
……っと!」
リリーは、がくん、とその場に崩れ落ちるように座り込んだ。リリーの腕をつかんでいたヴェ
ルナーも、つられてその場に片膝をついた。
「おい、リリー、……大丈夫か?」
ヴェルナーは、リリーの肩を軽く揺さぶった。リリーは頭をそろそろと持ち上げ、ヴェルナー
の顔を見て、ゆっくり、口を開いた。
「……もう、したくないの、……キス……?」
そう言って、ぼんやり視線を合わせたリリーの琥珀色の瞳に、自分の顔が大きく映し出されて
いるのを、ヴェルナーは見た。ヴェルナーは、口端を引き結ぶと、そっと左腕をリリーの背中に
まわした。そして右手でゆっくりと、彼女の柔らかな頬の輪郭をなぞり、その小さな顎に指をか
け……、ふいに、自分の目を閉じた。
懐かしい、感触だった。
ずっと以前、気が遠くなるほどの昔から、何度も繰り返してきたような、そんな感触だった。
口づけの前後に歴史は存在せず、時も、その翼を折り畳む。
世界は、たしかに、それによって断絶を生じさせられていた。
恋は、歴史に抗し、世界に一個の徴を刻み、そして、二人の上に、永遠を空け開いていく。
「好きだ……」
ヴェルナーが、ほんの少し顔を離し、そうつぶやくと、リリーは……、
「……おい、リリー! ここで! 寝るな!」
リリーはすでに、ヴェルナーの腕の中で、すうすうと寝息を立てていた。その瞬間、工房の中
に、怒声が響いた。
「だァ〜れが、オバさんだってェ?」
ヴェルナーが、ぎょっとして声のする方向を見上げると、そこには、白銀色の裾の長いドレス
を身にまとったレトが、空中に浮かんで腕組みをしながら、ヴェルナーをにらみつけていた。
「……うるせえ! おまえ、本当は、オバさんどころの年じゃねえだろ?」
ヴェルナーが言い返すと、レトは空中に静止したまま、急に、にやり、と笑った。
「ま、でも、良かったじゃない。これで契約完了よォ! ぎりぎりで間に合ったけど、ほんっと
大成功だわァ〜! うふふふふ、も〜、言うことなし、よね!」
ヴェルナーは、レトを見上げたまま、二、三度まばたきをして、言った。
「おい、結ばれるって………………………………、これで、いいのか?」
レトは、空中をひらひらと舞いながら、嬉しそうに言った。
「そうよォ! 気持ちが通じ合って、本当に良かったわねェ! これで、めでたし、めでたし…
…っと! あたしの仕事も終わったわァ〜!」
レトは、つ、と空中に静止すると、眠っているリリーの顔をのぞき込んで、にっ、と笑った。
「……ふ〜ん、それにしても、この娘、たいしたもんだわァ、将来大物になるわねェ、すごい魔
力を持っているわよ……。ね、魔女になる気があるなら、いつでもそっちの契約を結んであげる
からって、言っておいてねェ! ……これだけ力を持っている人間の契約を完了できたんで、あ
たしも、アルテナに奪われた力が、少し、戻ってきたわァ、あ〜、気分いい! じゃあねェ!
うふふふふふふ……」
レトはそう言って、しゅるしゅると金色の光の渦を巻き上げた。光は次第に白い煙となり、煙
はやがて薄い靄となり、靄は工房の中に拡散して、細かな粒となり、やがて、消えた。
いつの間にか日は落ちて、部屋の中には、窓から月明かりが射し込んできていた。
「……おい、帰るなら、この状況を何とかしてからにしろ……」
残されたヴェルナーは、リリーを抱きかかえたまま、一人、つぶやいた。
開け放たれた窓から、一陣、ゆるやかな風が吹き込んできた。それがヴェルナーの頬をなで、
そして、リリーの髪の毛を括っている素朴な色合いのリボンを、静かに揺らした。幸せそうに眠
っているリリーの顔をのぞき込み、ヴェルナーは、静かに微笑んだ。
……ま、いいか。……もう少しだけ……。
8
翌日の朝、明るい日射しの中を、ヴェルナーはリリーの後について、中央広場を歩いていた。
リリーは早足で歩きながら、言った。
「ああもう! ゲルハルトも、カリンも、今忙しいみたいだし、テオは怪我してるし……、イル
マはここにいるかしら……? あっ! いないわ! どうしよう……?」
ヴェルナーは、面倒くさそうに足を動かしながら、リリーに言った。
「おい、おまえ……、昨日のこと、本当に覚えてねえのか?」
リリーは、振り返った。
「……うん。えっとね、調合した誘惑のカクテルの味見をしたところまでは、覚えてるんだけど
……、後は、気がついたら、工房の中が、しっちゃかめっちゃかで……」
ヴェルナーは、小さく肩を落とした。
「……そうかよ」
リリーは、その大きな瞳を巡らせて、ヴェルナーに言った。
「あっ、でもね! ヴェルナーの夢、見たわ! ……もしかして、工房に来た?」
ヴェルナーは苦笑しながら言った。
「まあな」
リリーは、うっすらと顔を赤らめた。
「……私、どうしていたかしら?」
ヴェルナーは、口端を軽く引き上げると、リリーの顔を見た。
「……よだれを垂らして寝てたから、俺はすぐに帰ったぜ」
リリーは、ますます頬を赤くしながら、口を尖らせた。
「よ、よだれなんか、垂らしてないわよ!」
ヴェルナーは、ふいに真顔で言った。
「……で、どんな夢だったんだ?」
リリーは、え? と言って、目を見開いた。ヴェルナーは、もう一度聞いた。
「どんな夢、だったんだ? 俺が、出てきたっていうのは……?」
ヴェルナーは、いつになく、優しく微笑んでいる。
朝の、幾分張りつめた空気が、二人の周りを皮膜のように覆っていた。リリーは、その空気感
に抗するように、慌てて、くるり、とヴェルナーに背を向けた。
「……教えないわ! ヴェルナー、意地悪だもの!」
そう言って、ずんずん前を歩いていくリリーの背中に向かって、ヴェルナーは、そうかよ、と、
小さくつぶやいた。急に、リリーが城門を見て、嬉しそうに言った。
「あ! ウルリッヒ様! そうだわ、ウルリッヒ様がいたわよね。……ちょっと恐れ多いけど、
でも、この間、時間があるときなら、採集に同行するって言って下さったし、護衛をお願いして
みようかしら……?」
リリーは、城門の守りを固める聖騎士のところに、いそいそと駆けていった。ヴェルナーは、
やれやれ、といった顔で、その後をのそのそとついていった。リリーは、笑顔でウルリッヒに話
しかけた。
「おはようございます、ウルリッヒ様! あの、この間、時間があるときには、私が城壁の外に
出るときに、同行して下さるって、おっしゃっていたのを思い出して……。もし、宜しかったら、
ご一緒願えませんか?」
ウルリッヒは、その端正な白い顔を少々赤く火照らせていた。リリーに話しかけられて、目線
を向けたウルリッヒは……、いつもの精悍な面差しを少々弱々しく陰らせ、苦しそうに、大きく
二回、咳き込んだ。リリーは驚いて、心配そうに言った。
「ウルリッヒ様……! お身体の具合が、悪いのですか……?」
ウルリッヒは、その青く澄んだ双眸を、力無く伏せ、苦々しそうに言った。
「うむ……。実は、昨晩から、著しい悪寒がするのだ。このような無様なことでは、王国騎士
隊を統べる者としての示しがつかぬ。……まったく、精進の足りないことだ」
その瞬間、ヴェルナーの目に、ウルリッヒの両肩に乗せられた、金色の長い爪を生やした二本
の手が飛び込んできた。ぎょっとして見ているヴェルナーに向かって、ウルリッヒの背後から、
顔をひょこりとのぞかせたレトは、にやり、と笑って、その細く尖った舌を出して見せた。そし
てレトは、右手で、ウルリッヒの金色の美しい絹糸のような髪を、軽くさらさらと掻き上げると、
その手を高く掲げて、ひらひらと振り、ヴェルナーにウインクして見せた。ヴェルナーは、青い
顔をして、リリーの腕を引っ張った。
「……おい、こっちに来い!」
リリーは、え? どうしたの? と言いながら、ヴェルナーに引きずられるようにして城門を
離れつつ、ウルリッヒに顔を向けて言った。
「あ、じゃあ、ウルリッヒ様! お大事に〜!」
ヴェルナーは、眉間に皺を寄せたまま、歩みの速度をゆるめない。リリーは、軽く唇を尖らせ
た。
「……どうしたの、ヴェルナー? そんな、恐い顔して……?」
ヴェルナーは、ごくり、と生唾を飲み込んだ。
「い、いや、その……、あいつは……、ウルリッヒは、タチの悪い風邪を引いているみたいだ
ったからな……。うつると、困るだろ? これからヘーベル湖まで、採集に行かなくちゃ、な
らねぇんだからな……?」
リリーは、怪訝そうに目をぱちくりさせて、そうなの? と言った。そのとき、見事な赤い甲
冑を身につけ、黒く艶やかな長い髪をなびかせた女性が、中央広場に通りかかった。
「あ、シスカさんだわ!」
リリーは、ぱっと顔を輝かせると、シスカのところに駆け寄っていった。ヴェルナーは、大き
く肩で息をつくと、その場に留まったまま、二人のやりとりを傍観していた。リリーに何か言わ
れ、シスカは、申し訳なさそうに、首を横に振った。リリーは、分かりました、といった風に首
を縦に振った。シスカは微笑むと、リリーに手を振り、槍を持ち直すと、颯爽とした足取りで去
っていった。リリーは、少しがっかりした顔で、ヴェルナーのところに戻ってきた。
「……これから、他の人の護衛の仕事があるんですって、シスカさん……」
そう言って、リリーは軽くため息をついたが、少しうっとりとした表情をして、さらに言った。
「それにしても……、相変わらず、綺麗よねえ、シスカさん……。憧れちゃうわ。私も、もっと、
身だしなみとか、お化粧とか、きちんとしようかしら……?」
それを聞いて、ヴェルナーは、ぎょっとした顔をした。
「け、化粧は当分……、しなくても、いいんじゃねえか?」
リリーは、少し驚いた顔をして、ヴェルナーを見た。
「……どうして?」
ヴェルナーは、慌てて言った。
「い、いや、まあ……、その、必要ねえだろ〜 おまえの場合は、調合でアタノールなんて使っ
てたら、すぐに化粧なんか、落ちそうだし……、な。ははは、ははははは……」
ヴェルナーの乾いた笑い声が、朝のザールブルグの中央広場に響いていった。リリーは少し不
満そうに、そうかなあ〜 と言った。ヴェルナーは、こくこくとうなずくと、リリーの肩を、と
んとんと叩いた。
「……ま、とにかく、早く行こうぜ。日が暮れちまうからな」
リリーは、軽く笑うと、うなずいて言った。
「うん。あ! ちょっと待って! フローベル教会に寄って、クルトさんに声をかけてみるわ!」
その瞬間には、リリーは、教会に向かって、小走りに駆けだしていた。ヴェルナーは、慌てて
後を追った。しかし教会に入ったリリーとヴェルナーは、そこで展開されている光景を見て、唖
然とした。
「す、すごいわ……。何、これ……?」
リリーが、目を丸くしてつぶやくと、疲労困憊した顔のクルトが、二人のところにやって来て、
すまなそうに言った。
「申し訳ありませんが、……ただ今、このような状況で、一般の方の礼拝を受け付けることはで
きないのです。……お引き取りいただけないでしょうか?」
リリーは、言った。
「クルトさん、どうしてこんなことに……?」
クルトは、深くため息をついた。
「……分かりません。今朝私が来たときには、すでにこのような有り様で……。何ということで
しょう……。とても、人の子のなすべきこととは、思われません。いったい、なぜ……?」
クルト神父は、穏やかな物腰の中にも、静かに怒りを露わにしていた。
教会の礼拝堂の中は、そこかしこに真っ赤な口紅で、落書きがされていた。それは壁や机や椅
子などに止まらず、礼拝堂の一番奥に祀られたアルテナ像にまで施されていた。アルテナ像の唇
は、口紅で大きく縁取られ、頬も真っ赤に塗り潰されていた。さらに、その美しい顔といわず、
ゆったりとしたローブといわず、そこかしこに、欺瞞女、偽善者、お局軍団の頭領、おまえの父
ちゃんデベソ、等々、罵詈雑言が大きくべたべたと書かれていた。シスターたちは、僧衣の袖を
まくり、いそいそとそれを拭き取ってまわっていたが、なかなか簡単には落ちないらしく、皆一
様に、眉間に皺を寄せ、額の汗を拭っていた。クルトは、手にした雑巾を固く握りしめ、静かに、
しかしながら厳しい口調で、言った。
「……神聖な礼拝堂にこのようなことを……! たとえアルテナ様がお許しになっても、この私
が断じて許しません……!」
リリーは、大きくため息をついた。そのリリーの肩を、ヴェルナーは、後ろから、ぽん、と叩
いて、首を横に振った。リリーは、こくりとうなずいた。
二人が教会の外に出ると、春のそよ風が、ゆったりと、中央広場を満たしていた。光のまぶし
さに、思わずリリーが軽く顔をしかめると、ヴェルナーは、言った。
「……ま、どうせ、ヘーベル湖だろ〜 たいした敵も出ねえし……、護衛は、俺一人で、十分だ
ろ?」
ヴェルナーの顔は……、優しく微笑んでいた。リリーは、少し驚きながら、うなずいた。
……どうしたのかしら? 何だか、今日のヴェルナー、……機嫌良さそう。何か、いい掘り出
し物でも、見つけたのかしら……?
「ぼさっとしてるんじゃねえ、時間がもったいねえからな。……行くぞ!」
ヴェルナーは、くるりと向きを変えると、町はずれに向かって足早に歩き始めた。口調はいつ
もの通りだが……、顔は終始、笑っている。リリーは、慌ててその後を追った。
「あ、ちょっと、待ってよ……!」
春のザールブルグの石畳の上を、ゆるやかに吹き抜ける風は、目に見えないほど細かな、金色
の粉を巻き上げていくようであった。リリーは、静かに微笑んだ。
まあ、いいわ。機嫌が悪いよりは、いいほうが、ずっといいものね……!
……いい天気……。
風はやがて柔らかな布のように、二人を包み込んでいった。
〜fin〜
後書き
オリキャラ大暴走作品です……(汗)。
フローベル教会関係者の皆様方、ならびにアルテナ様信奉者の皆様方、どうもすいません。
さて。
レト様(自作のキャラに様づけも変ですが、この人、私の夢にまで出てくるし、恐いんです〜)
は、アルテミスの母神から名前をもらいました。私がアトリエ創作を書く際には、アルテミスを参
考にアルテナの設定を考えています。
ちなみに。
レトの名前は諸説あり、おそらく一般的にはレダの呼び名のほうが有名だと思ったのですが、私
が栗本薫の小説を思い出してしまうので、やめておきました(大好きなんですよ、『レダ』)。
それから、個人的には、ラストのほうで「雑巾を握り締めるクルト神父様の図」が気に入ってい
ます(笑)。
なお、このネタは結構気に入っているので、ご希望の声がありましたら、続きを書きたいな〜、
と思ってます。ちょびっとですが(笑)。「ウルリッヒ様の受難の巻で」……(含笑)(2002
年8月)。
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