時間の果実



      
   
    3 白い夜

 森の中の風景も光線も、何一つ変わろうとする気配はなかった。穏やかな冬の晴天の木漏れ
日が、リリーたちを柔らかく包んでいた。リリーの傍らでは、エルザが毛布にくるまって、安
らかな寝息を立てていた。リリーがエルザの毛布の位置をそっとなおすと、彼女の頭の上で声
がした。
「おまえも寝とけよ、リリー。本当なら今は真夜中だぜ?」
 リリーは顔を上げた。
「ヴェルナーこそ、寝てていいわよ。見張りなら、あたしがやるから」
 ヴェルナーは、飲み物の入った木の器をを二つ手にして立っていた。彼は、やれやれ、と言
った表情を浮かべると、そのうちの一つをリリーに手渡した。
「ありがとう……」
 リリーがそう言って、両手で抱えこむようにしてヴェルナーからそれを受け取ると、暖かな
感触と共に、薄い湯気が彼女の顔の周りに広がった。ヴェルナーは、無言で、どさり、とリリ
ーの横に腰を下ろした。
「……そういうことだから、いつもぶっ倒れる寸前まで行っちまうんだよな、おまえは……」
 ヴェルナーがつぶやくようにして言うと、器を両手で抱えてスープの熱を楽しんでいたリリ
ーは、え? と言ってヴェルナーの顔を見た。
「何か言った、ヴェルナー?」
 ヴェルナーは、唇を少しだけ横に引くと、リリーの方を向いた。
「……何でもねぇよ。いいから心して飲めよ、そのスープ。せっかく俺が作ってやったんだか
らな?」
 リリーは、その長い睫毛をはためかせるようにして、大きく一回瞬きをすると、こくりとう
なずいた。
「うん! いい匂いね〜。いただきまーす!」
 スープを一口すすって、リリーは感嘆の声を上げた。
「……おいしい! それに、何だかすごく身体が暖まるわね……?」
 ヴェルナーは、くすりと笑って自分の手にした器から、同じくスープをすすった。
「当然だ。俺様特製だからな」
 リリーは、スープの湯気を掻き分けるようにしてもう一口飲むと、ヴェルナーに尋ねた。
「ヴェルナーって本当に器用よね?。ねえ、どこで作り方を覚えたの、これ?」
 ヴェルナーは、リリーから視線をそらし、前を向いた。
「……そいつはな、よく、俺の親父が作ってくれたスープだ。こうやって、長旅に出ると、気
温や水が普段と変わるせいで、体調をくずしやすいからな。だから、すぐに身体が暖まって、
体力が回復するようにって、工夫して作ったものらしい」
 そう言ってスープをすすりはじめたヴェルナーに、リリーは言った。
「ヴェルナーのお父さんって……どんな人だったの?」
 ヴェルナーは、ん? と言って心なしか上を向いた。
「別に何てことはない……普通の、真面目な商人だ。ま、真面目すぎるくらいだったがな。た
だ……、シグザール王国以外の土地の風物ついては、交易商人から話を聞いたり、自分でも本
を読んで調べたりして、ずいぶんと詳しかったぜ」
 リリーは微笑んだ。
「じゃあ、ヴェルナーが珍しいものが好きだっていうのも、お父さん譲りなのね?」
 ヴェルナーは、少しだけとまどうような表情を見せ何か言いかけたが、やがて小さく息をつ
くと曖昧に微笑んだ。
「……ま、親父のことは……そのうち詳しく話すさ」
 リリーは、一瞬驚いたようにその大きな瞳を巡らせたが、すぐにうなずいてスープを口にし
た。
 冬の青空が、天蓋のように森の上を覆っていた。風も雲の移動も、何もかも止まってしまっ
たかのような森の中で、エルザと、小柄なエルフの安らかな寝息だけが静かに響いていた。リ
リーはスープを飲み終えると、器を横に置いた。
「ごちそうさま」
 そう言ってヴェルナーの顔を見たリリーに、ふいにヴェルナーが尋ねた。
「なあ、リリー。おまえ、カリエル王国って、知ってるか?」
 リリーは、きょとんとした顔で言った。
「知らないわ。このストウ大陸にある国なの?」
 ヴェルナーはうなずいた。
「ああ。シグザール王国領から、ずっと北に行ったところにある国だ。親父が以前話してくれ
たことがあった。……その国ではな、こういう風に、冬の一定期間、太陽が沈まない夜が続く
らしいぜ」
 リリーは感心したようにため息をついた。
「へえ〜、太陽の沈まない夜? それじゃ、ランプの燃料が節約できて、調合の請負仕事もは
かどりそうね!」
 ヴェルナーは呆れたように言った。
「……色気のない発想しかできねぇ奴だな……」
 リリーは口を尖らせた。
「いいでしょ、もう!」
 ヴェルナーは、喉の奥で噛み殺すようにして笑うと、リリーに言った。
「まあ、いいさ。とにかく、そういう夜を‘白夜’と言うらしい。一回、見てみたいと思って
たんだがな。このストウ大陸の北部は気候も厳しく、土地も痩せていて、しかもここいらより
も遙かに強力な魔物がうようよいるらしい。だから、北部の連中は厳しい環境に適応して生活
しているせいか、シグザールの人間よりも鍛えられていて、武器の扱いにも精通している奴が
多いって話だ。俺の店でも、一度カリエル王国産の武器を仕入れたことがあったが……、あり
ゃあ、たいしたもんだったな。カリエル王国ではごく平均的な武器だそうだが、あんな硬度の
高い、精巧な刀や槍が作れるんじゃ、向こうの職人たちは、よっぽどいい腕をしているんだろ
うと思って感心したぜ。実は……俺の店に置いてあった俺の手製の武器、あれはな、そのとき
の武器を真似て作ってみたものだ。」
 リリーは吹き出した。
「ああ! あの、ヴェルナーのお店にあった、変な形の刀ね!」
 ヴェルナーは、ごほん、と咳払いをすると横を向き、不機嫌そうに言った。
「……変な形で悪かったな。ま、たしかに、素人が見よう見まねで作れるような代物じゃなか
ったがな」
 ヴェルナーは、少し自嘲気味に笑うと、再びリリーの顔を見て、言葉を続けた。
「北部で一番大きいのはカリエル王国だが、他に、ケンプデン共和国とダマールス王国がある。
カリエル王国とケンプデン共和国は比較的シグザール王国とも友好的で、中には母国を離れて
シグザールの王室騎士隊に志願して来る者もいるくらいだ。……北部の人間は、全般的に身体
もデカいし、さっき言ったような理由で、城壁に守られて平和に育っているザールブルグの連
中と違って、ガキの頃から戦い慣れしていて、腕っ節も強い。ま、そういう訳で軍人にはうっ
てつけなんだろう。しかし、ダマールス王国は別だ。あの国は……、シグザール王国建国の際
に、この国に組み入れられることを拒んだ勢力が、中心となって作った国だ。しょっちゅう、
こっちに攻め入る隙をうかがっているって話だぜ」
 リリーは言った。
「……たしか、以前ハインツさんも、シグザール王国は南のドムハイト王国とも仲が悪いって
話を聞いたことがあったわ。でも、北方の国ともそんな事になっているなんて……」
 ヴェルナーは淡々と言った。
「ま、隣国同士なんて、概ねどこでもそんなもんだろ。それに……俺みたいな商売人にとっち
ゃ、戦争が起きたら、それはそれでいい商売の機会にならねぇこともないんだぜ?」
 リリーは、きっ、とヴェルナーの顔をにらんだ。
「もう、ヴェルナー! ……本気でそんなこと思ってるの?」
 ヴェルナーは、ふっと息を吐き出すようにして小さく笑った。
「……だったら、どうする?」
 リリーは、ぷい、と横を向いた。
「絶交するわ。人の不幸に乗じてお金を稼ごうなんて! ヴェルナーは、たしかにひねくれて
てうさんくさくて、訳の分からないがらくたに法外な値段をつけて暴利を貪ってる人だけど、
でも、そんなことする人だとだけは、思ってなかったわ!」
 ヴェルナーは眉間に皺を寄せた。
「……その意見の方が、かなりひどいんじゃねぇのか?」
 リリーは言った。
「ひどくないわ! ……冗談でも、そんなこと言う人、大嫌いよ!」
 ヴェルナーは、そうか、とぽつりと言って、そっと右の手の平をリリーの頬に当て、彼女を
自分の方に向かせた。
「……悪かった」
 ヴェルナーがそう言って、リリーの目をのぞき込むと、リリーは言った。
「ときどき、ヴェルナーって、冗談なんだか本気なんだか、分からないことを言うのね……?」
 ヴェルナーはリリーの瞳を見据えたまま、低くつぶやくように言った。
「……本当に、分からねぇのか?」
 ヴェルナーは、そのままリリーの小さな顎に指をかけ、顔を近づけた。
「ちょっとヴェルナー! エ、エルザがいるのに!」
 リリーが言うと、ん? とヴェルナーは言って左手でリリーの肩を抱き寄せた。
「寝てるだろ?」
 そう言って、ヴェルナーは、ククッと笑った。
「お、起きたらどうするのよ! ザールブルグ中の噂の的になっちゃうわよ?!」
 りりーが言うと、ヴェルナーは彼女の真っ赤になった耳の縁を指でなぞりながら、ぽつりと
言った。
「最近な……」
 リリーは、ヴェルナーの肩口を右手で押し戻しながら言った。
「え? な、何よ!」
 ヴェルナーは、そのリリーの手首を左手で捕まえると、目だけで笑ってみせた。
「それも、いいような気もしてきたんだが……」
 ヴェルナーはそう言って、ふいに真顔になった。
「リリー、おまえは嫌なのか?」
 リリーはヴェルナーから視線を外し、小さい声で言った。
「……い、嫌って、……何が?」
 ヴェルナーは口端を軽く持ち上げて笑うと、ゆっくりとリリーの頬に口づけた。
「つまり、こういうのが噂になるってのが……」
 ヴェルナーがそう言いながらリリーの唇に口づけようとした瞬間、リリーの背後で素っ頓狂
な声が上がった。
「あああああ〜〜〜〜! い、嫌だ! おまえたちには絶対にこれを渡すもんかぁっ! た、
助けてッ! 助けてよ〜、姉様〜〜〜! うわぁ〜〜〜〜〜〜〜〜ん!!」
 ぎょっとしてリリーとヴェルナーが声の方向を見ると、三人が助けた小柄なエルフが起き上
がってきょときょとと周りを見回していた。リリーは思わず言った。
「な、何、? ……何がどうしたの?」
 小柄なエルフは、ぎょっとしたように目を丸くしてリリーとヴェルナーの顔を見た。
「え? こ、ここは? 僕はどうして!? ……あなたたちは、一体誰なんですかっ!?」
 ヴェルナーが小さく舌打ちをすると、木漏れ日の間を、少し肌寒い気配を含んだ風が、吹き
抜けて行った。


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